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四丁目でCan蛙

2013-09-27

「朝日のあたる家」と「エンドレスSHOCK」

| 21:57 | 「朝日のあたる家」と「エンドレスSHOCK」 - 四丁目でCan蛙 を含むブックマーク 「朝日のあたる家」と「エンドレスSHOCK」 - 四丁目でCan蛙 のブックマークコメント

f:id:cangael:20130924154708j:image:right◆コメント欄に<シアターセブンシアターで「朝日のあたる家」観て来ました。唯一の脱原発宣言都市湖西市の市民カンパでできた映画です>と書いてくださったのは俳愚人さん。JRの湖西(こせい)線とか湖西道路とかでなじんでいるので、湖西市というと琵琶湖の西にある街かと思ってしまいました。

脱原発した唯一の市というのは静岡県にある湖西(こさい)市だということを、この映画のホームページを訪ねて初めて知りました。

INTRODUCTION


 「ストロベリー・フィールズ」「青い青い空」と、青春群像劇を描くことで評価が高い太田隆文監督が最新劇場用映画第3作目として選んだ題材は、メディア業界では“タブー”とされる原発問題を扱ったもの。  

  本作「朝日のあたる家」は、自然が美しいある町に突然降りかかる原発事故による悲劇と、否応無く事故に巻き込まれていくひとつの家族の姿を描いていく。  

  映画というものは、資金がなければ製作は出来ない。その資金集めに困難が予想された本作品は、企画の立ち上げから約1年半、ロケ地ともなった静岡県湖西市の人々の熱い支援により完成した。  

  太田監督の描くものには、常に“連綿と繋がっていく思い”が詰まっている。それは前2作を観た観客が心を震わせ太田作品を“大事なもの”として胸に留め続けることからも明らかだ。

 今作も原発事故というシビアな題材を扱いつつ、ひとつの家族の姿を、ロケ地となった自然の美しい湖西市を舞台にして浮かび上がらせていく。  

  そこにあるのは原発事故という悲劇だけではなく、家族、親子、次世代へと繋がる“絆”。その絆が何よりも大切なものであることを映画は見事に伝えていく。  

  すでに2013年5月のジャパン・フィルム・フェスティバル・ロサンゼルス 2013でも高評価を受けた本作。それは“想い”の詰まった映画ゆえに、言葉の壁を越えて人々の心に届いたからに他ならない。  

  的確な演出、効果的な音楽、ドキュメンタリーであるかのような俳優たちの演技、それを支えるスタッフ、湖西市の支援、それら全てが一体となって製作された「朝日のあたる家」。   

  “現在の日本”を生きる我々が真に必要とするべき映画がここに誕生した。

詳しくはこちらで:http://asahinoataruie.jp/index.html

午後、我が家で一緒にお茶を飲んだUさんと、この映画を10月に入ってから見る約束をしました。

家に帰ったUさんから、毎日新聞の夕刊でこの映画とUさんが前日見た「そして父になる」の紹介があったというメールが入りました。メールから:『福島の後静岡にも原発事故が起こり、子供たちに次々異変が起こる。お決まりの”さしあたって、直ちに被害はない”と報道される。病と放射能の関係は? 東京五輪も結構だがお祭り騒ぎで福島の現実から目をそらされてしまう前に見るべき一本』

f:id:cangael:20130926123522j:image:left◆さて、昨日は梅田芸術劇場堂本光一主演の「エンドレス・ショック」の大阪初公演を母と観劇しました。母は「生きていてよかった」「タカラヅカとは違うね〜!」と。引き合いに出されるタカラヅカも気の毒、と言っても、母に「何を見に行くの?」と聞かれて、やはり私も「タカラヅカの男役を男が演るの」なんて言い方をしていました。ここで「ショック」をWikipediaで:

『SHOCK』 (ショック)とは、堂本光一が座長・主演を務めるミュージカル作品シリーズ。2000年11月、『MILLENNIUM SHOCK』を帝国劇場にて初演、以後タイトルや演出を変えて毎年同劇場にて上演を重ね、2005年から上演している『Endless SHOCK』は、2013年で9作目となる。

作・演出はジャニー喜多川少年隊主演のミュージカル『PLAYZONE ’91 SHOCK』 (1991年)を元にしているが、内容は大きく異なる。

2008年4月、『Endless SHOCK』の高い舞台成果に対して、スタッフ・出演者一同が第33回『菊田一夫演劇大賞』を受賞した。

2013年3月21日、帝国劇場で上演1000回に達した。

一階席の前から3列目、ど真ん中!すごい席を取ってくれたものです。

今回は光一君ファンの妹がファン仲間の方からチケットを譲ってもらって母と私にチャンスをくれました。舞台は、それはもう歌あり踊りあり、シェークスピア劇あり、新劇ばり(古い!?)のお芝居あり、イリュージョンにフライング、殺陣(チャンバラ)に、「鼓童」にも負けない太鼓ありで、猛スピードの展開ですが、若者の成長物語でもある普遍的な解り易い筋の通ったお話(悲劇ですが)になっています。

f:id:cangael:20130926123727j:image:left座長の光一君が高さ8m、22段の階段から血まみれ階段落ちで前半終わり。出ずっぱりに近い状態の光一君、肩で息して整えているのも目の先です。飛び散る汗も数えることができるくらい。一瞬目が合ってドキッとしましたが、あれは見ているようでどこも見ていない目でした。

フライングが多用された後半ですが、真上を見ないとわからないのでスポットライトの影を追って見ていました。ステージから飛び立つ時の真剣な眼差しに命がけのショーの緊張感がうかがえます。着地の軽やかさ…お見事!!

