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2013-11-06 【70年代日本音楽シーンの地下水脈(1)〜(3)/「追悼 小沢 靖」

【「70年代日本音楽シーンの地下水脈(1)〜 (3)」】【「追悼 小沢 靖」】


(G-Modern27号〜29号 。発行元:P.S.F. / ジャパンミュージックサポート協議会)


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70年代日本音楽シーンの地下水脈(1)

(2007年6月22日発売 G-Modern27号 pp. 80-81)


【ALL NIGHT FREAK ANTHOROGY OF・・・】

変色しよれよれになった一枚のチラシが手元にある。デザインはONNYK(金野吉晃)〜[図−1]。タイトルは「<ALL NIGHT FREAK ANTHOROGY OF PROGRESSIVE AND FREE MUSIC/オールナイト フリーク アンソロジー オヴ プログレッシヴ アンド フリー ミュージック>」。今振り返ると、取って付けたようなあざといネーミングにも思えるが、1978年9月8日の夕刻より9日未明にかけて、吉祥寺の羅宇屋でおこなわれたイベントである。主催はフリーミュージック・コミュニティ=第五列、それにフールズ・メイト(*1)。出演者は以下10グループ(表記はチラシのまま)。出演順にWorst Noise・Dance To Death(ジュネ、冬里、レイコ、佐藤隆史、松下)、新月(花本彰、津田治彦、喜山豊、鈴木清生、高橋裁、北山真)、GAP(佐野清彦、多田正美、曽我傑)、Interface(梅木、NOUSO) 、Hypochondria Quartet (園田佐登志、向井千恵、清水一登、小沢靖)、Vibration Society(三浦崇史、灰野敬二)、ビビンバ(水野切人、高橋信一、山内仁志、がもうみつし)、Factory(大木公一、ベンソン・富塚、川本きの、佐藤隆史)、灰野・小沢Duo(灰野敬二、小沢靖)、ガセネタの荒野(浜野純、大里俊晴、山崎春美)。

地下水脈と乱脈な人脈・・・】

さて、今回PSFの好意もあってシリーズでCDをリリースする運びとなった訳だが、この企画には、70年代〜80年代の東京の音楽シーンを俯瞰する、といったような大それた目的はない。結果として70年代中期から80年代後期くらいまでの東京の音楽シーンの「特異な地下水脈と“乱脈な人脈”」の一端を少なからず垣間見ることができればとは考えている。この度、音源に光を当てて頂いたPSFレーベルの生悦住氏に感謝するとともにCD化やDVD化にあたっては、ぜひとも関係者のご協力を賜りたい。

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(中=A)まずCD化のきっかけを聞かせてください(*2)。

園田=S)この件はもう10年以上も前の92、3年頃からあって、私がたまたまモダーンに立ち寄った際にガセネタの話が出て「みんなでテープを回し聞きしている」みたいな・・・。それで、まぁびっくりしちゃって、それなら何本か録音はありますよと。ついでに、それまで主に自分で企画したり録音したテープをあれこれ50本ばかしセレクトし「よかったら聞いて下さい」と、渡したわけ。その後も「あの企画どうしましょうか・・・」って、何回か話し合ったりはしたんだけれど、ご存知の通り私の方があっちの方にドップラーで・・・放ってあったんですよ(*3)。それに・・・

(A)それに?

(S)現役でバンバン活動しているのならまだしも、今更10年前20年前のの記録をいじくり回すって、なんだか墓場荒しみたいで気乗りしなかった、てのもあるのかなぁと。

(A)それが、この時期、実現することになったのは?

(S)う〜ん。もういいかなと、思ったのね。北村(昌士)が死んだって聞いた矢先に金子(寿徳)がまたああいうことになってしまって(*4)。遅ればせながら次は私かなと(笑)。いやいや、医者には狭心症とか言われるし最悪の状態が結構続いてね。組合の方も半分リタイヤーしたし、ちょっとここいらで・・・というのが事の真相です、ハイ。動機は不純だけれど今回は多少でも調子の良い時にやれることをやっておこうという個人的な事情が先立っています。

(A)先ほどの「オールナイト・・・」には既にそうそうたるメンバーが集まっていますが、どういうきっかけでこのような企画を始められたのですか。

(S)ここら辺りの流れは、77年に三浦(崇史)さん小山(博人)さんと六本木の寺山(修司)の天井桟敷の作業場みたいな所で、GAPのイベントで出会ってからですかね。それで三浦さんはVibration societyというグループでサックスを吹いてらしたんです、当時。若くして亡くなったけど。竹田(賢一)さんや灰野さん、臼井(弘之)さんなんかがそのグループにいて。小山さんは中央大学哲学会てとこで「Sound Yard」という企画を立ててGapやVibrationを呼んだりもしていて・・・同時期に。で、その六本木の時にGAPも含め4者で、まぁなにか一緒にやりましょう、みたいな話になって、当時私が籍を置いていた明大の「記念館」なる所で、月にいっぺんくらい「Free Music Space=FMS」という企画をやり始めたんです。竹田さんの自宅やお茶の水の喫茶店なんかに集まりみんなで真面目にミーティングをして、機材やお金も出し合って。その第一回目が78年の1月で、ポスターはオフィシャルには竹田さんや多田さんがデザインしたり、あとチラシはめいめい勝手に作ったりで。ただ、モニタースピーカーを先程の記念館の外に向けて鳴らしたことなどをきっかけにして、既にこの年の5月には記念館を追い出され、拠点を吉祥寺の羅宇屋やマイナー、キッド・アイラック・ホールに移さざるを得なくなった。そこでマイナーの佐藤(隆史)さんとも出会ったんですよ、この頃に。それでもこの一連のコンサートはタイトルや場所を変えて15回近く企画されました。「オールナイト・フリーク・・・」は、その中間地点て感じかな。

【Free Music Spaceの頃】

(A) 「Free Music Space」には、どのような人達が出てらしたんですか?

