ザ・スニーカー95年春号 富野由悠季インタビュー

――富野さんは、アニメーションの演出をなさっていて、さらに小説の分野でもご活躍中ですが、シナリオと小説というものを分けてお考えなのでしょうか。
富野 僕は演出をする行為とシナリオの事、小説の事は、ほとんどイコールだと思ってます。それぞれの媒体の得な部分と損な部分、不自由な部分と不自由ではない部分というのがあるので、それを使い分けるという意味では、シナリオと小説を書く事と、演出をする行為は違うと思っていますが、概念的には、僕の中でこの三つの仕事は一つのものだと思っています。
僕の中でシナリオも小説も同じようなものだととらえているのは、基本的に僕が演出サイド、つまり、視覚媒体を通じて物を表現するという訓練をしてきた人間だからだと思います。小説にしてもシナリオにしても、その表現のためのアイディアなりコンセプトなりを手に入れるものだという想いが強すぎるのです。そういう事が、小説もシナリオも一緒だと言わせてしまっているんですが……。
――富野さんが演出されたアニメ作品『聖戦士ダンバイン』や小説『リーンの翼』などのバイストン・ウェルを舞台にした作品や、特に今回の新刊『王の心』にも言えると思いますが、人の持つ“情”や“念”のようなものがキーになっていると感じるのですが。
富野 言ってしまえば、新しい物語空間を創ろうと思っていたわけです、初めは。でもそのうちにだんだん考えが変ってきました。
いわゆる“ロボットもの”の演出をやっている時に感じていた不足感の中に、人の“情”の部分とか生身の“情”の部分にどうしてもさわりきれないというのがありました。ロボットという物体やキャラクターとか背景の精神構造が物語の表現として邪魔をするんです。簡単に言えば、ロボットを出しておけば済んでしまうような。
そのような“ロボットもの”という枷というか、枠の中で書けなかった、自分が一番書きたかったものを書ける劇空間を、今回やっと手に入れたという感じがしています。
――富野さん自身は、そういう“情”や“念”、“気”などについて、どのようにお考えなのでしょうか。
そういう物語が多くなってきた事には、たぶん、僕自身が“念”や“気”のようなものが大事であるという事を、基本的に信じているのと、実はどこかで信じていない、という二つの考えを持っているからだと思います。僕自身信じていないから、信じたいと思って書き続けているという事ですね。でも、今回この『王の心』を書いていて、そういう事が信じられるようになってきたと思っています。
“念”や“気”というのは、ある部分宗教的な心にもつながってくる事もあるのだろうけど、それがどうも旧来言われているような宗教論ではない形で、現実世界を支配している部分や、覆っている部分があるのではないか。大仰に言ってしまえば、新しいエネルギーシステムにまで関与するレベルでの、人間の“気”や“念”の力はあるのではないかという事を、今感じて、そう信じはじめています。
――今回『王の心』では、主人公とも言えるキャラクターが、死んでしまうところからはじまりますが……。
富野 構造そのものを「語り」にしたかったのです。物語の構造自体が、“霊”や“気”であるとか、宇宙を支配している絶対的な力とかを、存在しているのだよという事を、『王の心』の構造で語らせているつもりです。
“死がはじまり”という状況は、読者それぞれのとらえ方はあると思います。これが一つの輪廻転生のありようなんだというふうにとらえて見ていくのか、たんに霊界は存在するというふうにとらえて見ていくのか。いろいろな解釈があってもいいのですが、『王の心』で示したこの世界のあり方、どうせ死ぬんだから、生きている間は好きにやればいいんじゃないかと言えてしまうほど、生きるという事は簡単な事ではないし、無責任にやっていい事ではないのではないかという事を、この物語では、一番最初に主人公を殺してしまう部分からはじめてみたわけです。
――富野さんの作品を読ませていただいていつも思うのは、キャラクターの名前がとてもユニークであるという事なのですが。
富野 名前をつけるのは大変ですよ。ファースト・ガンダムアムロという名前を見つけるまで、それこそ五十音表とのにらめっこで、二、三カ月かかりましたもの。それで今は、こういう物語にしたいという時に、その物語世界の原典を探すようにしています。
ところが今回、本当に人間というのは名前に縛られている動物なのだろうか。そうでない部分が絶対にあるはずで、第三者が名前をつけようがつけまいが、その存在というものはあるのではないかと思って、主要な人物以外の名前をつけなかったという事をやっているのですが、かなり存在として鮮明に浮き出てきたんです。これはうれしかったですね。名なしのゴンベエじゃない、存在として確固としたものであったんじゃないか。そういう存在が世界を支えているんだという感じが出せたんじゃないかという手応えを感じています。
――富野さんが生み出した様々な作品を見て、少なからず影響を受けたという人はたくさんいると思いますが……。
富野 僕は昔からいろいろなアニメ作品にかかわりましたが、過去の作品の責任をとているヒマがない。次のものを見つけたいと必死なのです。だけど、一つひとつの作品で残したものがあって、それを次世代の人が受け止めてくれているその人たちが、それをスプリングボードにするのか、全否定をするのか、どっちでもいいんです。ただそういう部分でつながっていく人の関係というのは、まさに『王の心』の中で、死んでしまった王が、今度は自分の血縁たちを見ていくという構造と、基本的に同じではないかと思っています。
だから、読んでくれたみなさん方が、この物語をどうとらえてくれてもかまいません。少なくとも僕は、たんに霊界から現世の構造を見るというほど切り取るつもりは全くないし、そういうふうに切り取ってしまうと、人の関係は正しく見る事はできないと思っています。
――『王の心』という物語の、著者としての手応えというものはいかがでしょうか。
富野 やっと自分の書きたかった劇空間を手に入れる事ができたという実感があります。そして劇中に出てくる人物に、やっぱりその実在、実態みたいなものを手に入れられた事の、アニメで得た感覚と、まるで違う意味で手に入れられた事の充実感みたいなものもあります。
こんな事を言うと怒られていまうかもしれませんが、僕は自分の事を小説家だと言ってはいけないと思っているのですが、今回は初めて小説家冥利につきる部分に触れたと思っています。「こんなレベルで」って読んだ人は思うかもしれないけれど、僕にはそう思えたし、それで気持ちよかった。
この“気持ちよさ”というのが、今回僕の書きたかった人の行為というもの。その人の行為というものを表すキーワードの一つとして今回表していきたかったものだった。それを自分が感じられた事は、目論見がうまくいったのかもしれないと自負しています。
――“気持ちよさ”ですか?
富野 今回実際に書いていった時に、僕自身が一番気をつけたのは、一つの肉体を持った、特に知恵を持った人間の“知恵”の部分と“俗”な部分。『王の心』に関して言うと、“動物的な心”と言っていいと思います。動物として持たされている一番根源的なものを、いつも知恵で隠しながら、堂々と生きていかなければいけない。
それから、今度は“知恵”の裏打ちになっている“欲”みたいなもの。そういうものを持った人間というのは、一体どういうものなのか。それを物語作家として書いてみる事を試してみたのです。
それをやっていくためには、“人の行為”そのものに対して集中していくしかない。じゃ、その“人の行為”って何だろうと考えた時に、結局そこにあるのは、“欲”と“打算”と“気持ちよさ”という、このキーワードだけじゃないのかなと思えてきたのです。
それともう一つ、“恐れ”というのがあると思います。未来に対する“恐れ”というのが人間の今日の行動をつき動かしているのではないだろうか。そういう人の姿というのを、一枚の舞台の上で描く事ができないかというのが、僕にとっての一番のテーマだったわけです。
それは少なくともロボットが出てきて埋め合わせてくれる劇空間ではないし、何でもかんでもファンタジーの中の、自分でつくった物語の倫理規定なり、メカニズムの中だけで落としていくというほど都合よくつくれるものじゃなくて、いつも死ぬという事に表される“恐れ”というものと、生きる事の“気持ちよさ”という部分が、あまり使いたくない言葉だけど“人の魂”にとってどう関わりあうのかという問題を見つけるための発端が、今回書けたんじゃないかと思います。
そういった意味で、僕自身の、つまりクリエーターとしての可能性を考えた時に、もしかしたら自分の中にあるものを全て出しきったんじゃないのかなという恐れはあります。だから、ちょっと困ってはいるけれども、物書き冥利に尽きるという意味で、とてもうれしいと感じる部分があるのです。それは、もしかしたら、僕はもう書けないかもしれない。そう思えるほどに、『王の心』を書き終えた今、恐怖感と同時に、充実感でいっぱいです。
――そうおっしゃらずにこれからもたくさんの作品を書いていただきたいと思います。では最後に、ザ・スニーカーの読者に一言お願いします。
富野 この物語はスニーカー文庫とは少し違うかもしれませんが、読む事で、今のコンピューターで言うバージョンアップとか、新しいウィンドウを開くみたいな感じかな。ひょっとしたら新しいウィンドウが開けるかもしれないと思っているし、こういう違う窓ものぞいてほしいとも思いますから、とにかくだまされたと思って、手にとってほしいと思います。
――どうもありがとうございました。楽しみにしてます。

