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読書しているときは、われわれの脳はすでに自分の活動場所ではない。
それは他人の思想の戦場である。

‐ ショーペンハウアー ‐


2011-09-20 秋雨祭り

政治の急所は、転換期における実務の才にありそうか

デフレターゲットという壮大な実験?

おー、これはメモしよう。

・超円高の底流にみえる日銀総裁とFRB議長の確執

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110919/fnc11091922180002-n1.htm

 バーナンキ氏は、01年3月に量的緩和を導入した日銀金融政策を中途半端だと一蹴、物価がデフレ前の水準に戻るまでお札を刷り続けるべきだと迫った。さらに日銀が国債を大量に買い上げ、減税財源を引き受けるべきだと訴えた。「長期国債の買い切り、あるいは引き受けはごめんこうむりたいというセントラルバンカーとしての宗教」(当時の速水優総裁)の路線の全面的な否定だ。

 日銀はガードを固めた。長期国債保有額を日銀券発行額の限度内に収めるという内規「日銀券ルール」を徹底。06年3月に4カ月連続で物価の上昇率が0%台になると、すかさず量的緩和政策を解除した。

 ただ、その後、デフレの方はバーナンキ氏の指摘通り、今も解消していない。

  ■  ■  ■

 徹底した量的緩和を通じた脱デフレの“大実験”を日銀に迫っていたバーナンキ氏がFRB議長に就任したのは06年2月だった。やがて自身の手で持論を実行するときが訪れる。08年9月のリーマン・ショックである。

 世界経済が大混乱に陥る中、FRBは09年3月から1年間、紙くずになりかけた住宅ローン担保証券などを1・75兆ドル買い入れる量的緩和第1弾を実施。10年11月から今年6月には米国債を8千億ドル買い上げる量的緩和第2弾を行った。

 FRBの資産リーマン前から3倍に膨張、バーナンキ氏のもくろみ通り、米国はデフレに陥らずに済んだ。だが、ドルは金融機関を経由して株式、さらに原油穀物、金市場に流れ出て、世界的に物価を押し上げた。一方で景気はそれほど改善しない。この点ばかりは、今のところ白川氏の主張に分がありそうだ。

 白川氏は、米国流の量的緩和以外に解を探そうと模索してきた。リーマン危機が起きても米欧にただちに同調せず、利下げは遅れ、資金供給も小規模だった。ようやく昨年10月、脱デフレのための包括緩和策を打ち出し、「実質的にゼロ金利政策を採用していることを明確化した」と回りくどく宣言した。

 実質金利とはインフレ分を加味した金利だ。デフレ下の日本の場合は名目の金利よりデフレの分だけ上乗せされて高くなる。米国は量的緩和の結果、インフレ率は3%台だ。短期市場金利は日本とほとんど変わらないので、米国の実質金利はこの数カ月間、実にマイナス3・5%前後で推移しており、日本は米国を4%前後も上回る。

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 他通貨と比べて実質金利が高いということは、その国の通貨による預金や国債などの金融資産の価値が高いことを意味する。だから国内外の投資家はドルを売って円を買う。超円高はこうして起きている。FRBが今月、量的緩和第3弾に踏み切れば、さらに超「超円高」へと向かう。デフレ下の増税が重なり、企業は国内を見切る。雇用機会もなくなる。

 学術的に白川、バーナンキ両氏のどちらが正しいかは不明だが、少なくともお札を大量に刷ればデフレ病にかからないという事実は明らかだ。デフレから抜け出ることが確実になるまで大規模な量的緩和に打って出る。物価を年2〜3%程度まで上げると宣言して市場に実質金利低下の決意を示し、円高是正を促すことこそが日銀総裁の義務ではないか。

日銀・白川流脱デフレ理論の主旨がさっぱり見えないんだよなあ。それなのに経済的影響力を勝手に行使し続けられているということが、物凄い不満となって、日銀を批判したいといった気分に転化されているように思われ。そういったあたりに強いストレスがわだかまっている感じなのは、今の日銀制度に対して抱く俺の気分かも。

 

公共事業主導経済の復活?

