F91フィルムコミック収録「コンテをきる=演出をする」

監督 富野由悠季

はじめに――
F91を教材にして、コンテをきるということはどういうことか、演出をするということはどういうことかを、ぼくなりに説明してみたい。だからといって、F91が、演出的に優れているというのではない。この本が、F91のコミック・バージョンだから、利用させてもらっているにすぎない。この点は、誤解しないで欲しい。

コンテはマンガの出来そこないではない

コンテがコマ割りの絵で示されているために、マンガの延長線上にあるものと誤解している人が大半である。そのため、コンテ程度の絵が描ければ、アニメの演出ができると思い、アニメーターのなかにも、コンテを描く方が楽そうだからといって、コンテ・マンから演出に転向するスタッフも多いが、たいていが失敗している。
コンテをきる、ということは、絵を描くことではないのだという基本がわかっていないから、この誤解がうまれるのだ。
実写にいるスタッフにとっては、本編(日本の映画人は、劇場にかかる映画をこういう)のコンテを描くことは、無能者がやることだと思っている。シナリオでカットが割れなかったり、現場で直感的にカットが割れない監督は、監督ではないからである。
多少コンテに理解がある監督でも、合成などのSFX用の画面を製作するために必要なもの、ぐらいの理解が精々である。コンテが読めれば、そのフィルムの仕上がりがどの程度のものか、七、八十パーセントのレベルで想像ができるのだが、実写、アニメのどちらの現場でも、コンテを読むことのできるスタッフが少ないために、無駄な投資が連綿として行われているのである。
このコンテ無視の風潮をうんだ原因に、シナリオの至上主義がある。

シナリオ至上主義

シナリオが、完璧にシナリオの体裁を取っていない場合、コンテをきる段階では、シナリオの改訂は、ほとんど自動的に行われる。
それでも、シナリオ至上主義が横行するのは、シナリオが映画なりテレビの企画決定の骨幹にあって、シナリオで映画の仕上がりが想定できる、という錯誤があるからだ。
こうなった原因には、監督次第で映像作品はどうにでもなる、という監督至上主義も加担していることである。
その点、アニメは、制作プロセス上、どうしてもコンテが必要なために、現場のスタッフがコンテを読めようが読めまいが、ともかくもコンテが存在するために、実写ほど無定見に、シナリオから一足飛びにカメラを回すことがないため、映像作品の仕上がりとしては、リスクが少なくなる。もちろん、コンテ次第、という問題は別個に存在する。
だから、実写やテレビの現場では、かなり良いシナリオでも、カメラを回している段階でダメな作品になっても、その仕上がりは作ってみなければ分からないというケースは、枚挙にいとまがないし、逆に、本来、シナリオでないものを監督の技量でともかく作品らしくした場合、その作品の結果をシナリオ・ライターが、自分の力量だと錯覚するケースも出たりして、このことが、ライターと監督双方に不幸な結果を産んでいる。
つまり、このプロセスが、本来の映像創造者である監督たちから、シナリオを良い方向に改稿させる能力を剥奪して、結果的に、企画能力の醸成を忘れさせ、シナリオの重要性を忘れさせる歴史をもつくっていったのである。
そして、映画として、その最も不幸なことは、監督たちにシナリオへの反発心を起こさせ、その反動で、ひどい映像偏重主義の作品を氾濫させる歴史をつくったりもした。
もちろん、この視点は、あくまでも一面的であることはお断りしておく。