最後のシーン、ライバル同士の太鼓のたたき合いに至るダンスシーンは見事でした。衣装も振り付けも。これが一風変わった和風テイスト?それもそのはず、マイケルジャクソンの振り付けをしたというトラヴィス・ペイン氏の振り付けだそうです。これは見ごたえがありました。

1時から4時10分まで。途中30分間の休憩。その間、光一君はエンジン全開で走り抜けます。重層低音が舞台を這うようにして客席まで響いてくるのを何度か体験できました。これは男性が見ても見ごたえがあります。女性ばかりで男性は数えるほど、もったいないような・・・でもチケットがとれないでしょうね。

◇参考までに2011年2月の公演を見たデヴィさんの感想の一部を。比較されているのはここでも、タカラヅカ!です。

f:id:cangael:20130924155848j:image:right

それに引き換え、 素晴らしかったのが、

帝国劇場で、帝国劇場100周年記念公演の、ジャニーズ喜多川さんの、 作・構成・演出、主演 堂本光一さんの 「エンドレス ショック」でした。

私、 「ショック」にショックを受けてしまいました。

もう、 その舞台は、 驚くばかり。 <中略>


踊りも ブロードウェイに出しても 恥ずかしくない 

テクニカル極めたダンス。<中略>


きっと 「ショック」 の舞台をみた人達は、 

他の舞台を見ても、物足りなくなるでしょうね。 

「ショック」の凄さは 見た人でないとわかりません。

新鮮で、 斬新。 スピード感あふれ、 

時間がたつのも忘れさせる程の、素晴らしいものでした。

(「デヴィの独り言」http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-10803323432.html

f:id:cangael:20130926123458j:image:rightプログラムを読むと3・11の大震災で公演が中止になったり、その中で公演を続けることの意義とかも考えざるを得ない体験をしているようです。大阪での1か月近くの公演の全部が満席、夜の公演に並んでいる方たちを見ながら福島の方たちのことを思って…「棄民」という言葉を思い浮かべてしまいました。私も含めてひと時のショーに楽しみを見出し、母のように生きていて良かったという感想を持つ人も、決して福島のことを忘れているわけではありません。でも、公園で1時間しか遊んではいけないような場所で子供が生きていかなければならない福島の人たちのことを思うと、政治は社会はこんなでいいんだろうかと思わずにいられません。自分たちだけがこんな楽しい思いをしていいのだろうか・・・とうしろめたさのようなものを感じます。もちろん、年に一度の楽しみであったり、不幸を抱えたり、それぞれが何かを抱えつつ、それでもひと時楽しみたいと集っているのですが・・・それでも・・・とお茶を飲みながらUさんとそんな話しにもなりました。

茶屋町にある梅田芸術劇場阪急インターナショナルホテルのあるビルにあります。昔「飛天」という名前だった頃、子供会世話役メンバーと「レ・ミデラブル」を見に行ったことがあります。そのころに比べて茶屋町は開けました。下の写真はMBS毎日放送の名物テレビ番組「ちちんぷいぷい」のキャラクターが玄関の上に)

2013-03-22

「原子炉は2度壊れたか」(日経新聞より)

| 10:27 | 「原子炉は2度壊れたか」(日経新聞より) - 四丁目でCan蛙 を含むブックマーク 「原子炉は2度壊れたか」(日経新聞より) - 四丁目でCan蛙 のブックマークコメント

f:id:cangael:20130321192354j:image:leftf:id:cangael:20130321192343j:image:right堂本光一さん、帝国劇場の「ショック」が平成12年以来毎年公演で1000回を達成だそうです。先日、NHKの夜のニュース番組でも大越キャスターがインタビューの後、「終始一貫、率直でひたむき」「恐れ入りました」。少年のころから?見ているオバサンとしては、ずいぶん立派になって…です。

それにしても、代役なしで、階段落ち1000回?!と聞くだけで過酷な舞台と思います。単独主演で1000回達成は国内4人目とか森光子放浪記」2017、松本幸四郎ラ・マンチャの男」1207、山本安英「夕鶴」1037)。そのうち、NHKがテレビでやってくれるかも・・・・

福島第一原発事故現場での停電はネズミの仕業だったようですが、ネズミが入れるようになっているのは人間の所為ですね。東電さんは放射能に関わる重大事故ではなくて「事象」だけど、電気的な異常が起こったという意味で「事故」という言葉を使ったんだという説明(「Happy・・・」さんの「<禁句ポロリ>「電気事故」って言っちゃった」3/20:http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2849.htmlより)だそうです。ネズミ一匹に大山鳴動する日本の原発、本当に大丈夫じゃないです!

f:id:cangael:20130319113924j:image:left日経新聞18日(月)の「核心」という署名編集委員滝順一)入りの記事のタイトルが「原子炉は2度壊れたか」というものです。副題は「足りない事故の全容解明」となっています。順を追って内容を紹介してみますと。

原子炉は2度壊れたか 足りない事故の全容解明


2年前の3月23日、東京都水道局葛飾区の金町浄水場で乳児の引用に関する暫定規制値を超える放射性ヨウ素を検出したと発表。都内3区などで乳児の水道水摂取を控えるよう求めた。この通達は翌24日に解除されたが、店頭からミネラルウォーターが消えた。

 21日ころに、東日本大震災の揺れと津波で被害があった東京電力福島第1原子力発電所からのプルーム放射性物質を含む大気)が関東平野に流れ込み、各地で高い空間放射線量率が観測されていた放射性物質は雨で地表に落ち、河川水に混じった。

    @ @ @ @ @

f:id:cangael:20130319114001j:image:rightプルームの流れは、たまたま首都圏に達しただけなのか。あるいは福島原発で新たな放射性物質の大放出といった特別なことが起きていたのか。そこに注目した人がいた。

日本原子力研究開発機構の元技術者田辺文也さんは独自の解析に基づき、20日頃に1,3号機で核燃料の再溶融があったと主張した。説け落ちた燃料が十分に冷やされずに再び溶けた可能性を示した。

・丸山重直・東北大学教授(熱力学)は圧力や水量の推移から3号機格納容器の破断面積が21日に拡大したと試算。「(最初の数日間での損壊に続き)原子炉は2度壊れた」と話す。

