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charisの美学日誌

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OUDS シェイクスピア『十二夜』
今日のうた(87)
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今日のうた(86)
てがみ座『海越えの花たち』
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   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2018-08-05 OUDS シェイクスピア『十二夜』

charis2018-08-05

[演劇] OUDS公演 シェイクスピア『十二夜』  さいたま芸術劇場小ホール   8月5日


(写真右はポスター、下はオリヴィア役のChloé Delanney、もう一枚はセバスチャンを口説くオリヴィア)

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オックスフォード大学の学生が上演する『十二夜』を観ました(さいたま芸術劇場小ホール)。演出も俳優もすべて学部学生なので、とても瑞々しい舞台でした。60年代ファッションにしたのがよく、オリヴィアは、タイトなミニのワンピース(紺やピンク、赤など幾つも取り換える)に、白いブーツ姿の、ちょっとイケてる、それはそれは可愛い女の子 。マライアもオリヴィアの「悪友」といったミニスカート姿のキャピキャピ娘で、オリヴィアとマライアはまるで賑やかな女子高校生のよう。一番素晴らしかったのは道化のフェステで、何と女の子の姿形のままのフェステ。声がもの凄くきれいで、フェステは歌を歌うから起用されたのでしょうが、こんな美しいブランク・ヴァースは聞いたことがありません。科白なのに、まるで音楽を聞いているようです。Susannah Townsendという人で、まだ学部の2年生(写真↓)。マルヴォーリオも良かった。謹厳直実にスーツ姿をピシッと決めていたのに、例の、黄色いストッキングとクロス・ガーターでオリヴィアの前に現われるシーンは、ペニス袋を付けた下着姿です。もう見るだけで恥ずかしい。オリヴィアとマライアだけでなく、女性観客も一斉にキャーっと叫んで目をそむけました。でも、全体にヴァイオラ役が生彩を欠いて、存在感が薄かったのが残念。

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2018-07-31 今日のうた(87)

charis2018-07-31

[今日のうた] 7月10日〜31日

(写真は、飴山實1926〜2000、朝日俳壇選者をつとめ、化学者でもあり山口大学教授)


・ 金魚屋のとどまるところ濡れにけり

 (飴山實『少長集』1971、こういう金魚屋は今もいるだろうか、大きめのリアカーに水槽をたくさん載せて、水面を揺らしながら金魚を運び、そして売る、どうしても水が垂れてしまうから、「とどまるところは濡れる」のだ) 7.1


・ 来る水の行(ゆく)水あらふ涼(すずみ)かな

 (服部嵐雪、夏の京都の賀茂川の橋の上から詠んだ句、「賀茂川は浅い、水の動きがよく見える、前を流れていく水を後ろからくる水がまるで「洗ふ」ように次々に追っていく、涼しげだなぁ」) 7.2


・ ともだちの流れてこないプールかな

 (宮本佳世乃『きざし』2010所載、作者は小さな子どもたちを連れて、遊園地の大きなループ型の流れるプールへ行くことが多いのだろう、しかし今日は、普通のプールに連れて行った、「あれっ、ともだちが流れてこない」と子どもたちが言う) 7.3


・ 人はみな馴れぬ齢(よわい)を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天

 (永田紅『日輪』2000、東直子のコメントによれば、人は誰でも自分の現在の年齢は初体験のもので(それ以前はもっと若かったから)、その「慣れない年齢」を生きている、この前半と後半のユリカモメの取り合せがいい) 7.4


・ 透けるほど空が明るい今朝 下を見降ろすためにカーテン開ける

 (馬場めぐみ2011、作者は高層マンションに住んでいるのだろうか、低い所に住んでいる人よりも、おそらく毎朝が明るいだろう、まずはカーテンをあけて街と人を見たい) 7.5


・ 通過電車の窓のはやさに人格のながれ溶けあうながき窓みゆ

 (内山晶太『窓、その他』2012、駅のホームを快速電車が通過するのは、視覚的にも面白い、ある程度混んでいても電車の向こう側の風景は見えるが、車内の一人一人は識別できない、たしかに「人格が流れ融け合う長い窓」である) 7.6


・ 恋すてふてふてふ飛んだままつがひ生者も死者も燃ゆる七月

 (吉田隼人『忘却のための試論』2015、蝶やトンボは交尾しながら飛ぶこともあるらしい、作者は火葬場のそばで見たのだろうか、交尾も火葬も生命あるものにとって厳粛な瞬間) 7.7


・ 海開その海にゐる人々よ

 (佐藤文香『海藻標本』2008、海水浴場が「海開き」をする日は、ハイシーズンより少し前なので、たいがい寂しい、実際に泳ぐ人がほとんどいないこともある、だからその時「その海にゐる人々」はいとおしい、最近は海水浴人口も減っているという) 7.8


