雑記帳 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2006-10-01

[]ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール

id:bookscanner記事には、紙媒体書籍アーカイブと、ネット上における電子的なアーカイブの違いについていろいろと書いてある。どうしても、図書館とアーカイブ、というと、如何にして書籍を電子化スキャン)して、それを電子媒体(磁気テープハードディスクCD-ROMDVD-ROMetc)に保存するのか、という「保管」の面に話題が集中してしまう。アーカイビングと著作権の問題についても、どうやって著作権者から許諾を得るか、といった問題ばかりが語られる。でも、電子化された図書館は、単に紙媒体の書籍を保管する図書館が、電子化(スキャン)された書籍を保管する図書館に変わる「だけ」、なのだろうか。そもそも、私達が前提としている図書館、書籍、出版の在り方それ自体が、電子化によって変わってしまうのではないか。

以前、NY TimesのScan This Book!という記事についてエントリを書いた時に、この本、『ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール』を読んだのを思い出した。この本は、紙媒体の書籍が電子化されることで、単に紙からデータに書籍が移行するだけではないことを論じている。ただ、以前書いた読後録をエントリに追加するのをすっかり忘れてしまっていたので、ここに公開しておく。


出版と知のメディア論―エディターシップの歴史と再生』(→読書録)の冒頭で長谷川一は出版について語る際の問題点として、それが数百年というこれまでの歴史に裏打ちされてしまっていることから、現在の出版の在り方があたかも自明であるかのように考えられてしまっていることを挙げている。

かくのごとく長い歴史をもつがゆえに、出版は現代社会において自明な、いわば「透明」な存在となっている。出版は、そのすみずみにいたるまでさまざまな形でメディアが浸透している現代社会において、すでに十分に社会化された数少ないメディアである。(『出版と知のメディア論―エディターシップの歴史と再生』 p14)

しかし、長谷川は出版の在り方の自明性については疑問を呈しているものの、ハイパーテキストの出現により思考様式そのものが変化する可能性については全く考慮していなかった。『ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール』は、ハイパーテキストが本の在り方に変化をもたらし、その結果人間の考え方そのものに与えるであろう影響を様々な論者の見解に言及しながら論じた本である。書籍という概念そのものが変わった時、それに接する人間の考え方も必然的に変わらざるを得ない。印刷された書籍の出現が人間の思考様式に変化を及ぼした。人は「書くように思考する」ようになった。しかし、この思考のプロセスは書籍の存在を前提としており、我々の思考のプロセスはあたかも思考を紙の上に記すように行われる。それは「書く」という行為のアナロジーとしての思考様式、とでも言えるかもしれない。印刷技術が起こしたコペルニクス的転回を記したMcLuhanのThe Gutenberg Galaxy: The Making of Typographic Manの中で、McLuhanは様々なトピックについて論じているが、印刷からハイパーテキストという書式の変化は、また新たな思考様式を生み出すのかもしれない。本を「書くように思考する」のと、ハイパーテキストを「書くように思考する」のでは、そこから生み出されるものが全く違う可能性がある。例えば『インタラクティヴ・マインド―近代図書館からコンピュータ・ネットワークへ』の中で桂英史は「介入」という言葉を使ってハイパーテキストの特徴を説明している。

 図書館という知の秩序は、ある意味で、資料という質感に対する愛着で成り立ってきたとも言える。その愛着によって、図書館が引き受けるあらゆる古典的な知の秩序が、連綿と継承されてきたとも言える。ところが、コンピュータやコンピュータ・ネットワークの拡大により、物理的な質感への愛着だけでは知の秩序を構想できなくなってきた。ディジタル信号で記録された映像やハイパーテキストといった電子化された資料のように、メディアに備わったロゴス翻訳された資料には、介入の余地を与えるというこれまでにない能力が用意されているのだ。

 従来の書物への「介入」の方法は限られている。本に線を引くとかコピーを取るとか、せいぜいその程度である。紙のメディアはこれまで五〇〇年あまり用いられてきたわけだから、とても簡単には語ることのできないような利点をもっている。ところが、「介入」という観点から考えてみると、驚くほど柔軟性のないメディアであるとも言えるわけである。電子的なデータと化した資料は、書物のように物理的な質感を僕たちに与えてくれない。その代わりというわけでもないだろうが、僕たちがデータの集まりに対してコンピュータが持つルールを組み合わせることによって、元の資料とは全く異なる形態の資料を作成し複製し伝送し、コンピュータ・ディスプレイ上で視覚化することができる。

 つまり、電子化された資料は、物理的な質感を斥ける代わりに、僕たちが介入することを待っている新しいメディアと言えるかもしれない。近年よく用いられる「インタラクティヴ」という用語は、電子メディアあるいは電子化された資料に対する介入の余地として理解することができる。(『インタラクティヴ・マインド―近代図書館からコンピュータ・ネットワークへ』 p183-184)

ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール』の著者はその変化をあくまで好意的に見ているけれども、書籍という媒体が実現していた世界観固定化をハイパーテキストが解体してしまったその先には一体何があるのだろう。

ライティング・スペースの質の変化が思考の変化をも促すという考え方は重要だと思う。最後の方で情報の受容方法が受動的であれば、例えハイパーテキストであってもその能動的な特性は失われてしまうと著者は指摘しているが、現在のインターネットの在り方について考える上でこの指摘は大切。コンピュータ・リテラシーについては、『インフォアーツ論―ネットワーク的知性とはなにか? (新書y)』、『デジタル社会のリテラシー―「学びのコミュニティ」をデザインする』、『サイバーリテラシー―IT社会と「個」の挑戦』など様々な本が出版されているが、これらは印刷された書籍から成る思考様式からは脱却できていないようにも読める。コンピュータ・リテラシーとは何なのか、もうちょっと考えてみる必要がある。

第1章 イントロダクション

ライティング・スペース(writing space)とは、「物を書く空間」である。この本では、この「物を書く空間」の変容が「本」の在り方や人の思考プロセスにどのような影響を及ぼすのかを考察している。

…… テキストの多くは、いや、おそらくほとんどは、将来的に見れば印刷されることがなくなり、代わりに電子書籍という形で配布されることになろう。

 従って、我々の文字文化の周辺領域へ都落ちしてしまうことは、印刷書籍の宿命であるように思われる。印刷テクノロジーが完全に消滅するだろうか、というようなことが問題なのではない。或る種のテキストや、贅沢品として書籍は永く印刷され続けることだろう。だが、書物とは何かという観念、書物とはかくあるべきものだ、という理想は変わるだろう。過去五世紀間、印刷は知識を組織し公開する上での形式を決定してきた。が、もはや印刷はそつした力をなくすだろう。印刷からコンピュータヘこの考に移行すると言っても、文字使用が終焉を迎えるというわけではない。失われるのは文字使用そのものではない。印刷による文字使用なのだ。電子テクノロジーは新しい種類の書物と、読み書きする上での新たな方法を与えてくれるからである。コンピュータヘの移行によって、文章を書くことがより柔軟なものになるだろう。だがその一方で、良い文章とは何か、注意深い読解とはいかなるものか、という定義は印刷技術によって酒養されてきたわけだから、そうした定義が脅かされもするだろう。活版印刷は書かれたテキストを、変わることのない人工品、それを書いた著者と、それが属する時代のモニュメントと見なすように仕向けた。印刷書籍は石のカテドラルより堅固で永続するものだ、とユーゴーは主張したのだった。フロッピーに対して、たとえ比喩的な意味にせよ同じことを言う者はいないだろう。印刷は又、著者と読み手の間の距離を拡大する傾向がある。著者はモニュメンタルな形姿を獲得し、読み手はただカテドラルの参拝者となるのだ。電子ライティングはテキストのはかなさと可変性を強調し、読み手を著者に変貌させることで、著者と読み手の間の距離を減らすという性格を持っている。

