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2006-06-25

[]ことば

ことばはどのように理解されるのか。北田暁大ハーバーマスルーマンコミュニケーション確立モデルの検証を参考にちょっと考えてみた。

……言語行為論(あるいはハーバーマス)や社会学的なメッセージ伝達モデルが前提とするような、《意図(メッセージ)→理解》図式は根本において転倒しているといわなくてはならない。精確なコミュニケーションの図式は、実に奇妙ではあるが、意図の所有者としての「送り手」を図式から削除し、世界の観察者としての受け手/聞き手のみが「意図的行為」の「理解」を提示しあう《理解→理解》図式とでも呼ぶべきものである。コミュニケーション当事者は、互換可能な立場として「話し手」「聞き手」に割り当てられるものではなく、基本的には相手の意図的行為を観察=記述する観察者として捉えられなくてはならない。(責任と正義―リベラリズムの居場所 p21)

ハーバーマスの《意図(メッセージ)→理解》図式の場合、ことばの定義を決めるのはあくまでも発話者である。もしそこに意図の誤解が生じた場合、誤解の原因は定義をきちんと説明出来なかった話し手か、その定義を理解することの出来なかった聞き手のどちらかとなる。ここで必要となるのは、聞き手に対して定義の正確な伝達を可能にする話し手のコミュニケーション能力と、話し手の定義を正確に理解することを可能にする聞き手のコミュニケーション能力、ということになる。つまり、コミュニケーション成立のためには話し手と聞き手の双方にそれなりのコミュニケーション能力の確立を必要とする。私がハーバーマスをストールマンと同様にエリート主義的だと感じる理由はそこにある。一見人に優しく見えるハーバーマスの理論は、人の理性を信用し、その能力を肯定的に見る性善説的なアプローチとも言える一方で、誰でもその能力を手に入れなければ能力を十二分に発揮することができないという実は極めてエリート主義的なものの考え方をしている(ただし、だからと言ってルーマンがそうではない、とすることはできない)。

翻って、ルーマンの《理解→理解》図式の場合はどうか。この場合、話し手の意図することばの定義は聞き手の理解に何の影響も及ぼさない。聞き手は話し手の意図とは関係なく、発話された内容を理解する。ハーバーマスの場合、聞き手が話し手のことばの定義を理解出来なかった時点、つまり定義の共有が不成立に終わった時点でコミュニケーションは不成立に終わるが、ルーマンの場合、たとえ話し手のことばの定義が聞き手に誤解されたとしても、その事実はコミュニケーションの成立に何の影響も及ぼさない。話し手と聞き手の間で何らかの意思の伝達があり、聞き手が何らかのかたちでそれを解釈したのであれば、その内容が誤解であったとしても、コミュニケーションは成立する。ハーバーマスの場合、定義の共有(合意)がコミュニケーションの成立を意味するが、ルーマンの場合、合意/不合意はコミュニケーションの成立に影響しない。聞き手が何らかの情報を話し手から得た時点で、その理解内容の如何を問わず、コミュニケーションは成立する。そして、それが合意/不合意であるかはコミュニケーション成立後の話し手・聞き手の選択の問題となる。だから、コミュニケーションの不成立を問題とするハーバーマスよりも、とりあえずは全ての人の思考様式を含有できるシステムを構築しようと考えたであろうルーマンの方がよっぽど良心的なのではないかとも私は思う。

馬場靖雄ルーマンの社会理論の中でルーマンの「理解」に関する説明を行なっていて参考になるのでここに引用しておく。

正確には理解とは、できごとを構成する二重の選択性を、次の行動の前提として引き受けるということを意味している。やや異なる文脈ではあるが、ルーマンは理解をこう定義している。「理解は……理解するもの〔自我としてのシステム〕のみの力による(eigenmächtig)作動である。その唯一の条件は、〔理解という〕その作動が、観察されるシステムの自己言及に関連するということ(daß)である」(Lumann [1986b:88])。「自己言及に関係する」とはすなわち、できごとを単に情報としてではなく、他者の側での独自の自己関係性……に基づいた伝達としても捉えねばならないということである。あるいは次のように表現してもよい(Luhmann [1996c:52])。情報とは他者言及である。すなわち、他者が自分以外の何かについて述べることである(述べるというその作動以外の自分自身も含めて)。伝達とは自己言及である。すなわち、伝達をおこなう他者が、自己(他者自身)との関係のなかで情報を処理し……、遂行行為として送り出すことである。そして理解とは自我が、コミュニカティブに圧縮された意味を(つまり〈情報/伝達〉の重なり合いとして観察されたできごとを)、さらなるコミュニケーションへと移送する(Überführung)ための前提として把握することである、と。したがって、コミュニケーションのメルクマールである〈情報/伝達〉の差異を認めるということは、他者の側での自己言及の存在を承認することであるといってもよい。

