2011-11-03 調査情報 富野記事
■調査情報NO.497 10年11月-12月号「アニメーションを次のステージに上げた『ガンダム』の監督は何を見ていたのか」富野由悠季インタビュー

食いつなぐために駆け抜けた70年代
——元々は映画志向だったそうですね
「僕の世代観って、完璧に落ちこぼれ世代なんです。僕の2年くらい前までの連中がいわゆる全学連で、映画界で言うと大島渚に代表されるように、戦後の松竹ヌーベルヴァーグに代表されるものを立ち上げました。その直後なので、我々が入る隙がない。でも映画を志向している人間がテレビに行くことは、ものすごく抵抗があったんです。新興の媒体という蔑視もあり、就職試験に受かる学力もなければならない。となれば、僕なんかテレビ漫画の仕事しかできなかったんです。レトリックで言うんじゃなくて、最下層なんですよ。そのテレビ漫画の中でも、東映動画にすら入れなかった学生でした」
——70年代といえば虫プロダクションで『鉄腕アトム』の演出を担当された後に、フリーで活動を始められた時代ですね
「これまで70年代を区切って振り返ったことは、全くなかったんですが、70年代に仕事をした作品タイトルを見ると、時代性をドンピシャリと反映しています。虫プロを辞めてフリーランスで仕事をもらって回らなければいけない局面に立たされた68年には、『巨人の星』が始まっています。それは、テレビアニメの先駆者からしてみると、2番手のプロダクションがレギュラー番組を持つようになったということです。虫プロが落ちてきて、2番手の東京ムービーが出てきて、それで一番の大御所の東映動画が、大資本をバックにしてなんとかやっているという状況の中で、俗に言う弱小プロの林立が始まる時代だったんですね。
ですからその現象が、現代ならベンチャーという言い方になってくるわけです。資本金なんてろくにないのに、テレビ局に何かコネがあれば帯番組がもらえちゃうとかっていう、すさまじい時期に繋がりましてね。言ってしまえば、本当にフリーランスの人がそういう中で仕事を、あちこちでやっていましたから。タイトルの並びを見ると胸が痛くなる時期でもあったというのが実感で、だからこそ僕のような個人業でも食っていけたんです。それで僕自身が、初めてストーリー権のある総監督作品を、72年に『海のトリトン』でやらせてもらった。それからちょっと間を置いて、75年に『勇者ライディーン』と、『ラ・セーヌの星』もお手伝いながらやらせてもらいました」
『ザンボット3』から『ガンダム』へと続く道
——さらに日本サンライズで『ザンボット3』を手掛けられていますね
「77年に『無敵超人ザンボット3』から『無敵鋼人ダイターン3』『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』までを、1年ずつダダダッと4年間やらせてもらいました。だから『イデオン』が80年なんですよ。ということは、70年代を最終的に『イデオン』で刈り取っているというのは、偶然じゃないですね。時代に乗っているからこそ、中小企業のおもちゃ屋さんが1社提供で番組1本持っちゃうんですから、凄い時代でしたね」
——クローバー社なんて、大会社ではありませんでした
「だから『街のおもちゃ屋だろ? スポンサーなんてできるの?』というところから始まりましたもの。電波料から製作費まで考えたら、毎週とんでもないお金がかかるわけでしょう? クローバーにしてみても自信がないから、『ザンボット3』は2クールなんですよ。オンエアが終わって『なんか、また次もやりそうだ』って話を聞いた時に、『エーッ、ちゃんと現金が回っていたんだ』って感動しましたもの。
『ザンボット3』は少なくとも、赤字じゃなかった。だって『ダイターン3』なんて、1年間ですよ。だからそう聞いた時に、謎だったんですよね。どうしてコレで保つんだろうと。おもちゃのパッケージなんて、そんなに商品数があるわけでもないし、まだ商品のアイテム数が今ほど出ていませんでしたからね」
——当時はおもちゃを売るための広告的な番組と見なされていたロボット物を多く手掛けられた理由は?
「おもちゃを売るための要素、例えば“戦闘シーンやメカの合体シーンを規定時間入れる”、“ヒーローのロボットを巨大に表現する”、といった“お約束”、つまりスポンサーへの仁義を堅持すれば、作品のオリジナリティーや作り手のクリエイティビティーがある程度担保されていたからです」
——正義と悪の価値観の相対化や、異文化間の対立という難解なテーマを盛り込んだ『ザンボット3』の人気のコア層は子どもでしたか?