シナリオを視覚化する第一段階の作業

コンテの定義は右の通りである(注:この章のサブタイのこと)。
文章で書かれているシナリオは、映像として再構築していく段階でのすべての要素を考慮しているとはいえない。だから、コンテをきることによって、映像制作上のすべての要素を具体化しておくことは、映像製作上、有効なプロセスである。
シナリオの段階で、雨を降らせることが絶対に必要に思えても、雨を降らせることは容易なことではないし、その逆もそうだ。そのような映像制作上の要素をどこまで許容できるか否かは、テレビ的にルーズに考えるわけにはいかないのが映画の仕事である。
が、コンテにすることによって、全体の映像構成のなかで、絶対に必要か否かの判定はシナリオ以上に具体的に検討できる。コンテは、観念的でないからだ。
が、現実には、コンテをきるためには、多少の絵が描けなければならないし、外向的な性格をもっている映像制作志望者(監督)の大半が、漫画家のような忍耐を強要される作業は続行できないために、コンテの存在を忘れさせていったのである。
監督は、現場で大きな声が出せる職人であれば良い、という通念である。
しかし、シナリオという文章形態が、映像製作のための道具(ツール)としてストーリーの観念と理念を提供し、かつ企画性を提供する絶対的なものであっても、文章で思考するものからは、一歩も出ることはない。
シナリオでは、ファースト・カット(カットという用語も本来、正確ではないが、現場では使うので、使う)を人物のロング・サイズにするかアップ・サイズにから始めるかを思考することは、本質的になじまない素材だからだ。
だから、コンテをきる時には、シナリオの展開以上に、映像的に良ければシナリオを改訂することは多々あるし、そうでなければ、シナリオは練れない、というのが実感である。
それがコンテの段階で、シナリオが自動的に改訂される、という意味になる。

映像の力学

映像はアップ・サイズからロング・サイズに、さらには、その逆にもつなぐことができる。そのつなぎ方の違いや、画面のサイズの違いによって、映像の力学的な関係は異なってくる。
その違いというのは、視覚的な印象の違いを意味して、それは、表現の違い、意味性を違えるということになる。ここでいう意味の違い、殊に、文章でいう表現の違い、というものに近いが、それほど単純なものではないが、そのことは詳述する時間はない。
この視覚的な力学の変化に、セリフ回しも違ってくるという問題は、シナリオ・ライターのレベルでは理解できないし、演出家も、コンテをきる段階で初めて行なうことができる問題である。ここに至って、シナリオ至上主義は却下される。
しかし、シナリオ否定ではないことは、くりかえしておく。シナリオは必要なのだ。
しかし、コンテをきる監督、もしくはコンテ・マンが無能であれば、シナリオをなぞってコンテ化しろという命令を、製作者はしなければならない。

コンテの読み方

コンテ[コンテニュティ(続くもの)の略]とは、シナリオをどのような画面に割るかということを示したコマ割り絵で、それには、必要な演技と科白と目安としての秒数が書きこまれている。そして、コミックスと違うことは、その画面のコマの大きさが、一定であるということだ(例外はあるが…)。
しかも、たいていの場合は絵がラフだから、そんなもので出来上がりのフィルム(映像)の想像などはできないと思われているという、コンテのルックスの悪さが、己の存在意義を内外にアピールしないという宿命を持っている。
そんなコンテでも、フィルムにすべき全ての画面が書きこまれているから、仕上がりの映像の想定ができる、と思うのは一面の真理なのだが、多少安易な理解である。
コンテの絵をみながら、そこで想定されている演技と科白を読みとり、その画面の長さを想定する。そして、次々に変わる場面を、映画かテレビを見るような速度で読む。すると、そのコンテによって制作される作品の仕上がりは想定できる。
コンテの読み方とは、まさに、画面が続くように読めば良い。
そして、コンテは、それら続くべき画面が、どのように続くものとして制作されなければならないか、という技術的な問題を列挙し、指定して、スタッフに伝えるための道具なのである。
そのために、実は、技術的には約束事があって、この基礎知識を無視しては、コンテは読めても、書けない、きれない、という事態に陥る。
だから、コンテは難しいものということになっても、ともかく読むのも書くのも面倒だから、コンテ学というものの必要性も想像することができないのが現実なのである。
なにしろ、この種の仕事は、感覚でどうにでもなる部分があって、センスのあるスタッフは、勉強も訓練もしなくても、コンテをきってしまって成功する者もいる。
しかし、それはあくまでも、例外であって、なによりも、勘だけで仕事をしているスタッフは、若いうちは耐えられても、熟練と熟考を必要とする時期の仕事では敗北をするのだ。

