夏男記念館

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0000-03-08

実装スク『目覚めの汀』

 
 
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『目覚めの汀』 5,300字
 
青く広がる空に、さらっとした薄い雲が出ている。
日差しは優しく、深緑の葉を茂らせた木々が心地よい。
初秋の暖かい昼下り。
森と農地に囲まれたアスファルトの道を、一台の車が走っていた。
車は海を目指していた。
運転席の双葉氏は、半袖のシャツとハーフデニムにサンダルという格好。
助手席には、仔実装のマリンが行儀よく座っている。
彼女が双葉氏と一緒に暮らし始めてから、一ヶ月が経とうとしていた。
 
双葉氏とマリンは、ペットショップで出会った。
野良暮らしを知らない天真爛漫な仔のほうが、双葉氏には好ましかった。
一万円の仔実装が展示されたケージの中で、目だって明るく見えたのがマリンだった。
 
双葉氏の家に迎えられたマリンには、申し分のない暮らしが待っていた。
朝夕の食事を主人と共にし、主人の枕元に置かれたベッドで眠った。
本やテレビ、インターネットを通じて、世の中のことを大いに学んだ。
車で色んな場所を訪れ、そこで出会ったよその飼い実装と友達になった。
 
素敵な思い出をいくつも与えてくれる主人を、マリンは深く尊敬し、信頼した。
主人に愛され、主人に尽くす。
飼い実装の本分をまっとうする上で、双葉氏は理想の主人だった。
 
双葉氏は、海が好きだった。
写真や映像を見せながら、しばしばマリンに海の話をした。
海は、どこまでも果てしなく広がっている。
悠然とうねる波。胸の奥深くを撫でる潮騒の音。
体をふんわり包み込む、柔らかい浜風。
海には、人々を癒し、元気づける力があるそうだ。
 
マリンは海にあこがれるようになった。
いつか海に連れて行ってもらえる日を楽しみに待っていた。
そして今日、その願いが叶うのである。
 
 
道中、マリンには少し引っかかることがあった。
運転席の双葉氏が、なんだか冴えない様子に見えたのだ。
マリンと話をするときは明るい調子になったが、
会話が止んだときの横顔には、薄暗い影が差しているようだった。
主人は疲れているのだろうかと、マリンは思った。
 
案内標識に従って、車は林沿いの小道に入った。
海が近いことを察して、マリンの胸は高鳴った。
 
林沿いの道を抜けた後、双葉氏は、車を砂利敷きの駐車場に入れた。
まだ海は見えなかった。車を降りた双葉氏は、マリンを両手に抱いて道を歩いた。
少し歩いて、観光施設らしき家の塀の曲がり角を曲がったとき、
道路の先に海が見えた。
 
マリンは息をのんだ。
実際の海は、彼女の想像を遥かに超えるものだった。
海には終わりがなかった。いくら遠くに目を凝らしても、海の上には空しかなかった。
何か具体的な言葉で海を理解することはできなかった。ただ茫然と、海を見た。
 
双葉氏は道路を進んだ。
道路と砂浜は、五十メートル以上に渡って長々と設えられた、
コンクリートの階段でつながっていた。
階段の踏み板は奥行き九十センチあまりで、なだらかに下っていた。
 
階段の一番上の段に、数羽のカラスが佇んでいた。
マリンは緊張したが、双葉氏が階段に近づくと、カラスたちは飛び立っていった。
双葉氏は階段を降りて、砂浜に足を踏み入れた。
 
秋の平日の浜辺。
双葉氏とマリンのほかには、誰もいなかった。
波打ち際まで歩いた双葉氏は、マリンを砂浜に降ろしてやった。
 
小さなマリンにとって、間近で見る海は強烈だった。
不気味にうねりながら、みるみる眼の前まで迫ってくる大きな波は、
マリンの心身を圧倒した。彼女はその場にへたりこんでしまった。
波がどこまで届くのか、よく観察してごらんと主人が教えてくれた。
彼女は、恐る恐る波の様子をうかがった末に、なるほどと納得した。
 
安全な場所がわかると、マリンの心にゆとりが出てきた。
彼女は次第に、押し寄せる波のスリルを楽しめるようになった。
しまいには、波が引くのに合わせて沖のほうへと進み、
再び迫り来る波と追いかけっこを始めた。
地鳴りのような音をたてながら、大胆な勢いで寄せたり引いたりを
繰り返す波は、彼女をすっかり虜にしてしまった。
強く吹きこむ浜風も、彼女の興奮を煽った。
そうして、大喜びで波と戯れるマリンを、双葉氏が傍らで眺めていた。
 
