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2006-12-29

[]高学歴社会の大学エリートからマスへ

以前書いた読後録のリサイクル。大学が大衆化するにつれて起る変化を、エリート型大学、マス型大学、ユニバーサル型大学という三つの段階に分けて検証している。この本が出版されたのは1976年だが、その時点で既に大学のマス型化、ユニバーサル型化は問題になっていたということになる。

訳者あとがきに、この本の要約を表にまとめたものが掲載されている(p194-195)。この本に納められている3つの論文で繰り返し説明が成されているため、この表を見たほうが理解が早いかもしれない。

高等教育制度の段階エリート型マス型ユニバーサル型
全体規模(該当年齢人口に占める大学在学率)15%まで15%以上〜50%まで50%以上
該当する社会(例)イギリス・多くの西欧諸国日本・カナダ・スウェーデン等アメリカ合衆国
高等教育の機会少数者の特権相対的多数者の権利万人の義務
大学進学の要件制約的(家柄や才能)準制約的(一定の制度化された資格開放的(個人の選択意思)
高等教育の目的人間形成・社会化知識・技能の伝達新しい広い経験の提供
高等教育の主要機能エリート・支配階級精神や性格の形成専門分化したエリートの養成+社会の指導者層の育成産業社会に適応しうる全国民の育成
教育課程(カリキュラム高度に構造化(剛構造的)構造化+弾力化(柔構造的)非構造的(段階的学習方法の崩壊)
主要な教育方法・手段個人指導・師弟関係重視のチューター制・ゼミナール非個別的な多人数講義・補助的ゼミパートタイム型・サンドイッチ型コース通信・TVコンピュータ・通信機器等の活用
学生の進学・就学パターン中等教育終了後ストレートに大学進学、中断なく学習して学位取得、ドロップアウト率低い中等教育後のノンストレート進学や一時的就学停止(ストップアウト)、ドロップアウトの増加入学時期のおくれやストップアウト、成人・勤労学生の進学、職業経験者の歳入額が激増
高等教育機関の特色同質性(共通の高い基準をもった大学と専門分化した専門学校多様性(多様なレベルの水準をもつ高等教育機関、総合制教育機関の増加)極度の多様性(共通の一定水準の喪失スタンダードそのものの考え方が疑問視される)
高等教育機関の規模学生数2,000〜3,000人(共通の学問共同体の成立)学生・教職員総数30,000〜40,000人(共通の学問共同体であるよりは頭脳都市)学生数は無制限(共通の学問共同体意識の消滅)
社会と大学との境界明確な区分 閉じられた大学相対的に希薄化 開かれた大学境界区分の消滅 大学と社会との一体化
最終的な権力の所在と意志決定の主体小規模のエリート集団エリート集団+利益団体+政治集団一般公衆
学生の選抜原理中等教育での成績または試験による選抜(能力主義能力主義+個人の教育機会の均等化原理万人のための教育保障+集団としての達成水準の均等化
大学の管理者アマチュアの大学人の兼任専任化した大学人+巨大な官僚スタッフ管理専門職
大学の内部運営形態長老教授による寡頭支配長老教授+若手教員や学生参加による“民主的”支配学内コンセンサスの崩壊?学外者による支配?

