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charisの美学日誌

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最新タイトル

河野裕子歌集『あなた』
劇団昴『グリークス』
今日のうた63(7月)
内田樹『困難な結婚』
平田オリザ『ニッポン・サポート・センター』
オペラ『夕鶴』
今日のうた62(6月)
わらび座『げんない』
ポーランド映画『イーダ』
METシュトラウス『エレクトラ』
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2016-08-18 河野裕子歌集『あなた』

charis2016-08-18

[読書] 河野裕子歌集『あなた』 岩波書店、8月4日刊


6年前の8月、ガンで亡くなった河野裕子の歌集、『あなた』が出たので読みました。夫や子供が選歌している、つまり、彼女の相聞の当事者たちが選んだ歌なのです。新たに書かれた家族による想い出がとてもいい。彼女が角川短歌賞を取ったとき、「自分も応募すればよかった、あの時期ならけっこういい勝負だったかもしれない」と、夫の永田和宏が書いています。いえいえ、絶対に河野裕子だったでしょう(笑)。本歌集には、忘れられない、いい歌が多いので、私も好きな歌を少し挙げてみます。


・ 逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと


・ われよりも優しき少女に逢ひ給へと狂ほしく身を闇に折りたり


・ 窓のやうな眸(ひとみ)を持つ少女だった のぞけばしんと海が展(ひら)けて


・ たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか


・ 海くらき髪なげかけてかき抱く汝(な)が胸くらき音叉のごとし


・ 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌(て)よざんざんばらりと髪とき眠る


・ 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

   (亡くなる前日の、最後の歌)   

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2016-08-01 劇団昴『グリークス』

charis2016-08-01

[演劇] ジョン・バートン編『グリークス』 (サイスタジオ大山) 2016年7月31日公演 


(右はポスター、劇団昴公演、台本翻訳は吉田美枝、演出は文学座の上村聡史1979〜)


RSCの演出家として名高いジョン・バートンが、ギリシア悲劇を10本の劇に再構成したもの。私は2000年にコクーンで蜷川演出版を見ているので、若い演出家による今回の昴版は、また違った味わいがあって面白かった。昼の12時から夜9時半まで全体を通しで一気に見たので、ギリシア悲劇をこのような形にまとめて上演することの良さと問題点について考えさせられた。


まず、バートン版は明確に「近代人の視点」からギリシア悲劇を解釈していて、それゆえ分かりやすいものになっている。たとえば、「神々の不完全さ」(託宣や命令や判断や行動の理不尽さ、非合理性)を大きく前景に押し出しており、「神々というのは人間の想像力が作り出した虚構だから、不完全なものだ」とはっきりした科白を誰かに言わせている。たぶんギリシア原作には、ここまで明確な科白は無いだろう。また、トロイ戦争の原因がヘレネだというのは口実で、本当は、良い交易路を押さえて商業的に繁栄しているトロイを叩く経済戦争なのだという視点。これは「エジプトのヘレネ」説(エウリピデス)を併せて考えると面白いが、やはり近代的な視点だろう。また、身内による報復の殺人は正当化できず、法の裁きによるべしというのは、もちろん原作でも提示されているが、そこをしっかり強調しているのは、神々の命令や託宣の不完全さの強調とともに、近代の視点だろう。


演出もよく考えられていて、アポロンやアテナがチャラい神さまになっているのがとてもいい。デウス・エクス・マキーナだから、高所に現れなければならないのに、「オレステス」終幕のアポロンは、死者の覆い布をかぶされて台車で登場し、いたずらっぽく「バア!」と起き上って、笑わせる。「タウリケのイピゲネイア」終幕のアテナは、なんと戦闘服姿で機関銃を打ちまくりながら登場。軽いノリの、若いネエチャンぽいアテナが何ともいい。この場面、蜷川版で、「厳かに」現れたアテナが「お説教」するのが、近代ヒューマニズムっぽい感じで、違和感を覚えた記憶があるので、上村版の方がずっと良い。デウス・エクス・マキーナは、もともとどこかコミカルなのだと思う。


