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2006-08-13

[]倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦

倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦 (哲学教科書シリーズ)

倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦 (哲学教科書シリーズ)

世界の中の私、私の中の世界。アインジヒトという仕組みを使うことで、独我論を「語る」ことを擬似的に可能にした思考実験。ここから先は『私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)』がそうであったように、形而上学的な問いにならざるを得ないように思う。前回読んだのが2004年12月だから、今読めばまた違う印象を受けるかもしれない。

印象に残った部分をピックアップ

問われるべき最も根本的な問いは、そもそも「いけない」とはどういうことか、とか、なぜ、およそ「いけない」ことなどが存在しうるのか、とか、そういう問題だと思うね。逆に言いかえれば、一般的に「他人にとって悪い」という意味で「してはいけない」とされることを、人は「してもいい」のではないか、といった問題だ。(p19)

ホッブスの真の課題は、刹那的で深謀遠慮に乏しく非理性的に利己的なだけの人間を、狡知にたけた一貫性のある理性的に利己的な人間に引き上げることにあったんだ。だから、さっきのような仕方で問題が立てられて、それこそが問題だと意識されるとき、真の問題はすでに暗黙のうちに解決されているんだ。社会契約のポイントは、本当は、契約を守るとか破るかなんてことではない。計算高く、守るつもりもない約束をするやつがいたって、一向にかまわない。それがほかならぬ約束として理解され、まさに約束したふりをしてだませるようになれば、しめたものなのさ。そういうことが有効になされる社会では、社会契約はもう成功しているんだよ。もう成功した視点にしか立てないんだ。(p80)

そのほうが自分の利益になるからという理由で道徳的にふるまうようになった人でも、そういう道徳的条件をたんに考慮すべき条件としてではなく、それ自体として価値のあるものとみなすようになるかもしれないし、理性だけでなく感情も道徳的要求を認めるようになるかもしれない。それでも、どんな人間も、その中だけに浸かり込んでしまうことはありえないし、そうなろうとすべきでもない。その意味で、人格の一貫性や魂の調和は、そんな世俗道徳に見合った表層的なところで保持すべきものではなく、もっと深い次元からそれぞれ独自の仕方で築きあげるべきものだと思う。

……

……つまり、一面では、人生全体を考慮に入れた場合の自分の利益や幸福を最大化するにはどうしたらいいか、という問題が立てられて、いくつかの点から、道徳的であるほうが得である理由が示されたわけだ。そこまでのところで、利己的であるなら、つまり自分自身のごく普通の意味での最大幸福を目指すなら、道徳の要求を受け入れて多少とも利己的でなくなるほうがいい、ということがわかったことになる。自分の方針が利己性の追及のための戦略であることを忘れるほどに道徳的でなければ、それを成功させることができない。しかし、他面では、利己性の追求に基づく戦略であることを忘れてはいけない、ということだ。道徳は、あくまでも利用されなければならない。ここには確かに二つの矛盾する要求がある。しかし、逆にいえば、自己利益の追求と道徳の追求とが、相互に支え合い相手を包含しあるという興味深い状況が実現しているともいえるのだ。これは、言葉でいうと複雑だけど、じつはごくふつうの人間がだれでも実現できているふつうのことにすぎない。(p83-84)

他人たちと社会契約を結ぼうとするということは、たとえそれが本当に相手をだまそうとしたのであっても、自分を他の人間たちとならぶ一人の持続的な理性的存在として把握するということなんだよ。他者との道徳関係の可能性の理解こそが真の利己主義をはじめて育てるということだ。つまり、その二つはじつは表裏一体の関係にあるんだ。にもかかわらず、契約の可能性とともにはじめて成立するそのような利己主義が、契約以前からずっとあったかのように、契約後は理解されるというわけだ。(p84)

内面の法廷は、被告人被害者も目撃者も、弁護士も検事も裁判官も、みんな自分だからね。事実を認定するために必要とされる誠実さという唯一の手段が、それ自体道徳的価値を持っている以上、この法廷では、道徳的価値から独立した事実認定が不可能になるんだよ。だから、内面の法廷は泥沼にならざるをえない。(p111)

 悪事はもともとしてはならないことだから、社会はそれをすることが一般的に割に合わない状態を作り出した、だからたまたま割に合う場合があっても、悪事はなすべきではない――こういう了解がどのようにして作られたか、それが知りたいところです。(p214)

自分自身の存在意味を根底から肯定できるような、その意味での本当の直接的に善い生き方が、社会の道徳規範から見ても善い生き方になるなんて、そんな都合のいい話は、みんなも本当は信じてないのさ。そして、結局それは、世界というものの見方の違いに帰着する。世界を、俺の世界というものを含んで、結局のところは他者と共存する世界こそを最終的なあり方として見るか、他者と共存する世界を含んで、結局のところは俺の世界こそを最終的なあり方として見るか、その違いだな。

……

……そのことからいえることは、もはや、それが一方的に正しいということではない。むしろ、その二つの捉え方を一つにまとめることはできない、ということなのだ。一つにまとまる点などない、ということなんだ。だから、なぜ道徳的であるべきか、という問いに答えなどあるわけがないのさ。そして、それはとても善いことではないだろうか。もしこの矛盾がなかったら、人生はずいぶん薄っぺらなものになってしまわないだろうか。(p220)

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