Hatena::ブログ(Diary)

charisの美学日誌

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最新タイトル

井上ひさし『父と暮せば』
今日のうた85(5月)
シェイクスピア『ヘンリー五世』
K.ワーグナー演出 ベートーヴェン『フィデリオ』
METライブ ヴェルディ『ルイザ・ミラー』
ヘンデル『アルチーナ』(二期会)
METライブ 『コジ・ファン・トゥッテ』
横浜美術館『ヌード展』
今日のうた84(4月)
劇団・円 『十二夜』
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2018-06-13 井上ひさし『父と暮せば』

charis2018-06-13

[演劇] 井上ひさし『父と暮せば』     俳優座劇場  6月13日


(写真右は、娘の美津江[伊勢佳世]と父の竹造[山崎一]、下は、雷を怖がって押し入れにこもる二人、市内で原爆の直撃を受けた二人は雷の「ピカッ」にも体が怯える)

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24年間、繰り返し再演されてきた有名な作品だが私は初見。科白の中には、一生忘れられないような言葉もあり、科白や動作の一つ一つが、一見軽く見えて実はずしりと重い。非常な名作だと思う。演劇はこのようなことを表現できるのかと、あらためて感嘆させられた。登場人物は二人だけだが、二人の語る言葉には多くの人間の声が混じっており、多声的というか、舞台の上には現実の俳優だけでなくたくさんの人間がいるのだ。23歳の美津江は図書館に勤めており、子供たちに昔話を語る練習をしているのだが、「伝承内容を勝手に変えない」ことにこだわる彼女は、「経験を語り伝えること」と格闘している(写真↓)。

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場面は昭和23年、広島。原爆の直撃を受けて、父は死に、娘の美津江は生き残ったが、親しい友人はほとんど死んでしまった。彼女に恋が始まるのだが、彼女は「自分は幸せになってはいけない」のだと、恋を抑制しようとして激しい葛藤のうちにある。すると、父の幻影が現れ、娘の恋と結婚を励ます。「父と暮せば」とあるが、父は実は幻影で、娘は一人なのだ。美津江が恋と結婚をためらうのは、自分の原爆症もあるが、本当の理由は、「自分が生き残れたのは他の人が身代わりに死んだから」。女専時代から一緒に活動している親友の手紙を、道端でうっかり落してしまい、拾おうとかがみ込んだ瞬間に原爆が爆発、ちょうどそこにあった石燈籠の陰になって彼女は助かった。その親友は即死して、翌日、美津江は彼女の無残な死体に会う。ほとんどの友人知人は死に、美津江は「自分だけ生き残ってしまった、申し訳ない」という気持ちに抑圧されて、せっかく始まった恋ができないのだ。幻影の父が、とてもコミカルに笑わせながら、自分は道化になりきって彼女の恋を励ます。それがとても可笑しいのだが、そうであればあるほど、どこか悲しい。被爆して生き残った人はほとんどが、「自分が生きているのは他者が代わりに死んだからだ」という苦しさを背負っており、「代わりに死んだ」を広義に解すれば、これは被爆者だけでなく、我々の倫理の根本に関わる普遍的な主題ではなかろうか。写真下↓はもっとも悲しい場面。燃え上がる家屋の下敷きになった父は、「早く、お前だけ逃げろ」と言うが娘はなかなか逃げられず、ジャンケンで決めようとしている場面。そして結局、娘は逃げるしかなかった。

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父親役の山崎一は素晴らしい名演だと思う。コミカルだけど悲しい、チェホフ的なキャラクター。娘役の伊勢佳世も、まじめ過ぎるところがよく表現されているが、恋もしたいという部分も、完全に抑圧してしまわずに、どこかで表現してもよかったのではないか。終幕、娘の図書館の仕事を励ます父親の科白、「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが」という言葉は、本当に素晴らしい。演劇の使命もまさにそれではないか。よく聞き取れないところもある広島方言で科白がしゃべられるのも、いい。生きた人間は、実際はそれぞれの「方言」でしゃべるはずだ。演出の鵜山仁はプログラムノートでこう言っている。「作者にしろ、役者にしろ、現場スタッフにしろ、ここに参加したひとりひとりのメンバーの名前はそう遠くない未来に忘れられてしまうでしょうが、舞台に寄りつどった「声」は、きっと人の記憶、人類の記憶として残っていくでしょう」。人々の多声的な「声」を伝えること、演劇も文学も、そのためのものなのだ。