(S)もう、その頃には先ほどの「オールナイト・・・」の面々はだいたい集まっていて・・・。あとは、火地風水という当時は高校生だったうら若き乙女達の即興トランスバンド、吉村弘さん、西口グループ、SIU(Spontaneous Improvisation Unity)、こたつで吠えろ、よしのまこと、連続射殺魔、突然段ボール、エラム・マレ、大平亜紀とメトロポリス、EVENT ACCIDENT、第五列、清水一登のGalapagos、シンセの佐藤秀、ヒカシュー・・・てとこかな。

(A)その中で記録が残っている物から今回CDをセレクトしていくと…。

(S)いや残っているというより、当時は集客も難しかったし、いつか日の目をみればと思い、記録だけはきちんと録ってたんです。

なにを出すかについては、PSFで出したいのはほぼ決まってるみたいだけど、まだ摺り合わせの段階で。それとDVDの方に関しては・・・もっと後なのね。映像の記録を始めた時期は、ちょうど8mmビデオが出始めた86、7年くらいで。その前はベータVHSでたまにしょこしょこっと、撮ってはいたけど。(*5)(つづく)

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(*1) 主な実行者は“有象無象の、素性のしれない、どこか胡散臭い奴らばかりが集まっていた”(大里俊晴著「ガセネタの荒野」P23)「現代の音楽ゼミナール」なる音楽団体を主宰していた私と、当時フールズ・メイトの編集長だった北村昌士、そしてミュージック・リベレーション・センター「イスクラ」が発行していた季刊「音楽」の編集員で、イースト・バイオニック・シンフォニアのメンバーだった小沢靖の3人。

a http://f.hatena.ne.jp/chairs_story/20101216114028

b http://f.hatena.ne.jp/chairs_story/20101216114027

(*2) A=中十代(あたりじゅうだい)=聞き手。1964年生まれ。「図書館を利用する音楽家の会」メンバー。公立図書館で不定期のライヴ企画をおこなっている。筆者は労働運動の現場で中氏とは遭遇した。

(*3) 筆者は非正規労働者の組合運動にここ12年余り「どっぷり」浸かっていた。

(*4) 07年1月に48才で死去。

(*5) 現在、この企画は諸々の事由により中断している。(筆者、追補)


1978年9月8日all night freak anthology of progressive and free music@吉祥寺羅宇屋


1978年9月8,9日 ALL NIGHT FREAK ANTHOLOGY OF PROGRESSIVE & FREE MUSIC

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70年代日本音楽シーンの地下水脈(2)

(2008年10月8日発売 G-Modern28号 pp. 38-41)


【映像記録について】

(中=A): 話は少し先に飛びますが、映像の話が出たついでにお聞きします(※1)。

以前、≪篠田昌已 act 1987≫というビデオを見せていただいたことがありますが、篠田(昌已)さんや大熊(ワタル)さんが在籍していた長谷川宣伝社などを撮られていますよね。

園田=S): うーん・・・そうですね。でも、篠田さんからしょっちゅう撮影を頼まれていた訳ではないのね、いま思い返してみると、実は。私や私の知人たちと一緒に企画したイベントやバンドのメンバーから撮影を頼まれたコンサートに篠田さんが出演していた、というのが事実に近いような気がします。国立葡萄園の周辺や中央線沿線には、ルナパーク・アンサンブルやシェシズやマヘルのメンバー、それに篠田本人も住んでいたし。それと87年当時というのはカム・コーダー(カメラとレコーダ一が一体となったもの)や、民生用の8未リビテオ・カメラがまだ出始めの頃で、歌舞音曲に限らずビデオであれこれ記録する人間が回りにはあまりいなかったというのもあってか、私の場合なぜかこの時期に記録が集中しています。で、長谷川宣伝社の楽隊は下北沢のパチンコ・ミナミ会館の前で2時間くらい撮りました。でも、後で篠田さんに少し怒られた。

A: えっ?

S: 私の撮影は細部に偏る傾向があるんですよ。何台かで撮るんだったらいいけれど、たとえば少し日が落ちてきたら、引き寄せられるようにして演奏している間もパチンコ屋のネオンサインを延々撮っていたりする。あるいは今みたくモニターが本体に付いていないから、ファインダーをずっと覗いてると疲れるじゃないですか。だから、地面にカメラを置きっぱなしで、道行く人々や楽隊員の足ばかり写っていた、なんてことも珍しくないのね(笑)。でも1台だとバランスを欠くのでそれではやはりマズイわけで。それと、その当時はチンドンのことや楽隊の歴史性に私自身が無頓着で、篠田さんから頼まれたということもあって、人物的には篠田さんや大熊君をメインに撮影しているキライがある。つまり客観的な記録性という点では問題があったかのかな、と今では思っています(※2)。だから編集の際は、みなさんの休憩時間なども織り込んで少し工夫したつもりです。ただ、保存の問題もあり、時間が経って退色や色荒れがちょっとひどくて残念です。フィルムと違ってビデオテープには時間が経つことによる独特の味わい、てのは少ないように思うんですよ。

A: さて、今年は亡くなられた篠田さんの「生誕50年」ということで、あちこちで、この

≪篠田昌已 act 1987≫を上映する予定があるという事を耳にしましたが、本当ですか?