△△2人の根拠は、事故から2か月後に東京電力が公表した圧力や温度、注水量などのデータにある。それによると、3月19日から23日にかけて原子炉への注水量が極端に減った。特に3号機は19日の約500キロリットルから21日はわずか24キロリットルになった

大気中の放射性物質の観測でも異変をうかがわせるデータがある。東京大学大気海洋研究所のグループが、茨木県や千葉県などで当時観測されていた放射性ヨウ素セシウムの比率を改めて調べたところ、21日の比率は原子炉から大きな放出があった15日の比率とほぼ同じとわかった。

 ヨウ素1に対しセシウムが数分の1という割合だ。これは原子炉内のヨウ素セシウム比に近く、炉内のガスが水をくぐらずに放出された可能性を示唆する。水をくぐるとセシウムが除かれ100分の1以下に減るからだ。

東電は注水不足を否定している。事故から半年後、一旦公表した注水量データを訂正した。

 消防車で海水を原子炉に注ぎ込む際の流量測定のやり方を3月18日頃から数日間にわたり変えていたという。消防車から水が出ていく場所の流量計ではなく、原子炉に近い建屋内の計器で測る方が信頼性が高いと考えてそちらに変更した。しかし、流量が少なく表示されるのでおかしいと思い、元にもどしたという。

 消防車側の流量計に寄ればこの時期の注水量はむしろ増えていたそうだ。ただ消防車から送出した水のどれだけが実際に原子炉に届いたかは正確には解らないとの注釈付きの説明だ。

 

   @ @ @ @ @

 福島事故に関し政府国会、民間有識者による調査委員会があった。しかしどの調査報告も20日以降の出来事には触れていない。事故分析はほぼ最初の1週間にとどまる。

・・・(略)・・・

△ 事故の全貌の理解には様々な仮説を丹念に検証していく必要がある。

20日過ぎの大放出がもし確かなことなら住民の内部被曝を推し量るうえで重要な意味を持つ。

 初期の被曝状況を後から知るのは容易ではない大量に出た放射性ヨウ素は8日に半減する割合でどんどん消えていくからだ。早い段階で実施され被曝検査などの実測データはそれほど多くない。そこで、いつどこにどれくらいの放射性物質が流れたかの把握が大事な手掛かりになる。


    @ @ @ @ @

 それには分野を超えた知恵の結集が要る。原発の内部で何が起きていたか。放出された放射性物質はどこに行ったか。その放射性物質は人間や自然の生態系にどんな影響を与えるのか。原子炉工学から環境放射能計測、医学生態学まで科学者がもっと緊密に協力し抜け落ちたパズルのピースを集めなければならない。

▲実際に新しいデータも見つかった。福島県は昨年9月、1号機の水素爆発より早い時刻(12日午後3時)に双葉町内で毎時1590マイクロシーベルトという高い放射線を観測していたと発表した。事故直後は通信途絶状態だったモニタリングポストのデータを回収し分析したのだ。

△爆発直前のベント(排気)の影響か。あるいはすでに格納容器がどこかで壊れていたのか。いずれにしても初期被曝の見積もりが変わる可能性が大きい。

△「まだ福島事故は終わっていない」と国会福島原発事故調査委員長を務めた黒川清東大名誉教授は話す。その通りだ。                                     

黒川清氏の名前が出てきましたので、ついでに手元の「人間発見」というコラムから「『出る杭』が日本を変える」というタイトルで黒川清氏の日経切り抜き(1回目のみで日付不明)です。3月に入ってからだったかそのあたりの記事から一部引用してみます:

f:id:cangael:20130321174417j:image:left   東日本大震災が発生した2011年の12月8日、憲政史上初めて国会の下に独立の調査機関「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)が発足した。委員長に就任した政策研究大学院大学アカデミックフェローの黒川清さん[76]は、衆参両院議長に報告書を提出する翌年7月5日までを「怒涛の7か月」と呼ぶ。

(略)

   報告書は、ほぼ50年にわたる一党支配と、新卒一括採用、年功序列終身雇用といった官と財の組織構造と、それを当然と考える日本人の思い込み(マインドセット)を事故の根本原因と指摘した。


 新卒一括採用も年功序列終身雇用も日本だけの常識です。世界では通用しません。入社や入省年次で上り詰める「単線路線のエリート」たちは、1960〜80年の経済成長で「自信」が「おごり、慢心」に変わり、前例踏襲、組織の利益優先、失敗を避ける。何が悪いかって? 責任ある人がすべき決断をせず、問題を先送りし、無責任になることですね。今の日本の最大の病だと思います。


   報告書はその後、国会で充分議論されたとは言い難い。

 国会事故調は委員会も報告書も日本語・英語でウェブ公開、つまりプロセスと結果を広く公開していました。調査の内容と提言が国民と世界から評価され、理解が深まり、三権分立立法府の機能強化を通して健全な民主制度が一歩でも進む事を願っています。    

(聞き手は編集委員、山田康昭)

miyotyamiyotya 2013/03/22 10:42 こんにちは。
福島第一原子力発電所の又の事故・・・実際にどうなっているのか、
真実は隠されたままのような気がします。
東京電力や国の対応に歯がゆさを感じます。

cangaelcangael 2013/03/22 11:48 miyotaさん、こんにちは。
原発事故、放射能事故の特異さですね、事故現場に人間が近づけないのですから、現場がどうなっているのかわからない。
それで対策といっても・・・だから、原発は再稼動して・・とどうしてそうなるのか? 国も東電もやってることがわかりませんね。

iireiiirei 2013/03/22 12:57 東電を含め、日本の電力会社は「隠ぺい体質」がありますね。今度のネズミ事件についても、政府への連絡が再び遅れましたね。この辺、官僚組織よりも官僚的ですね。

hatehei666hatehei666 2013/03/22 20:26  私は金町浄水場と江戸川を挟んで北側の松戸市で、16〜30日まで発掘をしていて、放射能プルームにやられたと思っていました。しかし本日のは20日過ぎ頃2度目の爆発があったという推理で、衝撃的です。
 私は構いませんが、当時発掘をしていたのは20〜30代の若者たちで、皆アルバイトでした。就職口が全くないんです。終って彼らは勿論ばらばらに散って行きましたが、その将来が案じられます。