 コンピュータは、我々が現在有している文章執筆の秩序を再構成しつつある。書籍を刊行する方法と同様に、書くことが文化の中で占める位置をも変えつつある。それはテキストに対する著者の関係また同時に、読者に対する著者とテキストの関係をも変えつつあるのだ。(p3-4)

著者は電子テクノロジーは2つの意味で本を作り直すと述べる。(p6)

  1. それが我々がどんな素材の表面に文字を書き記し、どんなリズムで読むかという点を変化させることで、新しい種類の本をもたらす。
  2. 印刷書籍、手写本、さらにそれ以前から、何かを書くことがまとってきた形態に比肩する電子書籍という新たな形態を与えてくれる。

この本を通して、「……印刷書籍も書くということの一つの極端な形態にすぎないのであって、基準などではないのだ、ということを我々は知ることになる」(p6)。

 電子テキストは物理的な人工物ではないから、それに印刷書籍と同じ概念的な統一性を与えなければならないという理由はないし、一つの電子ネットワークに関係のない複数の材料が含まれていてはいけないという理由もない。書き手や編集者は単一の読者層を想定し、それにだけ語りかけるというようなことをしなくてもいいのだ。電子テキストは異なる読者に異なる声で語りかけるのである(そして各々の読者も、テキストに向かうたびに異なる読者となるのである)。かくして、電子百科事典は修学中の若手から、エキスパートにまで語りかけることになる。電子百科事典の記事は、多様な読者の必要と素養に合わせるために、いくつかの熟練度のレベルで書かれることになろう。我々が伝統的に引き継いでいる統一性という規準は、もはや電子書籍には当てはまらないのである。そうした形態の書物は、電子的に、実体なく記憶されていて、テキストが物理的に統一されている場合と同じ感覚ではとらえられないからである。テキストはフロッピーか、コンピュータの内部記憶に存在し、読み手が直接見たり手で触れたりすることはできないわけだ。ユーザが遠くのデータベースを呼び出すとすれば、テキストは何百、何千マイルも彼方にあるのであって、そこから電話回線を通って呼び出された場所へやって来るのである。(p13)

それが電子テキストの利点であり、同時に欠点でもある。紙媒体の書籍よりもはるかに多様なコンテクストに置かれることになる電子テクストは果たして意味の共有化という作業を簡易化してくれるのだろうか。それともその作業はコンテクストの急激な多様化によってより難しくなるのだろうか。

 コンピュータが社会の均質化を促進し、オートメージョンによって画一化を生み出している、と批判する人々がいるが、電子的に書くことも読むことも、正反対の効果を及ぼすのだ。印刷によって書くことは甚だしい均質化をもたらすが、他方、電子テクノロジーはテキストを一つ一つ別のものにするのだ。電子書籍は断片的であって、潜在的な可能性を秘めたテキストである。それは有機的で一方向へ発展していく全体、といったものではなく、むしろ自己完結的なユニットの系列である。だが、断片性は単に分裂だけを意味するわけではない。

 電子的なライティング・スペースの中の要素は単純にカオス的というわけではないのだ。代わりにそれは絶え間ない再組織化の中にある。パターンを作り、配置を作り、作ったものは常に崩壊して、新たに結びついて新しいパターンとなる危険をはらんでいる。この緊張によって、文章を書く上での統一ということについての新しい定義が導かれる。それは我々が伝統的に有してきた声の統一、分析的議論といった概念にとって代わるもの、或いはそれを補うものである。電子テキストに統一性や一貰性があるとすれば、それは電子テキストの中のあらゆる言語的要素の間の関係が、絶えず移動しているということから生じるものなのだ。 (p15)

 書き手・読み手が書くことをどのように理解しているのかということは、使っている本の物理的・視覚的特性によって条件づけられている。物理的なライティング・スペースは、それぞれが読み書きという行為、そこから生じてくる産物としての書かれたテキストについてそれぞれ独自の理解を育む。現在の印刷時代末期において、読み手も書き手もまだ、あらゆるテキストと言うかテキスト自体は、印刷書籍内部の空間に配置されているというように了解している。概念的には、印刷書籍内部の空間においては安定した形で文章が書かれている。それはモニュメンタルで、著者だけがコントロールしている。印刷書籍がとる完全な形態とは、何千冊もの同じ本が存在することだが、それによって決められているのがこうした空聞であるわけだ。他方で、電子ライティングの概念的な空間は、流動性と書き手と読み手の間の双方向的な関係とを特徴とする。二つの空間がこのように概念的に相違することが、文章を書く上でのスタイルジャンルの相違、文学理論の相違を滴養するのである。

 書くという行為においては、書き手は自分の思考を外在化するわけである。書き手はテキストがつづられていくぺージとの間に反射的で再帰的な関係を持つ。この関係の中でさまざまな思考が具体化されるのである。どこで思考が終わり書くことが始まるのか、どこで精神が終わりライティング・スペースが始まるのか、言うのは難しい。書くための技術なら石や粘土板、パピルスに紙、とりわけコンピュータのディスプレイなど、どんなものを使っても、最後に書き手は精神そのものをライティング・スペースと見なすようになる。ライティング・スペースはメタファーになる。実際それは文字を使用する段階まで至った文化においては根本的なメタファー、すなわち人間の精神のメタファーになるのである。(p19-20)

では、電子テキストというライティング・スペースの中で育まれる精神のメタファーとはどのようなものになるのだろう。

第2章 新たなライティング・スペースとしてのコンピュータ

著者はハイパーテキストを以下のようにして説明している。

ハイパーテキストは、書き手がはさみを持ち言葉の上から見て適当なサイズに切り取った印刷書籍のようなものである。違いは次の点にある。印刷書籍の場合はそうすると無秩序な紙切れの集積になってしまう他ないが、電子的に実現されたハイパーテキストは単にそれだけでは終わらない、ということである。と言うのは、書き手は又紙切れ相互の結合を示すように、電子的な結合の構成を決めるからである。ハイパーテキストの有様を決めることで、筆者は一連の散文でできたパッセージから始め、そのパッセージの中の重要な単語に注や用語解説をつけ加えていく、という手順を進めるかもしれない。先に示したように用語解説自体が解説を含み、読者をさらに先のテキストに導くことがありうる。ハイパーテキストのネットワークは無限に拡張できるが、これは印刷テキストにはできないことだ。(p40)

だから電子テキストをそれまでのテキストとは違った眼差しで見る必要がある。

 電子テキストは意味、構造、視覚的表示といった要素が根本的に不安定になった最初のテキストだ。印刷や中世の写本とは違い、コンピュータは文章を書く上でいかなる局面もテキストの執筆や、読解の全体に先立って決定されていることを求めたりなどしない。ほんの一秒の間に消え去る電子を、シリコンと金属からできた回路に集めることで情報を記録しようというテクノロジーには、こうした落ち着きのなさが本来のものである。コンピュータの世界に存在するあらゆる情報、全てのデータは一種の制御された運動であるのだから、コンピュータ・ライティングにとっての自然な傾向とは、変化し、成長し、結局は消え去ることである。このような絶えざる運動のせいで、電子ライティングがそれ以前のタイプライティング、印刷、手書きといったテクノロジーに対して、まるで万華鏡を覗くように多彩な関係を持つことも又、驚くべきことではない。(p51-52)

