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charisの美学日誌

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最新タイトル

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団 『カーネーション』
W.ムワワド『炎 アンサンディ』
シュニッツラー『緑のオウム亭』
MET、グノー『ロメオとジュリエット』
今日のうた70(2月)
シラー『たくらみと恋』
今日のうた69(1月)
MET、サーリアホ『遥かなる愛』
科学博物館『ラスコー展』
今日のうた68(12月)
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2017-03-16 ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団 『カーネーション』

charis2017-03-16

[舞踊] ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『カーネーション』 さいたま芸術劇場


(写真右は、自分の席から立って見た開演直前の舞台、3列目なので、表情や身体表現は細部まで見えたが、角度がやや低く、カーネーションを真横から見ることになった、写真下はポスターと舞台、台の上はスカート姿だが男性)

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私は舞踊やダンスは事実上、これが初見。演劇やオペラとは表現の様式が大きく異なるので、驚くことが多かったが、今まで感じたことがなかった身体の美しさを知ったことが大きな成果だった。科白はかなりあって、英語、日本語が交互だが、仏語やわずかにドイツ語も混じるのは、国が違う人間が出会うこと自体がテーマになっているからだろう。半分を日本語にしたのは、日本の観客を「参加者」と考えている。教師であり官僚でもあるような長身の男性が、怖い顔で「パスポートを拝見」と何度も言うのがとても印象的だ。異質な人間が互いに自分を表現し合いながらともに踊るのが、「ピナ・バウシュのタンツテアター」の新しさなのだと思う。演劇的な要素はあるのだが、一貫した物語ではなく、断片的・エピソード的なコラージュから成り立っている。子ども/両親、生徒/教師、同胞/異邦などの関係性を通じて、とりわけ集団の遊びを通じて、男と女が出会って愛を成就させるというのが、全体の主旨だろう。身体全体を使って手話をしているような印象も受けた。たとえば、椅子を使って、皆が一斉に足をあげたり下ろしたりするシーンは何度もあるのだが、そのつどコンテクストと音楽が異なり、違った感情が表現されているのだと思う。愛の優しさだけでなく、怒りや威嚇や暴力もたくさん表現されている。写真下↓。

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プログラム・ノートによれば、「バウシュの質問に出演者たちが、せりふや歌、動作やダンスで答え、それを彼女が取捨選択してコラージュする創作方法」とあり、バウシュは「人がいかに動くかにはそれほど関心がありません、関心があるのは、何が人を動かすのかです」と言っている。戯曲のようなシナリオがあるのではなく、出演者に身体表現をさせながら作品そのものを創作してゆくのだ。世代が変ったときに、どう作品を継承してゆくのかが課題になるだろう。一番面白かったのは、女はいつもスカートだが、男がスーツとスカートの二種類の衣装を頻繁に取り換えることである。愛の独特のメタファーなのだと思うが、男は女になるときがあるが、女は女のままなのだろうか。スーツ姿の男は、さすがにダンサーだけあって、すっくと立つだけで異様に美しく見えるが、スカート姿になるととてもコミカルで、見ただけで笑ってしまう(写真下↓)。足の動かし方に何か特徴があるようで、春夏秋冬を表現するラインダンスなど、その優美な美しさは素晴らしかった。

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下記に、動画が三つあります。

http://www.saf.or.jp/stages/detail/3633?utm_content=bufferc580f&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer

https://www.youtube.com/watch?v=gKy9MiOey_s

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2017-03-08 W.ムワワド『炎 アンサンディ』

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[演劇] ワジディ・ムワワド『炎 アンサンディ』 世田谷・シアタートラム


(写真右は、主人公ナワルを演じる麻実れい、ナワルはレバノン内戦からカナダに逃れた難民の女性だが、オイディプス王の王妃イオカステに重ねられており、自分の産んだ息子に強姦されて、さらに双子の姉弟を産む、この役は麻実れい以外は考えられないほどの名演、下は、双子姉弟のジャンヌとシモンを演じる栗田桃子と小柳友、そしてナワルの遺言執行者エルミルを演じる中嶋しゅう、彼も渋いが名演、「アンサンディincendies」はフランス語で、「炎」「戦火」の意)

