平家の落人村兵庫県御崎村と、『門脇』姓を名乗る人たち




  

そこは陸の孤島と言ってもいいような周囲の街や村から隔離された断崖斜面の上に寄り添うように家々が立ち並ぶ平家部落です。但馬(たじま){兵庫県北部}には平家の落人部落と言われているところはざっと40か所もあるようですが、中でもここ御崎(みさき)は特に有名なようです。 僕の自宅からは20分程度で行けます。 

そして、但馬から因幡(いなば){鳥取県東部}にかけて門脇(かどわき)という姓を持つ人たちが住んでいらっしゃいます。
僕の同級生にも3人ほどいます。幼稚園の時、年齢では6歳ですか。小学校に入る前年です。その一年前の5歳の時の幼稚園は街に2つあって、わりと家の周囲の子供たちしか知らず、名前も日本全国どこでもあるような加藤とか中村とか岡本といった名前しか知らなかったわけですが、6歳の時に1つの幼稚園に統合されて聞いたこともないような名前の『門脇』(かどわき)という姓を名乗る子供たちがいて、“なんだろう、この聞いたこともないイカツイ古めかしい名前は”と子供ながらそう思ったのを憶えています。なにか違和感があってなにか意味があるような、そしてどこか遠くから来たようなそんな感じのするひびきでした。そのわけを知るのはそれから32年後の2007年のことでした。
  まず、御崎部落に入るとすぐバス停と駐車場があるのですが、その一角に『平家村御崎』の石碑と平家伝説の白い看板があるのですが、その看板の内容をここで紹介させて頂きます。 
“当地、御崎は、餘部から険しい山づたいに約四キロ、日本海に突き出た岬の突端にある平家集落である。かつては、食物や飲用水にもこと欠くような、文字通り陸の孤島であった。平家伝説の地はほとんど全国にまたがって各地に分布している。但馬地方にも古くから平家の里と言い伝えられて来たところが数多くあるが、とりわけ『御崎の平家伝説』は有名である。『平家物語』の中ではすでに死んだ事になっている人達の生存説が極めて多い。壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武将達は海路隠岐対馬へ逃れようと壇ノ浦から漕ぎ進めたが、日本海に出てから強いシケに遭い、因幡、但馬の海岸に押し流されてしまった。この御崎には平家一門のうち、門脇宰相平教盛を大将とし、幼帝安徳天皇の衛士の大将伊賀平内左衛門家長、その子光長、矢引六郎右衛門、小宰相局など一行七人が命からがら漂着したのは寿永四年四月五日のことであった。一行が御崎のある伊笹岬の沖にさしかかると一条の煙が見え船戸に漕ぎ付け、それを頼りに崖をよじ登って行くと、小さな☆庵に☆高野聖の森本浄実坊(もりもとじょうざねぼう)という☆修験者がいて、一行は小麦の蒸し物をクズの葉にのせて施され飢えをしのいだ。
それが今日に続く『小麦祭り』(日吉神社)の起源である。浄実坊の勧めに従って土着し、平家再興を計るため、先ず『一の谷』奥に門脇宰相が居を構え、二キロほど東西へ隔て東の方に伊賀平内左衛門、西の方に矢引六郎右衛門が居を構え、追っ手に備えたとつたえられている。”    

以上が御崎部落の入り口にある平家伝説の看板の内容です。それと、歴史用語でわからない方もいらっしゃると思いますので星印☆を付けました。説明いたしますと、まず☆庵(あん)というのは世を捨てた人が住む、草ぶきの小さな家のことです。 次に☆高野聖(こうやひじり)ですが高野山の下級僧侶で同山や空海への信仰を広めて全国を回る勧進聖(かんじんひじり)のことです。聖とは霊能をもつ民間の宗教者です。 三つ目の☆修験者(しゅげんじゃ)は山野で難行・苦行する修験道の行者のことです。                                                            但馬地方や因幡地方に今も健在で住んでいらっしゃいます『門脇(かどわき)』という姓を名乗る方々はこの御崎の平家伝説の看板に記されている『門脇宰相平教盛』(かどわきのさいしょうたいらののりもり)に由来すると思うのです。『宰相(さいしょう)』とは参議の唐名です。そして参議とは昔の太政官の職員で、大・中納言に次ぐ重職です。その平教盛は、平家のリーダー平清盛の異母弟ですね。平教盛は当時『門脇殿』とか、『門脇中納言』と称されていました。なぜ『門脇殿(かどわきどの)』と言われたかと申しますと、当時平家一門の人々は京都の六波羅にかたまって住んでいたわけですが、その六波羅地区全体の門があって、その門の脇に邸宅があったところから『門脇殿(かどわきどの)』と言われるようになったようです。その地名が今も残っています。この前も暑いさなか京都六波羅まであしを運んでみました。車で3時間半ほどかかりますが。『門脇』という姓の起源となった(多分そうだと思います)場所とはどんな所だったのでしょう                  
京都六波羅です。かつて平家一門の人々はこの周辺に甍をならべていました。どんな日々の営みがあったのでしょう。                                        
 



そして問題の門脇町です。画面では左の電柱より向こう側になります。この一角は古風な感じを残していますね。          
                          
     