・ 行水の湯の沸きすぎてしまひけり

 (久保田万太郎、昔は、子供はよく大きなタライで行水をした、水だけだと冷たすぎるので、ぬるいお湯を使ったりもするが、「沸きすぎちゃう」こともある、でも現代のシャワーだって「うわっ、熱っ」となることもある) 7.9


・ 母とあれば訛り出やすし夕涼み

 (大串章、ひさしぶりに故郷に帰ったのだろう、夕涼みしながら母と話が尽きない、母といると気持ちがリラックスして、ふだんはなるべく出さないようにしている「訛り」が自然に出てきてしまう) 7.10


・ 大ほたるゆらりゆらりと通りけり

 (一茶『おらが春』、かなり大きな蛍なのだろう、どこを通っていくのか、「ゆらりゆらりと」ゆくのがいい) 7.11


・ すゞしさや朝草門ン(もん)に荷(にな)ひ込む

 (野沢凡兆『猿蓑』、夏の早朝、刈り取られたばかりの青々とした草が、門の中へ運び込まれる、草は露に濡れてゐるだろう、涼しげな光景だ) 7.12


・ おもしろきこともなき世をおもしろく住みなすものは心なりけり

 (高杉晋作1339〜67の辞世の歌、死を前にした高杉晋作が詠んだ上の句に、看病していた野村望東尼が下の句を付けたと言われている、上の句だけでも辞世の句になるが、全体としても味のある歌) 7.13


・ 例えば 羊のようかもしれぬ草の上に押さえてみれば君の力も

 (平井弘『顔をあげる』1961、作者1936〜は早くから口語調の歌を作った人、この歌も、よく分からないが何だか面白い、「君」を草の上に押さえつければ、羊のようにおとなしくなるだろう、の意か、「君」とは誰だろう) 7.15


・ 朝つゆによごれて涼し瓜の泥

 (芭蕉1694、「やっ、畑に真桑瓜があるぞ、わずかに付いた土が黒々としている、朝露にしっとり濡れて涼しそうだな」、早朝、畑に出て「朝つゆ」のついた瓜を見ているのか) 7.16


・ 夢よりも貰ふ吉事や初茄子(なすび)

 (蕪村、弟子の高井几董から初物の茄子を送られ、御礼の句、「茄子の夢を見ると良いことがあると言いますが、このように本物の茄子をいただく方が、ずっと嬉しいですね」) 7.17


・ これはもう裸といへる水着かな

 (大野朱香、水着がどんどん小さくなっていった頃か、ちょっと戸惑っている作者は1955年生まれの俳人、今はもう「裸に近い水着」に驚く人はいない) 7.18


・ ずっと片手でしていたことをこれからは両手ですることにした夏のはじまる日

 (フラワーしげる『ビットとデシベル』2015、作者1955〜は作家、翻訳家でもある、老いの自覚ではないだろう、ぞんざいにしていたことをきちんとした姿勢でやるということか、何についてなのか謎なのがいい)  7.19


・ おーと言うそのまわりではあーと言う生徒そこから離れて教師

 (浦島ナポレオン銀行・男・32歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「何が起きたのかはぜんぜんわからない。でも、その場の雰囲気はとてもよく伝わってきます」と穂村弘評、授業参観なのだろうか) 7.20


・ 会議室ここが無人島だったなら誰と繁殖しようか迷う

 (奥村知世・女・29歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「会議中の妄想ですね。どの人も気が進まないけど強いて云えば・・・的な。「繁殖」という言葉の選び方がいい」と穂村弘評)  7.21


・ 森動く睡蓮の池動かざる

 (森玲子、「大きな池の向こうにある森の木々が、風で激しく揺れている、でも池の水面にぴったり張り付いた睡蓮の花は、微動だにしない」、睡蓮の花の「動かない」美しさが際立つ、構図の大きな叙景の句) 7.22


・ 弓道部ルピナス畑とほりゆく

 (鈴木太郎、ルピナスは多数の紫色の花がびっしりと、1メートル近い柱のようになって咲く、その脇を、長い弓を持った弓道部の生徒たちが通り過ぎてゆく、垂直的な軸が地上をスライドしてゆく美しい光景) 7.23


・ 紫蘇の葉や裏ふく風の朝夕べ

 (飯田蛇笏、シソの葉は柔らかいので、風が吹くと翻ったり裏返ったりする感じになります、朝夕の「裏ふく風」という表現が卓越) 7.24


・ よられつる野もせの草のかげろひて涼しく曇る夕立の空

 (西行『新古今』、「炎天によじれて細くなっていた野原の草が、急に陽が陰って暗くなった、なんか涼しくなって、夕立が降りそうな雲行きだ」、当時は一般に気温はどうだったのか、現代の高温化した夏ではなかなかこうはいかないかも) 7.25