S: これまでも彼が亡くなった12月には縁のあった人達でイベントをやったりしていたみたいですが、なぜかこの<act 1987>は残念ながら、そういう機会に恵まれなかった。いわば死蔵品だった訳です。私がやはり現場から離れていたせいもあり、こういう記録が残っていることさえ忘れられていたのではないかと思っています。

実は15年ぶりなんですよ、スクリーンでお客さんの前で上映するのは。ただ、びっくりするのは、自分たちにとっては、というか私にとっては同時代のあたり前の光景であったものが、極めて熱い視線で見られているという事実が一つあって、それが最近になってやっと分かった。今年の2月に下北沢の[ぐ]というところで、連続上映会の第一回目を工藤(冬里)君のピアノソロと対でやったら、満員で立見が出るほどだった。私はおおかたお客さんは冬里君のファンだと思っていたら、あにはからんや、そうばかりではなかったみたいで。G-Modernみたくマニアックな雑誌の読者はいざ知らず、みんなが知っている篠田さんは「コンポステラ」や「東京チンドン」あとよくって「PUNGO」や「じゃがたら」止まりでしょう。いずれにせよ、以前のものはさほど知られていない。それにまさか87年当時の映像が残っていたなんてことは関係者以外、ほとんど知らなかった。関西のFMN SAOUND FUCTORYからCDが出ているピヂン・コンボの映像を見たお客さんが「こんなの残ってたんですか!?」と上映会後に私の所にすっとんで来て驚喜していた。誰が書いたか知らないけれど、ウィキペディアの篠田さんの項目は私に言わせれば隙間だらけですよ。全面的に書き換えなければならない。たかだか20年前のことなのにね。

A: たかだか・・・ですか。

S: いつの間にか長谷川宣伝社の楽隊も含めて「極めて貴重な映像記録です」、なんて言われるようになっちゃって、久々に活動を再開した私としては多少面食らっています。

ただ、昔を知る人にとって、いや私自身にとっても、15年振りの活動再開が、ただのぶら下がりの上映会ならば、やはりいただけませんよ。87年当時の私は、まだかなり突っ張っていて(笑)、私の学生時代の同級生がやっていた高円寺のパラレルハウスという貸レコード屋で、まだ1枚もディスクが出てない時代にマヘルの特集を10ページ以上も組んで大里(俊晴)や小山(博人)さんとの鼎談などを企画した。今は映画やロック批評をやりながらboidという新宿の事務所で中原昌也の爆音企画を立てたりしてますが、その当時はパラレルでアルバムのチョイスや店番をやっていた樋口(泰人)君の依頼で、池袋西武の「アール・ヴィバン通信」で、やはりマヘルの紹介をしたりもした。むろんコンサートも10回近くは企画して、マヘルの第一発見者の一人として、自分なりに突っ張っていたつもりです。で、今は「なさけない」とか言われながらも実は、ちょっと、というか、かなり図に乗っています(笑)。というわけで、東京、関西を手始めに春頃からぽつりぽつりと、「生誕50年」をきっかけに、工藤君や大熊君、月刊かえるの倉本君やFMNの石橋君や各地の有志の協力を得て、一年くらい上映会をあちこちでやる予定です。いや、やることにしました。ただ上映するだけでは、自分の動機付けも弱いし、やはりこちら側の姿勢も問われかねないので、私が92~94年頃に集中的に作った他の映像作品の上映機会も窺いながら、巡回上映をするつもりです。それとミュージシャンやチンドン、演劇関係者にとどまらず、篠田さんと縁があったり彼に熱い想いを抱いている人たち、あるいは<act 1987>を見たお客さんからの感想なども含め広く原稿を募り、その都度、上映会用のリーフレットに載せていくことにした。当然ながらその地域地域でゆかりがある人が結構いて、ふむふむと頷きながら、毎回興味深く原稿を読ませてもらっています。で、最終的にはそれをリーフレットからパンフレットに格上げして、独立した一冊の<篠田読本>のようなものができればいいなぁと、個人的には思っています。九州でも北海道でも沖縄でも呼ばれればどこでも行きますよ、次はないと思って、気軽に声をかけてください、次世代育成支援のための全国行脚、巡礼も兼ねていますから(笑)(※3)。

A: さて、資料を拝見しますと、ワールド・スタンダード、中尾(勘二)さんによるインタビュー、東京チンドン長谷川宣伝社・楽隊、篠田・中尾・大熊ユニット、シェシズ、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ、チューリップ・ウォーター・パレード、トム・コラ+ルナパーク・アンサンブル+西村卓也のピヂン・コンボ 、JAGATARA、A-Musik、西村卓也8mmフィルムと、なかなかバラエティに富んでますね。

S: うーん、どうなのかな。PUNGOの映像は時代的に難しいとして、1993年7月に渋谷のクラブ・クアトロで4日間開かれた1周忌のコンサート[ACROSS THE BORDERLINE]に出演した面々、たとえば、清水ユニット、フールズ、原ますみ、KUSUKUSU、あがた森魚、ハイポジ、ラブ・ジョイ、くじらドラゴンオーケストラ、ビブラトーン、それに死の直前のカシーバー・・・むろん縦横無尽で小さい枠の中には収まらないミュージシャンではあったけれども、職業的な音楽家の一面もまたある訳で、共演者が多い割には<act 1987>ではあまり映像の収集はなされていない。それと、この作品にはジャズや即興演奏の類はほとんど入ってないんですよ。梅津さんやJAGATARAのトランペット吉田哲治さんなど、所謂ジャズ畑出身者のプレイは収録されていますが、篠田が尊敬していたピアニストの原田依幸、生活向上委員会や天注組、大友良英や村田陽一も演っていた黒田京子ORT、梅津さん坂田(明)さんとの即興演奏、広瀬淳二、豊住芳三郎・・・など、ここいらは全く入ってない。大熊君の企画でこれも1周忌に当たる93年の12月に国立のキノ・キュッヘで上映した時の時間枠が50分だったので、自分で企画や撮影に関わったりしたものが7割、あと中尾君と西村君、篠田のお姉さんの佐竹さんから提供してもらった映像でほぼまかなった(※4)。あれこれ入っていないのには、それなりに理由がない訳ではないんですが。今回再上映するに当たって、少し時間は増やしましたが、出演者の面子は変わらない。