高等教育の大衆化 - 量的発展と質的変容 -

先進諸国で高等教育の量的拡大が顕在化し始めたのは第2次大戦後で、1960年代には学生運動の高まりにより高等教育の大衆化が深刻な問題を引き起こしていることが明らかになってきた(p3)。それは当初同年齢人口の4%のみを擁していたエリート型であった大学が、次第にマス型(同年齢人口の約半数)、そして今後はユニバーサル型へと移行することに起因する(p4)。それそれのタイプでは大学の性質が違うにもかかわらず、その違いを理解せずに大学を見てしまっているところに問題がある。筆者はここに2つの異なる過程があると指摘する(p8-9)。ひとつはエリート型大学の拡張。もうひとつはエリート型大学のマス型高等教育体制への変容。「高等教育の在学率が同年齢の約一五%をこえて増加する場合には、たんにエリート型の大学制度をそのまま拡大してくだけでは充分ではない」(p9)。特にアメリカの場合は、ヨーロッパと違い、高度で単一的、且つ中央からの統制ないし調整を受ける少数の大学から成る大学制度ではなく、共通の基準がなく、中央からの統制もない巨大で多様化した高等教育体制を備えていたことが、エリート型からマス型、そしてユニバーサル型への大学の変容を容易にしている側面がある(p10)。筆者は大学のユニバーサル型化において3つの現象が起きていると述べている(p15)。

  1. 教授団や学生層の内部で合意(consensus)が成立していない
  2. 自分の意志ではなしに通学してくる学生の比率が高まっている
  3. 正規の大学教育プログラムの拘束に対して多くの学生から一種の反乱が生じている

1968年の時点で、アメリカ全国の高校卒業生のうちその後直に高等教育の進学した者は約半数で、更に10%は卒業後やや遅れて進学している。このような状況になると、大学進学は特権から権利、そして最終的には義務へとその価値が変化してくる。不本意就学(involuntary attendance)が増加してきてしまう。(p28-29)

 ごく最近まで、アメリカではマス高等教育制度に就学することは本人の自発的(voluntary)な意志によるものだった。かつては大学への進学は特権であり、ところによっては権利となったが、まだ多くの学生にとって義務とは感じられるまでにはなっていなかった。大学への就学が(選抜のきびしい、大部分が私立大学の場合のように)特権とみられようと、あるいは(それほど選抜がきびしくない大多数の公立大学の場合のように)権利とみなされようと、ともかく自らの意志による就学は、暗黙のうちにいわゆる“大学当局”によって定められた大学の性格と目的を受けいれる形で行われていた。学生が大学教育の本質とその履修要件を規定している理事会や管理当局や教授団の権威を逃れようとすることはあっても、それに戦いを挑むということはまずなかった。わずかな例外をのぞいて、学生は大学の管理運営にほとんどさしたる役割を演じていなかった。

 学生数の増大とユニバーサル高等教育への移行は、多くの学生に大学への就学をしだいに義務と感じさせるようになり、かれらはますます“自分の意志からではなく”就学する存在となりつつある。こうした意味で、社会階層や地域によっては、大学は、義務化された就学が学生の学習への動機づけや学校嫌いや非行といった問題をますます深刻化させている小学校や中等学校とあまり変わらないものになりはじめている。(p29-30)

こうした状況は例えば20世紀の最初の2,30年間にアメリカの中等学校で生じたカリキュラムの変化と同様の変化を大学にも齎している(p32)。学生は自ら学習への動機づけを持っているという前提が成立しなくなり、学生の興味をひくような教材を導入する必要性が増大してきた。筆者はカリキュラムの変化を5つ挙げているが、これは日本におけるゆとり教育のそれと類似する部分もあり興味深い(p35)。

  1. 書物をはなれて行動へ
  2. 客観的な分析と批判から主体的な肯定と関与(commitment)へ
  3. 単独の勉学から集団作業と共同的交流の喜びへ
  4. 成績の競争主義から非形式的な成績なしの“評価”へ
  5. 反証の探求を特徴とする無味乾燥でみせかけの客観主義から、関与(engagement)と参加(membership)という報酬へ、また適切な道徳立場の明確化と確認へ

多くの学生達は、「学生に究極的意味を与える説教師、導師、探求者」(p36)のような教師を求め始めている。これはマックス・ウェーバーが『職業としての学問 (岩波文庫)』の中で批判した予言者のようなものである。