・ おのづから涼しくもあるか夏衣日も夕暮れの雨のなごりに

 (藤原清輔『新古今』、「なんだか自然に涼しくなったよ、夕立が降ったあとの余韻があるなぁ、夏衣の紐を結び直そうか」、「日も夕」に「紐結う」が掛けられている、が、これも現代の高温化した夏ではなかなかなさそう) 7.26


・ いづちとか夜は螢の登るらむ行く方(かた)しらぬ草の枕に

 (壬生忠見『新古今』、「夜、あの蛍は、いったいどこへ行こうとして、高く飛んでゆくのだろう、あてのない旅をしながら、夜、草を枕に臥している私みたいなのだろうか」) 7.27


・ 競泳の水底といふ四角かな

 (佐藤文香『海藻標本』2008、泳いでいた選手たちがプールサイドにあがった直後だろう、水だけがまだ揺れながらプールに残されている、人がいなくなって初めて、プールそのものに意識が向かう) 7.28


・ 大雨のあと浜木綿に次の花

 (飴山實『次の花』、ハマユウは夏の海辺などに咲く花で、本居宣長はこの名の由来について、「白く垂れる花の姿が木綿(ゆう)に似ているだろう」と述べている、大雨の後、新しく咲いたハマユウは一段と美しい) 7.29


・ 無職なり氷菓溶くるを見てゐたり

 (真鍋呉夫『花火』1941、「氷菓」とはアイスクリームのこと、失業し、無職になると、自分が何者でもなくなってしまったような気がして、元気がなくなる、ぼーっとしていることが多い、目の前のアイスクリームが溶け始めても、すぐに手を付けられない) 7.30


・ 富士山頂吾が手の甲に蝿とまる

 (山口誓子『不動』1977、富士山頂といえば夏でもかなり温度は低いだろう、そこに蠅がいたという驚き、それはそうと、富士山頂はともかく都市部において、最近は蠅そのものが減った、そのうち蠅を見るのも珍しくなるのだろうか) 7.31

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2018-07-22 コンヴィチュニー演出『魔弾の射手』

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[オペラ] コンヴィチュニー演出・ウェーバー『魔弾の射手』 東京文化会館 7.22


(写真右は、悪魔のザミエルに扮する大和悠河、下も同じだが、天使の姿をしたり、狼の仮面をつけたりしている)

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 コンヴィチュニー演出を見るのは、『皇帝ティト』『サロメ』『マクベス』『魔笛』に次いで5回目だが、今回もその斬新な演出に瞠目させられた。通常は、怖い顔をした中年男性が演じる悪魔ザミエルに、元宝塚スターの大和悠河を起用しただけでなく、登場回数を増やし、服装を替え、舞台回しの道化役も兼ねさせている。ザミエルはもともと歌はなく科白だけの役なので、彼女にはぴったりだ。さらに、ザミエルが歌わないのを補うように、もう一人ヴィオラ奏者の女性をザミエルに仕立てて、ヒロインのアガーテとその従妹エンヒェンに寄り添ってヴィオラを弾く(写真下↓、ハンブルグ版の写真だが左からザミエル、エンヒェン、アガーテ)。つまりザミエルが二人いるだけでなく、たくさんの役をしている。悪魔を大和悠河にしたのは大成功だったと思う。悪魔には、誰もがその誘惑に負けて魂を売ってしまう。それには悪魔は美しい方がいい。『ファウスト』のメフィストもかなりのイケメンだったはず。もともとザミエルは、ごく短時間、ちょっとだけ姿を現す役なので、彼女はまるでファッショモデルのように見えた。パリコレのモデルが、ぱっと現われぱっと消えるように。また、男装姿が凛々しいのもいろいろな使い方ができる。狼の面をかぶったり、「狩人の合唱」の「ラーララ、ラーララ・・・」を口づさむとき、彼女は道化風の舞台進行役になっている。一方、アガーテに寄り添ってヴィオラを弾くザミエルは、アガーテの不安を募らせる役なのだろうか。そうだとすると、アガーテの愛と結婚を終始励まし続ける従妹のエンヒェンに敗北したように、私には見えたのだが。

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 『魔弾の射手』という作品の特徴はどこにあるのだろうか。狩人や農民たちの素朴で野性的な生態をベースに、深い森の中の魔術や狼谷の恐ろしさとおどろおどろしさとの対比によって、アガーテやエンヒェンら娘たちの愛の美しさが際立つ、という点にあるのだと私は思う。そういう基本構造は、どんな演出をしてもやはり変わらないと感じた。第二幕と三幕の、アガーテとエンヒェンのアリアや二重唱は本当に美しい。満天の星空の下で歌うアガーテを「崇高」の象徴だとすれば、つねに生を愛し、自由な戯れに打ち興じるエンヒェンは「美」を象徴するのだと思う。私はエンヒェンというキャラクターが特に好きなのだが、アガーテではなく、彼女こそ本作の真のヒロインなのではないか。『フィガロ』のスザンナや、『カルメル会』のコンスタンス修道女と共通するものを感じる。エンヒェンがアガーテを励まして、「花嫁の目には、涙は似合わないわ。愛らしい友よ、さあ、くよくよするのはやめましょう」と歌うのは、本当に美しい。写真下↓は、客席にいた隠者?から花束を受け取って喜ぶエンヒェン。