いくら札を擦っても使い道がないから銀行内にカネ余りが生じるだけなのでデフレ対策にはならない、というのなら、だからこそ不景気時は公共事業を増大させて仕事とカネを回していく必要が出てくるのだ、という主張へのつながりに説得力が出てくるように感じてしまう。

公共事業といえば、バブル期に造られたという第三セクター関係の公共施設とか、あとかんぽの宿のひどい顛末といった無駄な投資事業の話が浮かんでくる。でもあれらはバブルが潰れなければ資産価値を有する物件としてを回せていけた、という可能性も考慮するべきか、祖rともそうした永遠の成長を前提にしてバブルが弾けたから遺産なことになったんだ、と捉えるべきなのか、とまあ利益率確保と成長性持続の問題は、何か、議論で白黒をつけるというよりも、ただその時、適切に判断してましな結果となしえたか、という、「結果責任」としてシビアに収斂させていくあたりが建設的な態度だったりしそうなのか…と思ったりしたり。経済の切り盛りも、政治として引き受けられるべき結果責任の範疇として見なすべきなのかも。

 

政治的な困難とは、政道の転換にこそありそうか

そうして考えると、政治的な本当に致命的な課題というのは、政治が率先してこれまでやってきた従来の手法からの切り替えが必要となった時に、それがまさに実行できるのか否かという「方向転換の実践」を成し遂げられるかどうかといった部分かもしれない。

公共事業中心の社会主義官僚体制が強まって、景気が上向いたからそのやり方を止めます、と言ってそれが実行できるかといえば、いざそのような状態になってみると誰も方向転換できない状態に陥っていた、というパターンは割とよくありそうなイメージなんだよなあ。本来ならそういった方向転換は議会制度を通して実現されるべきだというのが理想形なんだろうけれど、その時の醸成の中で権力を掴んでいる層が早々これまでの勝ちパターンを捨てさせるような動きに手をこまねくといったこともないだろうし、そうした人たちが新しい時流に率先してシフトするという手段を行使するならともかく、力で以て現状路線の固定をよしとする行動に出た時にどうなるかとか、不安の種は尽きない。その時はそん時と割り切るには、なんかこうここ数年で権力者層の切り盛りというものに対しての不安感が増したかなあ。全体で上手く回っている時は問題なさそうだけれど、いざ落ち目になった時の正念場で弱さが垣間見えてしまったんじゃないかこれ、という。そんで方向転換が要求される時期というのは、大抵その社会において状況的に社会的潜在能力の限度線を迎えたということだろうから、そこから次にどう進むかといった決定の際に現れ出でる無数の選択肢を収斂させて意思決定していくことが非常に難しそうというか。

この政治的な転換という実務をこなすという作業は、リーダーだけに求められる才なのではなく、そのリーダーを許容したり、信じる、拒むといった形で集団全体で成し遂げられるかといった才能として見るべきなのだろうと思う。

 

体験論でも、論理でも、正誤の見極めが肝要なんだろう

体験や長年の勘に基づいた判断だからと言って、それが正しいこともあれば、間違っていることもある。長年の生活から微妙な機微を読めるようになっていることもあるし、あるいは勘違いを正しいとして信念としてしまったり。

データや理論に基づいている結論だからといっても、それが正しいこともあれば、間違っていることもある。データとその解釈から一定のパターンを抽出できたり、あるいはデータや解釈体系自体が間違っていることがあったり。時には捏造されたデータや捻じ曲げられた解釈が恣意的に流布されることもあるだろうし。

体験的な実感からであれ、データからの合理的帰結からであれ、その結論が正しいか誤っているのかをより明確に見極められるようにするために、主張に対する検証が必要となる。また、この検証者の見立てが正しいのか誤っているのかの判断も求められるようになる。

だから、議論というものは勝ち負けではなく、正しい検証がなされたのかという相互検証の有無が重要なんだろう。

 

支持と働きかけ

とある人や集団を支持するか、信用するかといった心持ちは、その人自身がどれだけその結論に至るまでの過程に働きかけられたか、という納得感の上に醸成されるものではないかと思う。

