BSフジLIVE PRIME NEWS 放送1周年記念シンポジウム

行ってきました。割といいかげんなので、ちゃんとしたものが知りたい人は放送をお待ち下さい。所詮、ここは落書きなので。

【司会】
八木亜希子/反町理(フジテレビ報道局政治部)
【解説】
小林泰一郎(フジテレビ解説委員)
【日時】
2010年3月28日(日)
【開場】
13時30分
【開演】
14時〜17時 終了予定
【第1部】
14時〜15時20分
テーマ:「変容する作家性の時代〜ネット時代の想像力〜」
ゲスト:富野由悠季(アニメ監督)市川真人(文芸評論家)/宇野常寛(評論家)/濱野智史(情報環境研究者)/ラリー遠田(お笑い評論家)


富野 「デジタル社会」と言われていることは実を言うと細分化しているものを考えましょう、それからきちんとした解答がありますよ、というのが理想なんだけれども、今の話が既にぐちゃぐちゃなんです。どういうことかと言うと、ニコニコ動画まで含めてツール、道具でしかない。道具を利用して、ちょっと素人さんがいじってみたら何か作品ができたという風に錯覚する。出来不出来の問題ではなくツールの問題でしかない。
普通の問題にしますと、僕が半世紀以上前に映画に興味を持って、大学時代に8mmで作品を撮るまで共有されていたときの実感が40年50年経ってあることなんですが、8mmで撮影したものだったら、例えば記録に残ると信じていたんです。ですが、殆ど残りません。一度撮影してしまったものは、その時に見なければあとは40年見ることはまずない。皆さん方は既に経験なさっています。DVD等で、一度録画したものを何度ご覧になりますか? おそらく見ない。番組を収録してもおそらく見ない。安心していつでも見れると思って。つまり、ツールの問題というのはこういう事で、動画は完全デジタルとか、ネット上での選択ができるあの方式の道具はかなり不自由で、ハードウェアがないと絶対に再生ができない。バカチョンで撮った写真が一枚あったら、それを百回見ても、わざわざDVDを仕掛けるまで行くかっていうと、意外に行きません。そして尚且つ五十年以上そういう経験をしていると同時にこういう事も言えます。ハードウェアはいちいち、いちいち変わるんだよ! その為に、昔のビデオテープは見れないぞっていうのは皆さん既に経験してるでしょ? そして今、DVDの様式も変わって、なんとかかんとかっていうデジタルな様式が出てきた時に、前は見れなくなったかもしれないからどうのこうの、みんな心配してるでしょ。データデータって偉そうなこと言ってるだけで、データっていう言葉が元々持っている「情報」とか「データ」の機能を今のハードウェアは保持していない! だって、規格が変わって二十年くらいしたら見れない!
八木 富野さんとしては、ずーっと残らないから(ニコニコにアップされたもの等は)芸術としては認められない?
富野 ツールの話しかしてません。市川さんが既に仰ってるじゃないですか。文学・文芸のというツールのクリエイティビティは変わってないんだよ、三千年も前から。神話とか宗教とか哲学とかの形で。それがデータでどこそこの人が「世界中のをデータ化する」って言うならやってごらんよ、お前らまたどうせ二十年後には見れなくするんだから、っていうんで、ハードウェアを生産する会社だけが生き延びる為のシステムになっている。文芸とか、芸術とかクリエイティビティの話は、ハードウェアを開発している人たちは一切考えてません! 今、この画像、三十年後には見れなくなるんですよ! 
反町 新たな媒体が出てきた時には…。
富野 その時に何をさせられるかと言うと、我々は買い替えをさせられる。買い替えをさせられるという行為が、何をやってるかと言うと、資本主義の延々と続けるための拡大消費の奨励をしているだけなんです。その事とクリエイティビティの話とか、作品の話とか、ましてや芸術論の話なんかと一緒くたにするな! という事はどういうことかと言うと、ニコニコ動画あたりに投稿している人たちが作っている、一般庶民の作品が作品として言える? 言えるわきゃない!
反町 プロの作品とアマの作品、どこが違うと?
富野 百年残るものがプロの作品。十年二十年残ったくらいの作品が、作品として評価されていれば、作家として呼ばれるでしょう。だけど、戦後60年ぐらいの間でも、既にある時代時代を画した作家ってのはいたんです。その作品が現在只今既に流通しているか、していないじゃない! という事はどういうことかと言うと、作品論として、作品は固有の存在として在るんです。だからその場に在る、固有の作品として在るということは僕は今こういう意味として使っています。「存在」という意味です。「存在」というのは必ずしも物の形では存在しなんですよ。つまり、「存在」ってのは、我々の意識の中に、無意識の中に理念としてある集まりとして、例えばある作品名として残っているんです。