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 コンヴィチュニーがプログラムノートで述べているように、『魔弾の射手』には階級や政治の問題が含意されており、終幕の、魔弾が逸れてアガーテが助かるデウス・エクス・マキナ風の解決には、コンヴィチュニーは批判的である。しかし、これらの多層的な問題をすべて一つの舞台で表現するのはなかなか難しいように思う。猟師と農民の対立というのも、なかなか我々には分からない。写真下は、農民にたちにいじめられる猟師マックス。そして、魔弾を一つ作るたびの不気味な鳴動シーン。

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H.MIYAMOTOH.MIYAMOTO 2018/07/23 14:03 生のオペラ公演は、あまり御縁が無いですが、これは本当に観て良かった うっとりしたり驚いたり、見せ場が多い公演でした。アガーテ エンヒェンの声、姿の美しさはもとより、おっしゃる通り、大和悠河さんザミエルになら、魂抜かれて当然と納得!舞台全体を的とするならば 色々な角度から矢を射るような 気の抜けないドキドキ感がある舞台でした。やはり舞台で観るには 美しいもの、カッコ良いいものが見たいのです、いくつになっても。

charischaris 2018/07/23 15:18 H.MIYAMOTOさん、コメントありがとうございます。ええ、おっしゃる通り、本当に良かったですね。悪魔って、もともと、天使が堕落したものだから、美しくてもいいですよね。彼女が色々に姿を変えて、原作よりずっと多く現われたのは、そとつど美しさが異なり、ドキドキしました。そして、何よりも、アガーテ/エンヒェンの存在そのものが美しいのが素晴らしかったです。

∴ん窯の五郎∴ん窯の五郎 2018/07/23 20:54 コンヴィチュニー!懐かしい名前だなと思ったら、息子さんの方でした お父さんのフランツ・コンヴィチュニーのベートーヴェン交響曲全集、よく聴きました

charischaris 2018/07/23 21:19 ええ、そうなんです。息子のコンヴィチュニーです。さすがに彼はピアノも上手で、オペラの演出をするときも、ある旋律を自分でピアノを弾いて、その音楽のもつ意味をいろいろと歌手に説明するそうです。

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2018-06-30 今日のうた(86)

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[今日のうた] 6月1日〜30日


(写真[の左]は石川不二子1933〜、歌誌「心の花」選者、東京農工大学農学部在学中の1954年[当時農工大に女子学生はほとんどいなかった]、『農業実習』にて第1回短歌研究賞に二席入選)


・ 道のべの低きにほひや茨(いばら)の花

 (黒柳召波、ここで言う「茨」は野茨(ノイバラ)のこと、野生種のバラも含み、群がって白い花が咲く、作者1727〜72は蕪村の弟子で、蕪村にも野茨はたくさん詠まれている) 6.1


・ 野いばらの匂ひてあまき風の中わがかわきたる声ひびきゆく

 (石川不二子、「野いばら」は俳句だけでなく短歌でも詠まれている、作者1933〜は東京農工大学農学部を卒業、開拓農場に生きた人、畑へ向かう途中だろうか、「わがかわきたる声ひびきゆく」がとてもいい) 6.2


・ 青梅に眉あつめたる美人哉(かな)

 (蕪村1768、面白い句だ、美人が青梅を一口かじって、いかにもという感じで眉をひそめたのだろう、中国の故事「ひそみにならう」[=美女が眉をひそめたので、醜女がそれを真似た]も踏まえている、そろそろ青梅の季節) 6.3


・ 燕(つばくろ)のゆるく飛び居る何の意ぞ

 (高浜虚子1932、ふつう、ツバメが飛ぶスピードは速い、「ゆるく飛び居る」ことはめったにない、「何の意ぞ」とつい思ってしまう、微妙な俳諧の味) 6.4


・ 紫陽花や白よりいでし浅みどり

 (渡辺水巴、アジサイの花は初めから紺色なわけではない、まず「白く、そこから浅みどりになって」、それから紺になる、作者1882〜1946は虚子門下、大正初期の「ホトトギス」を支えた一人) 6.5


・ あぢさゐの毬がはずみて蝶はずみ

 (上野章子、雨が上がり、紫陽花の花が風に揺れて、付いていた水滴が落下する、こころもち垂れていた花が「まりがはずむように」持ちあがって、止まろうとしていた蝶も舞い上がった) 6.6


・ たちあふひ外海たかき朝となりぬ

 (田中裕明、立葵の花は丈が高い、その立葵よりもさらに高く、向こうに水平線が見えている、早朝の光景だろう、「外海」を背景にした立葵の美しさ、作者の視点はやや高い位置にあることが分かる) 6.7