学問がこんにち専門的に従事されるべき「職業」としてもろもろの事実的関連の自覚および認識を役目とするものであり、したがってそれは救いや啓示をもたらす占術者や予言者の贈りものや世界の意味に関する賢人や哲学者瞑想の産物ではないということは、もとよりこんにちの歴史的情況の不可避的事実であって、われわれは自己に忠実であるかぎりこれを否定することができない。そして、もしここにふたたびかのトルストイがあらわれて、学問がそれをなしえない以上は、例の「われわれはいったいなにをなすべきか、またいかにわれわれは生きるべきか」という問い - あるいは今夜ここで使われたことばでいうならば「あい争っている神々のいずれかにわれわれは仕えるべきか、またもしそれがこれらの神とはまったく違ったものであるとすれば、いったいそれはなにものであるか」という問い - に答えるものはだれかとたずねたならば、そのとき諸君は答えるべきである。それはただ予言者か救世主だけである、と。(『職業としての学問 (岩波文庫)』 p65-66)

大多数の青年男女をハイスクールからストレートに大学に送りこむだけでは、なんら問題の解決にはならないのである。引き延ばされた正規の学習期間を通じて、自分の成人としての役割を確立し、本質的に充実感を味わうことのできる若者はたしかに存在する。しかし大学がそうした若者だけで占められるのは、同年齢人口のうち一〇%ないし一五%、あるいは二〇%の比率までは可能であっても、五〇%、六〇%、あるいは七〇%の青年たちのすべてがそういう学生たちだけで占められるということはありえないのである。ほとんどすべての青年を大学に行かせることは、かれら自身を欲求不満に追いやるばかりか、大学の存立基盤をくつがえすことになる。アメリカ高等教育の将来をたんなる過去の延長線上には想定しえないと信ずるに足る理由はこの点にある。 (p37)

私は万人が大学に接近できる状態(universal access)の実現に反対しているのではない。私が反論するのは、誰もがハイスクール卒業後ストレートに大学に進学しうる状態が社会的強制の結果として生じなければならないとする考え方に対してなのである。(p39)

著者は大学のユニバーサル化で大学に入学してくるであろう3つの形態の学生を挙げている。(p40-41)

  1. 過去においては大学に進学する野心をもちえず、またもっていてもそれを実現するに必要な資源をもたなかった貧しく文化的にも恵まれなかった人びと
  2. これまで大学に入学したことも卒業したこともなく、職業生活の半ばでみずから教育を受けたいと欲し、あるいはよりよい資格を得たいと思っている“成人”
  3. 大学該当年齢の“不本意”学生

このような状況下で、学生の自発性を高める意図で一時的就学停止を推奨する傾向も増している。ここではウエズリヤン大学の教務部長コメントが紹介されている。

 「ハイスクールの卒業生に告げようではないか。『われわれは君にそもそも教養大学(liberal arts college)とはどんなところか、説明してきたつもりです。もし君がこの大学が提供している諸々の選択要件にほんとうに興味がそそられたなら、どうぞいらっしゃい、君と一緒に勉強することを大いに楽しみにしています。しかしもし君がしばらく仕事に就いた方がいいと思っているなら、“現実の世界”に飛び立ってみなさい。君がいまただちになにか社会の役に立つことをしてみたいと思うのならば、あるいはどうして大学に行かなければならないのかどうもわからないと考えているなら、われわれは君が一年か二年、いや三年でもよい、大学の外で生活して、ほんとうに大学に来たいという情熱に目覚めたときに、われわれのところに戻って来るよう勧めます』。これと本質的に同じことを、われわれの大学に在籍している一部の学生たち - つまり自己の活力や動機を喪失し、無決断と欲求不満の海にもがきながら、一切の自己の行動に即刻“ピンとくること”(relevance)を性急に求めている学生たち - にも言ってやろうではないか」。(p44-45)