A: 新たに編集し直したり、ジャズや即興演奏のヴァージョンを作るというようなことは考えてないのですか。

S: うーん、今回も探してはみたけれど思ったほど記録が残ってない。この機会を借りてみなさんに提供を呼び掛けたいと思います。よろしくお願いします。

ただ、この作品を編集した92年から93年というのは、私がちょうど俄(にわか)映像作家をやっていた時期と重なるので、民生用の機器ではあるけれど、<act 1987>はそれはそれで、かなり頑張って編集してある、ということが久しぶりにスクリーンで見直してみて分かった(笑)。だから、退色や色荒れを修正したりする以外は、あまりいじらない方がいいのかなと。これはアドバイザーの大熊君も同意見のようです。

むろん、マヘルやシェシズ、ピヂン・コンボやJAGATARA、A-Musikのテイクもなかなかですが、オーラスの西村君の8ミリフィルムには篠田さんが生前とても気に入っていた前橋の<ビルの谷間デュオ>から「オレンジ・フロム・ジャバ」という曲をサウンドトラックとして使ったんですね。色々と試してみて、結局他のどの曲もダメで、自分で言うのはなんだけど、0.01秒ずれても成り立たないくらい、元々あの曲があの映像に貼り付いていたと思わせるくらいジャストなタイミングかつ絶妙な感覚で映像にサウンドが織り込まれているんですよ。不思議なものです、本当に。西村+篠田による何らかのスピリチュアルなパワーが働いたとしか思えない(笑)。こういうことってあるんだなぁと、見直してみてびっくりしました。あと、この87年のイベントの後、ガロに「Zちゃん」など書いていて、今は絵本作家をやっているのかな、井口(真吾)君がディレクションを担当したチューリップ・ウォーター・パレードも1台で撮ったとは思えないくらいに俯瞰と接写が同居していて、無理矢理切り貼りしている割には音のタイミングは合っている。それに逆転やスロー、B&W、ソプラノサックスを奏でる篠田さんが雲の向こうで微かに微笑んでいるオーバーラップのシーンがあったりして、映像的にはそれはそれで考えたものになってるんですよ、よくよく見てみると。中尾君の匿名インタビューも軽妙洒脱というか床屋談義みたいで、声色をちょっと変えたりしていて笑かしますしね。この三つのテイクに長谷川宣伝社の楽隊がなかったら、この作品はただの演奏の羅列というか寄せ集めになりかねなかった。ですから、自分の映像作品をあれこれ作っていた時期と篠田ビデオの編集時期がたまたま同時期だったことで、作品としてはかなり救われているんじゃないかと個人的には思っています。私としては≪篠田昌已 act 1987≫を、かろうじて1本の独立した映像作品とみなしうる根拠にもなっている。まぁ、今言ったようなことは、あれもこれも説明としてはありがちなことで、見る人にとっては、あまり関係ないというか、作品に色を付けるものではありませんけれどね。バンドの数や篠田の演奏記録としては欠品だらけかも知れないけれど、ほとんどの企画や撮影に関わり選曲や編集もかなり独自色を打ち出したつもりなので、やはりどのテイクやシーンにも思い入れや愛着があって、あれやこれやと幅広く収集することによって、それが薄まることを意識的にか無意識にか避けたということはあるやもしれません。ただ、実際に上映会をやる時は、リーフレットも充実させ、VJやDJをやりながら、さっき言った収録されていないあれこれを上映したり音源を流したりしながら、<act>と三点セットでやっていくつもりですし今でもそういうやり方を採っています。

A: アー・ムジークを最後に持って来た訳は?

S:ああ「サンチャゴに雨は降る」ですね。まず、千野さんのキーボードの前奏があまりにもかっこいいというか、ぐぐっとシビレるんですよ。で、もちろん篠田さんの歌心も満開だし。スカスカのアー・ムジークが好きだという、(高田)洋介君みたいな人もいるけど、私はこちらの方が好きですね。音に強度があるんですよ、小山君がベースで石渡さんがドラムというタイトな編成だというのもあるけれど、やはり竹田さんが率いるあのバンドがステージに上るだけで、瞬時にとても強い磁場が形成される。ひしひしとそれが伝わってくる。不思議ですねぇ。その証拠にというかなんというか、年末に≪篠田昌已 act 1987≫を新宿でプレ上映したら、直後に出演したかつてのアー・ムジークの雇われビアニストの冬里君がなんと、突然「不屈の民」をソロで多分何十年か振りに弾きだしたのね。もともと、本歌取りでインスパイヤーという尻取り的に場を引き継いで、何かやるところが、彼の面白いところでもあるのだけど。私はかなり、意識的にやっていると思ってますけれど。

A: DVDに関してはどのようなものを今後PSFからリリースされる予定ですか。

S: それは、これから私の手持のリストをPSFの方にまず見てもらって、それからだと思います。まだ、まっさらです。軽く200本以上はあると思いますが。マヘルとか、たまとか、柳原(幼一郎)さんとか、ルナパーク・アンサンブル、ハイ・ライズ、アイ・ハイエナ、光束夜、10年振りのイースト・バイオニック・シンフォニア、シジジーズ、トートロゴス(大里俊晴バンド)、ダニー・デイビス、時々自動、サム・ベネット、篠田ユニット、梅津和時、シェシズ、青空歌劇団(ロリー/クロマルトン)、黒田京子ORT、ピヂン・コンボ、田中敏、荒井真一、GAP、風巻隆、ニューズ、テーゼ、L-TRANS、A-Musik、小川美潮、タケイヨシミチ、斉藤ネコカルテット・・・。コンサートやイベントを結構丸ごと撮ったりもしています。出演者としてラウンジ・リザーズや高橋悠治、友部正人、河内屋菊水丸も名を連ねていた88年の<鳥の歌>、公民館運動、パーキング・エリア、93年に渋谷のクラブ・クアトロで4日間やった篠田さんの追悼も全部撮影したし、アケミが一人で捲し立てた東大駒場のNoise In X-es、チューリップ・ウォーター・パレード、金田一(安民)さんが企画した<禿げ山の一夜>、21minutes Solo Improvisation festival、山谷の越冬や夏祭りのステージなどなど、結構たくさんあります。ただ、企画者はまちまちで、友人知人に撮影をお願いしたものもあるし、どういう経緯で私が撮ったのかさっぱり思い出せないものもある。それと、当たり前のことですが、音の記録同様、バンマスや関係者の許諾なしに勝手に上映したり、商品化したりする訳には行かないでしょう。PSFのレーベルカラーもあると思うので、調整は結構難しいのかなと・・・。ですから、篠田さんのビデオをPSFで出すとしても、私が自分で企画したマヘルやシェシズはあり得るとしても、他は・・・というところです。本来この連載は、CDやDVDのリリースに向けたサブテキストとして始めたんですけれど、実際は今後、どうなるか分からないし、まぁおいおいという感じでしょう。私のサボリで全然なにも出ない可能性だってありますよ(笑)。マヘルの記録なんて、もし需要があるのなら誰かうまく活用してくれないかと思っています、実のところ(※5)。(つづく)

