イタリア旅行 その5

ローマ市内にあるサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂には、ミケランジェロモーセ像がある。・・・という事を、阿刀田高さんの『旧約聖書を知っていますか』で知った。しかも面白いエピソード付きで。


大抵の場合、これは山から降りた時のモーセの姿を作ったものと説明されているそうだ。旧約聖書の『出エジプト記』によれば、イスラエルの民がエジプトから逃れ、奇跡によって紅海を渡った後、指導者モーゼはシナイ山で神の「十戒」を授かった。所がなかなかモーゼが山から降りてこなかったので、ふもとの人々は純金の若い雄牛を鋳造し、神と崇めて大騒ぎしていた。それに対し、神を信じない大衆に怒りと侮蔑を露わにしたモーセの表情、と言う訳だ。確かに頭に角のようなものが2本突き立っている。


この角、実はモーセが怒った証しではないらしく、ミケランジェロの勘違いなんだって。聖書の『神との交わりでモーセの顔は光を放っていた』という『顔が光る』と言う部分が『角』という単語とヘブライ語でよく似ているそうで、間違ったラテン語訳が広がってしまっていたせいだ、と。


こういう人間味溢れるエピソードは大好き。こういうのこそ知識も定着しやすい。さっそうと1人でローマ市内を歩き、目指すこの教会に辿り着き、角の生えたモーセ像を目の前に思わずニヤッとしてしまった私。(知ってるわ〜ワタシ)みたいな、ねww


さて、その後の足取りは忘れた。当時使ったと思われるローマ市内の地図を開くと、自分が歩いたらしい道筋にペンでなぞってある。さすが私。断片的ではあるが、キリスト教カトリックの総本山であるサン・ピエトロ聖堂@Vatican(Basilica di San Pietro in Vaticano)に着いたらひっくり返りそうなくらい驚いた映像と気持ちは今も鮮明。聖堂の横から両側に伸びて半円形を構成する柱廊、その数なんと284本。これ実際に見たら、数ではなくその太さに圧倒されるのだ。その1本の近くに立つと太くて高くて、それだけでずっしりと歴史の重みと自分の儚い存在感を思い知らされて、つぶされそうになる。同時に包み込まれているような安心感にも満たされる。ここに立ったら、異教徒の人でも「ここには神がいる」と感じるのではないだろうか、と思う。


壁面と天井すべてをミケランジェロフレスコ画で埋めつくしたシスティーナ礼拝堂(Cappella Sistina)。じっと見ていると、時空を超えて1人どこか異空間に飛んで行ったような気持ちになる。きっとあそこではごった返す観光客の中で、そんな思いに取りつかれて動けなくなる人が実は多いのかもしれない。一体何の力だったんだろう。これが芸術のもつパワーか?


あまりに広くてどこへ行けばいいのか分からなくなるが、絶対に見落としてはいけない残る目的はミケランジェロピエタ像(Pieta)。この有名なピエタ像の写真、実家の壁にかけてあって昔から見慣れていたので、知らぬ間になじみ深いものになっていた。小さい時から目にするものって大切だな。これはミケランジェロ24歳の時の作品(驚)。我が子キリストを膝にその死を悲しむ聖母マリアの像。このマリア様、キリストの年齢から考えたら若すぎる。まるでカップル。絶対ミケランジェロの希望こもってるんだろうな。今なら、我が子がこんな風に動かなくなってしまったら・・・と想いを重ねて写真を見るだけでも涙が出そうだが、当時の私はまだそこまでの想像はできなかった。目の前の2人はあまりに若くて、とても母子の姿には見えず、ただマリア様がキリストの死を悲しむ、という説明を超える想像には至らなかった。それでも涙が出そうになるくらい悲しげな像だったのだけれど。


大きな大きなサン・ピエトロ大聖堂。時間をかけて再び外に出てみると、やっぱりどこか異空間から帰ってきた感。偉大な場所。神聖な場所。写真や映像では感じることのできない希有な場所のひとつだろうと思う。柱廊でしばらく休んで、考え事をした。何故かお父さんを思い出していたような記憶がある。ノートに何か書いたような覚えも少しある。その時のメモはもうない。


