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2010-03-06 ドラマティック・エモーション2010 その1

「きみはじつにばかだな」と言い続けたドラえもんのあたたかい目が、ひややかな目に変わるとき


 このエントリは「映画 ドラえもん のび太の人魚大海戦」がネタバレ三昧です。注意してね!

 

 というわけで一時間くらいで書き殴った。


 このあと色々言ってますがわりと良かったんです。それなりに満足してはいます。でも業深い三十路前のドラファンなんで、ウッダウダいいたくてしかたありません。そういうのべつにみたくねーし。というひとはここでさよならしましょう。あなたとわたしのために。だからドラえもんがすごく好きな人は見ない方がいいエントリです。

 冒頭の釣りっぽいタイトルの内容は半分くらいいったところにあります。

 




 下半身人魚かわいさ八割増!!!

 ということで大期待の人魚大海戦。でした。観てきました。どうか。どうだったか。緑の巨人伝に続くオリジナル二作目の「人魚大海戦」は、ドラ映画三十周年の威信をかけたこの作品は果たして数十年の業を背負ったうるさいドラファンはともかくとして子供たちを満足させられるしろものだったのか。

 まあね、悪くはなかったとおもうの。そんなにはね。水戸黄門みたいなものだから、そんなに期待しちゃなんねえとおもうのよね。でもそんな気分で観に行った緑の巨人伝があんなんでしょ? と言うわけで今回は話にはなってたので、ぼくは笑顔で映画館を後にしたんですよね。声優も別に違和感無かったし、画はキレイだし、冒頭の日常パートはドラ世界が深まるのを感じられたし、しずかとソフィアも過剰に愛されてかわいさ爆発してたし、物語の大筋に破綻というか、ナニを観ているかわからないということはなかったし。

 でも、中盤から後半にかけてずっと苦笑してたんですよねぼく「なにそれ」「なにそれ」ってずっと呟いてた。「まあいいか」を何度も発動して忘れた。そうしたら話の筋がどうも思い出せなくなっちまいました。細かいところはいい、シーンそのものはどうやら感動したり、おもしろがったり、ハラハラドキドキしたりできるらしい。

 でも、それとアレをつなげるものがやっぱり抜け落ちているんだ。

 想像力を使えば「まあこういうことなのかな」なんだけど、これは「行間を読む能力」みたいなものが足りてないとかそういうことじゃない。行そのものがない。章がまるごとない。巨人伝でも感じたことだけど「はりきって三時間作っちゃったから、これとこれ削って100分にしました」「削った中にあるこの情報どうします?」「わかるだろ!」みたいな感じ。わかんねえよ。前作より病状がマシに見えるのは、たまたま広げた風呂敷がそんなにでかくなかっただけなんじゃないか。みたいなきがした。

 結局は情報の取捨選択がおかしいのだ。しずかがただかわいいシーン、ソフィアがただかわいいシーン、ドラミがただかわいいシーン、ドラえもんがただかわいいシーン、お約束の言葉の繰り返し。それはさっき観たので飽き飽きしています。それにいつも観ています。でもそれをまるごと入れてしまうのだ。で、尺の都合で削られたのが重要な情報、かわいさのテンプレートに載らなかった情報は「時間がないのが悪いんだ……」と呟かれて捨てられる。

 ――で、結局あのセイントみたいな鎧はなんだったんだよ。

 ――なに、アレはクシャナとサンみたいなそういうナニなの? そういうのやりたかったの? 金色の海に降りたって浄化するの? なんなの? 黒い海で汚染されたのを浄化するの? 言った? その情報出した?

 みたいなね。

 ところでソフィアのおばあちゃんはなんだったのかな。そうそう、彼女はなんだか怖そうに見えるけどいいおばあちゃんで、ソフィアのことを気にかけていて、最後にはソフィアに丸投げしたあげく「愛しています」とうそぶくんだけど、そこまでの積み重ねはまったくかたられてないんだ。キャラクター全員号泣。そこでぼくらは「どうやらここではないどこかで百万回聞いたこのやりとりがあった、だからソフィアのおばあちゃんはソフィアにいままでつらく教育してきてぎくしゃくしてたけど、ここで信頼関係を取り戻したんだ。だからソフィアはなくんだねかんどうてきー」まあそこまでは百歩譲っていいとしよう。じゃあなんでのび太たちは感動しているの? のびた達は観客であるぼくらと同じものしか観ていないんじゃないの? そんなに感受性が高いの? どういうことなの? 

 このシーンの最後はドラミがスカしたオチをつけてくれた。そこでどうにか「ああ、よくわからないけど、友達が泣いているから泣いたんだよね、あるあるそういうことね」でごまかすことができた様な気がするわけです。

 思い返してもソフィアのおばあちゃんのもてあまされっぷりはおかしかったな。なにしにでてきたのあの人。まあなんだ、ソフィアも両親いないっぽいしね。苦労したんだよね。アホか。

 そんなわけでソフィアさんは救国の英雄の生まれ変わりですよ。名前が同じなだけで。ソフィアの祖母である女王も驚いてましたね、でもその古文書的な文書さあ、代々伝わるティアラに保存されているんですから、若いソフィアがしらないのはいいとしても、大人達が驚くのおかしいですよね。

 ハリボーはどうしてソフィア姫に付き従っているのかとかね。ジャイアンに「おめーがいねーとはじまらねーぜ!」といわしめるだけのエピソードはいったいどこにあったのかとかね。さいしょそんなに頑なな理由はなんなのかとかね。そのジャイアンの一言でそうぞうはできるけど無理な話だよ。

 まあなんかこういうところの「積み重ね」を全部すっ飛ばすツクリにしたがるんだよね。「わかるでしょ?」って。わからんこたないけどよ、でもこれ「ドラえもん」だろ? どうなったって子ども向けのアニメ映画なんだろ? ジャイアンが泣くから泣くところなの? それじゃ、テロップが出たから笑うのと一緒じゃんね。いつまでそれをやるんだ。

 なあ。





 では本題。


 ――結局今回の映画はなんだったのか。

 いつもはのび太の映画だ。これだっていつもとかわらず「のび太の」人魚大海戦なのだ。いつも「のび太」が付いている。だからこそ、大長編は常にのび太くんの成長物語であるべきなのだ。これは根底に流れる変えてはいけない線で、隠すべきではなく、表に出していくべきものだ。

 だが今回はのび太は成長しなかった。なにひとつ成長させてもらえなかった。スネ夫を羨み、ジャイアンに裏切られ、みんなに幼稚さを笑われ、ドラえもんわがままを言い願いを叶えてもらってはしゃいでいた、物語冒頭ののび太から最後まで全く変わらなかった。

 降って沸いたヒロインに手を引かれ、敵に遊ばれヘラヘラしながら踊っていただけだった。活躍すべき場所はドラミとドラえもんに奪われた(ドラミを先に書いたのは意味がある、ドラえもんより目立ってるからだ)。未来の嫁であるしずかを助ける役はおろか、ただ抱きとめる役すらも与えてもらえなかった。

 のび太くんに与えられたのは新しい世界に触れたソフィアに、束の間の見聞を終えて国を守るお姫様に戻らなければならないソフィアにこう言う「お姫様って大変なんだね」そして「ソフィアは快活でステキだ」と保護者の前で愛を語りはじめる。その言葉がお姫様の救いになったのかはわからない。しかし、「お友達でいましょう」とそれとなくフられるのだ。この話の中で何度も強制される「行間(という名のパターン連想)を読む」を発動すればそうだ。のび太はポケットに入れっぱなしの幼稚な剣のおもちゃを、まったくなんだって代わりの効きそうなそれを持っていたことのみをみんなに「お義理のように」そもそも「ていどひくい」から誉められるだけ。

 のび太の言葉は最後まで脳天気だ。あまりにもいつもののび太だ。しずかの不在を嘆き、智慧も絞り出せず、無力を自覚もしないあまりに頼りないテレビアニメののび太だった。クライマックスでラスボスを倒す役も、そのあとヒロインに声をかける役も、もらうことはできなかった。のび太に与えられたのはその直前にソフィアにうすっぺらい言葉をかけ、そしてやはり潮の流れに流されないように手を引かれる役だ。


