Hatena::ブログ(Diary)

charisの美学日誌

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最新タイトル

科学博物館『ラスコー展』
今日のうた68(12月)
篠山紀信ヌード写真展
イプセン『ヘッダ・ガブラー』
オペラ『眠れる美女』(川端康成原作)
二つの劇団によるイプセン『人民の敵』
今日のうた67(11月)
ウィーン国立歌劇場『ワルキューレ』
東京芸術劇場『かもめ』
今日のうた66(10月)
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2017-01-05 科学博物館『ラスコー展』

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[展覧会] ラスコー展  上野・国立科学博物館


(写真右は、骨から復元したクロマニョン人の身体模型、2万年前くらいだから、現代人とほとんど変わらない、下は壁画の動物)

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とりわけ面白かったのは、有名な「井戸状の空間」だ↓。鳥の頭をした男性が倒れており、その下には鳥の彫刻がある槍のような道具が立てられている。男性を倒したと見られる右側のバイソンは、槍が突き刺さって、はらわたがはみ出している。男性の左側には、尻尾を上げているサイが描かれている。相当に複雑な「物語」がこの絵に描かれているわけで、クロマ二ョン人は高度な言語能力をもっていたはずである。

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絵ではないが、石器と石製のランプにも感銘を受けた↓。ハイデルベルク人(60〜30万年前)や、ネアンデルタール人(30〜4万年前)の石器が大きくて粗いのに対して、クロマニョン人の石器(写真は2万5000年〜2万年前)はずっと小さくて、洗練された美しい形をしている。まったく文化が違うという感じだ。また、ラスコー遺跡の「井戸状の空間」にあったランプは赤色砂岩製で、この中で獣油を燃やした。この「井戸状の空間」は特別な祭祀的な意味を持つ空間だった可能性もある。このランプはレプリカではなく実物なので、ガラス箱に顔をすりつけるようにして見入ってしまった。この博物館にデカルトの頭蓋骨が来たときもそうだったが、実物は本当に感動的だ。思わず自分の手で触れてみたくなる。ネアンデルタール人関係の展示が石器以外ほとんどなかったのは残念。S.ミズン『歌うネアンデルタール』を読んで以来、強い関心を持っているのだが、我々のDNAの1.5%がネアンデルタール人由来のものという今回の展示の記事には安心した。戦いに強い現生人類が平和なネアンデルタール人を絶滅させたという単純な話でもないようだから。

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2016-12-31 今日のうた68(12月)

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[今日のうた] 12月1日〜31日


(写真は前田夕暮1883 〜1951、若山牧水や北原白秋と親しかった歌人、自然主義から出発したが、昭和初期には自由律短歌運動の先頭に立ったこともある)


・ 君ねむるあはれ女の魂のなげいだされしうつくしさかな

 (前田夕暮『収穫』1910、新婚の妻が眠っている姿をしみじみと眺める作者、肉体ではなく「魂の」とあえて言った、『失われた時を求めて』の主人公が、恋人アルベルチーヌの寝姿を嘗めるように眺め続けたのを思い出す) 12.1


・ 今日散れる葉にすら深き彩(いろどり)を賜(たま)えるものを天と思うも

 (田井安曇『右辺のマリア』1980、私の近所では、12月に入った今も落葉が続く、銀杏の遅い樹はまだまだ) 12.2


・ 近く居てともに会わざる左右の耳こもごも夜の枕に当てる

 (山下和夫『耳』1994、左耳と右耳は距離的には近いが、頭の反対側にあるので、決して「会う」ことがない、自分の枕が交互に触れ合っているから、間接的には触れ合っているのかもしれない、それぞれの耳を気遣うユーモアの歌) 12.3


・ しぐれつつ我を過ぎをりわれのこゑ

 (森澄雄1971、「初冬のある日、寒々とした時雨が降っている、その静かな音が「自分を通り過ぎてゆく」のが、「自分の声」のように感じられる」、このように自己は外界と融合している) 12.4