双葉氏がふと、携帯電話の着信バイブに気付いたそぶりを見せた。
彼はマリンから顔をそむけて、電話をとった。
 
「……はい、わかりました。お願いします」
 
短い電話だった。
マリンと目が合うと、双葉氏は笑顔を作って返した。
彼女はほっとした。だが、それは束の間のことだった。
 
「車に忘れ物をしたから、取ってくるよ」
 
そう言って双葉氏は振り返り、道路のほうへ走って行った。
突然のことだったので、マリンは彼に声をかけることができなかった。
双葉氏の背中はどんどん遠くなった。彼は階段を駆け上がり、
道路に出ると、駐車場に続く曲がり角の向こうへ消えていった。
一度もマリンのことを振り返らなかった。
 
奇妙な出来事である。
双葉氏は、小さなマリンを、広い浜辺に残して行った。
マリンを手に抱いて歩くのは大した手間ではないし、
なにより、小さな仔実装を外に放っておくのが危険なことぐらい、
飼い主なら当たり前に理解しているはずだ。
とくに浜辺は、とても広い上に、身を隠す場所がどこにもない。
それなのに、彼はマリンを置いて行ってしまったのだ。
 
驚き、困惑、不安、焦り。色々な感情が入り混じって、
はっきりしない意識の中で、マリンは駐車場への道のりを思った。
道路につながる階段までは、長い砂浜が続いている。
波打ち際の濡れた砂地は平らだが、その向こうに広がる乾いた砂地は、
波模様に細かくうねり、たくさんの人間の足跡ででこぼこになっている。
小さなマリンにとっては、険しい道のりになるだろう。
階段までたどり着いたところで、階段の段差は彼女の背丈ほどもあり、
よじ登れるかどうか、定かではない。
 
階段を通る以外のルートも探ってみた。
階段の端の向こうには、およそ三十メートルに渡って
コンクリートの防波堤がそびえているが、その防波堤の先に、
砂地の坂を通じて、砂浜と道路が地続きになっている場所が見えた。
そこを通れば、マリンでも道路に出られるだろう。
だが、階段を通るルートに比べて、馬鹿らしいほどの遠回りを強いられることになる。
 
追いかけるのは無理だった。
マリンは、主人が戻ってくるのを、ただ待つしかなかった。
 
双葉氏は、なかなか戻ってこなかった。
それどころか、階段の頂上にカラスたちが舞い降りてきた。
こだまする鳴き声とともに、ニ羽、三羽。まだまだ増えそうだ。
先ほどは人間が来たのでひとまず退散したが、そこは元より彼らの場所だった。
次々と階段に降り立つカラスを見ながら、マリンは波打ち際に立ちつくした。
 
 
マリンが不安と恐怖に耐えきれず、砂の上に倒れそうになったその時、
駐車場に続く曲がり角から、男が一人出てきた。
浜辺の景色にそぐわない、黒ずくめの格好をした男だ。
男が階段に近づくと、カラスたちは面倒くさそうに飛び立っていった。
男はそのまま階段を経て砂浜に降り立った。マリンのほうへ歩いてきた。
 
男は、黒いスーツにグレーのシャツを着て、黒いネクタイをしめていた。
サングラスをかけ、口の周りとあごに濃い髭をたくわえていた。
髪は少しブラウンがかった長髪で、浜風に忙しくなびいている。
男の不審で威圧的ないでたちに、マリンは体をこわばらせた。
男は、マリンから三メートルほど手前のところで立ち止まった。
上着の内ポケットから、携帯電話を取り出した。
 
「いい天気ですね。近頃はずいぶん涼しくなってきました」
 
「テ……?は、はいテチ、こんにちはテチ!」
 
携帯電話は、マリンと話すためのものだった。
若干低めで堅い印象だが、親しみのある声だった。
慇懃に話しかけられたことで、マリンは胸をなでおろした。
体中の力が抜けて、その場に崩れ落ちそうだった。
あいさつの後、男は両手をズボンのポケットに入れ、海のほうを眺めた。
男の声や佇まいには、どこかマリンを安堵させる雰囲気があった。
なにより、人間がそばにいてくれれば、鳥に襲われる心配もないのである。
 
男は、マリンに落ち着きが戻ったのを察して、彼女のほうに向きなおった。
彼女のすぐ目の前まで歩み寄って、その場に片膝をついた。
 
「失礼ですが、マリンさんでいらっしゃいますね?」
 
男の意外な一言に、マリンは少し面食らった。
 
「は、はいテチ。どうしてわかるテチ?ご主人様のお知り合いテチ?」
 
「私は双葉様の代理で参りました。そうした生業をしている者です。
マリンさん、あなたにお伝えしたいことがあります」
 
「テチィ……?」
 
「たいへんお気の毒ですが、双葉様は、あなたと暮らすことができなくなりました」
 
あまりに素っ気ない通告だったため、マリンはきょとんとしただけだった。
男は話を続けた。
 
「双葉様は、最近ある女性と親しくなり、お付き合いをすることになりました。
その交際相手の方が、実装石のことを、ひどく苦手にしていらっしゃるのです。
たいへん悩まれた末、双葉様は、女性との将来のほうを選びました。
ですが、あなたにその事情を打ち明けることが、どうしてもできませんでした。
だから私が呼ばれました」
 