・ 午前二時ごろにてもありつらむ何か清々(すがすが)しき夢を見てゐし

 (斎藤茂吉1925、その年、ヨーロッパ留学から帰国した茂吉は、院長をしていた青山脳病院が全焼、「かういふ苦しい濁ったやうな生活をしてゐるが、ゆうべ午前二時ごろに見た夢は、はればれたとした夢だった」と自註) 6.8


・ うつしみは漂ふごとく眠らんかよもすがらなるさみだれの音

 (佐藤佐太郎1950、梅雨の時期、夜中じゅう雨音が聞こえている気がする、眠りが浅いのだ、眠っているはずなのに「自分の体が漂っている」ように感じてしまう) 6.9


・ 凪ぎわたる湖(うみ)のもなかをゆくときに船とどまるとおもふときあり

 (上田三四二『湧井』1975、「竹生島(ちくぶじま)」と題する歌群の一つ、琵琶湖に浮かぶ小さな島、鬱蒼とした針葉樹に覆われている、船はまだ島には着かないのか、湖の真ん中あたりで船が止まっているように感じる) 6.10


・ 鈴蘭の花山塊を川離れ

 (飯田龍太、高原に咲くスズランの白い花は、小さな鈴のような形をしていて、とても可憐、そのスズランの向こうに、「山塊を川が離れる」雄大な景が広がる、作者は高所にいるのだろう) 6.11


・ オリーブが咲き口遊(くちずさ)む歌少し

 (濱田のぶ子、オリーブは、モクセイに似た黄白色の小さな花を付ける、厚みのある深緑の葉と調和して、地味だけれど美しい、ヨーロッパではオリーブは平和と希望のシンボルである、この句も「口ずさむ歌すこし」がいい) 6.12


・ 美しやさくらんぼうも夜の雨も

 (波多野爽波、サクランボの実が熟すのは梅雨の頃、雨が降っている夜、サクランボの実はかすかにしか見えない、でもそのつやつやした色と姿が、闇の中に浮かんでいるかのようだ) 6.13


・ やわらかく監禁されて降る雨に窓辺にもたれた一人、教室

 (立花開(はるき)、2011年度角川短歌賞受賞作品の一つ、作者1993〜は高校生、彼女の歌は「必死でひりひりする痛さを感じる」と選考委員に評価された) 6.14


・ 浴槽は海に繋がっていません だけどいちばん夜明けに近い

 (馬場めぐみ、風呂場に窓があるのだろうか、その窓がかすかにほの白んでいる、浴槽は窓を介して「空に」繋がっているのだ、作者1987〜は、2011年に「見つけだしたい」で短歌研究新人賞) 6.15


・ はつ夏に袖を断たれて青年の腕は真つ赤に照らされてゐる

 (小佐野彈、作者1983〜は、2017年に「無垢な日本で」が短歌研究新人賞を受賞、慶応大学大学院で学びながら台湾で起業、長袖から短い袖に替わった「はつ夏」、太陽光か夜のネオンか、照らされている腕が「真っ赤」だ、ユニークな「衣替え」の句) 6.16


・ 愛されずして油虫ひかり翔(た)つ

 (橋本多佳子『紅絲』1951、「油虫(ゴキブリ)は、鈴虫やかぶと虫などと違って、人に愛されない、眼の前にいた油虫は、敵意を感じたのか、キラリと光って、飛び翔った」、「愛されず」と「光り、翔つ」の取り合わせが卓抜) 6.17


・ 美しき距離白鷺が蝶に見ゆ

 (山口誓子『青銅』1967、遠くで白鷺が飛び立ったのが蝶のように見えた、句跨りだが、冒頭の「美しき距離」がいい、形容詞「美しい」が「距離」を形容する) 6.18


・ 父の仕事の音くるあたり昼寝の子

 (中村草田男『美田』1967、父が仕事をしている場所から少し離れたところで幼子が昼寝をしている、「父の仕事の音くるあたり」がいい、父はどんな仕事をしているのか、それによって「音が届く場所」は違う、「父」は作者自身1901〜83ではなさそう) 6.19


・ ゆくりなく途切れし眠り明易し

 (深谷雄大「俳句界」1998、「思いがけなく目が覚めてしまったよ、もっと寝たかったのに、そういえば明け方がもうこんなに明るいとは」、明日は夏至) 6.20


・ 庵の夜もみじかく成りぬすこしづつ

 (服部嵐雪1654〜1707、「すこしづつ」がいい、だんだん夜が短くなり、明けるのが早くなるのが気になって、あたかも毎晩体験しているような気がするのだろう、そして、今日は夏至) 6.21


・ 瞬間に超特急の全長がいたく寂しく捉へられたり

 (島田修二『青夏』1969、著者は、高速で走る新幹線の車両全体を初めて見たのだろう、「全長がいたく寂しく」感じられた、人のぬくもりが感じられる従来の「汽車」とはたしかに違う) 6.22


