2011-04-13
不安について
不安について。
今、不安について知るのは必要でもあるし、日本人の気質のなかでもっとも強いものを挙げるなら不安である点でも、考えてみていい。日本人のメンタリティの重要なポイントである以上は消すことはできないので、うまくつきあっていけたらと思う。
不安は未来形の苦痛で、心配は現在形の苦痛だ。
不安は死に属し、心配は生に属する。
未来の可能性がA・Bと二つあるとする。どちらになるのか五分五分で、確定できない。
だから不安になる、わけではないと思う。
その次のアクションが不安。
不安は不確定要素によって生じるリアクションではなくて、不確定要素をむりやり確定要素に変えてしまおうとするアクションだと、私は思う。
つまり、この先待っているものが生と死の2つあって、どちらが自分に訪れるのかはわからない。しかしそれでは不快なので、自分でどちらか決めてしまいたい。
このときに死をとろうとし、死に近づこうとするために発生するのが、不安。
生は不確定だけど、死は確定に感じる、そのためだと思う。
いま不安な人は、たとえばwebに氾濫する情報の中で悪い情報ばかり目についていると思う。楽観的な情報と悲観的な情報と、さがせばどちらもたくさんある中で、なぜ不安だと悲観的な情報を集めたがるのか。
それは不安が、パニックになりたいという衝動を伴うからだと思う。
なぜパニックになりたいかというと、不安がなくなるのは不安が現実化したときだから。つまり、不安になると同時に「レミング(ねずみ)の集団自殺」みたいなことがしたくなる、これは両者セットで、不離だと思う。
不安がなくなるのは不安が現実化したときであって、安心したときではない。
これはおぼえておいたほうがいい。不安とつきあうのに有効なポイントだ。
私自身がそうだが、不安になりやすい性質である以上、不安にならないということはできないと思う。である以上、不安とてきとうに折り合いをつける、そうやってつきあうのがベターだなと思っている。
つぎに不安と怒り、不安と安心について。
どちらも、不安の対義語ではなくて同義語だと意識したほうがいい。
無意識の不安が、攻撃的に顕在化すると怒りになるし、快感として顕在化すると安心になる。
みんなで一緒に不安になりたいときは怒りになる。不安を固定化することで、持続させて累積したいときには安心感になる。
原発関連の話題でいえば、沸き上がるように急に出てきた反原発の声は怒りの表現だし、一時期の水やトイレットペーパーの買い占めは安心感の表現だ。
怒っても安心しても、不安は減らない。一瞬減ったような気になるだけで、そのあとさらに不安になる。そして当人はその連続性には気づけない。
ACの広告や、政府の「だたちに健康に影響しない」という声明で、なおさら不安になった人も少なくないのは、それが安心を呼び掛ける表現だったからだ。安心は不安を持続させる。
それからもうひとつ、不安の特徴について。3月11日の大地震以来、余震が東北関東で続いている。本震のあとの余震で、どんどん疲労している人も多いと思う(私もだが)。
これは不安が累積する性質があるから。
余震に不安を感じず、ただ不快なだけの場合は、1つの余震ごとに不快だ。不快さがそのたびに発生してそのたびに消えるので、1→0、1→0、と、貯まらないと思う。
ところがここに不安(たとえば地震で死んじゃったらどうしようとか)が混ざると、不快が貯まりはじめる。
1つの余震で1、次の余震で1.1、次の余震で1.2…というように。
だから、余震がつづけばつづくほど、不快感が増えて、3月11日の本震の当初よりも、今のほうが疲弊しているとか、実際の揺れは小さいはずなのに実際以上に大きく感じてしまうとか、そういう人も少なくないと思う。
では、どうしたらいいか。
不安への対処を2つ。
ひとつには、不安は現実化すると消える、という点を利用する方法がある。
もうひとつは不安を心配にすりかえる方法がある。
1つめの方法は、逃げること。それもできれば、自分はいま不安だから逃げるという意識を持って。
といっても、別に遠距離まで逃げることはないし、短期でいい。距離も時間も関係ない。