・ 少年に咬みあと残す枯野かな

 (櫂未知子『蒙古斑』2000、枯野で少年が犬と戯れているのだろう、走って戻ってきた犬が撫でる少年の手をちょっと強く甘噛みして、「あと」が残ったのか) 12.5


・ 立ちすくむほどのあをぞら冬鷗

 (正木ゆう子『水晶体』1986、「立ちすくむ」が素晴らしい、空の青さが一番感じられるのは冬である、真っ白な鷗もいて) 12.6


・ わが坐るベッドを撫づる長き指告げ給ふ勿(なか)れ過ぎにしことは

 (相良宏『相良宏歌集』1956、作者は結核の療養所で長く過ごし、30歳で亡くなった、これは療養所内での恋と思われる、寝ている作者の「ベッドを撫でてくれる長い指」の女性とは相思相愛だったのか、直接には体に触れられないのだろう、彼女は作者より2年早く逝去) 12.7


・ 祖国(くに)の上にいよいよ迫り来らむものわれは思ひていをし寝らえず

 (南原繁『形相』、1941年10月17日東条英機内閣成立の日の歌、その少し後に12月8日の真珠湾攻撃の日の歌が並ぶ、今日がその日) 12.8


・ 俯瞰(ふかん)する夜の地上にかがやきの聚落(じゅらく)も暗黒のなかのさびしさ

 (佐藤佐太郎1963、「聚落」とは村落の意だが、ここでは大都会だろう、飛行機から遠く見下ろす大都市の夜景、それは輝いているが、周囲の暗黒の中に孤立している) 12.9


・ 耕(たがや)さぬ罪もいくばく年の暮

 (一茶1805、一茶は43歳、定職もなく独身、自虐的な句だ、一茶が故郷の柏原で一定の遺産を相続して「本百姓」に登録されたのが1808年、ようやく1812年に50歳で柏原に帰郷し、2年後に28歳の妻きくを娶ることができた) 12.10


・ 居眠りて我にかくれん冬ごもり

 (蕪村1775、「ああ、いやなことがあったな、現実から逃避して出して自分に籠りたいよ、このまま炬燵で居眠りしようか、冬ごもりだよ」、「我にかくれん」がいい、誰しも引き籠りたい時がある) 12.11


・ 葱(ねぶか)白く洗ひあげたる寒さかな

 (芭蕉1691、「ネギを畑から取ってきた、泥を洗い落とすと、真っ白に輝いている、水も冷たいけれど、本当に寒い冬になったんだ」) 12.12


・ 道を云はず後を思はず名を問わずここに恋ひ恋ふ君と我(あ)と見る

 (与謝野晶子『みだれ髪』1901、「道徳なんか知らない、来世で罰せられたっていい、世間体なんて気にしない、今ここに存在するのは貴方と私だけ、大好き!」、22歳の晶子は出奔して妻のいる鉄幹と同棲) 12.13


・ このもだえ行きて夕(ゆふべ)のあら海のうしほに語りやがて帰らじ

 (山川登美子「白百合」1905、「鉄幹さんを愛するこの悶えを、夜の海に行って荒波に向かって叫びたい、そしてそのまま、もう帰ってきたくないわ」、鉄幹門下の登美子は恋のライバルの与謝野晶子に敗れた、30歳で没) 12.14


・ 花もちて鉄扉のかげに待つときの少女めきたるわれを自嘲す

 (中城ふみ子『乳房喪失』1954、作者の二十代が終る頃か、三人の子を連れて離婚した作者に、また好きな人ができた、その彼を詠った歌) 12.15


・ 正しく列をなすみな卒の墓なりけり

 (荻原井泉水1914、大正2年頃から、季語や定型にこだわらない自由律俳句が作られ始めた、河東碧悟桐とともに作者はその運動の担い手、この句は下級兵士の墓地を詠んでいるのだろう) 12.16


・ しんしんと肺碧(あお)きまで海の旅

 (篠原鳳作1934、作者1906〜36は、戦前の新興俳句運動の有力な一人で、無季俳句を作った人、宮古島の中学教諭だった、「肺が青くなるまで」と詠んだこの句は名句で、代表作の一つ、沖縄の海だろうか) 12.17


・ 寒雷や一匹の魚(うお)天を搏(う)ち

 (富澤赤黄男『天の狼』1941、作者1902〜62も新興俳句運動の有力な担い手の一人、この句も戦争期の緊迫が感じられる) 12.18


・ 忘らるる身はことわりと知りながら思ひあへぬは涙なりけり

 (清少納言、「心かはりたる男に言ひ使はしける」と詞書、「貴方の心が離れていったのは、私が悪いのよね、理由は分かっているの、でも貴方と相思相愛でいられないなんて、ああ、何て悲しい」、プライドの高い作者にしては珍しい歌、よほど好きだったのだろう) 12.19


