Hatena::ブログ(Diary)

charisの美学日誌

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最新タイトル

チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』
新国立劇場『ジークフリート』
今日のうた73(5月)
ITCL公演『Twelfth Night』
ヴェデキント『春のめざめ』
大池容子・うさぎストライプ『バージン・ブルース』
原美術館『エリザベス・ペイトン展』
今日のうた72(4月)
ギリシア悲劇『エレクトラ』
国立西洋美術館『シャセリオー展』
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2017-06-22 チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』

charis2017-06-22

[演劇] チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』  シアタートラム 6月22日


(写真右は、左から順に、新しい彼女ありさ[安藤真理]、夫かずき[吉田庸]、その妻ほのかの幽霊[青柳いづみ]、ゆっくりと点滅する小さな電燈の光が夢のように美しい、夫は、ずっと観客に背を向けた姿勢で座っていたが、やっと立ちあがって前を向く、写真下は舞台、新しい彼女と夫との間に、静かな愛の感情が立ちあがる、まだ恋未満だけれど)

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チェルフィッチュを観るのは、2006年に第1回表象文化論学会で身体パフォーマンスを見ただけなので、舞台はこれが初めて。美しい能を観ているようだった。最前列だったが、三人の俳優は、立つことと座ること、ゆっくり歩くこと、もじもじと体を奇妙に撫でること、これ以外には動きがまったく感じられない。かすかに聞こえる響きのような音、豆電球のゆっくりした点滅、小さなフラスコの水の中を動く空気の泡。何と美しいのだろう。筋も能に似ている。東北大震災の4日後に死んだ若い妻の幽霊が、夫に語りかける。その語りは一方的で、夫は答えない。聞こえていないのか、聞こえないふりをしているのか。そこへ、「新しい彼女」がバスの渋滞のためかなり遅れてやって来る。「恋人になってください」と頼まれてやってきた奇妙な訪問。部屋に入って座った彼女は、ポツリ、ポツリと夫とわずかな会話をかわす。幽霊の妻が部屋を去って、終幕。だが、そこには、とても深い感情が静かに流れている。妻は、震災後の4日間、「これを機に、新しい生き方をしよう」と感じ、「自分が生まれ変わること」に大きな喜びを見だした。幽霊の妻は、それを夫に向かって熱く語りかける。しかし妻は、わずか4日で死んでしまった。あとの二人は、震災前も後も、ただ受動的に、静かに生きてきた。その二人に、まだ恋とは言えない、新しい恋が始まりそうになる。つまりこれは、人が生き替り、死に替り、生まれ替わる、鎮魂と愛の物語なのだ。(写真下↓、この三人の男女は、存在そのものが美しい)

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少しなまめかしく、ぬるぬるとした感じで語りかける幽霊の妻とは対照的に、新しい彼女と夫との会話は、とてもぎこちなく、現実の人間にはありそうもない架空性に満ちている。「恋人になってください」「ええ、いいです。できるだけゆっくりと恋人になりたいと思います」「恋人になって、何をするのですか?」「一緒にいて、たくさん話をしましょう」「私にやさしくしてください」「私、無口なので、面白い話はあまりできないかもしれません」「僕は妻がいなくなって、寂しいのです、弱い人間なのです」「私もです、私も弱い人間です」。「弱さ」を共有する二人に、静かに始まる恋。控え目で、うつむきがちで、ぎこちなく動くロボットのような新しい彼女。「ゆっくりと恋人になっていきたい」という彼女の言葉が素晴らしい。

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2017-06-01 新国立劇場『ジークフリート』

charis2017-06-01

[オペラ] ワーグナー『ジークフリート』   新国立劇場 6月1日


(写真右は、終幕におけるブリュンヒルデ(R.メルベート)とジークフリート(S.グールド)、二人の絶唱は筆舌に尽くしがたい、下は舞台写真、色彩の美しさと光の調和が印象的)