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文学座の上村聡史演出、2014年秋に初演されたものの再演。キャストは初演時と同じ。私は初見だが、言葉にならない異様な衝撃を受けた。そして深い感動も。この作品は、そもそも演劇という表現の可能性の限界に挑戦している。内戦による殺戮の悲惨、残酷を正面から描いたもので、こんな辛く悲しいものを、3時間20分も、6800円を払って見せられるのは嫌だという観客もいるに違いない。しかも、中東の内戦と難民の悲惨さは、初演時よりも今さらにリアリティを増している。これは演劇ではなく現実に起きている悲惨なのだ。なぜそれが演劇になるのか。


「アウシュビッツ以降、詩を書くのは野蛮だ」とアドルノは述べたが、この作品はまさにそれが主題になっている。プログラムノートに、麻実れいと岡本健一(ナワルの最初の息子でオイディプスに相当する役)がそれぞれ、「劇場の外では、男の子がのんびりコンビニの袋をもって、あくびをしながら横断歩道を渡っている」東京の現実との落差、違和感を語っている。原作者のムワワド(1968〜)自身が、レバノンの内戦を逃れてフランスに逃れた難民であり、フランスをも追われてカナダ・ケベックに移住した人。この作品の主人公ナワルは、彼の「母」なのかもしれない。あまりにも悲惨な現実に直面したとき、人はそれを語ることはできず、沈黙してしまう。何も子供たちに語らずにカナダで死んでいったナワルは、最後の5年間、病床で失語状態だったが、最後に「みんな一緒にいられるのだから、幸せだ」とだけ発話して、死んでしまう。彼女が双子の姉弟に残した遺言の手紙を元に、姉弟はレバノンに旅して、自分たちの出生の秘密を探り、そして知る。憎しみと殺し合いの中で自分たちが生まれたことを知り、二人はその都度、数日間の失語状態に陥る。「言葉で表現すること自体が、野蛮」なのだ。(写真下は↓、カナダでボクサーになっている息子のシモン)

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この作品のもっとも衝撃な場面は、第二幕、ナワルが16歳の時に産んですぐ孤児院にやられた最初の息子ニハッドである。彼は、憎しみそのものを生きる復讐のスナイパー(狙撃兵)になっているのだが、彼は狙撃の天才であるだけでなく、「戦争写真家」でもある。自分が狙撃して死んだ相手を直ちに望遠レンズカメラで撮影し、それが「芸術写真」のように美しく、赤い血の色が黒白の死体の写真に付加されるのが、舞台の映像で映し出される。ピカソの抽象絵画のように美しい死体の写真。これはアウシュビッツの現場で書かれた詩だ。そして内戦を撮影しようとする日本人らしき「戦争写真家」が命乞いをするのを、彼は無慈悲に撃ち殺して写真で表現する。これは、ほぼ現実ではないだろうか。ISISが捕虜の「処刑」の映像をネットに投稿したのは、つい先日のことである。残酷と悲惨を写真で「表現する」のが戦争写真家だ。だが、それを今ここで、三軒茶屋の劇場で演じる演劇そのものも「表現」である!


私は最初、物語をオイディプス神話の形に、比喩ではなく、文字通り回収することに、やや不自然さと違和感を感じたが、よく考えみると、神話にしなければ、これは演劇として成り立たない作品なのだと思う。ナワルが16歳のときに最初に産んだ息子ニハッドが、25年後に収容所の看守になっていて、その看守が誰だか分からないまま、囚われのナワルが強姦されて二人の姉弟を産む。そして、アウシュビッツ裁判を思わせる「戦争犯罪国際法廷」で、ナワルは自分を強姦した息子と対面し証言する。これは実際にはありえない不自然な展開なのだが、一応それが分かるように、舞台の筋が工夫されている。手紙、写真、昔の現地の監獄スタッフに会う、死んだはずのナワルが繰り返し現れるなど、ほとんど不可能な物語を、舞台だけで分からせる劇作家としての手腕は凄い。そして何よりも重要なのは、ニハッドを産んだ少女のときは文盲だったナワル自身が読み書きを覚え、「表現者」になったことである。祖母の墓に文字を刻んだだけでなく、最後にカナダの自分の墓にナワルの名前を子どもたちに刻ませる。オイディプス神話もまた、自分の出生の秘密が少しずつ明るみに出るのだが、それは過去のことのなので、言葉で表現されなければ現前しない。人間は表現することによって自己を知り、それが人間を自由にする。アウシュビッツ以降、詩を書くことはたしかに野蛮なのだが、そうするしか我々は自己を知ることができない。憎しみしか存在しない人間の世界だけれど、愛が存在することを祈ること。これしか我々にはできないが、これだけは我々にできる。演劇もこうした祈りの一部ではないだろうか。(下は、プロブラム)

