2006-06-11
■[Book Report]教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化
- 作者: 竹内洋
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2003/07
- メディア: 新書
- 購入: 16人 クリック: 233回
- この商品を含むブログ (127件) を見る
内容の濃い本。これが新書であることが信じられないほどに内容が充実しており、日本におけるこれまでの教養主義の変遷がまとめられている。以前の日本の大学には、「読まなければならない本、というものがあった……」。何故、それらの本が読まれなければならなかったのか。その疑問に対する、解答の一つがここにある。
序章 教養主義が輝いたとき
筆者は学生時代の頃を回想しながら、本を読むことが至極当然のことであった当時の雰囲気を描き出している。夏目漱石の『こころ』の主人公のように本を抱えて田舎で読書をするというのが、筆者の夏休みの過ごし方だった。
……閑静な田舎で、読書を含めてゆっくりと過ごすことができたことは、なんとも贅沢な時間と経験だった。いまにしてあらためておもう。こうした都会を離れる大学生の夏休みの「正しい」過ごし方が消えたのは、なんといってもクーラーの登場が大きい。多くのすぐれた書物を読むという夏休みの過ごし方が消えたのは大学生の世界から教養主義が消滅したことによるだろう。
そうはいっても、ダンスや異性遊びが得意な「軟派」型や公務員試験などのために受験勉強をもっぱらにする「実利」型、運動部の学生のような「硬派」型の学生下位文化もあった。それでもタテマエとしては学生文化のなかで教養主義(マルクス主義的教養主義・教養主義的マルクス主義)が支配的地位を占めていた。わたしのようなプチ教養主義者がキャンパスで浮くことはなかった。(p10-11)
この本全体を通して筆者は、例え教養主義全盛期であった大正から昭和初期頃であっても、教養主義が大学全体を席巻するような事態は発生しなかった、ということを強調している。確かに相対的に見て、昭和初期の方が現在よりも圧倒的に大学内に「教養主義者」は多かったが、それが大学内でマジョリティになるようなことはなかった。ただ、大学内部において存在感をアピールできる程度の数は充分にいた、ということである。それは筆者が参考データとして参照している総合雑誌の読書率を見ても明らかである(p15-17)。「……総合雑誌を読む学生は、学生の過半数を超えてはいなかった。せいぜいが三割程度のものであった」(p18)。そして、この総合雑誌が教養主義者から成る教養共同体(p19)を形成していった。ここで筆者が「知識人の公共圏」(p19)という言葉を用いているのが興味深い。
しかし筆者は、この本が分析対象とする「教養主義」が一種の見栄であったことを否定していない(p24)。そればかりか、教養のための教養というよりも、見栄のための教養であったとも述べている。「大半のプチ教養主義者は、散漫な知識を寄せ集めるニーチェのいう教養俗物(『反時代的考察』)のようなものであったことは否めない」(p24)。
教養知は友人に差をつけるファッションだった。なんといっても学のあるほうが、女子大生にもてた。また女子大生も教養のあるほうが魅力的だった。また教養崇拝は、学歴エリートという「成り上がり」(マックス・ウェーバー)が「教養」というメッキによって「インテリ」や「知識人」という身分文化を獲得する手段であったことも否めない。
こういう不純な動機を意識させなかったことは、教養主義がキャンパスの規範文化だったからであろう。しかし、不純な動機だけだったというわけではない。教養を積むことによって人格の形成を望んだり、知識によって社会から悲惨や不幸をなくしたいと思ったことも間違いのないところなのである。読書をつうじた人格形成主義や社会改良主義という意味での教養主義は、なぜかくも学生を魅了したのだろうか。そして、なぜ、教養からオーラが、教養主義から魅力が喪失してしまったのだろうか。いまとなっては謎となった。(p25)
