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2006-07-09

[]〈子〉のつく名前の女の子は頭がいい

“子”のつく名前の女の子は頭がいい―情報社会の家族 (新書y (045))

“子”のつく名前の女の子は頭がいい―情報社会の家族 (新書y (045))

“子”のつく名前の女の子は頭がいい―情報社会の家族 (新書y (045))』は目を引くタイトルだけど、これは近頃話題の「バカ」本の類ではない。著者もまえがきの1ページ目で早速そのことについて説明している。

 はじめに誤解を解いておきたい。僕がこの本で主張しているのは「〈子〉のつく名前の女の子は頭がいい」ということではないのだ。個人の運命は名前で決まるわけではない。名前をみただけでその人の運命など予測できるはずもない。

 目的を明確に述べておこう。本書において、著者はマスメディアの副作用について解明している。テレビや新聞が完全に普及し、雑誌インターネットがあらゆる言語空間を覆いつくすなかで、人々の行動はどのような影響を受けているのか、それを解きあかそうというわけだ。著者の判断ではそれに成功している。 (p5)

この本は、恐らく日本国内の社会学学会などでは受け入れられないのだろう。何しろ著者自身のオリジナルとも言えるアイデアばかりで理論構築が成されており、欧米の著名な社会学者(ルーマンハーバーマスパーソンズなど)の理論を援用した理論構築を行っていないのだから(しかもブルデューの「文化資本」の概念を退けた上で自論を展開している)。「テレビの影響(副作用)」と言っても、最近は下らない番組が多いから視聴者の頭も悪くなっている、という安直な議論を著者は行なってはいない。〈子〉という部分に着目したのは慧眼に値すると私は思うし、ここに書かれていることは少なくとも間違ってはいないと認識している。それだけに、認知度が上がって欲しい本。印象に残った部分をメモ

第1章 女の子たちの変化

著者は以下の仮説を提示し、以降の章で検証を行うことになる。

 現代は情報化社会と言われている。さまざまなメディアが社会に浸透し、すべての把握が不可能なほど情報は媒体からあふれだしている。ある意味現代ほど情報獲得が容易な社会はない。文盲率はゼロに近く、TVラジオは完全に普及し、インターネットは家庭にまで浸透している。携帯電話ではメールWEBまで閲覧可能となっている。

 しかし、社会が情報化したとしても個人が情報化するとはかぎらない。会話とコミュニケーションとが同義でなくなったように、社会の情報化と個人の情報化とは、現代では孤立した別個の問題となっている。そして、この二つは相反する方向で同時進行しているのだ。社会が情報化するほどに、個人の情報獲得はより不可能となってきている。

 ここで、社会の情報化こそ、個人の情報獲得不可能性の原因なのだと想定してみよう。

 社会の情報化とは、メディアの普及による社会のコミュニケーションシステムの変化だ。そして彼女たちに認められた変化は、コミュニケーションシステムにおける情報受信者としての特性の変化だった。両者には何らかの関係があるようにみえる。もしかして、社会の情報化は、人間社会の情報の流れをかえって阻害してしまうのではないか?(p44-45)

第2章 女の子たちの「名前」を調べる

著者は学校での授業の現場を見たとき、学生たちが他人の話を聞けないのは、学校という現場のせいではなくて家庭環境に起因する何らかの影響があるのではないかと推測する(p55)。家庭環境であらかじめ何らかのかたちで「プログラム」(p55)されてしまっているからこそ、授業についていけない生徒が出てくるのではないか。そこで著者は家庭環境固有の問題を計測するのために「名前」に着目する(p56)。「名前」は生徒ではなくその親が決定するため、学生「本人の思考や学校の影響を除外して家庭環境だけを純粋に抽出し判断することができる」(p56)。そして、以下の仮説を元に、その「名前」に〈子〉が用いられているかどうかで家庭環境を振り分ける。

単純に言えば、女の子に〈子〉のつく名前をつける家庭は保守的であり、〈子〉のつかない名前をつける家庭は革新的ということになる。(p57)

女の子に〈子〉のつく名前をつける家庭が保守的だというのは、実際問題としてそのような家庭が激減傾向にあるからである。1994年新生児で〈子〉のつく名前は5%程度しかいない(p57)。著者は〈子〉のつく名前の割合を「保守的に命名された個体の比率=Conservatively Named rate(CNrate)」と呼んでいる(p58)。そして、実際に入試水準の高い高校ほどCNrateが高い傾向にある統計値が抽出される(p59- 61)。それは少女雑誌の読者傾向にも現れる。

名前に〈子〉のつく女の子は、商品中心の情報が掲載されるファッション誌を好む傾向がある。それに対し、名前に〈子〉のつかない女の子は、性体験や打ち明け話が展開される告白誌にこそ引かれる傾向をもつ。(p76-77)

著者は個体名と情報受容性を以下の表にまとめている(p96)。

 高校入試学習情報ファッション誌告白誌アニメーション身体制御情報
〈子〉のつく名前××
〈子〉のつかない名前×××

著者は上記の状況を以下のように分析している。

 名前に〈子〉のつく女の子は、将来的に活用できる、出力可能な情報を獲得する傾向にある。対して、名前に〈子〉のつかない女の子は、将来的に活用できない、出力不可能な情報を獲得する傾向にある。(p100)

このことから、著者は前者をリアリスト(「ヤマトナデシコ」タイプ)、後者ロマンチスト(「シンデレラ」タイプ)と位置付けている(p100-101)。前者は出力価値を重視し、後者は入力価値を重視する。