難しい問題では納得のいかないことが起こるもので、そこは今は納得できないが飲み込んでおこうかとできるか、それとも到底飲み込めたもんじゃねえな、となるかの振れ幅まで含めて、結論に対する支持を決めさせる信頼には、問題自体の理の正しさだけではない、その問題を扱うことになったその当人を信頼するかどうかといった、この人になら任せていい、とするように判断を委ね託す、決断を任せたいとする心境の至りが必要とされ、そこが揺らぐようになると、こんな奴の仕切りじゃまったく駄目だ勘弁ならねえ、となり反対の意志が高まっていく。

いうなれば、誰かを選んだ、ということで自分も決断への意思決定に関与ているとの手応えを得るし、望まない誰かが決断者や責任者に選ばれてしまったとなると、自分が支持している人を支えられなかった自身の不甲斐なさが悪かった、としてその忸怩たる気持ちが回収されていうことになる。

そのような回収が働かなる独裁的な権力機構が誕生すると、人々は途端に社会的な不満を募らせるようになり、反対手段として非合法手段や暴力に訴え出るといった段階に進みやすくなる。また、こうした動きを権力側が独占している高度な暴力の行使によって圧殺しようとすると、流血沙汰が起こったりもする。そうなると、権力側に対しての不信感が高いようならば、平時は権力の手足である暴力執行機関(軍部)が組織的な統制から離反して、権力側に牙を剥くといったことが起こりえる確率も高まっていく。

 

しかし毎度のことながら、書いてみれば「なに当たり前のことを言ってんだか」みたいな感覚に襲われるなぁ。

 

2011-09-19 淡々と這いずるや善し

そういえば外資規制の話とか全く見かけなくなっている

2009年9月30日の動画らしい。

・鈴木淑夫インタビューNo31 「BIS規制より投機マネー規制が先だ!」

D

顔アップやめい!

メモ。

 大事なのはね、資本市場で暴れ回っている、投資銀行に対するこの規制であってね、預金銀行に対する規制をここで強化してどうすんの? と。

 今度の金融危機の源泉はね、むしろ預金銀行に対して自己資本比率規制をしたから預金銀行に(聞き取れなかった)してどんどん住宅ローン証券化して、資本市場の方に送っちゃって、そこで起きたんでしょうと。資本市場の方こそね、自己資本比率規制その他の規制をかけていかなきゃいけない、透明化する規制をかけていかなきゃいけない時に、何を言ってんだと。

 国際的にもね、「官僚主導だと思う」と、これねえ、BISの国際官僚主導型の仕事作りですよねえ。それでこういう変なことになっており、その裏に日本の金融機関を絞めつけようという米欧の金融機関の意図があります。

2年前の動画かあ…。

アメリカでもファンドの規制って進んでなかったのか。今はどうなんだろう。サブプラ問題(サブプライムローン低所得者層への住宅投資貸付債権)やリーマンショック時にはかなり外資規制だとかG8レベル(主要8ヶ国首脳会議)で騒がれていたものなのに、見事にファンドがどうこうという話は全く見かけなくなった。

それどころかハゲタカファンドハゲタカどころか、外資といったそういう国際金融機関を示唆するような言葉すらメディアではとんと見ない。

でも、世間では口伝に「結局は外資とか国際金融じゃん」みたいな風にまだ覚えていて話す人は普通にいるし、その点ではメディアというものの方が情報を一過性のものとして流し去ってしまう性質があるのかもしれない。メディア上で常に関心を惹起し続けるには、それだけ毎日継続的にメディアで流し続けなければ、メディア的な空間内においては、人々の意識にはなかなか残ってもらえないのでは。

このあたりの「世間」と「メディア内空間」という使い分けは、意識のモードの切り替わりを念頭に置いた感じで。

しかし見事に隠れ切ったものだ。隠れたとはいえ表に出ればまだギリシア国債からのユーロへの信認問題など金融危機が続いているので、潜伏していた方が吉と判断しているのだろうか。

 