上記の疑念を土台に、この後著者は教養主義を論じていく。この本では、教養主義とは何であったかが解き明かされていく。議論を先どりしてしまうと、仮に今後(というか今現在において)教養主義的なものの考え方を復興させるのだとすれば、恐らく今度は教養とは何か、というより根源的な問いを立てる必要があるのだろう。この後明らかになっていくように、教養主義(特に第2次大戦後以降からのそれ)は教養を得るために必要とされていたわけでは必ずしもなかった。今必要とされているのは、恐らく教養主義的ではない教養なのだろう(それって一体何なんだ、と思わず自問してしまうけど……)。
1章 エリート学生文化のうねり
筆者は(阿部次郎や和辻哲郎に代表される)大正期における教養主義を「哲学・歴史・人文学を中心にした人格の完成を目指す態度」(p40)と定義しているが、次第に教養主義はマルクス主義と密接な関係を持つようになった。大学内でマルクス主義がひろがりを見せることで、「社会主義は壮士あがりのならず者やごろつき集団まがいの矯激な運動あるいは在野知識人の運動ではなく、知的青年の社会思想や社会運動に格上げされた」(p41)。日本の教養主義の不幸は、出会った相手がマルクス主義であったことにあるのかもしれない。
大正時代の終わりには、もっとも頭のよい学生は「社会科学」つまりマルクス主義を、二番目の連中が「哲学宗教」を研究し、三番目のものが「文学」に走り、最下位に属するものが「反動学生」といわれた。昭和初期には、ジャーナリズム市場はマルクス主義者によって独占されているとか、左翼化すればするほど雑誌が売れるといわれるようになる。新聞の見出しにも「左傾」「赤化」「赤い手」「極左分子」「赤い分子」「赤色」「赤い女性」などの活字が踊った。マルクス主義本を読んで理解しない学生は「馬鹿」であり、読んで実践しない学生は「意気地なし」となる。(p44)
昭和初期当時、教養主義がマルクス主義と結びついた理由を著者は以下のように分析している。
マルクス主義が知的青年を魅了したのは、明治以来、日本の知識人がドイツの学問を崇拝してきたことが背景にあった。しかしそれだけではない。マルクス主義は、ドイツの哲学とフランスの政治思想、イギリスの経済学を統合した社会科学だといわれた。合理主義と実証主義を止揚した最新科学とみなされた。したがって、マルクス主義は、教養主義にコミットメントした高校生に受容されやすかった。受容されやすかったというよりも、マルクス主義は教養主義の上級編とみられさえしたのである。(p50)
教養主義の根っこにある人格主義も左傾化と連続している。左傾化した学生が嫌い、対抗同一化の対象にした学生は、酒を呑んだり、遊んだりするだけの享楽型である。あるいは、授業を機械的に暗記して成績をよくし、よい就職をしたいという体制同調型や実利型の学生である。左傾学生はマルクス主義に「個性の発展」と「人間的成長」の路を見出したのだから、マルクス主義は倫理的ストイシズムであり、教養主義の核をなしている人格主義と連続していた。したがって、教養主義の内面化の強いものほど左傾化しやすかったのである。(p52)
教養主義とマルクス主義の不幸な結合を助長させたのは、しかし、他ならぬ大正期における教養主義の思想であった。それは、阿部次郎の「独創を誇るは多くの場合に於いて最も悪き意味に於ける無学者の一人よがりである。」『三太郎の日記』(p53)や、和辻哲郎の「世界には百度読み返しても読み足りないほどの傑作がある。そういう物の前にひざまづくことを覚えたまえ。」『教養』(p54)といった言葉にも明瞭に表れている。教養主義は独創的であってはならなかった。そのことを著者は以下のようにまとめている。
教養主義とは、万巻の書物を前にして教養を詰め込む預金的な志向・態度である。したがって、教養主義を内面化し、継承戦略をとればとるほど、より学識をつんだ者から行使される教養は、劣位感や未達成感、つまり跪拝をもたらす象徴的暴力として作用する。(p54-55)
マルクス主義はこの象徴的暴力を行使する教養主義に対抗する手段としての地位を確立していくことになる。
マルクス主義へのコミットメントはこうした教養主義的空間における罠やしこりを一挙に解除した。マルクス主義を象徴的武器に、教養主義を観想的であり、ブルジョア的であり、プロレタリア革命の敵対的分子であると決めつけ、象徴的暴力関係の逆転をもたらしてくれるものだった。マルクス主義は十分な学識という「貯金」を貯めこまずに象徴的暴力を振るえるという意味では教養主義の荒技ともいうべきものだった。
