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2006-07-30

[]ナウシカ解読 - ユートピアの臨界

ナウシカ解読―ユートピアの臨界

ナウシカ解読―ユートピアの臨界

かなり以前に、UNIX的なユートピアを創れないかという話があって、少し物語の設定を考えたことがあった*1。その時にユートピア論の構築の難しさについていろいろと知ることができたから、「風の谷のナウシカ」の原作全7巻を読み終わったときの衝撃は強烈だった。宮崎駿の描くユートピア論は、ユートピアを否定することでユートピア論足り得たというちょっと特殊な構造になっている。それを私は自分なりに「きれいな嘘のつき方」*2と表現してみたことがあったけれど、哲学的にこの物語をまとめた本があれば是非読みたいと考えていた。そして、この本、『ナウシカ解読―ユートピアの臨界』を見つけた。著者は哲学や社会学の理論を用いて詳細にこの物語を解説している。手元に置いてある本でもあるので、印象に残った部分のみメモ。ナウシカの原作と共に何度か読み返したくなる本。

 近代的な意味での「正義」の立場は典型的には従来の「勧善懲悪」の子供向けファンタジーやマンガ、アニメが図式的に描いてきたような、ある特定の立場の正当性を絶対化することではなく、様々な立場の固有性を尊重することであると同時に、だからといって価値相対主義化でもなく、そうした立場の多元性を可能な限り実現していくために、そうした諸々の立場が共有する一つの足場としての現実世界の客観的な事実性の構造に立ち向かう姿勢である。マンガ『ナウシカ』における主人公ナウシカの立場は、そのようなものである。これがナウシカにおける「政治」の前提なのだ。

 さらに、その前提として愛がある。愛がこの構図の中にどのようにして入り込んでくるのか、は若干複雑であるので整理しておきたい。愛はまず、ナウシカが正義の実現へと向かうための動機づけをなしていることは自明である。さらにこの愛に支えられた正義にとっては、世界の現実、その客観的な事実性は単なる制約、障害ではない。世界の中に愛すべきものが現実に存在している、ということ自体が愛が実効力のあるものであることの条件となっているからである。 (p77-78)

 大規模な社会において、仮に愛と正義が一致しうる立場があるとすれば、それは神の立場である、ということにならざるをえまい。特定のではなくすべての存在者に対して愛を注ぎうる者として初めて、愛と正義を矛盾なく一身に体現できる。神ならぬ身の人間には、それは不可能であるという断念は、同時に愛と正義との分離を意味する。また、それは他方で正義を没人格化する。すなわち、見ず知らずの他人同士をも結びつける社会関係のネットワーク論理を優先させるものへと正義を変形させていく。愛を遮断することによって正義は神ならぬ人間にも扱える「公正」の装置となる。しかしそれはもはや、「様々な立場の固有性を尊重すること」というよりは、どのような立場であれ等しく軽視すること、に転移しかねないものでさえある。「正義行わしめよ、世界滅ぶとも」という言葉にむなしさを感じるのは、G.W.F.ヘーゲルだけではあるまい。(p79-80)

著者は『啓蒙の弁証法―哲学的断想 (SELECTION21)』に言及しつつ、「啓蒙」の「神話」と同じ暴力性について述べている。

……ホルクハイマーアドルノが論じたとおり、「啓蒙」の暴力性の批判はそんな簡単な図式で終わらせることはできない。近代の合理主義的な「啓蒙」が敵とした「土着」の「神話」もまたそれ自体、世界を合理的に解釈して自然を人間化しようとした今一つの原初的な「啓蒙」であること、それゆえどのような「啓蒙」の営みもまたたやすく今一つの「神話」として、人を迷妄から解放する代わりに新たな迷妄の中に閉じこめかねないこと、つまり「啓蒙」の暴力は「神話」の暴力の反転した姿である。(p110-111)

「啓蒙」とは本来「啓蒙する」という動詞の相において、つまり固定した「モノ」としてではなく「コト」としてとらえられるべき事態だとする。そして世界解釈図式としての「神話」が自然と人間に対する暴力と化すのは、それが「モノ」のように固定化して、かつ現実の世界、現実の人間と自然の姿を良好に解釈できなくなりながらもなお生存し続けて、現実のほうを自らの尺度に合わせて強引にねじまげる「プロクルステスの寝床」となってしまった場合だとしよう。すると、本来「啓蒙」はこのような「神話」からの解放を意味するが、その「啓蒙」の成果もまた容易に「モノ」化(物象化)、固定化して今一つの「神話」に転じてしまうものである、ということになる。

 ……人間・対・自然の関係を媒介する、人間同士の社会関係を考慮に入れれば、「啓蒙」を単に自然への一方的働きかけ、およびそうした一方的働きかけというモードの人間社会への無批判な適用、つまり暴力的支配、という相においてのみとらえるのではなく、コミュニケーションに絶えずさらされる流動的で反省的な過程という相においてとらえることが必要になる。そしてコミュニケーション、討論を通じての絶えざる「啓蒙」の持続、「神話」への堕落の防止は可能だ、とハーバーマスは主張する。