(※1)A=中十代(あたりじゅうだい)=聞き手。1964年生まれ。「図書館を利用する音楽家の会」メンバー。公立図書館で不定期のライヴ企画をおこなっている。筆者は労働運動の現場で中氏と遭遇した。

(※2)長谷川宣伝社・楽隊について(<act1987>上映会リーフより抜粋〜略)

(※3)上映会を企画してくださる方を募っています。

ms.act.1987@jcom.home.ne.jp]までご連絡ください。http://cmcmc.hp.infoseek.co.jp/ms.html(リンク先追補 → http://d.hatena.ne.jp/chairs_story/20160907

(※4)篠田の第一の理解者であった佐竹美智子さんは昨年11月にご逝去された。心よりご冥福をお祈りする。7月に吉祥寺のMANDA-LA2で偲ぶ会が予定されている。

(※5)マヘルのライヴ映像としては、代々木LAZYWAYS、下北沢屋根裏、高円寺リッツ劇場、明大前のキッド・アイラックホール、吉祥寺ジャヴミニホールなどが記録として残っている。



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70年代日本音楽シーンの地下水脈(3)

(2010年11月10日発売 G-Modern29号 より)


【すべてはもえるなつくさのむこうで / Early Works of Satoshi Sonoda: 1977→1978 / Memories of Yasushi Ozawaに関して】

A:昨年2月にリリースされた『Early Works of〜』発表の経緯についてお尋ねします。この連載と関係が深いので(※1)。

S:あの時分の音源はそれほど公開されてないはずなので、ゆくゆくはリリースする可能性はあったとしても、 PSFが、あのような形で私のプライベートな『Early Works 』を出す計画はそもそもなかったんじゃないかと。私としては小沢さんが亡くなって、誰か追悼イベントをやることを微かに期待はしていたけれど、彼は現役のミュージシャンだったし、関係者は有り体にそのような企画をする必要はなかったのではないかと。ですから、小沢さんの一周忌にあわせて、追悼というより「小沢靖の思い出に」という形で、自分のアーリー・ワークスのリリースをPSFに打診したんですよ。どのテイクも小沢さんと私の関係を抜きにしてはありえなかった70年代末のイベントや音源に焦点を当てています。ただ、既成音源なので音質については当時の「空気感」を尊重するというレーベル方針で、テイクの選択と順番以外にはほとんどいじりようがなかった。それと、小沢さんの死にかこつけた安易で便乗めいたアルバム作りを避けるためには、私と小沢さん双方に関わる当時の交遊関係や活動履歴を書き連ねたブックレットやジャケットに力を入れざるを得なかった。私にとってはそれが自然な流れでしたし、ある意味ではあのアルバムを出す意義というか大義名分はブックレットの方にあったと言っても過言ではありません(※2)(※3)。

A:ほかに、あの当時の秘話とか、今回とくにこだわった部分があったら教えてください。

S:内容でこだわりがあるとすれば、ANARkISS最後のテイク「結んで開いて」の直前に「はやくしろはやく」という(佐藤)敏子さんのクスクス声が入ってるんですね。彼女のはにかむように苦笑するさまが目に浮かぶようで、若くして亡くなったと聞いてますので、この部分はちょっと切ないです。「結んで開いて」の冒頭では私が田舎から持って来た尺八を自分で吹いています。三年どころか、ほとんど首さえ振ったことがありませんが、トレモロがイカスでしょ(笑)。

A:歌っているのは…

S:わたしのようですね(笑)。あれ譜面があるんですよ。あれはバッハです。ヨハン・セバスティアン……ただし中に漫画が挟んである。「しょんべんだらけ」は三上寛を中津川のフォークジャンボリーで目の当たりにして以来、酔っぱらうとよくアカペラで発狂して歌っていました。大里も確かファンだったので一緒に演ることになった。あいつはあの曲では確かサイド・ギターを弾いています。表ジャケットに使った写真(通称「ヒグチ医院」)については小沢さんの実家が開業医であったこととも関係しています。元々端っこの方に在った「ヒグチ医院」という看板を『小沢醫院』にしようかと思ったけど、これもあざといから止めました。街灯がポッとオレンジに光ってるでしょ。元々は真っ白だったんだけどデザイナー氏に入れてくれって頼んだんですよ。あれは微かな「希望」を表していて、大里の病状のことを聞いていたから、ああいう形で私の思いを反映させたんです。うそじゃないですよ。「塔」のイメージは鈴木漠さんの『塔』という詩編の中のタイトル曲に対応 しています。

A:20人近いバフォーマーが登場しますが、関係者の許諾が大変だったのでは?