ザ・スニーカー00年06月号 スニーカー文庫版「∀ガンダム」完結記念インタビュー たかが“ノベライズ”にかけた富野由悠季の想い

「∀」成立の背景にあったもの

∀ガンダム』のノベライズを佐藤茂さんに任せた理由ですが、それは二つあります。一つは体力的にテレビシリーズのアニメを制作しながら小説を書けない、そう言う年齢になってしまったということです。もう一つは自分自身が思ったことなんですけど、僕程度の文章力しか持たない人間が小説なんか書いちゃいけないな、ということです。これが一番大きい理由。
確かに今までいくつかの小説を書いてきましたが、書くということが僕にとっては、とても苦しかった。そしてもう一つ、自分が書いた小説が売れているのかな? という大きな疑問があったんです。それで僕ていどの人間が書いちゃいけないと決めたときに、『∀ガンダム』のノベライズを任せられる僕以上の能力を持った人を捜したわけです。
捜す基準は、才能があるかないか、それだけでした。口はばった言い方をすると、アニメのノベライズを手がける人の、最低限のガイドラインを作りたかったんです。そんなこともあって、最初スニーカー編集部から紹介された3人の作家さんをお断りしました。その後、97年の第9回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した佐藤さんの作品を読んで、失礼ながら『最低限このレベルだ』と思いました。原作になるアニメを自分なりに咀嚼して、さらにその上に、佐藤さんなりの『∀ガンダム』を表現できる作家性を発揮することができるのだという意味です。
挿絵を萩尾望都さんにお願いしたのも同じような理由です。実はアニメのキャラクターデザインを安田朗さんにお願いして判ったことなんですが、ものすごく周囲の反応が悪かったんですよ。『今風』なんて言葉で定型化されたキャラに、どうしてこだわるんでしょうか。だから僕はキャリアのある、才能のある人の絵を見せつけたかったんです。
萩尾さんの絵と佐藤さんの文章、このふたつを合わせて『アニメ発のノベライズは“このていどのもの”なんかじゃない』、そんな“匂い”も感じ取って欲しかったのです。
――もし富野さん自身が『∀ガンダム』のノベライズをしていたら、どんな作品になったと思いますか?
富野 それは明快です。アニメをそのまま文章に書き起こします。『∀ガンダム』は僕にとって、過去の作品とは全然違う位置にあるんです。『Vガンダム』までの作品って、まず“ロボットありき”で、だからテレビで1年間放映された話の中には、半分くらい物語とは関係のない部分が含まれてるものです。
でも『∀ガンダム』にはそんなものありません。それに『Vガンダム』までの僕は、各話のストーリーも一人で作っている感じでしたが、『∀ガンダム』では物語の始まりと終わり、それにヤマ場は決めたけど、各話の中身はシナリオライターにお願いしました。
だから僕がもし『∀ガンダム』のノベライズを手がけたとしても、アニメとは違うものは書けないし、アニメに含まれなかった部分もないので、TVをなぞりますね。
佐藤さんに『∀ガンダム』のノベライズをお願いした時も、始まりと終わりとヤマ場はこんな感じ、とお話しただけです。その上で佐藤さんに、僕の話したプロットの中から「コレとコレを取るよ」とチョイスして、小説版を書いてもらいました。だから小説版『∀ガンダム』は、アニメの原作ではなく独自の小説になっています。そういう物を、僕の方で求めました。