・ 長からむ心もしらず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ

 (待賢門院堀川『千載集』恋三、「貴方と初めて過ごした一夜、「いつまでも愛してるよ」とおっしゃったけれど、本当かしら、これっきりじゃないのかしら、ああ、今朝になって、はげしく乱れた黒髪のように、いたたまれない気持になるわ」、百人一首にも) 12.20


・ 待つ宵(よひ)に更けゆく鐘の声聞けばあかぬ別れの鳥はものかは

 (小侍従『新古今』恋三、「貴方が来るのを今か今かと待っているうちに、夜が更けて初夜の鐘も中夜の鐘も鳴った、ああ、鐘の音がたまらない、これに比べれば、飽きないのに別れがくる暁の鶏の声なんか、かわいいものよね」) 12.21


・ 大空に飛石の如冬の雲

 (高濱虚子、「どこまでも晴れ渡った冬の青空、雲はないなぁ、あっ、あそこに、ぽつっ、ぽつっと、飛び石のように小さな雲が」)  12.22


・ 木枯の大きな息とすれ違ふ

(石田郷子2004、冬も本格的になった、たった今「すれ違った」木枯、そういえば「大きな息」をしていたわ)  12.23


・ 屋台とは聖夜に背向け酔ふところ

 (佐野まもる『新歳時記・冬』河出文庫1989、「ああ、今夜はクリスマスの晩だ、俺は一緒に過ごす恋人も家族もいない、ま、屋台で一杯やるか、これが俺流のメリー・クリスマス」) 12.24


・ 夢はいつも何かしらピンボケで窓の外は蝙蝠傘(こうもり)があふれてた

 (もりまりこ『ゼロゼロゼロ』1999、「夢のzoo」と題された歌群の一つ、夢の中に、子供のときに両親と行った動物園が出て来たのだろう、コウモリが蝙蝠傘に見えたのか、それともその逆か) 12.25


・ 男がなぜティッシュを消費するのかを女になって初めて知った

 (白木蓮・女・35歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、題詠は「ティッシュ」、「ポイントは、「女になって」。一瞬「?」となるようなニュアンスの微妙さがいい」と、穂村弘評) 12.26


・ 「このほうが本気でやるでしょこいつらも」溶けるティッシュのてるてるぼうず

 (水町・女・31歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「遠足の日、てるてるぼうずを脅す妹の想い出です」と作者コメント、「上句では意味不明なシチュエーションが、下句できれいに説明される」と穂村弘コメント) 12.27


・ 霜おきてなほ頼みつる昆陽(こや)の蘆(あし)を雪こそ今朝は刈り果ててけれ

 (式子内親王『家集』、「昆陽」は地名を表わす歌枕だが「来や」の意、「枯れた蘆にうっすらと霜が降りていた頃は、きっと貴方が来るわとまだ希望を持っていたけれど、ああ、今朝は、雪が蘆をすっかり覆ってしまった、もう貴方は来ないのね」) 12.28


・ 年暮れてわが世ふけゆく風の音に心の中のすさまじきかな

 (紫式部『日記』、1008年12月29日、実家から宮中へ戻った作者は、初めて参内したのも同じ日だったと回想、「ああ、今年が暮れてゆく、一緒に私も老けていくのね、外は風が寒々と吹いている、私の心もすっかり冷えてしまったわ」) 12.29


・ 怖(おど)す也年暮るよとうしろから

 (炭太祇、作者1709〜71は蕪村とも交流のあった俳人、「おどすのかい、「今年はもう終るぞ!」って、後から押しつぶすように追い立てるんだな、ああ、つらいぜ」、年の暮れを「後から追い立てられる」という捉え方がユニーク) 12.30


・ 行く年や膝と膝とをつき合せ

 (夏目漱石1895、こたつだろうか、「膝と膝をつき合せ」ているのは誰だろう、漱石28歳の時の句、結婚は翌年だからまだ家族はいなかったはず、暖かさを感じさせる良い句だ) 12.31