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一昨年から始まったゲッツ・フーリドリヒ演出、飯守泰次郎指揮の『指環』は、これで三つ目。この『ジークフリート』は、奇をてらわない演出で、原作に忠実な舞台だが、歌、音楽、演劇的要素のどれをとっても素晴らしいものだった。そして『指環』がきわめて精神分析的な作品であることにあらためて衝撃を受けた。第一幕、森の中で動物とともに育った無垢の少年ジークフリートにはどこかメルヘン的な要素があり、第二幕、彼が大蛇を討ち取って英雄となり、第三幕、彼は、祖父ヴォータンの妨害をはねのけ、火の中に眠る神の娘ブリュンヒルデを救出する。ジークフリートが育ての父ミーメを殺し、ヴォータンの槍を折るのも、まさにフロイトのいう「父殺し」を象徴している。第三幕は、『ワルキューレ』終幕で彼女が父神によって火の中に眠らされた場面に応答するもので、英雄ジークフリートは初めて人間の男としての男性性に目覚め、神の娘ブリュンヒルデは初めて人間の女としての女性性に目覚め、二人が愛を交わすシーンは、信じがたいほど美しい。しかし、二人の性愛にはどこかぎくしゃくした感じがあり、神の娘が人間の女になる悲劇を孕んでいるのだと思う。あるいは、我らヒトという生き物の男性性と女性性の葛藤を象徴しているのかもしれない。写真下は、第三幕のブリュンヒルデとジークフリート。

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『指環』の真の主人公である王女ブリュンヒルデは「愛」のアレゴリーであるが、たんに「女」であるだけでなく「母」でもあり、ユングの言う典型的な「父の娘」であるから、父娘の愛をも含む複雑な「女性性」のアレゴリーと言うべきだろう。血縁的には彼女はジークフリートの伯母になる。第三幕のブリュンヒルデの科白は、非常に深みがある。「私はずっと、あなたを想ってきた。ヴォータンの思いを察したのは、私だけでした。でもそれを言葉にすることはできなかった。私は推測したというより、感じとったの。ヴォータンの密かな思いのために、私は懸命に戦い、争った。またそのために、当のヴォータンに逆らい、罰を受けて償わなければならなかった。それは、考えたすえのことではなく、直感的にやったことでした。そのヴォータンの密かの思いとは――、もうわかるでしょう――、私があなたを愛するということだったの!」 写真下は第三幕冒頭、ブリュンヒルデの父神ヴォータンと、母神エルザ。ただしエルザはレイプされてブリュンヒルデを産んだので、納得はしていない。

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しかしブリュンヒルデは、ジークフリートという真の英雄に求愛されたにも関わらず、人間の女として、彼の胸に素直に飛びこんでゆくことができない。生まれて初めて女というものを見て「恐れ」の感情を初めて持ったジークフリートと同様、ブリュンヒルデのこの恥じらいとためらいと逡巡こそ、男性性と女性性の葛藤を深く描き出しており、この第三幕は『指環』全体の頂点かもしれない。

「あれは、私の胸を守っていた鋼の胸当て、鋭い剣がまっ二つに切り離したのね。こうして乙女は身を守るものを奪われました。鎧も兜もはぎとられ、私は裸同然の、哀れな女!/(ジークフリートに激しく抱きすくめれられたブリュンヒルデは、びくりと身をすくめて、恐怖のあまり、力いっぱい彼を突き放し、彼から遠のく)/神でさえ、私には近づかなかった! 英雄たちも、清い乙女を畏れて、首をたれた。私はけがれを知らぬ身で、ワルハラを離れた。それが、なんということ! 情けない、このあさましい辱め、私を目ざめさせた人に傷つけられるとは! 鎧も兜も奪われてしまった私は、もうブリュンヒルデではないわ!/・・・どうか、私をそっとしておいて! そんなに激しく近寄らないで! 荒々しい力で、私をねじ伏せないで! でないと、あなたにとって大切な女のからだが砕けてしまうわ! ですから、私に触らないで!」

 そんな彼女を口説くのに、ジークフリートはてこずるが、口説きの言葉の中で決定的だったのは、「こよない喜びの人よ、笑って生きよう!」という「笑い」の強調である。女を一度も見たことのない無垢な英雄の口説き文句が、なかなか鋭い(笑)。ジークフリートに抱きしめられているうちに、ブリュンヒルデは次第に人間の女のエロスに目覚めてゆく。

「今、私はあなたのもの? 神のような落ち着きが、大波たてて荒れ狂い、純潔の光も狂熱へと燃え上がる。天上の知恵が、愛の歓声に追われて吹き飛ばされる! 今、私はあなたのもの? ジークフリート! ジークフリート! あなたは燃えてこないの? あなためがけて駆け巡る血潮の熱さを、あなたは感じないの? ジークフリート、あなた、こわくないの、狂おしい情熱に昂ぶる女が?」