言葉だけで世界を構築する能力

富野 以前から思っていたのですが、アニメのノベライズといわれているものの多くが、ただストーリーを並べているだけに過ぎないか、別物を書いてしまう傾向があります。
活字を並べて、ある世界を構築するという作業は、本当はすごく難しく、アニメがもとにあるからといって、それをただなぞってすむものではありません。
文章を表現するという技術は、かなりレベルの高いところにあるんだということが、自分で小説を書くことで判ってきました。
ただ何となく文章が書ける、何となく小説みたいなものが書ける、と思っているレベルでは、アニメのノベライズといえども書いてはいけないものだと思うようになりました。
――文章だけを使って世界を構築するのは簡単じゃないよ、ということでしょうか。
富野 文章というのは読んだ人の認識に直に触れるものですけど、映像は感覚的に感知されるだけのものです。だから読者の認識にしっかり届くような文章なり論理なりを持っていないと、小説は書けません。
映像は視覚から物事を感動させるわけですが、これはしっかり考えて内容を認識するよりも易しいかもしれません。もっとも、視覚だけで物語の内容を判らせていくための設計図を描くことは、とんでもなく面倒な作業なんですけどね。
単純に絵を4枚並べた時、そこからどんな物語を感じ取るかは見た人の受け取り方次第です。映像で意味を伝える手法、映像言語とでもいうものは、例えばその4枚の絵を見た時に、10人中8人とか9人が、同じ物語を思い浮かべてくれる、そういう絵の並び方なんです。
文章も、限られた“言葉”という情報を並べていくという意味では同じなんですけど、言葉は認識に貼りついてくる。
例えばここに僕の写真があったとしても、それを見ただけじゃ、どこにでもいうオヤジにしか見えないでしょう。でも『富野由悠季』という名前がポツンと書いて置かれていたら、それを読んだ人は僕という個人を認識します。だから、言葉というのは、その単語に込められた意味を忘れて使ってはいけないんです。
僕はどちらもやってみて、視覚から物語の内容を伝える方が面白いと思ったから、やっぱり小説家にはなれないなぁと思いました。
文章をいじくり回していると、全部心の中で作業しなくちゃならなくなっていくんですけど、僕はそれをやったおかげで、自閉症っぽくなったというのをすごく感じます。
もともと僕にとっては、文章を書く小説を書くという行為が、あくまでも映像を作るためのトレーニングでしかなかったんです。言わば、小説がアニメの企画書になっちゃっているんですね。
最初の『機動戦士ガンダム』の小説版を朝日ソノラマさんに書かせてもらったときから、それは感じていました。はっきりと言葉にできないけれど、自分の小説には、小説としての“艶”が見えないなと思います。
ただ状況を並べるだけじゃない、文章で表現された世界がギシギシと固いものじゃない小説というのは、“艶”が求められる媒体なのだと思います。文章に“艶”、表現に“艶”。そして、そういう“艶”を出すためには、言葉の持つ意味をしっかり理解して、使いこなせる人じゃないと出せません。だから、文章に“艶”がない人はシナリオライターにはなれても、小説家にはなれません。とても厳しい言い方ですけどね。
映像で言えば、『∀ガンダム』はその点うまくいったと思います。
1話を見た時、例えばそれがキエルなら、「もしもし」ってこっちが声をかけないと、彼女は向こうに用事があって、テクテク歩いて行ってしまう、そう感じられる存在になっています。そしてそう思える世界こそが本当のフィクションワールドなんじゃないでしょうか。
そういう映像世界を生み出せたのも今までのように一人で全ての物語を作ろうとするのではなく、僕は舞台を整える仕事に徹して、シナリオライターをはじめとするスタッフの仕事を信頼し、任せたからでしょう。
――それが『∀ガンダム』で行き着いた、富野さんなりの創作方法論ということなんでしょうか。
富野 今回初めてやったことなので、まだ僕の方法論と言うには早いと思います。ただ、テレビで放映するには、悪くないものができたんじゃないでしょうか。

多くの才能が集結して初めてできた「∀」

――『∀ガンダム』で固まった方法論について、もう少し詳しく聞かせてくれませんか?
富野 『Vガンダム』の頃は、各話を面白く見せること以外、何もできなかったんです。何をするにも考えるうちに煮詰まってきて、ドツボにはまっていく感触しかなかった。
それで考えたんです。僕は作家性がない、テレビアニメの総監督しかできない人間なんだから、それ以外の余計な仕事は一切やめないとな、と。それが今回の、佐藤さんにノベライズを任すようなシフトを組むことにもつながったし、監督以外の仕事を他のスタッフに任せるスタイルにもつながった。そしてその方が、一人で威張り散らしているよりいい結果をもたらしたように思えます。
フィールドワークとかスタジオワークって言葉があるんですけど、ひとつの作品全部を個人の発想/個人の表現だけで作ることは、スタンリー・キューブリックのような天才以外にはできないんです。
そして僕は、そういう力がないって見極めたから、『∀ガンダム』ではいろんな人の力を借りました。それがメカ・デザインのシド・ミードさんだし、キャラクター・デザインの安田朗さんもそうです。そういう人たちの中に、佐藤さんも萩尾さんも入ってきています。
ちなみにロボット物アニメの仕事で、今いったような名前の人たちを取り込むことができた作品ってまったくないでしょう? アニメ界のそうそうたるメンバーが集結した作品は一杯ありますけどね。
――アニメとは違う分野の人を集めたのには、理由があるんですか?
富野 作品を作る、一つのフィクションワールドを作る、もっと平たく言って“物”を作るというのは、本来、違うジャンルの人たちを集結しないと大きく広がらないんです。いわば異種格闘技戦です。
映画の世界を例に取ると判りやすいですけれど、例えば映画を一本撮影するには、美術監督とか衣装デザイナーとか、メイクアップアーティストや役者さんが必要ですよね。でも彼らは必ずしも映画が専門じゃない。いろんな仕事をして、いろんな経験をつんでるから、発想も広がるし技術も向上するんです。
――ひとつのジャンルに固執しているようじゃダメってことですか。
富野 『機動戦士ガンダム』というものが、まさにロボットアニメというジャンルにおいてそうでしょう。
20年間も、断続的だったとはいえ続いてきたんですから、それはそれでスゴイ部分はあるんですが、「でもそれはしょせん、ロボット物アニメのひとつでしかないんだよ」というところに落としておかなくちゃいけなかったんです。商売になるというだけで『ガンダム』というマーケットを維持しつづけた結果、ある世代に『ガンダム』という価値観を押し付けてしまった。そこには本来「ロボットアニメのひとつ」という程度の価値しかなかったのにね。そんな空気を、『ガンダム』の中から改善しなくちゃいけないっていうのも『∀ガンダム』を作る時に思ったことでした。だから最初から『ガンダム』らしい『∀ガンダム』を作るつもりはなかったんです。とにかく、物語を作ることに集中したかったので、俗にいうメカ展開への気配りにまで手が回らなかったのです。
商売という意味からいえば、ものすごいハイリスクなことをしたという自覚はあります。ありますけど、やっぱりやってよかったなということだけは言えます。
ただスポンサーあっての仕事だからそれこそ「作品創りとは何なのか」というポリシーを持っている人でもない限り、この次にロボット物アニメの仕事を貰えるかどうかは判らないので怖いですよ。
来年の暮らしをどうしようかって思うこともあるけれど、でもやっぱり『∀ガンダム』を作ったことを後悔してないです。むしろ『Vガンダム』の時みたいに、スポンサーの都合だけが優先するという現象を見て、気持ちが悪かったことに比べたらずっとイイ。当時はそういうスポンサー優先の制作体制に殺されてしまうと、本気で思ってました。
それに僕は『∀ガンダム』を機に、この手のアニメの作り方も変って行くと思ってます。これまでの、アニメファンが好きそうなものを並べるだけの作り方っていうのは、そろそろ止める時代が来たんだと気付いて。もうちょっと気持ちのいい、物語が物語として実感できる作品、同業者だけで固まって作るんじゃない作品を作っていこう、というふうになっていくと思っています。<3月某日サンライズにて>