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2017-03-04 シュニッツラー『緑のオウム亭』

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[演劇] シュニッツラー『緑のオウム亭』 雷ストレンジャーズ公演 下北沢、小劇場B1


(写真右はポスター、写真下は、2015年ドイツの町ガイゼンハイムの高校生による上演)

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オーストリアの作家シュニッツラーが1899年に書いた作品。ドイツ語圏ではよく上演されるようだ。日本でも、近代古典劇を上演する新しい劇団「雷ストレンジャーズ」の上演で見ることができた。1789年のフランス革命のとき、パリの怪しげな地下の居酒屋を舞台にした物語。非常によくできた作品で、面白い。外の世界では、バスティーユ襲撃が行われ、貴族が殺されたり大混乱が起こっているのだが、その居酒屋の中では、革命派の市民たちとなじみ客の大貴族たちが、「虚構」の演劇に打ち興じている。客を楽しませる芝居だと思っていたのが、実は現実だったり、また、演技なのにそれを現実と「誤解した」者による反作用があったりして、皆が混乱していくうちに、楽しんで見物していた大貴族の公爵が殺されて、酒場の中でも実際に革命が「成就」してしまう。


もと劇団座長が経営する居酒屋「緑のオウム亭」には、もと座員がよく飲みに来て即興劇が行われ、それが評判になって貴族もよく来る店になった。しかし、もと座員ではなく実際に殺人を犯した浮浪者など、いかがわしい人物もいろいろやって来て、実際の犯罪を「リアルに」演じてみせるので、それがまた面白いのだ。もと座員の一番上手な役者は、前日結婚したやはり役者の妻の浮気に怒って、その情人の公爵を殺す「芝居」を真に迫った演技でしてみせる。ところがオウム亭の亭主は、客の一人からのタレこみ情報をもとに、役者の妻は本当に公爵と浮気をしているのだと役者に教えて、役者は呆然となったところに、その公爵当人が酒場へ戻ってくる。カッとした役者は、発作的にその公爵を殺す。演技ではなく本当の殺人が起こってしまったのだが、見物していた別の侯爵夫人は、「まあ、本物の公爵が本当に殺されるなんて、めったに見られないわよ」と、芝居を楽しんでいるかのように反応して、現実感がなくなっている。客の一人の警部は、外で革命が起きたことがまだ呑み込めず、「お前たちを逮捕する」などと威嚇して、革命派の客たちに嘲笑される。小さな居酒屋という閉ざされた空間で、交錯する情報に踊らされると、芝居と現実の区別がつかなくなってしまうのだ。革命期の混乱においては、自分たちが何をやっているのか分からないという、このような現実感覚の喪失が実際に起こったのだろう。


雷ストレンジャーズの上演は非常にうまい。下北沢の区役所地下にある小劇場B1は小さくて、パイプ椅子の観客席にいる我々は、まるでその居酒屋の客のような感じだった。雷ストレンジャーズは、昨年12月のイプセンを観て以来これが二度目だが、来年はストリンドベリの「父」を上演するという。ぜひ観たいものだ。

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2017-03-01 MET、グノー『ロメオとジュリエット』

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[オペラ] グノー『ロメオとジュリエット』 2月28日 MOVIXさいたま


(写真右は、ティボルトとマキューシオの決闘シーン、写真下は舞台全景)

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メトロポリタン歌劇場、2017年1月21日公演の映画版。バートレット・シャー演出。非常に美しい舞台で、オペラとしては名作だと思うが、シェイクスピア原作の演劇版『ロミオとジュリエット』とはかなり印象が違う。筋はほとんど同じだが、完全にメロドラマになっている。全篇、ひたすら朗々と愛を歌うのだ。人目を忍ぶ緊迫感や、ひりひりするような痛みがまったく感じられない。たとえば第一幕、舞踏会の一目ぼれのシーン、演劇では、「And palm to palm is holy palmer’s kiss 巡礼さんが手と手と合わせるのが神聖なキスよ」とジュリエットがうまく誘って、ロミオが瞬時にキスを奪い、そして彼女も瞬時にキスを返す。人目を忍んでキスを奪うのだから、一瞬でなければならないのに、オペラでは、「あ〜あ、私に罪が移っちゃった」とジュリエットが長々と嬉しそうに歌って、踊って、じらしながら、ゆっくりとキスを返す。パリスとの結婚式も、原作では前夜にジュリエットは薬を飲んで仮死状態になるのだが、こちらは、薬がなかなか効かず、翌日の結婚式の途中でパリスの目の前でジュリエットが倒れる。一番おかしいのは、最後の墓場のシーン。本来なら、目覚めないジュリエットに絶望したロメオは薬を飲んで、瞬時に死ぬ。ところが、こちらは、ロミオはなかなか死なないうちにジュリエットが目を覚まして二人の愛の交歓シーンが続く。ロミオは「両家を和解させられなかったのは残念だ」などと余計な反省をするし、ジュリエットは「これで私たち、一緒に死ねるのね」と二人は抱き合って死んで、終幕。(写真下は、最後の墓場のシーン、二人はなかなか死なない。ジュリエットのD.ダムラウとロミオのV.グリゴーロ)