富野 (ガンダムの制約等を宇野氏がハードウェアの制限の例として「余計な苦労」と言ったことについて)全く違う。「余計な苦労」じゃないんです。ロクに才能もない個人が好き勝手ではロクなものは作れないんです。いいですか。さっきは資本主義のことを、多少悪口を言いました。ところが我々はこの世界で暮らしていかなくちゃいけない。ということはどういうことかと言うと、現世で生きていく為には外界の条件っていうのを呑まなくちゃいけない。もしくは外界の条件を呑んだ上で、何か付け加える行為をしなくちゃいけない。ということは、好き勝手に作ったもので、世の中に発表されることは、余程の才能の作品でない限りありえません!
八木 今まではそうですよね?
富野 勿論そうです。
八木 でも、ネットが出てから色んな人が出せるようになったのは…(御禿の表情が変わる)ごめんなさい、違うんですね。
富野 それは、はっきり言うとまた別のことであって、ツールの毛色が違ってきてるんで。ニコニコ動画などの、ネット上で報道されるものの機能を理解しようと思って、間違っている部分があります。課金していないタダで使えるもので、その人たちが自由に使えて、その才能がもし開花するとしたら、こういう事です。才能のある人の作品とかに1億回のヒットはありません。普通の才能の人たちのものは全部消費されるだけ。勝手な垂れ流しなだけですから。放送コードに引っかかるかもしれないけれども、便所の落書きみたいなもんなんですよ。ですから、ネット上の情報の読み方・理解の仕方ってのは誰が作るかっていうと、我々・身体を持った我である。ってこういうことをもう少し確定的に持たなければいけない。


「外界の条件を乗り越える」ということを作業的にやると、個の能力以上のことができたり、自分の好みでないことに手をつけざるを得ない。自分の表現の幅とか、考える幅が広がるんですね。絶対に好きなだけで作って良いことなんて殆どない! 好きなだけで作っていてファン・ゴッホなんていう人は生きてる間に評価されない画家。死んでから評価されてというケースがあるのですから、余程の才能がない限り、やってはいけないことで、外界の条件を受け入れましょう。


反町 (純文学の様に)富野さんも好きなことをやっていたんじゃないの?
富野 あたしゃそんな風にはなりたくありません! 文士とか、昔風の映画監督さんになりたかったの。それなのにライトノベルしか書かせてもらえなくて、泣いてるんだけど、、こうでなければ世の中に受け入れられなくて、食べていけないんだから、良かった良かったと内心思ってる。だけども堕落したと思ってる。だって文士になれなかったんだもの。映画監督になれなかった。「アニメ監督」とかさ、「アニメ屋さん」と呼ばれてるんだもの。ホント恥ずかしいもん。「我々の世代までの」という言葉の意味で、社会的通念での映画監督とか、文士とかと呼ばれているものは、ちょっとカッコイイんだけど。
誰か忘れた 富野さん十分カッコイイんですけど。(会場笑)
富野 アニメ屋だから!