富野由悠季全著作リスト 富野コメント

機動戦士ガンダム

それまで、テレビアニメ発のロボット物小説というものがなかったので、そういった物もあり得るんだということを示したかったんです。自分的にはその目的を達した1巻だけが僕の小説で、2巻/3巻はあまり確固たる評価を持ってません。

機動戦士Ζガンダム

機動戦士ガンダム』の小説版でテレビアニメ発のロボット物小説がビジネスになると認められたので、今度は編集側に僕の思っている通りの構成と分量をやらせてもらいました。それがこの作品です。

機動戦士Vガンダム

テレビアニメの方が、完全にモチャの宣伝になってしまったので、その意趣返しを小説版でやったようなものですね。せつない抵抗と言われればそれまでですが、個人的には『V』の小説版、かなり好きなんですよ。

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア(ベルチルとハイスト)

逆襲のシャア』は角川書店版と徳間書店版のふたつがあるんですけど、実はよく憶えていないんですよ。仕事上のつきあいが広がって、どちらも断れなくなってしまった。仕事が分散してしまったものだから『逆襲のシャア』という作品に対しては、固まった印象が残ってないんで、困ってます。

機動戦士ガンダムF91

これは完全なビジネスでした。新しいガンダムをやるんならこうでしょう? という商業戦略上に生まれた作品です。この時期は小説を、商売と割り切って書いてました。

ガイア・ギア

これはもう、僕ってヘタだなプロじゃないなー、という自分を発見した、振り返りたくもない作品です。『閃光のハサウェイ』で小説の作法を少しは憶えたかな? と思ってたんですけど、おごりのなれの果てですね。

伝説巨神イデオン

イデオンに関しては鮮明に憶えてます。3巻で完結させるスタイルを確立させたこととか、ロボット物小説をビジネスとして離陸させた作品だったんじゃないかとか、自分なりの自惚れはあります。それに「ガンダムより実写になるね」と評価してくれた人がいたのが嬉しかったですね。

ファウ・ファウ物語

小説は、自分の中で余暇に書くものだと覚悟して書いた作品です。けれど頑張ってもファンタジー作家になれない自分に気付いてしまった作品です。だからファンの方には申し訳ないことをしたな、という懺悔の気持ちがものすごくあります。

機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ

人の話を書きたい、と思った時に、ガンダムのレギュラーキャラの中で、ブライトとハサウェイが残っていたから、ちょうどいいと思って書いたんですよ。実はこの作品ではじめて、小説の書き方、作法を勉強したという思いがあります。

オーラバトラー戦記

これは全部を一度書きなおしてみたい、と思うくらい、執着してます。ちょうど僕が、商売として小説家になれるかな? と思っていた時期とリンクしているので。もう一度だけ、あの時の匂いを思い出せるんじゃないかと想像してるので、死ぬまでにまとめてみたいです。物語としては破綻してるんですけど、でも全体をリファインすることで『オーラバトラー戦記』を再生させようと考えていることは確かです。

リーンの翼 バイストン・ウェル物語より

これは『オーラバトラー戦記』を作るベースになりました。また『イデオン』の次に書いた作品で、全然違う物語の切り口を見つけようと思って書いたものでもあります。ちょっと恥ずかしいところがあるんで見返したくはありませんが、僕にとって、とても大切な作品です。

ガーゼィの翼

この時期、僕は病気を患ってまして、これはリハビリのための仕事でした。現実の世界をたぐりよせるための命綱。だから作品として鬱屈とした物になってしまったんですが、書かせていただいたことに感謝しています。

王の心

これも『ガーゼィの翼』と同じです。病気を患っているのに、病気じゃないんじゃないか? と錯覚して書いてしまった。これを読むと、もしかしたらうつの最たるものがコレじゃないのかって匂いがするはずです。こういうものに手を出しちゃいけないって思えて悔しいですよ。若い人には読むことを薦められないですが、本能的に好きですね。

アベニールをさがして

これはジュブナイル系の作品を目指そうとしてました。そういうのも書けるんじゃないかと。でもこれもやっぱり病気の時期に書いてたから、どこか病んでいる。ただ、精神が不調な時にはとんでもないアイディアを産むことがあるんです。実は『アベニール』で考えたい他アイディアの一部は、『∀』を膨らませる要素にもなってるんです。

シーマ・シーマ

時期的には『逆襲のシャア』の後。今までとは違う切り口で書いてみたいというのもあったんですが、うまくできませんでした。やっぱり『逆襲のシャア』でその時期溜め込んでた物全てを出し切った後でしたから。

破嵐万丈

この作品を書いて、ひとつだけ判ったことがあります。個人で手がけるんじゃなくて、チームでやるべきものを、自分が作家になれるかもしれないってことで抱え込んでしまうと、肝心の作品そのものがつまらなくなる。これは、そんな理由で損をした作品でしたね。

だから僕は…

この作品に関してはノーコメントです。全部がプライベートなものですから。今この作品の2作目に相当する『∀の癒し』を書いているところです。

密会

ファースト・ガンダムのダイジェスト版なのですが、ニュータイプ的な感覚の表現を恋愛感情そのものに置いて、普通にわかるものにしました。ヒロインの前身を追加しながら物語を圧縮できて、好きなものになりました。