必要なのは、行動するというアクションだけだ。実際に行動することで、不安→パニックという流れを、疑似ですることになる。
現実化すれば不安は消えるというのは、何も本当に死ぬ必要はない。
逃げるというアクションをすれば、不安が現実化したことを体が認識する。そうすれば落ち着く。
たとえば首都圏にお住まいなら、静岡あたりに1泊、でいいと思う。
旅行にかける時間とか費用はない、という場合は、たとえば余震のたびに、それがどんなに小さな揺れでも、必ずガスの元栓を閉めに動くというのでもいい。
とにかく体を、不安に対して動かす。そこがポイント。
もうひとつの、不安を心配にすりかえる方法。
不安になったときには、だれかの心配をする。これもできれば、気持ちだけでなくて行動に移した方がいい。
ポイントは、不安は未来・心配は現在、不安は自分・心配は他人、この2点。
蛇足かもしれないが、「こどもが将来○○になっちゃったらどうしよう」は心配でなくて不安だ。これは、自覚があるので書くが、本心では「私が将来こどもを亡くしてしまったらどうしよう」で、実はこどものことでなくて自分のことを考えている。それが悪いとも思わないが、これを抱え続けるとまともな思考から離れていく。
こどものことを心配するなら、「今、こどもが不快でないか」「今、こどもに何が必要か」を考える。…まあ、そうすると、病気でもしていない限り、普段通りにしているしかないんだけど。
こどもがいない人は(いてもいいが)、配偶者。
配偶者がいない人は、恋人。
どっちもいない人は(いてもいいが)、ともだち。あるいは親兄弟。
できれば心配を行動にうつす。直接会えるなら会って話す。直接会えないなら電話する。
ところで、周囲の人がみんな元気で心配する必要がないことも、当然だが多い。
これはもちろんその人たちにとっても自分にとっても良いことだが、しかし今問題にしているのは、心配のための心配でなく、不安を心配にすりかえることで不安を消す方法論だ。
だから、だれも心配する必要がないのは、困る。
その場合は、今心配する必要がある人をさがす。
該当者が日本国内に大勢いる。
被災地に。
だから支援をする。これもできれば、心配な気持ちになるだけでなくて行動する。
自分の不安の解消のために、被災者支援をするというのは、動機として不純かもしれない。が、私は純粋な気持ちで支援や募金やボランティアをするという意識は、むしろ危ないと思う。それはただの自己陶酔な場合が多い。自己陶酔は相手の迷惑に気づけないことが多い。
不純な動機(自分のため)で行動するほうが、後ろめたいぶん、相手への気づかいが保てる。
だから不純な動機くらいでちょうどいいと思う。
実際に被災地へ行くことまでしなくても、近距離で特定の品を持参すれば被災地へ届ける団体がいっぱいあるので、そういうことでいいと思う。
さいごに注意点をふたつ。
ひとつは、不安を心配にすりかえる方法も、不安を現実化する方法も、どちらも体を使う、つまり実際に行動すること。実際に行動することで、体が不安は解消されたと納得する。逆にいえば、体が納得しない限り、不安は続く。
もうひとつは、不安を快感で解消できると思わないこと。
安心でも、一時の快楽でも、義憤でも、正義感でも、不安は解消できない。
そして解消されない以上は累積する。不安は不快(心配か現実化)でしか解消できない、残念ながらそういうものだ。
2010-04-21
高山なおみさんの料理
先日twitterで高山なおみさんの料理についてつぶやいたら「私も料理家では高山さんがいちばん好きです。オクサマ料理じゃなく「賄い飯」っぽいとことか。」というコメントをいただいた。そして私は「オクサマ料理」な料理の本やブログも好きだ。
なんで高山さんの料理がオクサマ料理っぽくないかというと、まずなにより自分自身が生きるために食べる、という根っこが、それはそれはくっきりとしているからだ。
そして「オクサマ料理」のほうには、自分以外の人、まあ大抵は家族に、美味しいと言ってもらうという動機が、これまたくっきりとある。
高山さんの料理は、私にはちょっと怖い。もっとも私はなんでも怖がるたちなので、そこは差し引くけれども。
いきものとしての自分と差し向かいな点が、怖い。