「子供に人気があったというのは、多少違いますね。小学校五年生ぐらいからで、一番人気があったのが、中学生の女の子でしたから、この頃からファン層の拡大と高年齢化が始まっていますよね。ただ、僕の場合には、その前に『海のトリトン』がありました。『海のトリトン』は小学校の上級生から高校生までの女の子のファンがいて、日本で初めてテレビアニメのファンクラブが千人規模の集会を開いたんです。『ザンボット3』の時に、それの余波も受けている部分もありまして、戦いを描くとこういう残酷な話もあるぞ、という事例として人間爆弾のエピソードも入れました。この時から、アニメといえども、次の世代に何かモノを考えさせるヒントになるものを埋め込めるはうzだと思うようになりました。それで、ロボット物を利用してメッセージを盛り込むことを考えるようになりました」
——『ダイターン3』の洋画的な大人っぽいキャラクターも、あまり子ども向けとは思えませんでした
「いやいや、何本か前後篇物はありましたけれども、一応1話完結で終わらせるというスタイルだけは堅持しました。あと、巨大ロボの合体物であるっていうことも、なるべくきちんとやって見せる。これで基本的にクローバーに対して仁義は切ったつもりです。僕の方で好きにやらせてもらったのは、むしろ『007シリーズ』のような洒落たバラエティーショーを作ったことです。ギャグからシリアスまで、どこまで自分に劇が作れるかとシナリオライターと一緒に勉強しながら制作しました。だから『ダイターン3』は、いろんな意味で、79年に『ガンダム』を作るための伏線になっていました。ここでエクササイズをやった上で今度は映画的な人間ドラマをやるぞというわけです」
——『ガンダム』は、最初から映画的な視点があったということですか?
「スポンサーへの“お約束”のシーンも入れるんだけれでも、そこを抜いていくと映画が作れるという作劇にチャレンジしたんです。クローバーに対しては、『すみません、合体シーンはこれしか入れられないのでごめんね』って感じですね。でも、途中で気付いたクローバーの堪忍袋の緒が切れて、『ガンダム』は打ち切りになったんですよ。名古屋テレビが初めに意思決定したらしいんだけれども、クローバーも同意したっていうのは、『ダイターン3』と違うじゃないかということです。かなり確信犯的なところでもあったんだけれども、僕にしてみれば1年間はオンエアを続けたかったですよ」
2本目が決まらぬまま突入した映画化
——『ガンダム』の映画化は、どういういきさつだったのでしょうか?
「営業論のことはまったく知りません。ただ、作品的に人気があったにもかかわらず、打ち切られて、裏切られたマーケットがある。つまり、マーケットに1度エアポケットができちゃった。それを松竹とバンダイが見ていたという言い方もあるけれども、多少こちらから仕掛けたこともあります。まぁ、僕にとってはものすごく不満もあったんだけれども、まず小屋に掛けることの方が先だからと、OKした部分はありますね。その時に制作側として、映画化してくれるからといって映画会社の言いなりには作らないよと主張したことが、三部作に繋がります。
当時は、テレビアニメを無理やり映画1本分の尺に切り貼りした総集編を映画館に掛けることが行われていましたから、そういった作りにはしたくなかった。それで、こちらでまとめ上げる範囲での1本しか差し上げられないということで、1クール分で1本にまとめたフィルムを松竹に出しました。その、『ガンダム』の1本目を出した時にも、松竹には何も言いませんでした」
——初めから三部作とは決まっていなかったんですね
「決まっていません。だからタイトルの『機動戦士ガンダム』には『I』と付いていないんです」
——IIとIIIは付いていましたけどね
「今の話をみんなで覚えていたいために、いまだに『I』を付けないんです。それで公開して2、3日目に、松竹から『あれ、終わってないよね、話』『はい』『だから次があるんだよね?』『はい』『だったら次の夏休みまでにまとめられる?』『まとめられる』って。で、ようやくIIが付いたんです。だからそれも僕の勝手なんかじゃないんです。映画会社の人達は試写で内容は何も観ていないし、先にテレビ版も観ていないことは分かっていましたから2本目の依頼が来た時、そらみろとなったので、3本までいくよねっていうことで、3本でまとめさせてもらったんです。だから作品的に大変な人気があったから三部作ができたのではなくて、勢いと、それから『この程度で客が入るんだ。この程度の入りだったら、あと2本やってもいい』という、そういうレベルの読みなんです。だから大ヒット作ではありません。現に『ガンダム』は1本単位でいったら『宇宙戦艦ヤマト』の映画ほどは入っていませんもの。それが僕にとってはいまだに悔しいと言えば悔しいことです」
——ただ、ジャパニメーション発展の萌芽というか、表現媒体として幅広い層に訴求しうるアニメの具体的なパワーを一番初めに社会的に見せつけたのは、富野さんが映画版に関連して行った『アニメ新世紀宣言』のイベントではないかと考えているのですが……
「僕もそう思っています。それ以後の歴史論で考えていっても、当然今おっしゃられたような定義が定着してくるから、溜飲を下げている部分はあるんだけれども。数字的なことで言うと、実績はありませんから口惜しいですね」
ビジネスとしてのアニメと文化としてのアニメ
——70年代にフリーで渡り歩いている中で、ビジネスとして、アニメは成熟していくという手ごたえは感じていましたか?