 のび太は結局、女のケツをうすっぺらく追いかけていただけだった。


 やがて最後、海底鬼岩城そっくりの大団円シーンで「あたしたち、昨日無断外泊したことになるわ!」と言い出すしずか。そこでタイムマシンで戻ることにする一行。

 のび太「きっとまた会えるよね!」

 いつものパターンだ、会えない。いや、会わない。今回の舞台は幻想世界でもなく、道具で作られた場所でもなく、時空のはざまに挟まれて消えた世界でもない。地球の海底なのだ。やがてソフィア達は自分たちのふるさとである星に帰るが、しばらくはまだ地球の海底に留まるはずなのだ。

 だからドラえもんはやさしく「うん! きっとまた会えるよ」そう言うはずだった。実際に会いに行かない方が良かったとしても、そう言うのが子守ロボットだ、のび太くんの親友の言葉の筈だった。

 だが、そうは言わなかった。ドラえもんは言葉を濁す「それはわからないけど……」と続けた。「のび太くんはもう、関わらない方がいいんだよ」という主張だ。ドラえもんは苦々しく思っていたのだろうか、しゃしゃり出てきた妹がのび太くんの成長を奪ってしまったことに憤慨していたのだろうか、それとも、のび太くんの成長を演出してやれなかった自分を憤っているのだろうか。



 なんにせよ、のび太はなにも成長できなかった。考えることを、諦めさせられた。役を与えられなくてもヘラヘラと笑い、うすっぺらい言葉を吐かせられて、くやしさすらも出さなかった。成長どころか、あまりにもつまらない男になっていた。

 そんな男に、ドラえもんは劇中のどこかで、愛想を尽かしたのかも知れない。

 だから、のび太くんに期待しなかったドラえもんは声を荒げて怒ったりしない。

 のび太くんがほんの少しでもいいことをすれば、やさしそうに誉めてやるだけだ。


 今回も冒頭で何度となく使用された新ドラの十八番「あたたかい目」という演出がある。ぼくにはどうしてもその目がつめたいものに見えてしかたない。


 のび太くんの話が消えていく。

 のび太くんは、ぼくらだったはずなのに。

2009-03-10 ドラマティック・エモーション 2008

ドラえもんがタタリ神に仕立てられてしまったあの日の記憶


(注意!)これは「ドラえもん のび太の新宇宙開拓史」についてのナニではありません。一年前に公開された映画「ドラえもん のび太と緑の巨人伝」についてのナニ(再掲載)です。


 「ドラ」タグは正直外したい。


 去年のドラ映画、ぼくがドラ歴の中で最も嫌いと言って憚らない「緑の巨人伝」の感想というか、泣き言を発掘してきました。一つ前の開拓史への女々しいエントリーとかに吐きだした感情も、この作品がなければ別に出てこなかったんじゃないかと思います。そんだけ罪深い作品への、ぼくの怨嗟の声です。まあ、ぶっちゃけ自分の資料用。

 これは正直気色悪い妄想文なので、見ない方が良いと思いますが、実はこれ(再掲載)と書きはしたものの、あまりにも悲しくて、前のブログにもどこにも載せてなかった気がするんですよね。

 

 そんなわけで、水子供養というか「来年のドラえもんも楽しかったらいいなあ!」という願いを込めてこのエントリーを上げてみることにしますね。こういう書き方をして何かから許されようとしているのが大変姑息ですね。気持ち悪い。そんなこといったらこの年になってドラえもん大好き! 言い散らしてる方がよっぽど気色悪いわ! そうですね。しーずかちゃーん、ぱんつかーぶらせーてー! そうですね。言い訳するとほんとうにしずかちゃんとにゃんにゃんしたいとか微塵も思ってませんよ、美夜子さんはアリだな、声はナシだけど! そうですか。

 はまじるよー。


(具体的な前半部分はほぼ全略。まあ、お話の大破綻をあげつらったあげく、一体何の話をしているのかわからない文章がありました。あとしずかがいかにセックスの象徴にしたてあげられていたかですな。まあそんで、ダイダラボッチでてきちゃったあたりでぼくの怒りが有頂天のところです、どうぞ)

 ――「ドラ」のタグを付けはしたが、僕はこの映画をドラえもんのそれだと認めるわけにはいかない。この作品は、断じてドラえもんなんかではない。

 ドラえもんをつくるうちに、ドラえもんでなくなったのではない。最初っからドラえもんという看板を盾に、悪意(本人は悪意と気づいているのかは知らんが)に満ちた作為で計画された誰かのマスターベーションで分泌されただけのそれっぽい映像の塊。が今作だと信じている。そうなってしまってこのありさまだ!

 

 期待は不安に、不安は恐れに、恐れは諦観に、諦観は侮蔑に、そして怨恨であるとか何もかもを通り越して絶望と深い悲しみだけが、残った。

 仮にもドラえもんという名が付く大長編作品を見ている途中で「早くおわらねえかな」なんて思う日が来るなんて思ってもいなかったんだ!

 

 

 何がダメなのかって? すべての根本そのものだ。よかった点は映像だといいたいところだけど、これはドラえもんだとかそういう名前を冠するより先に「映画」というものの体すらなしてはいない! 画はたしかにスクリーンに映っている。美しい。動きも好みではないがパワーのある動きで、部分で見ればとても魅力があった。だが。



 ――これは いったい 何の 話なのだ!?

 

 

 ずっとだ、ずっとこの疑問が鑑賞中に頭の中をそれこそ緑色のカビのように繁殖し、胞子をまき散らしたままでいた。これはなんなのか、これからどうなるのか、それはなんのために存在するものなのか、そもそもここはどこであるのか! 

 どこかで見た覚えのあるあまたの演出。いや、覚えではない、アニオタだからどうというわけでもない。パクリとかオマージュだとかそんな言葉で創作者の魂を断罪しようとかそんな安っぽい魂胆でこの文章を書いているのではない。だが、だがしかしだ、このどこをみても、どのシーンを切り取っても! そもそも根幹に流れるすべてのデザインが、日本においてもっとも有名な映像作品群であるあれらを模倣した描写にしか見えない。しかも、あまりにもあからさまに! これはいったい、どういうことなんだ?

 

 この作品を作った人たちはドラえもんをつくりたかったわけではないのではないか。今回、何らかの理由であえてドラえもんをつくらなかった。そう考えることで僕が救われるという話ではない。この作品がドラえもんである必要性が、どこにもないから、そんな考えが巡ってくるのだ。この作品を計画したヒトビトは、なんらかの理由で自分たちもジブリ作品(またはそのようなもの)を作りたくなった。または作らざるをえなくなったんじゃなかろうか、と。

 しかし、そんなヒトビトに許されていた作品を創造する場は「ドラえもん」という場そのものだけだった。すでに作られた枠と老いたファンとおろかなおこちゃまたちといまだ世界に満ちるあまたの設定に縛られ、声優を変えても絵柄を変えても続こうとするこの怨念じみた場しか用意されていなかった。「こんな場所では、ぼくらのほんとうのちからがはっきできない!」そう思ったのか、どうか。

 

 そしてヒトビトは、好きだったのか、必要性があったのかはわからないけれど、ジブリ成分をたっぷりふくんだ作品を考えました。しかし、これはドラえもんの映画だからドラえもんがいなきゃいけない。だからあとでドラえもん一行を乗せました。主人公はドラえもんの道具で創造された今後のドラ世界に影響を与えないゲスト。これはオリジナルにも存在するキャラだから文句は言われないでしょう。ま、このゲストが登場するある大長編をリメイクする時の事を考えるとちょっと困る気もしますが、それは来るかどうかもわからない未来の話なので黙殺です。

 そして完成したのはジブリ成分をたっぷり含んだ映像の群れは、100分という枠にはとても収まりきらなかった。ええそんなことはいつものことです、映画なんてそんなものです。そんなときは削ればいいのです。シェイプアップです。無駄な部分をこそげ落としてシンプルにするのです。わかりやすくするのです。伝えたいことをクローズアップするのです。簡単なことです!