こうして彼女は<人間の女>になった。だが、これに続くブリュンヒルデの言葉ははるかに素晴らしい。ワーグナーのト書きを含めて引用しよう。

「(ジークフリートが思わず手を離すと、ブリュンヒルデは晴れやかな笑い声をあげる。それは喜びのあまりの笑いだ。)まあ、子供のような勇士! 栄光にみちた若者! 自分のやってのけたすばらしい手柄を、覚えてもいないのね! 笑いながら、あなたを愛さずにはいられない。笑いながら、私は愛に盲いるの。笑いながら、あなたと私、ともに滅びましょう、笑いながら、ともに堕ちていきましょう!」(以上、引用は高橋康也訳『ジークフリート』新書館、写真下は森の小鳥たち、本演出では、ジークフリートを女へと導くエロスの象徴になっている。そういえば会場には皇太子が来ていた、彼を見るのは何回目だろうか、きっと本当にオペラが好きなのだと思う)

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4分ほどの動画。ヴォータンの槍が真っ二つにされるところや、最後の絶唱も。

https://www.youtube.com/watch?v=yg8HAZtYBTw&feature=youtu.be

6分のゲネプロ動画もありました。

https://www.youtube.com/watch?v=jIly8BuApGc

EnoEno 2017/06/07 20:09 たしかに「ジークフリート」の第3幕はリング全体の頂点かもしれませんね。第3幕でリングの放物線がピークを打ち、「神々の黄昏」では真っ逆さまに落ちていく。ジークフリートがブリュンヒルデを裏切り、そのブリュンヒルデもジークフリートを裏切るストーリーは、見ていて辛いものがあります。

charischaris 2017/06/07 22:00 コメントありがとうございます。私は、以前は『ジークフリート』がよく分っていなかったので、動きや演劇的要素が少ないな、とか感じていました。でも今回の鑑賞で、第三幕が『指環』全体と深くかかわっていることが理解できました。10月の『神々の黄昏』が楽しみです。

deziredezire 2017/06/13 23:33 こんにちは、
私もワーグナーの『ジークフリート』の舞台を鑑賞してきましたので、画像と鑑賞レポートを読ませていただき、『ジークフリート』の舞台を再体験することができました。ワーグナーの楽劇は、活気に満ち血が通った力強い音楽、説得力を持って語りかけてくる音楽のテンポの躍動的変化が生み出す推進力、常に人間の歌声が中心に置かれながら、完璧なまでのオーケストレーションは、ワーグナーの世界に魅了されました。巧みにライトモチーフが縦横に張り巡らされていているので、対話の裏に真意を紐解きながら内容を楽しむことができます。歌は、自らの気持ちを音楽に込めたアリアや対話形式ですが、主役級の歌手の歌・声・言い回しの魅力に浸れ、歌手の歌や演技の技量を堪能できるよろこびがあります。私はキース・ウォーナー演出、準・メルクル指揮「トーキョー・リング」も鑑賞していましたので、今回の飯守泰次郎さんの『ジークフリート』も冷静に客観的に比較しながら楽しむことができました。

その観点も含めて、『ジークフリート』の魅力と特徴、楽劇の舞台に及ぼす演出の力を考察しながら、今回の飯守泰次郎さんの魅力を整理してみました。一度眼を通していただき、何かのご参考になれば幸いです。ご感想、ご意見などコメントいただけると感謝いたします。

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2017-05-31 今日のうた73(5月)

charis2017-05-31

[今日のうた] 5月1日〜31日ぶん


(写真は永田耕衣1900〜1997、耕衣は自由闊達な句を詠んだ人、95年の阪神大震災で自宅が全壊したが奇蹟的に助かった)


・あたたかき甍(いらか)の厚味割るるなよ

 (永田耕衣1955、作者は55歳のとき、生まれ育った兵庫県加古川の印南野(いなみの)を去り転居、印南野には鶴林寺という作者が子供の頃から遊んだ寺があった、この「甍」はその寺の大屋根のことだろう、故郷への別れの句) 5.1


・大いなる新樹(しんじゅ)のどこか騒ぎをり

 (高濱虚子、「新樹」とは「新緑」のこと、大きな樹が若葉に溢れるのはとても美しいが、ちょうどこの時期は、どういうわけか風が吹くことも多い、この句はそんな光景か) 5.2