私は私が、他のだれでもない、ひとつのいきものだということが、日々うしろめたい。それに怖い。
だから日頃なるべく、それを忘れていたいのだ。
「オクサマ料理」は、自分以外のだれかというオブラートが自分の存在を甘くつつんで確保してくれる。
結婚と出産、それに育児を手に入れて、日々面倒が多い反面、私はその甘さによく持たれかかる。
オクサマというかたちで、厚顔でいられるというのは、日々の面倒とひきかえの特権だなと思う。
そしてその特権を、高山さんの料理は軽々とひっくりかえす。
赤裸々だ。
いきものとしての自分を忘れることは、日々を「家族のために」なんていう大義名分で糊塗すれば、わりと簡単だ。
ところがそれをつづけると、ある日いきなり、いきものとしての自分があばれだす。弱っちいくせにしぶといのだ。
自分を生かしてやるというのは自分を甘やかしてやることの対極だ。甘やかしたいのなら、日々の料理を「夫のため」とか「こどものため」と称してやればいいんだもの、簡単なのだ。
(すぐ飽きるけどさ、私の場合)
そんなわけで、自戒と怖いもの感じたさが半分、高山さんの純粋なイマジネーションにひかれるの半分で、ひとりのお昼ごはんは高山さんの料理をつくる。
そうはいっても、せっかく入手した特権も、日々行使させてもらっているけどね。せっかくだから。今だけだから。
2010-04-06
ひとりごとぶつぶつ
「家に帰るまでが遠足です」という言葉が、なぜかけっこう好きだ。いろいろ応用がきくからだ。
「○○するまでが××です」
私は自分がすごくやりたくてはじめたことが終息すると、いつも軽く鬱状態になる。ふきげんになって、いろいろなことをやる気になれなくて、悪いことばかり頭にうかぶ。
「気持ちが下降して停滞して、そのうちまたテキトーに浮上するまでが、私が起こしたコトです」
なのだ。
4年アシスタントした漫画の最終回の原稿が、先日アップした。今週に単行本の加筆原稿があるそうで、それでほんとにおしまいだ。
ラストスパートの3月に濃い作業日をすごしたためもあって、2,3日どんよりしていた。
昨晩くらいからじわじわ浮上中。
ドラッカー「傍観者の時代」スティーブン・キング「メイプル・ストリートの家」読了。後者の表題と「十時の人々」がおもしろかった。
ほかに数冊、おもしろいことまちがいなしの小説を図書館で借りられた。ふだんはだれか他の人がよく借りていて、書架に置いてあるのを見つけるのはラッキーな、そんな本だ。恩田陸さんの「きのうの世界」とか、東野圭吾さんの「容疑者xの献身」とか。
でも手にとる気がしない。
後ろめたいのだ。
自分が読むばかり、消費するばかり、なにも生みださないのが、いいかげん嫌なのだ。
…という気分なのでキングの「IT」を読みかえしてしまった。
ひさしぶりに読んだら、デリーという町に住む、疲れた大人の描写が目についた。自分の加齢を感じる。
あきらめるのとあきらめないのでは、ほんとうは前者のほうがむずかしい。
2010-03-20
余韻深し
「悪霊の島」と「白夜行」があんまり良かったので、他の本を読もうという意欲が少ないこのごろ。
「悪霊の島」は文庫本になったら自分で買おうと思っているのだけど、何年後になるのだろう。うーん、今すぐほしいくらいだけど、厚いしなあ…
えーと「ナショナル・ストーリー・プロジェクト1」を読了。
英語のごつごつした感じが心地よい本だった。一作一作、同じ人が書いたものはないのだけど、すべてが英語なんだなというのが(翻訳からでも)感じられておもしろい。客観的だなあ、英語って。
これを日本でやったら、たぶん雰囲気のまるでちがう本になるんだろうなあ。きっともう少し湿っぽくて主観的な本になる。それはそれでおもしろい。
さいきんぼんやり考えていること。お金のために働くと貧乏になり(「金持ち父さん貧乏父さん」)、幸せのために生きると不幸になり(「嫌われ松子」)、自分探しに本気になるほど自分がみつからない(引退直後のアスリートN氏、自分探して地球四周半)。
これは結局、自分のために生きるのは自分のためにならないということだろうか。
じゃ、自分が自分以外の人のためにできることってなんだろう。
それがたぶん自分を活かすということなんだろうなあ。