 ではどこを? ぼくらが頑張って作った部分は削りたくない。ぼくらが成し遂げた彼らそっくりの、いや、彼らをも超えたかもしれない映像美を削るなんてとんでもない! そもそも、いつも彼らのストーリーはいわゆる「お約束」で構築されていて、いくら削ったって支障なんてありゃしませんよ。この部分はいわゆる贅肉だ、僕らはずっとこの贅肉に、同じ味に飽き飽きしていたんだ! そう思いませんか!? そうだ僕らは、世界を変えなきゃいけない。それができるのは今携わっているぼくたちだけだからだ! 残すべきは伝統なんかではなく僕らのオリジナリティ! 来年はリメイクと決められてしまった以上チャンスは今しかない! 過去の呪縛から今こそ、今だけでも、解き放たれるべきなのだ!!! 

 

 ほら、できました! 

 

 

 何が?


 こうして「緑の巨人伝」は悲鳴によって産み出され、また悲鳴を産む悲しい作品になったのではあるまいか。そう思えて仕方ない。この映画が、誰のために作られたのかわかってしまったこの時、くやしくて涙がとまらなかった。



 ぼくは、泣きながらガラガラの映画館を後にした。

2009-03-09 ドラマティック・エモーション 2009 その2

なぜ、新ドラえもんは子供達に「きみはじつにばかだな」と言い続けなければならないのか


 タイトルは釣りかもしんない。

 ドラえもん のび太の新宇宙開拓史の感想と考察的なナニだよ!

 検索でここにたどり着いてしまったパパやママへ。今作はちゃんとそれなりに話の筋のある楽しいドラえもんです。ぜひお子様と一緒に観に行ってあげてください。ヤッターマンとどっちがいいかって? 両方いけばいいんじゃないですかねえ。このあとはいい大人が書いたドラえもんへのラブレターなので、家族で観るドラえもん映画への善し悪しを決める手がかりはあんまり無いと思いますのであしからず。


 前半書いたの、ぜんぶきえちゃったよーう。さめざめ。ブラウザバックキーを物理的に壊しました。ああ、BJの「盲腸とかブラウザバックキーなんてものはむやみにきっちまっていいもんじゃあない」なんて言葉を信じた自分がバカでしたね! 

 書き直す気力なんて無いので、前半は要点をメモ的に記述しながら書きます。

 ネタバレネガティブご注意ください。

 よろしければ続きを読むからどうぞ。


 新ドラは前よりずっと良く動く、キレイ。情報量もやたらに多い。すごい。くどい演技もこなれてきたし、やっぱりドラえもんは楽しい。

 でもやっぱりあの日のように面白くは感じないんだよ! ぼくは旧ドラがあるからこそそこに当てはめて楽しんでいるだけのような気がする! ぼくはこの年になってまでこんなにドラえもんが好きなのに! なんでかな!


 理由を考える。そうね、今回も含めて新ドラに豊富なのは動の部分だね。でもね間が悪いんだよね、静がないんだよね。

 ロップル君が「ぼくらの星だから、ぼくらがすてることはできない」みたいな重要な科白の部分も元がとても静的な場面なのに動的に撮るもんだからおかしい。

 そもそも前作で静的な存在の象徴だったギラーミンが、小物臭と共に動的なキャラになってしまっている。ずっとヘラヘラしてるしやたらと饒舌だし。動作には無駄が多いし(見てて楽しくはあるけど)。ゴルゴ13がニヤニヤしながら部下を顎で使ってても強そうにみえないんですよ。話がちょっとずれてますね。

 あとは細々した演技、場面の中でも何かしらが動いてる。動いていなければ気が済まないかのようだ。前述のロップルのところで無駄な沈黙を使っているくせに、のび太とギラーミンの対決では十分な間がない。

 じゃあまあなんでこう「これでもか」ってうごかしたがるの?

 静的な表現、間とかそう言う演出の扱いが下手なの? それもあるかもしれない。けど、ぼくには意図的にそれを避けているように、いや、怖がっているように見える。そうしなければならないように、見える。

 

 これが、子供向けの作品だからだろう。と思う。彼らは子供達は気まぐれで、単純で、おろかだと思っておるのではありませんかね?

 だから、退屈させないためにこれでもかと動かす。

 だから、理解してもらうためにこれでもかと情報を与える。

 だから、注視てもらうためにこれでもかと笑わせる。

 その為にはちょっとした話の破綻とか、会話や仕草の裏にある設定とかは犠牲になってもいい。

 あたりまえの話だ。

 彼らにとって子供達はおろかだから、話の破綻になんか気付かないし、会話や仕草の裏にある意図なんかは読み取れるはずもないから入れるだけムダなのだ。おカネをだす大人達にそれに気付かれたとしても「まあ、これは子供向けの作品だからしょうがないよね」って思ってくれるだろうし、そもそもパパとママは「子供がドラえもん観に行きたいっていうから一緒に」行かざるを得ないのだから。

 

 だから新しいドラえもんは、賑やかで楽しげでキレイだが、ほんとうに薄っぺらい。話に殆ど根底のない緑の巨人伝をぼくが嫌いで仕方ないなのは「あまりにも どうしようもなく 薄っぺらい」からだ。人が生きて居る気がしない。

 今作でも広がったように見える世界は表向きのものだけだ。たとえばどうしてあの一年に一度洪水が起きるコーヤコーヤに街が出来えたり、あの規模の牧畜が成り立つのかとか、どうしてモリーナのパパはたった一人でたった七年で宇宙船を完成させうるのかとか、新しく公募した動物たちは一体どういう生態といわないまでも生き物なのか。とか。そのぶん、既存の動物の生態描写はカットされ、トカイトカイ星の描写、コーヤコーヤにすむ人々の生活レベルのリアリティは失われたように見える。

 それでも、旧開拓の確固たるよくできたせかいとおはなしの下地があり、今作までの経験からか、スジをそれなりになぞっているから明らかな破綻がない。だから「それなりのもの」に見える。見えてしまう。


 このあたらしいドラえもんは。よくできた子供だましだ。

 

 

 ――子供をバカにしているということは、子供を弱いものと思っていることだ。子供は壊れ物で、大事に扱わなきゃいけない。子供は社会の宝。パパとママにとってかけがえのない大事なもの、そして子供達はパパとママに心配かけないようにしましょうね。大人しくしていましょうね。ほら、君らの代わりにのびたくんとドラちゃんが冒険してくれているから、それで満足しましょうね。

 

 今作におけるのびたの最初の武器「プラスチックのたま」は「コルクのたま」になっている。プラスチックのたまだって、人をキズ付ける、あぶない。ほんとはコルクだってダメだけど許して差し上げザマスわ。

 スーパーマンになった想像をするのび太は、鉄条網を飛び越さない。公園の車止めを飛び越そうとして、引っかかったわけでもないのに転ぶ。鉄条網なんて飛ぶものじゃないものね。真似しちゃダメだよ!

 スーパーマンになったのび太は、わるいガルタイト工業の下っ端達を殴ったりしない。体当たりしたり投げ飛ばしたりする。殴ったら痛いもんね。そのかわりに数を増やしたから、すごそうに見えるでしょ? 友達に試したりしちゃいけないよ!

 ギラーミンは死なない。悪い奴だけど捕まるだけ。やさしい。みんな、なかよくね。


 自分達の星を守ると決めた、ロップルはクライマックスで単身敵の本拠地に乗り込んであっさり捕まる。

 ちなみに、原作ではロップルは役に立たないまでも期待してなかったのに、わざわざ来てくれたのびドラとの友情を確かめ、共にラストシーンを迎える。

 ちなみに、旧開拓ではのびたとの決闘シーンを失ったギラーミンに対して、のび太の支えを借りてとどめを刺す。ギラーミンは大水に流される(なんでこの時ショックガンの威力が妙に高いのかはまあおいとくとして、ぼくはコーヤコーヤの人間であるロップルが他人の手を借りながらも自分の力でケジメを付けるこのシーンが大好きだ)

 

 そして今作でロップルは、敵に捕まった上で、同じく捕まっているモリーナにこんな台詞を吐く。


「――だいじょうぶ、きっとのび太くん達が助けに来てくれる。ぼくはそう信じてるんだ」


 なんでこのセリフをロップルに吐かせたのかはわからないし、モリーナという新キャラを入れてしまった以上、ロップルが先に捕まってしまう展開もまあやむなしと思う。しかし、このセリフはどうだ。子供達がのび太の他に感情移入しうる今作のもう一人の主人公であるのび太がこの世界に足繁く通った理由、のび太に「ぼくを待っててくれたの? ぼくの居場所はここにあったんだ/きみとはずっと前からの親友のような気がするんだ」と言わしめる親友が吐いたこのセリフは、いったいどうしたことだ! 