ザ・スニーカー01年04月号 スニーカー文庫「オーラバトラー戦記」刊行記念 富野由悠季スペシャルインタビュー

オーラバトラー戦記」の直しの作業をやりながら改めて自覚したんだけど、僕はいざ書きはじめるまで、頭の中に何もないんです。ストーリーも、構成さえもない。それは、全50話のテレビ番組を作るという、言葉にすると簡単そうだけれどとんでもない物量の仕事をこなしてきた中で身につけた癖で、スケジュールが常にタイトな仕事って、考えながらなんてとてもやれないんですよね。書いた瞬間から考えるという作業を始め、その文章を行きつもどりつしながら考えて、また書いていく。そうして物語を創るんです。
書き上がった作品のことを、まったく覚えていないのは、だからです。今回、まるで他人の作品のように「ええっ!? ここでこいつが死んでしまって、この後一体、何を書いてあるんだ!?」としょっちゅう考えながら、書き直しています。
10年以上の時が経ってくれて読み直していると、当時の自分のうぬぼれようが見えて気が滅入るのよ。ここ数年、自分の立ち居様とか仕事のしかたとか、仕事と人間の関係というものに、かなり気をつけていたということもあります。原稿を読む前には、そういう観点での手直しはするべきだろうけども、全体的な直しはしなくてすむと思っていたのね。ところが手をつけてみたらとんでもなかった。
作品というのは作家の個性が顕かになっていていいものだろうと思ってきたけど、それは違う、僕程度の人間が個性を出しちゃいけないんだってことがわかったんですよ。みなさんはこれを聞いて「えっ?」と思うだろうけど。
つまり、今言われている「個性」って「作家の感じる・作れる範囲」のものでしかないんです。以前の僕は、すべてを自分の裁量でやろうとしすぎた。でも今は、むしろ僕のようなスタジオワークの人間は、そうではないやり方のほうが、より良いものが創れるんじゃないかと思うようになりました。成長したんですね。
そういう意味で、ノベルズ版はあまりにも稚拙な部分が多すぎる。瞬間芸的な時代的な思いこみや、時代の感性による書き方だったかもしれないと、自分自身を客観視できるようになった。その上で手直しをしていくと、やはり自分の能力の範囲でしかやれないんですが、だけどこの狭さはうぬぼれていたときの狭さとは、きっと違うだろうと信じています。
そういうことを思い知らされて、自己嫌悪に陥りながら仕事していると、勉強になると同時に、それを承知した上で書き直せるということが――「書き直し」というより、ほとんど「新作書き下ろし」という気分なんだけど――ベース・ストーリーを、かなりおもしろがっています。
その上で言ってしまうと、少なくとも「オーラ」に関しては、一番始めの思いつき、「発意」の部分では、あまり間違わなかったかもしれない、もしかしたら凄い作品かもしれないと思えます。
僕が知ってる例で言えば、ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」って何度も改訂しているでしょ。何度も手を入れながら、ずっと物語と格闘してるんだろうなと想像できる。キイスって決して文章は巧くなくて、ただ発意の部分がすごいからこそ、ああやって書き継いでいるのよね。逆にいうとそれができるくらいのパワーで愛せる作品でないのなら作品は作っちゃいけないんじゃないかとすら思えます。
だから僕も、格闘していかなければ……。
バイストン・ウェルという世界を思いついたきっかけ――そんなものはありません。「聖戦士ダンバイン」はロボットものをやりすぎて、すっかり嫌になって何か違うことがやりたかったの。それで舞台をファンタジー世界にしようと思いついた、それだけ。でもどこかで現実と繋がっていてほしかったのね。
そこでヒントになったのは井戸です。
バイストン・ウェル」は「近くの石の井戸」という意味なんです。釣瓶――と言っても若い人はわからないだろうな。井戸の中にたらした桶を上げて水を汲むイメージから、「物語を汲む」。
「井戸の中に何かがいるかもしれない」という考えは、特別にオリジナリティのあるものではなくて「王さまの耳はロバの耳」という民話では、悪口を叫ぶのは本当は穴ではなくて井戸なのよ。井戸というのは基本的に人にそういうイメージを喚起させるんだろうなと思います。
そのとたん、バイストン・ウェルという異世界の階層論が全部できちゃった。井戸だから涌き出すものがいっぱいある。そういうサムシング・ワールドがあっていいだろうと。「ピーターパン」に出てくる島は「ネバーランド」っていう名前、「ない島」という意味なんです。
つまり「ファンタジー」というのは、すべてが「人間の想念」としてあるものである。でも、現実にはわれわれの五感では感知できないものというのがファンタジーではないのかと思った瞬間、恐獣が出てくるような地底世界があっていいんじゃないかって考えました。あとは好きにやっていいんだと思って本当に好きにしちゃった。問題はそこで「好きにしすぎた」ということ。タガをはめなかったというのが、作劇上、いけなかったのです。
1巻でショット・ウェポンに言わせているけど、ダンテの「神曲」や、仏教の世界観とかの階層的異世界をもっと勉強しておくべきだった、少なくとも頭の中においておくべきだった、という反省があります。宗教的な恣意をもって、そういう世界を構築した人たちがいるということや、自分の中に規範を持ち得ようとしたことを承知するべきだったのです。
「ファンタジーを創る」ということから少し離れるけれど、バイストン・ウェルという、現実世界でいうと中世のような世界での生活のさまや戦いざまを描く時たとえば現実の中世の人々の食べていたものや、封建時代の感性を知っていたいとも思います。
こんな風に、「オーラバトラー」をやるうちに、勉強しておきたいことがどんどん出てきて、正直言って困っています。
「オーラ」の主人公ジョクは、「ダンバイン」のショウ・ザマで描ききれなかった日本人的な感性を出そうとして立てたキャラクターです。
彼に託している想いと言えば――。
僕は基本的に働き者じゃないし、仕事の手も遅いんですよね。だから本当は、そんな僕が理想を言っちゃいけないらしいと気をつけました。
だけど、ただひとつ言えるのは、人間って自分のできることしかできないじゃないですか。そのできることを半歩でもひとかかえでも増やしたいと思ってるんでしょうね、どこかで。
もっと言っちゃうと、簡単なことで、お金持ちになりたいんですよ。それから有名になりたいんですよ。きっと。幸い僕は、こういうキャリアを持てたおかげで、多少はそれを味わえている。だからこそもっともっとと思っている欲深さがあるんです。
本当に才能がある人ならば、労せずにそういうものを手に入れられるかもしれないけど、ぼく程度の人間が手に入れようとするなら、もっと勉強して働かなくちゃ、だめなのよ。
そんなふうに、ぼくの究極の目的はものすごく下世話なんですよね。仕事を極めようとかいう衝動がどこにもないの。本当にそれだけが目的なの。
もっとわかりやすく言うとね。好きなおねえちゃんが、40代 30代 20代のそれぞれ2〜3人くらいずつ側にいてほしいっていうのが僕のハーレム論なんだけどそれを達成するためにどうしたらいいんだろうかと考えたら、器量と能力というものを広げるしかないとわかったんです。
そのときに、大事なことがあるんです。つまり、うかつな愛人関係や不倫関係ならばともかく、そういう女性が6人いたら大変なわけ。そうじゃなくて、好きになれる女性が、「ずっと側にいてくれてもいいや」って思えるような人間関係を成立させたい。そのための度量やルックスや能力というものが、見合う自分でなければ女一人ついてこないし、ましてや男なんかもっと寄りつかない。そういう人が寄りついてくるような自分を手に入れない限り、達成できないんです。
お金だって、一時金を手に入れるんじゃなくて、死ぬまでお金持ちでいたい。これも、度量とか仕事のありようと関係しています。有名になることでも、一瞬テレビに映るだけではなくて、「あいつはいいやつだよね」「いい仕事をしているよね」っていう評価がほしいんですよ。
そう思ったはずなんだけど、これくらい明確に言葉にできるようになったのはごく最近のことなんですね。これを今の気持ちで30代に言えていたら、今ごろ本当にハーレムを作れていたんじゃないかな。それが作れなかったっていうのがつまんなくて、悔しいんです。
この年になって、生かされている間にできることがあるだろうと思うんです。それをひとつでも広く、大きくやってみたい。そう思いながら、表現をする場所に立ち返って、漠然とした言い方だけどそういう息吹みたいなものを吐き出せてその息吹に触発されただれかが立ち上がってきてくれるかもしれないと期待してそういう作品を自分の人生の中でひとつでも手に入れたいと思っています。