・ 國歌など決(け)して歌ふな『國の死』を見しこともなきこの青二才

 (塚本邦雄『詩魂玲瓏』1998、作者1020〜2005は敗戦を経験した、安倍首相も稲田前防衛相も、戦争を知らない世代は、戦争を怖がらず、戦争を気軽に選択するだろう、今日6月23日は60年安保の日) 6.23


・ こんなにもだれか咬みたい衝動を抑えて紫陽花の似合うわたしだ

 (陣埼草子『春戦争』2013、紫陽花の大きな丸い花に囲まれている作者1977〜、そこには自分とのおだやかな調和があるように感じられる、だから「誰かを咬みたい衝動」を抑えられる、前半と後半の対照がいい) 6.24


・ 人間(じんかん)に溺るる日日に水は立つただパスカルの定理にそひて

 (小池光『廃駅』1982、著者は高校の物理の教師、パスカルの原理の実験をしているのだろう、底部が繋がる太さの違う2本のガラス管の中で、水が、定理通りに美しく均衡、人間界のごたごたと違って自然法則は美しい) 6.25


・ わたしかなしかったらしい冷蔵庫の棚に眼鏡を冷やしおくとは

 (佐藤弓生「眼鏡屋は夕ぐれのため」2001、作者1964〜は同年、角川短歌賞を受賞、メガネを冷蔵庫の中にうっかり忘れたのか、それともわざと置いたのか、不思議な歌、「わたしかなしかったらしい」がとてもいい) 6.26

・ 鳥の目はまどかなれどもものいはずくいくいくいと見て見ぬふりをする

 (今野寿美『鳥彦』1995、鳥と目が合ったのだろう、鳥は丸い目で「くいくいくいと」作者を見詰めて、そして「見て見ぬふりをする」、そんなことがあるのか、いったい何の鳥なのだろう) 6.27


・ せきかねて涙のかかる唐衣のちの形見に脱ぎぞかへぬる

 (平重衡、「悲しみを抑えられずに涙で濡れてしまった唐衣ですが、貴女への形見としてここで脱ぎましょう」、平重衡(1157〜85)が処刑の前に妻に宛てた歌、源氏に敗れた平氏の貴公子の一人、女性にモテモテのアイドルだった) 6.28


・ いづくとも知らぬ逢せの藻塩草書きおく後をかたみとも見よ

 (平維盛、「貴女といつか再び会えるかどうか、分らなくなってしまいました、この手紙を、海を海藻のように漂っている私の形見と思って下さい」、維盛(1159〜84)が屋島から妻に送ったもの、維盛は美貌の貴公子で、舞いの名手、光源氏に喩えられたが戦は弱かった) 6.29


・ なにかその君が下紐結ぶらん心しとけばそれも解けなん

 (源頼政、「どうして貴女は下着の紐を結ぼうとするのですか、貴女が私に心を開いてくれさえすれば、それは自然に解けるものですよ」、頼政1108〜80は源氏の武将であるが、こんな色っぽい歌も詠んだ) 6.30

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2018-06-26 てがみ座『海越えの花たち』

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[演劇] 長田育恵作、てがみ座『海越えの花たち』 6月26日 新宿・紀伊國屋ホール


(写真右はポスター、下は舞台から、韓国の慶州駅でもの売りをして生きている日本人妻たち、左から二人目が主人公の風見千賀(石村みか))

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てがみ座はこれが初見だが、本当に奇蹟のような作品だ。どういうわけか、この二年くらいに見た演劇のうち、もっとも心を動かされたのは、鄭義信『焼肉ドラゴン』、ムワワド『岸 リテラル』、井上ひさし『父と暮せば』、そして本作と、戦争によって傷ついた人々を描いたものだ。なぜだろうと、その理由を考えてみたが、それは、これらの作品は、私たちが「生きることを励ます」からだと思う。そのような系統の作品としては、『アンティゴネ―』『リア王』『カルメル会修道女の対話』などがある。戦争、革命、あるいは植民地支配は、人が殺し/殺されるだけでなく、人々が引き裂かれ、戦わさせられ、互いに憎しみ合う。幸いにして戦争に生き残った者にも、激しい憎悪と復讐の感情が残る。本作でも、何らかの理由で朝鮮人男性の妻となり、戦後も帰国できずに朝鮮に残った日本人妻は、激しい憎悪と復讐感情の対象になる。そして、自分たちを見捨てた日本という国を、自分を捨てた日本人家族を、日本に逃げ帰った日本人同胞を、彼女たちも激しく憎む。朝鮮人男性たちも、日本を恨み、そして朝鮮戦争の背後にいるソ連とアメリカを激しく憎む。しかし、彼らは、自分たちの戦後を、憎悪と復讐に生きることをしない。なぜそんなことが可能なのか。それは彼らに愛があるからである。その愛は、夫婦愛、恋人の愛、友人としての愛、キリスト教の愛など、広義の人間愛である。しかし、それは抽象的な愛ではなく、生身で生きている一人一人の生に即した愛である。その愛は一人一人違う。それを具体的に描くことができるのが演劇なのだ。演劇というのは何と素晴らしいものなのだろう。写真下は↓、左から、朝鮮人の下男の姜景達(カンギョンダル)、千賀の夫の李志英(イジョン)、千賀、そして日本人の家族に捨てられたユキ、姜景達は劇の準主人公ともいうべき重要な人物。

