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2008-01-28

[]インターネットについて - 哲学考察

身体性という言葉を見かけたので、それに言及した本について2003年7月26日に作成した読書録をリサイクル。再読する余裕が今はないので、とりあえずそのままのかたちで残しておく。今読んだら感想もだいぶ変わるのだろうな……。

序論

レイファスのこの本での一貫した見方は、「身体性」という言葉に要約できる。

 私は哲学者なので、インターネットの具体的な使用法の良し悪しを論じる立場にはない。私の問いはもっと思弁的な、次のような問いである。もしネットがわれわれの生活の中心となったとしたら、つまり、ハーバード大学ケネディ・スクール学長ジョセフ・ナイが「魅力的な新たな文化」と呼ぶものが実現するとしたら、どうなるのだろうか。生活のかなりの部分をサイバースペースで送るようになるにつれて、われわれは、人間を超えることになるのだろうか、それとも人間以下になるのだろうか。

 これらの問いを考える際、次のような可能性があることを良く理解しておく必要がある、もし仮に、われわれが身体的な自己を捨て去って、サイバースペースの中で生活することにしたとしよう。われわれは、感情的・直観的で、一定の状況の中にあって、傷つきやすく、動物の姿をしている自己を捨て去ることになる。そうすることによってわれわれは、これまでにない、素晴らしい自由を手に入れることになるのかもしれない。けれども同時にまた、われわれは重要能力のいくつかを必然的に失ってしまう可能性があるのである。そこで失われるかもしれない能力とは、次のような能力に他ならない。物事を理解して、重要なものを重要でないものから区別する能力……。学習に不可欠な、成功と失敗を真剣に受けとめる感性……。そしてまた、最大限に〔=最も適切な仕方で〕世界を把握し、事物のリアリティを感じとる能力……。さらに、もしわれわれがリスクを避けるという誘惑に負けて真剣なコミットメントを回避するならば、われわれは自分の生を意味づけてくれるものの感覚を失うことになる……。実際、私が以下で示そうと思うのは、もし身体が失われるのならば、関係性、技能、リアリティ、意味もまた同時に失われるということなのである。もしそれがトレード・オフなのだとしたら、ウェブの中でウェブを通じて生活を送るということは、結局それほど魅力的なものではないのかもしれない。(p8-9)

ハーバーマスの討議理論がインターネット上でも実践可能であり、メタ情報の交換が仮に可能であるとするのならば、身体性を欠いていても関係性やリアリティ、意味を失わないコミュニケーションは可能なのではないだろうか。討議の実現可能性と、ここで言うところの身体性の欠如は関係が無いと思うのだが。

第一章 ハイパーリンクに関する誇大宣伝(hype)

ドレイファスは旧来の図書館文化とハイパーリンクの文化を以下のように分けて考えている。(p15)

旧来の図書館文化ハイパーリンクの文化
分類
a.固定的
b.階層的な組織
c.特定の関心による限定
分散
a.流動的
b.一つの水準
c.あらゆる連想が可能
注意深い選別
a.編集の質
b.テクストの信憑性
c.古い資料の除外
あらゆるものへのアクセス
a.編集の包括性
b.テクストの利用可能性
c.すべてを保存
永久所蔵
a.固定されたテクストの保存

b.関心に沿った拾い読み
ダイナミックな収集
a.相互テクスト的な発展
b.遊び半分のサーフィン

 ハイパーリンクで結合された図書館を利用するユーザーはもはた、確固としたアイデンティティを備え、世界のより完全でより信頼できるモデルを追及する近代的な主体ではありえない。ハイパーリンクの図書館を利用するユーザーたちはむしろ、常に新たな地平を追い求める変幻自在なポストモダンの存在者なのである。この新たな存在者は、意味のあるものを集めることに興味があるのではなく、できる限り広い情報ウェブにアクセスできることに興味があるのである。(p15-16)

 それにしても、何かのデータを使おうとする人は、現在の自分の関心にとって意味があり、関連する情報を探さねばならない。しかしあらゆるものがあらゆるものにハイパーに結合されているデータベースでは、それは非常にやっかいな仕事になる。ハイパーリンクを張る理由は実に千差万別であるが、リンクには一つの基本タイプしかないので、リンクの意味を利用して情報を探すことができないのである。問題は、意味に関する限り、ハイパーリンクはどれも似ているということにある。ある研究者が述べたように、検索の作業は、干草の中で一本の針を探すのよりもやっかいな作業である。それは針の山の中から一本の針を探すようなものなのだ。〔とにかく、結合の仕方は一つしかないのだから、〕ウェブでは意味論的な内容が結合の仕方を決めるわけではない。従って、ウェブを探索するためには、形式的で統語論的な技術を使って、無意味な記号を処理するより仕方がない。しかもそれは、有意味な、関連性のある意味論的な内容が存在している場所を突き止めるためになのである。