オレステスがさえない醜男で、終始オタオタしているダメ男になっているのには驚いたが、アガメムノンやメネラオスも、もともとかなりコミカルなところのあるキャラであることにあらためて気づいた。軍服を着ているが、女にしか目がなく強くなさそうなアガメムノンや、ネクタイとスーツをパリッときこなしている商社マン風のメネラオスのずっこけぶりは、とてもうまい演出だと思う。全体として、ヘカベ、クリュタイムネストラ、エレクトラなど、女性に圧倒的な存在感があって、ギリシア悲劇というのは、「男が種で女は畑」と皆が口では言うけれど、実際は女性が真の主体であるように感じられる。ヘクトルやアキレウスのような「英雄」でさえ、女たちの物語を盛り上げる脇役なのではないだろうか。


10個のギリシア悲劇をまとめて一つの物語にするのは、多様な要素を観客が消化しきれずに残ってしまうという問題がある。「アンドロマケ」も「オレステス」も面白いのだけれど、もとのエウリピデス原作からして話が複雑すぎるので、バートン版では、筋を知らない人は目を回すだろう。ただ、バートン版では、「アウリスのイピゲネイア」で始まり「タウリケのイピゲネイア」で終わるという全体の流れが、つまり、復讐に復讐を重ねて憎しみ合うタンタロス家をはじめとする人々が、エレクトラ、オレステス、ヘルミオネなど子や孫の代になって、和解へと至る筋道がとてもよく分かる。トロイアの王子妃であるアンドロマケが、アキレウスの子のネオプトレモスの子を産むというのは、大きく言えば、トロイアとギリシア全体の和解になるというのは、今回の舞台で初めて気づかされた。アンドロマケがトロイアとギリシアを結びつける存在であるというのは、各作品を単独で読んでいたら、なかなか気づかない視点だと思う。


あと、音楽は、ビートルズやアイーダ行進曲や、その他いろいろ雑多に使われていたが、ジャンルを統一した方がよいのではないか。また、興行面での制約もあるのだろうが、ギリシア悲劇全部を一気に上演するのだから、舞台はもっと広くあるべきだと思う。横長の狭い舞台(観客席はわずか3列)で圧迫感が強く、ギリシア悲劇の本来の円形舞台とは非常に違う。こんなに小さい劇場「Pit昴」は、アングラ劇にはいいかもしれないが、ギリシア悲劇には不向きだと思う。

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2016-07-31 今日のうた63(7月)

charis2016-07-31

[今日のうた] 7月1日〜31日


(写真は飯田龍太1920~2007、飯田蛇笏の四男、父の跡を継いで俳誌『雲母』を主宰、格調の高い句を詠む)


・ 抱く吾子(あこ)も梅雨の重みといふべしや

 (飯田龍太1951、梅雨の頃だろう、生まれたばかりの女の赤ちゃんを抱いている30歳の作者、しっかりとした重みを感じる嬉しさ、梅雨も一緒に喜んでくれているんだ、「梅雨の重み」という表現が卓越) 7.1


・ ががんぼを恐るる夜あり婚約す

 (正木ゆう子『水晶体』、ガガンボは蚊を大きくしたような虫で足が長いが、吸血はしない、でもちょっと怖いのか、作者は24歳、喜びと不安が混じる婚約の日の夜、なかなか眠れない) 7.2


・ 「ルーシーに「忍者って、いるの?」と聞かれ「少なくなった」と答える私」

(九螺ささら・女・45歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、題詠は「忍者」、「もちろんいるよと答えるよりも、ずっとリアルでいいですね。ルーシーも目を輝かせたに違いない」と穂村コメント) 7.3


・ 「とてもよく似合ってますと店員がほとんど裸の人間に言う」

(鈴木晴香・女・32歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、題詠は「ブラジャー」、作者は試着室にいるのか、女性でなければ詠めない歌) 7.4


・ 「(7×7+4÷2)÷3=17」

(杉田抱僕・女・18歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「かっこなな/かけるななたす/よんわるに/かっことじわる/さんはじゅうなな」と読んでくださいと作者コメント、「短歌だときづかれない短歌なのが面白い」と穂村弘コメント) 7.5