「な、なんのことテチ!?わからないテチ、ご主人様はどこテチ!?」
 
マリンは、階段の先の、駐車場へと続く道の曲がり角に目をやった。
誰もいない、何の変哲もない景色だった。
だが、予期せぬ事態に動揺している彼女には、
それがまるで、何か深刻な事実を表すもののように見えた。
 
「お別れに際して、せめてもの償いとして、あなたに海を見せてあげたかったそうです」
 
「テッ……!?何を言うテチ!そんなの嘘テチ!ワタチはずっとご主人様と一緒テチッ!!
ご主人様はどこテチ!?会いたいテチ!会わせテチ!!」
 
「双葉様は、すでにここをお立ちになりました。もう戻っては来ません。
代わりに、双葉様があなたに宛てた手紙をお預かりしています。
読み上げさせていただいてもよろしいですか?」
 
マリンが答えるはずがなかった。
男は、手の中に折りたたんでいた小さなメモ用紙を広げ、文面を読み上げた。
 
“マリンへ。本当にごめん。どうか頑張って生きてくれ。元気でな。   俊明より”
 
マリンはわなわな震えながら、砂の上に崩れ落ちた。
顔はひどく青ざめ、息づかいはでたらめになり、目から大粒の涙があふれ出した。
 
「いやテチ!おうちに帰るテチ!ご主人様に会わせテチィィィ!!」
 
マリンは男の黒い革靴のつま先にすがりついて泣きじゃくった。
男はその様子をしばらく見ていたが、メモ用紙を彼女の傍らに置くと、
つま先を引いて立ち上がった。
 
「それでは失礼します」
 
男はマリンに背を向けて、堤防のほうへ歩き出した。
 
「テェッ!?待っテチ!ワタチも行くテチ!ご主人様のところに行くテチィィィ!!」
 
マリンは力いっぱい叫んだが、男の背中はどんどん遠くなっていった。
立ち上がって追いかけようとしたが、懸命な気持ちとは裏腹に、
彼女は何度もつまずき、砂の上に転がった。
 
男のほうは、砂浜の上をなんなく歩いた。
階段を上がって道路に出ると、曲がり角の向こうへ消えていった。
その途中、一度もマリンを振り返ることはなかった。
 
マリンは階段に向かって走った。
遠く険しい道のりだったが、迷わず走った。
何度も転び、口の中で砂を噛みながら、立ち上がって前へ進んだ。
カラスたちの声が、だんだん近くで聞こえるようになった。
それでも彼女は階段を目指した。そうするしかなかった。
双葉氏は、彼女のすべてなのだ。
 
 
 
 
マリンに要件を伝えた男は、駐車場に停めてある車の、
運転席のドアを開けた。上着を脱いで、助手席に放りこんだ。
それからかつらを取って、上着の上に放った。サングラスを外して、
シャツの胸ポケットにしまい、口の周りを覆っている髭をはぎとった。
男の正体は、双葉氏だった。
 
ゲームは成功した。大きな手応えがあった。
いつもなら心地よいはずの柔らかい浜風も、今は持て余した。
すでに、体中をくすぐられているような夢心地の中にいるのだ。
双葉氏は身をかがめ、両ひざに手をついて、頭を左右に振った。
少しだけ気分を鎮めたかった。
本当に愉快で、ひどく興奮して、このままでは運転にさしつかえる。
予定では、これから近くの展望台まで移動して、
双眼鏡で浜辺のマリンを観察することになっているのだ。
彼は顔を上げて背筋を伸ばし、歯のすき間から大きく息を吐いた。
改めて、体をじんわりほてらせている達成の余韻にひたった。
 
突如悪夢に見舞われた仔実装の姿を見るのは、もちろん楽しかった。
このゲームを考えたのも、それが目当てだった。
だが、実際にゲームをやってみたことで、もっと大きな楽しみを見つけた。
それが演技である。
“自分ではない何者かになりすますことが、こんなに楽しいなんて!”
双葉氏は、すっかりゲームの虜になってしまった。
 
青く晴れ渡る空の下、双葉氏の心にも空が広がっていた。
今まさに、新しい世界が眼の前に開けたのだ。
運転席のドアを開けたまま、彼はなかなか車に乗り込めなかった。
遠くに聞こえる波のざわめきが、そのたびにゲームの記憶を呼び戻すので、
彼の興奮は一向におさまらなかった。
 
 
2012/09/30 白保管庫

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