第3章 テクノロジーとしてのライティング

マーシャルマクルーハン認識したごとく、「印刷術の発明は……最初の斉一的に反復可能な物品、最初のアッセンブリ・ライン、最初の大量生産をもたらした」(McLuhan, The Gutenberg Galaxy(『グーテンベルクの銀河系』), 1972, p.124参照)。さらに加えて印刷は、その副次的効果として、最良の写本にほとんど匹敵する書籍を作り出すことができる、という長所を持つ。印刷は手書きを量で遙かに凌ぐ一方で、質においては拮抗したのである。エリザベス・アイゼンステインは次のように記す。「できてきた産物に、目につくような変化のないことが、製造法の完全な変革と結びついた。そしてそのことが見たところの連続性と根底的な変化の、逆説的な形での結合をもたらしたのだ。」 (Eisenstein, 1983, p.20)この逆説のおかげで言葉の機械化はずっと早く受け入れられるようになった。そして十五世紀の学者の多くがこの新しいテクノロジーの長所を速やかに見て取った。結局のところ、数世代を経るうちに、印刷は書かれたぺージの視覚的な特徴を変えてしまい、ライティング・スペースを技術的にもっときちんとして見やすいものにした。十八世紀の終わりまでには、書籍は以前とは完全に異なり、近代的な外見を呈するようになった。十九、二十世紀には、蒸気、後には電気を動力とする印刷と自動植字が、機械化をさらに推し進め、人間の筋力を不要にし、さらには人問による制御を印刷過程から取り除いてしまった。

 話がコンピュータということになると、それは印刷が持つ迅速性と効率のよさに、新しく柔軟性をつけ加えることで、ライティング・テクノロジーを変化させる。コンピュータを使えば筆者も読者もテキストを簡単に複製できるが、それと同じようにたやすく、テキストを書き換えられるようになるのだ。テキストをユーザ各自の必要に応じて調整する能力は、機械によるものではない。それは古典的な産業機械にはなかった特徴である。その能力は、電子テクノロジーが有する非機械的な要素から生じるものである。コンピュータのCPU自体に、歯車がついているわけでもないし、そもそも電子レヴェルより大きな可動部品など持たないのであって、ディスクドライヴやレーザー・プリンタといったシステム中の機械的な部分でさえ、素早い動作と精密制御を特徴とするのだ。デジタル・コンピュータのおかげで我々は機械の新しい定義を得るに至った。それは論理部品の複雑な相互関係蒸気機関やダイナモとは違い、力でなく情報を産出する抽象的なものということである。印刷機が古典的なライティング・マシーンだとすれば、コンピュータは我々に機械化を超えたライティング・テクノロジーを与えてくれるのだ。(p54-55)

 文字を使える男女は、自分が読み書きできるということを、書いている時は当然だが、話している時にも、明らかにする。文字使用の長い伝統を持つ文化は、標準的な文語を発展させるものだ。無筆の人はそうした文語へのアクセスを拒まれるが、その一方で、伝統の中で教育を受けた人々は、口語的な言葉と文語的な言葉を混ぜながら話をする傾向がある。後者はより広いヴォキャブラリーを持ち、さまざまな言語レヴェルやスタイルで書くように、話をする。こうした人々は、複数の文や段落といった区切りで言葉を発し、つまりは文章を書くように話を構造化することもしばしばだ。心の中で、紙やキーボードに向かうように書いているのである。確かに、ライティングを特徴とするような、方法的にしっかりした仕方で何かを考えている時や、言語化する時、彼らは文章を書いているのである。(p58)

だから我々は「書くように話す」のである。そして、ペンと紙という技術それ自体も長い歴史の中で見れば絶対的であったわけではない。コンピュータによる電子テキストはだからこそ思考の在り方それ自体をも変えてしまう可能性がある。また、日本であれば携帯電話の利用による思考の変化、という観点も追加できるだろう。

 だが、他と同じようにライティングの場合も、テクノロジーを捨ててしまうことは不可能だ。ペンと紙で書くことは、コンピュータのディスプレイに向かって書くことに比べて、より自然であるわけでもなければ、テクノロジカルでないというわけでもない。ペンよりもコンピュータの方がもっと複雑でもっと壊れやすいということは、なるほど確かだ。しかし、より古いライティングの方法に立ち帰ったからと言って、テクノロジーから身を引き離すことができるわけでもない。(p59-60)

だが同時に、これまでのライティング・スペースが電子テキストによって駆逐されてしまうわけでもない。

たった一つのライティング・テクノロジーがあらゆる必要性を満たすようになったことなど、一度もない。支配的なテクノロジーの周辺で二次的なテクノロジーが場所を占めているのであって、そのためライティング経済は常に多様化してきた。こうした二次的なテクノロジーは、かつて支配的だったが、その時点では既に周辺に押しやられたテクノロジーであるかもしれない。二次的なテクノロジーが生き残るのは、主要なテクノロジーよりもこちらのほうがうまく対応できるような必要というものもあるからだ。古代からのロウ板は中世に至ってもまだ使われていたが、それはざっとした草稿やちょっとしたものを書くのには便利だったからだ(Rouse & Ruose, 1989参照)。何千年もの間、永続的で広く公的に読めるようなものを書きたいと思われた際には、メディアとして石が役立ってきた。書籍生産においては印刷が手書きに完全にとって代わったけれども、だからと言って手書きを時代遅れにしたわけではない。印刷のおかげで読み書きのできる人が増え、文字を読める人が増えるにつれて、より多くの人が文字を書くことを身につけていった。今日の複雑な経済においても、ペンと紙は私的コミュケーションの道具として用いられている。活字を組むほどには重要でない、或いはそこまで整ったものではないテキストには、ワード・プロセッサやタイプライターが使われる。さらに又我々には、ステノグラフ、ミメオグラフ、マイクロフィルム、マイクロフイッシュ・リーダ、OHPゼロックスといったものがある(或いはあった)。これらは全て、印刷や印刷書籍が役に立たない分野で使われているのだ。

 印刷の経済は、こうしたテクノロジーを全て呑み込むことに成功した。ワード・プロセッサさえ例外ではない。しかしながら、印刷の理念とは非常に異なったライティングの理念を育むことによって我々の経済を再編成しようと、ハイパーテキスト的な電子ライティングが虎視眈眈と狙っている。そうした過程の中で、電子ライティングは過去に周辺的な技術に追いやられたものに新たな命を与える。それは、ロウ板とは、迅速な変化という性質を共有する。タイプライターとは、キーボード(少なくとも今のところは)、すなわちアルファベットを一つ一つ叩くという方法、機械的な画一性、といったものを共有している。コンピュータはコピー機、ノート.パッド、カレンダー、テレタイプとしても使える。実際、支配的なテクノロジー(パピルス・ロール、写本、印刷書籍)の中で、その要素をコンピュータが取り入れ再解釈していないものはないのと同じように、ライティングの歴史において、周辺的であったテクノロジーの中でコンピュータが模倣できないものを思いつくのは難しい。従って、ライティングの全経済・全歴史と、電子ライティングは交錯するものであると感じられよう。つまり、電子ライティングというこの新しいテクノロジーは、ライティング・スペースを徹底的に書き直すものなのだ。(p64-64)

ライティング・スペースは、そこで用いられるライティングの資材と技術の間の相互作用によって特徴づけられる。資材が、構造上の単位と、有形で変えることの難しい関係を規定するのである。(p66)