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考えてみれば、オペラという様式では、朗々と歌わざるをえないので、必然的にメロドラマになってしまうのかもしれない。しかしシェイクスピア原作の、二人が死に向かって時間を駆け抜けるスピード感や、人目を忍ぶ純粋でひたむきな愛の緊迫感がないと、やはり『ロミジュリ』ではないような気がする。とはいえ、いろいろ美しい作りもあった。ロミオの小姓バルサザーを美少年にして、メゾソプラノの若い女性が歌うので、これはまさに『フィガロ』のケルビーノ。かなり活躍して、歌も歌う。配役は、ロミオだけでなく、ティボルトもマキューシオもすべてマッチョに揃えたので、男装女性が混じるのはとても良い。そして、冒頭のプロローグなど、合唱シーンが多いのも、全体を音楽的に盛り上げて美しいものにしている。(写真下は、バルコニーのシーン)

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下記に80秒ほどの動画があります。決闘シーンなどなかなかの迫力。

http://www.metopera.org/season/2016-17-season/romeo-et-juliette-gounod-tickets/

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2017-02-28 今日のうた70(2月)

charis2017-02-28

[今日のうた] 2月1日〜28日


(写真は石田郷子1958〜、父母ともに俳人、俳誌「椋」を主宰、やさしい感情の漂う俳句を作る人)


・ 筏師の太白息と出合ひけり

 (石田波郷『酒中花』1968、波郷は東京に住んでいた、隅田川や木場などで筏がまだ使われていた時代だろう、冬の寒い日、筏師の吐く「太く、白い息」が頼もしく感じられる、「太白息」と漢語を上手く生かせるのが俳句) 2.1


・ 二もとの梅に遅速を愛す哉

 (蕪村1774、「我が家の二本の梅の木、咲くのも散るのも微妙に速さが違う、それがまたいいんだよね」、鴻巣市の我が家の近所でも、ちらほら梅が咲き出しました、でも我が家の一本の梅はまだ固い蕾) 2.2


・ 水仙や表紙とれたる古言海

 (高濱虚子1932、「言海」は明治期に大槻文彦が編纂した日本で最初の近代国語辞典、虚子も擦り切れるほど使ったのだろう、机に活けてある水仙の花、そばには愛着のある古びた言海が) 2.3


・ 立春の駅天窓の日を降(ふ)らし

 (寺島ただし『俳句歳時記 春』角川2007、小さな駅だろうか、「駅舎の天窓から冬の日が差している、だが立春の今日は、何だかいつもより明るく感じるな」、今日は立春) 2.4


・ 霜の朝しばし雀の國にあり

 (石田郷子『木の名前』2004、「霜が降りている寒い早朝、でも、庭にはもう雀がたくさん集まっている、人が動き出す前、ここは雀の國なのね」、「雀の國」という言い方が優しい) 2.5


・ 我が背子(せこ)が浜行く風のいや早に言(こと)を早みかいや逢はずあらむ

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「貴方が浜辺を歩く時の風のように、いち早く私たちの噂だけは広まっちゃったわ、私たちまだあまり会っていないのに、これからますます会いにくくなっちゃうのかしら」) 2.6


・ あはれとも憂しともものを思ふ時などか涙のいとなかるらむ

 (よみ人しらず『古今集』巻15、「貴方が優しい時は、ああ嬉しいと思い、貴方が冷たい時は、ああ悲しいと思う、そういう私の感情の起伏を思うと、どうして止めどもなく涙が溢れるのかしら」) 2.7


・ はるかなる岩のはざまにひとりゐて人目思はで物思はばや

 (西行『新古今』巻12、「誰も来ない遠い場所にある岩の間に、一人で籠りたいです、そこで人目を気にせず、ひたすら貴女に恋い焦がれたいです」、面白い発想、会いたいというのではない) 2.8


