2007-06-10
■[NOTE]貧困、下流、自尊心
現代の貧困、について文章が書かれるとき、そこに登場する言葉は決まって「格差社会」となっている嫌いがある。しかし、貧困と格差はその意味するところが全く違う。『現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)』の定義によると以下のような位置付けになる。強調は引用者による。
格差や不平等は、さしあたり「ある状態」を示す言葉である。つまり、ある社会においてAチームにいる人とBチームにいる人とに分かれているとか、高所得の人と低所得の人がいる、というような「ある状態」を示す、記述的な言葉である。そうであるから、格差は、それを問題にすることもできるが、「格差があってどこが悪い」という開き直りも可能である。あるいは、格差を問題にする場合も、どのような格差が問題か、という問いを別にたてる必要が出てくる。
これに対して貧困は、「社会にとって容認できない」とか「あってはならない」という価値判断を含む言葉である。また、貧困が「発見」されることによって、その状態を改善すべきだとか、貧困な人を救済すべきだとか、Bチームの中に広がっている貧困を解決すべきだといった、社会にとっての責務(個人にとっては生きていく権利)が生じる。
たとえば貧困は、「なくすべき」アフリカの飢餓であったり、学校にも行けないで働かされている子どもたちの「改善すべき状態」であったり、年金だけでは病院にも行けない高齢者の「良くない状態」であったりする。だから、そうした状態を「なくす」仕組みを社会が作り出していくぺきだという、社会の責務に(したがって貧困な人々の生きる権利に)直接結びつかざるをえない。19世紀までのスラムの貧困にせよ、20世紀のワーキングプアの発見にせよ、貧困を語ることはこのような価値判断と責務によって特徴づけられるのである。
このように、今日の格差社会を、格差という記述的な言語のレベルで把握するか、その格差の中に「あってはならない」状況=貧困があり、したがってそれを「なくす」べきだと価値判断するかは、かなり違うことなのである。
格差論だけからは、積極的な解決策も、あるべき社会論も出てきにくい。格差論の延長で「あってはならない」貧困を「再発見」していくことは、格差がある、格差があって何が悪い、というような議論を断ち切って、格差社会の中で何を改善すべきか、私たちの社会をどのように変えていくことが望ましいか、という価値と責務(権利)の問題をわれわれに積極的に投げかけることになる。
(『現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)』p28-30)
つまり、格差は状態を指し示す言葉に過ぎず、貧困は「あってはならない」状況を決定する価値判断を含む言葉、ということになる。この本では以降、それでは「あってはならない」状況を決定する要素とは何で、そこにはどのような難しさがあるのか、などについて語られているのだが、ここでは格差と貧困の意味するところが違う、というところだけ押さえておく。
では、「下流」という言葉は何故出てきたのだろうか。『現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)』によれば、欧米における状況と同じように日本において貧困層は常に存在し、ここ数年で貧困層が注目されるようになったのは格差論の延長線上においてようやく日本でも貧困の存在それ自体を認める土壌が出来上がってきたからなのである。では、なぜ格差論や「下流」なる言葉が流行ってしまったのだろうか。
内閣府経済社会総合研究所が「幸福度に関する研究〜経済的ゆたかさは幸福と関係があるのか〜」というレポートを先日公表した。要約の部分を抜粋する。
「戦後、一人当たりGDPが数倍に高まったのに、国民の幸福感が高まらないのはなぜか」という問いに対して、先行研究は幸福度が高まらない理由について経済合理的な説明をするにとどまっている。そこで、本稿では主観的幸福度の質的な中身を再検討し、経済成長と連動して主観的幸福度を高める可能性を考察した。
主観的幸福度は質問のフレーミングの仕方で測定する側面が変わるため、幸福感を「将来に対する期待の幸福感」、「現状の生活満足についての幸福感」、「経済的な豊かさの幸福感」に分け、「期待幸福」がマクロ経済指標を含む社会指標と連動した幸福感であるという仮説を検証すべく、インターネットによる調査を行った。
その結果、「期待幸福」が経済成長を含む社会マクロ指標と連動することを確認した。また、「期待幸福」を高めるためには、「自分の尊厳イメージと他人からの承認が一致していること」および「一日のうちで仕事と余暇とを問わず充実した時間が何割あるかという“時間密度”」が寄与する可能性を調査のデータで示した。