ザ・スニーカー01年10月号 オーラバトラー戦記完結記念 富野由悠季インタビュー

異世界」をつくる!

僕には「剣と魔法の世界」というファンタジーが書けないんです。だから、魔法を使わないファンタジーを作ろうとして「巨大ロボットもの」という手法を使ったわけで、結果的に、今までに見知ってきた中世の民話や寓話、1990年代に作られた多くのファンタジーとは違うものが作れたんじゃないかと思っています。口はばったい言い方をすれば、現代のファンタジーみたいなものが作れたかなと。作りきったとも、描ききったとも思えませんが。
世界というものの根本には、大きな原理原則がある。それを作るのは手間がかかる仕事です。その世界を作っている文化が、何に根ざしているかをわかっていないと作れないし、作ってはいけない。
オーラバトラーの前に、バイストン・ウェルを舞台としたテレビアニメ「聖戦士ダンバイン」を作ったときから気づいていたことですが、人間の暮らしは、気候風土から出発しています。気候風土が人の性質を作り、文化を決めるのです。
だから、まずバイストン・ウェルの気候風土、日の明け暮れの推移、雨が降ったりやんだりするタイミング、四季があるか、一年の中での四季の配分などを考えてみました。考えてはみたけれど、実を言うと、ディテールを書くところがどうしても物語に偏重して、本当の意味で気候風土から生まれた文化を映し出せたかということについては、いい加減になっていますね。

何を信じ、なぜ戦うか

オーラバトラー戦記を書いている間、ずっと伏せていた話があるんです。それは、宗教のこと。バイストン・ウェルを作る上で、もう一つ強く意識していたことなんです。
人間が生きる場所には、必ず宗教というものがある。それがなければ、人間はいくつもの世代をわたっていくことなど、恐ろしくてできないからです。人間は生きていくために、宗教を作らざるをえなかった動物なのです。
だから、バイストン・ウェルをつくるときに、宗教が必要だと思ったけれども、現実のわれわれの宗教のどれにも似たものにしたくはなかった。それで考えていくと、人間の宗教心の根本にあるものは感謝と畏れなんですね。それを、どの宗教にも偏らずに、描ける共通したものがあった。それは、アニミズム。すべての物の中に神を見て。感謝するという考え方ですね。具体的には、フェラリオやコモン人たちに「天と地の精霊に」というような言い方をさせています。
これからの時代はもっと、ありのままの人の生理に密着した文化にならなくてはいけないのではないか、少なくともIT革命だの技術偏重の文化論だのは嘘だということがはっきりするのではないかという気がするんです。
だから若い人たちに、宗教と気候風土というものにすがらざるを得ない人間の心性、心の状態が、暮らしにどういうふうに投影されるかということを考えて欲しい。考えるべき方向性を、みんなで作っていって欲しいと思っています。
今、僕の死ぬまでの課題として考えているのは、日本人のいう宗教というものを解体しながらも新しい何かを示した作品が書ければいいなということ……それはもう大変なことだけれど。

「もう戦争のない時代」に「バトル」で商売する、ということ

最後の9、10、11巻については貫徹したテーマがあります。その回答は11巻の序章に明快に書いたんだけど、「もう戦争のない時代になった」ということ。僕よりふたまわり以上若いあなたたちが、これから先の時代を生きて、仕事をしていく間に、考えなくちゃいけないテーマではないかというつもりで書きました。
「もう戦争という概念は通用しない」と言っても、それは「国家間の」という意味で、違うかたちでの戦争は残るでしょう。それは、現実には、テロもしくはオウム真理教に代表されるようなカルト的なものだろうと思うけれど、両方とも狂気に隣接したものでしかないので、物語としては面白みはありません。
かつてあった戦争というものは、狂気ではなく、あくまでも政治学や外交術の延長上にあるもので、極めて冷静で、場合によっては善意に満ちたものだったりもしたし、なにより「大儀」という言葉が成立するものだった。
エンタテインメントの送り手としては、そんな戦争のなくなった時代に、どのような作品を送り出していけばいいのかと、おおいに悩んでいるんです。
戦争はない、だからといって個的なバトルものに終始していていいのか。個的なバトルの本質的な意味は、狂気でしかない。そんなキレたやつの話を見て、読んで、一般人はうれしいかといえば、そうではないでしょう。映画だからアニメだから小説だからバイオレンスものだから、いいのだ――と思えるかということです。はっきり予言できるのは、20年後のマーケットはそれでよしとは言ってくれないということです。
では穏やかな作品がいいのかというと、それもよくはない。動物というものは不幸なことに、決定的に闘争本能を持たされている。これだけは遺伝子組み替えでもされないかぎり、人間の中から消えないはずです。人間が闘争というものから抜け出すには、あと2、3000年かかるでしょう。だから、エンタテインメントの中に闘争本能を充足させるシーンは、絶対に必要なんです。
ただ、その場合のバトルシーンのありかたが変わるはずだと思っています。国家レベルでなく、狂気でもない戦争の形態というものを、人間は生み出すだけの知恵を持っていると思うんです。そんなエンタテインメントを、いずれ生み出せる気がする。それはきわめてたちが悪いことなんだけど、人間が生まれながらに持たされている闘争本能というものに目をつぶるわけにはいかないのだから、そういう戦争論というのはあるかもしれないということです。これが、次のエンタテインメント、次の1000年というものを考えていったときの、重要なキイワードじゃないのかなって……。僕は今、とんでもないことを言ってるかもしれない(笑)!
それで、できたら僕は、死ぬまでにそういうエンタテインメントを作りたい。だけど僕にはそんな才能ないもんなあ。くやしいなあと思います。