・たかんなの影は竹より濃かりけり

 (中村草田男、「たかんな」は筍のこと、「青青とした大きな竹の生えている竹林の中に、あちこちに黒い筍がむんずと顔を出している」、今、筍の季節になった) 5.3


・不二(ふじ)ひとつうづみ残して若葉哉

 (蕪村1769、「うづみ残す」は「埋づめ残す」、周囲の山々の向こうに富士山が見えている、「周囲の山々は、勢いよく若葉が茂って、山頂まで緑が埋め尽くしているが、さすがに富士山だけは、若葉も「埋め尽くす」ことはできないな」) 5.4


・妻ふくれふくれゴールデンウィーク過ぐ

 (草間時彦、ゴールデンウィークはどこへ行っても、うんざりするほど人が多い、だから作者は、この時期はあえて家にいるのだろう、どこへも連れて行ってもらえない妻や家族が「ふくれにふくれて」不機嫌になっている) 5.5


・ことづてにてもあらなとおもへ人の瞳(め)のよりべもなくてものいはずおり

 (五島茂、女の子だろうか、あるいは大人の女性だろうか、「寂しそうな眼をして黙っている、でも何か言いたそうな顔だな、直接言いにくかったら、人を介してでもいいんだよ、遠慮なく言ってごらん」、作者1900〜2003は歌人にして経済学者、妻は歌人の五島美代子) 5.6


・いづこより来たりいづこに去る我と知るにぞ愛のいよよ深まる

 (窪田空穂『老槻の下』1960、老年の夫婦愛だろうか、作者1877〜1967は83歳、そろそろ自分の死期も予感する中、妻への愛はますます深まる) 5.7


・相思ふといふにあらねど年を経て夕かぎろひのごとき心か

 (尾崎左永子『春雪ふたたび』1996、昨日の歌と同様、これも老年の夫婦愛の思いか、「夕かぎろひのごとき心」がいい、作者1927〜は若い時に佐藤佐太郎に師事、現在は歌誌「星座」主筆) 5.8


・大空は高く遥けく限りなくおほろかにして人に知れずけり

 (長塚節1907、作者1879〜1915が伊藤左千夫に送った春の歌7首のうちの一つ、青空が一番美しいのは、私は冬だと思うが、季節によって青空もそれぞれに違う、「おほろかにして人に知れず」が春の青空) 5.9


・柿若葉日差が濡れてゐるやうな

 (高木晴子、今、柿の若葉が大きく広がって美しい、柿の若葉は、その広さ、厚み、そり具合のゆえだろうか、日差しを反射すると、まるで雨の水に濡れているように感じることがある) 5.10


・手の薔薇に蜂来れば我王の如し

 (中村草田男、「大きく咲いた薔薇を切って、手にしていたら、蜂がやってきて花に止まった、召使にかしずかれる王様の気分だよ」、その薔薇の大きさ、美しさを、このように物語的に表現したところが草田男らしい、わが家のバラも咲き始めました) 5.11


・ 薔薇かぐとめつむるは皆若からず

 (熊谷愛子、「皆さん、薔薇の花に顔を近づけて、その香りを楽しんでいる、でもよく見ていると、嗅いだあと眼をつぶる人とつぶらない人がいて、つぶるのは中高年の人なのね」、するどい観察) 5.12


・ 「かぎかっこ、僕が使うからとっといて」 (だったら私はかっこでいいや)

 (上町葉日・女・19歳『ダヴィンチ』短歌欄、男の子と女の子のメールのやりとり、「 」は実際に男の子が文面で使っているが、女の子の私は使えない、彼女の( )は心の中の呟き、と穂村弘コメント) 5.13


・ 答え合わせしてよ初めて愛すんだ空欄だけは無くしとくから

 (ナルヒト・女・17歳『ダヴィンチ』短歌欄、「愛」のテストという発想が魅力的です、「空欄だけは無くしとくから」に見られる捨て身の瑞々しさもいいですね、と穂村弘コメント、17歳の女の子の初恋の口説きの歌) 5.14


・ きっともう神さまだって忘れてるわたしを電子レンジが呼んでる

 (まち・女・25歳『ダヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、作者は引き籠りなのだろうか、電子レンジがチンと鳴って「わたしを呼んでいる」くらいしか、人と接触がないのだろうか) 5.15


・ 背のびして木漏れ陽を着るきみは五月

 (鎌倉佐弓、これは恋の句だろうか、とても瑞々しく、「きみは五月」がいい、「きみ」とは誰だろうか、作者は俳人夏石番矢の妻、国際俳誌の発行人であり、海外の詩歌祭でも活躍する人) 5.16