 意味を欠いた機械的操作によって、意味のある情報を検索することの困難さは、ネットが登場する前からすでに問題になっていた。この困難さは、特定の目的に関する情報を、その目的のために組織されたのではないデータベースから検索しようとするときはつねに生じるものなのである。例えば、研究者が関心のあるトピックについて書かれた論文を探している場合、論文のタイトルに含まれる言葉だけでは、サーチ・エンジンは研究者の特殊な要望に見合う資料やウェブサイトを送り返すことができない。(p16-17)

データ検索と資料検索の違いをドレイファスは以下のように分類している。(p19)

データ検索資料検索
1.直接的(「Xを探したい」)1.間接的(「Xについて知りたい」)
2.回答が要望を満たすものであるか否かは必然的に決まる2.回答が要望を満たすものであるか否かは蓋然的に決まる
3.成功の基準=正しさ3.成功の基準=有用性
4.規模の拡大は大きな問題ではない4.規模の拡大は大きな問題である

 レナートの理解によれば、われわれの常識的知識とは百科事典の中に書いてあるような種類の知識ではなく、むしろ百科事典の執筆者が当然のこととして、前提としているような種類の知識である。そうした背景的知識(background knowledge)はあまりに明白なものなので、われわれがことさらにそれに注意を向けることはほとんどない。(p21)

ある言葉を理解するためには、その言葉を理解するための言葉、メタ言語が必要となる。このメタ・レベルでの理解の共通化が図れていないと、対話者との意思の疎通は事実上不可能となる。

それにしても、何らかのリクエストに関連するかもしれないがために、明示化し、貯蔵しなければならない身体的事実は無限にある。幸運なことに、われわれは身体を有しているため、そうした事実を貯蔵しておく必要が全くないのである。(p23)

「機械は意味を理解できないし、人間的な判断が資料を索引に載せたり分類したりする際に原理的に用いている能力を再現することもできない」(p27)

 もし仮に、われわれの身体感覚をバックグラウンドで機能させながら、世界中のデータベースとウェブサイトで情報を探すことができたら、それはきっと素晴らしいことに違いない。われわれの身体感覚は、われわれのような身体と関心をもった存在者にとって何が重要であるかを教えてくれるからである。しかし、常識的知識を明示化するというレナートの企図の失敗が示したように、われわれが身体化されていることによって手にしている理解を形式化できると期待する根拠は何もない。そういうわけで、人工知能が関連性問題を解決できるという希望は、今やほとんど捨て去られているのである。〔われわれの〕向こう側には、莫大で、常に増大している情報があるが、この情報にアクセスするには、身体を持たず、われわれと世界を共有せず、それゆえに資料とウェブ・サイトの意味を理解できないコンピュータを使うしかないような状況なのだ。(p27-28)

 サイバースペースの中では、意味を把握するための身体化された能力が欠けているのであり、関連性はわれわれの非実存的な指の間からすべり落ちていくのである。しかし、そうだとすると、人々はいかにして自分の関心に関連するものを見つけ出しているのだろうか。この章では、われわれにとっての世界とは、数十億の事実を無意味に集めたものではないということを示してきた。世界はむしろ身体、欲望、関心、目的を持つわれわれのような存在者によって、われわれの存在者のためにつくり上げられた、有意義性の領域なのである。もちろんこう言ったからといって、われわれの脳がいかにして特定の瞬間に、われわれに関連するものに焦点を合わせることができるのかという謎が解明されたわけではない。しかし世界が、身体を有する活動的な行為主体によって、そうした行為主体のために組織されているのであり、身体を欠いたコンピュータによってではなく、そのためにでもないのだとすれば、われわれは世界を理解し必要な情報を見つける上で〔コンピュータに比べて〕極めて有利なスタートを切っているのである。一つ確実なことは、身体を捨て去り統語論的なウェブ・クローラーとサーチ・エンジンに依存するようになったネット・ユーザーたちは、自分が望む情報を見つけることもたまにはありそうだという希望を胸にしながら、成長するウェブのジャンクの山をかき分けて情報を拾っていくはめになるだろうということである。(p34-35)

第二章 遠隔学習は教育からどれくらい遠いか?