ここで注目したいのは「自分の尊厳イメージと他人からの承認が一致していること」の部分。5月12日のエントリ「「下流」という言葉」のなかで、自尊心(self-esteem)の重要性について言及したが、「自分の尊厳イメージと他人からの承認が一致していること」が実際に国民の主観的幸福感の研究対象として扱われ、しかも「期待幸福」を高める要因として位置付けられていることは、とても重要ではないだろうか。
このレポートで用いられる主観的幸福度とは、1958年以来内閣府がとりまとめてきた「国民生活に関する世論調査」における「生活満足度」のこと。そして今の日本で「生活満足度」と経済の動きに連動する主観的幸福度があるかどうかについて論じている。なお、このレポートでは幸福を「自分が目指すレベルの調和に向けて、その他の要素を獲得していける環境がある状態」と定義している。
興味深いのは、「幸福度とは何か」を把握することは、実は設問者自身が何を問うかということと同じ、というフレーミングの問題であると論じている点。設問者が何を幸福と定義するかによって調査結果にも変化が出てしまう、ということになる。そこで、「将来に対する期待から得られる幸福感」にフレーミングしこれを「期待幸福度」と名付け、「現在がどうであれ、将来に期待や希望をもっていることによって、主観的幸福度の高い人々が社会的な経済状況をより重視する」仮説を検証している。
また、過去から現在までの自分の生活の結果としての現状を評価した幸福を「現状幸福度」、お金さえあれば幸せになれるという金銭的」、物質的な豊かさを重視した要素を「経済幸福度」とし、「期待幸福度」、「現状幸福度」、「経済幸福度」の3つのなかで一人当たりのGDPといった客観的指標と連動する幸福度が高まるのはどれかを独自のインターネット調査により調べている。
そしてその結果が先の要約の部分にある
その結果、「期待幸福」が経済成長を含む社会マクロ指標と連動することを確認した。また、「期待幸福」を高めるためには、「自分の尊厳イメージと他人からの承認が一致していること」および「一日のうちで仕事と余暇とを問わず充実した時間が何割あるかという“時間密度”」が寄与する可能性を調査のデータで示した。
の部分。また、興味深いのは昨今話題に上がることの多いCreative Classと「期待幸福度」の関連性についても述べている点。つまり、日本でもCreative Classな人口がある程度おり、かつそういった人々の「期待幸福度」が一人当たりのGDPの伸び等と連動している可能性があるのである。
アメリカのジョージ・メイソン大学のリチャード・フロリダ教授はこのようなライフスタイルを持つ人々をクリエイティブ・クラス(クリエイティブ階級)と呼んでいる。彼らの特徴は、自立心が強く、多様性を好み、半匿名性のある社会を望む。他人から支配されることを嫌い、時間の支配権を自分で持ちたいと思う人々である。いつも仕事のことを考えている状態であるが、それは苦痛ではない。遊びたいときにはメリハリをつけて思い切り楽しむ。所得は結果として高いものの、収入の高い仕事よりも、自分にとってやりがいのある仕事を選ぶ。しかし所得は自分の能力に対する評価だと考えているので、所得に無関心なわけではない、というものである。
何かの刺激によって幸福が高まるという発想で幸福感を高めるための要因探しをするよりは、自分の望むライフスタイルがサステイナブルに発展できる状況があるかという視点が、今後の幸福感の鍵となるだろう。そのためにも、経済が成長して社会にダイナミズムがあり、様々な新しいチャンスが開けるような社会が求められている。
ただし、今回の調査がインターネットが用いられており、しかも対象が30代から50代の仕事を持つ男女2,100人であるため、その調査内容に偏りがある可能性は否めない。
だが、自尊心を満たすことができない状態が続くことが、結果として自身を下流と見立てる理由になっている可能性はあるのではないか。経済的成長云々もあるのだが、自己の尊厳を保てない状況下で幸福を感じるのは難しいのではないかという問題意識もある。バブル後の就職氷河期における就職難や、雇用構造の急激な変化による派遣社員人口の急激な増加によって、期待幸福度を満たすことのできない人々がここ10年程で増加したことが、これまでも日本に存在していた貧困という状況を、下流という言葉によって人々の意識できる問題として具現化させたのではないか。
あと、ふと思ったのは、Creative Classや「期待幸福度」を重視するような人々が、GTD(Getting Things Done)に代表されるライフハックの方法論を用いて、業務の効率化と自尊心(self-esteem)の向上を同時に図っているのかもしれない、という点。ライフハックが自己啓発的なイメージを持ってしまうのもそれが理由なのかもしれない。