・ 涼しさを飛騨の工(たくみ)の指図(さしず)かな

 (芭蕉1694、「設計図を拝見しただけで、いかにも涼しそうな家であるのが分かります、さすが飛騨の名工の設計ですね」、新築準備中の弟子への挨拶句、しかしこの年は芭蕉の最期の年) 7.6


・ 冷(ひや)し瓜二日たてども誰も来ぬ

 (一茶『文化句帖』、「うまそうなウリが手に入ったので、水で冷やしてあるんだ、でもこの二日間、誰も家に来ないな、さびしいな」、いつも人を恋しがった一茶らしい句) 7.7


・ でゞむしやその角文字(つのもじ)のにじり書(がき)

 (蕪村1768、「かたつむりが二本のツノをもにょもにょ動かしながら進んでいる、動いた後には、水がにじんだような跡がついたな、まるで角で描いた文字だわ」、かたつむりをユーモラスに詠んだ、本来の「ツノもじ」は牛の二本の角を「い」に見立てたもの) 7.8


・ 冷房のなかなか効かぬ男かな

 (渋川京子『レモンの種』2009、外から帰った太めの夫だろうか、ふうふう暑がって、冷房機の前からなかなか動かない、こういう男性はけっこういそう) 7.9


・ 白玉(しらたま)を巻きてぞ持てる今よりは我が玉にせむ知れる時だに

 (よみ人しらず『万葉集』第11巻、「親の目が厳しくてずっと会えなかった白玉のような君、今こうして僕は君を抱いている、もう僕のものだよ君は、たとえ僕たちしか知らない、この短い今だけであっても」 ) 7.10


・ うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき

 (小野小町『古今集』巻12、「昼間、うたた寝しているとき、夢に貴方が現れたのよ、私は夢なんてはかないから嘘だと思っていたけれど、それ以来、夢を信じ始めたわ」 ) 7.11


・ 思ひあれば袖に螢(ほたる)をつつみても言はばやものを問う人はなし

 (寂蓮法師『新古今』巻11、「君を思う僕の心は火のように燃えている、だから螢を自分の袖に包んで、その明かりで君に打ち明けたいくらいだ、それなのに君は気づかず、「あら、どうしたの」と尋ねてもくれない」) 7.12


・ おだてあって熟れていて桜桃たち

 (宗左近、「サクランボの実が熟してきた、つやつやと並んでぶらさがっている君たちは、「きれいだね君は」と、お互いにおだて合っているのかな」) 7.13


・ 枇杷(びは)を吸ふをとめまぶしき顔をする

 (橋本多佳子、少女だろうか、ビワをしゃぶるように口にしたとき、ちょっとまぶしそうな顔をした、思ったより酸っぱかったのか、ビワの薄黄色の実と少女の表情が生き生きと交わる瞬間、「まぶしき顔」が卓抜) 7.14


・ 雨雲はふたたび垂れて黄の花と喜びあえるうすみどりの壁

 (安藤美保『水の粒子』1992、作者はお茶大の学生、雨雲が再び垂れこめてきたので暗くなった、明るかったときは互いに溶け合っていた黄色の花とうす緑の壁が、くっきりと分離して互いの色が映えてきた、「喜びあえる」がとてもいい) 7.15


・ あれも愛 小さな小さな伝説となりてあなたの靴の恋文

 (吉沢あけみ『うさぎにしかなれない』1974、大学生のときの歌だろう、彼氏の靴にそっと恋文をしのばせた作者(あるいは逆かも)、でも今は彼氏との関係はどうなのだろう、愛が過去形になったから、それが「伝説」になった悲しみなのか) 7.16


・ 垂線はみずからへ引けま昼間にこの白い街過ぎてゆくとき

 (永井陽子『葦牙(あしかび)』1973、作者(1951〜2000)のもっとも初期のうた、<孤独な自我>を詠み続けた作者だが、初期のうたには痛々しいほど鋭角な自意識が詠まれた歌もある) 7.17