フォロ・ロマーノ(Foro Romano)は入場しなかった。今なら絶対入るのになー。周りを散策しながら眺めただけ。どちらかと言うと宗教色を堪能する旅でもあった。カトリックの根っこに近づきたい気持ちが多かった。(→この後、足を延ばしてアッシジに向かう事になる)それに加えて、実のところ古代ローマ史の勉強は充分していなかった。ただ、教科書で見た覚えのあるようなものがそこここに立っていて、改めて「ほほぉ〜」と感動はしたんだよなぁ。もう一度行きたいなぁw


バルでランチしたり、周囲を真似てジェラートを食べてみたり、それなりにイタリアっぽい事も一通りした。イタリアのジェラートって、今でこそ日本でも近い味になってきたけど、ほんっっっとに濃厚で美味しかった!!なにこれ!ってくらい。生まれて初めての味だった。ピザとアイスで衝撃を受けるなんて、世界はまだまだ広かったな。


あとはウェディングケーキみたいなヴェネツィア広場(Piazza Venezia)も通り過ぎただけ。市内を徒歩で回りきるには予想以上に広くて、少しでも近道使用なんて思って、なーんかヘンな細い裏道みたいな階段みたいな藪みたいな所通ったり、フェンスよじ登ったりしてたら、突然出てきたのがヴェネツィア広場だっけ(笑)「おぉ!写真で見た見た!」みたいな。ただそれだけ。横目に見てスルー。


かの有名なトレヴィの泉(Fontana di Trevi)も漏れなく。あまりに有名過ぎてホントはこういうのあんまりいらないんだけど。この時、誰かユースの日本人と一緒にいたような気がするなあ。どんな流れだっけかな。コインも投げました。本当に再びいつの日かあそこに戻るんか?そんな気はまるでせんが(笑)それにしても、細い路地を歩いていくとこの美しい彫刻とブルーの水が流れる場所が突然、ほんと突然ウワッと開けて現れる感覚。あれは良かったな。今までどこにいたんですかってくらいものすごい人だかりだし。


続くコロッセオ(Colosseo)にトラヤヌス帝フォロ跡・・・。あまりに街に自然に溶け込み過ぎて、2000年以上も前の柱とは信じられない。当たり前のようにそこに佇んでいる。ローマの人達はこんな感じで知らぬ間に過去とつながっているのかな。ピエタの写真を見ていたおかげで本物の大理石のピエタ像を目の前にして懐かしい気持ちになった私のように。


私の訪ローマから15年近く経って、今やローマ旅行も全然珍しくなくなったからあえて要らない情報かもしれませんが、このコロッセオの周辺には観光客向けのおじさん達がいます。執政官の格好とか、古代ローマっぽい衣装着けてるおじさん達。コロッセオに圧倒されたついでにそのおじさん達が目に入ると思わず「うぉっ」と反応しちゃうが当然だ。だって観光客だから(笑)。傍らに馬とかフツーにいるし。でもこのおじさん達、カメラを向けると拒否します。一緒に写真撮影して高値で売りつけるのがお仕事です。ローマのコロッセオに来た記念に、と納得の上ならいいけど・・・・・・高いよ〜。足元見おってからにぃ〜♯(まだリラだったし、いくらか忘れたけど)気をつけて!!


さて。歩き疲れた体を休めて翌日。思いがけない一日が待っていた。

イタリア旅行 その4

もともと一人旅の予定だったのに、フィレンツェでは色んな人の出会いが待っていた。これだから旅はやめられない。だが心機一転、今度こそ本当に一人でローマに移動。


フィレンツェからどうやって列車に乗って行ったか全く記憶にない。でもローマに到着した時のことは絵が描けるくらい覚えてる。花の都とは打って変わってガサついた汚い駅。悪い人もうじゃうじゃいそう。でも!!!このローマのテルミニ駅の構内で買った立ち食いそば・・・じゃなくて立ち食いピザの美味しかったことったら!!!衝撃的なピザの味だった。5つ星レストランでも出せない味。・・・ってくらい美味しかった。何これ?何が違うの?しかもSとLがあるんだけど、Sでもデカい◎ みんな幸せそうな表情でほおばってた訳だよ。駅の立ち食いでこんなハイレベルなピザを食べてる人たちだもん、そりゃ舌は肥えてるな。これはローマの食事が楽しみになってきたぞ。