高等教育の構造変動

 直接政治とのかかわりはないが、進学率の上昇にはもうひとつ重要な意味がある。すなわちある年齢層の若者のうち大学に進学するものの数が年々増加すれば、それに伴って大学進学のもつ意味も変化していく。はじめは「特権」だった大学進学は「権利」となり、やがては現在のアメリカがそうであるように、一種の「義務」に近いものへと転化する。第三段階の教育機関に在学することの意味、ないしは意義のこうした変化は学生の進学動機だけでなく、かれらをむかえ入れる高等教育機関の知的雰囲気やカリキュラムにもはかり知れない影響を及ぼす。(p61)

3章で詳しく論じることになるが、筆者はエリート教育が必要だという立場に立っている。しかし、エリート型からマス型、そしてユニバーサル型へと移行していく中で、高等教育の意味も必然的に変化してくる。

 高等教育の発展の相違は、学生や全体社会のと関係で高等教育がはたす機能の相違とも結びついている。エリート高等教育はなによりも支配階級に属する人々の精神や性格の形成機能をはたし、学生を行政や専門的職業など、多様なエリート役割にむけて準備する。これに対してマス高等教育の場合には、高等教育機関は依然としてエリート養成を行うものの、そのエリートの範囲は拡大し、社会のあらゆる技術・経済組織体のリーダー層をふくむようになる。そして教育の重点も人間形成から、特定の専門分化した役割をはたすエリートの養成へと移っていく。万人に進学の機会を提供するユニバーサル型の高等教育機関になると関心ははじめて、多数の学生に高度産業社会で生きるのに必要な準備をあたえることにむけられる。高等教育機関は広い意味でも狭い意味でも、エリート養成を主要な目的とするのをやめて、全国民を教育の対象とするようになり、その関心はなによりも、社会と経済の急激な変化に特徴づけられた社会が要求する適応性を、十分にあたえる教育にむけられるようになる。(p65)

ただし、マス型でもユニバーサル型でも、その内部にエリート型は残っていくと著者は述べている。

マス段階の制度のもとでもエリート機関は存続し、むしろ繁栄するし、またマス高等教育機関の内部でも、その一部がエリート機能をはたしつづける。同じように(アメリカの場合がそうだが)高等教育がユニバーサル段階に近づいたからといって、エリート型・マス型の高等教育機関が消滅してしまうわけではない。(p82)

しかし、高等教育機関の形態が変化することで、その内部のスタイルにも変化が起る。

 学生数の増加はまず、大学進学の意味についての学生たちの考え方を変化させる。在学率が同年齢の四、五%という段階では、学生たちは、なんの疑いもなく、自分たちは少数の特権階級の一員なのだと考える。このことはかれらが従順だとか謙譲だとかいうのではない。かれらは自分が教授や講師とともに、共通の価値、シンボル儀式、話し方、生活のスタイルなどに象徴される、一連の明確な共通利益に結ばれた、小規模の特権的な機関に属しているのだと感ずるのである。そしてそれによって大学は社会の他の部分に対して、自らの共同体としての総合性をたもってきた。学生たちが実際にはきわめて反抗的だったとしても、かれらの反抗や示威行動は自分の所属する機関の成員に対してではなく、国家や他の政治機構にむけられるのが通例だった。

 在学率が同年齢層の十五%から二〇%に達し、またヨーロッパの大国にみるように、学生数が従来の五万人足らずから五〇万人をこえるようになると、必然的に事態は変わってくる。学生たちは、自分は一定の資格要件をみたしているのだから、当然大学に入学する権利があると考えるようになる。また一部の学生にとってさらに、進学はある程度義務と感じられるようになり、そうした学生の比率が次第にふえていく。つまりどの国でも進学者の数がふえるが、それは少なくとも、ある社会階層の親にとって子どもを大学にやることが「当然のこと」と考えられるようになるからである。こうして学生たちは、自分がはじめから選び抜かれたエリートだなどとはあまり考えなくなり、二〇年前の学生たちにくらべてずっと規模の大きい、(ときには一桁も違う)大学に入る。この種のマンモス大学は大ていあまり個性がなくて騒がしく、政治活動がさかんだという特徴をもっている。学生や教師の間にはかつてのように、自分たちが特別の「身分階級」に所属しているのだという意識はない。大学の「共同体」的性格もまた希薄化していることはいうまでもないだろう。(p85-86)