・ 船の点燈夕焼激しき刻に先んず

 (山口誓子『七曜』1940、海面に船が見える、その船に今、電気が灯った、水平線はまさに夕焼けが濃くなろうとしている、日没ぎりぎりの夕焼け、海面の暗さを際立たせる) 7.18


・ 夕立や朝顔の蔓よるべなき

 (高濱虚子1899、激しく夕立が降りだした、まだうまく巻き付けなかった朝顔の蔓が、頼るところもなく、雨に打たれて、のたうつように揺れている) 7.19


・ 野は濡れて朝はじまりぬ花胡瓜

 (有馬籌子、「野はまだしっとりと露に濡れている早朝、キュウリの黄色い花が咲いている、さあ、今日という日が始まるんだ」) 7.20


・ 少女みな紺の水着を絞りけり

(佐藤文香『海藻標本』2008、中学校だろうか、プールの授業が終わり、髪の濡れた少女たちが、更衣室を出てプールサイドでスクール水着を絞っている、一人ならばどうということもないが、集団だと印象的) 7.21


・ 地平線縫ひ閉ぢむため針箱に姉がかくしておきし絹針

 (寺山修司『田園に死す』1974、細い針で「地平線を縫い合わせて閉じる」という発想が凄い、地平線は、地の部分も空の部分もたえず色が変わって動いている、それを縫って固定しようとは、そういう「姉」は謎) 7.22


・ 「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びらを毟(むし)る宇宙飛行士

 (穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』2001、宇宙飛行士は暇なんだろうか、まさか、でも花占いをしているのを想像するのは楽しい、「凍る」と「燃える」の選択がいい) 7.23


・ 平行に電車が並ぶ瞬間に乗り換えてしまった私だけが

 (歌崎功恵『走れウサギ』、JRの電車が並んで同じ方向に走る所だろうか、速度が等しくなる瞬間、互いに止まって見える、ドアのガラスの所に立つ作者、「向こうから私はどう見えるかな?」と視点を「乗り換えて」しまった) 7.24


・ 橋のあなたに橋ある空の遠花火

 (仙田洋子、花火大会は河川敷で行われるから「橋」と切り離せない、「橋ある空」には遠花火もよく似合う、この句は、「橋」のリフレインがいい、群馬県でも先日、夏の先陣を切って玉村町の花火大会が行われた) 7.25


・ 出女(でおんな)や一匹なけば蝉の声

 (浜川自悦、作者は江戸前期の俳人、榎本其角と親交があった、「出女」とは、江戸時代に、旅館の客引きや世話、売春もした女、「出女」の姿を見て蝉が一匹鳴き出したら、すぐ多くの蝉が唱和したというユーモア句、セミがよく鳴く季節になった) 7.26


・ 降ってきた、とあなたは右の手をひらく左手に子の指をつつんで

 (魚村晋太郎『花柄』2007、「あなた」とは作者の妻だろう、妻は右手を開いて雨粒を受けてみせる、左手に小さな子供の手を引いて、「あなた」という呼び方がとてもいい、もの静かな、やさしい愛妻歌) 7.27


・ こわくってためらっておりもうすでにはじまっている夏の木陰で

 (干場しおり『天使がきらり』1993、「もうすでにはじまっている」がとてもいい、それは初恋だろうか、それとももっと大人の恋だろうか、恋は自由意志で始まるのではない、気づいた時はもうその渦中にいる、だから「こわい」のだろう) 7.28


・ 梅雨明けし各々の顔をもたらしぬ

 (加藤楸邨、この時、作者は東京在住、「降り続いた梅雨が明けた、一人一人の顔が何となく明るくなったような気がする」、山本健吉氏は、この「各々」は家族ではなく友人たちだろうと言う、ようやく関東地方も梅雨が明けた) 7.29


・ 腹当(はらあて)や男のやうな女の子

 (景山筍吉、昔は、小さな子供にも、夏に寝冷えを防ぐために腹巻をさせることがあった、下町の裏路地だろうか、「裸に近いかっこうで遊んでいる小さな子供たちの中に、腹巻をした活発な子がいる、あっ、男の子じゃなくて女の子なんだ」) 7.30