「実は今日現在まで、そうは思っていません。確かにこの10年ぐらいで言えば、ビジネスとして、ある程度成功しているジャンルになっているかもしれないし、国が産業として目を付けているかもしれないという現象もあるのだけれど、僕はその見方は、この3年ぐらいではっきり変わりました。やっぱりアニメは俗なものであって、下世話なものなんですよ。それが近年では経済至上主義的とか、ビジネスということを現代の資本主義的なものの考え方に全部スイッチングしていくことはいいことではないと言えます。
公的に認められたアニメとか漫画は、むしろ存在としてタチが悪くなったと思いますね。大衆に任せたままの下世話な媒体にしておけばいい、エログロナンセンスで、子供に見せちゃいけないものだという風にしておいた方が、文化論的に意味があると思っています。なまじビジネス論が入ってきたために、もっと無意味な“消費財”に堕ちているのではないか、サブカルチャーにもなり得ないのではないかと思うのです。消費財とは下劣なものなんです。文化論で考えた時とか、肌身で感じるエログロナンセンスという言い方とか、僕の世代が知っている言葉で、“赤本的”なレベルっていう堕とし方で、子供は見てはいけないっていうモラルの外にある方が、正当性があるという風に思えます」
(談)
■調査情報NO.498 11年01月-02月号「若いクリエイターたちは意地と美学を持って“技芸”を磨いてほしい」富野由悠季インタビュー

人の意識変革の必要性
人や国家の価値観というものは、本来、互いの固有性や多様性から生じる衝突があり、そこに多少の争いがあっても、そのせめぎ合いの中で何とかしていきましょうよ、というところで人同士の関わり合いの要が生じて、20世紀までで言えば“戦争”があったわけです。
しかし現在、大量殺戮兵器や生物化学兵器を用いた大規模戦争なんてやっていられない状況になってきて、その場合に何をやるかといえば、人同士の関わり合いが生じないように、“言葉遣い”をデータ化していけば、いいんじゃないか? という発想が出てきたのだけれど――。もしそうだとしたら、まさに人間という種は、もう、動物ですらなくて、ただ加速度的にデータを消費していくだけになります。それはそれで、データだけを消費して、モノも買わなければ、まだ救いようがあるんだけれども、右肩上がりの欲望もあるっていう生き物でしょう? これはもう動物としての生態バランスを、極度に無視していると言わざるを得ないわけです。
われわれは自らを指して「霊長類」と表現してきたのだけれど、その言葉を、ついに“死語”にしなくちゃいけないんじゃないのかとまで、僕は考えています。
どういうことかというと、「有限の地球で、われわれ人類はもっと存続したいよね」、「永久には無理としても、このままの右肩上がりの思考回路でいったら、500年は保たないかもしれない地球を、せめてあと3000年くらいは保たせたいじゃない?」そのための英知を生み出すことができれば、あらためてもう一度「霊長類」を自称していい、と思います。さもなければ、無限の袋小路にダーッと突き進んでいるようなもので、これは“滅びへの道”ですよ。
古く賢しい知恵は新たな世紀を拓かない
これは最近、年寄りのインテリから聞いたんですが、「恐竜だって絶滅したんだ。だから人類が絶滅したって、それは生物としての宿命だからしょうがないじゃないか」、って言うんです。でも、僕は年寄りにそんなことを言ってもらいたくない。
なぜなら、「あんたは来年か5年後には死ぬんだからそれでいいよね。でも、あんたよりも、二回りも三回りも若いやつは、今を生きていて、悪戦苦闘しているんだよ。そんな意見をバンバン言ったら、皆で鬱になっていって、殺し合いになってしまうような世の中になるかもしれない」。だから年寄りはそんなことを言っちゃいけない。たかが20世紀までの小賢しい知恵で、これからを語るなと言っておきたいんです。
君は生き延びることができるか!?