 ハーバーマスの見解は傾聴に値するものであるが、彼の「コミュニケーション的合理性」は人間同士の合意の可能性を焦点に置いている。しかし、私の観点からするならば、先に状況意味論を参考にしつつ長々と論じたごとく、コミュニケーションにおいて重要なのは合意よりもむしろ人々の間の立場と見解の相違であり、にもかかわらず人々の間に共有されている客観的な事実、現実の存在である。事実はいかなる合意された錯誤をも押し流す力を持つ、仮に合意された錯誤を人間が強引に現実化してしまうことができなければ。そして仮に合意された錯誤を現実化することに人間が固執するならば、そのような形で「啓蒙」が行われるならば、問題はまたホルクハイマーとアドルノが論じた、「啓蒙」の暴力性というレベルにまで押し戻されてしまう。重要なのは合意の可能性よりもむしろ、多様な立場からの一つの世界についての知識のどれかが、少しでも真実を探り当てる可能性を開いていくことである。(p112-114)

「啓蒙」の暴力性と同様に、「ユートピア主義」の暴力性というものも存在する(p114→)。多様なユートピアが並存できる枠組みとして、著者はノージックAnarchy, State, and Utopiaを挙げている(第5章第三節)。「風の谷のナウシカ」が一般のユートピア論と一線を画すのは彼女が最後の欺瞞として「救世主の演技を通す決意」 (p132)をするからである。それは何も知らない他の人々にとっては救世主かもしれないが、彼女自身にとっては破滅に導く死神と表裏一体なのである。その微妙な立場を何とか貫き通すことでこの物語は一貫性を保っている。その精神は極めて達人的、達観的なものであって、他の人々と普遍的に共有できるような安易な立場では決して無い。「青き清浄の地」というユートピアは、決して辿り着く事の出来ない「彼岸的ユートピア」であり、ナウシカたちの住む世界の外に位置している(p134)。

 彼女がこの真実を欺瞞をもって覆い隠したのは、「青き清浄の地」の審問に大多数の人間は耐えられない、との実践的判断ゆえである。「青き清浄の地」は人間一人一人を断罪しはしない。しかし、総体としての、種としての人類には死刑宣告を下している。この種としての人類への死刑宣告は、逆説的にも、「生まれ ひびきあい 消えていく」一人一人の人間にとっては解放を意味するものに他ならないのだが、なお一人一人の人間とはナウシカや「森の人」とは異なり、種としての人類への自己同一化なくしては正気を保つことができないであろう、と。

 つまりこの真実は「政治」の場へと引き出されることなく、「倫理」の内にとどまっているのである。ここに我々は「政治」と「正義」、そして「倫理」の間のずれを見てとることができる。(p135)

著者は最後に、「ユートピア」の対立項として「戦争」を挙げているが、その前にユートピアについて以下のように定義している。

……私のいうユートピアとは、「倫理」が「政治」を超えるその限界にほの見える理想とでもいうべきものである。それは人間が自らの構想力において作り上げる(実現不可能とは限らない)虚像である場合もある。と言うより、従来言われてきたほとんどのユートピアとは、そのような虚像であった。しかし、私の立場からすれば、例えばマンガ『ナウシカ』における「青き清浄の地」がそうであるように、人間の手が触れない外部に現実に存在している他者の場所もまた、「政治」を超える「倫理」の立場によってはじめてかいま見ることが可能であるという点においてまさにユートピアなのであり、逆に人間が虚像としてのユートピアを構想しうるのもまたそのような外部がある(らしい)ことによって支えられているのである。(p175)

 かくして問いは再びくり返される。ユートピアを窒息させるものとしての戦争状態に抗する方途についての問いは、メタ・ユートピア論の問題提起回帰する。人間が望もうと望むまいと、人間の世界にとっての他の可能性は存在する(らしい)。しかし、それがもっともはっきりと示されるのは、人間の世界の外側、人間とは関係のないものたちとの出会いにおいてである。その出会いは人間にとって、果して本当に救いなのだろうか?論理的には、救いでも災厄でもありうるし、何事もないこともありうる。もはや、それ以上のことは言えない。具体的なひとつひとつの「他者」との出会いを通じて、そのたびごとに我々自身が取り組んでいくしかない問題である。(p185)

*1:そのせいもあって、東浩紀ギートステイトhttp://geetstate.org/に興味がある

*2:※ネタばれ注意 風の谷のナウシカは、映画と原作ではその内容が全然違う。というか、映画で描かれている世界は原作では第2巻くらいまでのもので、その後は映画の公開後に原作の執筆が続けられたために当然のことながらフォローはできていない。この物語の主人公は、映画では勿論ナウシカということになっている。でも、原作の後半で重要な役割を果すのはナウシカではなく、森の人セルム。彼はこの世界が既に救われない状況にあることを理解しているにもかかわらず、そのことを心に秘め森へ帰っていく。人は腐海と共に有り、腐海が滅びる時、人も滅びる運命にあることをナウシカは知る。人々はいつか腐海の毒が消え、清浄化された世界が訪れることを期待しているが、腐海の毒の中で生きてきた彼らはその毒に対する耐性を自然発生的に手に入れたばかりに自らの手で手に入れたことで腐海の毒の中でしか生きれなくなってしまったことに気付いていないのである。

しかし、ナウシカはこの事実を人々に伝えることはしない。そこに必要なのは「希望」であって「絶望」であってはならないのだから。2つの完全に対立した価値観を自身のうちに保持しながらも、人々から「希望」を失わせないための仕組み。これは「きれいな嘘のつき方」とでも言えるかもしれない。恐らく哲学社会学ではこういった考え方にきちんとモデルが作られていて専門用語で語ることができるのだろうけど、私にそういった知識はないからこの呼び方で我慢しておくことにする