S:ほとんどが主宰していた「現音ゼミ」の企画ないしは他の団体との共同企画だったり、私自身と関わりが深い音源ばかりで、演奏にもすべて私が入っていますので、今回は誰の許可も得てません。そもそもそのつもりはなかったし、特にそれは考えなかったですね。山崎に「利益は出ないからPSFにギャラを請求しないでくれ」とメールを打ったくらいかな(笑)。あいつがボーカルを取るガセネタと私がメインボーカルのアナルキスとは同じではないし、あの一度っきりの俄編成のバンドでは、みんなが楽器をとっかえひっかえ弾いていて、アルバムでもベースは大里じゃなくて浜野と佐藤さんが弾いている。あとドラムは佐藤さんと浜野。「宇宙人の春」のかなりいいテイクがあったんだけれど、これはメンバーや楽器編成が「ガセネタ」で、私の「アーリーワークス」からは外れるから、入れなかった。「すべては…」を書いた詩人の鈴木漠氏については、青土社の水木さんのアドバイスを得て連絡を取りました。ほかは、クレジットの関係で最後のテイクに多田(正美)さんが入っていたかどうか、写真の撮影者についてもご本人の確認を取りました。篠田生誕50年の公式バンフにも入ってるけれど、篠田、竹田、小沢という珍しい写真は大熊(ワタル)君経由。あとは、本文に名前が出て来た人間は佐藤夫妻を除きデディケートからは外し、その当時世話になった友人知人達に限りました。そんなところです。

【単行本「ガセネタの荒野」(1992)とCD「Sooner or Later」(1994)に関して】

A: 関連しますが、話を70年代にもどします。大里さんの「ガセネタの荒野」の後書きにちらりとCDのことが出てきますが、まず、あの本をどう思っておられるのか、それとガセネタのCD化のいきさつを少し詳しく聞かせてもらえますか。

S:CDについては、リリースに至る具体的な経緯は全くと言っていいほど私は知らない。山崎に聞いてください。

A:そうなんですか? ではご存知の部分だけでも、ぜひお願いします。

A:まず、本については、今は絶版みたいだけれど、山崎が当時言っていたほどに酷い内容だとは思っていない。東京ロッカーズについて語られたことはあって も、それまでほとんど触れられてこなかった吉祥寺マイナーや件の「現音ゼミ」について光が当てられたこと自体はとても評価しています。その後の東京の音楽シーンを語る上で欠かせない”乱脈な人脈”や地下水脈、インフォメーションの一部をあの本が提供しているのでね。

A:あの本は、出版された当時は、やはり相当物議を醸したんでしょうね。部外者には推測の域にすぎませんが。園田さんに関する表現については、愛情表現かなって感じは受けましたけど。それに比すと、現代音楽イベント企画者への痛罵とか、「レック」とか「ラピス」とかちゃんちゃら可笑しくて……といった下りはハラハラドキドキしゃちいますね、たとえ部外者であっても。

S:そうね。全員という訳ではないけれど、あまし良くは書かれていないですよね。「愛情表現」かどうかは別として、わたしについても「脳のボタンを掛け違えた」とかね。でも、パリから大里が あの本を送って来た時に一通の手紙が添えられていて「正確でないとか許し難いと思える部分がままあるかと思いますが、最大限の誠実さをもって書きました」という但し書きがあっ て、私はそういうものとしてあの本を読み進んだので、あまり不快には思わなかった。

A:大里さんのあの本はとにかく「部外」と「部内」の危ういバランスで存立してるようなものなんでしょうね。ただ、そういった線引きがどうでもよくなるような普遍性が垣間見えます。傲慢な言い方ですけど、それが成功してるかとなると、うーんと思ったりするのですが、やはり何かが刺さる。刺さるという点においては成功してるのかなと。あの膨大な後書きが付されているように、きれいな終わりの予期が裏切られていつまでも動いていってるし。よく見られる完結した青春憚に比べると名付け得ないなにものかが感じられますよね。ただし、その名付け得ないものがネタばれしているところ、背理を表白してるところが、親近感を持つと同時にほんのわずかな不満が残ります。結局人によってそれもかなり、受け取り方は違ってくるとは思うんですけど。ベタな言い方ですが。あの本については当時それなりに話題になったと、聞いてますが、私が知ってる限りではとCMCという、とある教育雑誌に書かれた書評が一番まっとうな評価だったような気がします(※4)。

S:うーん・・・・確かに、コレ悪くないですね。CDのガセネタのテイクに関しては、78年当時笹塚にあったGAP Worksからオープン・デッキを借りてきて、明大和泉校舎の学館売店の前の階段というか踊り場みたいなところで、小沢さんがマイクセッティングとか全部やって録音した奴と、お茶の水の取り壊された明大記念館での件の「Free Music Space」のナカミチのカセット音源から6〜7割方がセレクトされているようです。オープンの音源はアマルガムのゼロ号にあるようにテープでリリースする予定で作った記憶がありますが、結局なにも出さずじまいでした。でも私は、あのCDに関しては単なる音源の提供者で、生悦住さんから数日前に連絡があってマスタリングの時に山崎と会うことは会ったけれど「園田さんなんでここにいるの?」みたいな(笑)。「かみたいの」「え?」「噛むだよ。Bite!バイト!!」て、それこそ噛みついてくる始末で。私は一応、前日だかにオープン音源の演奏の合間の会話を聴き込んで「予行演習」し、何か気の利いたアドバイスの一つくらいはできるだろう、くらいの軽い気持 でスタジオに入ったんですけれどね。大里が演奏直後に何かが気に入らなかったみたいで「今度にしようよ・・・」と言ったら、浜野がすかさず「今度があればね」と、やり返すところがあって、その部分をCDに入れるよう推したくらいかな、音源提供者を越えて私がやったのは。ただどう見てもやはりあのCDは、ジャケットデザインも含め制作全体が山崎サイドが一方的なペースで進めたもので、製作過程なども私には大半が見えていない。 後になって聞いた話ですが、小沢さんや私の名前をメモ用紙一枚でクレジットに残したのはPSF側の配慮で、山崎サ イドはそれも渋々ながら受け入れた、というのが事実のようです。浜野が演奏から遠ざ かっている状況がまずあって、本心かどうかは別として、プラスアルファで大里がかねがね「オレは雇われベーシストだから」と言っていたくらいだから、山崎は 当然、誰かにつべこべ言われる筋合いはないと考えていたんじゃないかな。だからパリに居た大里が私に山崎の動きを牽制するように私に言って来たときは、正直言って当惑した。ただ、一つ言えることは、山崎が本当にそれを懸念していたかどうかは分からないけれど、大里はガセネタのCDを山崎を飛び越えてCD化しようなんて考えはさらさらなかったと思う。大里はなぜか私を窓口にして、浜野がOKしたらという条件を伝えてきたので、その旨本人に手紙を書いたら、浜野にとっては遙か遠くの記憶の彼方の出来事でしかなかったようで「自分がかかわっていたとは最早思えなくなっている事柄」で「私に許諾を出すような権利があるとも思いにくい」が「CD化していただくことは(私は)かまいません」という葉書を私に寄こして来た。それでも大里が最後までリリースを拒絶したのは、やはり浜野やガセネタに対する特別な思いがあって、ガセネタの演奏の封印を解きたくなかったんじゃないかと…..。だからあの本とCDが出た少し後に、「ガセネタの荒野」の”史跡巡り”を兼ねたFM東京の特集番組で大里がタコのCDからだったか、あるいは自分が持っていた音源だったからか、ガセネタの「宇宙人の春」を流した時は「あれっ?」と一瞬面食らいもし、不思議に思った。(つづく)。