富野 (「ガンダム」など富野作品には思想があり作家性があると言われ)そうなの。その部分の説明もしたいんだけども、本人から説明するのは憚られます(会場笑)。(「食うためには時代に振り回されるな」という意見と今の発言は食い違ってないか? という指摘に対して)違います。今年だけ食べれば良いってことじゃないこと。今年の青色申告の税金払えば、次の年も食えるっていう話じゃない。いいですか、本気で、死ぬまで食うということは、二十年三十年生き残るものを作らなくてはいけない。と言った時に、あ、文士をやっちゃヤバいんじゃない、ということは、少しは分かってきたでしょうか。それから、テレビまみれにならざるを得なかったんだけども、2、3年やってると、テレビの仕事が時代の仕事なんだから、こういうものに紛れ込むことが出来れば僕程度の人間でも、ひょっとしたら将来は降りないタイトルを見つけられるかもしれないんだ、となったとなったと思うんですよ。それを、先ほどのヒット作を作るということになったら絶対に潰されただろう。今目の前の状況をどう利用するか、という事を考えた。おもちゃ屋さんというスポンサーの要求を無視しながら作るということは、物凄くこわいことなんです。物凄くこわいことなんだけど、これをやらなかったら何が起こったかというと、いらない人間はおもちゃ屋さんのコンセプトの中でで全部死んでいく。4、5年で死にます。人気がなくなるから。それはね、したくはないから、何で生き延びるかってことを考える。考えてみた時に、ロボットものを利用してでも、自分は作家かもしれないと、世間に錯覚させる様な作り方をできないかと考えたときに、映画的というものをもっと腰を付けてやってみる。ですから、1つの手法では絶対にやれない。例えばガンダムならSF部門が持ってる何かとか、映画論が持ってる何かとか。もっと大きな原理が含まれていないといけない。アニメが好きだけ、映画が好きだけ、文芸が好きだけでは(会場を指して)こいつらに殺されます。だって、今流行りの方法論を使うだけでは、流行り物は生きていけないんです。原理原則が目指しているものが何なのかという時に、哲学論とか宗教論とか知ってないと、ロボットだけでアニメが作れると思うなってのはレッテルなだけで、映画が作れるなと思うな、とは辿り着きません。物語が何か分かってきたときに、ドラマ論が出てくるてことを考えていって、テレビまんがをベースにしていって、それを利用してこういう立場にある。だからこれがなければ僕は今日ここには来れません。
反町 今ネットとかに流れている「作品」と呼ばれるものは、メディアの特性にあまりにもよりかかりすぎている?
富野 全くその通りです。ツールとして、道具としての存在は全肯定。問題なのは、これによりかかってちゃダメだよ、これを利用して「オレが」っていう、あなたがもっと訓練して出てきなさい。その為にこれを利用しなさい。そのアクションがニコニコ動画という投稿画面を見ていると殆どなくて。我々が四十年前五十年前で、ちょっと気に入ったフィルムが撮れた時に、それをただ喜んで流しているだけ。まして、今のこの状況が、映像が8mmビデオで簡単に撮れていたのに、もの凄く安易に満足している。このレベルでは、お前は鍛えられないんだから辞めなさい、と言うだけです。だから、粗雑な感性を感じます。


富野 (濱野氏の反論に対して)あのね…だから一緒くたにするなってさっきからも言ってるでしょ。100万人の人間がいたらね、100万人全部が同じじゃないでしょ。ピックアップすれば良いだけのことだし、そういう才能に対しての介護をひらいてあげるっていうのが、実は年寄りの仕事の筈なんです。今の時代っていうのが、道具とハードウェアが進化しすぎたがために年寄りたちが「えっ」と思い、過ぎている、というのがあったりする、というのも今実感します。分かりやすいかどうかは知りませんけれど、こういう話をします。この数年、いくつかのCGの開発者たちに会ったりして、去年辺りから聞いたのが、それまでCGというのは工学の仕事だったのが、遂にデザイナーの仕事になって、俺たちが分からなくなってきたんだよね、っていう時代に来たんです。道具が、表現する絵筆と同じになったんです、ということです。つまり、筆が完成したんです。で、ネットのものが使える時に、素人とか若い人が一番困ることが、とりあえず、面白がって使っちゃう。今正にみんなが面白がって使っちゃうだけなので、余程の自意識を持たない限り、ここから突破できないよ、っていうのがあまりにも見えすぎてるのと、もっと分かりやすい言い方をします。素人がね、これから伸びようとする人をね、潰してる、っていう状況を僕は感じる。だから、お前程度の奴は書き込みするな、投稿するな、っていうことの方が実を言うと多い。


(古いというだけで生きている人がいる、という話に苦笑い)