ここでドレイファスは教育を以下の7つの段階に分類して説明している。

  1. 入門(novice)
  2. 初級(advanced beginner)
  3. 中級(competence)
  4. 熟練(proficiency)
  5. 専門的技能(expertise)
  6. 精通(mastery)
  7. 実践知(practical wisdom)

ドレイファスによれば、遠隔学習で教えることができるのはせいぜい中級くらいまでの知識だという。

 われわれがそう望むように、特定の領域の専門的技能と生活の実践知を人に教えようとする限り、われわれは結局のところある一つの問いに直面することになる、そしてこの問いは、ワールド・ワイド・ウェブの前途有望さを信じている人たちに哲学者が問いかけることのできる最も重要な問いである。すなわち、様々な領域の技能を獲得し、自分の文化に精通するために必要とされる身体的な現前は、インターネットによって伝送することが果して可能なのだろうか、という問いである。

 テレプレゼンスが示す約束は、この問いに対する肯定的な答えを期待させるものである。もしテレプレゼンスが身体的な現前に関するいかなる本質的な側面も逃すことなく、人間が遠隔地に現前することを可能にするのだとしたら、遠隔学習の理想は原理的にすべての水準において実現され得ることになるであろう。しかしまた、もしテレプレゼンスが教室での指導や講義室の中での現前、そして弟子の前への師匠の現前を伝送することができないのだとしたら、遠隔学習は中級者の能力を生み出すだけであり、専門的技能と実践知は全くその手の届かないところにあることになるだろう。というのも、教室での指導や講義室の中での現前を通じて、教師は学生の参加を促すことができるのだし、師匠が弟子に現前していることによって、日々の活動の中で師匠のスタイルが弟子の目に見えるものとなり、弟子に模倣され得るものとなるからである。テレプレゼンスがこうした現前を伝送できないとしたら、ハイパー・ラーニングは単なるいんちきであることになる。(p65-66)

第三章 身体を欠いたテレプレゼンスと現実の遠さ

 われわれはやがて、巨大で目に見えない、相互に接続されたインフラによって生活を送るようになるのであり、実際物事は、そうした方向に進んでいるのだと多くの人が考えているのだとしたら、どうしても次のように問わなければならない。それは果して、われわれの生活をより良くすることになるのだろうか。もしわれわれがサイバースペースのあらゆる場所でのテレプレゼンスと引き替えに、状況に埋め込まれた身体を捨てることになるとしたら、何が獲得されることになり、また何かが失われるとしたら、何が失われることになるのだろうか。この問いは二つに分割することができる。すなわちテクノロジーを介した世界への関係は、われわれのリアリティの感覚全体にどのような影響を与えるのだろうかという問いと、人間がテクノロジーを介してお互いに関係するようになった場合、何かが失われるとしたら何が失われることになるのだろうか、という問いである。(p70)

われわれは、世界を把握したすいように動くわれわれの身体的傾向を越えて進化することを望まないであろう。というのも、そもそもこの傾向が、われわれの経験を安定的な対象の経験へと組織するように促すものだからである。世界の不確実さと不安定さに関する恒常的な感覚と、それを克服しようとする恒常的な動きなくしては、われわれはそもそも安定的な世界を持つことはないであろう。

 われわれはただ単に物事に対処する活動的な身体であるだけではない。身体を有したわれわれは、何らかの特殊な事物に対処しようとする構えの他に、事物一般に対処しようとするある恒常的な構えを経験している。メルロ=ポンティはこの身体化された構えを、現実世界に対する根源的憶見(Urdoxa)もしくは「原初的信念」と呼んでいる。それこそが、事物が直接現前しちえるという感覚を与えてくれるものなのである。それゆえにテレプレゼンスにおいて現前の感覚を持つためには、遠隔の事物を掴むことが可能でなければならないだけでなく、一定の文脈の理解をも持たなければならない。というのも文脈のこの理解こそが、やってくるものを何でも掴み取ろうとする恒常的な構えを促すものだからである。(p75-76)

この部分は日本語訳がちょっと分かり難かったので原文からも抜粋。

Moreover, we wouldn't want to evolve beyond the tendency of our bodies to move so as to get a grip on the world since this tendency is what leads us to organize our experience into the experience of stable objects in the first place. Without our constant sense of the uncertainty and instability of our world and our constant moving to overcome it, we would have no stable world at all.