コンテのきり方

原則=画面割りと科白によって描かれた世界が、そこの現実であるように構成する。
カメラが撮影した画面をつなげていけば、そこには別の現実世界があるように、画面が構成されていれば良いのであり、その画面を作るための指令書がコンテである。
が、そのコンテをきる(描く)ためには、技術的な約束事がある。
画面の移動速度を前のカットと次のカットを同じにするかしないか、というような問題から、人物の顔の向きを、右にするか左にするか、そのサイズはどうしたら良いかというような問題まで多様である。
が、コンテで重要なことは、それら個々の画面の構成問題よりも、実はもっと重要な問題を検討する場である。
つまり、仕上がった作品を想定した場合の全体的なストーリー構成、画面構成の是非を検討できる、ということだ。
しかし、我々はついつい小さな問題にかまけて、大きな問題を見過ごすという悪い癖があるし、さらなる問題は、コンテがスケジュール通りに上らず、全体的に及ぶような問題の検討などできないという現実の方が多いのも事実である。
ともかく、F91を例にして、コンテをきる上で、ストーリーの構成の変更と、どのように画面を積み上げていったかということを、少し具体的に述べながら、コンテをきることを知ってもらおう。

F91について――

冒頭カット

映画の場合は、配給会社とかプロダクションのマークが入って、次の画面からが本編である。
今回は、クロスボーン・バンガードモビルスーツが、ベイ・デッキのどこかのハッチを破壊するカットから始まったが、あれは、初期プランから遠くかけ離れたものである。
実は、第二稿あたりのコンテで、監督としてシナリオ・ライターとして、とても好きな始まり方があった。それは、クロスボーン・バンガードとか鉄仮面の物語としては最高だという始まり方であった。が、それを採用しなかったのは、作品全体の時間がオーバーしてしまうからだ。
それで、映画版のように改訂した。それによって、作品のクオリティは、かなり落ちたと思っている。コンテで全体の流れは分かっていたから、この判断はかなり正しい。
しかし、ここで映画のようにしたのは、作画が間に合わなくなって、上映できなければなにをやっても仕方がないという判断があって、ここに至って、監督は、初めて大きな声を出して「冒頭の出撃カットは、全部カット!」と叫ぶのである。
そうすると映画のトップ・カットが、途中に入るはずだったカットがワン・カットだけ入って、始まることになる。
さらに、この決定については、あの画面が、トップ・カットらしいアタックのある画面であったという理由による。
ここに、違う画面をつなぐ面白さという、コンテ以後の作業というか、判断も入っているのである。

ビューティ・コンテスト

ストーリーの始まりに、学園祭のビューティ・コンテストのをもってきたのは、シーブックとセシリーの紹介を極度に短い時間ですませ、かつ、人物たちにコス・プレ的な煩雑な衣装を着せるシーンを設定したかったからである。
これが、同時に行なえるシーンとして、あのシーンを設定したのは、シナリオの段階からである。
殊に、ヒーローとヒロインに雑多な衣装を着せたいというのは、ロボット物がすぐに決まりきった衣装を着せてしまう傾向があるためで、それを回避して、なるべく一般的なルックスから始まるようにしたのである。それは、映画が広く観客を動員する作品であるから、ロボット・アクションに興味を持たない普通の観客を意識している。
だからといって、仮面舞踏会はやりすぎだろうし、スペース・コロニーにはいろいろな人種がいるという表現も一挙にやってしまいたかったので、あのシーンにしたのだ。
さらに、シナリオ段階では、体育館内に舞台を設定していたのだが、それでは、セシリーがモビルスーツのアクションを見たり、人びとが逃げ出したりする演出をする時、段取りが増えてしまって、かなりの時間を要するだろうとわかったので、コンテの段階で校庭にしたのである。
それでも、映画の印象では、冒頭が長くなっていると感じられて、かならずしも成功したとは思えないが、別の解決策は現在でも思いつかないので、それなりの演出であったと自負している。

