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2007-12-20

[]文化庁は和式Xanaduでも作ればいいんじゃない?

tumblrに書いた内容に少し手を加えてみた。文化庁が本気で「完全なDRM」*1というものを考えているのならば、これからここに書くくらいのことは既に考慮してあるのだろう。というのも、文化庁の考え方は、強固なDRMだけではなく使用料金徴収のための支払システム(マイクロペイメントシステム)など全てを含めた著作権管理のエコシステムが実現していることを仮定しているからだ。

以下の2つの図(「20XX年の私的録音の制度設計」と「20XX年の私的録画の制度設計」)を見てもらいたい。これは文化審議会 著作権分科会私的録音録画小委員会2007年度第15回会合で配られた配布資料にあったもの。

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私が問題視しているのは、この2つの図にある赤い点線の部分。ユーザー側から権利者側に使用料金が流れる構図となっている。この流れをどうやって実現するのだろう?そして、仮にこの支払システムが実現したとしても、肝心のDRMが何らかのかたちで破られてしまっては元の木阿弥である。実際12月18日開催の文化審議会 著作権分科会私的録音録画小委員会2007年度第15回会合で津田委員がこの点について指摘をしている。

一方、津田大介委員は「DRMと契約ベースへの移行が本当にできるのか、現状では疑問」と慎重な意見を表明した。「デジタル放送コピー制御がFriioで破られたし、コピーコントロールCDやレーベルゲートCDによるコピー制御も失敗した。コピー制御技術の誕生とそれを破る行為はいたちごっこで続いていくのではないか。また、すべてがネット上でのコンテンツ配信に移行するわけではなく、CDをはじめレガシーパッケージや機器も残るだろう。DRMできちんと制御できる世界はまだ先ではないか。本当にネット流通が実現してからDRMと契約ベースの法制度を提案すればよいのではないか」と、事務局が描く将来像の実現性に疑問を呈した(http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20071219/289815/より引用)

ダウンロード違法化の件にしろ、上記の私的録音・録画の制度設計にしろ、仮に実現するとしてどのようなシステムを構築するのだろう?これは中間報告が上がった時点からずっと考えていたことだ。ダウンロード違法化については、当該ファイルが違法であるかの判断がどこでどうやって下されるのかがまったく見えないし、合法マークにしても法的には問題なく運用できるかもしれないが、技術的観点から見れば穴だらけ、というか形骸化してしまう可能性が否めない。私的録音・録画の制度設計にしても、「完全なDRM」の存在を自明視して文化庁側は話を進めているが、この考え方には津田委員同様の疑問をどうしても持ってしまう。というか、これまでのDRM関連のいたちごっこを眺めてきたユーザー側からすれば、今更このような話を持ちかけられても信じる方が難しいのではないか。

現在のこう着状態を打開するために「20XX年のビジョン」を掲げ、より大きな視点から議論を進めようとした文化庁の姿勢はある程度評価できるかもしれないが、では、このようなシステムは実際に構築可能なのだろうか?

実は、現実世界の著作権法の在り方をそのまま仮想世界に持ち込もうとした試みが過去にあった。テッド・ネルソンのXanaduである。仮に文化庁が現実世界と同じ著作権の在り方をインターネット上に構築したいのであれば、テッド・ネルソンを日本に招へいし、権利者団体や音楽業界なんかから資金を集めて和式Xanaduでも作ってしまえばいいのではないだろうか(彼はXanaduの次のステップに行ってしまったので応じてくれるかは分からないが)。以前SFCにも在籍していたことがあるらしいから、もしかしたら乗り気になってくれるかもしれない。

Xanaduが為し得なかった仮想世界上での著作権管理のエコシステムの構築を、文化庁は目指しているのだろうか。

以下、以前書いたテッド・ネルソン著「リテラリーマシン―ハイパーテキスト原論――リテラリーマシン―ハイパーテキスト原論」の読書録からの抜粋。より詳しい内容はこの読書録を参照のこと。

Xanaduは、システム構築ではよくありがちな、「何でも実現しようとして、結局は何にもできなかった」例の一つなのかもしれない。World Wide Webは Xanaduの理念を部分的に具現化することで成功した。では、Xanaduの何が実現困難なのか。それは、現在のインターネットで問題となっている部分でもある。ネルソンとしては、そういった問題が発生しないためにアーキテクチャ構築のレベルでそういった問題点を解決しておきたかったのだろう。その予想は的中している。

World Wide Webは確かにリンクを使うことで世界中に散らばるドキュメントに関連性をもたせることに成功した。Xanaduもそれを狙っていたことは事実だけれど、World Wide Webをドキュメント中心のネットワークと仮に定義するならば、Xanaduはリンク中心のネットワークとでも言えるかもしれない(World Wide Webだってリンク中心じゃないか、と言う人もいるかもしれないけど)。というのも、Xanaduでは元となるドキュメントは一つしか存在せず、それ以外は全てコピーでしかない。World Wide Webでは構造上、オリジナルのコピーをそのまま転送することで通信を可能にしておりオリジナルとコピーの差は無いけれども、 Xanaduではオリジナルとコピーは「違うもの」として定義される。オリジナルとコピーはリンクの方法によって様々な変化を加えることが可能となる。だから必然的にXanaduではリンクの方式がWorld Wide Webと比べて豊富である(p301-307)。修正リンク、コメントリンク、双対リンク、翻訳リンク、見出しリンク、パラグラフリンク、引用リンク、レイアウトリンク、脚注リンク、ハイパーテキストリンク、通常のジャンプリンク、モード付きのジャンプリンク、推奨コースリンク、拡張リンク、著作リンク、参照リンク、代替バージョンリンク、コメント文書、保証リンク、メールリンクなどがある。

Xanaduの実現を難しくしている原因の一つは、著作権問題にある。いわゆるマイクロペイメント・システムが実現し、データ通信量に応じて著作権料が支払われるシステムをXanaduは想定しているけれど、今のところこれを可能にするマイクロペイメント・システムは実現されていない。バージョン管理システムも、CVSのようなアプリケーションとしては存在していても、HTMLそのものにバージョン管理システムが埋め込まれているわけではない。そして、XanaduとWorld Wide Web(インターネット)の歴史を隔てる一番の要因は、開発方法そのもの。インターネットは徹底してオープンな姿勢を貫いてきた。勿論例外も存在するけれど、基本的にソースは公開されることが原則で、だからこそGPLLinuxなどといったものが生まれて来た。それに対して Xanaduはソースの内容を一切公開せず特許化してしまっている。だから、ネルソンの語るXanaduの理想郷がどれだけ素晴らしいものであったとしても、開発グループに入ることができなければ、Xanaduに関わることはできない。HTMLは確かに貧弱なマークアップ言語だが、その記述方法が簡単であったからこそ、ここまで普及することができたのも事実なのである。もし、仮にXanaduがオープンソースであったのなら、もしかしたらHTMLではなくXanaduが今のインターネットの主流になっていたのかもしれない。それでもXanaduはHTMLやXMLで実現できそうにない部分を未だに含んでおり、今後もその理念は必要とされていくのだろう。(http://d.hatena.ne.jp/ced/20060516/1147704205より)

*1http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20071219/289815/http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0712/18/news142.htmlで言及されている「20XX年までに実現するであろうDRM」のこと

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