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2018-06-01 今日のうた85(5月)

charis2018-06-01

[今日のうた] 5月1日〜31日


(写真は日野草城1901〜56、「ホトトギス」出身だが、若い頃は女性のエロスをたくさん詠んだ人、新婚初夜を詠んだ「ミヤコ ホテル」10句が虚子の逆鱗に触れて「ホトトギス」を除名された)


・ ライラックの莟(つぼみ)ひそやかにまだ固しわれらの恋もあをしとぞ思う

 (石川不二子『牧歌』1954、作者は東京農工大在学で20歳、ほとんどが男子学生の中で、真面目な女子学生だったのだろう、固く身を閉じていた彼女が、恐る恐る恋へ歩み出すとき) 5.1


・ 夜更けて一途にものを書きつげる夫の肩のへはつか息づく

 (河野愛子『木の間の道』(1955、新婚早々の作者は、夜遅くまで書き物をしている夫を、部屋の後に座ってじっと見守っている、重要な箇所が書き終わったのだろう、緊張していた夫の肩がすこし緩み、一息ついた) 5.2


・ 知る限りの汝れはわがものわが知らぬ時と所で他人の顔をしてゐよ

 (河野裕子『森のやうに獣のやうに』1972、作者は大学生、彼女の歌の魅力は、「愛の主体」としての女性の強靭な自我を詠むところにある) 5.3


・ 杜若(かきつばた)語るも旅のひとつ哉

 (芭蕉1688『笈の小文』、江戸から大阪に下り旧友の家に泊まった時の句、「庭の杜若が美しいね、か・き・つ・ば・た、といえば在原業平の歌が思い起こされるよ、そんなことも含めて君といろいろ語り合えるのは何て楽しいことだろう」) 5.4


・ けしの花籬(まがき)すべくもあらぬ哉

 (蕪村1775『句帳』、「庭のケシの花が美しいな、ケシの花は折り取ったりすれば、すぐ花びらが散ってしまうから、誰も盗んだりしない、生垣なんかいらないのさ」、意外な着眼点でケシの花びらの美しさを詠んだ、今ポピーの時期) 5.5


・ 雉(きじ)うろうろうろうろ門(かど)を覗くぞよ

 (一茶1812『七番日記』、「おや、雉くんがうろうろと歩いてきたよ、そしてうろうろしながら、門の所から家の中を覗きこんでいる」、一茶には、動物への愛情を感じさせる句がたくさんある) 5.6


・ 君来(こ)ずは形見にせむとわが二人植ゑし松の木君を待ち出でむ

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「貴方が来ないときは、代わりに貴方の姿をそこに見る目的で、松の木を私たち一緒に植えたわよね、その松の木を見ながら、さあ待っているわよ、待つわよ」) 5.7


・ 来む世にも早なりななむ目の前につれなき人を昔と思はむ

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「今、目の前にいる貴女はどうしてそんなに冷たいのでしょう、ああ、早く来世になってほしいよ、そうすれば、貴女のことはたんなる前世のことになるから」) 5.8


・ 契りおくその言の葉に身を替へてのちの世にだに逢ひ見てしがな

 (よみ人しらず『千載集』巻12、「来世なら会えると貴女が約束してくれたその言葉、ああ、その言葉に私自身がなり替わりましょう、せめて来世では貴女に会えるために」) 5.9