 子供達は、心底彼らにバカにされているではないか。

 

 本当のところ、子供達はみんな気まぐれで、単純で、おろかで、その上わがままで、甘えたがりで、分別のつかないバカだとおもう。でもそれでも、いつの時代も子供達は繊細で、それなりに大人になろうとして、大人の顔色を窺ったり、それなりに考えたりして生きているんじゃあるまいか、かつてのぼくらのように。

 きっとその過程で、このいびつなあたらしいドラえもんは、ぼくらの時のようには拘泥も執着もされずに消費されゆくんじゃなかろうか。

「やっべ、ドラえもんマジ笑えたわ、泣けるわー」は「ドラえもん、あー……うん、面白かった、来年も観る」ではない。子供達をバカにしたドラえもんは、子供達にバカにされて、やがて忘れられる。



 それでいい、彼らもわかってそうしているんだろう。

 明らかに原作付き大長編の質は上がっているし、今作はぼくも観てて楽しかったのは掛け値なしで本当の事だ。細かい刹那的な部分の描写などにおいては昔よりもレベルが上がっている(あたりまえではあるが)。

 それに当時と今とでは感じ方も違うのだから、こんなオトナが子供達のことを代弁するのなんてすごくおこがましいことに他ならない。そうだ、こんな子供向けのアニメにムキになっちゃってどうするの?

 当時のように子供のために与えられる良質なエンタテインメント作品はなにもドラえもんだけじゃない。背伸びできる子供には、巷にあふれるオトナ用の作品を与えてやればいいじゃないか。これでぜんぶ解決してるじゃないかのび太くん!


 ああ、ぼくも正直そう思う。

 でも今作を観ながら引っかかってたこれらの部分が、きっとぼくにこの作品を手放しで誉めさせてくれない理由なんだと思う。この作品をずっとずっと誉めたくて仕方がなかったのに、書けば書くほど「なんかこれ違うんじゃない、のび太くん」って声が聞こえて、一つ前の記事の最後のあたりで限界だった。あそこから先をいちいちこき下ろす事になるのが耐えられなかった。こんなにも「ドラえもん のび太の宇宙開拓史」が好きだったと、よくできていたんだと、今更気付いてしまった。

 わかっていたつもりだったし、ずっとみんなに言っても来たのに、まだ自分の中ではドラえもんがあの時のまま帰ってきたつもりでいたんだと思う。てんとう虫コミックス7巻のように「うれしくない! ずうっと、ドラえもんといっしょにくらさない!」ってドラに言えたんだと思ってたんだ。

 帰ってきたドラえもんは、あの日別れたドラえもんじゃなかった。





 ――大冒険はもう、ポケットの中にない。

2009-03-08 ドラマティック・エモーション 2009 その1

 ドラえもん のび太の新宇宙開拓史 その1

 ドラえもん のび太の新宇宙開拓史 観てきたよ!!

 すげーたのしかった!

 さて、ここから先はネタバレの温床です! 今後新鮮な気持ちで表題の作品を観覧する予定のある方はすぐに退避することをお勧めします。

 とりあえずは前回の「緑の巨人伝」と比較するのも馬鹿らしいほどちゃんとした物語だったということは先に述べておきます。そりゃリメイクなんだから当たり前だけどね。良かったんですね? そうですね。保証しますね? 知らんがな、ぼくはそれなりに面白かったんです、それ以上のことをぼくに言う権利があるとでも? ププ自分の主張に自信の持てない人種はツラいですね。

 旧作を観てしまっているので、その美しい記憶と想い出を中心に思い浮かんだことをグッダグダダラダラ書くとします。旧開拓の記憶を失うことは残念ながら出来ないのですよねえ。失いたくもないけど。

 思い出しながらまるっと書き殴ったりネタバレしたりします。「やった! これ読めば映画観に行かなくてもいい!」とか思わずに面白そうと思ったら観に行くといいとおもいます。映像は力だよのび太くん。誰がのび太くんだ。力はパワーだよのび太くん! ドラえもんはほんとうにかしこいな。 

 くわえて、このあとの文章は子供とか常識的なおかあさんとかが見るにはまったくふさわしくない文章を書く場合があるからね! 「くわえて子供」って書くとなんだか変態チックですね。やかましい。あとは「あ、ボクねえ、ドラえもん誰よりも好きだよムフー。あ、鼻くそ飛んじゃいましたねパクリペロリ」みたいな人も帰った方が良いと思います。ああもう、いいからこんな最果てのブログなんか見てないでさっさと劇場に見に行きなさいよ! 時間の無駄ですよ! 昼寝でもしてろ!(0.95秒)

 場所は公開初日初回の渋谷。DSやPSPを両手狭しと携帯したナウなジャリボーイ&ガール半分、その半分強居る親御さん、その他1時間前に気合い入れてチケット売り場に並んでいたぼくと愛妹(マナいもうと:タップすると妹マナがでるとおもいきや、技をかけられてタップするのは主にぼく。痛い! もっと!)、その前に燦然と立ちはだかるのはどうみても百戦錬磨の強者禿頭のアラフォー、上映中にクリスピークリームドーナツをヤムヤムほおばるアメリカナイズされた家族(この家族のオヤジがぼくの前に座ったんだけど微妙に画面が見えないので辟易した。別に満席じゃないんだから、背の高い奴はもうちょい気をつかってくれよなんで子供おいてオヤジが真ん中の方の席すわってんだよ)および数組見かけられるカポー(デートにドラはどうなの? ドラはモテなの? あ、いやもしかしたらぼくらみたいにきょうだいだったかもしれんね!)。

 初日初回なのにあんまり席びっしり埋まってるわけではない印象。さみしい。まあぼくが緑の巨人伝観たときは貸し切りでしたけどね。(あのときは公開一ヶ月後だったけど)

 暗くなる前に配給会社の人がアンケートの回答をお願いしていたり(塗り絵もらった!)するので適当に答えたりする。妹と「お面になるコナン映画のパンフ」でコナンごっこして大いに盛り上がる。<「みんなもコナン、お父さんも犯人です」妹はこの春に社会人です。

 ドラゴンボールエヴォリューションの番宣で大いに盛り上がる。映画は番宣の盛り上がりの時点からはじまっていると知る。キャメハメェハーですよ! クレしんの番宣を観ながら「あれ、こんなに上品だったっけ? まあ、キモい動きは相変わらずだし、尻は見えるけど」などと思う。


 さて感想は「続きを読む」から(やっと)はじまるよ。

 ええとね、なんか感想書くの終わらないので「その1」です。続きは近日公開予定。


 無限に広がる大宇宙。宇宙移民船っぽいデカい船とその中の描写。藤子F顔の大人達と昨日のドラで観た赤い髪の娘さんとロップル君。ああ、アレがモリーナさんなんだろうけどロップル君も随分幼いので過去なんだなと知る。時空のはざまで故障した船を直すために船外活動しにいくモリーナパパだが、あえなく時空のはざまへ持って行かれてしまう。

 いきなりの悲劇的な展開にぼく唖然。どうでもいいけどモリーナさんの声がシロートのはずなのにうめえなあと思う(実際のところ幼モリーナの声優は堀江由衣でした)(そういや若田さんこの辺で一言喋ってたね、こういうのならあんまし気になんないからいいんだけどね)

 のっけから旧作とは違うからね! というメッセージを受け取ったのでここでかなり心の準備をして臨むことにする。ちゃんと心の準備をさせてくれる作品は親切。だって緑の(ry