本当に、まさか“巨大ロボットアニメ”を手掛けることを選んで、ここまでのムーブメントになるとは思わなかったけれども、やはり物は使いようだなと、この2、3年は感じています。
1作目の『ガンダム』を作って約30年もたつといろいろなシチュエーションで若いファンたちに出会います。そして自分自身が老化していく、劣化していくことが明確に分かってきた時に、その劣化を止めてくれている要因にもなってくれる若い人たちがいることは、嬉しくもある一方で、「えっ、お前ら、この程度のレベルかよ!?」って言える立場になっちゃったんだけれども、でもその時に、僕は怒鳴ってはいられないんですよ。だったらこいつらに、どう気付かせるかとか、どうやらせるかっていうことまで考えなくちゃいけないわけだから。
今、僕がターゲットにしているのは、小学校高学年からティーンエイジャーに向けて発言することなんです。彼らはこの日本が苦境の時代に嫌でも現代という時の中で多くの勉強をしなくちゃいけない。あと5、6年間はこの時代で自分を鍛えて、そして世に出て来る彼らに、今のこの時代、大人のやっていることを改革してもらうしかない、と感じています。
この兆候は小泉内閣の前後あたりのころから、はっきり見えていて、“しょうがないんだよね”と思っていますが、今の大人たちのように、国家とか経済が一番の爛熟期に巣立った世代は、緊張感を持っていないわけだから、いきなり緊張感に満ちた時代に放り込まれたからといって、対応策を持てないはずだということなんです。だから今の大人に何を言ってもダメです。このままじゃマズイな、とは分かる。でもどう対処するのかが、彼らには分からないんですよ。さらに、劣化した年寄りが古臭い知恵で良策を示せるかっていうと、それはできない。
年寄りにできることは、ただ一つ、「“理念”だけ、“志”だけは、高く持て!」と言うこと。これだけは、あと1000年ぐらいは不変でしょう。
今の社会にいる大人たち――、例えば“民主党の人々”は取り残されているんです。しかし、彼らが自ら何とかしたいと本気で思っているのなら――、今日まで生き延びてきたんだから、絶対にあなたたちだって、まだ方策を見つけられるはずなんだから、自己啓発をしてください、という言い方はできます。これが最大の教訓です。
僕だって、『ガンダム』を作ったのが、37歳の時なんですから、決して若くはなかったんです。
テレビにおける情報の垂れ流しと作品表現の違い
最近まで本当に不勉強で知らなかったんですけれども、ナム・ジュン・パイク氏のテレビ論に接して。その中で、「テレビは、今や独自の空間を持っていない。媒体としての機能を持っていない。固有の空間を持っていないせいか、時間軸に乗り過ぎているために、固有の媒体としての形を持っていない」という趣きの論を著しておられた。これを読んだ時に、本当にそうなのかもしれないな、と思ったんですよ。
つまり、結局時間に流されてテレビ番組を作っていると、実は“表現”ではなくて、情報を伝達する、伝達媒体としての機能でしかなくなるんですよね。それは映像や情報を表現として定着させにくい媒体がテレビなんだろう、ということです。
そして、現在はネットという存在も出てきているわけですよね。ネットは、さらに情報の“垂れ流し状態”なわけです。そうすると、そういうメディアを日常的に見て、触れているわれわれが、それだけで我慢していられるのか? という疑問は、とても大事にしたい感覚だと思うんです。
つまり、各種の表現を自己へ反映させる場合に、やはり理念というか、ものを考えること=“イデアの在り様”は、情報を垂れ流したままではいけなくて、それを自覚的に止めていく作業が、表現であろうと思っています。それを作品と認識する場合に、やはりわれわれはもう少し、作品化していく行為を慎重に考察すべきでしょう。
例えば、テレビドラマで嫌だな、と思っている点は、せっかく良くできているドラマが、ラストではスポンサーや、時代性にすり寄り過ぎていたりすることなんです。分かりやすい言い方をすると、「ここで無理してまでテーマソングを流さなくたっていいのにさ」っていう風な作りになっているというようなことなんですが、実を言うと、それこそが「垂れ流し論」。つまり時間軸に乗って流していっちゃっていることになっている姿です。結局、お偉方のおぼしめしが良ければそれでいいとか、代理店とかスポンサーが観て、ニコニコしていればいいって言うんでしょうけれどもね。