・ 一人来て種蒔くまでの畔往来

 (高野素十1942、「畑に農夫が一人種を蒔きに来た、すぐには蒔かず、いろいろと見定めているのだろう、何回も畔を行き来している」、畑における人の動きを詠んだところが素十らしい) 5.10


・ 物いはぬ人と生まれて打つ畠か

 (夏目漱石1907、農夫が黙々と畑を打っているのだが、その農夫は人一倍寡黙なのか、漱石が話しかけても答えがないのだろうか) 5.11


・ 春愁を消せとたまひしキスひとつ

 (日野草城『草城句集(花氷)』1927、作者は二十代前半か、「そんな憂鬱な顔しないでね」と彼女がキスをしてくれた、「たまひし」がいい) 5.12


・ 白牡丹いづくの紅のうつりたる

 (高濱虚子1925、白牡丹は基本的には純白だが、中心付近の花びらに、かすかに紅色になっているものもある、それもまた美しい白牡丹) 5.13


・ しぶきして大白薔薇の剪られけり

 (正木ゆう子『水晶体』1986、「雨がやんだので、大きな白バラを切る、挟に力を入れてグッと切ったとき、花や葉に付いたたくさんの水が、しぶきのように飛び散った」) 5.14


・ つばくらや嫁してよりせぬ腕時計

 (岡本眸『冬』1976、作者はOL時代があったが、結婚しして専業主婦になったのだろう、「街にちょっと買い物に出て、ふとツバメを見かけた、そういえば私、腕時計をしていない、結婚してだいぶたったわね」) 5.15


・ 前向ける雀は白し朝ぐもり

 (中村草田男『長子』1936、スズメは横から見ることが多いので、羽の茶色をまず思い浮かべるが、正面の胸は真っ白だ、「朝曇りの中、正面を向いたスズメの白さが際立つ」、草田男らしい鋭い把握。雀を正面から見ると、雀からもこちらが見えるから、雀は驚いて逃げてしまう。だから我々は雀を正面から見る機会は少ない。それがこの句の面白さ) 5.16


・ やわらかく世界に踏み入れるためのスニーカーには夜風の匂い

 (鈴木加成太「革靴とスニーカー」2015、作者1993〜は2015年に角川短歌賞受賞、「スニーカー」は大学生活の若々しさを、「革靴」は就活から社会人生活への移行を象徴している) 5.17


・ 肉親の殴打に耐えた腕と手でテストに刻みつける正答

 (遠野真「さなぎの議題」2015、作者1990〜は2015年に短歌研究新人賞を受賞、肉親との軋轢に耐えながら高校生活を送る日常が詠まれている) 5.18


・ もんでみた自分のおしりがかわいくて自分がかわいそうで吐きそう

 (谷川電話『恋人不死身説』2017、作者1986〜は2014年に角川短歌賞を受賞、この歌集には、不器用でギクシャクした感じの恋愛が詠まれている) 5.19


・ 塵(ちり)に立つ我が名清(きよ)めん百敷(ももしき)の人の心を枕ともがな

 (伊勢『後撰和歌集』、「また私の、してない恋の噂が、塵が舞うように広まってる、清めなくっちゃね、そうよ、宮中(=百敷)のすべての人が順番に私の夜の枕になればいいのよ、枕は、私の恋の真相を知ってるから」) 5.20


・ 海松布(みるめ)なきわが身を浦(うら)と知らねばやかれなで海人(あま)の足たゆく来る

 (小野小町『古今集』、「海藻の海松布が生えない浦のように、私は貴方とは会いたくない[=貴方を見る目はない]、なのにそれを知らない海人がしきりに足を運ぶように、貴方も性懲りもなく来るのね」) 5.21


・ みづうみの友よぶ千鳥ことならば八十(やそ)の湊(みなと)に声絶えなせそ

 (紫式部『家集』、「貴方は湖の友を呼ぶ千鳥さんでしょ、たくさんの女性に声かけてるくせに、よく言うわよ、相手が誰でも同じことなんでしょ、せいぜいあちこちの港でまめに声をお掛けなさい」、求愛してきたプレイボーイへの返し) 5.22