戦争博物館ガンタンク

これについては、シナリオ段階では、かなりの反対がスタッフからあった。戦争博物館はアザトすぎ、ガンタンクは余分だという意見である。
しかし、これは、シナリオの段階で押し切って採用した。フロンティアIVの事情がちょっと異常であって、軍人、一般市民のなかにアナクロな人物が横行しているという描写を、主人公たちの近いところで表現したかったからだ。
それら状況を分からせる人物たちを描きながらも、主人公たちが、次第にモビルスーツというマシンに接近して、将来、シーブックがモビルスールを操縦するだろう、という伏線描写を一挙に達成させるために、映画のようにした。
ここまでのことでお分かりいただけると思うが、シナリオでは、これらの考え方がドラマ展開というタテの線で描かれている。それをコンテ化することによって、それぞれの人物の画面に出てくる頻度、按配、を計算していくのである。
セシリーとシーブックにいくつの画面を使い、だいたいどのくらいで、シーブックが自動車を運転するか(この描写を入れておけば、次にガンタンクを運転してもそう不自然に見えない)。そういう構成上の按配を、コンテで見るのである。
その上で、コンテ化する段階でさらに留意しなければならないことがある。
たとえば、マシン・アクションというのは、かなり強力に画面の印象を強くするので、それに負けないように、人物たちを力強く動かす、ということである。
しかも、それの人物たちの動きを描写するときに、かならずマシンを背景か手前に置いて画面を構成するのである。
この目的も、ひとつではない。ひとつは、人物とマシンの対比を観客の視覚認識のなかに定着させるためであるが、もうひとつは、登場人物たちが、マシンのある環境のなかで、いかにマシンに潰されるのか、跳ねのけるのか、という感触を画面上に固定するために、画面ごとに人物、マシンと分けないようにレイアウトを指令したのである。
臨場感、の演出である。
これができなければ、ロボット物を素材にする必要などないわけで、この配慮は絶対的なものとして画面構成をした。
つまり、空襲の恐さというものを単に爆撃の激しさとか、死者が次々に出る画面で構成することは容易であるが、その表現は、反戦映画であれば必要でもあろうが、たかがロボット・アニメでは、それは必要ないと考えたのである。それにふさわしい表現はなにか、という選択眼があって、ぼくは今回のようにした。
ここに、映像の別の問題が現われてくる。つまり、このような配慮を持つか持たないかは、画面の意味性の違いを発生させて、ここに監督の視点をつくる趣味性だけではなく、ドラマについての考え方や、思想、観念まで反映させることができるのである。
映像の恐いところは、ここにあると断言できるが、ロボット物で、そんなことを考えて演出する必要があるかないかと、諸君など、読者に委ねる問題であって、ぼくが詳述するところではない。

コンテからアニメーターへ

しかし、コンテで描いた画面のすべてを作画させたわけでもないし、そうしなければならないわけでもない。
それが現場の難しさでもあり、実は、コンテをきっている時(個人作業)とアニメーターと打ち合わせる(共同作業)とでは、気分が違うので画面内容の変更は、多々ある。
個々のアニメーターの作画能力を考慮して、コンテ内容を変更することは多いし、なによりも、個人作業の段階では、演出家の妄想だけが、コンテになっている場合もなきにしもあらずである。
作画段階での整理学は、必須といって良い。
トップ・カットのモビルスールの数の減少などは、その良い例であるし、後半のラフレシアの触手の数の少なさなどは、作画の段階でふやすことを考えていたのだが、スケジュール的に、そんな要求など出せずに、放棄した部分である。
それは、ラストのセシリーとシーブックが抱き合うカットもそうで、コンテの予定秒数よりも短くなっている。人物を回転させる、という面倒な作画をどこまでできるか、という問題を作業時間から割り出して、あれだけしかできなかった、というのが現実である。
しかし、いけないか? と問われれば、あれで良いと答えることができるし、種々の問題があっても、映画にして公開しなければならない、というのがプロの宿命なのである(とは思いたくないし、そうではない仕事の仕方をしていらっしゃる方もいるのだ)。
だからといって、整理学だけではない。
アニメーターがコンテ以上に内容を豊かにしてくれて、クオリティを上げてくれた例もいっぱいあるので、ちょっと気がつかない例として、C387をあげよう。
コンテナがドッと迫って、悲鳴を上げる人びとの描写は、秀逸である。これは、動きで見てもらわないと分からないが、ぜひコマ送りで見て欲しいほど緻密な芝居を、群衆がしているのだ。
だからといって、仕事としてこれがベターだというのではない。やりすぎて作業がスケジュールを食いすぎて、映画にならなければどうしようもないということは、関係スタッフに理解して欲しいところである。
しかし、監督やアニメーターの思い入れだけで、映画が完成できるものではないので、見やすい映画の長さとかカットの内容というものを想定して、この程度で我慢する、という具体的なプランが立てられるのは、コンテがあるからである。
少なくとも、実写のように最終の編集作業の段階で、監督が真青になるということはない。
しかし、今回の作業では、コンテがあっても、それが十分にできなかったという現場の問題があった。これが辛いね。