第4章 ライティングの要素

 非常に根深い前提が、文化に関して存在する。それは書くことは我々の思考に声、言葉を与えることを目的とする、というものだ。思考が、書くことに先行すると思われているのだ。つまり、書くことは外向きの作業で、目に見えていて、具体的である一方で、思考は神秘的で、隠されていて、何か身体的ではないもののように思われているのだ。現代の文学理論は、こうした発想に疑問を投げかけてきた。(p73)

「思考することで書く」のか、「書くことで思考する」のかは厳密にその判断が難しい問題であるとも言えるが、この二つを混同してしまうと「書くこと」の意味を取り違えてしまう危険性があるとも言える。

コンピュータにおいては記号の示す語彙が拡張し続けているわけだが、テキスト中のいかなる単位をも、そうした語彙に含まれる新しい要素であると定義できる。ハイパーテキストはコンピュータのこの能力に基づいている。ハイパーテキストを書く者は、結合を創り上げるという行為の中で、こうした記号を定義していく。書き手は、或る一つの段落を別の段落ヘリンクし、そのリンクは元の段落を説明したり詳細にしたりするのである。書き手はグラフィックス(例えばルネッサンスの肖像画を思い浮かべていただきたい)を、それを説明する(ルネッサンスの肖像画に見られる技法についての)テキストにリンクする。二つの段落を接続することで、書き手は実際のところライティング上の新しい要素を二つ、定義することになる。一つ一つの段落は単位としての記号になったのだ。(p101)

リンクする、という行為それ自体が「書くこと」と同一の現象になる日も近いのかもしれない。

第5章 見ること、書くこと

 十三世紀までに写字生は読み手がテキスト中の場所を明確にし、道に迷わないようにするために、視覚的な手がかりとなる方法を沢山発展させた。文字のスタイルやサイズを変える、インクの色を変える、節に番号をふる - こうした工夫はどれも中世に開拓され、印刷時代を迎えて標準的なものになったのである。たぶん中世の写本の中でももっとも重要な視覚的構造は、傍注であろう。中世のテキストは、しばしば一ページに二段かそれ以上にわたってテキストが配列してあった。ページの中心には古くて価値の高いテキストが位置し、周辺には一人、或いは何人かの学者が付した解説やコメンタリーが記してあった。こうした構造は読者の読解に方向性を与える役に立った。テキストと注釈の間を行ったり来たりするのは比較的に容易なことであったし、古代世界の読者が何巻ものパピルスをさばくのよりははるかに簡単なことだったのは確かだ。読者は傍注から何を探すべきか教えられ、作業を進めていく上で絶えず支援されたのである。ルネッサンスや、それ以後の読者の多くはこうした傍注を邪魔だ、何世紀にもわたるテキストの誤読の蓄積ではないか、と感じた。そして印刷業者は、テキストがライティング・スペースの全体を占め、従って自分自ら語りかけてくるようにすることで、書物のページからこうした解釈上の素材を掃き出すことを始めた。注はページの下方に移動し、結局は巻末に落ちつくことになった。だが、傍注を抹殺することによって、近代の印刷業者は、傍注が中世の読者に提供していた、手早く参照できるという利点と視覚的・知的コンテキストの感覚を二つながら犠牲にしたのである(こうした手早い参照とテキストを再び手にできるのは電子テキストにおいてのみである)。

 近代の印刷書籍では、スペースはシンプルできちんとしたものになった。雑誌新聞ではまだ見られるが、別々のテキストが隣接する空間に併置されて、読者の注意を自分の方に引きつけようと争うことは書籍においてはもうない。雑誌ではテキストがそれぞれ違った形やサイズのブロックに分かれていて、読者はそのブロックの間を行ったり来たりするわけである。広告、紹介、長い記事、短い記事が一緒になっているというページ・レイアウトが、雑誌という素材が持つトピック的な性格を反映している。雑誌や新聞はこの観点からすると、コンピュータのトピック的なライティング・スペースの方に近い。そこでは「印刷」も、テキスト自体が持つトピック的な性質を反映しているのである。……もっと大きなテキストの一単位は、図像と共にコンピュータ・ディスプレイ上で、孤立させることができる。ディスプレイはいわば雑誌の一ページのようになり、そこではテキストの単位が様々な要求に応じて配置され直すことさえありうるのだ。(p114-116)

第6章 電子書籍

……印刷は書物というものが完結した閉じた言語的構成体であるという印象を強めた・中世の写本や初期の印刷された書籍では相互に関係のないテキストがしばしば一緒に綴じこまれてしまったということがあったりしたが、規模の規格化と節約の結果として、印刷をする者たちは一つのテキストにそれぞれ一冊をあてがうようになった。(p143-144)

一冊の書籍が一つの「世界」を構成するようになったのは印刷された書籍が普及してからのようである。そして、ライティングと書籍をつくることが同じ意味(p144)となったことで、印刷された書籍を発行することのできない一般人からライティングは遠ざかっていってしまった。しかし、電位書籍の登場によりこれまでのそういった感覚はなくなっていくかもしれない。「エレクトロニクス技術は書物の観念こそ壊さなかったが、写本や印刷によって育て上げられた「とじられている」という感覚を崩壊させてゆくことになる。書籍が威風堂々と目の前にあるといったことはなくなってしまったのだ」(p145)。

……電子書籍は中世のような装飾の対象としては不適当である。だがその代わりに書籍は抽象的になる。つまりつかむことのできるような物ではなく、概念と化するのである。書き手と読者の関心はコンピュータの画面に映し出される言語的ないしは映像的な観念の構造物としてのテキストに向けられる。今日の電子的ライティングの時代(それは明らかに初期と位置づけられる)においては、読み手は自分がいま書物のなかのどのあたりにいるのかは全く分からない。まだ読んでいない画面が何百とあるのか、或いは残りほんの僅かなのか、読み手には分からないのである。いま電子化されただけのごく普通の文書なら読者にこうした案内をする方法はいくつかあるが、しかし真正のハイパーテキストにおいては終わりなどというものは仮のものでなくてはならない。電子テキストにとっては終結することが絶対に必要だということはないのだ。新しいテキストに枝分かれしたり、或るテキストのどまん中に割って入ったり、何画面かを読んだ後に止めてしまったり、といったことは簡単なことである。読み手が自分の読んだテキストに何かを付け加えたとしても、その付け加えは元のテキストと変わらない地位を得ることもある。電子書籍は他の構造物へと伸びてゆくような構造物である。これは印刷した書籍におけるような比喩的な意味だけではなく、操作的な点でこう言うことができるのである。

 電子書籍は、棚の上に並んだ印刷した書籍のように、それ自体が他の書籍と両側面を接してつながるということはない。その代わりに、電子書籍は何千という点で接し合うことによってより大きなテキスト的構造物へと融合することができるし、また反対に構成要素へと分解しながら、他の書物の構成要素との関連を常に改めて定めなおしてゆくといったこともできる。電子書籍は、世界のライブラリーのなかの他の全ての書物に対して自らが何者であるかを主張する点においては、それ以外の書籍形態ほど強硬ではない。それは広大なライティングの体系の一部として探求するということへとつながってゆき、読者を同時にその書物自体と他の書物との両方へと向けてゆくのだ。こうして電子的なライティングは通常よく知られている「書物」と「百科全書のようなより大きな形態」と「ライブラリー」という区分を崩してしまう。そしてこうして区分を崩して「書物」と「百科全書」と「ライブラリー」を一緒にしてしまうことが、この章でこれから我々がみようとしていることなのである。(p145-146)

