2009-07-25 個人ツール・まとめ
■[雑記]個人ツール・まとめ
tumblrを始めてみました。
だんだん自分でもわかんなくなってきたので、今つかってるWebサービスをまとめておきます。
Un tiers de ma vie consacré à vous
http://d.hatena.ne.jp/cervezamana/
だいたい映画とか読書とかの感想を書く用。
形而上学女郎館
http://d.hatena.ne.jp/metaphysical_jyoroukan/
私と、相方の雑賀壱との共同ブログです。
現在2号まで発行。冬の文学フリマで3号が出る予定?
http://b.hatena.ne.jp/cervezamana/
http://twitter.com/cervezamana
すみませんクローズドですが、フォローは断らないことが多いかと。
心底どうでもいいことばっかりつぶやいています。
たぶん一番棲息率が高い。
http://book.akahoshitakuya.com/u/9789
まとめ更新しがち。。。
マンガは書かない方針で。
鑑賞メーター
http://video.akahoshitakuya.com/u/9789
ものっそ放置しとった。
cervezamana's note
http://cervezamana.tumblr.com/
はてさてどうなることやら。
……
2009-07-23
■[読書]なしくずしの死
20世紀初頭のフランスの作家、セリーヌが1940年に発表した作品。『夜の果ての旅』で有名となった作者が次に発表したもの。卑語・俗語を多用し、文法すらもほとんど破壊されている。作者の少年時代をだいたい6歳から18歳くらいまでを追う形で描かれている。
ぼくとしては、もう泣きごとを言う権利なんててんでなかったわけだ!……涙と悔恨の愁嘆場、そいつは父たちだけのとって置きだった……子供なんてのはみんなのらくらのならず者の恩知らずの苦労知らずの世の中の屑だった! 二人はぼくが少しでも愚痴なぞこぼそうもんなら、いやちょっとその気配を見せただけでも、とたんにまっ赤になって怒った……
とまあ、全編にわたってこの調子なので、なれるまでは読みにくい&ひとによっては気持ち悪くなってしまうかもしれない。
冒頭、主人公フェルディナンは医者として登場する。ぶつぶつ文句を言いながらも、ある程度裕福な暮らしをしていることを想像させるが、「前世紀を私は語ることができる、私はそれが終わるのを見た」という段落から、様相が一変する。
彼の少年時代は、ただひたすらに貧しくみじめなものだ。レース売りをする母と会社つとめをする父と暮らすも、両親とはぶつかってばかりで、職を探すにもなかなか見つからず、たとえ勤め始めてもすぐに追い出されてしまう。
思いあまった叔父は両親を引き離すことを考え、フェルディナンはクルシアルという発明家のもとで住み込みで働くことになる。しばし安定した生活を送るが、「時代の趨勢」からクルシアルも没落し、田舎に逃げる。そして、クルシアルの自殺をもって、彼の「少年時代」は終わりを告げる。
彼は両親や雇い主などといった、自分を思い通りにさせようとする人たちに、憎しみの言葉をはき出し続ける。彼の憎しみは、まさに生そのものであるのだ。
本作の原題は「Mort a credit」
creditは信用、信頼という意味で、a creditで「信用貸し」などといった意味になる。
つまり、『なしくずしの死』という邦訳が示すように、「生」とは、「死」を賭けて貸し与えられているものであり、その負債を背負っていくことが、生きることそのものなのだ。フェルディナンの憎しみは、「腹の底からくる」それであり、自らに負債を負わせたものへと向けられる。
だがそれは誰に向ければよいのだろう? 生そのものでも、死に対してでもない。両親か? 神か? 対象は存在しない。
対象の存在しない、憎しみそのもの。
そのようなものを腹の底に抱えているひとを、いやなひとだと呼ぶのだろうか。
私はそうは思わない。
根源的憎しみをかかえたひとは、たかだか「人間ごとき」へと向けられた憎しみごときによって、他者を愚弄したりはしないのだから。
2009-05-31 変奏曲
■[哲学]批評の世代問題について
前回のエントリの通りJ=L・ナンシーの『無為の共同体』を読み始めたのだけど、しかたないことではあるのだろうけどあまりの「歴史的テクスト」っぷりにちょっとばかり閉口。
表題作であるひとつめの「無為の共同体」は、1983年に書かれたテクスト。なんとなく時代背景を考えると、ヨーロッパではしかのようにマルクス主義(共産主義)がはやって、没落して、「結局あの狂乱はなんだったんだろう?」みたいな雰囲気で書かれている。
共産主義といっても、「生産様式」としてのそれではなく、共同体と共産主義は同じ語源群に属していることから考えられるような共同体を基盤とした概念としてみなされている。
ところでね、いつも思うのだけど、この「右翼左翼問題」って、私まったくリアリティがないのですよ。
周りのひとにも時々聞いてみたりしているのだけど、たぶん今の30以下くらいのひとたちにとっては、物心ついたときにはすでに東西ドイツは統一していたし、ソ連は崩壊していたし、世界戦争にいたることを危惧されるレベルでのイデオロギー闘争があったということが、「モナリザ」と同レベルの歴史的事実でしかない。だからもっと上の年齢のひとたちが、右翼だの左翼だの騒いでいるのを見ると、ものすごく奇妙な感じがする。それってそんなに大事なの?