(※1)A=中十代(あたりじゅうだい)=聞き手。1964年生まれ。「図書館を利用する音楽家の会」メンバー。公立図書館で不定期のライヴ企画をおこなっている。筆者は労働運動の現場で中氏とは遭遇した。

(※2)以下のサイトにブックレット原稿が流出している。http://pink.ap.teacup.com/decablisty/422.html

(※3)海外評の一部を紹介する。http://www.volcanictongue.com/tips/show/139(Everything Lies Beyond The Burning Summer Grasses: Early Works Of Satoshi Sonoda / PSF PSFD-186 CD)(筆者、追補)

後期不失者のべーシスト“小沢靖の思い出”に捧げられた「すべてはもえるなつくさのむこうで」は、園田佐登志によって編集されなければ発表されることがなかったであろう貴重なコレクションである。これらの音源は、1970年代後半以降に黎明期を迎えようとしていた東京アンダーグラウンド・ミュージックが有する幅広さと奥深さを照らすスナップ写真を私たちに見せつける。園田明治大学に於いて、実験的、前衛的な音楽を批評するサークル([現代の音楽ゼミナール]=[現音ゼミ])を作った。彼の[現音ゼミ]はアンダーグラウンド・シーンにおける評価基準の一つとしての役目を担い、このCDに登場する小沢靖 や向井千恵のようなミュージシャンを惹きつけた。園田自身はなかなか優れたギタリストで、フリーやザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのようなロック・グループだけでなく、キース・ロウ、ソニー・シャーロック、デレク・ベイリーにも影響を受けている。アーカイヴ的なこのCDは園田にスポットを当てた、あるいは彼に関係するパフォーマンスの数々をまとめた1枚だ。(以下はこのCDの主な聴きどころである。)

─ フリー・ミュージック・スペース / フリー・ミュージック・レヴォルトからの様々なライヴのシリーズ。─ グループ・音楽、イースト・バイオニック・シンフォニア、マージナル・コンソートと同系統のフリー・インプロヴィゼーションのアンサンブル。─ ガセネタのメンバーをフューチャーしたANARkISS。当時のマイナー音楽シーンで活発だったパンクでアヴァンでヴェルヴェッツを思わせる気違いじみたガレージサウンド。前半のフリー・ミュージックのレコーディングは、絶えずくり返されるリフのグルーヴとMazzacaneスタイルに良く似た手首の動きに断片的な即興の動きを結び付け、サイケデリック・ロックや流行から外れた音楽と現在のPSFレーベルの美学、即ちあらゆるジャンルを呑み込む凶暴性とを融合させる。園田、小沢、中根清吾 、上田みつひろをフューチャーした1977年の音源(〔poly-oerformance〕〔Everything Lies Beyond The Burning Summer Grasses〕)は、偶像破壊的なロック・ギターへの礼賛によってインスパイアされた誇り高きサイケデリックのグルーヴ感を醸し出し、とりわけ美しい。園田自身による小沢の思い出に満ちた素晴らしいライナーノーツの中で、彼はこのトラックは自分自身の鎮魂でもある旨を記している。後の方に収録されているフリー・ミュージックのトラックは、謎めいたアンダーグラウンド人物たちと並ぶ、東京のアシッド・フォーク・グループChe-SHIZUの向井千恵を含むバフォーマーたちに着目したものである。しかし、伝説的な吉祥寺・マイナーでの1977年のライヴを録音したANARkISSこそが本当に素晴らしいトラックと言えるだろう。3つのトラックは非常に痛烈で、狂気に満ちた壊れたギター、実に不快な喧音を立てるパンク・ヴォーカル、怒り狂った三上寛のカヴァーは、ガセネタやノイズ系CDの範疇を超えた‘マイナー’精神の精髄を説く。これは日本のアンダーグラウンドCD棚に加わる強烈なCDだ。強く推薦したい(日本語訳 / sonorous+)。