ピザに満足して、幸先イイ旅の予感に浸ったままとりあえず駅裏に取ったホテル、じゃなくてユースホステルに直行。なんでユースホステルなんか取ったのかな?そんなに貧乏学生だったのかな(・・? ローマはスリやひったくりが多いから気をつけろ、と散々注意されて行ったから「日本人対象」なら安心、と思ったのかな? 3つ星レベルのホテルでも部屋の荷物取られるかも!と警戒したのかな(笑)


行ってみると確かに日本人対象で、受付のお姉さんがアカぬけた感じのジャパニーズ。突然日本語が使えてめちゃくちゃホッとした。ホッとして脳からドロドロと何かが垂れ流れてきそうなくらい気が抜けた。周囲にたむろしてる兄ちゃん達もみんなジャパニーズ。不思議だったなあ。そういう意味では当時はヨーロッパって遠かった。世界が広いのは良いことだ。どこに行っても日本人がいて日本語通じて当たり前なんて何にも面白くない。言葉も通じない、お金も満足に数えられない、風習も習慣もさっぱりわからない、食べていいものかどうかもわからない、何もわからない、そんな所を旅する事こそ異国情緒じゃないか。・・・なんて思っていたのに、今や子の親となって知らぬ間に守りの生活に入っちゃったな。治安が悪いとか、暑い、寒い、汚い、そんな過酷で劣悪な海外旅行をしようもんなら即行ヘタレそう。適応能力が激しく低下している気がする(´・_・`)



フィレンツェと同じように、ホテルに荷物を置いて即座に街へ出る。とにかく歩いた。ローマは結構広いのだけど、バスを使ったのは1回だけ。あとは全部歩き倒したった。歩くと小さな発見もあるし、街の事が良くわかる。とりあえず西へ。最終地点はバチカン市国サン・ピエトロ大聖堂だけど、そこに行き着く手前にもどうしても見たいものがいくつかあった。その1つがSan Pietro in Vincoli(サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会)だ。

イタリア旅行 その3

詳しい時間はもちろん忘れたけど、目に飛び込んできた風景を黙って静止状態のまま一人かみしめながら、知らない間に時間は経っていたもよう。気がつけば空も明るくなってきて、同じコンパートメントの人たちが起き出した。


さぁ、初めてのイタリアの旅が始まる。私の予定はいたってシンプル。フィレンツェ→ローマ。欲張りはしない。外国を旅行する時はいつも狭く深くが好き。生活に入り込んで観光するような旅が好き。この時は何日くらいの滞在予定だったかなぁ。合わせて2週間くらいか?Julianとイタリア到着後の予定を話していたら、まずはフィレンツェに行きたいと言う点で一致。お互い何に追われる身でもないので、とりあえずフィレンツェを一緒に周ろうか、と早くも道連れができた。


確かミラノで乗り換えた。大きな駅だった記憶がある。ファッションの街?ミラノコレクション?興味もなければ知識もないので何の感動もなかった。ただ乗り換えの待ち時間がやたらと長かったのは覚えてる。さすがイタリア人はのんびりしてるな、などと思いながら階段みたいな所に2人で座って時間つぶしながらJulianとずっとしゃべってたなあ。内容はなーんにも覚えてなけど。


間違えることもなく無事フィレンツェに到着した時は、打って変って胸が高鳴った。白い鳩が舞うような華やかな感じ(笑)自分の足で街を歩いてみるとじわじわと感動の波が広がる。あれってどういう感覚なんだろう?テレビや教科書で見たような景色を目にして「うぉーーー!ホントにここにいるぜーーー!」という感覚とは違う。全然ない、そんなの。むしろあっけなさ過ぎてクールに冷え切る。個人的な思い入れと言ってもそんなたいしたものでもないし・・・やっぱり街の空気から歴史の重みかな。