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本作は登場人物の一人一人の造形が素晴らしい。裕福な医者の娘でありながら、朝鮮人留学生と結婚した千賀もとてもいいが、それ以上に、朝鮮人の下男の姜景達という人物を作り出したことが大きい。彼は、下男として李家につかえる、むさくるしく、汚らしい中年男だが、戦後、彼はニセ牧師となってニセ教会であるナザレ園を開き、残された日本人妻たちを救う。演じた半海一晃も素晴らしい。彼は決してイケメン俳優ではないが(写真下↓)、姜景達という人間存在そのものが美しいのだ。このような人物を作り出せるのが演劇の素晴らしさだ。つい最近見た『父と暮せば』でも、死んだ父の亡霊は、やはりむさくるしい中年男であった。でも、彼も存在そのものが美しかった。人を愛する時、どんな人間も美しい。人間は、肉体の外見ではなく、人を愛するときにもっとも美しいのだと思う。父の亡霊は、図書館司書の娘に、「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが」と言って励ます。一人一人の人間が、どういう状況に置かれ、そこで何を感じ、何を語り、どう行動するか、演劇も文学も、それを表現する。しかし、これこそが我々人間の真の「現実性」ではないだろうか。社会学も統計学も、そこで描かれる人間は抽象的な存在である。「戦争」の真の現実性は、演劇や文学によって個人を徹底的に描くことにある。それを強く感じさせる舞台だった。もう一つ、本作の優れた点は、朝鮮戦争を描き、朝鮮人自身が、日本に対してだけではなく、二重三重に引き裂かれていることを前景化したことである。朝鮮に残され、朝鮮人として生き、死んでいった日本人妻たちの「現実性」に、これは欠かせない要素だからだ。また、終始主人公たちと関わりを持つ日本外務省官僚の寺嶋を造形したことも、全体の「現実性」を深まったものにしている。ある意味で、本作は真の歴史劇だと言える。私は、本作が68年の新宿駅の闘争場面から始まり、それで終り、しかも日韓国交回復の65年が、それと3年しか離れていないことに衝撃を受けた。68年の新宿駅闘争は、高校生だった私にとって自分のアイデンティティの形成の一部、つまり自分の歴史の一部なのだが、65年の日韓国交回復は、もちろん新聞で読んだ記憶はあるが、その「現実性」については、まったく無知だった。本作を見ると、「日韓国交回復によって従軍慰安婦への賠償は終わっている」などという日本の保守派の主張がいかに間違っているか、よく分る。歴史劇が真の「現実性」を描くことができるとは、そういうことなのだ。これからも、てがみ座はぜひ観たい。

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追伸 :1964年の東京オリンピック、青空に美しい五輪マークが描かれる。私は中学2年生でしたが、この光景は記憶に焼き付いています。しかし、このとき、韓国に残された日本人妻たちは、このニュースをラジオで聞いて衝撃をうける。彼女たちにとって、「東京の青空」の記憶はB29が爆弾を振りまいてゆく恐ろしい青空だったのです。これは1965年の日韓国交回復の1年前のことなのです。韓国は敵国扱いだから、韓国に日本大使館はなく、日本人妻たちは完全に見捨てられていたのです。それが20年も続いた。私自身が経験した1964年秋の青空を、まったく違って経験した日本人妻たち。このように描かれることこそ、この作品が真の歴史劇であることの証しなのです。


本作は、叙事詩的な広がりをもった作品で、これだけの時間軸を一つの舞台空間に収める手法にも感心しました。全体が説明的でないのも、いい。ただし、細部は終演後シナリオを読んで初めて分ったので、もうちょっと分かるようにする必要があるのでは。たとえば終幕にうづくまっている女が千賀であることは分かりましたが、シナリオには彼女は死んでいるとある。でもここは、ちょっと難解すぎて、舞台を見ただけでは分からない。逆に、千賀の夫が自殺であることは、遺体が運ばれる影絵で分りましたが、シナリオには何も書いていない。演出家が加えたのですね。シナリオ通りじゃ分らないと判断して。おそらく、今回の上演は演出(=木野花)の功績も非常にあると思いました。あと、演劇の言葉の素晴らしさにも感嘆しました。小説は文字を介して読者と繋がりますが、言語の本来的な在り方は人の口から語られることにある。だから演劇の方が、言葉が生きています。


