コングレス未来学会議

合わない人には全く合わないだろうけど僕は好き。

スタニスワフ・レムの原作は読んでるけどあんまり覚えてなくて。でも世界の多くの人が仮想現実のなかで暮らすようになるという基本的なプロットは(記憶が正しければ)原作通りじゃないかな。入り組んだストーリーを実写とアニメを組み合わせることで「映画」にしてしまうのはアリ・フォルランの作風ともマッチしていて、なるほどよくできた企画だなあとか思いながら見た。

特に後半、アニメのパートに入ってからは相当にとっつきづらい構成、演出なので、なんだこれ??となる人が大多数なのだろうと思う。でもあえて難解さを狙った感じのわるい演出ということでもなく、アリがレムの作品に影響されながら得たテーマに対しては、とても素直な演出がなされていたのではないかと思う。

映画とはどこまでいっても虚構(フィクション)なわけで、映画を見るという行為は(あるいは小説を読むとか、音楽を聴くとか、いわゆる芸術に触れるということは)虚構の世界に旅に出ることに等しい。それは生きずらい現実社会からの一時避難であり、私たちが生き抜くために欠かせないこと。しかし虚構の世界への旅が魅力的なのは、あくまでも帰ってこれる場所があるから。仮に虚構の世界への旅が一本道だとしたら。虚構そのものがその人の現実を内側から食いつぶしてしまうとしたら。虚構は人を救いうるのか。虚構の世界においても、人は人として生きうるのか。

ざっくり単純にいえばそういうテーマなんだと思うけど、僕はついつい、もう少し先まで考えてしまう。

果たして私たちが現実だと思っているこの世界は本当に現実なのだろうか。

社会学出身の人にはおなじみゴッフマンのドラマツルギー論は、社会のなかにおける人間相互のふるまいに「演劇」的な要素を見出す。ものすごくざっくり言ってしまえば、社会のなかで人は誰しも、それぞれに求められる役割を(自覚的にせよ無自覚にせよ)読み取り、演じながら生きているということだ。つまり私たちは最初から「虚構」のなかに生きている。

この映画では、ごく素直に見れば、現実世界と虚構の世界が対になる存在として配置されているように見える。しかし本当は、現実社会のなかにもある種の「虚構性」は忍び込んでいるのではないだろうか。現実社会とはそんなに確かな場所なのだろうか。現実と虚構はあちらとこちらという関係ではなく、もっと緩やかに、地続きにつながっているのではないか。

アリ・フォルランは、冒頭のハリウッド批判から主人公(女優)の最後の決断に至る長い旅を通して、そんなスペクトラムな世界観を提示しているのではないかと思った。自分の興味に引き付け過ぎているかなとも思うが、決して器用とはいえないアニメーションが生み出す不可思議な情緒に心地よく溺れながら、僕はそんなことを考えていた。