・ 夏立つや衣桁(いこう)にかはる風の色

 (横井也有1702〜1783、「衣桁」とは和室内に着物を掛けておく家具で、小さい鳥居のような形をしている、そこに掛かっている着物に風が当たって少し揺れているのだろう、それを、「風の色がかわって」夏を感じる、と詠んだ) 5.17


・ 今生の汗が消えゆくお母さん

 (古賀まり子1924〜2014、作者は若い時から療養生活で死と隣り合わせで生きた人、水原秋桜子に師事、この句は代表作で、作者の母の死去の際に詠んだもの、命が消えてゆくのを「汗が消えゆく」と表現、最後の「お母さん」は叫びのように聞こえる) 5.18


・ 道の辺(へ)の草深百合の後(ゆり)にと言ふ妹が命を我れ知らめやも

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「道端の茂みに咲く百合みたいに、君はいつも、いいわよ、でも「後(ゆり)にね」=もうちょっと待ってね、と言ってはぐらかすけど、君は幾つまで生きるの?」、いつもここ一番で彼女はスルリと逃げてしまう) 5.19


・ よひよひに枕さだめむ方(かた)もなしいかに寝し夜か夢に見えけむ

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「毎晩毎晩、僕はどっちに枕を向けて寝たらいいのか考えちゃうんだ、どっちに向いて寝た時に夢に君が現れたんだっけ、それを思い出そうとしてなかなか眠れないんだよ」) 5.20


・ 歎きあまり知らせそめつる事の葉も思ふばかりは言はれざりけり

 (源明賢朝臣『千載集』巻11、「君のことが好きで好きで、ついに耐えかねて告白しちゃった、でもね、僕の告白の言葉は、僕が思っていることをぜんぜん言い尽くせてないんだよ」) 5.21


・ なつかしき遠さに雨の桐の花

 (行方克己2004、清少納言は『枕草子』で「桐の木の花、むらさきに咲きなるはなほをかしき・・・、葉のひろごりざまぞ、うたてこちたけれ(=ぎょうぎょうしい)」と述べた、枝先にびっしり固まって花がつくので、少し遠くから見るのが美しいともいえる) 5.22


・ バナナ持ち洗濯機の中のぞきこむ

 (しらいしずみ『21世紀俳句ガイダンス』、作者は20代前半の女性だという、昔ならバナナは輸入物しかなく珍しかったので夏の季語だが、今は特に季節感はない、洗濯機もあたり前の存在で感動もない、でもこの句には何とも言えないおかしみがある) 5.23


・ 夜蛙の声となりゆく菖蒲かな

(水原秋櫻子、「夕刻、菖蒲の周りから蛙の声が聞こえ始めている、だんだん蛙の声が大きくなって夜になって行くんだなぁ」、菖蒲は湿地に生える、そして6月にかけて湿地や水田では蛙が大発生して、夜じゅう鳴き声が絶えない) 5.24


・ 想ひつつもろ手にうけて髪あらふわが知るのみの髪くらかりき

 (今野寿美『花絆』1981、20代の作者の恋は、深くゆっくりと二人で育んでゆく恋であった、この歌は、まだ彼氏が作者の髪を抱きしめたことがない頃だろう、彼のことをひたすら思いながら自分の髪を洗う作者、『花絆』は昭和短歌史でもっとも美しい恋の歌集の一つ) 5.25


・ 苦しみて告げし一語もためらひも草の香も君は忘れむいつか

 (米川千嘉子『夏空の櫂』1988、作者は学生の若い時から批評性の強い歌を作る人、恋の歌もとても批評的で、ぜったい舞い上がったりしない、詠われている彼氏(坂井修一)も大変だ、こんな風に恋人に詠われたら誰だって困ってしまう、彼氏の歌は明日) 5.26


・ いかやうにも見苦しきわれは物言はぬ時々刻々をむしろ生きゆく

 (坂井修一『ラヴュリントスの日々』1986、昨日の歌の作者米川千嘉子のような感受性の鋭く批評性の強い恋人をもった作者は大変だったと思う、二人の恋はそれぞれの歌から読み取れるが、作者はつねに押され気味、作者はその後、彼女と結婚した) 5.27


・ 蓮を見に息子を誘ふいやな後家

 (『誹風柳多留』、現代日本は風俗店の完備した国と言われるが、江戸時代も然り、この句の「蓮」は「出合茶屋」と呼ばれたラブホテルの隠語、上野の不忍の池周辺に何軒もあった、「出合い〇〇」って言葉、江戸時代にもうあったんですね! 「池の蓮の花を見にいこうね」と小さな息子をごまかす後家さん) 5.28