富野 (状況把握能力が作家に問われる、という話について)状況っていうのは変化するもので、実を言うと、その時代に価値のないものは、平気で忘れてってくれますから。基本的には主体性を応用するものだと思います。どういうことかと言うと、評価された瞬間から、その評価を維持するということも本人の義務なの。それは過酷な事でしてね。何も考えないで維持できてしまうクリエイターであれば問題はないんだけれども。余程の天才でなければそれは出来ません。ですから、絶えず時代を見て、対応していく努力をしていく。それで保つのは10年をツーサイクルくらいで、スリーサイクル目までは個人の能力では中々できない。といった時に、周りの方の盛り上がりのお陰で、何とか今日まで生き延びてきた。やっぱり重要なのは、我(われ)が大事なんじゃない。状況を見る中で、我とうのがどういうものを求められているのか。やっぱり、今流の言い方で申し訳ないんですけど「空気を読む」感覚がなければいけないのだろう。
反町 作家性を発揮する場面が変わってきている、という点からは、ネットに投稿することは悪いことではないのでは?
富野 全否定なんてしてません。全否定してないんだけれども、今のネット論について思うのは、濱野さんに物凄く気をつけて頂きたいのは、一辺倒になっちゃってたりするんだよ。ツールを援護してる言葉遣いが先にある。一般世間っていうのは、Youtubeに自分が投稿できるだけで舞い上がっている人たちがいっぱいいるわけですよ。3分程度の作品が出来たと思ってロクでもない作品を80本審査しなくちゃいけなかったら死にますよ(会場笑)。
八木 そういう場ができた過渡期では?
富野 今不幸なのは、これだけ技術が発達したため、携帯などは良いのができてます。本来、携帯の、あの高性能を、扱うだけの資格がない、愚民が圧倒的なだから(会場笑)。そのアンバランスさが一番問題だと思う。
反町 報道写真で携帯のカメラ画像を使うのは嘆かわしい。
富野 違いますよ。高性能なものを使うのは良いんです。素人が…愚民とわざわざ言ったのは、そういう人なんです。勝手に使い過ぎるのよ。いい例が、ウィルスって、あのジャマなものがネットに入ってくるってどういうことかと言うと、ああいうものを面白がってる奴がいるからなんですよ。だからネットの発祥時はウィルスなんてのが出てこなかったんですよ。なのに今大分深刻化しているんですよ。どういう事かと言うと、電気的な今の表示のものって言うものが、絶対的に固定できるもだと思ってはいけないものを、我々は今、お買い物まで現金を使うものはバカだという言われ方をしているのはどういうことかと言うと、あれは物凄く怪しいことで、我々は今リアルな世界に住んでいながら、全部バーチャルに移行している。金融関係にウィルスが入ってきたときに、皆さん方どうします? 絶対に突破できないっていう風に工学者は言う。電気屋も言う。そう言わなかったら自分たちに仕事来ないもの。
富野 (「誰でもクリエイター」とはそういう自覚の有無ではないか? について)それに関してはストレートに反論します。「誰でもクリエイター」という言葉自体が間違っています。そういう事を言って、子供を甘やかしている。若い世代を甘やかしすぎたという事は、実を言うと今の60台50台が安易に言ってしまった為に、自分が国家のトップに立っていると思えちゃんだ、あのレベルで。というところまでの錯誤を許している。