この本を読むまで、私はコンテンツは「完成」してしまう以上、そこに介入する意味などあるのだろうかと考えていた。ソフトウェアバグの発生可能性を消滅させることができない以上、「完成」することはできないけれど、コンテンツは「完成」してしまうのではないか。だとしたら、わざわざコンテンツにCreative Commonsのようなライセンスを付与する意味などどこにあるのだろうか、と。でも、上記の指摘によれば、そもそも電子書籍においては「完成」という概念自体が存在していないことになる。インターネット上のコンテンツは、それがソフトウェアや文章、音楽などその内容にかかわらず、「完成」するものではないのだとしたら、ライセンスに対する考え方も変えなければならない。「完成」という概念がそもそも存在しない以上、発展させることの出来る可能性をコンテンツに付与することこそがライセンスの意味なのだと、定義し直す必要がある。インターネット上においてコンテンツは静止状態に置くことができない。それは常に改変の可能性を持つ流動的な状態に置かれることになる。コンテンツは「モノ」から「コト」に変わってしまう、と言ってしまってもいいだろう。

……今日においても、知の統合としての百科全書の理想は完全に消滅したわけではない。エレクトロニクス技術の導入によって再びこの理想が目覚める可能性がある。というのも、コンピュータによって書き手たちは常に古いテキストから新しいテキストをつくろうという気をおこすようになっているし、電子テキストが互いに統合しあってより大きな構造物へ、ひいては百科全書や図書館(ライブラリー)へとまとまってゆくのはごく自然なことなのである。(p149)

これまでの印刷された書籍としての百科全書は、製作者の意図した通りにアウトラインが形成され、読者はそれに従って全書を読み進めるしかなかった。しかし、電子環境における百科全書は、読者自身がアウトラインを創り出すことができる。しかし、それ以上に著者が問題視しているのは、コンピュータがアウトラインを創り出してしまう可能性である。

百科全書的なコンピュータ・プログラムがより凝ったものになるにつれて、読者になり代わってこれまで以上の決定をなし、こうした決定を記号的な形でなくむしろ知覚的な形態で提示するようになるかもしれない。読者は単に眺めるだけの存在になってしまい、百科全書も双方向的なテレビ、ないしは今日言われるところの「仮想現実(virtual reality)」になってしまう。(p165)

ライブラリーとは一つの文化に属する諸々の書物のつくりあげるライティング・スペースを物理的に体現したものである。中世および近世初期のライブラリーではしばしば書籍が書棚に鎖でつながれていた。こうしたライブラリーは単に書籍を収めているというだけではなかった。そこではまさに書籍が調度や壁の一部となっていたのである。百科全書では比喩的な意味でしかできなかったことが、ライブラリーでは読者は文字通りに行うことができる。つまり、テキスト的な空間のなかに入ってゆき通り抜けてゆくことができるのである。(p167)

著者はXanaduを電子書籍におけるライブラリーの一例として挙げている。(p171-176)

理念としてのライブラリーは、電子的なテクノロジーそのものと同様の瞬間的でうつろいやすいものとなるだろう。つまり、それはもはや建築物ないしは固定した概念的構造体ではなく、常に進化しつつある諸要素のネットワークとなるのである。このライブラリーのなかで読んだり書いたりすることは、こうしたネットワークのなかを動き回っていろいろな要素を調べたり変更したりすることになるであろう。書き手と読み手は「結び付いたもの」となり、それぞれの書いたり読んだりする行為が、あとで書いたり読んだりするための痕跡を残してゆく。こうなると、少なくとも一つの意味においてこれまでの全ての時代が目標としていたことは達成されたと言うことができるであろう。つまり、ライブラリーは他でもない、一つの大いなる書物となったのである。書物そのものと同じライティング・スペースのなかに書物そのものと変わらない要素を構成してつくりあげたかつてない大きさの構成物として。(p176)

世界を書物の比喩として考える思考方法があるのならば、「世界をハイパーテキスト的な書物にたとえる比喩の可能性」(p180)が生まれたと言える。ライティングスペースが変容しつつある以上、思考の様式そのものも変化していくことになる。

第7章 新しい対話

この章で著者はウィトゲンシュタインの「哲学探求」をハイパーテキスト的な書籍の例として挙げている。著者はそういった書籍を「アンチ書籍」と読んでいる。(p198)

 ウィトゲンシュタインは、自分の哲学を単線的かつ階層的な形に固めてしまうことはできなかったのである。彼の哲学は、相互に関連しあう話題のなかを通り抜けてゆく旅路のままで留まらざるをえなかったのである。こうしたことに気が付いたため、ウィトゲンシュタインは序文で自ら認めている以上の苦悶を味わい、しばしば自分の書物を仕上げることに絶望したりしていた(Baker & Hacker, 1980, p23)。

…… 少なくとも一時的にはウィトゲンシュタインは『哲学探究』を真の意味でのハイパーテキストとしてとらえていたのである。(p198)

 エレクトロニクスによるライティング・スペースは、過去に書かれたものを消去して不適切なものという烙印を押すよりもむしろ、それらに新しい「文字表記」を与える。というのも、ハイパーテキストはエレクトロニクス・メディアによる文字表記なのである。あるテキストが一つのライティング・スペースから別のライティング・スペースヘと移し換えられる際には、常に文字表記の上での変化を蒙ることになる。例えば、ギリシャ古典はパピルス.ロールから手書き写本へ、そして最後に印刷された書物へと移されていった。我々が今日、プラトンの対話篇やギリシャ悲劇の英語版のぺーパーバックを読む時に、我々はこれが古代ギリシャ語から現代語へ翻訳されたものであることは意識している。しかし、我々は同時にオリジナルのテキストは、書籍の形をしていたのでもなければ、場面わけもなく、段落わけや索引句読点もなく、単語に分けてすらなかったということも思い起こすべきである。現代の印刷におけるこれらの慣習は本来の作品の構成に後から押し付けられたもののうちでも重要なものと言える。これによってソフォクレスは読みやすくなったが、しかしそれによって我々の読むソフォクレスは変化しているのである。十四世紀の英語による手書き稿や、或いは初期の印刷された書物などでも、我々にとっては読むのがきわめて難しい。それはそこに用いられている視覚的な慣習が現代のものと違うからである。だから、こうした古いテキストの尊厳をおかそうとするのは何もエレクトロニクス版になおすことが初めてであるとは思えない。なぜなら、こうしたテキストは常に文字表記上の変化を蒙ってきたからである。

 エレクトロニクス・メディアを用いてそれ向けに書かれたテキスト(こうしたテキストは既にいくつか書かれている)のことになると、もう翻訳は必要でなくなる。こうした新しい作品は書物のぺージやパピルス・ロールのコラムに対応するような単一の線的な秩序というものは持ち今わせてはいないので、もうおかすべき何の秩序もないのである。こうしたテキストに固定した秩序がないことや単線的な議論のかたちをとっていないことがまさに、印刷メディアを用いて仕事をし、これ向けの書き方をすることに慣れた人々の不満の種となるのであるが、しかしこのことが同時に積極的に新しい対話の形式を模索する実験を試みる人々を解放するであろう。新しい対話を書き上げる人々にとっては、単一の議論の代わりに可能的な構造体を作り上げることが課題となるであろう。新しい対話は、プラトンの求めていたようなインターアクティヴなものとなるだろう。つまり、それはそれぞれの読者に対して異なった解答を与え、そして又、プラトンの言葉を借りると、「黙すべき人には口をつぐむすべを知っている」のである。(p204-205)