当誌の70年代特集の中に、プロデューサーの藤岡和賀夫氏がディスカバー・ジャパンの広告のプレゼンをやった時に、頭の固い国鉄のお偉方は誰もそのセンスを理解できなかったというエピソードがあったでしょう(NO.493)? 広告主の前で「あなた方が分かるようなポスターだったら、若い子には受けませんから」と言えてしまうアクションと矜持って、クリエーターにとっては、とても大事なんですよね。
ただ、それをやるために重要なのは、やはり“美学”なんだろうな、と思います。もっと言うと、もうちょっと作り手としての“意地”を出したら? ということじゃないかなっていう気がしますね。
ネット時代の作品の“アート性”について
ネットがこれだけ一般化したことで、一般的なメディアの状況が根本的に揺らいでいると思います。コンテンツの配信システムや課金方法などという、2000年以前には想像もつかなかったような状況が出現してしまった。
これもやはり、ナム・ジュン・パイク氏の論ですが、「メディアのことを考えるためには走る馬のことを考えればいい」、と。つまり、電信・電話ができるまでは、物の輸送と情報が伝達する速度は馬が一番速かった。それで、情報が伝達する速度も物の移動と同じ時間か、少し遅いくらい。
しかし、電信・電話ができて、あっという間に、情報の伝達速度だけが一瞬にして速くなった。つまり、大西洋なり太平洋なりを情報が渡るのに、1ヶ月要したのが、海底ケーブルができたおかげで、数秒で済むようになってしまった。ネットが発達した今、行き着く先は、まさにグローバルでボーダーレスな状況になっている。そうなった時に一番価値があるのは、「重要なのは検索スピードと、どれだけ検索されるかの有効な検索の方法だろう」と言う。
これがヒントになっていて、つまり「作品の評価とは、検索される回数が多くなったものが作品だ」というのが現状なわけです。そうすると、つまり“固有の情報”“データ”とかって言い方があるけれども、固有の様相を持ったものをネット上に置けば、それは検索してくれる。そしてさらに検索を誘引すればいい。その場合、フリーで検索できるような作品であればいいのかと言えば、そうではなくて、これにはお金を払っていいよね、と思わせる姿・形をしたものに仕立てていく必要があるのではないのか? つまりただのデータではなくて、作品をして固有の様相のものに見せなくちゃいけないということです。そうした考えから作品ができてこそ初めて“アート”と呼べるのではないか? “アート”についてそういう言葉遣いで考察したときに、われわれがもう一度メディアを通じてやるべき仕事があるんじゃないだろうか? と思うようになって来ました。
今、僕はこういう風に説明できるようになって、これを分かれ、としていきたいし、そういう時代が来たんだろう、と思っています。この40潤オ50年、レトリックになっている「アーティスト」というような生易しいレベルで、アーティストだとか芸術家だとか言っちゃいけないっていうレベルに来たのだ、と思います。
だからそのためには何が必要なのかといえば、まさに作り手は“技芸”のスキルを上げていうことに注力すべきでしょう。“アートな仕事”を、もっともっと高度なものにしていく必要がある。だけど、この場合の「高度」というのは、僕にとって「上等・上品」という意味合いとはちょっと違うんですよ。アートには下世話な存在も包括したものであるべきだと考えていますから。
少し前にかなり批判を浴びた、村上隆さんがベルサイユで行った展示会(Murakami Versailles)みたいなのは、ひょっとしたら、かなりアーティスティックなアクションなのかもしれません。そう認識した上で、どうすべきかを考えなきゃいけない、ということです。
だけど、この話をした瞬間に、若いやつらはきっと村上隆をマネするんだよね。それはダメなんだ、マネじゃダメだ、と分からせたい。「村上隆を潰しに行け!」っていうぐらいのスキルでなければ、今言っている“アートの高み”、それから何万回もクリックされる作品にはならないんだよというところを、もうちょっと分かれ、と言いたいですね。
確かにそういう作品を自分自身も作っていきたいと思っていますし、目指してもいますけれども、これは、かなりしんどいことですね(笑)
(談)
NO.498が何故かまったく話題にあがらないので。
No.497はこれまで語られてきた事が多いので、目新しさはない。この記事の重点はNO.498の方にあるが、連談になっている様なので一応セットで紹介。
NO.498、ティーンエイジャー向け発言はRoG以降の新作向け発言でも見受けられる。
地球環境がいつまで保つか、も2010年末から散見される。
ナム・ジュン・パイク氏を挙げるのも、それに連なるメディア論、アート論もこれまでは見受けられない、この記事の目玉か。