・ 優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる

 (俵万智『チョコレート革命』1997、甲子園球児の話ではない、20代の終り頃だろうか、作者は妻子ある男性と恋におちいる、『サラダ記念日』で詠まれていたボーイフレンドとの淡い恋とは違う本物の恋、その出会いを詠んだ彼女らしい会心の一首) 7.31

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2016-07-14 内田樹『困難な結婚』

charis2016-07-14

[読書] 内田樹 :『困難な結婚』 (7月4日刊)


久しぶりに、内田樹氏の本を読みました。面白かったのですが、結婚についての歴史的、社会学的考察がやや不足しているので、「結婚はした方がいいよ」というたんなるお説教に終わっているのが残念です。下記に簡単な感想を書きました。


 本書は、いかにも内田氏らしい「生き延びる智慧」が随所に光る好著である。人生相談の回答も誠実でいい。だが、考察がまだ足りないと感じる論点もあるので、それを書いてみたい。本書の主旨は、「結婚は私事だが、生活の安全保障だから、<公的という擬制>を必要とする」という一点にある。文化人類学的に言っても、歴史貫通的な一般論としては、確かにこれは真だろう。だが、現代の日本における固有の問題として「困難な結婚」を論じるならば、これでは足りない。つい最近出た、筒井淳也『結婚と家族のこれから』(光文社新書)は本書と同じ問題意識の本であるが、「共働き」が主流になった先進国固有の位相を分析しているので、問題の把握がより深い。たとえば内田氏は、結婚は過去においては「誰でもできるもの」であったし、「難しいものではない」と考えているが(p62)、これは歴史的事実に反する。昭和のある時期には婚姻率が異様に高かったが、これは例外であって、江戸時代など一定の収入がない男子は結婚できなかった。「21世紀は生涯未婚率20%」と聞いて驚く方がおかしいので、過去には「皆結婚社会」など一度も存在しなかった。


 現代において「困難な結婚」が感じられるとすれば、それは先進国では「ケア労働」が家族によるものに限られなくなったので、結婚は唯一のセイフティネットではなくなり、結婚の必要性も減少したことを考慮すべきであろう。筒井氏はそこを中心に考察しており、夫婦の家事分担問題は、内田氏も筒井氏もかなり紙幅を割いているので、好対照になっている。内田氏は、「僕は掃除と、アイロンがけと、野菜料理が大好き」と牧歌的に語っているが、筒井氏は、「家事の分担」は単なる個人的・技術的問題ではなく、有償/無償労働を巡る移民や階級差の利用の問題、あるいはスウェーデンのように国家による「ケア労働」の分担など、マクロな問題に由来していることを解明している。また、内田氏の主張では、「愛」は結婚にとってあまり重要な要素ではないことになるが(p167)、これはヘーゲルが強調した「近代家族」におけるロマンチック・ラブ・イデオロギーを軽視し過ぎている。筒井氏は、「親密圏」という「情緒による他者との結びつき」(つまり「愛」の私的性格)と、「公正さ」「効率性」という公的世界の価値基準との「相性の悪さ」を主軸に、両者の「ずれ方」が歴史や国によって異なることを考察する。内田氏は、「結婚は私事だが、<公的であるという擬制>を必要とする」という一般的真理で押し切っているが、重要なことは、その<公的であるという擬制>の中味がどう変わったか、にあるのではないだろうか。

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2016-07-11 平田オリザ『ニッポン・サポート・センター』

charis2016-07-11

[演劇] 平田オリザ『ニッポン・サポート・センター』 吉祥寺シアター


(写真右はポスター、スタッフが一緒に風呂に入っているのは「親密圏」のパロディーだろう、写真下は、左側の女性がセンターの所長、右側の二人は民間ボランティアのスタッフ、そして下の写真は全景、色のついた扉の奥に防音の相談室が三つある)