 

 というのはのび太の夢(あとで説明?されることにはロップルとの精神感応)でした! な場面展開。旧作と同じ展開に「ああよかったこれは宇宙開拓史だった」と安心。

 ただ、この新しく加えられた精神感応の場面は、あたりまえのように疑問を生じさせる。時間がズレているのを勘定して、ロップルがいることを理由付けにするとしても、「七年前」のイベントをあとで同じ日に今現在のロップルとの精神感応をするところののび太が見る説明があんまつかない。そもそもなんでロップルと精神感応すんのってのも含めて「ふしぎなできごとだったね」でおいておくしかないんだけど、これはこの作品の細かな違和感の中でもけっこう気になる部分ではある。

 映画になるとのび太の部屋はほんとうに狭く感じる。ちゃんと部屋がタタミです。そうですよねタタミじゃないとはじまりませんしね、ってタタミなの当たり前じゃんね。……タタミだと!? 嘘付け新ドラではのび太の部屋はカーペットじゃねえかと思ったら、画面の端でちゃんと「カーペット(じゅうたん?)はクリーニングに出しました、タタミを汚さないで! ママ」というメモ書きが残されて長めに画面に映っており、これはアリだなと納得した。タタミであることに違和感を感じないならこんなのどうだっていいし、感じるオタクなら画面を観察するから気付くというもの。もちろん、毎度のようにのび太の部屋には様々な小ネタが転がっていて、ファンにもうれしい仕様となっております。あのライオン仮面のポスターほっしー。

 ここで旧作だとのび太がドラに観た夢の話をはっきりとしていた覚えがあるんだが、今作では誰ともなしに呟くというかドラにはまた寝ぼけて叫んでるのかと認識されていそうな程度。そのせいであとでチャミーと邂逅を果たしたときののび太の「な、ぼくの言ったとおりだろ?」にちょっとした違和感を感じた。

 ジャイアンが呼んでると向かう中学生に取られた「わがジャイアンズ球場=空き地」へ。なんか空き地広いね。そもそも新ドラでは野球やってんの主に河原の野球用具ラウンドなのにな、と多少の違和感があるも「まあ、あとで中学生は近所中の窓ガラス割って追いだされなきゃならんしな」と大人の対応をキめる。

 

 映画特有のパステルというか鉛筆画的なのび太達がかわいらしく時にわざとらしくよく動くなとこの辺で実感する。これは慣れかもわからんが、新大長編でずっと気になっていた仕草のウザさが今作ではそんなに気にならなかった。こなれたなあという印象。

 空き地でのやりとりはだいたいまんま。モブに出木杉がいるくらい。出木杉ファン(いるのか)には申し訳ないんですが、今回出木杉の出番はここだけです、あとはいたかもしれんが覚えてないレベル。出木杉いるんならおまえ交渉しろよ! とかおもいつつもおだてられたのび太が、その気になって中学生に向かっていく。

 このシーン旧作と大して変わらないはずなのに、旧作だとのび太はバカっぽく見えるのに、今作ののび太はひ弱なだけであんましバカには見えない。絵柄とか仕草とかの要素でそう見えるんだろうなとは思うものの、これが意図されているものなのかはどうも判断が付かない。「時代の流れがそうしてるんだよ!」というのは説得力ある気がするけど、なんだかなあ。

 閑話休題。で、旧作よろしく中学生に追いかけられたのび太は工事現場の穴に落ちて気を失いながら「ドラえも〜ん!」でOP!(OPはほんとうに今のになって良かったと思う。まあ、昔のが一番ではあるものの「ハグしちゃお」はマジで嫌で嫌で仕方がなかった。ほんとうに嫌だった。これが嫌で新ドラ観てなかったんだなって最近のアニメドラ観ながらしみじみ実感しているくらい。今のOPは多少説教臭いし、感傷的だし、押しつけ臭がするものの、ホントにハグじゃなくて良かったと思う。何度でも言う)


 あーこの感想終わるのかしら。


 適当にOPが終わるとロップル視点。宇宙船の中、「海賊」に追われ、高速状態でワープ。旧作では冒頭のロップル視点の部分。

 最初の印象としてはロップル視点とのび太視点を旧作より頻繁にして、さらにのび太世界とロップル世界の時間の流れの違いに対する伏線を張っているんだなとその時はおもったが、前述のとおりそれだと時間の流れはおかしいな。頻繁に視点が変わって多少せわしないが、フツーに観てる分には面白くなってるように感じるんじゃないかなという印象。

 穴から出てジャイスネに「せきにん持って空き地取り返せよ!」と詰られるのび太。無茶を言う。このへんのび太の描画がちょっとおかしくて違和感を覚える。妙に足が長かったりと頭身がおかしい「はげしく動いているから」ではなくほぼ止まっている状態でのことなのでひとしお。

 ジャイスネから逃げながらしずかの家の庭の木に登るのび太、木から落ちてロップル視点に。旧で穴に落ちたときの回想がここにくる。

 この辺でしみじみと思うんだけどロップルくんがかわいい、もう性的にかわいい、ぼくがショタわりといける口とかそういうのはおいといて超絶にキュート。最後まで「ぼ、ぼく……実は女の子なんだ。のび太くん、それでもぼくと友達でいてくれる?」的展開を疑ってました、そう言う同人誌出ませんかね、ロップルくん攻で! 誰が受なんだよ。だって、隣に妹いなかったらぼくだって男の子ですしそりゃもう生理的な現象とかアヘヘヘッ。お客さん申し訳ないけど警察のものですが。ウビュルブブッ! 斬首。 

 ロップルくんは声も仕草もデザインも妙にかわいらしい。大人びたことをするけどちゃんと子供として描かれている。今作で一番いいキャラだと思うのです。

 あとでも書くつもりだけど、こういうデザイン(前作よりも「ほんとうは子供なのよ」を強調されている)になってしまった以上、最後あたりの展開はまあしょうがねえのかなと思う。

 

 こういう画で語る部分は当たり前だけど今の方が強いよね。でもその強さを自覚してない過剰な演出が今までの大長編ドラを妙にクドいというか子供だまし的な単純に味の濃いものに仕上げていた気がします。その点今作はわりと好感の持てる印象だったなー。

 

 チャミーがこのへんでモリモリしゃべりだす。チャミーのデザインが原作準拠でさらに「宇宙ウサギ」なる肩書きまでもらってる、前はなかったよね? で、ぼくが幼い頃は映画のチャミーはかわいいけど、原作の黒目デザインは怖いしかわいくないし、絶対映画の方が良いと思ってたんだよね。でもどっこい今作のチャミーは黒目でも激かわいい。声はマイメロだけど。いやマイメロが悪いとか(どこかのニュースサイト管理人をつい思い出すとか)言ってるんじゃなくてどうしてもマイメロ思い出しちゃうねってそう言う話。ロップル君は怪盗セイント☆テールを思い出すといいと思います。

 

 ……本筋、どこまで話したっけ?