第8章 インターアクティブフィクション

著者はボルヘスの「バベルの図書館」を挙げ、それが印刷された書籍という思考様式の限界を打破していないことを指摘する。

 ボルヘスにとって、文学は動かしがたい結末と単一の話のすじとその解決を持つものだという立場をとるがゆえにとりつくされているのである。文学を再生するためには、多様性をふくんだ書き方をしなければならないだろう。つまり、複数の可能性を締め出すというよりもむしろ包括してゆくような書き方である。ボルヘスはこのような物語想像することはできたが実際に生み出すにはいたらなかった。彼の『伝奇集』はそれ自体はぺージをおって読まれることを念頭において書かれた伝統的な散文作品である。しかしながら彼の描いた作品や、ハーバート・クエインの小説や「八岐の庭」などは全て、別のライティング・スペースに属するものである。ボルヘス自身はテキストが分岐し、収束し、そして平行して走るネットワークを構成するような電子的ライティング・スペースを手にしたことは一度もなかった。彼には印刷におけるとりつくしの文学が決して電子的メディアの可能性の全てをつくしたわけではないことは知る由もなかった。(p243-p244)

第9章 批評理論と新しいライティング・スペース

 書物を読むことは偉大なる魂との交流であるというベネットの考え方は、実はロマン派の理論と実践を借りてきたものである。それは現代においてこそ伝統的なものの見方になっているが、もちろんそれが登場したての十九世紀初頭においては急進的なものの見方であった。何が急進的であったかというと、それは彼らが文学作品は何よりもまず著者の創造的な人格の顕現であると主張したことであった。つまり、詩人というのは単なる熟練した職人ではなく、他の人問とは異なった偉大な精神の持ち主なのだというのである。ロマン派の批評家は啓示宗教の真理を補完し、或いはそれにとってかわるものとして芸術宗教というものを編み出した(もっとも、それにはマシューアーノルドのように意識的な確信犯だった場合もあれば、シュレーゲル、コールリッジ、シェリーのようにためらいがちな場合もあった)。彼らは詩人を予言者になぞらえ、場合によってはその創造的な力において神になぞらえもした。ある者たちは文学を伝記として扱いはじめ、偉大な芸術家の精神の内をのぞき込むためと称してシェークスピアを読み、ホメロスさえもこうした読み方をした。……しかし、どうすれば普通の読者が偉大なる精神と対話したいという望みを抱くことができるのであろうか。ロマン派と現代におけるベネットのようなロマン派の末喬が正典クラスの著者の偉大さと独自性を強調すればするほど、こうした著者は近づき難い存在になってしまう。批判的に読むことはますます困難になってゆくし、批判的なものの言い方は必然的に口を閉ざすことになる。すると、対話といっても一種の崇拝のようなものになってしまい、再び十九世紀の文学に対する態度に一致することになる。(p264)

書かれた書物の固定性が、書物それ自体を神格化する要因ともなり、だからこそ批評理論が発展する理由ともなった。批評理論は印刷されたテキストの固定性を批判するものだった。

……正典とか読み方についての正統主義的な考え方は手書きのテクノロジーを起源とするが印刷のテクノロジーによって育まれたのである。手書きが既にテキストを固定化するという目標を暗示していたとすると、印刷は真の意味での文化の固定化を達成し、何千年ものあいだテキストがそのままの姿を保つことを可能にした。著者たちに正典というレッテルを貼ることは印刷よりも歴史が古い。例えば、アレクサンドリア期のギリシャの学者たちは叙事詩、将情詩、悲劇詩に関する正典というものを定めていた。現代における正典の考え方の範例となっているのはキリスト教における聖典についての正典である。これは手書きの技法が比較的洗練されてきた時代である古代後期に発達したものである。新約聖書の正典は明らかに手書き写本がテクノロジーとして躍進したことと連動して形成されていったものである。しかし古代と中世を通じて一貰して、人の手で書き写していくことは正典となるテキストを絶えず誤りにさらすことになった。印刷はこうした正典を作成するのに、少なくとも二つの点で功績があった。まず、作品を無時間的なものにする、つまり実質的な変化なしで数世紀のあいだ生き延びることができることを保証する点で、手書きよりもはるかに効果的であった。さらに又、それによって正典の作品に威厳と近寄り難さを与えることになった。同時に、他の文字を使える人間には利用できないライティング・スペースを与えることで著者という存在を特別なものにしてしまった。

 印刷の時代に、誰がテキストを書いたかを特定してそのテキストの真性であることを証明することが盛んになったのは偶然のことではない。こうした学究は「テキスト批判(textual critic)と呼ばれるものだが、これはルネッサンスに始まって、十九世紀に頂点に達した。この厳密極まりない学究の目指すものは、プラトン、エウリピデスや教父たちが「実際に」書いたものを一字一字確定してゆくことである。これは言い換えれば、印刷の持つ正確さの基準を古代や中世の著者たちにおける手書きの伝統にも適用しようとするものである。テキスト批判はそれぞれの著者に対するささやかな正典をうちたてようとするところから始まった。この正典とは、著作一覧の決定版とそれぞれの著作の校正の決定版をつくることであり、校訂版にはあらゆる表記上の異同が脚注のかたちで附記されている。印刷はさらに、偉大なる著者に対しては単一の正典が存在するという理想をつくりあげていった。つまり、全世界の読者の手元に届けられるこうした著者の著作は何千冊にものぼるだろうが、しかし同一のものでなくてはならないという考えがここにはあるのだ。印刷は大量生産の技術によって、同一の文化におけるあらゆる読者がこうしたテキストを手に入れられるようになるのに貢献している。同時に、読者がテキストの占める空間に入り込めないようになるのが確実になるに従って、崇拝的な読み方が広まってきたのも、印刷のおかげなのである。(p266-267)

崇拝するような読み方を批判する批評家たちはいまだに印刷された書物を読んでいるのだが、しかし彼らの態度は皮革装丁された書物よりもむしろぺーパーバックにこそふさわしい。実際、以下にこの章で取り上げる受容理論による批評やデコンストラクションなどを含む急進的な文学理論は今なお、読者は印刷された書物を読んでいるのだという仮定に基づいている。しかし、実際には電子的メディアこそが彼らの示唆する非崇拝的な読み方には自然な場なのである。(p268)

電子テキストによって能動的な読みが実現されることにより、「読者はあまり著者を崇拝するようにはならなくなるだろう」(p269)。

 電子的テキストが世界であるとすると、それは常に動きつつある世界であろう。(p272)

コンピュータのテキストは決して静的なものではないし、また読者がそれに与える様々に変わるコンテキストからかけはなれたものでもない。(p273)

問題は、電子的テキストのデコンストラクションがわざわざするに値するものかどうかということである。印刷されたテキストが不可避的に真面目くさったものになるのとは対照的に、電子的テキストは決して真面目なものにはならない。デコンストラクションはそれ自体は遊びに満ちたものなのだが、しかしこの遊びに満ちた態度は対照の側が根本的に真面目なものであることを要求する。電子的テキストは既に不安定で流動的な言葉の集合としてばらばらなかたちで我々のもとにやって来る。どうしてこれをこの上デコンストラクションにかけようとするのだろうか。

 我々はもっと一般的なかたちで問いを発することもできる。テキストそれ自体が自らを批判しているのにどうしてこの上何らかの批評が必要なのだろうか。実際、電子的テキストは批評に対して敵対的ではない。むしろ批評をその内に内蔵しているのである。(p290)