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非常によくできた作品で、現代日本のある局面の問題を鋭く活写しながら、軽みのある喜劇になっている。生活困窮者や虐待、DVなどで困っている人が、相談や避難に訪れる駆け込み寺型NPOのオフィス。昔はこのような組織はなかった。このような「私的な」問題で「困った」人がそこに頼り、困った人を「助ける」のは、家族、親戚、親友、あるいは寺や教会など、広義の「親密圏」や共同体であった。しかし現在では、児童相談所、生活相談所、ハローワークなど、「福祉」に関わる行政組織やNPOなどが代行している。抱えている悩みや問題が私的であるのに、扱う組織は公的あるいは半公的である。ここに生じるさまざまな(そしてむしろ滑稽な)問題が、この劇の主題である。劇中に二三回ふと漏らされる「おせっかい」という言葉も、キーワードの一つだろう。


このNPOは、幹部スタッフ二人が市役所からの出向であると同時に、近所の暇なオジサンやオバサンも(彼らは人の噂話が大好き)「民間ボランティアスタッフ」として働いている。インターン実習中の大学生も2名いる。とはいえ、彼らはやることもなく、オフィスで碁を打ったり、自分の勉強をしている。完全に公共的な要素と、大学の単位という教育的動機、「ボランティア」という私的自発性にもとづく動機などが混在する、奇妙で曖昧な組織なのである。重要なことは、ここに持ち込まれる悩みや相談は完全に私的なもので、しかもその「困ったこと」が、できれば他人に知られたくないプライヴァシー保護を必要とするものであることである。子どもを連れて家出した妻は夫のDVについては口を濁している。海外の仕事で消耗し適応障害で退職した若いエリート商社員はオドオドしている。それに加えて、NPO幹部スタッフの女性の夫が少女盗撮(!)で逮捕され、新聞にも出た。本人のせいではないのに、市議会で問題にされ人の噂になったので、NPOの「信用にも関わる」と本人はとても恐縮し、「妻としての責任」も感じれてうなだれている。人を助ける側が困った立場になってしまった。


「人に言いにくい」問題や悩みなので、各相談室の外部にあるオフィスでの会話はすべて「奥歯にものの挟まった」言い方になる。所長の女性は特にそれが極まっていて、「えっ、まぁ、それは・・・」「さぁ、どうかな・・・」「何というか・・・」等々の科白しか言わず、台風の目が真空地帯であるように、存在感が薄い。しかしこれは、扱う問題の性質上、必然性のある事態なのだ。たとえば我々の職場で、同僚のセクハラやパワハラが問題になった場合、当事者の周囲は「奥歯にものの挟まった」ような言い方になるのによく似ている。そしてこの劇でとても面白いのは、本人がいなくなった途端に、残りの人たちが本人の噂をむしろ声高に言い立て始めることで、これは我々自身の姿でもある。我々はどうして他者のプライヴァシーにこれほど興味を持つのだろうか。スタッフたちも、「誰々さんに彼氏はいるの?」とか「〇○君はふられたらしい」とか、すぐそういう話になって盛り上がっている。挫折したエリート商社員に紹介される仕事は、市役所のゆるキャラぬいぐるみを着て歩き回る仕事で、プライドの高い「本人にはとても聞かせるわけにはいかない」のだが、スタッフたちは知っていて、楽しそうに話している。


DVにしても商社員の挫折にしても、それが生じることは、決して本人だけの責任ではないのに、問題を抱え込むのは個人になる。人に言いにくいそうした問題で他者に助けを求める場合、たとえば心理療法クリニックであれば、カウンセリングを受けるのに高い料金を払う(その対価としてプライヴァシーは保護される)。それに対して、行政やNPOは「(形式上は)無償で人を助ける」組織であるので、プライヴァシー保護は曖昧になり、人工的に作られた「疑似親密圏」がこれらを扱うと、悲喜劇こもごもの事態になる。どうしたら良いのか、正解はないだろう。平田オリザは決して、NPOによるこうした「人助け」は不要で、自己責任で解決しろと言っているわけではない。この劇は、起承転結という意味での「筋」はないので、ある意味では終わりようがない。個々の相談の解決がどうなったのかは、奥の相談室で続行されているので、提示されない。手前のオフィスで、全員が歌を歌って終幕というのは違和感が残ったが、よく考えてみると、これしかないのかもしれない。