恥とリファイン、そして……

新書で出した「オーラバトラー戦記」を、10年ぶりに読み返して、結果的に全面改稿をしたわけだけれど、基本として作ってあった構造は変えずにすんだという意味では、まあ悪くない作品だったのかもしれないと思えます。でも……とにかく新書版は出来が悪くて、思い上がってもいて、ものすごく恥をかいたということがわかって、それはすごく切ないことでしたね。
今回、少しはリカバリをできる機会をいただけて、本当によかったと思うし、「オーラバトラー戦記という小説は、これだけおもしろいから読んでよ」という意味だけじゃなく、今話したようなことを本当に考えさせられることができて、これからやらなくてはならないことも、かなりはっきりと見えてきたと思っています。
でもそれが、僕には過重が高すぎて、これはやりきれねえよっていうレベルでね……本当につらいのよ。正直、僕は今、才能がほしい、本当に、才能が欲しい。
(2001年7月31日 都内にて収録)

ザ・スニーカー03年06月号 富野由悠季に聞く! 小説ガンダム全解説

「一般小説」を目指し書かれた小説『機動戦士ガンダム

当時のぼくはTVアニメが市民権を得るってことをすごく意識してやってたんだよね。いまでは信じられないことかもしれないけれど、当時はそんな時代だったから、市民権を得たいと思ってノベルスを書いたんだよね。でも『ガンダム』ってアニメで少しずつ“市民権を得る”ってことの芽のようなものが出始めていて、そうした状況のなかでぼくより先に作家の高千穂遙が『クラッシャージョウ』というSF作品を朝日ソノラマという出版社あkら出していて、それで編集者を紹介してもらって「『ガンダム』を小説にしたい」って話をさせてもらった。そのときの編集者が石井進という朝日ソノラマ文庫を育てあげていった方なんだけど、彼の反応が「……ロボットモノなんですよね」っていう、つまり嫌々な気分が濃厚なものだったのをよく覚えています。ぼくはTVアニメ、ましてロボットアニメという子供向けの作品が少しだけ市民権の芽のようなものを手に入れられつつあると思ってたから、石井さんのネガティブな気分は正直ショックだった。その石井さんが原稿を見終わったあと「この程度のものになるんだ」って言われて、それは嬉しい反面、やっぱりショックだった。ぼくは純文学が書けない人間だってのもわかってたし、芥川賞にも直木賞にもならないのもわかっていた。だからといってジュブナイルノベルスを渡した気はさらさらなくってジュブナイルでもSFでもない“一般小説”を書こうと思っていたし、ここに自分の存在を作るしかないと思っていたのに、石井さんの評価は厳しかったんだよね。でも、結果的にその1巻が幸か不幸か売れちゃったもんで、今度は続きを書かされるはめになった。『ガンダム』のノベルスは1冊目で終わっているのに(笑)。「嬉しいんだけど冗談じゃないよな」って思って2、3巻を書いたんだよね。「これが仕事ってものなのよね」なんて思いながら(笑)。物書きとして売れることの喜びと辛さを経験させてもらったのがこのい冊目の記憶です。

「お仕事」とプライドの狭間で――『機動戦士Ζガンダム

ガンダム』の小説を書いたことで、その後も『イデオン』を朝日ソノラマからやらせてもらって、小説家、物書きとしての自分の「程度」がわかってきた。それは小説が書けないっていう自分の才能を自覚することだったし、小説を書くための基礎学力が欠けているっていう事実に直面することでもあった。それは本当に過酷だったから、もう小説は書けないと思っていた。なのにTVで『Ζ〜』を始めるときに小説を、しかもTVの監督と同時に書かなきゃいけなかったってのは、これはもう本当にアニメ制作会社の営業的な理由でしかないんだよね。それでも書いて下さいって言ってくれる人がいるんだし、忙しかろうがやるのがお仕事よねって思ってやった。だから本当に苦痛だった。だって小説家になりたかった由悠季ちゃんとしては、アニメ監督という立場で『ガンダム』って作品を手がける立場がないと小説を書かせてもらえないんだな、っていう事実を一冊一冊突きつけられている感じがあるわけですよ。辛いのよ、これが。だからこの間も「『Ζ〜』のノベルスって何冊書いたんだろう? 確か自分で書いたんだよな」なんて思ったくらい覚えてない。それでも5冊も書いた理由? そんなの、言い方は悪いけど流して書いたからに決まってるじゃない。でも“そうしてでも書くんだよ”ってプライドがあったのも事実だよね。

下り坂で差し伸べられた2つの手。『〜逆襲のシャア

TVで『Ζ〜』を始めるときに、なぜかわからないけど『ガンダム』がこれから先も続いていくのがわかってしまった。それは個人の力ではなくて体制としてね。それにすごく嫌悪感を覚えた。でも嫌っていてもしょうがないんだから、それに乗っかってやろうじゃないのよ、って思った小説家としても実力がないことはわかっているから、ビジネスライクにやっていかなきゃいけない。それが当時のぼくの覚悟でした。でも『Ζ〜』の5部作がさほど売れなかったのはビジネスライクだったぶん挫折感は大きかったですね。だから『Ζ〜』以後、インターバルが空いてるんです。もう書くのがイヤになってたから。『逆襲のシャア』の映画をスタートさせる段階で、ぼくは当時自分が下り坂にいる自覚があった。そうしたときに徳間書店角川書店の2社からノベルスのお話を頂いて、書ける書けないではなくて、仕事としてきちんと書いてやるしかないと思いました。下り坂にいるんだからもうひとふんばりしなきゃいけないということだよね。その言葉が『ハイストリーマー』と『〜逆襲のシャア』っていう2種類の小説になったんです。『ハイストリーマー』で自分がやったことってのは、当時の気分を書いただけにすぎないと思っていて、だからとっちらかってるし、僕の考える『小説』にはなってはないんだよね。これもまた敗北感は大きかった。本当の意味でのマスターベーションだと思った記憶があります。

小説に近いところにたどり着けた『閃光のハサウェイ

『〜ハサウェイ』の経緯は覚えてないし、とくになにもなかったと思います。映像とのタイアップみたいなものもなにもなかった。ただひとつだけ、これは10年経ったいまだからこそいえるのは、少しだけ物書きの要素が自分のなかにあるなら、っていう思いの道楽で書いたということです。道楽っていうのはすごくイヤな言い方なんだけど、ビジネスライクではなかったということね。それが結果的にノベルスとしてはそれなりのものになったってあたりで、まだ捨てたもんじゃないなあ、と思うことができた作品です。ストーリーに関しては衝撃的だなんて言われるけど、あれくらいのものがなければちゃんとした小説にはならないでしょ? そういう意味では小説に近いところにまでたどり着けた気がします。ブライトの息子を主人公にして、ああいう結末を迎えるってところに当時の自分の心境、信条論はないし、とにかく少しでもちゃんとした小説を書く、ってことしか意識してなかったですね。確かに道楽だったかもしれないけど、ビジネスライクでやってたらああいう作品にはならなかったし、結果として、売れ行きもそこそこ良かったはずで、救われましたよね。だから自分ではきっと好きな作品なんだろうね。むしろ売上ランク上位のなかに『逆襲のシャア』が入ってくるほうがイヤなんだよね、すごく(笑)。