2011-09-18 死とはままならなくて当たり前

死の覚悟と死想ゴッコ

無理に死なんか思わなくても、体調に異変を感じたり、年を経て能力や身体など機能の減退を自覚すれば、いやでも自分が死ぬということを意識させられて死ぬための準備を始めだす。

逆に、元気で健康なうちはどれだけ人は死ぬといってみても、頭の中だけで死が来ることを了解したに過ぎず、実際に死が来るのだという実感はそんなにないのだろう。生を謳歌していればよろしい。

死を悟った人は、死について自分なりのものとして心の準備を深めながら己が死んでいくことを公言して、おおっぴらに晒し、人が死ぬことの片鱗を元気な人たちに多少なりとも残すより他なく、また元気な方はそのように死と直面した人たちを馬鹿にすることなく、真摯に受け止めるように心掛けるより他になく。

つまるところ、死とは、なるようにしかならないように出来ているものなのではなかろうか。

2011-09-16 眠いなら寝るべき

言葉の発信も小さいながら行動か

一度、他者に発した言葉は取り返しがつかない。

 

世代の残酷と生き方の美学

上の世代から学べることのひとつとして抱く懸念。人間は下の世代を家畜や愛玩動物として扱わざるをえないものなのかもしれないという業を孕んでいるのではないか。そうはなりたくないものだ、とは思ってみても、こういった性質は人間として生き続けるうえで厳然として立ち現われてきてしまうようでもあり、「世代」という生命の入れかわりが働く際に、人間として逃れられない業のようんものの必然なのかも、と思うところもある。もしそうだとすればたとえ家畜や愛玩動物だったとしてもマイルドな関係を維持できるよう心遣いを砕くべきなのかなあと。そう意味からいえば、下の世代をゆとりだなんだの言ってる輩は知恵が足りないし、そういうことを無駄に口にする人物ほど、自分が攻撃されたらスルーできない感じがする。保身とか自己愛が強めよりな印象がある。自分の代替物として投影するといったこともありそうだけれど、そのあたりはまだよくわからない。基本は、世代という関係であってもポイントは強いものが弱いものに対する在り方の哲学・美学といったあたりになりそうか。

この命題で問われるのは、やはり生き方の美学だろうか。

とりあえずは、少なくとも高齢者になったら子供や孫のために自らの命を投げ出してくれるといったフィクションを当てにするような態度はよくなさそう。そのような立派な方が周りにいたとしても、それは幸運に恵まれたというだけの話にすぎない。

2011-09-14 文体は流れに任せる

叫びと陣営

サブタイトルは、椅子取りゲーム支援という陣取り合戦。

 

集団の上位に意思決定用の小集団を決めて、彼らに判断を一任する。この少数団というのは有限な数の椅子が用意されている状態なので、少数の集団である場合、正しい意見の人が少数に追い込まれて間違っている意見の人間がその集団内の多数を確保するという状態も発生する。まあ、そういう状態が実現してしまたら、そこから勝ちを目指そうとかは割とドリームなのだろうと諦観しているところがあり、との間違った小集団が犯す無様な政治的愚行を、馬鹿な社会失敗実験のモデルケースの生きたサンプルとして活用するくらいにしか使い道ないよなあと思うのだけど。その壮大な社会実験に支払う犠牲は多大なものになるんだろうけど。だけどなんだかんだいって世間的にはどんな失政でも、政治の悪口を言って終わりとか、判りやすい言葉狩りや空気を悪くしたとか、そういう政治的な構造がどうなっていて何を誤ったのかといった点検を行えるような段階に至る前に石を投げてストレス発散して終わり、みたいな空回り感を覚えるわけで。政治が犯した失敗というものを、観測する方法がないんじゃないかって段階から問題を抱えているような予感。

 