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2016-12-16 篠山紀信ヌード写真展

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[美術館] 篠山紀信ヌード写真展「快楽の館」 品川・原美術館


原美術館で、篠山紀信ヌード写真展「快楽の館」を観た。すべて原美術館という「館」の一部になった身体の写真。光の当て方(方向、強さ、翳の濃淡、環境への身体の置き方など)が工夫されていて、光によって、女性の体がこんなにも違って見えるのに驚かされた。特に印象的だったのは、お尻の美しさ。影や翳りによって、お尻のふくらみ、曲線の流れ方、太ももとの連続/不連続、質感、豊穣さが、千変万化する。何て美しいのだろう!美術館の建物の質感の中に身体が置かれている。そして、石の前では身体はぬくもりを持つ(写真一番下↓)。建物や樹木の影が身体に映ることによって、影と翳りのでき方がスタジオ撮影とは違う。美術館は女性の客も多く、みなさん楽しそう。女性美を観るのは、女性にとっても「快楽」なのだ。一緒に写っている男性は、原美術館館長(笑)。1月9日まで。

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2016-12-11 イプセン『ヘッダ・ガブラー』

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[演劇] イプセン『ヘッダ・ガブラー』マジャール劇場公演 12月11日シアタートラム


(写真右は、ブラック判事と主人公ヘッダ、写真下はヘッダと夫のテスマン、そしてヘッダの元カレであるレェーヴボルグとその恋人テア、テアはヘッダの学校の後輩、テスマン以外はキルケゴールの言う「美的生き方」を実践する人々である)

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ルーマニアのクルージュ・ナポカ・マジャール劇場(Teatrul Maghier de Stat Cluj)の公演を観た。素晴らしい舞台。前に見たラドゥ・スタンカ劇場の『ルル』も良かったが、ルーマニアには優れた劇団が多いのだろう。『ヘッダ・ガブラー』を観るのは初めてだが、戯曲を読んでもさっぱり分からなかったのが、舞台を観て、こんなに面白い劇だったのかと感嘆した。演出はアンドレイ・シェルバンだが、全体を軽快な喜劇調にしたのが正解。最近見た熊林弘高の『かもめ』とも演出コンセプトが似ている。イプセンはリアリズムで演出してはダメだめなのだ。『ヘッダ・ガブラー』は、キルケゴールの『あれか、これか』の世界そのものである。イプセンはキルケゴールをモデルにした詩を書いたほどだから、よく読んでいたのだろう。キルケゴールは「美的生き方(=恋愛重視派)」と「倫理的生き方(=結婚重視派)」を対立させ、なおかつ、両者のどちらかを人間は選べるという「根源的選択」(=「あれか、これか」)が可能であるとした。(写真はヘッダの居間↓、彼女が次々にかけるレコードから、軽快でコミカルな曲が流れ、一同軽く踊りながら歌う)

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ヘッダは結婚したばかりだが、結婚に後悔している。新婚旅行はとても退屈だった。夫のテスマンは歴史学者で自分の学問にしか興味がなく、古文書ばかり読んでいるので、夫とは話が全然合わない。彼女は退屈しており、「何か面白いことないかな」と、気晴らしを求めている。キルケゴールの言う「美的生き方」派は、つねに時間を持て余して退屈している人々である。そこへ、彼女の元カレでダメになったと思われていた男レェーヴボルグが、俗っぽい本を書いて大当たりし、彼女のところへやってくる。そして、学校時代の元後輩の女性や、判事のくせに女に言い寄るのが大好きなタチの悪い友人ブラックもやってくる。そこで、てんやわんやになるのだが、みんな自分勝手で、ちょっと変な人たちばかりなので、レーヴェボルグの原稿をヘッダが夫を助けるつもりで焼いてしまったことをきっかけに、事態は悲劇に転化する。(写真下は、テスマン/ブラック/ヘッダと、テア/ヘッダ)