マルクス主義は教養主義を蔑む理論的砦ともなったから、教養主義の鬼子だった。しかしマルクス主義が読書人的教養主義的であるかぎり、教養主義空間内部での反目抗争であるから、両者は反目=共依存関係にあった。だからこそ従来の教育は「旧い教養」で、マルクス主義こそ「新しい教養」ともみなされたのである。(p55)
このマルクス主義と教養主義の共存は、第二次大戦後も続くこととなる。
3章 帝大文学士とノルマリアン
教養主義は「歴史、哲学、文学などの人文系の書籍の読書を中心とした人格主義」(p86)で、大正時代においてその中心は旧制高校であったが、その「奥の院」(p86)とでもいうべき場所が帝国大学文学部だった。「旧制高校で教養主義に深く傾倒したものほど、法学部や工学部などに進学しないで、文学部に進学した」(p87)。当時の4年制大学全体の中で文学部の占める割合は10%程に過ぎず、このことが逆に教養主義の「奥の院」としての機能を実現させていた(p89)。しかしながら、文学部の就職率が良かったわけではなかった(p91-94)。そのような状況下にあって、文学部の学生に残された進路は、中学校をはじめとする学校教師(p95)であった。
フランスやドイツ、イギリスなどでは、人文教育を受けた者がエリート中等教育学校であるリセ(フランス)、ギムナジウム(ドイツ)、パブリック・スクール(イギリス)の教師になり、教養と教養信仰を再生産したが、日本の教養主義も文学部卒業生が旧制中学校や高等女学校、旧制高校の教師になることによって伝達された。旧制中学校や女学校などの教師は、高等師範学校や師範学校、私立大学、専門学校出身の教師が多かったが、旧制高等学校になると、教師の半数以上は帝国大学出身の文学士だった。文学部卒の教師によって感化された学生が旧制高校や文学部に進学し、その後教職について、教養主義を再生産するという循環も成り立っていた。(p96)
著者は文学部がどのような階層の学生によって占められていたかを分析する。この部分がこの本の最重要ポイント。1938年当時、帝国大学生全体に占める農村出身者は5人に1人で、ほとんどは都市部出身者だった(p109)。その状況下にあって、「理学部が新中間層的で都市出身者的な学部であるときに、文学部は相対的にもっとも農村的な学部」(p110)だった。
農業出身者や地方出身者、相対的な貧困層にとって教養主義の伝道である文学部は敷居の高い学部ではなく、むしろ親和的な学部だった……。(p110-111)
経済学部との比較が興味深い。
帝国大学調査から、日本の教養貴族の生産工場である帝国大学文学部は帝大の他学部に比べて「農村的」で「貧困」で「スポーツ嫌い」、「不健康」という特徴が抽出された。(p117)
ここが、他の西欧における教養主義と日本における教養主義の大きな違いである。パリのノルマリアンについての例が挙げられているが、ここで興味深いのは、フランスでは貧困層出身者にとって習得し易かったのは文系ではなく理系の学問だった、ということ。「文系ノルマリアンには、古典語の習熟が不可欠であるため、幼少時から洗練された言語能力を身につけていることが必要」(p123)だった。実は日本においても同様の現象は存在しており、現在もその状況は変わっていない(というかむしろ顕在化してしまっている)のだが、あまりそれが公で語られることはないのは、恐らく日教組の存在が大きいからなのだろう。日本における言語資本や文化資本の変遷についても考える必要があると思われる。都市出身者の農村出身者に対するまなざしを体現する人物として、筆者は石原慎太郎を挙げている。(⇒詳しくは2章を参照)
都市ブルジョア文化の中に育った石原にとって、知識人文化である教養主義の奥底にある刻苦勉励的心性は相容れない。にもかかわらず教養主義は学問とか知識という象徴的暴力として威迫してくる。しかし、日本の教養主義は必ずしもピエール・ブルデューがフランス社会を照準にして描くブルジョア階級の教養=ハイカルチャーの象徴的暴力ではない。教養主義はハイカルチャーの模造や紛い物。これこそが石原の教養主義に対する生理的嫌悪の背後にある心理と論理ではなかったろうか。(p127)