八木 クリエイターと名乗ることは傲慢なんですか?
富野 傲慢です。クリエイターという評価は他者がするものであって、個人が明確に言うのはみっともない! お前程度がクリエイターじゃないっていうのが基本なんです。
八木 どういう人が周りの人がクリエイターって呼べるんです?
富野 一千万人の人から認められたらクリエイターって言う(会場笑)。そういう言い方をします。
(ここで宇野氏がガンダムを例に日本のサブカルは作品と消費の境目が曖昧になる話をする。MSVやセンチュリーなど。「富野さんの小説でも正史として認められないものが沢山ありますよね?」に対し無言で頷く)
反町 プロとアマの境目がはっきりしないっていう状況ってのは、文化としての水準を押し上げることになるんですか?
宇野 僕は明確にプラスだと思ってます。日本のサブカルチャーの強みです。
反町 富野さんはそうは思ってないんじゃないんですか?
富野 思ってます。僕の世代感覚で言えば、それが容認できなかった時期というのが本当に辛かった。ガンダムに関しては全部自分の所を経由するものでなければいけないって本当に思ってた。それをガマンをして今日みたいに病気をしてここにいられるようにするまで十数年かかりました。十数年かかって分かったことがあるのは、今おっしゃられている通りで、もし僕の世代で言う自分が文士になりたければ、もっと立派な小説を書きなさいよ。僕はテレビの一スタッフでしかなかった。
反町 最初は?
富野 現在も。今もそうです。そして、一スタッフでしかなかったんだけれど、一スタッフでも、気持ちの持ちようによっては、例えばこういう壇上にこうやって呼んでいただけるようなことになりますよ、っていうのは、まさにこれが時代だろうと思います。ですから、「オレが行くんだから、お前も」っていう言葉遣いはしないように自分をこの十数年訓練しました。これが、つまり社会人なんです。年をとっただけとうのもあります。人は一人では生きられないということを本当に実感しているから、まさに「お前程度の能力で生きていると思うな、クリエイターと思うな。クリエイターっていうのは百人千人に言われて初めてクリエイターだアーチストだと言え」って言うのに勝手にアーチストだと言ってるナントカさんがいっぱいいるのはホントに嫌なの! 名刺に書くな(会場笑)! 本来我々が言葉遣いをきちんと遣うところ、理念を持ってやるべき現実はこうなんだ、っていう対応能力を全く持ってない世代を作ってしまった我々の世代の罪だと物凄く思います。


富野 一つだけ、ラリーさんの発言を聞いて気になったことがあります。お笑いというのは、元々ラリーさんぐらいで言えばテレビありきで始まっているから「大きな文化」「広い文化」と言ってますが、それは僕は間違いだと思う。どういうことかと言うと、お笑い芸人というのはお座敷芸なんです。お座敷芸であるから実はサバイバル力があるんです。メディアという媒体によって百万枚売れたお笑いが優れているかというとかなりあやしい。というのは、ツールの性能と芸人の問題を一緒くたにしている。お笑いの本来のお座敷芸って、六畳八畳でやるようなもので、そういうコミュニティが百歩千歩外に出たらこわいぞ、っていうことを、今のテレビが凄くフラット化しているんじゃないか、という意味では、「今のお笑いが」という言葉遣いに対しては、僕は多少疑義がある。

私の提言 富野「公共にむけて」

富野 (濱野氏に対して)古い話をします。作家と言われている人たちで、特に明治・大正・昭和の人たちで、医学系の人が作家になる例が多い。理科系と文科系を分けるのはかなり問題。


富野 (フリップを出す)一人でできることではないので、自分自身の能力を絶えず高める為に、実を言うと世間と向き合うことが一番大きなモチベーションになるんじゃないかな。その場合重要なのは、(宇野氏を見て)身体性が重要なんであって(会場笑)! (宇野氏の消費を作品に取り込んでできたガンダムという例もあり、身体性とか作家性ではなく(とまでは言ってないかも)消費をどんどん取り込め、という意見に対し)あれは殴りに行きたかった。公共の画面に向かってそういうことはやってはいけないということで、暴力を自分で…。
誰だっけ 自重した?
富野 自重ではなくて…。
八木 自粛した?
富野 自粛した(会場笑)。

懇親会

http://twitter.com/d_nak/status/11191457534

帰宅。懇親会で久々に富野さんと話せた! 上機嫌だったなぁ。「君たちの言ってることは確かに勉強になるけど、やっぱり恵まれすぎててリアルがない! 水無田さんだけが子供を産んでるリアルがあるのよ! こう、こう、こういうふうに!」とガニ股になって股間から赤ちゃん産んでるゼスチャーとかw

http://twitter.com/d_nak/status/11231203437

そういや、昨日のBSフジシンポジウムで、僕の「富野が宇野を修正した!?」つだりを結構真に受けちゃった人がいたらしい。うっそーん言うてるんだがw あれはそうあってほしいという願望的なネタですからねー。懇親会では某SE◯DやU◯でぃすりとか和気あいあいと盛り上がったしw

御禿分のみ。疲れたので他の人のもの、ちゃんとしたものは放送をお待ち下さい。
カメラチェックは厳重にしてたのに、会場内のでの実況はお咎めなしってなんじゃそら。携帯の電源切れとも言ってたじゃん(上記のみを言ってるわけではないよ)。