電子メディアは書くこととテキストを解釈することとの間の区別を解消してしまう。この区別はポスト"モダンの批評家たちが印刷についても同様に否定しようと試みたところのものである。彼らは、テキストはその解釈以上の重要性を持たない、なぜならテキストはその解釈から切り離せないからだ、と主張する。今や、電子的ライティング・スペースではあらゆるテキストの読み方がテキストの顕在化ないしは書き直しであり、ここでは実際に解釈することと読むことは同一なのである。しかしこのような洞察もまた無害なものであることが分かる。というのも、著者はこのようなことを予期しながら書くからである。著者はテキストをつくりあげる過程から読者を排除しようとはしないし、また自分のテキストが不可侵のものではないと知ってもショックを受けたりはしないだろう。(p291)

 電子的ライティングはデコンストラクションの逆説を乗り越えるものである。というのもそれはデコンストラクションが文学や言語の究極の限界として提示したまさにその性質、例えば記号の戯れや、テキスト相互性、完結性の欠如といったものを長所として受け取るからである。電子的テキストは伝統的な静的で記念碑的なテキストという見方に回帰することは許さない。……デコンストラクションは我々を余りにも緊密に印刷のテクノロジーに結び付いた思考形態から解放するのには役だった。デコンストラクションはそれゆえに電子的ライティングが何でないかを教えてくれた。しかし我々は電子的ライティングを積極的に理解するには新しい文学理論を必要とするのである。(p292)

どんなハイパーテキストでも読者は言語的なテキストを読むことと構造体を読むこととの間を行きつ戻りつしているのである。言語的テキストを読んでいる時には一時的にハイパーテキストの構造を忘れてテキストの声に集中しているかもしれない。しかし構造の中を移動してゆく時になって、読者は諸要素のネットワークとしてのハイパーテキストヘと引き戻されるであろう。よいハイパーテキストの構成はこうした二つの読み方の間の推移がほとんど苦もなくできるようになっている。見つめることと見通すこととの間の揺れはすばやいものになって、二つの経験が融合してしまうことになる。ハイパーテキストの構造はそれゆえに常に読者が読み進めて行くのに従って読者に現前するのである。ハイパーテキストでは諸要素のネットワーク、記号学者が「記号」と呼ぶもののネットワークから逃れることはできないのである。(p295)

第10章 人工知能

……読むことと書くことが記号のネットワークを創造し、操作することであるならば、思考することは読むことであり、書くことである。人工知能はコンピュータの世界に意味論的樹系図、ネットワーク、スクリプトフレイムを与えたのである。こうしたものは、統辞的構造であり、それによって人工知能のプログラムは自らのテキスト的世界を読み、書くのである。つまり、人工知能が作るテキストの意味というものは、その統辞的構造以外の何物でもない。(p324)

人工知能が作り出そうとしているものは、自分自身を書くテキストであり、そしてどのようなものであれそうしたテキストは常に、離れてはいるけれども完全に不在ではない人間の書き手、或いはプログラマーと対照することによって理解されるであろう。コンピュータが見たところ自律的であっても、単にそれは書物が見かけ上独立しているということが改めて明らかにされるだけのことなのだ。コンピュータの口調というものは、何世紀もの間書物のぺージの間から我々に語りかけてきた散文の口調である。書物の口調に対する我々の曖味な反応(それは著者であろうか?それとも単に読者の声に過ぎないのだろうか?或いはそのどちらからとも独立な何かなのであろうか?)は、コンピュータが掻き立てる関心および恐怖の源泉である。(p330-331)

第12章 精神を書く

口承文化では、言葉としての自己などというものが省察に耐えるほど長く存在することは、決してない。言葉を発する者としての我々は、自分の言葉にとらわれている。言葉から距離を取って、それが誰か他の人によって語られたかのように検討するというような暇はないのである。言葉によってなされる思考を目で見えるようにすることで、ライティングは個人的・文化的メタファーとしての精神を創り出す。それは厳密な意味においてメタファーであるつまり、単に別々のものが二つあって(一方にはライティング・テクノロジー、もう一方には精神のキャパシティーなり状態なりがある)その間の比較というのではなく、むしろその両者の同一視なのだ。一度ライティング・テクノロジーが確立されると、記憶と理性を特殊な種類のライティング、すなわち精神におけるライティングとして考えざるをえなくなる。記憶はライティング・スペースになり、書き手は目という窓を通して世界を見つめ、何が見えるか記録していくホムンクルスになる。このホムンクルスは知覚を言葉とイメージに変換し、それを記録する。そして彼はさらに、自らの内なる思考と結論を書き留める。考えるということは思考という言語によって書くことであり、思い出すということは我々の記憶空間を探りそこに書かれているものを見つけることである。(p369-370)

 手短に言おう。コンピュータは、書くということがはらむパラドックスを、それ以前のいかなるテクノロジーよりもはっきりと強調してしまうのだ。コンピュータは、書き手とライティング・テクノロジーの間に存在する障壁を消し去ることを約束する。コンピュータの示唆するところでは、書き手/読み手は書物を取り戻し、結局は自己自身の内で、或る意味では自らも含めて、記号を用いたものなら全てのライティングの総和と化してしまう。だがそれでもコンピュータはこの約束を、人間の精神をコンピュータ自身のイメージ通りに変えてしまうことによって果たそうとするのだ。書き手とテキストの間のギャップを解消するために、コンピュータは書き手の精神そのものをテキストに変えてしまうのだ。(p385)

 テキストというものは全て、意味の中を俳徊するのであるし、書き手はその流れを押し止める術も、意味を決定する特別な保証も持たない。この場合テキストは個人の内的発話であり、流れに対して抗さないのは他のテキストと同じである。自分の内的発話の書き手としての個人は、その発話がどのような意味を持つのか決定するような権威は全然持っていない。何故なら、内的発話と言ったところでそれは単に、相互に関連する記号の別種のネットワークだからである。ホイーラーが言うように、書き手の意図も又、ネットワークの部分なのである。自分が書いたテキストに対する解釈がなされていくのを、書き手が止めることはできないが、個人が自分自身の思考を解釈するのを終えることができないのは、それと同様である。代わりに、新しい思考が先行する思考を説明しようとするとそれは、分岐していくネットワークの一部分になるのだ。志向性に関する論争は、かくしてテキスト、書き手、読み手についての形を変えた論争であるのだ。(p388)

第13章 文化を書く

 「コンピュータを使いこなして読み書きできる能力(computer literacy)」と言うと、コンピュータを操作する能力(フロッピーをどのように挿入するのか、どうすればプログラムを起動できるのか、さらにはおそらくはワープロにどのように入力すればいいのか)であるか、或いはプログラミングとコンピュータ・サイエンスの諸概念に関する専門的な知識であるか、そのどちらかを意味していると受け取られてきた。先行する諸章で我々はこの言葉の、それとは異なる、もっと一般的な定義を考えてきた。すなわちコンピュータ・メディアにおいて読み書きする能力と、いかにしてコンピュータがライティングニアクノロジーが持つ長い伝統に適合するか、ということに関する理解とである。(p393)