・ 青麦やあふてもあふてもしらぬ人

 (正岡子規1893、子規は26歳、「青々と麦が伸びている畑が、どこまでも続いている、人とはすれ違うのだけれど、いつまでたっても知った人はいない」、知った人がいないという着眼点に俳諧の味がある) 5.23


・ 麦の風鄙(ひな)の車に乗りにけり

 (河東碧悟堂1898、作者は25歳、初期の句だ、田舎道を荷車に乗せてもらっているのだろう、そこで「麦の風」を感じるというのがいい、周囲には広大な麦畑が広がっている) 5.24


・ 金魚売出でて春行く都かな

 (室生犀星1907、「金魚売が街に出ているのを見かけた、東京も、そろそろ春は終わりで夏になるんだ」、明治40年の東京には、盥をぶらさげた天秤棒を担いだ金魚売がいたのだ) 5.27


・ 甲斐性(かひしやう)なき男もいとし業平忌(なりひらき)

 (小西和子『獏枕』2003、5月28日は在原業平の命日と言われる日、「甲斐性なき男」とは、作者の周辺に思い当たる人がいるのだろう、しかし業平はむしろ「甲斐性ある男」だろう、少なくとも恋愛の相手としては) 5.28


・ かきくらす心の闇に惑ひにき夢現(ゆめうつつ)とは世人(よひと)さだめよ

 (在原業平『古今集』、「真っ暗な心の闇に迷ってしまい、貴女が来たのか私が行ったのか、夢か現実かも分からない、どちらなのか世の中の人が決めてね」、伊勢神宮の斎宮(=巫女)と一夜過ごした後朝の手紙、大変なスキャンダル) 5.29


・ 色もなき心を人に染めしよりうつろはむとは思ほえなくに

 (紀貫之『古今集』、「どんな色にも染まっていなかった私の心を、貴女は、貴女一色に染めてしまいました、ああ、それなのに、貴女は心変わりをしてしまったのですね、思ってもみなかったことです」) 5.30


・ 夕されば屋戸(やど)開(あ)け設(ま)けてわれ待たむ夢に相見に来むと言ふ人を

 (大伴家持『万葉集』、「貴女は<夢の中で会いに行きます>と言ってくれました、だから、夕暮れになったら、私の家の戸を開けて、貴女を待っています」、後の妻、大伴坂上大嬢に送った歌) 5.31

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2018-05-31 シェイクスピア『ヘンリー五世』

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[演劇] シェイクスピア『ヘンリー五世』 新国立劇場 5月31日


(写真右は、フランスのキャサリン王女に求愛するヘンリー五世、写真下は舞台、支配階級である王や諸侯(貴族)、中級兵士、下級兵士などがそれぞれとても個性豊かに生き生きしている、兵士たちが話すウェールズ語、アイルランド語など「方言」も楽しい)