エリート型からマス型、ユニバーサル型への移行には様々なジレンマも伴う。(p93)

  1. 高等教育機会の質は同一のものでなければならない
  2. 新しいタイプのマス高等教育の評価基準が、教育費の高いエリート高等教育である
  3. 伝統的な小規模のエリート制度の時代と同じ学生一人当り教育費では、国家財税が急増する学生を賄いきれなくなり、他の公共部門の予算要求と競合せざるをえなくなる

エリート型とマス型は違うという認識を持たなければならない。「どんなにゆたかな社会でも、同年齢層の二〇%から三〇%にも及ぶ学生に、在学率が五%足らずだったエリート高等教育の時代と同じコストの教育を与える、ぜいたくな制度を維持する余裕はない」(p95)。平等主義者は、高等教育制度を構成するそれぞれのセクターの間での格差が存在することを認めず、また制度全体として高い共通水準を達成すべきだと主張する。しかしこのような「一元論」的主張は、様々な点で無理がある。

…… すべての高等教育機関の水準を一流大学のそれまで引き上げようという一元論的立場は、高等教育制度の成長に歯止めをかけることになりやすい。(p96)

平等主義者的精神では、「高い水準での質の平準化をはかるよりむしろ、低い水準での平準化のもとに量的拡大をめざすことになりやすい」(p96)。

高等教育の大衆化により、大学卒業者が急増すると、卒業証書の社会的な意味も変化してくる。

 高等教育の大衆化は教育と職業構造との伝統的な、固い結びつきを断ち切ってしまう。伝統的な構造のもとでは、大学の卒業証書はその持ち主を特定の職業や専門的職業の「有資格者」にしただけではなく、これまで大学卒を採用したことのない職業については「無資格者」とするものであった。したがってそこでは、「大学卒の失敗」は、大学卒が非大学卒との競争に敗れて就職できなかったというわけではまったくなく、かれらが自分の地位や威信にふさわしいと考える職業を手に入れ損なったことを意味した。ところが高等教育の大衆化が進むと、こうした結びつきは断ち切られてしまう。高学歴者は体面を損なうことなく、どんな職業にでも就けるようになる。かれらは、それが「ふさわしくない」職業であるかどうかなどといった先入観にとらわれずに就職し、あとから自分のついた職業を、地位の面でも技術や主体性という点でも「格上げ」していくことができるのである。こうして大学卒が、同じホワイトカラー職業をめぐって、非大学卒と競合するようになれば、非大学卒も対抗上なんらかの正規の資格を取得しなければならなくなる。それは産業社会において、一般大衆と職業構造の両面から進行する、高等教育に対する需要の増大の過程と不可分に結びついた過程であるといえるだろう。(p103-104)

大学で得ることの出来る技能について、以下のように述べている。

……高等教育を通じて獲得されるもっとも重要な「技能」(skill)は、急速な社会と技術の変化に、敏感にしかもたくみに反応していく能力なのである。他のどんな技能にもましてこの適応能力こそが、大学に学んだものに対して、その経験のないものにはるかにまさる利点をあたえるのである。(p105)

エリート高等教育の危機

エリート教育は、その本質よりもむしろ歴史的な特性によって批判や非難がなされてきた(p127)。著者はこの章で、エリート高等教育を正当化し、支持することが可能かどうかを、エリート教育の本質を考えた上で検討している。著者は前章でエリート型からマス型へ移行するのは同年齢層の15%が境だと述べたが、これは単に数の割合だけの問題ではない。そして、第一の特性として、「エリート高等教育がたんなる情報の伝達や技術の訓練でなく、人間形成を目的とする」(p132)ことを挙げている。