 それゆえに理解とは、理解する者(自我)とされる者(他者)との間に何かが共有されるということを意味するわけではない。自我の側で件の差異が観察され、引き受けられるときには常に-すでに理解が生じている。理解は自我の側で一方的に生じるのであって、そのために必要なのは、自我が他のシステム(他者)の自己言及に関係することのみである……。そして「システムの自己言及に関係する」とは、そのシステムが自己関係的に閉じられているがゆえに外からは見通しえないのを認めることに他ならない。だから「理解するのは、見通しえないからという理由によってのみである」(Luhmann [1990a:26])。理解はコンセンサスの機能的等価物であるという一見すると奇妙なテーゼも(Luhmann [1986b:88])、以上の文脈において「理解」できよう。コンセンサスを、他の心的システムの状態を見通してそれと同一化することというように定義するならば、現実にはそんなことは不可能であるといわざるをえない。そのような状況下でさらにコミュニケーションを継続していくための手がかりを与えてくれるのが、ここでいう「理解」なのである。

 したがってまた「理解」とは、情報内容や伝達の遂行を確証・是認・同意することを意味するものでもない。ある発話の意味内容をまったく把握できなかったとしても(つまり、通常の意味で「理解」不能であったとしても)、それが自然に生じたノイズではなく発話されたものとして受け取られ、この〈情報/伝達〉の差異がさらなるコミュニケーションの前提とされている限り、すでに理解が生じていることになる。その意味では、「理解不能性」は存在しえないともいえよう。ただ、理解が(すなわち〈情報/伝達〉の差異の観察が)生じるか生じないかの違いが存在するのみである、と。

 〈同意/不同意〉(より一般的には、コミュニケーションの〈受け入れ/拒絶〉)は、理解を前提とした次のステップにおいてのみ問題となる。不同意においても、他者が引き起こしたできごとは、二重の選択性として(そして、退けられるべきものとして)まずもって引き受けられ、前提とされているのだから。不同意や拒絶はコミュニケーションの不成立を意味しない。それはあくまで、コミュニケーションの一形態なのである。(ルーマンの社会理論 p64-66)

あと、『理論と方法(Sociological theory and methods)』2000年Vol.15に収録されている佐藤俊樹の論考、「「社会システム」は何でありうるのか」より。

ルーマンのシステム論が成立しないならば、従来のシステム論や社会の一般理論はもっと成立しない。

 例えば、行為―コミュニケーションの事後的成立という事態はパーソンズのシステム論には出てこない。論理実証主義的―物理学的モデルでは、そもそもこの点を考えることができないからである。行為―コミュニケーションの事後成立性=他者依存性ゆえにルーマンのシステム論が破綻するのであれば、行為を素朴に同定できると考えてきた従来の行為論やシステム論は全て、そのはるか手前で破綻する。少なくとも現時点で比較すれば、ルーマンのシステム論はこの事後成立性=他者依存性を最もよく考えている。

 わかりやすい例をあげると、この問題系は、最近社会学でも瀕用される「言説」にもそのままあてはまる。M.フーコーのいう「言説の集蔵体」はたんにシステムを弱毒化したものではないのか。裏返せば、集蔵体や言説空間をいう時、システムと同じものが密輸入されていないだろうか。そもそも言説とは何なのか。なぜ言説として同定できるのか。――すべて同じ問いである。

 その果てにうかぶのは、「社会」という特異な全体性の概念である。社会学者はごくあたりまえに「社会がある」というが、それが何を意味するのかには鈍感であった。例えば、a)特定の性質(例えばある制度に関係づけられる)を共有するという時の「社会」と、b)「社会が××する」という時の「社会」を簡単に同一視してしまう。より正確にいえば、この鈍感さは表面的には容易に反省されるがゆえに、頑強に反省されないのである。実際、社会の実体視を批判するといいながら、「社会を成立させる装置」や「(全体)社会の到達不可能性」について平気で語る議論は多い。これらは社会の素朴な実在性をカッコに入れたつもりで、実は再生産しているにすぎない。

 術語の検出限界近くなので曖昧な言い方しかできないが、むしろ、公理という形にせよ反省的な問いという形にせよ、社会なるものの過少と過剰を同時に見出すことで、社会学の実定性の平面ははられているのではないだろうか。だとすれば、「社会とは何か」という問いには、通常考えられているような形では決して十分に答えられないし、答えるべきでない。社会の実体視と社会の虚構視はともに過少と過剰の反復運動の産物であり、同じくらい意味がないのである。

 ルーマンのシステム論がさし示しているのは、本当はそういう問題群なのだと思う。好意的に解釈すれば、システム論という形にこだわることで、愚直にそこを問いつづけているともいえる。実際、「コミュニケーションがある」といっても、従来のコミュニケーション概念のままでは社会の過少におちいるだけである。従来のコミュニケーション論はあの「相互到達性」を実質的に考えておらず、たんに素朴な行為実在論の代わりに素朴なコミュニケーション実在論をたてているにすぎない。その点で、ルーマンのシステム論の、やはりはるか手前で破綻している。

 別の言い方をすれば、ルーマンはシステム論という形式を通じて、「行為―コミュニケーションがある」とは何がいかなる問いであるのかを教えてくれたのである。その意味で、システム論をとろうととるまいと、ルーマンの開いた地平をさけて通ることはできない。理論的にも、そして経験的にも。(「「社会システム」は何でありうるのか」p46)

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