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戯曲を読んだ段階では、対話部分はとても面白いが、演劇的な盛り上がりに乏しい作品という印象をもった。クライマックスであるアジンコートの戦いも、原作には戦闘場面は一切ない。対立や葛藤が劇の進行とともに高まり、それが劇的に解決されるという全体構造でもない。しかし実際の舞台は非常に面白いものだった。何よりも人物造形が細部にわたって優れており、「人間の生きざまを見る楽しみ」という演劇への欲求に十二分に応えるものだった。英仏百年戦争をフランス優位からイギリス優位へと逆転したヘンリー五世は、非常に魅力的な人物であることがよく分かる。私はどこかハムレットに似ているように感じた。一面では、ハル王子がそうであったような、竹を割ったような直情径行型で体育会系の熱血青年、他面では、非常に内省的・思索的な資質の、両方を持ちあわせている。ちょうど、レアティーズは前者、ホレーシオは後者で、ハムレットは両面を持っているように。そして、政治的判断力、政治的決断力に非凡なものが感じられる。フランス軍突撃の情報を得て、直ちに捕虜の処刑を命じるのはそれで、戦争遂行中の王としては、まことに正しい行為である。そしてもっとも重要なのは、味方を説得し、励まし、強固な意志と力をもつ組織を形成する指導者としての能力である。アジンコートの戦いでは、ヘンリー五世の感動的な演説によって、劣勢だったイギリス軍の士気が高まり、4倍の人数のフランス軍を破ったというのは、たぶん史実なのだろう。ジャンヌ・ダルクも同じような、ずば抜けた資質をもつ指導者だったと言われるが、百年戦争は、両国に優れた指導者を生み出したということだろう。それはともかく、この劇でもっとも面白く感じたのは、フランス人は片言の英語で、イギリス人は片言のフランス語で、ぎくしゃくした会話をする多くの場面である(写真下は、王女キャサリンに必死で英単語を教える侍女アリス、その下は、結婚したヘンリー五世とキャサリンだが、前者はほぼ英語しか後者はほぼフランス語しかしゃべれないので、コミュニケーションは難しい)

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1066年のノルマンディ公ウィリアムのイギリス征服以来300年以上にわたって、イギリス国王はすべてフランス人であり、上級支配層もフランス語を母語としている。ヘンリー五世が、英語しか話せない初めてのイギリス王と言われているから、かなり長期間イギリスの支配層はフランス人だったわけだ。とすれば、英仏百年戦争とは誰と誰が何をめぐって戦ったのか、考えてみれば不思議な戦争だ。『ヘンリー五世』のクライマックスは、最後にヘンリー五世がキャサリン王女に求愛する口説きの場面だと思う。よくあるタイプの口説きではぜんぜんなくて、両者の対話が不器用なだけでなくひどくこんがらがっており、ヘンリーの口説きも上手いとはいえない。なぜなのか不思議だったが、しかし考えてみたら、この結婚は戦勝国イギリスに対する敗戦国フランスの降伏条約の一部であり、キャサリンがヘンリーの妻になるのは、要するに人質に取られるわけだから、キャサリンには断る自由はもともとない。だから普通の口説きの会話にはならないわけだ。イギリスが初めてフランスに対して優位になっただけでなく、イギリス本国内で、英語がフランス語に対してヘゲモニーを奪うというのが、まさに史劇『ヘンリー五世』の歴史的コンテクストの中核なのだ。このコンテクストの理解がないと、『ヘンリー五世』は演劇として十分に観賞できない。とすれば、コンテクストを共有しない現代日本人に、日本語で上演する今回の舞台が、ここまで面白く見られるということは、演出も役者も非常に優れていることが分かる。兵士たちも、ウェールズ語、アイルランド語などさまざまな「方言」でしゃべるので、その面白さも『ヘンリー五世』の重要な要素になっている。

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2018-05-30 K.ワーグナー演出 ベートーヴェン『フィデリオ』

charis2018-05-30

[オペラ] K.ワーグナー演出 ベートーヴェン『フィデリオ』 新国立劇場 5月30日


(写真右は舞台、上下に移動する階層構造によって、地下の牢獄と地上を同時に表現する、上は少女マルツェリーネ、下は獄中のフロレスタン、写真下は[ネタバレになるが]結末の改作を示すもの、レオノーレの右腹部と、フロレスタンの左腹部に血が付いている、二人とも刑務所長ピツァロに刺され瀕死の状態、すぐ後に右端の十字架のところの墓に横たわって死ぬ)