…… 石原慎太郎は、都市ブルジョア階級というみずからの来歴から、日本型教養がブルジョア文化と不連続であるがゆえの貧しさを暴いたといえる。(p129)
4章 岩波書店という文化装置
岩波書店が日本の教養主義に及ぼした影響は大きい。岩波書店こそが、日本の教養主義を形作ったと言っても過言ではないかもしれない。
一九二七年(昭和二)年には、ドイツのレクラム文庫に範をとった岩波文庫が創刊される。レクラム文庫は、叢書というパッケージで教養ある人間の必読書目録を提供したが、レクラム文庫をモデルにした岩波文庫も、万人が読むべき古典の指針となった。この年、岩波書店の新刊が三桁の一四八点となる。イギリスのペリカン・ブックスをモデルにした岩波新書が刊行されたのが、一九三八年である。岩波書店は教養主義の文化エージェントとして確立した。(p141-142)
岩波文化について、戸坂潤の「現代に於ける『漱石文化』」の言葉を引用しつつ以下のように説明する。
戸坂はつぎのようにいう。漱石は天才ではなく、秀才である。秀才文化が教養である。秀才文化は、既存文化の享受者か、せいぜいが批判的享受である。破壊的・再構成的ではない。したがって漱石=岩波文化は、「既存文化の高水準」として尊重される。そういう意味で、漱石=岩波文化こそは教養主義文化である。戸坂は、さらにこう続ける。岩波書店の出版活動は、大きくみれば、反動的ではなく進歩的である。しかし、岩波書店の活動について進歩的か、反動的かという軸でみてはその特徴はつかめない。
「岩波出版物のねらっている点は(中略)それ(進歩的か反動的か - 竹内註)より先に、文化一般という抽象物についてその水準が如何に高いか、ということにあるのだ。
岩波書店がマルクス主義にぞくする名著を出版するとすれば、それはマルクス主義思想の真実という資格を買ったのではなくて、その文化財としての価値を買うからに過ぎぬ。如何に愚劣な思想内容のものでも、文化的な威容さえ持てば(例えば学殖・学界常識・既成文化圏内の文化的好み・文化的テクニックの発達等)一つの文化財として尊重される。 - かくて岩波臭という一つの好みが、芸術や哲学や社会科学や自然科学の内にさえ発生しているわけなのである」(p150-151)
文化の生産者を対象とし、公衆と公共圏を創出する純粋文化界は、正統的正統化の市場であるのに対し、文化の消費者を対象とし、既存の公衆と公共圏によって創られるマス文化界は大衆的正当化の市場であるが、岩波文化はその中間領域にポジショニングをすることによって民間アカデミズムの地位を獲得した、(p159)
この岩波文化が逆に西洋偏重主義を生み出し、翻訳文化が学問の中心になってしまったのは、ある意味において日本の学問の不幸でもあったと思う。途中で方向転換が上手く出来ていれば良かったのだけど、現在に至るも未だに日本独自の学が見出せない状況が続いている。日本人は日本が嫌いなのかな、と時々思ったりもする。
5章 文化戦略と覇権
近代日本の知識人文化である教養主義は「どろ臭い」「生まれ故郷」や「しんき臭い父母や縁者」を後背地とし、そこからの距離によって芳香を放った。(p171)
教養主義は西洋文化の崇拝を核にしたからバタ臭くあったが、修養主義と同じく勤勉を底礎にした鍛錬主義だった。したがって、教養主義は、必ずしも成熟した都市中流階級のハイカラ文化とはいえなかった。むしろ田舎式ハイカラ文化とでもいうべきものだった。(p172)
地方人の東京での文化衝撃は、なにも明治時代だけのことではなかった。昭和戦前期はいうまでもなく、一九六〇年代前半までは、地方人が上京したときには、都会の建物や人ごみの多さに「驚く」だけではなかった。都会人の言葉づかい、服装、知識、通ぶり、機知、洗練さという「趣味の柔らかい権力」に晒され、「ひけめ」を感じ、わが身を振り返り自信を失うのが常だった。
したがって、こうした時代の農村の若者にとって、高等教育に進学して、「インテリ」になるというのは、単に高級な学問や知識の持ち主になるということだけではない。垢抜けた洋風生活人に成りあがるというでもあった。インテリといわれる人の家には難しそうな本や雑誌とともに、洋間があり、蓄音機とクラシック・レコードがあった。紅茶を嗜み、パンを食べる生活があった。知識人の言説は、こうしたかれらのハイカラな洋風生活様式とセットになって説得力をもった。知識人が繰り出す教養も進歩的思想も民主主義も知識や思想や主義そのものとしてよりも、知識人のハイカラな生活の連想のなかで憧れと説得力をもったのである。経済的に貧しく、文化的に貧困な農村を「地」にして図柄である教養知が「自由で美しいコスモポリタンの世界」として輝いた。(p174)
