カジノロワイヤルの手帖

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ナウなヤングの渡世人入門『股旅』

監督:市川崑。主演:小倉一郎、尾藤イサオ、萩原健一。時は天保のころ。渡世人として世間をその日暮らしのノリで渡り歩く三人の若者たち。彼らは一宿一飯の恩義のためにつまらない喧嘩の助太刀などのケチな仕事をこなしていました。渡世人といえば聞こえはいいものの、出で立ちはボロボロでどうみても乞食一歩手前。彼らは明日の予定もおぼつかないフラフラした生き方で流れ流れたあげく、なんとなく野垂れ死んでいくのでした。終わり。


予告編


股旅と言うと、どうしても粋でイナセでニヒルな渡り鳥っぽい何かを連想してしまいますが、そういうスタイリッシュなところからは2万年くらい離れたところにあるのがこの映画です。とにかく汚い。編笠はボロボロですし服はツギハギ。頭はボーボー。足は真っ黒。そういう汚い男が3人、だんご3兄弟のようにつるんであっちでフラフラ、こっちでヘドモド、あてどもなくフラつきまわって最後にしょうもなく死ぬという、いやあ江戸の昔から無軌道な若者の生態ってヤツは全然変わってないじゃんか映画。この映画が作られた1970年代前半はまだヒッピー文化のまっただ中で、この映画における股旅野郎もつまらない百姓生活を拒否し気ままな暮らしを指向した結果の渡世人稼業であり、まあ言わば彼らは天保のヒッピー、江戸時代のフーテン。映画もその辺を強く意識しております。


ただ、股旅の暮らしといっても思ったほど気ままなものではなく、むしろ渡世人として行きてゆくための、渡世のしきたり、義理というものにがんじがらめに縛られていて、そこから逸脱しようものならあっという間にボコにされ死ぬ、というあたりが非常に皮肉が効いてて面白いのです。この映画はそうしたあまり知られてない股旅の生態をつぶさに描いており、大変興味深い。例えば任侠映画でよくある仁義の切り方。流れ者がその辺一帯を仕切る親分のところに世話になるときの挨拶の仕方ですが、これにも渡世人同士にしかわからない厳格な仕儀があって、なにもテキトーに「おひけえなすって」「なすって」と言ってりゃいいいものではなく、厳密なプロトコルに則って行わないと大変失礼であるばかりか信用すらされず従って一宿にも一飯にもありつけず、言い間違いなどがあれば怪しのものとして殺されることもある、というから大変です。


なのでこの映画の主人公たちも間違えないように必死で丸暗記して、調子もへったくれもなく暗記した口上を読み上げる様が可愛らしいというか危なっかしいというか。他にも、頂いたゴハンの正しいお代わりの仕方とか、一宿一飯の恩義の返し方とか、喧嘩の際はムダに死なないためにどうやって角が立たぬよう手を抜くのか、みたいなHow To 股旅情報が満載で明日から渡世を目指すナウなヤングにピッタリの内容です。いやあこういう未知の世界を垣間見せてくれる映画っていうのは無条件に面白い。しかも映画の中でそれをやっている3人がボンクラ揃いで、仁義の口上は頼りないし喧嘩でも腰が引けてるし、世話になった親分には騙されるしでいちいちブラックなコントみたいな状況になっており、クククと黒い笑いがもれます。


つまらない百姓ぐらしなんかまっぴらだ。渡世人になって面白おかしく生きるのよ。という意識の低い動機でこの業界に入ったものの、こっちはこっちで厳しいし世知辛いし、仕事はせこいのばっかりだし、その割には命をやたら張らされるし、実はすんごいブラック業界だよねという現実。その中で流されるまま生きて締まらなく死んでゆく若者。こういうのは姿形を変えつつも昔から今に至るまで繰り返されてるよね、と映画は突き放して語ります。1973年の映画ですが、その内容は2014年の今にも十分通じるものがあって、その普遍性を股旅という存在に見出した脚本が秀逸です。なんと市川崑谷川俊太郎の筆。あの詩人が!


余談。渡世人のしきたりの中でも際立って奇妙なのが、親分さんに最初の挨拶を入れるときのいわゆる「軒下の仁義」と呼ばれる一連の問答。客とホストの互いの面子を立てるために回りくどいほどの遠慮が炸裂しており、その複雑さが安易な偽物の出現を防ぐプロテクトの役割をも果たしているという、ただでさえ厄介な日本の挨拶文化の中でも異形レベルのものですが、それだけに面白い。下の動画でその奇妙さの片鱗を味わうことができるので興味のある方はぜひ。これ、その場で適当に遠慮しあってるのではなくて、こういう順序で遠慮をする/されるという段取りが最初から型として決まっているという、まさに遠慮の文化の極みですね。うっかりトチったらどうなるんだろうとか、いろいろ想像するだけで面白い。凄いな〜。