2008-05-30
■[社会][文化][ネット]『Mudコンピューティング』ってアリなんじゃないか?

泥のようにが爆発的に増えていてビビった(笑)
そんなエントリのひとつで。
・「泥のように」-- ヴァイラルマーケティングの歴史に残るプレゼン
http://d.hatena.ne.jp/essa/20080530/p1
「エアーとかクラウドとか、最近のコンピュータ業界の流行り言葉は、スカスカの実態の無いものばかりだ。ユーザが本当に求めているものは『泥臭さ』であり『泥縄』だ。わが社の『Mudコンピューティング』は、コンシューマーとエンタープライズの両方の分野で世界を変える製品となるだろう」発表の席に同席した同社の西垣元社長は自信を持ってそう語った。
作り話の体裁をとられてはいるけど、実はかなり『Mudコンピューティング』ってありなんじゃないかと考えながら書かれてるんじゃないかな、これは。
個人的な感想として、実際世の中なんて泥のようなものだし、この比喩は秀逸に感じられてきた。でもきっと「10年働け」が余計だったんだろうと思うし、逆にこの余計なオマケがくっついていたお陰で反感という形で反応を呼び起こせたんだと思うと、ネット流で言えばなかなかの釣り師だ。でも社長本人は本気で言ってるのが真相っぽいかな。本気で言ってるからまた反感を呼んで広まっていくと。
問題は、泥のように働くのが10年どころか永遠に続きそうで、しかも希望が見えないまま泥沼が放置されているイメージがあることなのかな。泥沼といっても、歩き易い部分や底なし沼があって、そうした沼の安全な場所と危険な場所の選択した結果の差が大きくなったのが格差社会で、昔はもっとなだらかな差だったのにとそこなし沼にはまりながら叫ぶ人が多数というのが現状なのかなと思う。しかもこの沼の底なし部分を改善するために土や砂で埋め立てるといった工事が行われそうな気配はなくて、いくつか板を投げ込まれても板の奪い合いになってさらに悲惨なことが…というのはデスマな現場で起こってそうな光景でこええ。よくしらないけど。
話がずれまくったけどそんな感じで、「泥のように」というのは、「現実」の泥臭い部分なんじゃないかと考える。じゃあ『Mudコンピューティング』ってなんぞ? と考えたら、泥臭いコンピューティングってなんだろう…となるわけで、それってはてな村とかそういうものか? ネットで泥臭いシーンといえばなんか他にあるだろうか。mixiが泥沼というよりコンクリートジャングルだし、2ちゃんねるは泥沼というより泥レスなんじゃないかと思う。政治系やビジネス関係は工作であふれまくっているように感じられるので泥っぽさを娯楽にした見世物として割り切らないと上手くつきあえない印象。Twitterはレジャープールかなぁ。快適なんだけど1人でいるとふと寂しくなる。あれはリアともを引き込んでだべると破壊力がありそうだからオフ会とかもそういう流れなのかも。
ああ、やっぱりはてな村が一番『Mudコンピューティング』に近いところにいそうな気がする。人力コミュコミュネットサービス。はてな村キモイといわれるって、お前らクールなネットで村作ってんじゃねえよとかそういう感じで読めるdisりとかを見かける気もするし、逆にムラ化することで得られるメリットが大きくできるなら、『Mudコンピューティング』としてはてな村をシステムに組み込めるとかっていう方法論はありじゃないかと思った。
ただ、「人つきあい」は「重い」んだよなあ。気遣いとか距離感とか空気嫁とか空気嫁奉行ウザイとか。しかもそうした「重さ」を引きずってしまうのに、他者とのエンカウント率(出会いの機会)は極端に上がってしまう。人の名前すら覚えるのが億劫な俺みたいな人間にとってやさしくない。だから、そういう出会いの機会によって増大する関係の重さを上手く処理しながら、人の泥臭さが上手くコミュの快適さに貢献されるようなサポートがあるようなシステムデザインというものがあったら、それは『Mudコンピューティング』の名に割りと値するひとつのスタイルになりうるかもしれない。人間ってウザいんだけど、そのウザさがまあいいじゃんとご近所のお付き合い程度に低コスト化されるような感じだろうか。んー。
(追記)
「気持ちよく馴れ合える」という言葉が浮かんだのでメモる。
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