SPYBOYSPYBOY 2013/03/23 08:59 cangaelさんが触れておられた日経のこの記事、ボクも読んでいて、よく書いたなと思いました。よく読むと原子炉が地震で壊れた可能性もあることに言及しています。どのマスコミでも良心的な記者がゼロではなくて、時々上層部のチェック漏れも(笑)あるんだな、と思います。
それにしても、今回の事故ではわからないことがまだまだ多すぎますね。

cangaelcangael 2013/03/23 10:54 iireiさん、どうして繰り返されるのか、本当に不思議ですね。未だ自覚できていない、ということなんでしょうか。

cangaelcangael 2013/03/23 10:57 hatehei666さん、そうでしたね、発掘をされていたとか・・・。
丁度爆発があって、ヒョッおすると2度目も?!…の期間にビッタリですね。どうしても、この期間の解明が必要ですね。

cangaelcangael 2013/03/23 11:04 SPYBOYさん、この記事、印象に残りますね。他で余り見たことのない内容でしたので…記録しておこうと思いました。
あの原発推進の讀賣でも漏れてくることがあったり・・・。現場で得た情報から考えることは皆同じで、上層部の「社の方針」で歪められる以前の生の情報は、NHKでも、産経でもあるんじゃないかと、それは大いに評価して?もいいんじゃないか・・・大いに”漏らして戴きたい”と思いますね。

rosa_rojarosa_roja 2013/03/24 20:52 千回は素晴らしいですね。新聞で、千回踊り続けたバックダンサーの記事を読みました。
原発事故、放射能事故、隠ぺい体質の日本。いったいどこまで町は立ち直っているのか、故郷に戻れない人たちのことを考えるべき立場の人たちが、他人事で済ませている国です。

cangaelcangael 2013/03/25 08:54 rosa_rojaさん、4人目というので、他の3人も参考に見てみると、なるほど偉業!とわかりますね。
事故現場が東電によってコントロール(見せたり見せなかったりは東電が判断)されていることが問題という記事を今朝読みました。
なるほど、そういうことなんですね。

2012-11-19

森光子さん逝く・大正が消える

| 11:55 | 森光子さん逝く・大正が消える - 四丁目でCan蛙 を含むブックマーク 森光子さん逝く・大正が消える - 四丁目でCan蛙 のブックマークコメント

f:id:cangael:20121119094704j:image:rightf:id:cangael:20121119094741j:image:right「フィギュアスケートのグランプリシリーズ第5戦、フランス杯で17日、21歳の無良(むら)崇人が男子を合計230.68点で制した。フリー、合計でともに自己ベストを更新、グランプリ4戦目で初優勝」(日経朝刊より)。女子だけでなく、男子も次々と新しい人材が出てきてフィギュアスケート、暫く日本勢の優勢が続きそうです。

先週はゴルフ男子でも石原遼くん2年ぶりの涙の優勝があったり、フォローしきれないほどの話題がつづいています。オリンピックから続いて日本人のスポーツでの活躍は嬉しいですが、福島原発東日本大震災の復興と肝心の問題が捨て置かれているのでは心から喜びきれません。その上、政治の世界はここ一か月で大事な日本の針路が決まりかねないとなると心穏やかな年末とはいかない日が続きそうです。

f:id:cangael:20121118140440j:image:leftところで先週、森光子さんが亡くなられていたことが分りました。

日曜日、一人で、未だ喉が痛んで声もかすれるので大事を取って、池田のお茶会も水中歩行もお休みにしました。それで、昼下がり、NHKのテレビをつけたら、黒柳徹子さんと米倉斉加年さんがゲストで桜井洋子アナウンサーが司会の追悼番組をやっていました。少しだけのつもりで見始めたのですが、結局2時間の番組をほとんど全部見ることに。

f:id:cangael:20121118135739j:image:rightf:id:cangael:20121118135804j:image:right森光子さんは、菊田一夫さんの「がしんたれ」で舞台に出て、翌年の41歳、「放浪記」で舞台女優として大成功した関西出身の女優さんで、「放浪記」の舞台を2017回も上演するという偉業を成し遂げた大女優さんですが、新劇出身の大女優や映画界の大女優と違って、漫才やテレビ界出身の、米倉さん言うところの「いくら勲章とっても”軽やかな”大女優さん」でした。特に関西の我々にとってはお笑い出身という意味もありましたので「親しみのある」と言ってもいいかもしれません。

そして、我が家ではもう一つ、母の一つ違いという意味で「特別」でもありました。大正9年生まれの森光子さんは大正10年生まれの母の一つ上です。ですから、テレビを通して森光子さんのお元気な姿を見るのは母もとっても励みにしていました。それが、放浪記の2000回記念以後、暫くテレビで姿が見えなくなって、お味噌のCMも若い頃の森さんになって、ヨガでの話題では、どこかの高級老人施設に入っておられる、なんていうのもつい最近ありました。

90歳近くまで現役で素晴らしいという評価もありますが、やはり衰えは隠せず、あそこまでやらなくてもという見かたもあります。潔くけじめをつける方もありますが、舞台そのものが人生という生き方もあります。そういう方にとっては舞台を自ら降りるということは難しいことでしょうし、人それぞれです。黒柳さんが長い番組の最後に感想を求められて、「個人的なことなんですが」と断って「私もトーク番組を持っていて、あと何回まで、その時は90になるんですけど、と思っていましたが、森さんを見ていて回数にこだわる事は止めて一日一日を大切に生きることの方が大事なんだと思いました」と仰っていました。

f:id:cangael:20121118132940j:image:leftf:id:cangael:20121118133223j:image:left私は、見終わって、大正の女性の生き方というか、両親の世代の人たちのことを思いました。