議会制民主主義や間接民主制という制度は、この意思決定を下す小集団の内にある『椅子』をどうやって占めるか、という椅子取りゲームなのだなと改めて思う。つまり、主権者と定義される国民の側からすれば、「その有限な『椅子』にどれだけ自分達の味方の側から人員を送り込めるか」という恣意的な意思を固めて参加すべきゲームとなっていて、椅子取り競争という無血(であることが望ましい)戦争が行われているという理解がまず必要で、この闘争に積極的に関与しようとする意志が求められている制度なのだと思われる。そうした認識をまず大前提の基礎中の基礎として第一に理解されないことには、政治が不在だとか意思決定が行えないと結果を批判してみたところで、どうしてそのような状態に日本が陥っているのかという社会構造を把握するという段階にまで理解が進まないのやも。階段の一段目をすっ飛ばして踊り場や2回のことを話しても、その階段の一段目を踏み出せないなら、それは現実の動きというものにつなぐことができない。

大集団では大多数から正しい意見というものが醸成できても、小集団という限定内では正しい意見が少数派に追いやられてしまい、狂った意見がその小さな集団内で淡々と押し切られていくという様を想像すると怖いものがあるし、そういう光景って日常でも決して珍しいものではないよなあと。だから民主主義の理念として、できるだけその意思決定する小集団の意見は社会全体に対して広く後悔されるべきだ、という主張が切実な叫びなのだとして感じられるところから民主主義はあるべきなんだろう。

そういった叫びは、なんか一度狂った小集団内で孤立したり、あるいはそういう場面を見てしまったりするとその切実感が身を切り裂くようにわかってくるものだろうと思う。

そうした切実な叫びがあるということを共通に理解されるような社会的土壌が必要とされているのだけれど、昨今の日本ではそのような叫びというものをキチガイ扱いして世間から隔離しようとする、逆向きの振る舞いを以て善しとする風潮が強すぎるように思われる。それが緊急時においても落ち着きを払った日本の庶民という美談となって現れることもあるが、一方でまともな政治集団を作り出せないという原因にもなっているのかもしれず、いわゆる福島原発事故で世界から称賛と溜息を送られた冷静な庶民と無能な政府という状態は、同根の原因を持つのかもしれない。まあ、民主政権でなければもっとまともな政府対応が行われていただろうというのはそうだと思うけれど、だからそもそもそういう政権という小集団を送り込んでしまった原因として切実に叫ばれる正しさをスルーするところから立派な社会人であることの資質が問われる、という叫びに対する遮断の力が現状高すぎるのではないかと見積もり、これを幾分か低めるように意識を改めるところから政治問題の改善は始められる必要があるのかもしれない。正しいといいながら間違った方向へと導こうとする叫びもあるのでそこは叫んでいればすべて受け入れるべきだという極論には組みしないが、何かを叫んでいるものに対して遮断して距離を置くことを善しとしすぎるのもまた弊害であり、叫ばれる主張に向き合いながら、自分なりの選別を行えるだけの思索を深め、判断を下すといった力が育つような意識(あるいは社会的な土壌)が必要とされていることと、そこから民主議会政治という社会の営みに参加する際の、陣営を作り、意志を持って送り込むべきなのだ、という陣営を軸にした椅子取り人員送り込み競争(戦争)への自覚を抱くことに腹を括るところから、世の中は始められなければならないのかもしれないと思いつつある。

 

とりあえず、民主政権という大きな代償を支払った結果、せめてそれくらいの成果物が獲得されることが望ましい。現状、単なる悪口で終わるか、社会的な能力の階段を一歩上げられるかは、なんか半々って感じの空気かな。どう転ぶかはわからない。…と、そういう人任せ的な物言いで締めてしまうと、私も悪口を言って終わりというだけの流れに加担してしまうことになるんだろう。状況がわかったような気になっても、そこに腹を括って一歩踏み出そうとすることは全く別物の覚悟があるものだし、市井で生きる者としては、そのような覚悟を重いものとして背負い込むのではなく、身の丈に合ったやれるところから小さく進もうと考えられるだけで、まずは第一歩といったところのように思われ。自分の意思で進むのだと腹を括る、といっても、それはいきなり国の命運を自分一人で背負いこむような世界系のような極端なことではなく、心持ち自分の気持ちを見つめ返してみるだけで、少なくとも以前よりは十分な成果だと言えるのではないだろうか。喩えるなら、根明な地道さで叫びを受け止め、冷静に処する、といった面持ちであろう。