 要約しよう、私はエリート高等教育の基本的特性として、次の三点をあげておきたい。(1)第一に、それは学生をたんに訓練し知識を伝達するだけでなく、社会化の機能をはたすことを、いいかえればかれらの知性と感性、態度と人格を形成することをめざす高等教育の一形態である。技術や知識の伝達も行われるかも知れないが、それはエリート高等教育の本質とは関係がない。(2)第二に、エリート高等教育は、教師と学生の緊密で長期にわたる関係を通してすすめられる。したがって、エリート高等教育には、こうした関係を可能にするような環境がつくられ、維持されることが必要である。(3)具体的なカリキュラムの内容がどうであれ(そして実際に内容はさまざまなのだが)、エリート高等教育は学生に、自分はこの世界でなにか重要な偉大なことをする能力をもっているのだ、重要な発見をし、巨大な組織を動かし、法と政治、さらには学問を左右していく力をもっているのだ、といった自信をもたせる。その意味でエリート高等教育は野心をかきたて、こうした目的の達成に必要な知的資源と社会的支持を与えるための装置であるといえるだろう。マス高等教育は、これとは対照的な特性をもつ。それは教師と生徒とのその場限りの、非個人的な関係を通して知識や技術を伝達することに中心をもち、社会においてどちらかといえば普通一般の役割をはたすように、学生を訓練する。専門的職業、官僚、企業経営といった地位の高い職業の場合にも、このことは例外ではない。(p135 -136)

著者はエリート高等教育における野心や自信の醸成に重きを置いている。学問的能力とそれは不可分ではあるが、同じではない。そして、野心や自信を創り出すことができるその事実こそ、エリート高等教育が必要である理由なのである。

 エリート高等教育の最大の原理的な敵対者は、平等主義的な価値や政策の信奉者たちである。エリート高等教育の不人気は、それが歴史的・社会的に特権と深く結びついてきたという事実によるところが大きい。そのため、エリート高等教育を支持することは、反民主主義的、反平等主義的とみなされやすい。エリート高等教育が非平等主義的とみなされる点は、すくなくとも三つある。まず第一に、それは社会的に選抜的な性格をもっている。エリート高等教育はほとんど例外なく、社会の階級構造の上層から多数の学生をとる。マス高等教育にも同様の傾向がみられるが、その程度は桁違いである。第二に、エリート高等教育の内容は歴史的に非平等主義的な視永覚をもってきた。それは上流階級モデルとし、かれらの関心にみあったスタイルや教科目、個人的な資質、価値などを重視してきたのである。……第三に、エリート高等教育機関はその卒業者に、エリートの座をめぐる競争のきわめて有利な働きをするような教育を与え、それによって社会の階級構造はいっそう強化する。(p140-141)

エリート高等教育は短期的な目的を達成するためのものではない。だからこそ、その評価が低くなってしまう傾向がある。

 ……エリート高等教育は、特定の目的達成のための組織ではない。少なくともそのためだけの組織ではない。それは同時にある価値を - それ自体が価値をもつ、一連のたえず前進していく活動をふくんだ教育の一形態なのである。それだけではない。エリート高等教育が個人や社会に与える効果は、それ以外の生活経験がもたらす効果と分ちがたく結びついている。その効果があらわれるとすれば、それは長い目でみた個人の人生と社会の歴史のなかにおいてのみである。したがって、短期的な費用=収益効率で評価されれば、エリート高等教育の評点はひどく低いものにならざるをえない。エリート高等教育は自らの正当性を説得的に主張しえず、合理化と改革が必要だとみなされる。大学の管理運営の合理化は、マス高等教育をめざす動きの反映であり、それが生み出したものである。しかしそれはどんな形態の高等教育に対しても同じというわけではなく、とくにエリート高等教育に対して不利に働く。この点で管理運営の合理化は、マス高校教育のもうひとつの基本的な特性である制度の多様性に、敵対的に作用するのである。(p149-150)