近代日本の教養主義は、西欧文化の取得である。日本人にとって西欧文化は伝統的身分文化ではないから、階層や地域文化と切断した学校的教養そのものだった。どのような階級からも遠い文化である、どのような階級からも遠いということは、障壁は階級間で平等だったということになる。このような学校でしか学ばれない文化・教養は、ピエール・ブルデューとモニック・サンマルタンの文化に対する関係についての作図(図3-2)でいえば、中央部の「繊細」や「優雅」よりも周囲の「ガリ勉」や「衒学的」に近くなりやすいが、それだけに接近と習得は容易である。(p187)
図3-2はp125を参照。
マルキストたちの「プチ」ブルジョアへの憎悪は、みずからの世俗的上昇志向の克服を含めて社会変革への動機としてしばしば語られた。しかしそれは、地方出身インテリの、成熟した都市ブルジョア文化に対する「価値の転倒」(マックス・シェーラー「道徳形成におけるルサンチマン」)のイデオロギーともなった。ブルジョアや華族の子弟の、存在そのものの罪障感をもとにした左傾化や赤化と連動して、教養主義青年をとらえることになった。学歴エリートのマルクス主義へのコミットメントは、もう一つの西洋文化というオブラートで農村や貧困の文化を包みこんだ。さらにいえば、マルクス主義は、生活者への負い目の意識を醸成し、理論的学習よりも実践を重視することで、文化の卓越的差異化ゲームを超越/無化してしまう契機を内蔵さえしていた。 (p196-197)
教養主義はそして、安保闘争を境にして終焉を迎えることになる。
終章 アンティ・クライマックス
教養主義の終焉は、大学人口の急激な増加が始まる1960年代の時期と丁度重なる。著者はマーチン・トロウの進学率が該当年齢人口の15%までがエリート段階で、それ以上になるとマス段階になるという説を挙げ、それが1960年代に起こったと述べている(p206)。マス段階に入った大学生はもはやエリートでも特権階級でもなくなり、就職先も出身学部と全く連動しない、「ただのサラリーマン化」(p206)が進行した。「ただのサラリーマン予備軍には専門知や教養知を必要としないのである」(p208)。
教養主義がその機能を果さなくなったのにもかかわらず、1960年代に学生運動が広まったことに著者は疑問を呈している。
なぜ不思議かというと、紛争の担い手だった大学生は「学問とはなにか」「学者や知識人の責任とはなにか」と激しく問うた。しかしさきほどみたように、大学進学率は同年齢の二〇パーセントを超え、三〇パーセントに近づこうとしていた。大学生の地位も大幅に低下していたし、卒業後の進路はそれまでの幹部社員や知的専門職ではなく、ただのサラリーマン予備軍になりはじめていた。そんな大学生が、知識人とはなにか、学問する者の使命と責任をとことんつきつめようとしたところが腑に落ちないのである。(p208)
この問いに対する著者自身の見解は、教養主義の衰退という見地から学生運動を眺めたものとして示唆に富む。
かれらのただのサラリーマンという人生航路からみると、教養など無用の文化である。教養はもはや身分文化ではない。かれらはこういいたかったのではないか。「おれたちは学歴エリート文化など無縁のただのサラリーマンになるのに、大学教授たちよ、おまえらは講壇でのうのうと特権的な言説(教養主義的なマルクス主義・マルクス主義的教養主義)をたれている」、と。かれらは、理念としての知識人や学問を徹底して問うたが、あの執拗ともいえる徹底さは、かれらのこうした不安と怨恨抜きには理解しがたい。だから運動の極点はいつも教養エリートである大学教授を団交にひっぱりこみ、無理難題を迫り、醜態を晒させることにあった。(p210-211)
このような状況下で、学生が吉本隆明に共感を感じたのは必然的であった(p211)。教養主義はその差異化機能を失った(p214)。そして、大学はひたすらレジャーランド化する道を突き進むこととなる。
しかし、教養主義の崩壊の一番の原因は、それを担っていた農村出身者が激減したことにある(p218-219)。