確かに、この本を読むとcomputer literacyに対する考え方は根本的に変わってしまう。

 今日の我々のテクノロジーにおける「神官」を、評者はしばしば、古代近東の社会に見られる、書記を兼ねた神官に比す。もしもコンピュータでの読み書きが読み書きの新しい一般的な形態であるなら、明らかにそれは古代社会の神眉や統治者が読み書きできたよりもずっと広い階層のものでなければならない。とは言っても、それは普遍的というわけではないかもしれないし、ここ何世紀か行われてきた従来の読み書きと同じ程度広まるというわけにはいかないかもしれない。我々の社会はテクノロジi的に洗練された上層階級と、言うところの情報経済において必要な技術を持たない下層階級に分かれつつあるのではないか、と懸念する社会学者や経済学者もいる。こうした懸念は誇張されたものであるかもしれないが、全く根拠がないわけでもないのだ。そしてもしこのような分岐が存在するなら、コンピュータ上での読み書きは、その際に区別の指標となる能力ということになろう。エリートとは、コンピュータを使いこなして読み書きのできる者である。つまり彼らはマシーンを仕事と、たぶん同様にレクリエーションのためにも利用するであろう。コンピュータを使えない者は、せいぜいマシーンの受動的な使用者、と言うか読み手でしかなかろう。彼らはデータを入力することぐらいはできるかもしれない。キャッシュレジスターはもうとっくにマイクロ・コンピュータと化してしまっているが、預金者がそれを使うのと同じような意味合いで。だが、彼らはマシーンを使い、記号論的なコミュニケーションの可能性を汲み尽くして、何かを書くということはできないだろう。たとえコンピュータが余暇の時間に入り込んでくるとしても、現在のビデオ・ゲームの如き、ただし視覚的には遙かに洗練された、知覚的な玩具としてであろう。このようなゲームは、プレイヤーに記号的なコミュニケーションの機会をほとんど与えはしない。ハックスレーの『素晴らしき新世界』では、子供たちのゲームは外見においては複雑で、実際に行う上では単純であることが求められていた。子供が機械仕掛けの上から穴を目がけてボールを投げる。ボールは穴の底から再び出てくるまでに、トンネルとリングの長い連なりを通って運ばれる。つまり、ゲームは大部分、機械を眺めていることから成り立っているのだった。(p394-395)

 すると、危険はコンピュータが書物に取って代わる、というようなことではない。むしろ、コンピュータがライティングの新しいシステムになる、という約束を実現せず、従って、我々に新たな種類の書物を与えてくれることができないのではないか、ということである。約束を実現するためには、コンピュータがただビデオ・ゲームのためにだけ用いられるようではだめなのだ。それ以前の全ての読み書きのシステムのように、コンピュータを使った読み書きも記号体系的である。記号体系は、記号の読み書きを含意し、記号を含まないような人間の活動は読み書きと混同されてはならない。知覚や運動における熟練を含むような人間の活動は重要ではあるが、それ自体読み書きとなるわけではない。同じように、読み書きは知覚的な熟練の代わりにはならない。 (p395)

……(※テレビの中で)読者や視聴者は受動的な役目を演じるのであって、テキストの中に入り込み、結果として真に批判的な距離を失う。実際、受動的な読書とはテキストの中に埋没したいという欲求だが、それは読書が記号体系的経験よりもむしろ知覚的経験となりうるということとごく近い。リモコンを使って番組を「バッサリと」中断することが、テレビをあたかも書物のように読む方法であるとするなら、通俗小説を受動的に読むことは、書物をあたかもテレビのように眺める方法であろう。受動的な読書の行き着く先は、提供される物語世界と一体化して、我を忘れることである。この意味において、受動的読書は反読書である。本当の意味での読書とは、記号との出会いであるからだ。その中で読者は、常に自分がテキストから独立していることを主張する(そして繰り返し独立を失う) のである。

 それ以前の読書の技術と同様に、コンピュータも反読書のために用いられうる。CAIは、学生の参加を促すことを意図するにも関わらず、読者としての学生を画面に頼る受動的な状態に引き下げてしまう。そしてもし仮に人工知能がコンピュータの内側に全人格を作り上げることに成功したとして、人間のユーザは、機械によって提供されるモノローグに耳を傾けるだけの、単なる受動的な読者になってしまうだろう。(p403)

著者はこれまでの能動的な読みではなく、受動的な読みを「反読書」と呼んでいる。

……仮想現実はそれ自体として知的・文化的発展を支援できないということは、明白にしておくべきだ。それは常に、我々が時々足を踏みいれる「別」世界であるにとどまらなければならない。コンピュータの環境が「現実」の環境ではない、などということが問題なのではない。知覚だけの世界をアマト築くことには、些かもおぞましい点や不都合な点はない。人間は何千年もの間、技芸とテクノロジーによって、自らの知覚世界を再現することに没頭してきたのだから。問題は、仮想現実が、少なくともそれが今のところ想像されている限りでは、記号のメディアであるというよりも、むしろ知覚のメディアであるということなのだ。要は、仮想テレビなのである。(p405)

……本書の冒頭から見てきたように、伝統的な印刷に基づいて読んだり書いたりすることが終焉を迎えたと言っても、読み書きが終わったのではないということだ。コンピュータとは、単なるテクノロジーであるが、このテクノロジーによって、読み書きするという営みは新しい時代へと足を踏み入れることになろう。 (p420)

 コンピュータは我々のネットワーク社会にとって理想的なライティング・スペースである。何故なら、それはごく受動的なものから非常に積極的なものまで、あらゆる種類の読み書きを許容するからである。ユーザの多くは(おそらくこれが最大のグループであろう)買い物をし、天気予報を読み、仮想現実という形でファンタスティックなビデオ・ゲームをするために、マシーンを使うであろう。ハゥツー書の電子版、双方向的な恋愛小説やSFその他のジャンルには、大きなマーケットができるだろう。小さなグループは双方向的な「純」文学や、ノン・フィクションを読んだり書いたりするだろう。学者のごく小さなネットワークは、古代、近代の文学・言語に関する難解な研究を進めるだろう。商業的、学問的、政治的コミュニケーション・ネットワークにおいては、原理主義的宗教から、宇宙探検まで、何百何千の関心を異にするグループが、メッセージとハイパーテキストを公表し、他のグループのものを読むだろう。政府や企業は何十億もの電子文書を生み出すことだろう。こうしたグループは皆、多様な目的のために様々なレヴェルで接触するだろう。言い換えれば、印刷時代末期の出版とコミュニケーションにおける混沌が継続することになろう。安定性と文化的一貫性という理想は大部分消え去るだろうし、そのような一貰性を護持する必要を感じる人もほとんどいないだろう。書き手と読み手のごくごく小さなグループでさえも、電子ネットワーク内のそれなりの場所で心地良く活動できるのだから。コンピュータは、実際のところ、読み手と書き手に対して、各々が関心を持っていることをするのに格好な、落ちついた場所を提供することができる。そこで彼らは、かつて文化が共有されていた頃、それを構成していたものの名残りが発する雑音から、まずは保護されているのだ。ライティング・スペースとしてのコンピュータは、仕事、余暇、そして他の電子メディアといった日常世界において目を光らせているお偉方から身を隠すための場所にもなりうる。このスペースでは、文化の枠組みの中で書くということに与えられる多様な定義は、全て存続することができるが、逆に自分以外の全てを犠牲にして、或るたった一つの定義だけが凱歌を奏するということだけは、ありえないのである。(p421-422)

第14章 結論

電子ライティングの世界には、万人必読のテキストというものはない。テキストがあって、或るものは多くの読者が、又或るものは少数の読者が、詳細に検討したりしなかったりする、ただそれだけのことだ。偉大で、避けて通ることが許されないような書物というものは、印刷時代に属するのである。そして印刷時代は今や過ぎ去りつつあるのだ。(p426)

ライティング・スペースの変容は、当然著作権のあり方にも変化を促すことになる。電子ライティングの世界における著作権は、印刷された書籍とは違った原理の元に構成される必要がある。それはただ単にこれまで印刷された媒体がインターネット上に存在しているということではなくて、ライティング・スペースの質の変化が情報のあり方そのものを変えてしまった以上、思考の方法という次元からこれまでの見方を変えていかなければ理解することはできないだろう。

はてなユーザーのみコメントできます。はてなへログインもしくは新規登録をおこなってください。