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「美的生き方」派の典型はドン・ジョバンニだが、中産階級にも、ずっとスケールは小さいけれど、結婚より恋愛をしたい人々はたくさんいる。彼らのわずか二三日を鋭角的に切り取って、とことん喜劇的に描き、しかし結果は、もっとも強く「美的生き方」派であるレェーヴボルグとヘッダの二人がピストル自殺という悲劇に終る。それでもイプセン自身は、「美的生き方」派に共感しているのだろう。ヘッダがこれほど愛おしく、我々は彼女に共感することから、それが言えると思う。この上演は音楽の使い方がとても上手い。ヘッダがかけるレコードは軽快なポップスばかりだが、舞台全体に通奏低音のように流れるのは、シューベルトのピアノソナタや弦楽四重奏「ロザムンデ」で、しみじみと悲しい。「美的生き方」ができるのは、貴族のように、一部の選ばれた人々のみで、しがない庶民が真似てもなかなかねぇ、とイプセンは言いたいのだろうか。ちなみに、ヘッダ役のイモラ・ケズディは北欧美女のような顔立ち。私は最前列の座席だったので、ベルイマン映画を思い出した。


追伸 :原千代海『イプセン 生涯と作品』を読んでいたら、「イプセンの最高傑作『ヘッダ・ガブラー』」とありました。やはり重要な作品なのですね。原氏はベケットにつながる線をこの作品に見ています。ディスコミュニケーションが前景化されているという点で、チェホフの『三人姉妹』にも不条理劇的なところがあり、イプセンもチェホフも20世紀演劇の「生みの父」なのですね。

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2016-12-10 オペラ『眠れる美女』(川端康成原作)

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[オペラ] デフォート作『眠れる美女』 12月10日 東京文化会館


(写真右はポスター、下は舞台より、老人役の長塚京三と女将役の原田美枝子)

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ベルギーの作曲家クリス・デフォートと台本・演出ギー・カシアスの共作で、2009年初演のオペラ『眠れる美女』を観た。日本初演。川端康成の原作は、薬で深く眠らされた全裸の娘に老人が添い寝するという秘密の館の話で、演劇的要素は非常に乏しい。どうやってオペラにするのだろうと思っていたが、実にうまくオペラ化されているのに驚いた。三島由紀夫は、川端の『眠れる美女』を、「形式的完成美を保ちつつ、熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダン文学の逸品・・・、およそ言語による観念的淫蕩の極致・・・、ローマ法王庁がもっとも嫌悪する、「愛」からもっとも遠い性欲の形・・・」と絶賛している。つまり原作は、意識のない娘の体を老人が執拗にまさぐるというおぞましい話なのだが、それがオペラ化によって、きわめて美的に昇華されている。それは小説に含まれるさまざまなレベルの表象を、科白を語る俳優/歌う歌手/コーラス/ダンサーのパントマイム/CG画像などにうまく役割分担させたからである。娘には意識がなく、老人が体をまさぐるのに反応して寝返ったり、眉をしかめたり、わずかに寝言を言ったりする程度だが、それに対応して老人には、自分が関係した過去の女たちの記憶がどっと甦り、性的夢想や妄想にふけるだけでなく、自分が寝てからも夢に見る。そうした女の表象の乱舞は、処女性、娼婦性、母性が分離しては絡み合い、老人にとってきわめて息苦しい苦痛であり、いつしか老人は自分が死に近づくのを感じる、というのが原作の筋である。小説では、それが老人の意識内容として地の文の中で描かれるのを、オペラでは、表象を分散して呈示することができる。写真下は、意識のない娘の身体感覚を、老人の性的妄想を媒介してパントマイムで身体表現するダンサーの伊藤郁女(かおり)↓。舞台中央の高位置に宙吊りにされ、最初は花のように大きく広がる衣服で、次は裸体を拡大された影絵で映し、最後は実物大の裸体で表現するという、三段階の転換が見事。最後は、吊るされたロープに体を巻きつけるアクロバティックな体操のようだ。

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原作の地の文で表現された性的妄想を、すべて身体表現や音楽で表現することは難しいので、地の文をそのままコーラスが歌うことによって、やや説明的になってしまうため、その部分はやや退屈な感は否めない。しかし、最後、老人が自分の死を夢想している間に、眠っている娘の息が突然絶えてしまうシーンは、タナトスとエロスが表裏一体となった凄い幕切れと思う。全体に、CG画像を非常にうまく使っているので(写真下↓)、視覚はつねに舞台に釘づけになる。

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指揮はパトリック・ダヴァン、オケは、東京芸大シンフォニエッタ。時間は、休憩なしの90分。日本初演のマイナーなオペラにもかかわらず、東京文化会館は若い女性も多く、満席だった。