寂しいときに望郷歌を口ずさむ出稼ぎ型都市人のキャラクターが過去のものとなり、農村的エートスが払拭され、都市型社会への変化がおきる。この変化は教養主義の根っこにあった文化的無意識である刻苦勉励的エートスの崩壊でもある。同時にインテリの教養主義と形影相伴った庶民の修養主義もインフラが崩壊したことになる。日本と西洋の文化格差も消滅する。(p219)
1960年代を境に、大学生の書籍購入量は減少の道を辿ることとなる(p222-228)。教養エリートを攻撃した吉本隆明を、今度はビートたけしが攻撃する、という構図はこの本の中でも印象的な場面の一つ(p229-231)。著者は学生に「昔の学生はなぜそんなに難しい本を読まなければならないと思ったのか?それに、読書で人格形成するという考え方がわかりづらい」(p237)という質問を受けて、教養主義の終焉を身近に感じたという。
教養とは何だろうか。読書の復興、知の復興を必要とするならば、避けて通ることの出来ない問題であることは確かだ。適応・超越・自省(p240)としての教養の意味を、今一度考え直す必要がある。日本に必要とされているのは、擬制としてのnoblesse obligeなのだとも思う。
- http://d.hatena.ne.jp/inflorescencia/20060616
- http://d.hatena.ne.jp/ced/20060626
- http://d.hatena.ne.jp/ced/20060728
- http://d.hatena.ne.jp/ced/20060917
- http://d.hatena.ne.jp/ced/20070101
- http://d.hatena.ne.jp/ced/20070102
- http://d.hatena.ne.jp/ced/20070103
- 国立に通う経済学部生が、夏休み限定で本気出すブログ - 大学での ...
- 小海キリスト教会牧師所感 - 神学生になる前に
- 233 http://search.yahoo.co.jp/search?p=教養主義の没落&tid=top_v2&search_x=1&ei=UTF-8&pstart=1&fr=top_v2&b=11
- 131 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=教養主義の衰退&lr=
- 103 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLD,GGLD:2005-18,GGLD:ja&q=データ 脆弱性
- 96 http://www.google.co.jp/search?q=教養主義&hl=ja&lr=&start=10&sa=N
- 91 http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=教養主義の没落&source=web&cd=3&ved=0CDUQFjAC&url=http://d.hatena.ne.jp/ced/20060611/1150002589&ei=4c-ETtOmLq7imAXlz7gG&usg=AFQjCNH2pYKMqv0mLNjaMwXfl8jJ8H
- 52 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&q=教養主義の没落&lr=&aq=0r&oq=きょうようしゅぎの
- 32 http://1470.net/mm/
- 31 http://ezsch.ezweb.ne.jp/search/?sr=0101&query=教養主義の没落
- 28 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=t&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGIH_jaJP229JP229&q=教養主義の没落
- 26 http://search.yahoo.co.jp/search?p=エリート意識+帝大 学歴+理系&ei=UTF-8&meta=vc=&fl=0&pstart=1&fr=top_v2&b=11