一方で、想像を超える人混みで、色んな人種がグワシッと集合した感じで、道は汚れ、歩道も車道もなく無法則地帯と化して人間が行き交う。ガラガラとうるさい音を立ててスーツケースを引きずる姿も珍しくない。ちがうちがうちが〜うヽ(`〇´)ノ 映画で観たフィレンツェとちが〜う。フィレンツェの現実。裏の顔か(´・_・`) ・・・やっぱそうよね。どこも一緒よね。京都も一緒だもんな。人混みでうんざりするもんな。生々しい現実はちょっと悲しいけど、顔を上げてイタリアらしいオレンジ色の建物の壁に書かれた住所を見ると「Via Rosina, 4」。いや〜んやっぱりイタリアじゃ〜ん。むふ(^^)


こういう歴史的な街、有名な街は訪れる人がみんな思い思いに勝手にイメージを作ってくるから仕方ないんだな。それでもやっぱりフィレンツェは花の都であってほしいと思うのだ。


さて、まずはホテルだ。私はボンで既にSan Lorenzoというホテルを予約済みだったが、Julianは宿も決めてない状態。私と同じとこに行って聞いてみるか、という事で行ってみる。相手はカタコト英語のおばちゃんで、おまけに当時はまだ「リラ」の時代。値段を聞いて理解するのも一苦労だ。関係ないけどリラってやたらとゼロが多くて、リッチな気分になるww


結局空き部屋があったのでチェックインしてから一緒に街に出ることにした。とりあえず中心へ行こう。観光名所はとにかく回った回った。2人で歩いた歩いた。ずーっとしゃべりながらクタクタになるまで歩き続けた。屋外のレストランで雰囲気良く美味しそうなイタ飯食べてる人たちがいたので我らも真似してみたけど、注文の仕方がわからない。プリモピアット?は(・・? ココの人達ってホントに普通にフルコース食べるんだな。日本でも最近でこそメジャーになってアンティパストとかプリモピアットとか珍しくなくなったけど、当時の私はピザならピザ、パスタならパスタで食事は終わると思ってた。それだけで十分お腹いっぱいじゃん。ワインもつけて、楽しく陽気に食べることも本場の空気で学びました◎


夕方、ボンの語学学校の友達クリスティアーナに電話してみた。彼女は陽気な黒髪のイタリア娘で、実家はフィレンツェ。夏休みにイタリア旅行するよ、と話したら夏には帰省するから連絡して、と実家の電話番号を教えてくれたのだ。彼女のドイツ語は強いイタリア語訛りで、まるで歌を歌っているみたい。Julianも一緒に訪ねていくことになった。駅から徒歩10分くらいの場所だったけど、駅の裏側に周った途端、突如のどかな田園風景が広がる素晴らしい場所にあった。可愛くて大きくて、開放的な玄関。タイルに木製家具に吹き抜けの天井・・・今の私だったらよだれたらして家中見せてもらうだろうなー。クリスティアーナはドイツ人の彼と一緒に帰省していて、彼女のママと妹さんとで出迎えてくれた。ダイニングの丸テーブルを囲んで、みんなでママの手料理をいただいた。もうね、そのままでレストランですから。食器とか、料理とか。これが自然なんだ。イタリア料理ってこうやってみんなで食べるんだ。




・・・その夜、私は膀胱炎になった。その時はわからなかったけど、後から思えば疲れたんだと思う。ずっと歩き通しで、しかも慣れたドイツ語にも頼れず英語漬けな上、街を歩けば読めないイタリア語ばかり。とにかく一晩中寝れなかった。トイレに行きたいのに、行っても出ない。そのくせベッドに戻った瞬間にまたトイレに行きたくなる。薬もなく、助けもなく、これをずーーーーーっと一人で繰り返して夜が明けた。最後はトイレで寝てたかな。