そんなに大事なことだったのでしょう。
(たとえば東浩紀が批評空間で「ソルジェニーツィン試論」でデビューしたということは、それはソルジェニーツィンが『収容所群島』においてソ連を体制内からの批判し、それが西洋のマルクス主義ブームに冷水をあびせた。そして遅れてきた日本の文化左翼「批評空間」において、読解の対象として取り上げられる、という文脈で理解される。)
たぶんある世代以上のひとたちにとって、それはもう実存と命をかけた大切な問題。だけど、その問いはあるところで切断され、まったくもって受け継がれていない、と私には思える。でも上の人たちにとっては下のひとたちに左右問題がリアリティがないということがわからないし、下の人たちにとってそれはあまりにどうでもよすぎて言及もされない。それはグラデーション的に薄れていったのではなく、ぶっつりと断絶がある。
当たり前すぎて言及されないことと、興味がなさすぎて言及されないこと。批評が世代問題から逃れられない原因のひとつは、ここにあるんじゃないかと思う。
すべからくすべてのテキストは歴史的文脈をたぶんに埋め込まれてはいるのだろうし、だからこそ「ふるいテキスト」は私たちにとってすごく読みにくいものとなる。それでも言説としての強度を保つことを目標としなければならないということはまあ当然として、この「近いが故のわかりにくさ」って逆にやっかい。それくらい時代の変化は早いのかもしれないんだけど、9.11以降世界は変わった、とか言う前に、まずはこの冷戦構造を昇華しきらないといけないんじゃないかあと思ったり。
……
ところでこの手の左翼論説が抱える問題のひとつとして、「歴史的経緯」と「論理的必然」とが混同されている、というのがあるのではないかと思います。
形而上学における主体―絶対者の論理(自己、意志、生、精神など)によって排除された共同体は、これと同じ論理によって、避けがたく回帰し、この主体の事始めとなる。
(無為の共同体、P.11)
歴史的にこーなったんだから、それが論理的必然。それ、ほんと?(このへんもヘーゲル左派の功罪なのかなあ)
……
てなことを考えてたらこんなの見つけて笑ってしまった。
http://www.kinokuniya.co.jp/04f/d03/tokyo/jinbunya/jinbunya16.htm
2009-05-18 なんか久しぶりに書きたくなった
■[哲学]パイドンについての覚え書き
久しぶりなのでたまには哲学の話でも。
プラトンの『パイドン』がすごいんですよ。こんな本を2000年も前に書かれてしまったことに絶望したくなるくらいにすごいんですよ。
舞台はソクラテスの処刑日前日。死に挑むソクラテスを前にして、死にゆく彼を見送るために「魂の不死」について弟子たちがソクラテスと議論を戦わせるというもの。プラトンの著作の中では中期に位置するものですが、内容の充実度の割に知名度が低い気がします。これは読むべき!名著!