ここで著者は『大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書)』(→読後録)と同様の議論を展開する。

 エリート高等教育への進学と特権的な社会階層との歴史的な関係は、政治の問題であって、先にあげたような賢明で民主的な公共政策を通じてそれを緩和し、最終的には解消できるものだと、つい私たちは考えたくなる。その議論の基底にあるのは、私たちがやがては教育の機会均等を実現することができ、さらに神の与えたもうた才能と関心は人々の間に無作為に分布しているのだから、この機会均等を、各集団間で達成水準を平準化する方向へと発展させることができるのだという夢、というよりおそらくは幻想である。しかし出身階層と学業成績との結びつきがどれほど強固なものか、学問的な才能、関心、業績を形成する上で、階層や人権と結びついた文化の差異がどれほど強い影響力をもっているか、それはいまではほとんど自明のことといってよい。 (p152)

進学の民主化のためにどれほど大きな努力をはらおうと、エリート高等教育は、上位の社会階層出身の子どもたちを、再び高い社会的地位へと送り出す役割をはたしつづけるだろう。繰りかえすが、これは究極的には政治の問題であり、価値の問題である。(p156)

著者はマス型やユニバーサル型の大学であっても、その内部でエリート型の小規模の組織が確立できる可能性を、所謂自主ゼミという形式を採用することで見出そうとしている。(p163-168)そして、そこに必要な条件を挙げている。(p164-165)

  1. 高い学習意欲を持つ学生を一般学生から区別するためのメカニズム
  2. 参加人数が一定数必要だとしても、その数が多すぎてはいけない
  3. 教師の側にも、ふつう報酬の望めないこのような授業を引き受ける情熱が必要
  4. こういった活動に割くことのできる時間とエネルギーが教師・学生共に必要
  5. こういった活動を行なうための場所を確保する必要

このような活動はあくまで擬似エリート教育であるが、それでも学生には大きな影響を与え得る(p165)。著者はこの論文を以下のように結んでいる。

多くの理由から現代社会は、国民全体に中等以後教育の門戸を最大限に開放することを、課題として求められている。社会的正義の上からだけではなく、政治的にも経済的、文化的にも、それは必要なことである。しかしその開かれた教育機会の大部分が、エリート形態の高等教育である必要はないし、また実際上それはありえないことである。なぜならそれはあまりに高価につくし、またエリート高等教育の特性である緊密な、個人的で知的な関係に参加するのに必要な関心、モティベーション、能力をもった学生や教師の数は限られているからである。

 現代の高等教育制度は、多様化した社会的機能と学生の関心を反映することを求められている。そのためには、高等教育の形態そのものの多様化が必要とされる。エリート高等教育はこの多様性の一部をなすにすぎない。それは重要で不可欠の部分ではあるが、あくまでも部分、しかもけっして支配的とはいえない部分なのである。エリート高等教育は社会にとって、またそれを享受するものにとって、この上ない重要性をもっている。大きな広がりをもつようになった中等以後教育のもとで、それはひかえめな規模とコストの範囲で、それが生きていくにふさわしい条件を見出していかなければならない。(p176-177)

inflorescenciainflorescencia 2006/12/30 09:55 「少なくともそのためだけの組織ではない。それは同時にある価値を - それ自体が勝ちをもつ、一連のたえず前進していく活動をふくんだ教育の一形態なのである。」とありますが、「それ自体が価値をもつ」の誤りだと思います。

cedced 2006/12/30 10:32 ご指摘ありがとうございます。修正しました。

match_toolmatch_tool 2006/12/31 01:48 「法と政治、さらには学問を左右していく力をもっているのだ、といった自身をもたせる。」とありますが、「といった自信をもたせる」の誤りだと思います。(形式拝借失礼)

cedced 2006/12/31 11:05 ご指摘ありがとうございます。自分でもチェックはしているのですが、見落としはどうしても発生してしまうのでこういった指摘をしていただけるとありがたいです。

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