 Not only is each of us an active body coping with things, but, as embodied, we each experience a constant readinessto cope with things in general that goes beyond our readiness to cope with any specific thing. Merleau-Ponty calls this embodied readiness our Urdoxa or 'primordial belief' in the reality of the world. It is what gives us our sense of the direct presense in telepresence, one would not only have to be able to get a grip on things at a distance; one would need to have a sense of the context as soliciting a constant readiness to get a grip on whatever comes along.([On the Internet]p56-57)

「良い大学」には教師と学ぶ者がいるが、「偉大な大学」には学ぶ者しかいないと言われてきた。もしそうなら、受動的な遠隔教育は学習と教育からリスクを取り除くことによって、学生と教師から最も重要なことを、つまり、学び方を学ぶということを奪ってしまうことになるだろう。(p78-79)

……われわれは、次のような結論を下さなくてはならない。すなわち、身体を欠いたサイバースペースの中では、専門的技能を獲得することはできないのである。遠隔学習の信奉者たちの主張に反して、実習は、家、病院、競技場、研究室、作業現場といった、共有された状況でのみ行われ得るものなのである。遠隔-実習とは一つの自己矛盾に他ならないのだ。(p90)

 われわれは今や、事物と人々に対するリアリティの感覚と、それらと有効に相互作用する能力が、バックグラウンドで暗黙のうちに機能する身体に依存していることを明らかにした。身体が事物を把握する能力は、われわれが行なったり、行なおうとしているもののリアリティの感覚を与えてくれる。こうして与えられたリアリティの感覚は逆に、物理的世界での危険に満ちた現実に対する力の感覚と、同時にまた、そうした現実による傷つきやすさの感覚の両方をわれわれに与えている。さらに、有意義なものに焦点を合わせ、そうして得られた理解を背景的知識のうちに保存しておく身体能力は、状況をますます緻密に知覚し、より一層巧みに状況に反応することを可能にしてくれる。また、雰囲気に対する身体の感受性は、われわれが共有する社会的状況を明らかにし、人々や事物の重要性をわれわれに理解させてくれる。そしてまた、身体は他者の身体との直接的な接触に好意的に反応する傾向をもっている。身体のこうした能力がわれわれの信頼感の根底をなし、この信頼感が、われわれの対人的な世界を支えているのである。

 身体は、以上のような能力すべてを軽々と、至るところで発揮しているので、身体のこうした機能が注意されることはほとんどない。サイバースペースの中では身体なしに済ますことができるのだという考えが容易に生じ、しかしまた実際にはそうすることが不可能なのは、まさにこのためなのである。(p94-95)

第四章 情報ハイウェイのニヒリズム。現代における匿名性とコミットメント

 『文学評論』の一部として一八四六年に書かれた「現代の批判」でキルケゴールが警告するところによると、彼の時代は無関心な反省と、身分と価値のあらゆる差異を水平化する好奇心によって特徴づけられている。彼の言葉で言えば、この傍観的な反省は、すべての質的な区別(distinctions)を水平化してしまうのである。あらゆるものは同等であり、そのために誰かが喜んで死ぬことができるほど重要な意味を持つものは何もない。ニーチェはこの近代的な状況に一つの名前を与えている。彼はそれをニヒリズムと呼んだのである。

 キルケゴールが考えるところによれば、この水平化の原因は、キルケゴールが公衆(the Public)と呼ぶものにある。彼が言うところによれば、「水平化が本当に成り立ちうるためには、まず最初に一つの幻影が、水平化の霊が、巨大な抽象物をつくりださなければならない。それは一切のものを包括するが、実際は無である何ものかであり、ひとつの蜃気楼なのである。- この幻影とは公衆である」。キルケゴールが主張するには、この公衆の背後にいる本当の黒幕新聞である。彼は次のように警告する。「ヨーロッパは新聞で行き詰まることになるだろう。そして人類は、結局のところ自らを駄目にするものを発明してしまったのだと悔やむことになるのである」。さらに付け加えて言うには、「私の人生がその他の点で無意味だったとしても、日刊紙が人々を堕落させるものであることを発見しただけでも私は満足だ」。

 しかし、他の候補、例えば、民主主義やテクノロジーや伝統喪失にではなく、むしろ公衆に水平化の原因がなすりつけられるのはなぜだろうか。なぜ偏執狂的に新聞を悪魔のようにみなすのだろうか。キルケゴールは自分が発行するジャーナルの中で「実際、キリスト教を不可能にするのは新聞、それも特に日刊紙である」と述べている。これは驚くべき主張である。キルケゴールが新聞を唯一の文化的、宗教的脅威とみなしていたことは明らかだが、その理由を説明するには少々遠回りをする必要がある。