(※4)CMC(Creating Music Culture【音楽文化の創造】)1997年第4号P. 89

著者は30代半ばの気鋭の音楽学者で、パリ第?大でJ・ケージの研究で知られる故ダニエル・シャルルに師事した。この本は、同大博士課程在学中に彼の地で書かれている。本書の奇妙なタイトルは、著者が70年代の一時期にメンバーの一員であった“最後のハード・ロック・バンド”の名前に由来する。物語は、“速度”と“過剰”の徒である「浜野」と「山崎」という“天才にしてごろつき”の2人に著者である「僕」がいかにして出会い、バンドの結成、解散に立ち会ったかという事実に基づいており、その僥倖(スーブニール)に対するオマージュ(返礼)のかたちをとっている。同時に、著者が当時足繁く通ったという“有象無象の、素性のしれない、どこか胡散臭い奴らばかりが集まっていた”「明大現音ゼミ」なる音楽団体や“チンピラ・ロック小僧”“他に行き場のない、弱々しい、影のような人間たち”“マッド・サイエンティストや現代音楽マニア”のたむろする「マイナー」というジャズ喫茶、その店主の「佐藤さん」などを、一切合切取り混ぜ記録してみせることで、70年代中期の東京の音楽シーンの特異な地下水脈と“乱脈な人脈”の一端をかいまみせている。癒しようのない“荒々しく性急な光輝く病”に冒された者たちの狂気と逸脱、狂おしいまでの滑稽さとばかばかしさと哀切が各ページに横溢しており、すぐれた「ヌーヴォー・ドキュマン」であるとともに、抱腹絶倒の“笑かす”読み物にもなっている。(菊田 和郎)



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G-Modern Vol.28 「追悼 小沢 靖」

(2008年10月8日発売 G-Modern28号 pp. 65 - 66)


さようなら小沢さん


 かつて頻繁に顔を合わせていた友人と、こういう形でしか…何年ぶりにかいや何十年ぶりにか追悼文を書くことでしかもはや向き合うことができないというのは、なんとまぁ頓馬で間抜けなていたらくであろう。皮肉な様を通り越し、頓痴気なへたれ野郎の誹りをまぬかれえない。

 そのような私とて、いやそうであるがゆえに、それ相応のやり切れなさと息苦しさを懲罰のように抱え込みながら、小沢さんのことに今は想いを馳せるしかない。

『私はほとんどお話ししたことはなく、都会人のクールさとある種の近づきがたい技術者としての厳格さ、端正な長髪姿に印象づけられていて、当時の風景のひとつとして欠かせない感もあります。私にとっては、30 年ぶりの消息でした。お亡くなりになって消息を知るというのはなんとも不思議な感じがするものです』

 我々の回りで小沢さんを見かけたことがない人はほとんどいないだろう。たとえ名前を知らなくったって彼はいつだって飄々と、「風景」のようにそこに存在した。さもなくば、腰をかがめ長い髪を靡かせながらコンサート会場の端から端を、まるでカムイ外伝に出てくる異形の主のごとく駆け抜ける人物として人々に記憶されているに違いない。

 むろん、彼は不失者の名うてのベーシストであり、神田美学校の小杉武久音楽教場の流れを汲む集団即興演奏グループ<マージナル・コンソート>の一員であり、「サウンド&レコーディングマガジン」誌等のテクニカルライターであり、尚美音楽学院や映画美学校をはじめとする専門学校の音響担当講師でもあった。

 しかしながら、我々周辺の企画に携わる者やミュージシャン仲間にとっては、法大の学館であれ、P3 であれ、山谷の夏祭りや東大駒場の北寮前の野外ステージであれなんであれ、小沢靖という存在は、どのような PAトラブルにも迅速かつ冷静に対応できる腕利きのオペレーターであり、トタン屋根に舞い落ちる雨のしずく一滴をも聞き逃さない鋭敏な耳を持った比類なきミキサーとして、そこにあった。さらには、時間さえ許せば一度たりとて我々の依頼を断ることも金銭的な要求を持ち出すこともなかった──謂うなれば、常識や世事で推し測ることができない風狂人の如き存在でもあった。

「都会人のクールさとある種の近づきがたい技術者としての厳格さ、端正な長髪姿に印象づけられた」云々というもの言いが、彼の「風景」としてのある部分を言い当てていたとしても、お酒をたしなまなかったにせよ、小沢さんは決して寡黙ではなかったし、話しかければいつだってニコニコ顔でお喋りに興じる饒舌な一面もあった。また、実ることはなかったが、まだ彼が 20 代の頃、うら若き女子高生に一目惚れされ、これまた人ごとのように、ぷ〜っと、口許で作った煙の輪っかの中を仙人のようにくぐり抜けて素知らぬ振りであった。

 その淡々としたあるいは俗事に無頓着に思えた彼が 50 才の誕生日を迎えるにあたり母親の薦めもあって健康診断を受けたことが、自身の最後を看取る極めて短い道筋になってしまったことは、ある意味複雑な感情を私にもたらす。彼が自分の体や健康というものに対して人並に気を使い、PA 機器を操るように慎重であったならば、と思わずにはいられないからだ。いや、バス停から自宅まで殆ど辿り着けないほど弱り切った体で、肩で息しながら、死の直前まで講義の準備を怠らなかった小沢さんは、いつも通りの口振りで言うに違いない。「そんなことないって。」

 私にとってそれは「30 年振りの消息」ではなかったものの、一昨年の六本木「スーパーデラックス」でのマージナル・コンソート終演後に交わした戯れ言のようなやり取りが、彼との最後の会話になった。

「小沢さん、北村死んじゃったね。知ってた?」「え、ほんと?知らない知らない」

 ラップ・トップでの即興演奏の後、いつものように後片付けの手を休めることなく、はにかむようにうっすらと笑みを浮かべ、うまそうにハイライトをくゆらせながら話に興じる小沢さんの姿が今はなつかしい。


さようなら、小沢さん。


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小沢氏が学生時代に共同企画したイベント「FROM THE NEW WORLD」のチラシ(1978)

1978年11月25日[FROM THE NEW WORLD], お茶ノ水全電通ホール


小沢氏が編集に携わった雑誌「音楽」第12号("老水一"のペンネームで書かれたAACMに関する小論が収められている / 1977)

1977年季刊音楽第12号



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(作成: 2013/12/06, 更新(2016/10/25「追悼 小沢 靖」を追加 )