次世代に向け、用意された新たなるガンダム――『F91

やっぱり『〜ハサウェイ』を書けたことは自分のなかですごく大きかったんですね。『〜ハサウェイ』で息継ぎができた気分になって、なにかができるんじゃないかと思えるようになった。それでこれから死ぬまで『ガンダム』を作り続けなきゃいけないのならば、新しいシリーズ(F91シリーズ)」を立ち上げられないかなと思い始めたんでしょう。それで劇場で『ガンダムF91』をやってみたんだけど、いまいったような発想自体が間違いだった。それはちょうどその頃、サンライズっていう会社が町の制作プロダクションから大会社へと転換しようとしていた時期にも重なっていて、うまくいかなかった。この理由はその後の『Vガンダム』でよくわかるんだけど。本当は『F91』を第1作目として、その次に『クロスボーン・ガンダム』という作品をTVでやろうとしていたんです。でもサンライズの中でやる必要がないという判断が下って、それですべて終わってしまった。そういう意味でこの小説はビジネスだし、それ以外のなにものでもありません。そういう理由で書かれています。

外へ向けて吐き出された個人への怒り――『Vガンダム

Vガンダム』を始めるときに、ぼくはバンダイに呼び出されたのね。それこそ『Ζ〜』のときもでさえも呼び出されたことはなかったのに。そこで言われたのが「今回は玩具との連携をもっと濃密にした作品にしたいからこちらの方針に合わせてくれ」ってものだった。そのたった1回の担当重役との話し合いですべてが決まったし、ぼくも体力的にも精神的にも弱ってる時期だったから、TVに関してはいうことをなんでも聞いてやろうと思った。そのかわり、いままでなんとか小説らしきものを書いてこれた由悠季ちゃんとしては、バンダイに口出させないノベルスってものを書こうと決めた。ぼくは具体的な他^ゲット――『打倒○○!』みたいなものがないと外向的になれないっていう性癖があって、『V〜』のときはそれが当時のバンダイの重役だった。『あの野郎には絶対この内容をやる意味がわかるわけないよね』って思いをぶつけたんです。彼への気持ちだけで書いた5冊。これでガンダムは終わりなんだと思ったし、ぼく個人としても生活者としても絶望的なところに行っちゃうだろうなって自覚はありました。それくらいの勢いだった。ただ、いまだからこそ思うのは、そんなことしたらそりゃあ(精神的に)キレるよね(笑)。そして実際『V〜』のあと、ぼくは切れちゃった。ぼくは才能論がすごくイヤで、固有の才能があったら物が書けるってのは大間違いだと思います。バカでも頑張りようでこの程度のものは書けるんだよってことにみんな気づいて欲しいんです。ぼく程度の才能、器量しかない人間でも、システムワークと個人プレイの兼ね合いをちゃんと自覚してやっていければ、これくらいのことは書けるんだよ。それは自分で好きなものを作ってるよりよっぽど面白ぇぞってことに気づいて欲しいんですよね。

ガンダムからの乳離れを目指した『ガイア・ギア』

ガイア・ギア』ねぇ……。あれはヘンだよ(笑)。全然覚えてないもの。(いまもっとも再販が待たれている本である件に関して)待たれてないよ(笑)! だってやっぱりさ、『ハイ・ストリーマー』と『ガイア・ギア』はちょっと狂ってるよね(笑)。でも本当に覚えてないんだよなぁ……。たしか『ニュータイプ』って雑誌の形をもう少し綺麗にしていきたいんだよねぇって思って始めた気はする。担当は良悦(佐藤。NT初代編集長)さんだっけ? そうか、良悦は『ガイア・ギア』を立ち上げてすぐに角川辞めたんだ。それで角川は大丈夫なのか? って心配した記憶がある。自分の中で、サンライズから離れて、角川映画に接近したいっていうスケベ根性がすごく重かった時期であるのも確か。ただなんにでようまくいかなかったわけだからね……。え、文庫5冊分もあるの! あらやだ(笑)。嘘でしょう? なに書いてるの? なんだろうね、それ。もういま言ったことくらいしか思い出せません。ガンダムって作品の権利から離れたい、サンライズ離れしたいっていう意識で書いてるのは『ガイア・ギア』ってタイトルからもわかるし、同時に『ガイア』っていう当時使われていた言葉のアナログ的なニュアンスをロボットに取り入れていきたいって思ったのも事実。でもそれも頭で考えている部分でしかなくて、作品ってのはそうやって頭や理念だけでは決して作れないから、『ガイア・ギア』はすごく敗北感が強かった記憶はかすかにあります。結局、ガンダム的な世界を使っている作品だから、ガンダム離れ、サンライズ離れができなかったし、乳離れができないっていう感触しか手に入れられなかったんですよ。

いま書かれた本当の「1st」ノベルス――『密会』

『密会』は最初、角川のミニ文庫って体裁で出てるんですよね。その話をもらったときに映像の、1stガンダムの原形になるノベルスはないんだから、だったらダイジェスト版みたいなかたちでまとめておこうと思ったわけです。小説のガンダムは映像のノベルスではないからね。当初に井上伸一郎(NT2代目編集長)からの御ファーだった『ララァとシャアの外伝的なエピソード』ってことには、ひっかかるものがぼくのなかにはあんまりなかった。それよりもダイジェスト版として、10年後に読んだ人が、これが映像の1stガンダムの原作だろうって錯覚をおこすように書いたつもりです。たかがアニメ、たかがロボットものの原作ってのはあれくらいのボリュームであるべきだって思いもあったし、むしろミニ文庫のサイズを聞いたときにこれならやれるなと思った。これは勝手な言いぐさだけど、ぼくはミニ文庫をすごく見下しているのよ。見下しているのに宝石箱みたいに思っていた。バカにしてもらっちゃ困るのよねって。ダイジェストって言い方をしていながらも『これ1本できっちり読ませるぞ!』って意識はすごくあったから『密会』はすごく楽しい作業だったですね。

村上天皇(すっとぼけ)?
クロボンの件は、当時発言の「F92」との相違がやはり気になる。