2006-07-01
■[MEMO]想像の共同体(Imagined Communities)
歴史
インターネット上で過去に話題になったことが何故今になってあたかも「新たに発見された事実」であるかのように流布してしまうのか。どうして過去からの繋がりがそこで切断されてしまうのか。過去の記憶との断絶。インターネットに決定的に欠けているのは端的に言えば「歴史」、だ。インターネット上に存在したであろう様々なドキュメントは無くなってしまっている場合が多い。インターネットはその時その時のインスタントな情報の流通には威力を発揮するけれど、過去の情報の蓄積には長けていない。インターネットの大衆化が日本で急速に進むのはWindows98登場以降の1998年以後だけれど、1998 年時点での情報でさえ手に入らないものは多い。情報の「ストック」と「フロー」の差異がインターネットの登場により曖昧になり、コンテンツが完成形の「モノ」ではなく永遠に未完成な「コト」となったとしても、この問題の根本解決にはつながらない。
そこには個々人の内的な歴史はあるかもしれないけれど、現実社会の「歴史」に対応し得る大文字の「歴史」は存在しない。何しろその「歴史」を語るべき主体というものがそもそも存在していない。「歴史」の欠如を穴埋めすることのできる主体の欠如。それは結局のところインターネット上におけるマス・メディアの不在という問題にも繋がるのだろうけど、もしかしたら誰もそのような「歴史」など必要としていないのかもしれない。
Internet Archiveはそういったデータのストックとして存在はしているけれど、これがインターネットの過去を蓄積する仕組みとしてきちんと機能できるとは残念ながら言うことはできない。問題なのは、こうしたデータベースの蓄積が結局のところ「歴史」になるのであり、データベースの欠如は「歴史」の欠如に成り得るという観点を如何にすれば導入できるか、という点にあるのではないだろうか。私はgoogleが特定のサイトを検索結果から削除する行為は営利企業にとって合目的だと考えているけれど、インターネット上ではデータベースの蓄積そのものが「歴史」を形成するという観点からすると、googleの行為は『1984年』における真理省(Ministry of Truth)と何ら変わらない、という点を危惧する。それは、googleの責任というよりも、営利企業がインターネット上における大文字の「歴史」を形成するデータベースを作成するのは不可能に等しいという限界を露呈しているに過ぎない。では、一体誰がこのデータベースを構築し得るのだろうか。
想像の共同体
結局のところ、現時点のインターネットは大規模な「想像の共同体」創出には不向きなのかもしれない。マス・メディアというとテレビや新聞が頭に浮かぶ。ベネディクト・アンダーソンは国民を「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」(『想像の共同体初版』p17)と定義した上で、主に印刷技術が「想像の共同体」を如何にして創り出していったかを考察している(なお、増補版では人口調査や地図、博物館の機能についても言及している)。吉野耕作はそれを以下のようにまとめている。
近代という時代は、宗教の衰退および実在する共同体の解体の結果、個人の匿名性を際立たせた。しかし、他方では「印刷資本主義」(print capitalism)における印刷された言葉が新聞、小説などのメディアを通して幅広く用いられることによって、実際には何千キロも離れて直接社会的インタラクションを全く持たない匿名の個人の間に「想像上の」絆が生まれ、その結果、同質的な時間と空間を共有するナショナリティからなる「想像の共同体」 (imagined communities)に対する所属感が生じたと説明する。共同体とは本来対面的かつ個人的な接触を基盤として生活様式を高度に共有する集合体であるので、「想像上の」「共同体」とは矛盾用法である。アンダーソンはこの矛盾性の中に近代ナショナリズムの本質を見いだしている。(『文化ナショナリズムの社会学』p34)
印刷資本主義によって形成されたメディアをその共同体の成員の殆どが同時に消費するからこそ、「想像の共同体」は成立する。アンダーソンはその特性を表すべく、新聞を「一日だけのベストセラー」(『想像の共同体初版』p56)とも呼んでいる。今日は新鮮な新聞が明日には古紙になってしまうという事実にこそ、新聞の新聞たる意義がある。しかし、インターネット上の情報には残念ながらこのような同時性が欠けている。新聞の普及によって実現した共同体内部での均質的な時間の流れは、消費されるメディアが新聞・テレビからインターネットへと移行するにつれ、次第に個々人の間で異質なものへと変化していく。均質的な時間の共有が信頼構築を行うコストを格段に低く抑えることが出来ていた時代には他者との情報共有も容易だったけれど、時間の均質性が崩壊し個々の持つ情報の同質性も保証されなくなってしまうと、情報共有の実現どころか他者との関係構築を行なう際の信頼構築のコストも格段に増してしまう。そうなった時、人は自分の周囲に既に存在する均質な情報を共有している仲間との空間から外に出る意義を次第に失ってしまう。そこでは、「一般人」という概念は前提条件として存在するのではなく、個々人が努力の末に成立させる目標になってしまうのかもしれない。そして、「一般人」は「ある」ものから「なる」ものへと変わっていく。
「僕たちは社会という歯車の一部に過ぎない」。真剣10代しゃべり場の出演者が思わず文句を言いそうなこの言葉は、確かにチャップリンが「モダン・タイムズ」で演じたあの光景を彷彿とさせるけど、逆に「社会という歯車」があったからこそ近代社会が実現したという事実を忘れるわけにはいかない。時間的・空間的に離れた人間同士を「社会」というシステムの内に位置付けることが出来るようになったのは近代になってからで、それ以前(啓蒙主義以前)のヨーロッパにはそもそも今のような過去―現在―未来という時間軸も、複数形の世界も存在していなかった。
気付かなければならないことがある。何故今まで自分たちは過去の記憶や他者の記憶との断絶を経験しないで済んだのか。「想像の共同体」を構成する様々な仕組みを欠いた状況下では、容易に過去の記憶との断絶が発生する。そしてそれは同時に他者との記憶の断絶をも意味する。「想像の共同体」は、「あなたが知っていることをわたしも知っている」「わたしが知っていることをあなたも知っている」という関係を保証するための仕組みだとも言える。インターネット上でしばしば過去に話題になったことが今になってあたかも「新たに発見された事実」であるかのように流布してしまうのは、インターネットが「想像の共同体」足り得るための仕組みを実現していないことの端的な現れに他ならないと思う。もしかしたら、近い将来、「皆が知っていることの方が異常だったのだ」という考え方の方が一般的になっているのかもしれない。そのようなタコツボ化を、インターネットは助長してしまうのだから。
- 547 http://search.yahoo.co.jp/search?p=想像の共同体&ei=UTF-8&fr=top_v2&x=wrt
- 144 http://www.tumblr.com/dashboard/2/925985490
- 126 http://search.yahoo.co.jp/search?p=想像の共同体&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1
- 119 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=想像の共同体 考察&lr=
- 117 http://www.tumblr.com/dashboard
- 96 http://www.google.co.jp/search?q=想像の共同体&hl=ja&lr=&start=20&sa=N
- 60 http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=想像の共同体とは&source=web&cd=6&ved=0CE0QFjAF&url=http://d.hatena.ne.jp/ced/20060701/1151700037&ei=lv2fTvKMK6XEmQXEpYmrDw&usg=AFQjCNHLkTTGN-zSOaz
- 47 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLJ,GGLJ:2006-31,GGLJ:ja&q=Imagined+Communities+&meta=cr=countryJP
- 40 http://ezsch.ezweb.ne.jp/search/?query=想像の共同体とは&start-index=4&adpage=3&ct=2&sr=0101&t=20100224014828
- 36 http://ezsch.ezweb.ne.jp/search/?sr=0101&query=想像の共同体 メディア