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ワーグナーのひ孫にあたるカタリーナ・ワーグナーの演出で話題になった上演だが、まさかの改作にびっくりした。原作とは違い、レオノーレとフロレスタンは解放されるのではなく、ピツァロに刺されてともに死ぬ。ピツァロは変装してうまく立ち回り、最後に、解放されたかに見えた囚人たちは再び牢獄に閉じ込められて終幕。歌と音楽は原作通りだから、物語の改作は、第二幕途中にレオノーレ序曲第3番が長く演奏され、その間にパントマイムで進行する。ピツァロがブロックを積み重ねて牢獄を密閉し、死んだ二人を中に閉じ込める。その少し前に墓を掘るシーンがあるが、原作ではレオノーレとロッコが掘るのだが、舞台ではフロレスタン自身が掘っている。歌詞と合わないので、私は、どうも変だなと思ったのだが、次にこの墓に二人が死んで入るわけだ。最後、原作では囚人たちが解放され、その中でレオノーレがフロレスタンの手の鎖を外すシーンは、この上演では替え玉が行う。フロレスタンに変装したピツァロと、レオノーレのドレスを着た別人の女性が鎖をはずすのだが、この時、本物のフロレスタンとレオノーレは、すでに牢獄で死んいる。そして、解放された囚人たちは一瞬の後には、再び檻の中にいて終幕。見ている私は何がどうなっているのか分からず、混乱したが、どうやら、鎖外しや囚人の解放は我々の幻想・幻影でしかなく、こちらこそが21世紀の現代世界の閉塞状況を表わすリアルな状況なのだというのが、K.ワーグナーの改作の主旨らしい。(写真下は、レオノーレと、刑務所長ピツァロ)

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たしかに原作の、大臣が突然やってきて二人と囚人たちが救出されるという「機械仕掛けの神」ふう解決は、19世紀のオペラの物語としては不自然な展開ではある。しかし『フィデリオ』は、「夫婦愛」だけでなく「人類愛」「正義」「自由」が主題なのだから、二人が死んでしまい囚人たちも解放されないというのでは、非常にまずいのではないか。悲劇にしてもカタルシスがなく、不快な感情が残る。とはいえ、歌手も音楽もとても良かった。ベートーヴェンの音楽には「崇高な美しさ」があり、『フィデリオ』は第9とどこか似ている。フロレスタン役のステファン・グールドと、レオノーレ役のリカルダ・メルベートは、どちらもワーグナー歌いだけあって、声量と張りのある声の美しさは格別だ。指揮は、これで芸術監督を退任する飯森泰次郎。(写真下は、冒頭、楽しく遊ぶ少女マルツェリーネ、第1幕最初は、少しコミカルで、楽しく明るい美しさがあり、私は好き)

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フロレスタンがピツァロに刺される衝撃のシーンを含む動画がありました↓。

https://www.youtube.com/watch?v=kMFENTqwH1o

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2018-05-21 METライブ ヴェルディ『ルイザ・ミラー』

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[オペラ] ヴェルディ『ルイザ・ミラー』 METライブ(4月14日) 銀座・東劇 5月21日


(写真右は、左からルイザ[ヨンチェヴァ]、父ミラー[ドミンゴ]、恋人のロドルフォ[ベチャワ]、写真下は、舞台、チロルの寒村で、舞台装置も衣装も歴史を踏まえている。)

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F.シラーが25歳のときに書いた戯曲『たくらみと恋』をヴェルディがオペラ化したもの。身分違いの恋人たちの結婚が妨害され、二人が死んでしまう悲劇で、それぞれの娘と息子の死によって二人の父親が残されるという点では『ロミオとジュリエット』に似ているし(写真下↓)、偽手紙に騙されたとはいえ、恋人ルイザが心変わりしたと疑って殺そうとするところは、『オセロ』に似ている。最初から最後までテンションが高く、緩急でいえば緩がなくて急ばかりの作品だ。オペラとしてはきわめて演劇的で、ヴルムや伯爵のような悪人がいて陰謀をめぐらし、その陰謀が着々と進行して、最後、善人の若い恋人たちが死に至るのは、『オセロ』のように、筋の展開そのものが辛い。『たくらみと恋』を演劇で見たときには気が付かなかったが、この作品は父ミラーと娘ルイザの「父娘愛」が大きな柱になっており、『リゴレット』などとも共通する(写真下↓)。ヴェルディは「父娘愛」が主題として好きだったのかもしれない。