森光子さんは京都の花街で生まれ、三味線が好きな芸妓さんと遊びに来た学生さんとの間に出来た子どもで、父親を知らず母一人に育てられ、20歳のころその母親が亡くなってからは東京に出て、歌手に。丁度戦争と重なり、慰問団に歌手として加わり、北は樺太から南の島まで、大東亜共栄圏の戦地を慰問して回ったそうです。

「戦争はしてはいけません。軍人さんが歌う軍歌ほど悲しいものはありません。平和だからこそ・・・。戦争はしてはいけません」と話しておられました。

戦後、その無理がたたって肺浸潤(肺結核)になり、京都の山口さんというお医者さん夫妻に助けられています。仕事のなかった頃はお茶の家元の千宗室さんの母親である千嘉代子さんが「家元夫人秘書」という名刺を渡して森さんを支援しています。人との巡り合いにも恵まれましたが、2度の結婚を経て、家族には恵まれなかった。でも、舞台が森さんの家であり、スタッフが家族でもあったようです。

f:id:cangael:20121118145232j:image:right赤木春江さんは、戦争中、慰問団のトラックの上で出会って以来の「心友」だったそうです。赤木さん自身は昨年明治座の舞台で女優を辞める宣言をされ引退なさっています。戦争を慰問という形で体験したお二人の関係ははかり知ることが出来ない「心友」関係だったようです。

今年、大正生まれは、元年生まれで101歳、15年生まれで86歳になります。この人たちの青春時代は、戦争に次ぐ戦争、日清・日露に大東亜戦争です。産めよ増やせよの時代で、領土が拡張・膨張していく時代です。子どもの頃、母が持っていた世界地図を見ると、中国大陸から南洋諸島まで赤く塗られていて、母が昔はここも、ここも日本だったと教えてくれてビックリしたものです。物心ついたのが戦後のはずの私が、「♪すぎの〜は、い〜ず〜こ」とか、「♪勝ってくるぞと勇ましく〜誓って故郷(くに)を出たからは〜」の軍歌や、軍歌というには切ない「♪ここはお国の何百里〜、離れて遠き満州の〜、赤い夕陽に照らされて〜」を知っているのは、母が口ずさんでいたからです。戦前の流行歌は軍歌だったのでしょう。

ところで、「ここはお国の〜」の歌には思い出があります。中学校の謝恩会の席で、当時、お寺の次男坊のI君がこの長い歌を最後まで延々歌ったのです。私は、I君とM君、今は東京在住のSさんと3年生の時生徒会で仲良くなって、別々の高校に進んでも一学期に一度会うことにして情報交換会のようなことをしていました。その集まりで、このI君が語ってくれた「スパルタカス」の映画の話は、自由を求めて立ち上がる奴隷たちの戦いが迫力ある実況放送みたいで心躍らせて聞いたのを今でも覚えています。当時から彼の関心は同年の者のレベルをはるかに超えていて、選挙があると徹夜でラジオにかじりついて開票速報を聞いていたというような中学生でした。

で、その謝恩会は、3年前に出来た新設中学だったので、講堂(体育館)がまだなくて大きなテントの中だったと思いますが、I君がこの歌を唄い出して一種異様な雰囲気になりました。私たちはなんで今頃軍歌歌うの?とサッパリわからなかったのですが、親世代は騒ぎながらも何となく歓迎していたような・・・先生は「アホなやっちゃ・・・」と言いつつ、どうだったんでしょう? 噂では滋賀県のお寺の住職さんになったと聞いていますが、あれ(大学受験の頃)以来会ったことがありません。会ったら「どうして歌ったの?」と聞いてみたいです。

ついでにこの「戦友」という歌をウィキペディアで調べてみました。

「 戦友」 作詞:真下飛泉 作曲:三善和気

本来は、一人の兵士が出征後負傷して凱旋し、村長となるまでを歌った一連の極めて長い「戦績」という唱歌の中の「戦友」という一篇であった。戦友を失う兵士の哀愁を切々と歌い込む歌詞と、同じく哀切極まりない曲とで長く歌い継がれた。日本軍歌一の名軍歌とも言われ、広く愛唱されている。昭和に入り歌詞にある軍紀を無視する箇所が不適当と該当箇所が差し替えられ、さらに太平洋戦争中は歌唱禁止にされたが、「雪の進軍」と同じく将兵に広く歌い継がれた。

長い曲ですが歌詞がなかなか良いのでついでにコピーしてみます。若い方でメロディを知らない方はコチラに入って「戦友」で:http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

f:id:cangael:20121118141205j:image:right1.

ここはお国を何百里(なんびゃくり)

離れて遠き満洲(まんしゅう)の

赤い夕日に照らされて

友は野末(のずえ)の石の下

2.

思えばかなし昨日(きのう)まで

真先(まっさき)かけて突進し

敵を散々(さんざん)懲(こ)らしたる

勇士はここに眠れるか

3.

ああ戦(たたかい)の最中(さいちゅう)に

f:id:cangael:20121118141210j:image:right隣りに居(お)ったこの友の

俄(にわ)かにはたと倒れしを

我はおもわず駈け寄って

4.

軍律きびしい中なれど

これが見捨てて置かりょうか

「しっかりせよ」と抱き起し

仮繃帯(かりほうたい)も弾丸(たま)の中

5.

折から起る突貫(とっかん)に

友はようよう顔あげて

「お国の為だかまわずに

後(おく)れてくれな」と目に涙

f:id:cangael:20121118144926j:image:right6.

あとに心は残れども

残しちゃならぬこの体(からだ)

「それじゃ行くよ」と別れたが

永(なが)の別れとなったのか

7.

戦(たたかい)すんで日が暮れて

さがしにもどる心では

どうぞ生きて居てくれよ

ものなと言えと願(ねご)うたに

8.