そもそもこれから死にゆくソクラテスを囲み、ラストは自ら毒薬をあおるという彼の死でしめくくられるという物語構造そのものが「感動的」。エロゲ―で、感情移入を高めに高めた上でそのキャラクター(ヒロイン)を殺すことで感動を生み出すってやつがあるけれど、そんな感動の作り方はとっくの昔にすでに発明されているのですね。たまに私たちはプラトンとアリストテレスの手のひらの中で踊っているだけのような気がするよ。
死を前にしたソクラテスが、いかに自分が死に対しておびえていないか、あるいは周囲の人間に対して気を落とす必要がないか、ということを教え諭すというもの。理性によってより善なるもの、より美なるものに近づこうと意図する哲学者にとっては、肉体というのは我々を欺くものであり、むしろ邪魔なものである。それゆえ、死に向かうことはなんら悲しむことではなく、肉体を離れ魂そのものとなる喜ばしいことである、と彼は告げる。かといって、自ら死を望むことはいただけない。なぜならば、私たちは神の所有物であり、神がのぞまないにも関わらず生あるものを死へと赴かせることは神の意図にさからうもので許されないことだからだ。また、魂は不死不滅であり、たとえ肉体は滅びても別の世界へと向かうだけなのだ。だからむしろその旅立ちを祝福してくれたまえ、と。
なんというか、そもそも裁判によって死刑判決を受けた囚人が、生に別れを告げて死を前向きに肯定するという、もともと無理のある設定にはなっているので、だからこそ感動という要素で物語としての強度を埋め合わせているのだろうという印象。
あとロジックとして気になったのは、肉体が魂を欺くものであるならば、なぜ神は人間に肉体を与えたもうたのかという問題が残ってしまうこと。それに対する答えはまあ予想ができて、「それが(一見回り道に見えたとしても)最善だと神が考えたもうたから」ってことになるのだろうけど、それって結局何も言ってないんですよね。神がやることだから全部ただしい。でもそれはあらゆることすべてを現状肯定するだけで、ロジックとしてはデッドエンド。現状が神に与えられた最善のものなんだから努力しなくていいじゃーんってなっちゃうと、より優れたひとであろうとする哲学の目的に説得力がなくなっちゃうのですよね。ライプニッツがぶち当たった問題設定がここにすでに現れていたりするのです。(でもがんばれ、ってライプニッツはいうんだけど)
いちおう、この著作を位置づけると、イデア論と想起説の解説ってことになるんだけど、イデア論はともかく想起説にはわりと個人的には与しがたい感じ。形而上的思考が後天的なものであるとしてなんか問題があるのかな。プラトンはともかく肉体やら感覚やらの不信感に貫かれていて、それと「善く生きよ」とする命題との整合性をとるのはちょっと無理がある。まあ、そういう本だからしょうがないんだけど。
あとやっぱりプラトンを読んでていつも思うこととして、なんというか、真に知性的・理性的に生きんとするならば、男はすべからくゲイに向かうべきってことになっちゃう気がするのです。つまり、生殖とか、セックスの快楽とかを求めて女に向かうのは、むしろ怠惰で愚かな姿であって、もっとホモホモするほうが偉いんじゃね?って言われている気がする。実際『パイドン』でも、ソクラテスの奥さんはさっさと退場を迫られるわけだし。しかもびーびー泣いてめんどくさって言われてさ。
2009-02-25 再告知
■[告知]ゼロ年代批評night
先日告知した2月25日の阿佐ヶ谷ロフトAのイベントですが、出演者に一部変更があります。主催者の手違いおよび運営上のミスにより、多くのかたにイベントの内容について混乱を招いてしまったことを、深くお詫び申し上げます。
当日は、来ていただいた方に楽しんでいただける有意義なイベントになるよう準備を進めております。興味を持っていただいた方はぜひ足を運んでいただけますよう、お願い申し上げます。
2月25日(水)阿佐ヶ谷ロフトA
「ゼロ年代批評night」
次世代の批評は俺たちが作る!まったく新しい批評の形を模索する、熱き批評魂を持った若者たちが、批評の未来についてガチバトルを繰り広げます!ザクティ革命の真の意義とは!?ゼロ年代批評の申し子となるのは誰か?批評論壇の新生を目撃するために、次世代の批評家(とウォッチャー)たちよ、阿佐ヶ谷ロフトに集結よ!
【出演】
坂上秋成(ゼロアカ道場第四次関門通過者/道場破り)
筑井真奈(編集者/ゼロアカ道場第四次関門通過者)
三ツ野陽介(ゼロアカ道場第四次関通過者)
OPEN18:30 / START19:30
入場料¥1,500(飲食代別)<当日券のみ>
http://www.loft-prj.co.jp/lofta/schedule/lofta.cgi?year=2009&month=2
来場者全員に、会場限定の同人誌をプレゼント!
ゼロアカ道場第五関門の公開シンポジウムを前にしたプレイベントですが、企画運営には講談社さんが一切関わっていない、道場生の自主イベントという位置づけです。
それではよろしくお願い致します。
わりとまじめに、これからの批評/批評家のあり方について討論するはずです。きっと。
批評は、そんなに難しいものではなくて、世界に対して抱いたほんのわずかな違和感からスタートするものだと私は考えています。新しい批評の場所を私たち自身の手で、作り出すために。