・ 父(とつ)さんが見ている内はかわゆがり

 (『誹風柳多留』第17篇、フランス近代小説などには、継母にいじめられる小さな子供の話がたくさんでてくるが、江戸時代の日本にも継母はたくさんいたのだろう、「父さんが見ているときだけは」先妻の子もかわいがる後妻) 5.29


・ 誹名(はいみょう)のないのを遣手(やりて)うれしがり

 (『誹風柳多留』第3篇、たくさんの俳人が客として遊郭・吉原を利用したのだろう、「遣手」つまりマネージャーの老女にチップをたくさんはずむのは、「誹名」のない無名の人が多く、「誹名」を持つ俳人はケチだという話) 5.30


・ 猫の子に嗅(かが)れてゐるや蝸牛(かたつむり)

 (椎本才麿、作者1656〜1738は芭蕉とも交流があった人、この句は「猫の子」が面白い、子猫は親猫と違って蝸牛を初めて見たのかもしれない、「何だろう?」と近寄ってしきりに嗅いでいる、蝸牛もぴたりと止まり「嗅がれる」ままになっている) 5.31

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2017-05-25 ITCL公演『Twelfth Night』

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[演劇] ITCL公演『十二夜』 東京女子大・講堂 5月25日


(写真右は、双子の兄妹のセバスチャンとヴァイオラ、写真下は左からトービー、マルヴォーリオ、アンドルー、そして道化フェステを間に挟む双子の兄妹、役者みずからトランペットを吹いたりバイオリンを弾く)

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好都合なことに、東京女子大の非常勤の講義を終えてすぐ、大学講堂で行われたInternational Theatre Company Londonの『Twelfth Night』を観ることができた。この劇団は、主宰のP.ステッビングズがポーランドの演出家グロトフスキーから学んだグロトフスキー・メソッドによる上演であるという。リズムのある声が、ときに重唱・合唱を交え、ばねのような身体の動きを特徴としている。科白は原作より少なくなっているが、しゃべりが速すぎないので、ブランク・ヴァースが美しく響く。喜劇ではあるが、ヴァイオラやマルヴォーリオの「悲しみ」を強調する、味わいのある舞台だった。たとえば、通常は道化が歌う底なしに暗い歌をヴァイオラが歌い、終幕のフェステの歌はマルヴォーリオに向けて歌う。伯爵令嬢オリヴィアを黒人女性が演じたり、女中マライアを男性が演じたり、キャラクターそのものに異化効果があり、科白が少ないぶん、切れのよい身体パフォーマンスで面白おかしい仕草で笑わせるのがうまい。役者の表情が実に豊かなのだ。グロトフスキー・メソッドが「持たざる演劇」なので、舞台装置はほとんどないが、穴のあいた一枚の板を「窓」と壁に見立てて縦横に使い、これが実に効果的。マルヴォーリオが閉じ込められる「地下室」も、これで十分表現できるわけだ。役者全員の重唱・合唱で始まる開幕は、一瞬、教会のアカペラを聴いているような錯覚を覚えたが、終幕もフェステの歌で終るわけで、『十二夜』は途中にも歌や音楽が多い。リズム感のある科白が重唱・合唱に移行し、身体パフォーマンスと混じるというのは、全体がうまく「様式化」していることでもある。能や歌舞伎とはまた違った様式化だが、シェイクスピアもやはり何らかの様式にのせられた演劇であることを強く感じさせる。ただ、T.ナンの映画版のような、しみじみと美しいロマンティック・コメディーの側面は弱く、どちらかといえば笑劇の要素が強い。俳優は一人一人が非常にうまい。ヴァイオラ役のレイチェル・ミドルはボーイッシュな顔立ちでヴァイオラにぴったりだし、マリヴォーリオ役のガレス・フォードレッドは劇団の中心役者と思われる名優だ。初演された17世紀初頭には、『十二夜』は「マルヴォーリオいじめ」が非常に受けて、ピューリタンに対する反感が表現されていると言われているが、この上演はそれに通じるところがある。下記の写真は↓、アンドルー、トービー、そしてフェステ。

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動画はみつからなかったが、下記に演出P.ステッビングズのプログラムノートがある。

http://stageplay.jp/c/performances/performances/new/#Gareth-Fordred

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2017-05-17 ヴェデキント『春のめざめ』

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[演劇] ヴェデキント『春のめざめ』 神奈川芸術劇場 5月16日