空(むな)しく冷えて魂(たましい)は

故郷(くに)へ帰ったポケットに

時計ばかりがコチコチと

f:id:cangael:20121118144947j:image:right動いて居るのも情(なさけ)なや

9.

思えば去年船出して

お国が見えずなった時

玄海灘(げんかいなだ)で手を握り

名を名乗ったが始めにて

10.

それより後(のち)は一本の

煙草(たばこ)も二人わけてのみ

ついた手紙も見せ合(お)うて

身の上ばなしくりかえし

f:id:cangael:20121118142007j:image:right11.

肩を抱いては口ぐせに

どうせ命(いのち)はないものよ

死んだら骨(こつ)を頼むぞと

言いかわしたる二人仲(ふたりなか)

12.

思いもよらず我一人

不思議に命ながらえて

赤い夕日の満洲に

友の塚穴(つかあな)掘ろうとは

13.

くまなく晴れた月今宵

f:id:cangael:20121118142033j:image:right心しみじみ筆とって

友の最期(さいご)をこまごまと

親御(おやご)へ送るこの手紙

14.

筆の運びはつたないが

行燈(あんど)のかげで親達の

読まるる心おもいやり

思わずおとす一雫(ひとしずく)

f:id:cangael:20121118153838j:image:leftさて、森光子さんの追悼番組がとんでもない方向に来てしまいました。

大正生まれの両親の子どもである私たち世代や戦争の話を直に聞いた世代が消えてしまえば、直近の太平洋戦争でさえ本当に日本史の一コマになってしまうでしょう。

先日、芦原公園から唐池公園に向かう途中で喫茶店に入り、そこのマスターがたまたま小学校の後輩、7つほど若い60代ということが分りました。小学校時代の箕面の話になり、二人が鮮明に覚えていたのは滝道の入り口で傷痍軍人が物乞いをする姿でした。美味しいココアのお礼を言って外に出るときマスターが、「今度は戦争の話は無しにして戦争以外の話をしましょう」と言ったのがなぜか耳元に残りました。

森光子さんは若い世代との交流もお上手でした。「戦争はしたらダメ」という思いも伝わっていたらいいのに…と思っています。

「戦友」の歌詞を最後まで読んでみると、謝恩会で歌ったI君、この歌は軍歌じゃなくて反戦歌だと訴えたかったのかも、と思いました。

当時、題名も知らず母が口ずさむのを聞いて知っていたのは2番くらいまで、私(たち)は、”「軍歌」なんか歌って”でしたが・・・。

戦争関係は全否定していたあの頃の風潮に対して、それではダメだと言いたかったのかも・・・。

kataomoimamakataomoimama 2012/11/19 14:04 Cangaelさん、こんにちは。
「戦友」は、長く戦地に行っていた父が、幼い私とお風呂にはいったとき、よく歌っていたものです。聴くと悲しくなるのに、妙に心に残ったものです。
 メロディーと1番の歌詞、それから4番の「しっかりせよと抱き起し」の部分だけ、はっきりと覚えていて、大人になってもなぜかふとした折に心に浮かぶことがあり、私の中ではこれはずっと「反戦歌」でした。
 長い歌詞を読ませていただいて、やはり、そこに込められた言うに言えない反戦の想いが感じられるような気がしました。
 ご紹介ありがとうございました。(#^.^#)

cangaelcangael 2012/11/19 15:09 kataomoimamaさん、コメントありがとうございます。
本当にこの歌は悲しい曲調が軍歌とは別格で、反戦歌として歌い継がれてきたのでしょうね。
今回、私も最後まで読んでみて、「昭和に入って歌詞の差し替え、大平洋戦争中は歌唱禁止」が分りました。

2012-10-18

三菱一号館美術館と「サロメ」

| 12:25 | 三菱一号館美術館と「サロメ」 - 四丁目でCan蛙 を含むブックマーク 三菱一号館美術館と「サロメ」 - 四丁目でCan蛙 のブックマークコメント

f:id:cangael:20121018092537j:image:leftf:id:cangael:20121016115351j:image:rightいよいよウィーン国立歌劇場の日本公演「サロメ」の当日(16日)になりました。前の週の水曜日、小さな新聞記事で総監督のウェルザーメスト氏怪我のため来日中止の記事を朝見つけてガッカリしているところにチケットを取ってくれたEさんから電話。チケットの払い戻しはないという記事だったそうです。いいわよ〜ウィーンフィル聞けるし、二人に会いに行って東京駅も見られるし・・・でも、3度目だから、もうこれで最後にしろってことかと観念してる、と弱音?も。で、その当日になったわけです。

東京駅の待ち合わせ場所「銀の鈴」には、すでにお二人が揃って待って下さっていました。2年前、朝香宮邸で3人で会ったので、Eさんが今回の顛末を話していたとか。Nさんが「こんなこともあるのね〜」と同情ひとしきりでしたが、「切換え、切換え」と、目的地の三菱一号館美術館へ。2年前、二人で昼食をそこのレストランで予定していたのに改装工事中とかで、有楽町まで歩いてイタリアンのお店に入り、出光美術館で時間つぶししましたので、今回は食事も建物も美術展もと計画しています。

f:id:cangael:20121016130452j:image:right赤レンガの三菱一号館の建物は、最近(2009年)復元されて美術館になった所です。東京駅に一番近い美術館かも。カフェレストランの入口に入ると既に待合のような所で待っている人たちが。テーブルについてから、私は新聞紙で作った手作りコサージュのお土産を箱から取り出して二人にお見せしました。私自身、左胸にブルーの花を付けていましたので説明は簡単。私のブログで知っていたNさんは、実物を見て、これが〜という感じでした。6個持ってきていましたので、好きなのを3つ選んでと、紙箱付きでお渡ししました。呼び込まれて席に着きましたが、ここのフロアが銀行として使われていた場所で天井が高く、お金の受け渡しをしたガラスの仕切りもそのまま復元されています。