セシリーの里帰り

シナリオの段階では、セシリーがモビルスーツの手に乗るシーンは、まだズッと後であった。にもかかわらず、あの段階でセシリーにあのような行動をとらせて、ドレル・ロナと会わせたのは、空襲と逃避行動の長さをあれ以上長くできないという判断からである。
それは、シナリオという文章で得た空襲シーンの印象と、マシンと人物が動いたという実感をコンテをきった段階で把握した違いである。
だから、シナリオを無視するように、コンテの段階で、映画に示したとおりに、強引にセシリーの里帰りのシーンに直結させた。
この強引さが、映画としては画面変化、ドラマの変化を感じさせて、飽きさせずに、次を見させることになっているはずで、映像の演出の要諦は、この映像の質の変化の構成というテーマもあります。
逃げるというだけのテーマだと、あまりにフラットすぎて、観客は飽きるものです。
その意味でいえば、観客は映画を見ているときは、極度に贅沢さを要求している動物である、と覚悟しているのがぼくの考え方です。
だからといってF91の画面転換が全体的に早すぎるという非難については、そう思うし、それについてはひとつだけ自己弁護がある。完成した画面がまったくないフィルムで編集すれば、あれが限界だ、ということである。
三分の一ぐらいでも完成したカットがあって編集していれば、もう少したっぷりとした印象のフィルムにすることはできた、といわせて欲しい。
アニメーターを誉めてやって欲しいのは、セシリーの里帰りのシーンの最後のカットで、セシリーの顔のアップから、彼女がモビルスーツの手にのってロングになり、さらに、そのモビルスーツが坂道を飛行しながら、その影が坂の鉄板に写っているカットだ。
あの大変な動画と仕上げをしたスタッフには、頭が下がる。だからといって、ぼくは、アニメで使われる、いわゆるカメラの回り込みのカットは好きではない。うまく回り込んでくれないからだ。が、あのカットについては、モビルスーツの動きで、その効果に近いものが出せて、かつ必要なカットであろうと思って、コンテにあの動きを示したのである。それをあそこまできれいに効果的に仕上げてくれたスタッフには、本当に頭がさがる。監督冥利につきる。が、あのカットだけが良かったのではなくて、マシンと人物たちを同一画面にいれこむ演出を続けてきた結果のトドメのカットではなかったのか、と自惚れもさせて欲しい。

スペース・ボートから入浴シーン

これについては、この間に、脱落しているシーンがあるのではないかという指摘を何人かの方からいただいた。そのことでいえば、ガン・タンクで気絶しているシーブックから、スペース・ボートに乗り込んでくるシーブックのカットのつなぎでも同じである。
省略している。
しかし、その省略は、シナリオからコンテの段階で省略したもので、フィルムになって脱落したものではない。
どうしてこのようなことをするか? 映画は観客が見やすいある時間内に収めなければならないからである。
それだけのことであり、それでも省略方法が粗雑に見えるのは、その省略する演出方法に問題があったからで、申し訳なく思う。
が、入浴シーンでセシリーに「もう自殺はしない」という刺激的な言葉をいわせているのは、省略したが故に、たった2カットの入浴シーンを意味のあるものにさせようとしたためである。それが、あのシーンを成立させるための要因だと解釈したのである。
しかし、それを逆にとった観客が、その前に自殺劇があったのであろう、その部分を上映館がカットしたのではないか、と想像をしたのである。
是非は難しいのだが、ぼくにとっては、あの科白が、その前にあったであろうドラマの省略を、成立させる要因になったと解釈しているのだ。これが映画に於ける省略方法だ、と。

挿入歌使用でドラマ省略

これについては、御覧になった通りである。うまくいったと思っている。
歌を使わなければ、スペース・ボートの画面のあとには、クロスボーン・バンガードの戦艦の入港シーンというマシン同士でつなぐ画面の連続があって、その後に、セシリーの入浴シーンのドラマがあり、その後に、あまりドラマ的でないクロスボーンの事情説明のドラマが続くことになる。それを回避するために、ドラマの展開はいろいろあったであろうという気分をワンコーラス分の歌だけで表現したのであって、歌を入れなければならないから、あのシーンを作ったのではない。