(写真右は、スタイリッシュな舞台、何もない抽象的な空間だが、ガラスで覆われている、上にいるのは抑圧する教師たち、下はもがき苦しむ少年少女たち、そしてガラスについている白いペンキは、少年たちが自慰で飛ばした精液。写真下は、少年モーリッツが、娼婦的な生活を送っている少女イルゼにからかわれる場面、彼の自殺は直接的には成績劣等だが、性への怯えも重要な要因だ)

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ヴェデキントの『春のめざめ』は、ブロードウェイや劇団四季のミュージカルで大ヒットしたが、演劇の原作はかなりきつい作品である。『ルル』や『ミネハハ』がそうであるように、かなり怖い物語と言える。ミュージカル版では、少女ヴェントラがレイプされるシーンの「レイプ性」が消し去られているそうだ(二人は相思相愛ということに変更)。しかし白井晃演出のこの舞台は、レイプはもちろん、個々の少年の自慰や、少年院の少年たちの集団自慰もすべて再現している。原作の性の「無慈悲でグロテスクな側面」(演劇評論家・伊達なつめの言葉)が、すべて描かれているので、観ていてつらいのだが、でもこれが「正しい」ヴェデキントなのだ。この上演で、ガラス張りの美しい抽象的空間にしたり、少年少女を美しい制服にしたのは、そうしなければ、生々しすぎて見られないからだろう。(写真下は、少女ヴェントラと少年メルヒオール、そして妊娠に泣くヴェントラ)

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19世紀末のドイツのギムナジウムの話で、学園ドラマなのだが、主人公たちは14歳だから、日本で言えば中学2、3年生だ。当時のドイツでは、性教育などはなく、性はきわめて抑圧されていて、ヴェントラは「子どもがどうしてできる」のか知らず、何度尋ねても母は教えてくれない。少年たちは、自慰を覚えたばかりで、男の友人同士で女の体や性交について、秘密の情報交換を楽しんでいる。自分は「奥手」なのかもしれないと不安やコンプレックスを感じ、友人にからかわれることを恐れている。そして、この時期は「自我の目覚め」とも重なっており、心理的に非常に不安定にもなる。モーリッツの自殺は性への恐れが大きな比重を占めているし、メルヒーオルにしても、そんなつもりはなかったのにレイプになってしまった。ヴェントラは何をされたのかよく分からないまま、飲まされた堕胎薬が悪かったために、あっさり死んでしまう。3人の主人公のうち2人が死ぬわけで、少年院に入れられたメルヒオールにしても、モーリッツの霊魂と握手してあやうく死ぬところを、仮面の紳士に助けられた。決して架空の話ではなく、現実にもこれに近いことはあったのだと思う。性(セックス)には、グロテスクで無慈悲なところがあり、生と死に直結している。我々は性という難しい問題を抱えて生きているというのが、『ルル』や『ミネハハ』と同様、ヴェデキントの主題であり、『春のめざめ』は関連する重要な要素がきちんと描かれていて(少年の同性愛も)、とても奥行きの深い作品だということが分かった。

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ギムナジウムでこれほどギリシア語ラテン語が重視されていたのも驚きだし、ギムナジウムの校長が生徒の自殺率の話をするのにも驚いた。ヘッセ『車輪の下』と共通するものがあり、当時のドイツでは学校も、中産階級の両親も、本当にこれほど抑圧的だったのだと思う。精神分析がフロイトによってドイツに生まれたのも、このような背景があってこそだと思う。この作品は、14歳の少年少女なので、役者も若くなければならない。三人の主人公を演じた志尊淳、大野いと、栗原類はとてもよかった。彼らは若くて美しい。ロック調を取り入れた音楽、スポーティな動き、「性」については笑えない反面、それを補うように喜劇の要素も上手に表現した白井演出は、すばらしい。そして素敵なギムナジウムの制服がとてもよかった。客席200人の劇場なので、ペイするのだろうかも気になった。


動画もありました。

http://www.kaat.jp/d/harunomezame

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2017-05-12 大池容子・うさぎストライプ『バージン・ブルース』

charis2017-05-12

[演劇] 大池容子作・演出『バージン・ブルース』 駒場・アゴラ劇場 5月11日


(写真右は、娘役の小瀧万梨子、結婚式でウェディングドレス姿、写真下はポスター、母親ではなく父親が二人いて、左から中丸新将と志賀廣太郎)