追追伸 :美的なものは倫理的なものでありうる。これはカントが『判断力批判』において主張したかったけれど、十分に論証できなかったことです。おそらく、人間は人を愛するときにもっとも美しい、ということが、美と倫理を結びつける核なのではないか、と今回感じました。


追追追伸 :日本人として初めてナザレ園を報告した、上坂冬子『慶州ナザレ園』(1982)を買った。本作の姜景達に対応する実在の人物、ナザレ園の創設者にして理事長である金龍成は上坂にこう語っている。「戦前に“朝鮮人”といわれた韓国人の夫とともにこの国に渡ってきてくれた妻たちは、我々と同じ差別を経験した人たちです。じっとしていれば優位にあったものを、親から勘当され、世間からは白い眼でみられながらも、はるばる海を越えて被差別側にまわってきてくれた人たちです。この“愛の勝利者”をどうして私たちがないがしろにできましょう」(中公文庫p257)。6月30日

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2018-06-13 井上ひさし『父と暮せば』

charis2018-06-13

[演劇] 井上ひさし『父と暮せば』     俳優座劇場  6月13日


(写真右は、娘の美津江[伊勢佳世]と父の竹造[山崎一]、下は、雷を怖がって押し入れにこもる二人、市内で原爆の直撃を受けた二人は雷の「ピカッ」にも体が怯える)

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24年間、繰り返し再演されてきた有名な作品だが私は初見。科白の中には、一生忘れられないような言葉もあり、科白や動作の一つ一つが、一見軽く見えて実はずしりと重い。非常な名作だと思う。演劇はこのようなことを表現できるのかと、あらためて感嘆させられた。登場人物は二人だけだが、二人の語る言葉には多くの人間の声が混じっており、多声的というか、舞台の上には現実の俳優だけでなくたくさんの人間がいるのだ。23歳の美津江は図書館に勤めており、子供たちに昔話を語る練習をしているのだが、「伝承内容を勝手に変えない」ことにこだわる彼女は、「経験を語り伝えること」と格闘している(写真↓)。

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場面は昭和23年、広島。原爆の直撃を受けて、父は死に、娘の美津江は生き残ったが、親しい友人はほとんど死んでしまった。彼女に恋が始まるのだが、彼女は「自分は幸せになってはいけない」のだと、恋を抑制しようとして激しい葛藤のうちにある。すると、父の幻影が現れ、娘の恋と結婚を励ます。「父と暮せば」とあるが、父は実は幻影で、娘は一人なのだ。美津江が恋と結婚をためらうのは、自分の原爆症もあるが、本当の理由は、「自分が生き残れたのは他の人が身代わりに死んだから」。女専時代から一緒に活動している親友の手紙を、道端でうっかり落してしまい、拾おうとかがみ込んだ瞬間に原爆が爆発、ちょうどそこにあった石燈籠の陰になって彼女は助かった。その親友は即死して、翌日、美津江は彼女の無残な死体に会う。ほとんどの友人知人は死に、美津江は「自分だけ生き残ってしまった、申し訳ない」という気持ちに抑圧されて、せっかく始まった恋ができないのだ。幻影の父が、とてもコミカルに笑わせながら、自分は道化になりきって彼女の恋を励ます。それがとても可笑しいのだが、そうであればあるほど、どこか悲しい。被爆して生き残った人はほとんどが、「自分が生きているのは他者が代わりに死んだからだ」という苦しさを背負っており、「代わりに死んだ」を広義に解すれば、これは被爆者だけでなく、我々の倫理の根本に関わる普遍的な主題ではなかろうか。写真下↓はもっとも悲しい場面。燃え上がる家屋の下敷きになった父は、「早く、お前だけ逃げろ」と言うが娘はなかなか逃げられず、ジャンケンで決めようとしている場面。そして結局、娘は逃げるしかなかった。

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父親役の山崎一は素晴らしい名演だと思う。コミカルだけど悲しい、チェホフ的なキャラクター。娘役の伊勢佳世も、まじめ過ぎるところがよく表現されているが、恋もしたいという部分も、完全に抑圧してしまわずに、どこかで表現してもよかったのではないか。終幕、娘の図書館の仕事を励ます父親の科白、「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが」という言葉は、本当に素晴らしい。演劇の使命もまさにそれではないか。よく聞き取れないところもある広島方言で科白がしゃべられるのも、いい。生きた人間は、実際はそれぞれの「方言」でしゃべるはずだ。演出の鵜山仁はプログラムノートでこう言っている。「作者にしろ、役者にしろ、現場スタッフにしろ、ここに参加したひとりひとりのメンバーの名前はそう遠くない未来に忘れられてしまうでしょうが、舞台に寄りつどった「声」は、きっと人の記憶、人類の記憶として残っていくでしょう」。人々の多声的な「声」を伝えること、演劇も文学も、そのためのものなのだ。

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