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2016-12-07 二つの劇団によるイプセン『人民の敵』

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[演劇] 二つの劇団によるイプセン『人民の敵』 12月3日シアターΧ、7日シアタートラム


(写真右は、雷ストレンジャーズの上演、ストックマン博士を演じる寺十吾、下の写真は劇団tgSTANの舞台、2014年9月オスロ公演のもの、今回と配役は同じ、右端がストックマン博士)

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イプセンの1882年の作品を二つの劇団がほぼ同時に上演するのを見ることができた。日本の劇団、雷ストレンジャーズと、ベルギーの劇団tgSTANの公演。私はこの作品は初見だが、非常な違和感を覚えた。筋は、温泉で街が発展しようとする矢先、温泉水の汚染が発見されたが、観光客が途絶えることを恐れた町の幹部が、発見者のストックマン博士にその発表を差し止めさせ、博士を孤立させたが、町民のほぼ全員がそれを熱烈に支持という物語。確かに環境汚染の問題と、利害関係者の対応というテーマはきわめて現代的で、まさにこういうことが起きていることは分かる。しかし、イプセンがこの作品で一番訴えたかったこと、つまり、「民主主義において多数派が正しいとは限らない」という「真理」は、ナチス政権誕生など20世紀の歴史が示したことであり、我々にとっては少しも驚きがない。イプセンがこれを書いた1882年には、議会制民主主義がいよいよこれから花開くという時期であり、大いに夢と期待を持たれていたであろうから、「多数派による選択の誤り」という事実はショッキングな「発見」であったのかもしれない。


まずこの作品で、我々は主人公のストックマン博士にまったく共感できない。社会や人間についての彼の現実認識が乏しすぎるために、温泉水の汚染を発見したのに、まったく有効に戦うことができない。兄の町長の反応をまったく間違って予想しているおめでたさにはあきれるし、惨めに敗北したあげくに「愚かな大衆が悪い」と大衆を罵倒し、「真理はつねに自分のような少数者にある」と強弁するに至っては、博士こそどうしようもない愚か者であることが赤裸々になる。大衆を説得する戦略をまったく持たないのだから、彼の敗北は必然であり、そこから「大衆は誤る」という大命題の「発見」を得意げに吹聴されても白けてしまう。しかし、考えてみればこれは、現代から過去を見ている我々の後知恵であり、それをあらためて確認することこそ、『人民の敵』が今、好んで上演される意義なのかもしれない。しかし、イプセンが「多数派の誤り」を主張したいのならば、ストックマン博士はもっと完璧に戦って、大衆の説得に努力し、それにも関わらず博士の意見が退けられた、というのでなければならない。博士があまりにも稚拙過ぎた。


二つの劇団を比べると、雷ストレンジャーズの上演はきわめて分かりやすいもので、ストックマン博士がすっかり「浮いて」しまい、新聞編集長や印刷屋の「裏切り」、大衆が残酷な視線で彼を眺めることなどが、うまく表現されている。しかしtgSTANの方はどうだろうか。まず、たった4人の劇団なので、一人が三役も四役もやるので、とても分かりにくい。それも兼ねる役が固定しているわけではなく、場面に応じて、異なる俳優が同じ役を演じるので、いよいよ分かりにくい。オランダ語上演だから、字幕がちょっとでもずれると誰の発言か分からなくなる。たしかに、俳優の身体パフォーマンスはきわめて高度で、役の切り替え時における同一俳優の身振りと表現の落差が、あたかも落語のように自在で、なんとも面白おかしいのは、この作品を喜劇的に仕立てるという一つの方向性を示しているのだろう。とはいえ、私は戯曲を読み、そして雷ストレンジャーズの上演を見た後でtgSTANを見たから分るのであって、戯曲を読まずに最初にこれを見たら、何が何だか分からなかったと思う。


追記 : tgSTANは分かりにくいという私に対して、森岡実穂さんからツイッターで下記のコメントをいただきました。納得です。

Miho Morioka 森岡実穂

@charis1756 ドイツの深読み再解釈上演と同じで、基本的に作品を知っている前提の上演ではないかと。欧州ならイプセン、チェーホフならありでしょう。でも日本では事情が違うので、だからこそ今回雷ストレンジャーズの上演が先行する意味もひとつあるのではないでしょうか。

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