 そんなわけで目覚めたのび太は「ドラえもんになんとかしてもらえよ」と言われ、ドラえもんに泣きつく。

 旧作だとこの時ドラはのび太の話をまたちゃんと聞いてあげるし、それなりの教育っぽいことをするんだが、この時点のドラは笑えるくらい無関心。スモールライト取り出して(余談だが、このスモールライト、以前プライズで取った実寸スモールライトまんまでちょっとうれしかった。)「これで小さくなれば、誰んちの庭でも出来るよ」とたいへん現実的な案を無表情で実につまらなそうに本読みながら、のび太の方を向きもせずに出してやる、ひどいがちょっと面白い。

 ここのドラえもんはあまりにもクレバー&スパイシー。見てる方としては「正直それで解決じゃん!」と思うのだがのび太は「やだ、このままの大きさじゃなきゃイヤだ!」と旧作ジャイアンの主張を代弁。ドラえもんに無茶を言いもみくちゃにするのび太。

 この辺りの動きがたまらん。ドラえもんマジ柔らかいんですよ。ねえそれゴムなのシリコンなの? ちょっとドラえもんしゃぶってみてよ! みたいな不思議材質です。こういうのをエロかわいいって世間ではいうのでしょうね。違います。

 あとは「どこでもドア出して!」「どこでもドアは十光年までの距離しかいけないの! その中には(のび太くんの言うところのそのまんまの状態で)野球できる星なんか無いの!」と吐き捨てるのだが、旧作では憐れむように言ったこのセリフ、今作ではドラの言い方がたいへんガキっぽい。「のび太くんのもの知らず! バーカバーカ」といわんばかり。しかし、どこでもドアのそんな仕様なんか知るはずもないので、のび太にとってはいらんバカにされようである。ここはまあ賛否あるだろうが個人的にはかわいいし、今のドラはこういう位置だと思っておるのでよし。

 このシーンによって、このあとあったはずのミニプレイヤーとミニ球場(リアル野球盤のようなもの)が登場する「うまいひとはうまく、そうでないひとはそれなりに」「いいかげんにしろ!」の名シーン(?)がカット。

 まあ、今時そんなレトロな道具出されても、今日びの子供達はDSやWiiやるしなあって思うのでいいんじゃないかと思った次第、遊びに関してはホントに進化した21世紀です。でもきょうびの野球ゲームって「げげ、おまえは<<聖夜の絶望>>パーフェクト・クローザー!」(厨二風にお読みください)

 

 そういや、今回はDS新開拓史出なかったなあ。緑の巨人伝DSがダダ余った所為だとすれば巨人伝はマジで罪深い。巨人伝DSは別にそんなにつまらなくなかったですよ、わりとムズかったけど。魔界と恐竜のカードゲームのほうが面白かったですけど。

 

 で、チャミーとの邂逅。夜にのび太の寝ているタタミが揺れる。「地震!」と騒ぐのび太ですが、このあたりの野比家の描写が動きがあってたいへんよろしい。ママなんかホウキもって駆け上がってきますからね。ちゃんとのび太愛されてていい。二度目は本気出したチャミーがハンマーでドーン。メガネかけてないのび太に「ねぼけんな」とメガネかけてあげる時に、ちゃんとメガネのレンズがありますよ的な描写がされてるのもステキ。いいよねえこういうの。

 台所で食料を貪るチャミーのところへいくドラのびの描写がまたステキ。物音に驚いて声を出そうとして、お互いの口を塞いで視線を交わすところとかたまらん。昼のドラがすげー冷たそうだったのも、今のドラがのび太と感情を共有しているのも「新ドラは、旧ドラの晩期みたいによくできた人格ののび太にいろいろ教えてくれるお兄ちゃん的立場じゃなくて、ちゃんときまぐれさとかそういう人間くさい偏りをちゃんと持ったところの、のび太のかけがえのない友達として描かれてるんですよ」という主張がされているようで、なんというかドラは(兄的立場のドラもまったく嫌いじゃないけど)主に「のび太の最良の友達」であって欲しいと思ってるぼくとしてはうれしい自然な描写だったのです。

 チャミーつかまえたときの「タベラレチャウ!」に対するドラえもんの「しねーよ」みたいな表情が超クール。で、さっきも言ったけどここののび太の「やっぱり夢のとおりだ、ぼくの言ったとおりだろ!」に対してドラがそれを知っていたように振る舞うのはわりと違和感があった。のび太が自分の中で勝手に消化したのならわかるんだが、のび太がドラえもんに伝えた。ととれる描写は今作では無かったから、ちょい残念なとこ。

 

 で、のび太達はタタミをめくる。

 タタミをめくると別の世界という感動なんだが、新開拓のちょっと曖昧でかつ重要な新しい点がこのタタミとカーゴのスキマにある「時空のスキマ」。タタミの中をのぞき込んだのびドラの顔から時空のスキマ的な空間が広がっていく描写。

 これは我々に、旧作のようにタタミとドアの間には物理的に既にスキマがあり、やがて離れてしまう運命をこの時点で予感させ、同時に「ああ、冒頭の時空のスキマに持ってかれたひとをあとで絡めるつもりなのかな」という心の準備をさせてくれる。

 とおもいきや、この時点ではどうもタタミとドアのスキマが無いようにも見える。タタミをめくると裏にドアがひっついているように見えるのだ。あとあと「あ、離れてる」とか言うこともあるので、すでにこの時点で乖離は起きているようにも解釈できるしうーん。なんというかこの辺は「まあ、時空が歪んでるからひっついて居るようにも見えるけどなんか時空スキマ空間があるらしいという曖昧な認識をしておきたい。

 あとはのび太の部屋視点でタタミを開けてるときはドアの蝶番側にカメラがあるので、どういう構造になっているのかを見えないように、曖昧にできるようにわざとしている気がする。このへんは「考えずに感じてください」というメッセージな気がした。だったらこのスキマに新要素なぞ埋めなきゃ良いのにと思わんでも無いが。

 

 そしてロップルくんとの邂逅を果たす。タテヨコちがいとか空気の違いもちゃんと描かれてて嬉しい。空腹でロップルくんの第一声は「だれだ海賊か?」とまあガルタイト工業じゃなくて海賊的なものに追われているという認識なんですよ、ということを主張している。そのわりにはあんましあとの方で「海賊→ガルタイトの海賊に偽装した汚いやり口」だとわかりやすく認識させるセリフなりが薄かった(読み取れはする)ような気がするのでした。

 そのあとまた空腹(?)で倒れるロップルくんの仕草がマジ性的。今回はいつにもまして「のび太の物語」なのでしずか、ジャイアン、スネ夫は出番がかなり少ない。そんなわけでセックスシンボルとしての役割が自然とロップルくんに行ったように見えてしまう。きっと十年後とかに「ぼくは生えてるほうが好きだな」的な若き変態紳士達がふと「俺……なんで男の子いけるようになったんだっけかなあ……あ、ドラえもんだ、新開拓のせいだ! 今すぐロップルくんのエロ画像キボンヌで検索だ!」とか思い返すに違いないのですから。十年後に「キボンヌ」はどうなんだろうね。ないッスかねえ。余計な話ばっかりしてる。

 

 旧作にはなかったロップル&チャミーが空腹を満たすシーンにワープの説明が乗る。やっぱりねえ、ドラにおいてうまそうにメシ食ってるシーンってのはすごく重要だと思うわけで、この改変はステキ。サンドイッチうまそうです。

 さっき言い忘れたけどチャミーがまるごとハムを奪って飛んで逃げるのもいいよね。まるごとハムはロマンだものね。ああいうのが冷蔵庫に普通にある(もらいものだろうけど)のを見ると、以前と比較して野比家はかなり安定した家庭として描かれてるよなと思う。

 修理のために向かうカーゴのメカルームが、タタミと繋がってしまったドアの先に本来あったから行けないという改変になっており、じゃあ通り抜けフープ。というのは手放しで良い改変だなと思う。馴染みの道具の出番も出せるしね。例のごとくタイムふろしきでカーゴの故障を直すんだが、新ドラのタイムふろしきのエフェクトはすごく怖いよね。時計のシンボルマークがリアルに変化してえもいわれぬ恐怖。みんなのうたのメトロポリタンミュージアームが怖いのとにてる。

 それはさておき、メカルームから帰る時に通り抜けフープ回収してるんだけど、それは付けておかないとメカルーム行く途中で倉庫も通ってたみたいだしあとあとロップルくん困るんじゃないの? とか思ったりした。そのわりにあとで使った覚えないしね。細かいことです。

 無事にカーゴが直って、別れ。空気の違いによる二つの世界の明らかな断絶と「このつながりが奇跡的なもので、すぐにまた元通りになるだろうね」みたいな、いままでの新ドラからともすれば抜けてしまいそうな部分をちゃんと残してくれて高評価。ところで、カーゴの下の方にもやのかかった空気みたいなのがずっと描写されてるんだけど、これなんなのかよくわからなかったな、冷気? 「地球の空気とは違う空気です」という主張?