レストランを出て美術館の入り口を探して建物をひと回りして裏へ廻りました。裏はビルに囲まれた林の中の公園のようになってます。お昼時でお弁当やパンを食べている人たちや話し込んでいる人たちがたくさんいます。花壇やベンチをよけながら歩いて入口を見つけて中に入ります。

f:id:cangael:20121016130530j:image:rightf:id:cangael:20121018092550j:image:leftf:id:cangael:20121018092609j:image:leftシャルダン展とかでチラシに書かれた「静寂の巨匠」シャルダンの作品を見ることに。

ジャン・シメオン・シャルダン[1699-1779]はフランスを代表する生物・風俗画の巨匠だそうで、ビックリしたのは獲物の死んだウサギがモチーフになった静物画が何点かありました。

チラシに紹介されている「木いちごの籠」は小品ですが、ピラミッド状に積まれた赤いイチゴが静かで美しい絵でした。デルフト焼の花瓶に活けられたカーネーションの花を描いた絵も、花の輪郭は筆でざっくりと描かれただけですが立体感が出た良い絵でした。なぜだかセザンヌのリンゴの絵が一点あって、黒く輪郭を描いた中を筆のタッチが分る程度に彩られていた絵でしたがひときわ生き生きと見えました。これもチラシに載っている絵ですが、シャルダンの「食前の祈り」という絵。国王ルイ15世に謁見が叶い献呈した絵だそうで、その後各国の王侯貴族が競って注文、同じ主題の絵は4点現存しているそうです。低い椅子に座って母親を見ているのは男の子で感謝の祈りの途中で言葉に詰まった一瞬とか。

f:id:cangael:20121016143736j:image:rightf:id:cangael:20121016112521j:image:leftf:id:cangael:20121016144053j:image:rightさて、3時半開場、4時開演のオペラは上野の文化会館。それまでにホテルに入って荷物を置く予定ですので、東京駅へ戻ることに。ここ数年、東京駅は大阪阪急百貨店の通路と同じ状態で、これまで3回ほど上京していますがいつも工事中でゴチャゴチャしていました。今回はスッキリと改装工事の済んだ東京駅を楽しみに来ました。上の写真は角度が良いのか写生をしている人たちが沢山いたところから撮ったもの。

Nさんとはここで別れてEさんと私は上野へ。ホテルを探して受付に荷物を預けて文化会館へ急ぐことに。ウィークデイの4時開演、変な時間に始まる公演ね〜なんて言ってたのですが、すごい人です。3階の右翼の隅っこの席でしたが、下を見下ろすと空席はありません。すごい、さすがウィーンフィル(国立歌劇場)と改めてビックリ。自分もその一人ですが、自分のことは棚に上がっています。

f:id:cangael:20121016180056j:image:leftEさんはメストさんが選りによってどうして日本公演にサロメを…と知り合いのクラシックファンにこぼしたら、「好きだからじゃない」と言われてショックだったようです。私はかの有名な”首を所望したサロメ”の話をキチンとしたオペラで見るのは初めてなので大変楽しみにしてきました。期待以上でした。サロメ役のグン=ブリット・バークミンは「2年前にチューリッヒ音楽祭で大抜擢の末に初めてサロメを歌って好評、サロメ歌いとして世界に名を馳せ始めている」方だそうです。因みにウィーン国立歌劇場で彼女の「サロメ」を聴けるのは2014年なのだそうで、今回は現地に先駆けてでした。

f:id:cangael:20121018210346j:image:right張りのある艶やかな声は出ずっぱり歌いっぱなしでも疲れ知らずという感じでした。ヘロデ王に踊ってくれれば王国の半分でも望みの物をやろうと言われ、サロメは「七つのヴェールの踊り」を披露。サロメは自分の口づけを受け付けなかった預言者ヨカナーンの首が欲しいと。銀の皿に乗せられた首を前に歌うサロメ。自惚れとエゴの極みのようなサロメの狂気。歌声とオーケストラが絡み合ってリヒアルト・シュトラウスのオペラの舞台は妖しい世界へ。一幕、休憩なしの100分間、濃密な倒錯の世界でした。

ミーハーファンの私にはメスト氏ではなく代役のペーター・シュナイダー指揮で良かったかもしれません。メストさんだったら指揮ぶりやオーケストラが気になって、こんなに一体となった舞台を堪能できたか・・・(やっぱり、シルキーな美しい音とスリリングでドラマチックな盛り上がりは聞きたかったかも・・・)と大満足?でした。

f:id:cangael:20121016154329j:imagef:id:cangael:20121016154829j:imagef:id:cangael:20121016175555j:image

iireiiirei 2012/10/18 13:02 この作品は、やっぱりオスカー・ワイルドの戯曲が元になっているのでしょうか。
美女が聖者とか武将の首を掻ききり、微笑むという設定の話は他にもありますね。

cangaelcangael 2012/10/18 14:32 iireiさん、友人がプリントアウトしてくれたサロメの解説を確認しましたら、「原作:新約聖書(マタイによる福音書、マルコによる福音書)に基づく、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』」と書いてありました。「作曲はリヒヤルト・シュトラウス。台本はヘドヴィッヒ・ラッハマン(ドイツ語訳)、初演は1905年ドレスデン・宮廷歌劇場」ということです。世紀末の画題としてビアズリーが描いていますね。「サロメ」といえば「首」で、サラ・ベルナールか松井須磨子かで、詳しくは知らない…状態でしたが、今回、全体のお話が分かりました。

hatehei666hatehei666 2012/10/18 21:38  文化会館に行かれる前の東京駅、私も同じ位置から写真に撮りました。
 会場の方は写真から見ると、随分上の席のようですが、座り心地は如何でしたか。私のような貧乏人はいつも一番安い一番上の席で、足が下につきません(苦笑)
 サロメはあまりに有名なバプテストのヨハネ(私の所属教会はこのバプテストから来ています)の首を盆に載せた少女です。このヨハネの首切りを命じたのは母のヘロデヤですね。この残酷な首切りの場面をリアルに描いたのが、カラヴァッジョで、最大の傑作『洗礼者聖ヨハネの斬首』です。なぜイエスがヨハネを助けられなかったのかという謎は残ります。けだしヨハネが最後の預言者という事もあったのでは。