・ 人体に空地のありて雪の降る

 (鳴戸奈菜1943〜、作者は永田耕衣に師事、「人体には空地があって、なぜか雪はそこへ降ってくる」、今朝、鴻巣市の我が家では雪がぱらついています) 2.9


・ 火のかけら皆生きてゐる榾火(ほたび)かな

 (岸本尚毅『健啖』1999、「榾火」は焚火のことだが、「榾」(=木切れ)を燃やして焚火をしているのだろう、火の粉が勢いよくぱちぱちとはじけて、「皆生きてゐる」ようだ) 2.10


・ 寒い月 ああ貌がない 貌がない

 (富澤赤黄男、作者1902〜1962は詩的な鋭い俳句を詠む人、作者にとって、月はいつも何らかの「顔」「表情」を持っていた、だが厳冬の今夜、月にはそれがないように感じる、何か危機的事態なのか、今日は満月)2.11


・ 鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ

 (林田紀音夫(はやしだきねお)、作者1924〜1998は無季俳句の詠み手として著名な人、生活が苦しく、自分の死を考えていた頃か、「鉛筆で軽く走り書きした遺書ならば、どうせ自分のことなんか皆すぐに忘れてしまうだろう」、寂しい、重い句) 2.12


・ あはれてふ言(こと)こそうたて世の中を思ひはなれぬほだしなりけれ

 (小野小町『古今集』巻18、「ほだし」=束縛、「貴方を愛しているときの素晴らしい言葉<ああ、われ!>こそが私の生きがいなの、つらい世の中だけど、これが、私を現世から離れないように繋ぎ留めてくれるのよ」) 2.13


・ 数ならで心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり

 (紫式部『千載集』巻17、「私は立場も、自分の意志も弱いので、自分の体を自分の心に従わせるのは難しいと分かっていたわ、でも、高貴な方からお誘いがあってみると、自分の心が自分の体に引きずられていくのよね」) 2.14


・ さもこそは心くらべに負けざらめはやくも見えし駒の足かな

 (相模『後拾遺和歌集』巻16、「定頼さん、私との意地の張り合いに負けまいとして、すぐ帰ることないじゃない、帰る馬の足は速かったわ、冷たい人!」、恋人の藤原定頼が馬に乗って強引に会いに来たが、作者が門をすぐ開けないのを口実に、さっさと帰ったのを恨んで) 2.15


・ 梅が香に追ひもどさるる寒さかな

 (芭蕉、「梅が美しく凛と咲いている、この梅の香りに惹かれて、少し緩んだ寒さがまた戻ってきたよ」、立春が過ぎても、まだ寒の戻りはある) 2.16


・ 来るも来るも下手鶯(へたうぐいす)よ窓の梅

 (一茶1804、「下手鶯」は、ここでは、下手な俳句を詠む田舎俳人の比喩、一茶は42歳で江戸にいた、ちょうど梅の頃、下手な俳句友達がたくさん家にやってきたのだろう) 2.17


・ 残雪やからたちを透く人の庭

 (室生犀星1927、「残雪が白く残っているので、いつもはあまり見えない近所の庭が、からたちの生垣に透けて、よく見える」、からたちはミカン科の樹木で刺がある、昔はよく生垣に用いられた) 2.18


・ 冬の茶房欅(けやき)の見える窓にゆく

 (正木ゆう子『水晶体』1986、「冬だから落葉しているけれど、大きなケヤキの樹は、ゆったりとして愛おしい、たまたま入った喫茶店、自然に足は、ケヤキの見えている窓の席に向かう) 2.19


・ A定食を前に十字をつくるひとみたとき「私上京したんだ」

 (takio・女・26 歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「ミッション系の大学に進学し、食堂で見た初めての光景に、ごはん粒がいつもより固く感じました」と、作者コメント) 2.20


・ 六ばかりすごい確率で出るのですサイコロだって恋するのです

 (シャカシャカ・女・16歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「サイコロの恋という発想がユニーク、加えて、「です」の繰り返しがリズムを作り出していますね」と、穂村弘評) 2.21


・ おとなしい彼女の肩紐見えている知らない色をみちゃったようで

 (美和直・女・22歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、題詠は「ブラジャー」、「「知らない色」が「肩紐」の「色」であると同時に、「彼女」の心の「色」でもあるように感じられます」と、穂村弘評) 2.22