 キルケゴールが一八四六年の著述の中で公衆と新聞を攻撃対象に選んだのは偶然ではない。彼がなぜそうしたのかを理解するためにはさらに一世紀遡る必要がある。『公共性の構造転換』でユルゲン・ハーバーマスは、彼が言う公共領域(public sphere)の成立を、十八世紀の半ばに位置づけた。ハーバーマスの説明によれば、その当時、新聞とコーヒーハウスは新たな形の政治討議のための場所となったのである。この討議領域は古代ポリスや共和国とは全く異なっている。つまり、近代の公共領域は自らを政治権力の外部にあるものとして理解していたのである。この政治-外的な身分は政治権力の欠如として単に否定的に定義されるものではなく、むしろ積極的に理解されるものである。公論は政治権力の行使ではないがゆえに、いかなる党派的精神からも護られている。啓蒙知識人たちは、政府と人間の生活を導くべき、合理的で公平な反省が制度化され、洗練される空間として、公共領域を理解していた。拘束を免れたそのような討議こそが、自由な社会の本質的な特徴だとみなされるようになったのである。新聞がますます一般市民の広範な読者層に公的な議論を提供するようになった結果、バークが讃えて言うように、「自由な国においては、あらゆる人が自分は公共的な事柄のすべてに関心を持っているのだと考えている」。

次の世紀を通じて、日刊紙の拡張のおかげで公共領域は次第に民主化されていったが、それは同時に驚くべき結果をもたらした。ハーバーマスに従えば、それは「[十九]世紀の中頃に『公論』の社会的な前提条件を変えてしまった」のである。「新聞の増殖によって公衆が拡大するに[つれて]、公論の領域は凡庸な多数者の領域として現れてきた」。J・S・ミルアレクシス・ド・ドッグヴィルを含む多くの人々は、「公論の専制」を恐れ、ミルは「〔公衆に〕順応しない人々を公衆による介入から」護ることが自分の使命であると感じていたのである。ハーバーマスによれば、トッグヴィルは「教育を受けた力のある市民がエリート公衆を形成し、その批判的な議論が公論を決定すべきである」と主張している。

 「現代の批判」はキルケゴールがいかに独創的であったかをよく示している。トッグヴィルとミルは、大衆にはエリートの哲学的なリーダーシップが必要なのだと主張する。また、ハーバーマスは彼らに同意して、日刊紙による公共領域の民主化に伴って一八五〇年頃に起こったことは、不幸にも順応主義への傾斜であり、そこから公共領域は救出されなければならないと考える。こうした考え方に対して、キルケゴールは公共領域を一つの新しく危険な文化現象として捉えるのである。この危険な文化現象の中で、新聞によってつくり出されるニヒリズムがさらけ出すのは、傍観的反省という根の深い誤りに他ならず、この誤りは啓蒙の理念に最初からつきまとっているものなのだ。ハーバーマスが公共領域の道徳的かつ政治的な価値を捉え直そうとするのに対して、キルケゴールは公共領域を救い出す方法はないと警告する。というのも、公共領域は何らかのコミットメントを持った具体的なグループとは異なり、そもそも最初から水平化の源泉だからである。

 この水平化は、いくつかの仕方で生み出される。第一に、情報を状況から引き出して大量に配布することによって、誰にとっても即座に利用可能なあらゆる種類の情報がつくり出され、従ってまた、状況から引き抜かれた傍観的な観察者が産出されることになる。情報を国中のあらゆる人にまき散らす新聞の新たな力によって、読者たちは、自分たちに直接関係しないことには口を閉ざす内向的傾向を克服し、地域的、個人的な関わりへの限定を乗り越えるように促されるのである。バークが嬉々として書き溜めたように、新聞は誰もがあらゆるものに対して意見を言うように勇気づけてくれる。これはハーバーマスによって民主化の勝利とみなされたことである。しかし、キルケゴールは見るところでは、公共領域は傍観的な世界になることを運命づけられている。そこでは、誰もが公共的な事柄に意見を持ち論評するのだが、いかなる直接的な経験も必要とはされないし、またいかなる責任も求められないのである。