まえの写真とは逆方向からのアップです。向こうのはずれは国道1号線になります。                      



 
 この写真では手前のほうになり、さらに右の方に広がっています。まさにここなのです。ここに門脇宰相平教盛の邸宅があったのです。と、推定されているようです。

                                  
      
  

平教盛は、『平家物語』では 壇ノ浦の戦いで亡くなったことになっていますが、御崎の伝説に従えばここから1183年の一門の都落ちで京都を離れ瀬戸内海を漂流し壇ノ浦の戦いで一門は滅亡しましたが、密かに舟で逃げ出して日本海を12日間漂流し但馬の御崎に辿り着いた。ぐるっと西日本を一周したことになります。そしてそののち教盛の子孫がここ御崎から但馬のある地域(主に但馬北西部)や因幡に移住して行ったと思うのです。 ここで御崎の位置を紹介します。赤いボールペン指しているところです。ここから京都まで直線距離でどのくらいあるのでしょう。そう遠くはありません。                                  




  


それでは、御崎部落へ登って行きましょう。そのまえに、御崎への山道を登って行くまえに、有名な『餘部鉄橋』がふもとにあるので紹介しておきます。もうコンクリート橋への架け替え工事が完成まぢかです。                             

 


それでは登って行きます。 
                                                    


途中崖の下に目をやるとこんな巨岩もありました。                     
                   


この日も太平洋高気圧に覆われて空も海も真っ青でした。ふと海に目をやると漁船が等間隔に並んで航行していたので撮ってみました。  


こんな急斜面をずっと登って行きます。                                 


前方の断崖斜面の中腹に御崎部落が小さく見えますか? 海面からの高さは150メートル?ぐらいはありましょうか。      





御崎に着きました。部落の入り口にある駐車場です。

                                        


『平家村御崎』の石碑です。

                                            





看板の左側に平氏系図があります。教盛は左の方に見えますね。

                                  


御崎はこのように家と家とがひしめきあって山の斜面に建ち並んでいます。

                              




村の中央にそば屋さんがありました。ひなびたそば屋さんです。平家村にはたいていそば屋さんがあるようですが。          







こうして見ますと大雨が降って地すべりでも起きれば家ごと海に落ちてしまいそうです。

                        


1185年の4月5日、一行はいったいどこから這い上がって来たのでしょう。森本浄実坊という修験者が火を焚いていて、その舞い上がる煙を頼りに舟を漕ぎ寄せて来たのでした。

                                            


御崎部落からさらに少し行くと、岬の先端に灯台がありました。

                                   


ここから見える日本海です。この海の西の方から平教盛一行はこの地へ流れ着いたのです。

                       


ここからまた餘部へ下って行きます。

                         


しかしその『門脇』という姓を持つ家がここ御崎にどのくらいあるのだろうかと電話帳で調べてみましたらたった一軒しかありませんでした。あと門脇ではありませんが、門のつく『門中』という家が一軒ありました。しかし、僕の住む街は御崎から峠ひとつ越えて20分ほどかかりますが、17軒もあります。どういうことなのでしょうか。僕は子孫がこちらに移住して来たと推定していますが? 本当の子孫なのか、それは定かではありません。しかし、子孫かどうかははっきりわかりませんが『門脇』という名前は平教盛から来ていると思います。関連性があることは多分間違いないと思います。僕の知っている限りでは平教盛の伝説は四国の愛媛県にもあるようですが、“末裔の門脇氏が兵庫県香美町鳥取市などに健在でおられることをみると、こちらのほうに真をおくべきといわねばならない” と、街の図書館で借りたある本には書かれてありました。平教盛がほんとうに但馬の御崎に流れ着いて生き延びたかどうか真実はわかりません。しかし僕はそうあってほしいと願っています。この御崎には部落のどこかに平教盛の墓があるそうです。調査不足で見つけることはできませんでした。そしてまた『平内神社』という神社も付近にありまして、毎年1月の下旬に『百手の儀式(ももてのぎしき)』といって、的を作りその的を源氏と見立てて101本の矢を打ち込むという行事が行われるそうです。それはいつも新聞にも載りますし、時々テレビのNHKでも放送されます。なぜ101本なのかはわかりません。平教盛の墓と平内神社を見つけることができれば、またブログに載せさせて頂きます。次の写真は鳥取市郊外にある。『門脇茶屋』の看板です。実物は省略させて頂きます。この看板から奥に3キロほど行くとあります。落ち着ける場所です。読者のみなさんももし気が向けば行ってみてはいかがでしょうか。                                      

“死人に口なし”という言葉があります。死んだ人はもう何も言ってくれません。今から825年前にこの御崎に逃げて辿り着いて、その時どうだったのか、何を思っていたのか、こんな隔離された絶壁の陸の孤島でどんなさびしい気持ちで彼らは余生を送ったのか。誰も何も言ってくれません。 もう親兄弟はちりじりばらばらでした。こんな陸の孤島は冬になれば日本海からものすごい風力で季節風が吹きつけます。どうやって寒さをこらえたのでしょうか。食べる物も大した物はなく、質素なものを食べて暮らしたのでしょう。                                                                                                               “祇園精舎の鐘の声、諸行無情の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ”                                                                                                      平家の旗色はくれないの赤だったそうです。  平家再興の願いは、 叶いませんでした。