確かもう1泊して美術館とかヴェッキオ橋あたりを散策したりした記憶がある。道連れもいるし楽しいは楽しいけど、とにかくハードで休まる暇がないのは私だけでなくJulianも一緒だった。彼はこの後、ギリシャに行きたいようだったけど、私の向かうローマも捨てがたい。一緒にローマまで行こうかかなり悩んだあげく、やっぱりギリシャに行く、と行って翌朝早く発っていった。盛りだくさんの観光ができて良かったけど、ちょっとスローペースにしたかったんだよねf^^; かく言う私も、「ローマも一緒に周る?」なんて話してはいたものの、ギリシャを選んでくれて内心ホッとした。かなり疲れがたまっていた。一人で考える時間すらもてなかった。


旅は道連れ?ずっと続くと、一人で動きたくなるかも。明日はローマへ。

イタリア旅行 その2

ボンからミラノ行きの寝台列車に乗り込むなりJulianと出会った。


2段ベッドが両側に設置された4人部屋。今思えばちょっと怖いか?狭いベッドにカーテンゆらゆら1枚で仕切られるだけ。恐ろしくデカくていかつい男の人が相部屋になる可能性もフツーにあるんだし(怖)。おまけに夜をまたぐ長距離列車って、車掌さんがパスポートを回収して持って行ってしまうから荷物が盗まれるかも・・・、と思うとトイレも心穏やかに行けない。


でも私に待っていたのは、爽やかで優しそうな好青年の代名詞みたいなカナダ人のJulianとの出会い(^^)v


同世代くらいの男の子で、顔はフィリピン人、発音は超北米アクセント。と言うかネイティブ・カナディアンなんだな。その頃の私は、英語よりドイツ語が日常だったからすぐには出てこなかったけど、もう英語を使う事自体が新鮮で、英語ばっか勉強していた高校生の頃が蘇ってくるようで話すのも楽しくて楽しくて。


Julianは、私と同じ気ままな一人旅の途中。北米大陸からヨーロッパ大陸に周遊旅行に来ていた。小さな荷物一つで、大学を出て社会人になる前に色々見て回って経験しようと思って、みたいな一番気楽な旅。目的地も滞在期間もその都度自分で決めて、次の動きを決めていた。目的地はフィレンツェとローマ、くらいな大雑把な予定だった私の旅とおんなじ。ただ出発点が違っただけ。数ある列車の中で、Julianは私が予約した14:19 Bonn発の列車に偶然乗っていた。


「ヨーロッパの列車の旅」と日本人が聞けばロマンスが漂うけど、実際こんな出会いに満ち溢れている。


Julianとはその後、ミラノで乗り換えてフィレンツェ観光までずっと一緒にすることになった。


所で私の中では、本当は北ヨー[[]]ロッパから南ヨーロッパへ向かうと言ったら、ブレンナー峠を越えて行く、と言うのが当たり前だったんだけど、現実は違った。

学生の身分だから車なんか持ってないし。借りるにしても、慣れない逆交通ルールでいきなり長距離も不安だし
・・・・・・で、諦めた。

実は、母から借りた『ブレンナー峠を越えて』という小塩節さんの本を読んだ事があった。
これが実に印象深い本で、「峠」と言うものをこんなに意識的に意識したのは初めてだった。
この本で、西ヨーロッパって北から南へ移動するにつれ景色だけじゃなくて、聞こえてくる言語も天気も
空の色も、人々の気質も、もう何もかもが明るくなっていく、と知ったのが面白くて面白くて
外国なのにつながっていることを今更ながらに実感して、大陸なんだなぁとつくづく思った。
この南欧・イタリア旅行はそれを実感するのが目的でもあったのかな、今思うと。

ドイツからイタリアへ列車で入るには、一体どうやって行ったんだろう(・・? …と思って
当時の思い出のつまった箱をまさぐってみたらこんな紙切れメモが出てきた。


14:19 ab → 21:41 an Basel
   Eurostar


一回、スイスのバーゼルで乗り換えたのかな?全然覚えてないや。イタリアへはまずミラノに入って、そこから乗り換えてフィレンツェに向かった事だけはしっかり覚えてるんだけど。


Julianとは乗りこんでからずーーーっと話し続けていた気がする。大好きな『Before Sunrise』と言う映画そのまんま。あんな感じでとりとめもなく語り続けていたんだと思う。映画と違うのは…恋心にはならなかった事かな( ̄∇ ̄*)ゞ


消灯時間(そんなんあったか?)になって、体も頭も心地よく疲労していたせいかすぐ眠りに落ちた。翌日、小部屋で一番に目が覚めた。すぐ窓の外から目に飛び込んだ景色に圧倒された。圧倒されたけど、暫くは夢の中にいるような気がしていた。あの感覚、今でも忘れられない。ドイツでは絶対見られないような山のカタチ。山のカタチがまるで異国だった。



南ヨーロッパに来たんだ!


