2010-02-04
Facebook始めました
みんな大好きなFacebookを、わたしも遅ればせながら始めてみました。ページ右側のFlickrウィジェットの下にバナーを貼っておいたので、興味のある方はアクセスしてみてください。
2010-01-29
Viva La Vida
You might be a big fish in a little pond...
―Coldplay "Lost!"
小さな池のなかの大きな魚。こういう存在にはなったって仕方がないなとよく思う。では、その「小さな池」とは何か、「大きな魚」とは誰か、ということになると差し障りがあるのでここではちょっと書けないのだけれども、とにかくわたしはそんな存在にはあこがれない。井底の蛙の幸福よりはむしろ蒼々たる大空の下の一匹狼の孤独を選びたい。そして来たるべき死の瞬間には"Viva la vida"とそっとつぶやくつもりだ。いや、それともやっぱり森鴎外みたいに「馬鹿馬鹿しい」と苦り切って口走ることになるのかな? それはまだわからない。
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2010-01-22
美しさ? 何それ?
アンディ・ウォーホルいわく、
美しさ? 何それ? ― そこにある美なんて無意味だ。*1
いったい彼はどういうつもりでこんなことを言ったのだろう。たぶん、「いったい彼はどういうつもりでこんなことを言ったのだろう」と不思議がられたいから、こんなことを言ったのだろう。まあそれはともかく、わたしは美が無意味だなどとは思わない。しかし「美しい」というだけでは芸術作品として少し物足りないのではないかという気持ちもこのところ胸に抱いている。ただ美しいだけの作品ならこの世に掃いて捨てるほどある。それはそれで結構だけれども、「美しい」という以上の何かがあればもっといい。
私見を述べると、触れる者の魂のレベルを引き上げるような性質、これが必要である。これが備わっていてこそ真の芸術作品である。わたしはそう思うのだが、これを野暮な意見だと一笑に付す向きもあるかもしれない。確かにこれはいささか気恥ずかしくなる考え方だ。しかしわたしはそういう芸術作品を作りたい。したがって、こういう野暮な思想をいかにして洗練された形で表現するかというのが今後の課題になるだろう。
*1:クラウス・ホネフ『アンディ・ウォーホル』(TASCHEN)
2010-01-13
たいていの場合は沈黙せよ
"Let silence be the general rule" とかつてエピクテトスは言った。*1 *2 *3 わたしもこの言葉に従おうとしたことがあるが、結局は諸々の事情により断念せざるを得なかった。しかし心にはまだこの教えに対するあこがれが残っている。
【関連エントリー】
■ 点滴岩を穿つ
*1:Project Gutenbergにある『要録』の英訳より。
*2:THE ENCHEIRIDION, OR MANUAL(33) http://www.gutenberg.org/files/10661/10661-h/10661-h.htm
*3:当該部分の鹿野治助訳(中央公論新社『世界の名著 14』)の一部を以下に引くと・・・「たいていのばあいは沈黙せよ、それとも、やむをえないことは話せ、しかもわずかのことばで。たまには、それも話すように求められているときには話すがいい、しかし、ありふれたことはなにも話すな。剣闘・競馬・競技・飲食、また、いつも話されるようなことについては話すな、とりわけ人々については、非難するのでも、賞賛するのでも、比較するのでも、話すな」。
2010-01-07
それは神の生誕の日
「幸田露伴は『です』という言い方が嫌いで、『です』のかわりに『おります』『ございます』を使っていた」というようなことをかつて幸田文が語っていたが*1 それを知って以降、わたしも「です」という言い方にはどことなく違和感を覚えるようになった。まあ1,2回なら別に構わないのだけれど、語尾に始終この「です」をつけられると辟易してしまう。この言い方には、一見上品そうでいて、その実、品のないような感じがある。つまり慇懃無礼。たぶん碩学露伴は「です」のそのようなニュアンスを嫌っていたのだろう。そういうわけなので、わたしはいわゆる「です・ます体」の文章があまり好きではない。というか、正確に言うと、「だ・である」を排斥して「です・ます」で押し通す類の文章が苦手なのである。
ところで、「です・ます体」に似たものとして講演口調の文体というのがある。これは「です」「ます」以外に「ですね」「であります」なども用い、さらに然るべきところでは「だ」「である」も混ぜるというやり方のことで、こちらは「です・ます」一辺倒の場合とは違って慇懃無礼な感じや不自然な感じはしない。そしてわたしは昨日、この講演口調の文体の見本とも言うべき見事な文章を読んだ。それは何かというと、鈴木孝夫『ことばの社会学』におさめられている「日本人の言語観」という一篇のことなのだが、しかしここでそれの引用はしない。ごめんなさい。なぜかといえば、短い引用では良さが伝わりにくいのではないかという気がするし、それに『ことばの社会学』所収の文章で他に紹介したいものがあるから。「日本人の言語観」の内容を知りたい方はご自分でこの本を手に取ってみてください。
さて、ではその「他に紹介したいもの」を以下に引こう。それは「のびた蕎麦の神話」と題された、詩人西脇順三郎についての思い出話である。
偉大な学者や芸術家には二つのタイプがあるようだ。第一は沢山の学生や弟子に囲まれながら、一人一人の個性や才能を見抜いて、その人なりの方向にうまく育てることの上手な振付師型の人である。
他方、まわりの人、接する人から面白いもの秀れたものを貪欲なまでに吸収して、自分が絶えず大きく深くなって行く人がある。このタイプの偉人は何よりも人間的な魅力があり、一度引きつけられたらそれこそ大げんかをして、絶交でもしない限り、その影響圏から離れることが難しい。西脇先生はこの吸収型の偉人であって、人を育てることは余りお上手ではなかったようだ。
しかし学問や芸術を離れた日常の人間関係では、先生はひどく気の弱い所があった。ある日、研究室で先生のために注文したソバが、すっかりのびてしまったことがある。ひたすら恐縮する女事務員に、先生は「僕はソバはのびたヤツが好きなんだ」と言われ、いかにもうまそうに食べられた。これ以後、先生はいたる所で、のびたソバの歓迎に会われることになる。
ふとした機会に、私が「先生は本当にのびたソバがお好きですか」と伺うと、「いやあれは本当に不味いね」と、テレ臭そうに言われた。
ちなみに西脇順三郎といえば、『Ambarvalia』に入っている次の3行詩が有名である。じつを言うとわたしはこのひとの詩はさほど好きではないのだが、しかしこの作品はなかなか良いと思う。
天気
(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日
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*1:丸谷才一対談集『日本語そして言葉』所収「東京ことば」にて。