cangaelcangael 2012/10/18 21:58 hatehei666さん、コメントありがとうございます。東京駅を見るポイントなんですね!
4階、5階席までありましたから、一番下ではなかったようで、足は大丈夫でした。隅っこでしたが舞台の右端以外は何とか見えました。
ところで、そうなんですね、預言者で首を切られたのは聖書でいえばヨハネだったのですね。聖書のお話を元に、オスカーワイルドが戯曲にした「サロメ」は官能的で退廃的?な愛の実現のお話になってしまっていますが、善良な市民にとってはお芝居や歌劇の世界での”狂気”に惹かれたのかもしれませんね。

2011-09-28

”瞼(まぶた)の父”

| 16:25 | ”瞼(まぶた)の父” - 四丁目でCan蛙 を含むブックマーク ”瞼(まぶた)の父” - 四丁目でCan蛙 のブックマークコメント

昨日からニュースで取り上げられた歌舞伎界のお目出度いニュース。

f:id:cangael:20110928121234j:image:left今朝の新聞では「若手歌舞伎俳優の市川亀次郎さん(35)は27日、父の市川段四郎さん(65)らと東京都内で記者会見し、来年6月に東京・新橋演舞場で開かれる歌舞伎公演、叔父の市川猿之助さん(71)を継ぎ、四代目猿之助を襲名すると発表した。猿之助さんは二代目猿翁を襲名する」と素っ気無い書き方です。

ホテルでの記者会見には同時に襲名する二人が出席。朝の各テレビ局も私の関心も俳優の香川照之さん(45)とその長男の政明くん(7)に。二人が、それぞれ市川中車、市川團子(だんこ)を襲名するという事に注目です。

そして、仰天の発表も。香川照之さんは猿之助さんと浜木綿子さんとの子どもで、2歳の時、両親が離婚。東大現役合格が話題になったり、東大卒業後俳優になったときにも話題が。それからしばらくして、猿之助さんの楽屋口に親子の対面を果たしたくて訪ねた香川さんに、猿之助さんは、「あなたとは父でもなければ子でもない。私との関係はありません」と拒否されたということも話題になっていました。昨日のニュースでは、その時、「何者にも頼らず少しでも精進して立派に独り立ちしなさい」と突き放されたとも。

藤間紫さんとの結婚、死別、それ以後の猿之助さんはどうされていたのか? 私は、一度、スーパー歌舞伎を観に行ったことがあります。脚本が梅原猛さんの「ヤマトタケル」でした。エンタテイメントかショーっぽくって感動まではいかなかったので、それ1回きりでしたが。

f:id:cangael:20110928121008j:image:leftf:id:cangael:20110928121040j:image:leftところが、昨日の記者会見を聞いているとビックリ。猿之助さんは8年前に脳梗塞で倒れて、香川さんと今年の春から45年間無縁だったのに親子3代で同居している!とか。

香川さんのお話によると、3年前から母である浜木綿子さんに「引き取りたい。病気を治してみせる」と話していたとか。そして素人の45歳で歌舞伎の世界に挑戦することになるが、それは「この船に乗らないではおれない。140年続く歌舞伎の家系を、自分がいて、7歳の長男がいて、継がずにおれない。継ぐことが私の人生と決めていた。父にも、祖父にも、曽祖父にもついている「政」の1字を息子につけたのは今日の日を迎えるためだった」と。

f:id:cangael:20110928120505j:image:left私は、60年前、浜木綿子さんを見たことがあります。一瞬だったか、何分間だったか、宝塚音楽学校の生徒さんだった浜さんが、我が家の一筋南、1ブロック東の奥に住んでおられ、香川姓だった頃のことです。当時30歳くらいだった母が、ご近所の同じような母親仲間と噂しているのを聞いていました、「香川さんの娘さんは、タカラヅカで、緑の袴姿であの道を通っているのが見える」と。そして、ある日、私は、風呂敷包みを手に抱えて緑の袴で帰宅される浜さんの姿を一度だけ見ました。我が家の裏筋がまだ空き地だったころです。ずい分お姉さんに見えましたが、私が多分箕面に引っ越してきた7、8歳、小学校一、二年の頃ですので、浜さん16、7歳の時です。

それからすぐ引っ越され、後にはOさん一家が住み、何年か前、高齢の一人暮らしだったOさんも亡くなられ、一人息子のショウちゃんが処分。今は住宅展示場のような家が4軒建っています。

たったそれだけですが、香川照之さんがあの浜さんの本名の香川を名乗っておられるし、なんとなく、他人事とも思えず、その活躍ぶりを注目していました。

そして、私は、とうに、諦めておられると思っていました。ところが、”父恋し”の思いはくじけなかったのですね。母を説得して、病に倒れた父を引き取り、自分と孫を、澤瀉屋( おもだかや)の後継者に最初から育てるお役目を父親に任せて、そして昨日、脳梗塞の後遺症で不自由な身体の父親との親子3代のお披露目の場を迎える。

猿之助さんが不自由な言葉で、「浜さん、恩讐の彼方に、ありがとう、ありがとう」と言うのをきいて、ちょっとウルウルでした。

マイクを取った香川さんは、「たくさんの方のお世話になった(08年に亡くなられた藤間紫さんも間に入られたとか)」、

「これも母が許してくれたからです。お母さん、ありがとう」と。

こんなことがあるのですね。人を恨まず、念ずれば叶うというのでしょうか。心からオメデトウ!

◎お知らせ:冊子『放射能から子孫を守りたい』のご紹介http://d.hatena.ne.jp/Mapple/