自然から感じる異国情緒。これはたまらん。少し目を閉じたらドイツとは別世界に来てしまった ― そんな感じ。
体はじーっと止まったまま、しばらく一人で夢と現実を行きつ戻りつしていた。この小さな目を開けただけでこんな衝撃を受けたのに、脳内はあんなに激しく感動していたのに、誰に悟られても何も困りはしないのに、私は目を覚ました時の姿勢のままほとんど体を動かさないようにして、ただただ自分の心の中だけでこの南欧への入り口に感動していた。

イタリア旅行 その1

ドイツに留学して一年目はドイツ国内をくまなく回った。西へ東へ南へ北へ。


ある程度、自分で決めていた。ドイツ語とドイツ文化を学びに来たのだから、まずはドイツを知る為に国内を回ろう。ドイツ以外のヨーロッパ諸国へ足を伸ばすのはその後だ。


1997年 夏。
ヨーロッパにいる間に行ける所に行かなきゃ!・・・という気持ちもあっただろうが、今思えば常に誰かがどこかへ好き勝手な旅行を企てているドイツの学生達に囲まれて、きっと知らず知らずのうちにそんな感覚が身についたのかも。


目指すは 【イタリア】


一度は行かなきゃいけない国。少しでも歴史に興味があるなら必ず一度は歩かなきゃいけない国。クリスチャンなら必ず一度は身をおいてその空気を感じたい国。


日本から出かけるのと、ドイツから出かけるのとでは、何かが違っていた。


日本人として感じる異国情緒と、ドイツ人目線の異国情緒。同じ大陸続きのヨーロッパとして共有・共感する部分があるのとないのとでは視点も随分違ってくる。面白いなぁ、こういうの。自分が2人いるみたい。


血としての自分と、精神としての自分。アジア人、こってり日本人の血が流れていながら、精神的にはヨーロッパにいるとどこか居心地が良くて、しっくりくる。でも、これも生まれつきのものではなく【カトリック】という生活環境から身についたもの、後天的・・・よくわからん。和食が好きだけど、考え方は大陸的。・・・なのかもな。


一方で、徹底した個人主義社会には最後までなじめきれなかったり、白黒では説明つかない部分も沢山抱えた。


なかなかイタリア旅行記に入れない(笑)
時間を1997年に戻したら蘇る思い出が多すぎて。


イタリア旅行はのっけから大きな出会いのある旅だった。


今もずっと友達のカナダ人Julian。ボンの中央駅で電車に乗った時からフィレンツェを回るまで、結局ずーーーっと行動を共にすることになった人。


人の出会いは本当に不思議だ。

カーニバル その3

カーニバルのピークは最終日「灰の水曜日(Aschenmittwoch)」即ち「断食期間(Fastnacht)」の初日でもあるが、この日に行われるケルンの町をあげてのパレード。
これがすごい。ドイツでも1位か2位をあらそう規模だとか。
これでもかって程、様々な仮装をした人々のグループが太鼓やラッパを鳴らしたり馬に乗ったり、踊ったりしながらメインストリートを通過していく。
一体何時間くらい続いてたんだろう、あれって。
仮装というのもちょっとした被り物みたいなレベルとは違う。
プロの衣装さんが製作したんですか!みたいなのばっかり。

道の両脇には観衆がずらららーーーっと並ぶ。イメージとしてはスペインの牛追いとか
テレビで見たことあるけど、あんな感じ。窓から顔出してる人がいたり。
そして路上でパレード見学する人は、ただ見学するだけでなく、「Alaaf(アラーフ)!」とか
「かみれーーーー!!!」(←スペル知らない)という合言葉チックな掛け声をずーーーっと
大声で叫び続ける。そういやどういう意味だろ?(・・?