第3章 「名前」の変化に時代がみえる

〈子〉のつく名前の衰退の最大の変化は1954年から1964年の10年間にある(p116)。この時期に起こった社会的な変化とは、TVの急速な普及であった(p117-118)。そして、ここでやっと何故〈子〉のつく名前が問題となるかが明らかとなる。TVの普及で影響を受けたのは当の〈子〉のつく名前の学生ではなくその親であり、その親がTVによりどのような影響を受けたかが問題の焦点となる(p133)。つまり、この本で焦点となるのは〈子〉のつく名前の女の子本人ではなく、その親たちである。この本では親を「メディア一世」、その子供を「メディア二世」と呼ぶ。

 メディア二世は基本的に学校という環境になじまない。学校から送られる情報は、問題解決のための情報であり、出力価値を伴う情報だからだ。学校で情報を受信するあいだはメディア二世は楽しみを求められない。入力価値をともない“エキサイティング”な情報は学校という場所には期待できない。

 入力価値を重視する子どもには、学校という場所はたまらなく退屈に映ってしまうだろう。彼らは授業に意義をみいだせない。彼らは義務だから学校へ行く。両親や教師が命じるから、彼らは学校へ行くにすぎないのだ。(p143)

第4章 Passive Language理論によるコミュニケーションシステムの解析

この本の中で最も注目すべき章はこの第4章。「〈子〉のつく名前」というアイデアは確かに興味深いが、統計と理論構築の間に飛躍があるようにも思える。しかし、そのことがこの章で展開される仮説に悪影響を与えることはないだろう。

まず、著者は仮説としてブルデューの「文化資本」の概念を退ける(p154)。著者は家庭環境はとりあえず考慮の枠外に置き、TVの影響のみに注目する。これは、たとえ家庭内の「文化資本」が高いと思われる高い学歴を持つ親のいる家庭であっても、入力価値を重視するメディア二世が発生し得るからである(p156)。著者は逆に文化の観点から見たとき、メディア一世と二世は断絶していると述べている(p156-157)。

そして著者はPassive Languageという概念を導入する。それは「「自分は知識をもっていない」という非意図的な情報」(p167)である。それは「自分は対象についての知識を持っていないことを他人に知らせる方法」とも換言できるだろう。或いは「知らないという事実を知らせること」とも言える。人は自分が対象に対する知識を持ち合わせていない場合Passive Languageを発し、対話相手から対象に関する有意な情報(Active Language)を入手する。著者がPassiveという言葉を用いるのは、それが非意図的な、受動的な状態にあるからである(p168)。

ここでTVの弊害が論じられる。対人コミュニケーションであれば、Passive Languageは非意図的に送信し得るし、対話相手もそれに対して何らかの対応を行うことができる。ここで、コミュニケーションのキーパーソンはあくまで情報の送信者である。しかし、TVとのコミュニケーションは非対人関係であり、対話ではなく一方的にTVから情報が発信されるのみで視聴者は Passive Languageを発する必要がそもそも存在しない。ここでのキーパーソンは視聴者である受信者である。「正常な個体間コミュニケーションは、送信者が受信者からのPassive Language(「知識がない」ということ)を知覚することにより開始されていた」(p172)が、TVのような「メディアには受信者からの Passive Languageを認識する知覚系が存在していない。相手に何が不足しているかをメディアは認識できない」(p172)のである。ここで、「事前送出」と「事後送出」の問題が発生する。正常な個体間コミュニケーションでは送信者がPassive Languageを感知できるが故に、情報の事前送出が可能となる。しかし、TVの影響を受けPassive Languageを感知する能力が無くなってしまうと、受信者が「何を知らないのか」が送信者には理解できないため、問題が発生した後に事後処理的に情報が発信される事後送出となってしまう。これではいつまで経っても問題は解決することはない。だから、コミュニケーションは成立しない。

第5章 メディア二世に託される未来

著者はここまでの議論を2点にまとめている。(p193-194)

  1. 現代の子ども世代では、情報に対する価値観が、出力価値重視から入力価値重視へと変化している。この情報的価値観の変化こそ、現代社会においてコミュニケーションが成立しなくなっていることの直接の原因である。情報的価値観の変化は、学校不適応や拒食症・過食症などの摂食障害についても間接的な原因と判断される。
  2. 子ども世代における情報的価値観の変化は、一世代以前のTVや雑誌などのマスメディアの普及が原因となり生起した。情報受信者集団ごとに明白に見られる名前の違いが、ひとつ上の世代が原因であることの動かぬ証拠である。情報的価値観の変化は、個体間コミュニケーションの世代的な変化を通じて次世代ではじめて明らかとなる。このため、価値観の変化自体はメディアの普及後二十年以上経てはじめて観察可能となる。

著者はこの状況下にあって「未来は必ずしも明るくない」(p195)と述べる。「この国の未来には「人材」と呼べる人間が消滅してしまうのではないか」(p196)という危惧があるからである。メディア一世は二世が情報不足であることを指摘することしか出来ない。一世は二世が「何を知らないか」を事前に察知する能力に欠けている。そして、二世はそもそも入力価値しか重視していないから自分の情報不足を提示することだけしかできない。こうして不幸なスパイラルが延々と続くことになる(p205)。だから、二世は問題を解決しようと努力するよりも問題を訴えることばかりにエネルギーを注ぐことになる (p206)。著者はだからこそ、「未来は間違いなく訴訟社会である」(p206)とも述べている。メディア二世代は、「分からないことが分からない」。だから、コミュニケーションにおいても「何故相手は私を分かってくれないのか」という問いしか発することができない。著者はこのことから児童虐待が今後増加するであろうことを1995年の時点で予想しており、実際にそれは増加傾向にある。彼らは自らを加害者ではなく「相手にいつまでも理解してもらえないからこその」被害者だと考えているからである。

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