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2016-07-03 オペラ『夕鶴』

charis2016-07-03

[オペラ] 團伊玖磨「夕鶴」 新国立劇場・大ホール


(写真右は、つうを歌う澤畑恵美、下は、機織り部屋前のつうと与ひょう(小原啓楼)、そして子供たち、舞台はシンプルで美しい)

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『夕鶴』は山本安英が演じる演劇版を、中学生の頃に見た記憶があるが、オペラ版は初見。1952年の初演以来、世界各国で800回超の上演が行われたとは驚きである。メキシコやチェコでは日本人を含まない現地の歌手が日本語で歌うという。日本からの「出張公演」ではなく、現地の歌劇場のレパートリーになっているのだ。今回、この作品がそれほどに傑出したものであることが良く分かった。


何よりもテーマが普遍的で、それが美しくシンプルに物語化されており、世界中のどこでも直ちに理解される。これは普遍性のある神話であって、日本的エキゾチズムではない。見てはいけないと言われた妻の姿を見たために、異類の生命であった妻が故国へ帰ってしまったという「異類結婚譚」は、世界に幾つもある神話や昔話のはずだ。自給自足で閉じた小さな共同体に、商品経済が浸透するにつれて、信頼と愛にもとづく親密な共同体が崩壊し、貨幣を媒介とした生産効率性の高い社会に変ってゆく。それは人間と人間の関係が、信頼と愛にもとづく関係から、利潤を尺度とする冷たい経済的関係に変貌することである。これは我々の祖先が皆経験してきたことであり、だからこそその悲しみは、我々の心に突き刺さる。恋愛も結婚も家族も友人もそうだが、信頼や愛や友情など共感に満ちた情緒的な関係こそ、我々が幸福に生きるための不可欠の条件である。だが、それがもはや不可能になってしまったこと、それを真正面から提示するのが『夕鶴』である。


それにしても、与ひょうの皮袋から出てきた「貨幣」というものを初めて目にするつうの、あの驚きと悲しみは強烈だ。この「貨幣」が彼女と与ひょうを引き裂いていることを、つうは直観的に理解する。商品経済のアレゴリーである運づや惣どと、つうとの会話が突然通じなくなってしまうのも痛々しい。つうが鶴だから言葉が通じないのではなく、彼らが別種な人間になってしまったから通じないのだ。与ひょうは、最初から最後まで素朴で愚かな若者である。彼は、自分が新たに持ち始めた欲望の本性を、自分で分かっていない。おそらく、この愚かさは、我々の祖先もすべてそうだったであろう。与ひょうは、主観的にも客観的にも、どこまでも「善良な人」である。つうが、与ひょうを失いたくないので、自分が死ぬかもしれない二枚目の布を織ることを決意するシーンは、とても悲しい。愛し合っている夫婦の中に突然生じる「権力関係」。つうの歌う「愛の主題」の何と悲しく美しいことだろう。


プログラムにある長木誠司の解説は非常に優れたもので、『夕鶴』が稀有に成功した「創作オペラ」である理由がよく分かる。オペラの歌詞を詩的韻文に作る専門家である「台本作者」がプッチーニ以降にはほとんどいなくなり、歌詞が散文化すると、メロディーの付け方が難しくなってくる。少し前の山田耕筰『黒船』は、七五調の浄瑠璃形式の歌詞で処理したのだが、『夕鶴』は、与ひょう、運づ、惣ど、子どもたちは日本のどこのものでもない「方言」をしゃべらせることによって、歌詞の韻文性を処理している。そして、オペラを観ているときは気が付かなかったのだが、鶴のつうだけが標準語をしゃべっているのだ!この指摘には本当に驚いた。そして木下順二の戯曲が、ギリシア悲劇など西洋演劇の基本に忠実なこと、そしてオペラ化に際して、木下は團に科白を「一言一句も変えないこと」を条件にした。『夕鶴』の傑作は、創作上の稀有な条件が幸運な実現をみたからなのである。上演は、大伴直人指揮、栗山民也演出。


下記の3分間の録画があります。

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/150109_006155.html

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