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闘走機械 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-09-19

ソーシャルネットワーク論考

| 18:59 | ソーシャルネットワーク論考を含むブックマーク ソーシャルネットワーク論考のブックマークコメント

由とは、「私らしくある」ことと同義だと思われている。だが、「私らしくある」というのは実は「私という超自我(理想とする自我)に隷従する」に同義である。

mixiは無数の「私らしさ」をリンクすることでソーシャルネットワークを構築してきた。つまりmixiという情報体は超自我ネットワークであるのだ。差し出した名刺から逸脱することなく統一した自我を交換し合わなければならない。現実社会の再現だ。今や巷の主婦でさえmixiの居心地の悪さに気づき離脱を始めているが、それは結局のところ自らつくり上げた<私>に、社会のどの局面においても従わなければならないという自由の無さに起因しているのではないか。

ソーシャルネットワークは名前によって構成される。mixiにおいては現実社会と同様に姓名やニックネームがあり、すべての活動は名前にひもづけられた情報として集約されていく。新しい名前、例えば小説の登場人物や理想の俳優、もしくはまったく架空の名前を自らに命名すれば、それで一時的に自由を手に入れたような気分になれるかもしれない。だが、結局はその新しい自我、超自我の変種に従わなければならなくなる。

ことの元凶は「私らしさ」が移ろいやすく、ひとつの状態にとどまっていられないというところにあるのではないだろうか。それに対して社会は「私らしさ」を象徴化し、データベースに刻みたがる。悲劇は、「私らしく」あろうとしてこのデータベースを参照し、ますます身動きが取れなくなってしまうことから生じる。

mixiの対極に位置しているのが2ちゃんねるである。2ちゃんねるは、超自我から距離をおきたいという無意識的な欲求によって、名前を放棄するあの独特な文化をつくりあげてきた(特筆すべきは、決してシステムがそれを強制しているわけではないということだ)。そこではネットワーク史上まれにみる自由が享受されているようにみえる。ただ、「私らしさ」が希薄になってくると、そのネットワークから社会性が失われていくようでもある。いわば無政府状態だ。情報はアウトプットの応酬に終始し、ノイズデコード不能なバイナリ)に近づいていく。

ソーシャルネットワークはことごとく疲弊し、2ちゃんねるのようなカオスがネットの隅々にまで蔓延するようになるのかもしれない。それは薄気味悪い将来像ではある。だが、それが望んでいた自由、本質的な<私>に満たされた世界ではないのか。

私は「私らしくある」ことによって本質的な<私>らしさを失う。<私>は時として、親に望まれた良い子であったり、ファンタジーに登場する屈強な戦士であったり、救いようのない飲んだくれであったりするのだが、そのどれかに決定されること拒む。それが自由の本質である。<私>というのは、実のところ誰でもないのだ。