・ 春寒し水田の上の根なし雲

 (河東碧梧桐、春が近くなっても、北風が吹いてまだまだ寒い日は多い、強風のせいだろうか、晴れた空に雲がちぎれて飛んでゆく、水田の上を「根なし雲」のように動いている) 2.23


・ 薄ら氷(ひ)の解けやつれしが漂へり

 (能村登四郎、春が近づき、それまで薄く凍っていた川や湖の氷が解けて流れ出す、氷の断片が「やつれた感じで漂っている」のがいい、こうして冬は春に向かう) 2.24


・ 春めくやわだちのなかの深轍(わだち)

 (鷹羽狩行、作者1930〜は山口誓子に師事した人、俳誌「狩」主宰、「田舎の舗装されていない土の道、春が近く雪解けでぬかっている、何本も車の跡が付いているが、その中に一段と深い跡が二本ある」) 2.25


・ 違うのよ ふゆぞら色のセーターににわかにできる毛玉のような

 (東直子『春原さんのリコーダー』1996、面白い歌、作者のふゆぞら色のふわふわしたセーターには、すぐ毛玉ができるのだろう、そんな毛玉のように、ごく軽いのよ、ということか、何がだろうか) 2.26


・ 旧約を枕に昼をねむりいる若き牧師のまもるべき闇

 (江戸雪『百合オイル』1997、作者は若い時、熱心に教会に通ったという、旧約聖書を枕に昼寝する牧師が本当にいたのだろうか、「まもるべき闇」というのがいい) 2.27


・ 思春期はものおもふ春 靴下の丈を上げたり下げたりしをり

 (小島ゆかり『希望』2000、ハイソックスだろうか、丈を何度も直している女の子、もちろん自分のことではない、作者には中学生くらいの娘が) 2.28

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2017-02-19 シラー『たくらみと恋』

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[演劇] シラー『たくらみと恋』 世田谷パブリックシアター 2017.2.19


(写真右はポスター、下はルイーゼを演じるE.ボヤルスカヤ、非常に美しい人、そして終幕、ルイーゼとフェルディナンドを演じるD.コズロフスキー、彼もシャネルのCMモデルを務める美形)

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ロシアの劇団、ペテルブルグ・マールイ・ドラマ劇場公演、レフ・ドージン演出。シラーの劇の上演も希だが、ロシア劇団の公演も少ないからだろうか、観客にはロシア人が大勢。私は最前列のよい席だったので、俳優の表情や演技が直近で楽しめた。シンプルでスタイリッシュな舞台が、とにかく美しい。軽いメロディーとともに机の上に立ってちょっと踊るパフォーマンスや、美形の青年たちのアスリートのような動きなど、身体運動が快い。写真下は、冒頭、フェルディナンドが机の上を滑走してルイーゼに近づき、キスを奪うのはスポーツのように爽快。

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原作はシラー25歳の作品で、上演回数の多い名作である。ドイツ版ロミオとジュリエットとも言われているそうだが、ハムレットのようなところもある。宮廷の陰謀渦巻く中で、若い男女の純愛が潰されて、あえなく死んでしまう物語。町娘ルイーゼと貴族の息子フェルディナンドの「身分違いの恋」に、ルイーゼが負い目をもっていることが、最後に、自分の父母とフェルディナンドのどちらへの愛を取るのかという選択のときに、フェルディナンドへの不信になり、他方ではフェルディナンドも思い込みが激しい性格ゆえに、互いの誤解が二人の死につながる。原作そのものの展開がややかったるいこともあり、この上演では、無駄な部分を削り、相当スリム化している。ルイーゼが偽の手紙を書くのを強制される相手の侍従長フォン・カンプをなくしたり、終幕の死んだ二人をとりまくドタバタをカットするなど、このスリム化は成功している。しかし一つ大きな無理があった。それは大公の愛人であるミルフォード夫人が、フェルディナンドとルイーゼの愛に負けて、自分の主人である大公に反逆し、公国から逃走するシーンをカットしたことである。この逃走ゆえに、偽手紙の「たくらみ」は失敗し、フェルディナンドの父である宰相は彼にルイーゼとの結婚を許さざるをえない。ところが、この逃走をカットしたために、なぜ偽手紙の「たくらみ」が失敗したのが観客に分からないものになった。あと、これはシラーの原作の問題だが、ロミオとジュリエットのようには二人の純愛が貫徹しておらず、ルイーゼにもフェルディナンドにも、どこか釈然としない思いが残るような気がした。写真下は、ミルフォード夫人に言い寄られるフェルディナンド。

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