 後日。ジャイアン達を避けながら帰宅するのび太なんだが、冒頭といい、木登りとか窓から入るとか出来る時点で、のび太は相当に出来る子だよなあ。

 この時掃除しているママに出くわすんだが、なんとなく最近のママはわりと家事をこなしてる印象があるね。以前のドラではママはなんとなく茶の間で菓子食ってテレビ観てるか「今月も赤字だわ」って言ってる印象なんだがな。印象であって実際どうなのかは知りませぬ。

 家庭レベルを高くしたぶん玉子に負担がかかっておるのかのう。もし十年後にまたリニューアルとかしたら今度は共働きになるのかもしれませんね。スーパーで疲れた目でレジを打つ玉子。スーパーの店長はある日玉子をバックに呼び出し「野比さん、あなたがレジに居る日にばかりですねえ……こういっちゃなんですが、計算がね……あわないんですよ。エエ……奥さんにも地域の目とかね、家庭とかね……ええ、男の子が一人いらっしゃいますよネェ……。野比さん、ぼくは鬼じゃない。もしかしたらあなたがやったのではないかも知れない、しかしですよ、ぼくじゃないひとがこのことをもし知ってしまったら……野比さんが疑われる。忍びないナァ……野比さん、よく見ると、なかなかお歳のわりにはかわいらしい顔をしていらっしゃる……、前からそう思っていたんですよ。エエ、旦那さんとは恋愛結婚で……? ンまぁ、知っていましたけどねフフフ。ハハァ……最近はどうです? ナニってそりゃあ、ねえ、ンッ、まぁナニですよ。ぼくの言いたいこと、もうわかってるんじゃありませんか? ネェ、玉子さァん?」そして玉子の脳裏に浮かぶのはのび助とのび太の笑顔だった……! あの笑顔を壊してはならないと玉子は自らその(ry 

 ああなんていかがわしいアニメではありませんか! ドラえもんりにゅーあるはんたい! いやちょっとみてみたい! ドラえもんもしもボックスだして! ちょっとだけ、さきっちょだけだから!

 じつにばかだな。

 そしてドラのびはまだつながっていたタタミを通してコーヤコーヤのガレージへ。エレベータボタン押して動いたときの二人の驚きによる動きがコミカルでかなり好き。前々からでてきてたカーゴとかガレージがなんとなく見える。

 

 で、この辺はまあ善し悪しなんだけどカーゴとかこのガレージの印象があんまりボロくないんですよね、ポンコツな感じがしない。で、その感覚はここだけじゃなく、随所で感じるわけです。あとは、このあと出てくるロップルの家が、旧では土から盛り上がってくるシェルターまんまみたいな家なんだけど新ではなんかね生活をちゃんと意識した上で作られた、ハイテクなナニなんですな。

 旧開拓とかいわゆる西部開拓ものにおいて、この辺の人たちがそんなに裕福なわけないじゃないですか、基本的に星を追われたり、なんか希望的なものに乗せられてわざわざ新しい星なんかに行くもんだと思う。だけど、この辺のコーヤコーヤで生きている人たちの周りにある道具や環境から受ける印象(他には旧開拓において、運搬と耕作両方の役目を果たす一台で全部をこなせる大事な乗り物であり財産として説明されるこの重要な「カーゴ」への説明がない。おそらく耕作機械としての役目は取り上げられ、他の機械へ分散されているような印象を受ける)として、彼らが「わりと安定して」いるように見えてしまう。このコーヤコーヤにいる人たちの生活が逼迫しているという印象がまったくなくなった。

 新開拓では実際逼迫なんかしてないということで描いてるんだろなと思う。「この開拓星に来て七年」ってロップルが言うのだけど、でも「七年で君ら随分生活安定してるね、すごいねえ」ってぼくらに思わせてしまうのはどうなんだろうね。貧しさとかそういうの描きたくない大人の事情的なものでもあんのかなあっておもったりした。

 そして、赤の月と青の月が両方でる紫色の荒野へ。まあよくもこんな毎年洪水の起こる面倒な土地に移住するもんだというのはきっと無粋。この場面はすごくキレイだし、七年前にロップルくん達がはじめて踏んだであろう無限の荒野とか(まあ、冬に来たとは限らないけど)をのび太達に知らしめる(劇中でそんな余計な事言及はされねえけど、ぼくはそう思っている)効果がある、原作でも見開きで描かれている印象的で重要なシーンだと思うわけです。良くできているんですけど、ぼくなんかは旧作ですごく印象づけられたところの、のび太達の顔まで染め上げる死を感じさせる不吉な紫色のパワーがたらねえなあという印象を受けたのでした。

 この「赤い月と青い月と紫色の夜を持つ、地球とはまったく違う星」という印象を与えるためのギミックは、言葉としても印象としてもちょっと軽視されているのかな、と思った。実際、チャミーの「ムラサキの夜は大洪水の夜、とおい東の湖から肥えた土を運んできてくれるのよ」というセリフは無かった気がする。まあこの違和感は客観的にはわりと細かい話なのです。

 で、キモいウシガエルの大群が地中から出てきて、大津波が来る。この一連のシーンはのび太のケツコプターも含めて細かいネタや動きはたいへん面白いし、旧作ではよくわからんかったガレージが流されてしまうシーンも描かれてて良いのだけど、残念な点が一つ。

 津波をのび太に教えるときのドラの表情が一瞬ひどく不快になる。最近の劇場によくあるただおもしろいだけの顔芸のそれでもなく、ただ単純に不快な顔だったのでこれはホント意図がわからん。「いいとおもってやった」としかおもえない。

 イカダ場面を飛ばしてロップル家が近未来的に生えてくる。ここの違和感は前述したとおり。クレムとママが初登場(もしかしたら冒頭シーンにいたかもしれんが)ロップルママの名前「ライザ」なんだけど、これって旧にはなかった情報だよね? 

 でまあ、衝撃のクレム。わかってはいたし覚悟はしていたし、アヤカ・ウィルソンは頑張っているのはわかるんだが、やっぱり声がキツい。これは「この作品はアニメなんですよー」と現実に視聴者を引き戻してしまう類の声だ、だから実写とかで翻訳の声を宛てたらしっくり来るんだと思う。これはほんとうにキャスティング(?)が悪いし、どうしても使いたいんだったらもう少しクレムのセリフを削るなり、いじるなりして欲しかった。

 というのも、クレムの外見はすごくかわいく「少女」に仕上がっている。仕草なんかも良くできているが、このアヤカ・ウィルソンの声が入った途端に年齢の誤差を感じてしまうのだ。だって、どう聞いてもこの声は少女じゃなくて「幼女」のそれなんだもの。何も知らずに聞いたら外見と声のギャップで「ああ、ハクチキャラなんだなこの子」という印象を与えてしまうのだ。なのに、クレムはちょっと分別のつくこともしゃべらされてしまうのでそこに無理が見えてしまい、その度に苦笑いですよ。

 だからクレムがもっと幼めのデザインであったり、また分別の付いたセリフを発させしめなければ、そんなに違和感無かっただろうに惜しいなと思う次第。

 どうせその辺りの骨子が色々出来たあとに「クレムの声優って芸能人使うんですよね、決まりました?」「あ、この子です、パコと魔法の絵本で良い感じの12歳(だっけ)アヤカ・ウィルソン」「はあ……(あれ? ちょっとそれだとちがくね? まあ、いいか)」的な事を勝手に想像してみる。

 まあ、なんにせよクレムの存在によって、メインのロップルチャミーはちゃんと声優でよかった! ほんとうに良かった! というよろこびを噛みしめることが出来ました。いやーホントに新魔界はひどかったからな「ここであなたがつかまったらーだれがちきゅうをまもるのー!(棒読み)」だからなー。思い出しただけで腹立ってきた。新魔界はほんとにあれさえなきゃ、わりと観られるモノだと思うんですよね。そしてあれと比較したらクレムは別にそんなひどくないなと思い直した、オタクきもちわるいです。

 何度も言っておくけどアヤカ・ウィルソンは別に下手じゃないんだと思う。ロリかわいいから肩持ってるとかじゃないよ! ほんとだよ! 信じてよ! ロリコンきもちわるいです。