 新聞とその退廃的な末裔であるトーク・ショーは十分害悪であるが、しかしそれらがいかにわれわれを堕落させるかにキルケゴールの主要な関心が向けられていたわけではない。キルケゴールにとってもっと深い危険とは、まさにハーバーマスが公共領域について讃えること、つまり、キルケゴールが言うように「公衆は……個性の相対性と具体性をすべて食い尽くす」ということなのである。かくして公共領域は自分を局地的な実践から引き抜いて思案する、遍在するコメンテーターたちを育成することになる。この局地的な実践からこそ特殊な問題が生い立ち、その観点からこそ、何らかの種類のコミットメントを持った行為によって問題が解決されなければならないのにも関わらずである。それゆえに、傍観的な啓蒙理性にとって美徳と思われるものが、キルケゴールにとっては不徳なのである。どんなに良心的なコメンテーターも、直接の経験を持つ必要はないし、いかなる具体的な立場をとる必要もない。むしろ彼らは、キルケゴールが嘆いて言うように、原理を引き合いに出すことで彼らの見解を正当化するのである。そうした抽象的な推論が導き出す結論は、局地的な実践に基づいたものではないので、その結論から出てくる提案は、関わり合っている人々のコミットメントを得ることもないだろうし、たとえ法律として制定されたとしてもうまく機能しないであろう。キルケゴールは「現代の批判」で次のように言う。

公衆は一つの国の国民でも、一つの世界でも、一つの同時代でも、一つの共同体でも、一つの社会でも、この特定の人々でもない。というのも、これらはすべて具体的なものとしてのみ、その本来の姿で在るからである。まったく、公衆に属する人はだれ一人、それらのものと本当の関わりをもってはいない。

 そもそもキルケゴールにとっては、公共領域が政治権力の外部にあるということは、人が自らの意見に従う必要なしに何かについて意見を持つことができるということを意味している。「[公衆の]ずるがしこさ、その良識、巧さは、決して行為することなく判定や決定を下したりするということにある」。このことは、無限の反省の可能性を切り開くことになる。というのも、もし決断と行為が必要なければ、人は物事をあらゆる側面から見ることができるし、また常に何らかの新たなパースペクティブを発見することができるからである。それゆえに、情報の蓄積は際限なく決断を延期させることになる。というのもわれわれが何かを見いだすたびに、世界に関するイメージと、なすべきことのイメージが、改訂の必要に迫られることになるかもしれないからである。キルケゴールは、もしあらゆるものが批判的な論評に無限にさらされているとすれば、行動は常に延期されうると考えていた。「反省は、いかなる瞬間にも、物事に新たな光を投げかけ、何らかの逃避手段を与えることができる」。かくして、われわれはいつまでたっても何もしなくていいのである。

 われわれの時代のような反省的な時代は、ただひたすら知識をつくり出す。キルケゴールが言うように「一般的にいって、情熱を欠いた反省的な時代は、情熱的な時代と比較して、拡がりを獲得する代わりに、その強度を失う、と言うことができる」。彼は付け足して言う。「どの道をいくべきか、どんな道があるか、われわれはみんな知っている。だが、だれひとり行こうとはしないのだ」。公衆が抱いている見解の後ろには誰も控えておらず、従って、誰も行動しようとはしない。キルケゴールは自分のジャーナルの中で次のように書いている。「ここにはこの上なく恐ろしい災厄が二つあり、それは実際、非人間性をもたらす原動力となっている - すなわち、新聞と匿名性である」。そこで、キルケゴールが新聞のために提示するモットーは次のようなものとなる。「新聞によって、人は可能な限り最も短い時間で、可能な限り大規模に、可能な限り安い値段で、堕落するのである」。

 キルケゴールは「現代の批判」の中で、新聞、公共領域、そして自分の時代に進行している水平化の間の関係についての考えを簡潔に示している。彼が考えるところによれば、脱状況化された匿名の新聞と、反省的時代における情熱もしくはコミットメントの欠如が結託して、公衆とニヒリズム的な水平化の時代とをつくり出しているのである。

新聞という抽象物は(というのは新聞とかジャーナルとかいうものは、民意の具体的なあらわれではなく、ただ抽象的な意味においてのみ、一個の存在なのだから)、時代の情熱喪失症および反省症と結託して、あの抽象物の幻影を、水平化の張本人である公衆を、生み出すのである。

 インターネットは、世界中からある集められた匿名情報満載のウェブサイトと、どんなトピックについても無限に何の結論も出すことなく討議できる関心グループから成っている。この関心グループには、世界中の誰もが資格審査なしで加わることが可能である。もしキルケゴールがこうしたインターネットを目の当たりにしたならば、それを、新聞及びコーヒーハウスの最も悪い箇所をハイテクでくっつけたものとみなしたことだろう。実際、インターネットのおかげでバークの夢が実現したのである。ニュースグループによって、誰もがどこでもいつでも、あらゆる事に対して意見を持つことができる。どこでもない場所から掲示板に意見を書き込む匿名の素人の、一様に根無し草的な意見に対して、自分のコメントを書き込むことに誰もがやっきになっているのである。このようなコメンテーターたちは自分たちが話している問題にいかなる立場もとらない。実際、ネットの遍在性は、そうした局地的な立場をどうでもいいものに思わせるのである。