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今週は、小劇場系の演劇を二つ見た。8日には劇団・地点『ヘッダ・ガブラー』を見るために京都まで行って一泊した。地点は1月の『ロミオとジュリエット』に続いて二度目だが、まったく面白くなかった。ポストドラマ演劇といわれるもので、役者たちは並んだ椅子に座って体をゆすぶりながら、さまざまな「声」を出す。その「声」が、身体全体の多様なリズムとのさまざまなウェーブを引き起こして、声を含んだ身体パフォーマンスが「不協和音」のように響く。こうした新しい様式性が地点の魅力なのだろうが、ここまで「物語」を完全に解体してしまえば、これはもう『ロミジュリ』でも『ヘッダ・ガブラー』でもなく、「筋」がなければ演劇とは言えない。


それに対して、大池容子作・演出の『バージン・ブルース』は素晴らしかった。大池は1986年生まれの若い劇作家で、「うさぎストライプ」という劇団を主宰しているが、劇団「青年団」の人でもある。本作は、とても変った物語で、父親が3人いて母親がいない女の子が育って、結婚する。性同一性障害が暗喩されているのかもしれないが、全員が性的に「普通ではない」人々である。志賀廣太郎が演じる「父親」は、男性だが乳房が大きい身体を持っており、幼児期には女の子として育てられたが、小学校入学以来、男の子として学校に行ったので、ものすごくイジメられた辛い人生を送ってきた。中丸新将演じるもう一人の「父親」は、小学校以来の彼と同級生の親友で、二人はまったくうだつの上がらない生徒だったが、中学のときブラックという名の美少年(小瀧万梨子)が転校してきたので、彼の子分になって高校、大学と一緒に進み、学生運動の挫折によりバラバラになる。が、ブラックは男なのに一人の女の子を産み、出産と同時に死去。その後、志賀廣太郎と中丸新将が演じる「二人の父親」に育てられた女の子が結婚式を迎え、二人の「父親」にエスコートされてバージンロードを歩くというのが、タイトルの『バージン・ブルース』。だが、そのエスコートの途中で志賀廣太郎が演じる「父親」は倒れて死に、結婚式は葬式になってしまった。花嫁のウェディングドレスは黒い喪服に変っている。そして喪服でたった一人結婚式に残った彼女が、「幸せになること」を誓って終幕。(写真下は、志賀廣太郎演じる胸が大きい「父親」)

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何という切ない愛の物語なのだろう!「普通に生きること」はなかなか難しい。誰もがどこか「普通でない」ところを抱えているからだ。でも、誰もが「普通に生きたい」と願い、愛と相互承認を求めて激しくもがき、生き、そして死んでゆく。人間という生き物のその切なさが、本作の主題である。この劇には「産む女」が一人も出てこない。でも、ブラックが男なのに赤ん坊を産むのは、実は荒唐無稽ではない。ギリシア神話でもっとも重要な二人の女神、アフロディーテも(海の泡の精液から)アテナも(ゼウスの額から)、男から生まれている。ブラックは男女両性を兼ねた象徴なのである。本作は、ややアクロバティックだが、演劇の原点を踏まえた名作だと思う。舞台の進行は、リアルな結婚式の会場で、二人の父親と、もう一人の亡き父親であり娘でもある花嫁の「これまでの歩み」が走馬灯のようにビデオ上映されるという設定で、ビデオの中味を生身の俳優が実演する。結婚式でのビデオ上映という「劇中劇」は、現実の結婚式で行われる形式であり、これを使って過去を「再演」しつつ、アリストテレスの三一致の法則を踏まえたのは、日本の能がそうであるように、とてもうまい。


すでに名優として名高い中丸新将と志賀廣太郎の「渋さ」はとてもよかったが、美少年、美青年、5歳の幼女、そしてセーラー服をとっかえて、女子中学生、女子高生、さらには成人した花嫁まで一人で演じる小瀧万梨子は輝くように美しい!まるで 『十二夜』のヴァイオラを間近で見ているようだ。美青年ブラックは両性具有の男性性のアレゴリー、二人の「父親」に育てられた娘の彩子は、両性具有の女性性のアレゴリー。だから神話的に美しいところが、トランスジェンダーのヴァイオラと共通する。小瀧万梨子という一人の役者にこれだけ多重の役をやらせるのは、普通は弱小劇団ゆえの「やむをえなさ」と思うだろう。だが、本作はそうではない。同一の彼女が多重の役をやるからこそ、時間軸と駆け抜けた人生を表現できるのだ。そして、男性性と女性性という、二つの非同一性の同一性も。

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