フィルムをブッタ切る

右の気分でストーリーをつないだ箇所が、今回はふたつある。
ひとつが、シーブックが私服のままで初めてF91で戦闘をした直後、いきなりセシリーの家の前に立っているシーンへの展開。もうひとつは、ラフレシアが出て来る前、ビルギットが、バグにやられる前後の展開である。
これはほとんど良くない例である。
それでも、前のブロックのドラマの割愛は、コンテの総秒数が出た段階で決定された。
F91を操縦したはいいが、シーブックパイロットになるには迷いがあって、どうしようかと悩む。そのとき、シーブックは、母にたいしての迷いを語るという部分がシナリオにはあったのだが、独白劇はドラマとして平坦であったからカットした。が、カットするについての技巧をこらせなかったことが、不細工な『つなぎ』になったのである。
後者の方は、制作がまったく間に合いそうもないと判定された公開四ヵ月前になって、バグの攻撃シーン、百カットほどの作画を中止するという指令を出したのである。この決定は無念であったが、こうしなければ、公開できなかったのは間違いない。
監督の独善で公開を引き延ばすことができなかったことと、制作管理をできなかったぼくは、指弾されざるを得ないとも承知するが、このような料理が、編集段階を待たずに決定できたのも、コンテがあればこそである、とはいわせてもらいたい。
さらに言えば、このブッタ切りであっても、そこには映像制作上の技法としての、モンタージュの発生はあったと思いたい、といいたいが、それは、強がりでしょう……。

上手と下手

演出の基本のひとつについて、述べておきたい。
上手は、舞台に向かって右の方であり、下手は同じく左の方である。この舞台をフィルムとかテレビのフレームに相当させれば、舞台の演出上の技法がすべて利用できるのだが、映像製作では、これを映像の動きを発生させるための基本(映像の意味の発生)として利用している。
上手とは、上位に感じられるものの位置である。つまり、上から来るもの、力があるもの、強力なものの出現を表現することを意味している。逆に、弱いもの、被害者、もしくは、出世していく主人公の登場は、下手からの登場である。この原則は、よほどのことがない限り、まげることができない。
若い方は、そんな原則はあるものか、自分の力量をもってすれば、そんな原則は打破してみせるといらぬ努力をするが、この原則は有効である。
視覚的な印象は、ストレートに心理的な印象を支配するからであって、視覚印象というものは、ひどく原始的なものらしいから無視できないのである。
もう少しいうと、上手から下手に移動する映像だけをつないだフィルムと、その逆の動きの映像をつないだフィルムとでは、物理的な長さは同じでも、感じる時間は、前者の方が早いということであり、これらのフィルムよりは、左右からの動きがぶつかりあう映像の方がより長い時間に感じられるということである。
さて、これを知っていると何が起こるか?
コマーシャルを長く感じさせるためには、画面ごとに動きの方向をかえた方がいいということになり、つまらなさそうな話の映画ならば、全体的に上手から下手に移動する感覚を維持すれば良い、という原則が出てくる。
F91を見終わった印象でいえば、大半の観客は、画面は右から左に流れている印象をもっているだろう。ドラマ的に複雑であれば、映像を上手から下手に流す方が見やすいし、今回のテーマは、押し寄せるクロスボーンにたいして、ヒーローとヒロインはどうしたかというのがテーマであるから、映像の流れの原則を守るように演出した。
映像的な統一感がないと、映画の全体の印象がゴチャゴチャのものになって、理解する以前に、見られないものになってしまうからだ。
このような整合性をとることができるのも、コンテという作業があればこそで、ウソかまことかは、この本の場面がコミック風にアレンジされていても、想像がつくはずである。
こういう部分に、コンテをきることが、コミックで好きにコマ割りをすることとは違う要素となって現れるのである。ここにも、シナリオから一足飛びにカメラを回す現場に突入することが危険なのだ、という部分がある。
殊に、アニメは、被写体が実写の実際の景色や人物以上に、訴求力のないものであるために、映像の力学に頼って演出しなければならない点が極度に多い。その意味では、実写以上に、映像的な基礎学力が要求される。
しかし、アニメがマンガ絵であるために、このような演出上の問題があると想像できない関係者があつまるのが、アニメの世界であり、映画の世界である。
しかし、リミテッド・アニメ(極度に枚数の少ないアニメ)の場合、この原則を厳守することが尊ばれているし、事実、見られるリミテッド・アニメは、この原則を外すことはないのは驚嘆に値する。
こういう視点からアニメを観ることも、一興と思う。