 キルケゴールがコミットメントを欠いた新聞による無差別報道の帰結とみなしたものは、今やワールド・ワイド・ウェブによって完全に実現されている。実際、ハイパーリンクのおかげで、意味のある差異は水平化されてしまった。関係性と有意義性は消えてしまったのである。(p98-105)

 キルケゴールに従うのならば、人がコミットメントの水平化を阻止することができるのは、個人にアイデンティティが与えられて、個人の世界が開かれることによってのみである。コミットメントを、自由に登録可能で、常に取り消し可能なものとして捉える倫理的な見方は、幸運なことに、われわれの最も重要なコミットメントには当てはまらないように思われる。この特別なコミットメントは、われわれの存在自体を捕まえるものとして経験される。政治的・宗教的な運動は、こうした仕方でわれわれを捕まえることができるし、愛する者同士の関係もそうである。特定の人々にとっては「天職〔召命〕」としての科学や芸術もまたそうだろう。われわれがそうした呼び出し(summon)に、キルケゴールが無限な情熱と呼ぶものでもって答えるならば - つまり、無条件のコミットメントを受け入れることによって答えるならば - このコミットメントは、われわれの残りの人生にとって何が重要な問題となるかを決定することになる。それゆえこのような無条件のコミットメントは、私の人生における重要なものと些末なもの、関連するものと関連しないもの、真剣なものと遊び半分なものとの間に質的な区別を確立することによって、水平化を阻むのである。そうした取り消し不可能なコミットメントを生きることによって、人は、キルケゴールが言うキリスト教的/宗教的実存領域の中に投げ入れられることになるのである。

 もちろん、そうしたコミットメントは人を傷つけやすくする。理想は挫折するかもしれない。愛する人は去ってしまうかもしれない。現代における傍観者的な反省、美的領域における過度の柔軟さ、倫理的領域における束縛のない自由、これらはまさしく、傷つきやすさを避ける方法だったのである。しかし、キルケゴールが主張するところによれば、これらはまさに傷つきやすさを避けることによってすべての質的な区別を水平化してしまい、最後には無意味さという絶望をもたらすことになるのである。リスクを負った無条件のコミットメントとそうしたコミットメントがつくり出す強固なアイデンティティのみが、独特な質的区別によって作り上げられる世界を個人に与えることができるのである。(p114-115)

 キルケゴールはきっと、インターネットが、ちょうど公共領域や新聞がそうであったように、無条件のコミットメントを禁止はしないものの、結局はそれを掘り崩すことになるという意見に賛成するだろう。シュミレーター一般がそうであるように、ネットはあらゆるものを捉えることができるが、しかしリスクだけは捉えることができない。(p116)

 人が無条件のコミットメントを獲得したか否かをテストできるのは、人がネット上で学んだことを現実世界に移す情熱と勇気を持っている場合だけだろう。その時人は、キルケゴールが「危険と、人生の厳格な判決」と呼ぶものの前に立たされることになる。しかしキルケゴールの時代における新聞の魅力と同様、ネットの魅力はこの最後の飛び込みを阻止することにあるのである。それゆえに、ネットを使用することによって、現実世界におけるアイデンティティを危険にさらされた者は、最初に彼もしくは彼女をネットへと魅了したものの利点に逆らって行動する必要があるだろう。(p117)

結論

 ラインゴールドは、サイバーコミュニティが民主主義を改良しうるという〔初版での〕彼の確信を弁護しようとする。彼が言うには、「多対多の討議が市民たちのより良いコミュニケーションを可能にし、民主主義の安定に寄与しうるという私の主張に対する批判はこの本に対する最も重要な批判である」。彼は続けて、初版での彼の主張を〔改めて〕展開する。すなわち、ネットは「公共領域に新たな活力を与えるのに役立つ」のであり、「市民によって設計され、市民によって制御された、世界的なコミュニケーション・ネットワークという理想は、科学技術を利用してユートピアを実現するという理念の一つの形であり、『電子のアゴラ』の理想とでも呼ぶことのできるものなのである。」彼の説明によれば、「最初の民主社会であったアテネでは、アゴラは市場であり、またそれ以上のものであった。それは市民たちが集まって話し合い、おしゃべりをし、討議し、お互いを評定し、政治的な見解について議論し合い、相手の議論の弱い点を指摘する場所だったのである」。