とりあえず「かみれーーー!」と叫ぶ声がパレードの人に届くと、道のそこら中に馬車や
山車(って言うのか?)の上からチョコレートをぶちまけてくれる。
運がいいとそれをゲットできるし、道に転がり落ちたチョコをかき集めて、わざわざ家から
持参した袋につめて帰るのが慣わしらしい。
帰る頃にはのどはしゃがれ、袋がはちきれんばかりになります(^0^)


ところで日本でも同じだけど、こういったお祭り騒ぎには事故もつきもの。ケルンのカーニバルほどの規模になると町中の警察官たちがかり出されるのだろう。POLIZEI(ポリツァイ)と書かれた制服を着た人がそこら中にいる。



いたんだよね〜その中に抜群のイケメン警官が!ヽ( ̄▽ ̄)ノ 



こうなると、突如モスグリーンの警官服カラーまでかっこよく見えてきてしまうから不思議(^p^)
ちょうど私達が立ってた辺りの管轄なのか、多少動いてもずーっと近くにいて、時々下に落ちたチョコやアメをひろったり、道路中央に出すぎて危なさげな市民に「下がって下さいね〜」と促したり。こういうお祭り騒ぎの時はただでさえ気持ちが開放的になってる上に、さっきからずっと「かみれーーー!」なんだから、大声出しながら思いっきり笑顔でイケメン警官にも手を振ってました、私、はい(照)。

ボンの学生寮から一緒に出かけた学生友達もみーんな「Shoko、来たよあの人!笑ってくれてるよ〜」と味方してくれたりして、カーニバルが一層楽しくなってしまいますね♪今や遠い過去過ぎてはっきり記憶してないけど、パレードから花がついたチョコをキャッチしてそのままイケメン警官にプレゼントしたような・・・胸に手を当てて「Oh〜」とかいい反応してくれたような・・・


・・・と記憶は曖昧だが、パレードも終わってさぁ帰ろうかと人混みにまぎれながらみんなでケルン中央駅に向かっている最中、再び標的のイケメン警官を見かけたと思ったら・・・美しい彼女と熱いkissの真っ最中でした・・・ふん、職務中じゃないのかよ。ちっっっ(T_T)

カーニバル その2

Weiberfastnacht(木曜日)というのは、敢えて訳せば「女のカーニバル」・・・ですか。

この日は、どんな女性でも男性のネクタイをハサミでちょっきんカットし、頬にキスをしても良いという何とも欧米チックな習慣があるのです。女性無礼講の日なんです。駅で見かけた素敵なサラリーマンでも、密かに社内でカッコいいと思ってる同僚でも、大学のダンディな教授でも、「女」なら誰でもチョッキン&ちゅ♪が許されるのです。しかも「あのぅ・・・ちょっといいですか・・・」なんて慎ましく控えめにやってないで、突然目の前に現れて「ちょきっ!ぶちゅっ!」と言ってしまってもOKのようです。


私は、実は当日(木曜日の朝)授業の中でその習慣を知ったので、この何とも楽しげなお祭りに自ら参加する事はなかったが、教室では生徒達が集まると朝からウクライナの・・・名前忘れた(T_T) 彼女が明らかに途中からチョッキンされた中途半端なネクタイを3本くらい持ってにんま〜りしていたのをよーく覚えている。「1本は電車の中で・・・」って楽しげにみんなに武勇伝(?)を話していた。


この楽しい楽しい「女のカーニバル」木曜日は、カーニバルの幕開けともいえる日で、この日は朝からサラリーマンも修理工場のおやっさんもパン屋さんも、道行く人はみんな仮装している。20代や30代の「カーニバルなんて子供のお祭りさ」とクールにとらえてそうなお兄さんも激しくメークして歩いている(笑)話によると、会社でもそのままの格好で普通の顔して朝から仕事に取りかかるそうだ。マクドナルドのドナルドみたいなかつらとメークで「もーげーん!これコピーしてくれる?」とか笑えるよなぁ。


さて、次回はドイツ第一の規模を誇るケルンの町でのカーニバル行進に参加した私のあわい恋について・・・