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2009-03-10 ドラマティック・エモーション 2008

ドラえもんがタタリ神に仕立てられてしまったあの日の記憶


(注意!)これは「ドラえもん のび太の新宇宙開拓史」についてのナニではありません。一年前に公開された映画「ドラえもん のび太と緑の巨人伝」についてのナニ(再掲載)です。


 「ドラ」タグは正直外したい。


 去年のドラ映画、ぼくがドラ歴の中で最も嫌いと言って憚らない「緑の巨人伝」の感想というか、泣き言を発掘してきました。一つ前の開拓史への女々しいエントリーとかに吐きだした感情も、この作品がなければ別に出てこなかったんじゃないかと思います。そんだけ罪深い作品への、ぼくの怨嗟の声です。まあ、ぶっちゃけ自分の資料用。

 これは正直気色悪い妄想文なので、見ない方が良いと思いますが、実はこれ(再掲載)と書きはしたものの、あまりにも悲しくて、前のブログにもどこにも載せてなかった気がするんですよね。

 

 そんなわけで、水子供養というか「来年のドラえもんも楽しかったらいいなあ!」という願いを込めてこのエントリーを上げてみることにしますね。こういう書き方をして何かから許されようとしているのが大変姑息ですね。気持ち悪い。そんなこといったらこの年になってドラえもん大好き! 言い散らしてる方がよっぽど気色悪いわ! そうですね。しーずかちゃーん、ぱんつかーぶらせーてー! そうですね。言い訳するとほんとうにしずかちゃんとにゃんにゃんしたいとか微塵も思ってませんよ、美夜子さんはアリだな、声はナシだけど! そうですか。

 はまじるよー。


(具体的な前半部分はほぼ全略。まあ、お話の大破綻をあげつらったあげく、一体何の話をしているのかわからない文章がありました。あとしずかがいかにセックスの象徴にしたてあげられていたかですな。まあそんで、ダイダラボッチでてきちゃったあたりでぼくの怒りが有頂天のところです、どうぞ)

 ――「ドラ」のタグを付けはしたが、僕はこの映画をドラえもんのそれだと認めるわけにはいかない。この作品は、断じてドラえもんなんかではない。

 ドラえもんをつくるうちに、ドラえもんでなくなったのではない。最初っからドラえもんという看板を盾に、悪意(本人は悪意と気づいているのかは知らんが)に満ちた作為で計画された誰かのマスターベーションで分泌されただけのそれっぽい映像の塊。が今作だと信じている。そうなってしまってこのありさまだ!

 

 期待は不安に、不安は恐れに、恐れは諦観に、諦観は侮蔑に、そして怨恨であるとか何もかもを通り越して絶望と深い悲しみだけが、残った。

 仮にもドラえもんという名が付く大長編作品を見ている途中で「早くおわらねえかな」なんて思う日が来るなんて思ってもいなかったんだ!

 

 

 何がダメなのかって? すべての根本そのものだ。よかった点は映像だといいたいところだけど、これはドラえもんだとかそういう名前を冠するより先に「映画」というものの体すらなしてはいない! 画はたしかにスクリーンに映っている。美しい。動きも好みではないがパワーのある動きで、部分で見ればとても魅力があった。だが。



 ――これは いったい 何の 話なのだ!?

 

 

 ずっとだ、ずっとこの疑問が鑑賞中に頭の中をそれこそ緑色のカビのように繁殖し、胞子をまき散らしたままでいた。これはなんなのか、これからどうなるのか、それはなんのために存在するものなのか、そもそもここはどこであるのか! 

 どこかで見た覚えのあるあまたの演出。いや、覚えではない、アニオタだからどうというわけでもない。パクリとかオマージュだとかそんな言葉で創作者の魂を断罪しようとかそんな安っぽい魂胆でこの文章を書いているのではない。だが、だがしかしだ、このどこをみても、どのシーンを切り取っても! そもそも根幹に流れるすべてのデザインが、日本においてもっとも有名な映像作品群であるあれらを模倣した描写にしか見えない。しかも、あまりにもあからさまに! これはいったい、どういうことなんだ?

 

 この作品を作った人たちはドラえもんをつくりたかったわけではないのではないか。今回、何らかの理由であえてドラえもんをつくらなかった。そう考えることで僕が救われるという話ではない。この作品がドラえもんである必要性が、どこにもないから、そんな考えが巡ってくるのだ。この作品を計画したヒトビトは、なんらかの理由で自分たちもジブリ作品(またはそのようなもの)を作りたくなった。または作らざるをえなくなったんじゃなかろうか、と。

 しかし、そんなヒトビトに許されていた作品を創造する場は「ドラえもん」という場そのものだけだった。すでに作られた枠と老いたファンとおろかなおこちゃまたちといまだ世界に満ちるあまたの設定に縛られ、声優を変えても絵柄を変えても続こうとするこの怨念じみた場しか用意されていなかった。「こんな場所では、ぼくらのほんとうのちからがはっきできない!」そう思ったのか、どうか。

 

 そしてヒトビトは、好きだったのか、必要性があったのかはわからないけれど、ジブリ成分をたっぷりふくんだ作品を考えました。しかし、これはドラえもんの映画だからドラえもんがいなきゃいけない。だからあとでドラえもん一行を乗せました。主人公はドラえもんの道具で創造された今後のドラ世界に影響を与えないゲスト。これはオリジナルにも存在するキャラだから文句は言われないでしょう。ま、このゲストが登場するある大長編をリメイクする時の事を考えるとちょっと困る気もしますが、それは来るかどうかもわからない未来の話なので黙殺です。

 そして完成したのはジブリ成分をたっぷり含んだ映像の群れは、100分という枠にはとても収まりきらなかった。ええそんなことはいつものことです、映画なんてそんなものです。そんなときは削ればいいのです。シェイプアップです。無駄な部分をこそげ落としてシンプルにするのです。わかりやすくするのです。伝えたいことをクローズアップするのです。簡単なことです!

 ではどこを? ぼくらが頑張って作った部分は削りたくない。ぼくらが成し遂げた彼らそっくりの、いや、彼らをも超えたかもしれない映像美を削るなんてとんでもない! そもそも、いつも彼らのストーリーはいわゆる「お約束」で構築されていて、いくら削ったって支障なんてありゃしませんよ。この部分はいわゆる贅肉だ、僕らはずっとこの贅肉に、同じ味に飽き飽きしていたんだ! そう思いませんか!? そうだ僕らは、世界を変えなきゃいけない。それができるのは今携わっているぼくたちだけだからだ! 残すべきは伝統なんかではなく僕らのオリジナリティ! 来年はリメイクと決められてしまった以上チャンスは今しかない! 過去の呪縛から今こそ、今だけでも、解き放たれるべきなのだ!!! 

 

 ほら、できました! 

 

 

 何が?


 こうして「緑の巨人伝」は悲鳴によって産み出され、また悲鳴を産む悲しい作品になったのではあるまいか。そう思えて仕方ない。この映画が、誰のために作られたのかわかってしまったこの時、くやしくて涙がとまらなかった。



 ぼくは、泣きながらガラガラの映画館を後にした。