 しかし世界的な電子のアゴラという理想は、キルケゴール主義者が重要だと考える点を見逃してしまっている。電子のアゴラという理想が見逃しているのは次の〔二〕点である。アテネのアゴラでは、直接民主主義の構成員が話し合っていたのであり、話し合いの主体は、議論されている問題によって直接影響を受ける人々であったのだということ。そしてまた、彼らにとって討議するということは、議論されている問題に関して、公衆の面前で投票するリスクと責任を負うことなのだという最も重要な点。〔それゆえに〕キルケゴールにとっては、世界的な電子のアゴラとは自己矛盾なのである。公共領域はまさにアテネのアゴラの反対物なのであり、そこには、何のリスクも負わない匿名の電子のおせっかい屋が世界中からやってきて、無責任に自分の意見を表明したり防御したりするのである。根無し草的な公共領域を拡張する電子のアゴラは、現実の政治的共同体への重大な危険に他ならない。キルケゴールのおかげでわれわれは、ラインゴールドの「電子のアゴラ」がユートピア的過ぎることに問題があるわけではないことを理解することができる。それはそもそもいかなるアゴラでもなく、匿名でどこにも存在しない人々のための、どこにも存在しない場所なのである。そうしたものとして、それは危険なまでに非場所的(distopian)なのである。(p136-138)

メモ


この本をネタに、身体的メディアとしての携帯電話コンテンツとして、日本の携帯電話事情を考えてみた。そうすると、ドレイファスの指摘と噛み合わない部分がかなりあるように思えた。ドレイファスのインターネット批判は、現実世界を「リアル」な世界、そしてインターネットを「バーチャル」な世界とはっきりと区別した場合には有用かもしれないが、そういった区別をせずに、現実世界もインターネットも同じ世界であると仮定した場合は、その意味を失ってしまう。昨今話題になっているユビキタスは、現実の世界とインターネットの世界を分けて考えずに、インターネットを現実の世界に埋め込むことを目的としている。ユビキタスを最初に提唱した米国ゼロックス社パロ・アルト研究所Mark Weiserは、自身のホームページ上で、ユビキタスについて次のように語っている。

It is invisible, everywhere computing that does not live on a personal device of any sort, but is in the woodwork everywhere.

このように、ユビキタス社会では、現実世界とインターネットの領域が限りなく曖昧になっていくものと考えられる。

例えば、日本では携帯電話の普及率が高く、またi-modeに代表されるコンテンツを伴ったデータ通信が普及している。これまで、一般ユーザーがインターネットを利用するには、パソコンを利用せざるをえなかったため、利用者に対する敷居が高く、操作も難しいのが実情だった。パソコンを利用したインターネットでは、ドレイファスのインターネット批判に見られるように身体性を欠き、またインターネットと利用者の間には物理的、精神的に距離があり、サービスとして利用し易いものではなかった。

例えば、e-mailを送信するだけでもパソコンでは様々な作業が必要となる。パソコンを利用する場合には、まず電源を入れ、Windowsを立ち上げ、e-mailのソフトを起動した後で、やっとe-mailを書く作業に入ることができる。携帯電話ではこのような煩雑な作業は必要なく、携帯電話の電源さえ入っていれば、好きなときに好きなだけe-mailを書くことができ、受信する場合も、着信音やバイブレーションによって即座にそれを利用者に知らせることができる。

より現実の生活の中に溶け込んできた携帯電話は、リアルとバーチャルの壁を取り払ったユビキタスの概念により近いメディアと考えることができるかもしれない。インターネットの利用に煩雑性が無くなったため、携帯電話におけるインターネットの利用はより利用者に近づいたのだとも言える。ドレイファスはインターネットを「身体性の欠如」と批判したが、ユビキタス化しつつある携帯電話の利用方法は、インターネットをより利用者に近づけ、逆に身体性を補完するものとして機能するようになる可能性がある。

単なる情報メディアから身体的メディアへの変革が携帯電話の利用方法の変化における今後の趨勢なのだとしたら、携帯電話で普及し利用されるようになるであろうコンテンツも、そういったニーズに応えるものになっていくものと考えられる。携帯電話を用いたEコマースに利用者がいるのは、パソコンでのEコマースと違い、その購買手段である携帯電話がより自分に近いところにあるからなのだろう。また、その近接性が購買意欲を刺激するものであるのならば、それを利用した様々なサービスの可能性が携帯電話コンテンツには秘められているのかもしれない。

しかし、ドレイファスがインターネットには「文脈(context)」が欠けている、と指摘した部分については、携帯電話においても変わらぬ問題として残ることになるのだろう。ただ、それが果して身体性と関係のあるものなのかはよくわからない。