 流されカーゴを探しにいくドラのび&ロプチャミ。観てるときは気付かなかったが、「コーヤコーヤのような開拓星」の話はしても「島宇宙の中心、トカイトカイ星」の話は殆どしてなかったような気がする。実際にロップルがトカイトカイに行っているシーンは無くなっているし、今作はトカイトカイ方面の描写は極力避けてその分をコーヤコーヤの描写とこのあと出てくるモリーナのドラマに時間を宛てた感じがする。この点はわりと効果的だったかもなと思う。

 そして旧作の「隣のカモランさんだ」のイベントはモリーナの顔見せイベントに呑まれて消える。ロップルの姉的存在モリーナの家に寄る。心配したほど声の印象は悪くなく、むしろちゃんとハマっていると思った。クレムに比べてセリフとか立ち位置とかが重そうなキャラであったので、この時までかなり不安だったが、意外にも十分許容できるレベルでびっくりした。それでも、望みの高い人はところどころ気になるかもしれない。

 モリーナはたぶん17歳で、パパンが冒頭ではざまに呑まれてどうやら一人暮らし。ママンの描写は無かったと思うんだけど、なにかいってたかもしんない。見た目牧畜っぽいことしてるのに(というか、毎年洪水でのまれっちまうのに、牧畜とか冬の間どうしてるんだろうと思う)一人で大変そうだなと思うなど。ツンツンしてるのは、冒頭の描写などから、七年前のパパ呑まれ事件のにおいて大人が誰もパパンを助けてくれなかった事への不信感だろうとなんとなく読める程度。人物描写は新キャラでも良くできてた気がする。

 まもなくガルタイトの監視船が登場してダウトとウーノ(旧作のガルタイト下っ端、以前は名前無かったよね?)が出てくる。チュートリアルの二人が中の人だが、これまた殆ど気にならない。徳井の方は少々わざとらしかったが、まあ、笑えるところのある三下キャラなのでより味が出ているのでまったく問題を感じなかった。すげえ。

 そんでまあ「ガルタイト工業というコーヤコーヤ移民における敵の存在」を示したり「コーヤコーヤの移民は禁止された」とかの情報を喋って去っていく。

 このあたりを思い出していてちょっと気になるのは、この「コーヤコーヤへの移民を禁止する法律」が「どうせガルタイト工業って奴らが制定させたんだろう、トカイトカイに本社を持つパワーとカネがある企業はは違うな」と旧開拓を見ているぼくなどは、あとあとトカイトカイ星のくだりから想像をはたらかせることができるんだが、今作だけ見た場合にそこまで想像させるのは無理がある気がせんでもない。忘れてるだけかもしんないけど。

 

 飛びながら世界観の説明をしてくれるロップル、モリーナ前かもしれんがまあいい。ここでちらっと星宇宙の話をしてたかと思うんだが、トカイトカイの名前出してたかなあ。チャミーがかわいくて忘れた。というかこの時多分他のこと考えてたんだよね。

 あとは超鉱石ガルタイトの価値と説明と実演。チャミーが土ほってガルタイト見つけてきたりするのはええなあとおもう。そりゃ価値があるなら地表にあるはずないもんな。価値があるからこそこの星が狙われる。鉱石の浮遊効果エフェクトもキレイでいかにも不思議科学っぽくて好感。

  

 

 ドラのび一旦地球に帰還。時間の経ち方が違うことを知る。そして次の日(?)にいつものメンバーを連れてコーヤコーヤへ。地球とは明らかに違う生命に満ちた森を抜けながら広場へ向かうんだけど、ここでアヤカ・ウィルソンのちょっと気の抜けるミュージカルっぽい曲がかかる。正直萎えるが、まあ、どうにかなるレベル。だいたいどうぶつのメンツは以前のものに加えて、ちびっこから公募したデザインのどうぶつをだしてるっぽい。

 旧で好きだった「タマゴドリを無限に剥くジャイスネ」とか「デンデンワニにちょっかいをだして食われそうになるのび」とか「空気の抜けてしぼむ風船パンダ(パンク)」などの描写がなんとなくこのミュージカルっぽくどうぶつと戯れるシーンでまとめられちまっているのは子供向けの作品としてかなり微妙なところ。せっかく新しい世界を訪れてるのに「未知の生態系に肌で触れあっている」感覚があんまししないってのはいかがなもんなのよと。羽生えた丸い象には乗るけど、変などうぶつに乗るのはわりと他の作品でもしてるしなー。そりゃ、野球しに来てはいるけど、野球なんかしてる場合じゃないと思うんだけどなー。などと思った。

 野球シーン。まあ、この前のどうぶつシーンもそうだけどわりとこの辺強引に尺に対する巻きが入ってるように見える。まあわかるから良いんだけど、なんか見てて間に違和感を感じる。ガルタイト工業母船に野球の球で穴を開ける。ここ、母船から投げ返されたボールで地面に盛大に穴が開くのは、ボールの材質が本来のものより強かったと考えても違和感がないでもないが、砲丸相当だと考えて納得してみる。

 旧作では母船から降りてくるのはダウトとウーノの二人だけなんだが、今作は何人もガルタイト工業の下っ端が降りてきてドラ達に武器持って立ちふさがる正直威圧感があって良い。以前二人だったからそんなに驚異は感じないんだよね。まあ、そんなわけで重力の軽さと、ガルタイト工業の怖さと、ガルタイト工業の持つ銃は重力が軽かろうと当たったらやっぱりヤバそうと思わせるシーンでした。

 あとねー、このシーンしずかは超ジャンプするんだし、してもいいと思うんですよねー、というよりするのが自然だと思いませんか!? でもねえ、画面凝視してたけどしてなかったと思うんですよね! なにがってきみも無粋なこと聞きますね、わかってるんでしょ! なんですかーぼくにいわせたいんですかあ、しーずかちゃんしょうがくせいですからべべべべべつにまったくせいてきじゃありませんからねぇ! みえないのがふしぜんかもなあっていってるだけでえ、いいじゃないですかみせてくれたってへるもんじゃなし! ねえ! アアッ! もしかしてしずかちゃんはいてないんですかね、フ、ホ、ホホッ! それじゃあ見せられるものも見せられませんよねえ! ボブッ(鼻血)

 

 そして帰ってしまったジャイスネしずか。のび太との間にできる断絶が描かれた後に、ロップル達が苦悩を語る。ここのロップルが自衛のために携帯している(父親の形見の)ショックガンを持ち出して試射するんだけど、その時狙ったとなりの木の実を落としたのを絶賛されて「隣の木を狙ったんだよ」と照れるのがまたこれがめちゃめちゃかわいい。たまらんですよ。そういやこの星がロップルの父親が見つけた話はしてた気がするが、ロップルの父親がガルタイトに殺されたかも知れない話ははしょられてたきがせんでもない。

 で「じゃあ地球に来ればいいよ」と思いつきで喋るのび太に対して「ここはぼくらの星だから、ぼくらはこの星を捨てるわけにはいかない」という重いセリフが来てのび太も我々も「まあそりゃしょうがないよね」と説得されるはずのシーン。だったのだが、このセリフさりげなーく言われるから良いのに、いったいナニを勘違いしたのか、カメラはロップルくんをアップにしたあげくすごく不自然な「いまからありがたい話をしますから聞いてくださいね」的タメを入れてしまった。これは個人的に今回最も気が利かない演出。このセリフは思い詰めて言うんじゃなくて、さりげなく口から出るから良かったのに。その比較が無くてもなんとなく萎える演出であったろうと思うよ。

 なんかねえ、新ドラにはずっとこの「おまえらどうせいわなきゃわかんねえんだろうからきょうちょうしといてやるよ」みたいな巷のバカ量産バラエティーみたいな演出をしたがるフシがあって、前作まではそれが随分鼻についてたんだけど、今作ではここまで気に障るもの(ここまで色々言っては来たけど)はそんなになかったからこそ、ここですごくガッカリさせられた。なんだ全然わかってないんじゃん。って思った。



 疲れたので区切りもいいシーンだし、続きは今度にしたいここで終わらせると悪印象で終わるなあ。まあいいか。つーかね、色々言いながらもこれだけ書いてるんだからぼくの中ではどんだけ面白かったかって話ですよ! 

  つづく!