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それにしてもヴェルディは、休むことなく、どの場面にも凄い音楽を付けている。登場人物たちは、愛の葛藤に苦しみ、激しくもがき、神に祈り、神を呪うので、その感情はあまりにも強く、ヴェルディの重厚な音楽が激しく高鳴って、こちらが受け止められないほど圧倒される。崇高さが感じられる音楽でもある。色々と音楽的な実験もなされており、楽器がまったく鳴らないアカペラの四重唱は、ヨンチェバが言うように、「全体が宙に浮いている」ような不思議な感じがするし、珍しいバスだけの二重唱(下に動画が↓)も味わい深い。とにかく、今回の舞台は歌手がすべて凄い、77歳のドミンゴも含めて、全体の息が合っているというか、歌唱の「厚味」が素晴らしい。悪役の伯爵(ヴィノグラドフ)とその部下ヴルム(ベロセルスキー)はバスだが、二人のテノールとの組み合わせ(バリトンはいない)の歌唱は、重く悲劇的な感情を見事に表出している。演出はE.モシンスキー、指揮はド・ビリー。あと、METライブは、幕間の歌手インタヴューがとてもよい。ドミンゴはこう語った、「私は音楽をやって食べていけるという非常に恵まれた立場にあることをとても感謝している。だから、たとえ歌えなくなっても指揮など音楽は続ける。死ぬまで引退しない。」

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よい動画がありました。

ヴルムがルイザに偽手紙を書かせるシーン(2分半)

https://www.youtube.com/watch?v=O-uJReRKpbA

伯爵とヴルムのバス二重唱(1分半)

https://www.youtube.com/watch?v=T3d3b8-VnZ4

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2018-05-19 ヘンデル『アルチーナ』(二期会)

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[オペラ] ヘンデル『アルチーナ』 二期会公演 めぐろパーシモンホール 5月19日


(写真右は、演出のエヴァ・ブッフマン、下はポスター、舞台写真は一番最後に↓)

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ヘンデルにはオペラが40曲以上あるが、『アルチーナ』は彼の在世中から「ヘンデルの最高傑作」と言われていたという。私はもちろん初見だが、素晴らしい作品だった。構造が非常にはっきりしており、レチタティーヴォで物語が進み、アリアはひたすら感情を表現するので、同じ歌詞が繰り返し繰り返し歌われる。ヘンデルの美しくゆったりした音楽が心地よいので、前半はやや退屈だったが、魔女の女王アルチーナが魔法の力を失って破滅に向かい始める深みのあるアリアから、休憩をはさんで後半は、テンションがぐっと上がって、素晴らしい盛り上がりを見せる。キャラの作りが明確なのがいい。傲慢なアルチーナは黒ずくめのドレス、妹のモルガーナはピンクづくめの女の子女の子した服で、御菓子やバナナをつまみ食いしている。そしてアルチーナの魔法にかかって愛人にされるルッジェーロは、軍人の英雄のはずだが男性性をほとんど感じさせない優柔不断な男で、めかし込んだおしゃれな服装で、なるほどメゾソプラノが男装して歌うのは、必然性があるわけだ。ルッジェーロの婚約者ブラダマンテも弟に変装したので男装したメゾ。父を獣に変えられた少年も男装メゾだし、こうしたトランスジェンダーがとても楽しく、全体に、男性は二人で、あと全部女性なので、なんだか宝塚のようなオペラなのだ。(下は練習風景、ブッフマンと指揮の鈴木秀美[右端]が、左側の歌手たちに説明している。二期会の若手公演なので、歌手がみな若く、瑞々しい)

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魔法で次々に男たちを魅惑して、愛人にしては、すぐに飽きて捨て、獣や石に変えてしまう魔女アルチーナ。しかし彼女は、本当に男を愛したことは一度もない。ところが、救出に来た婚約者ブラダマンテによってルッジェーロが魔法から醒め、アルチーナが彼に捨てられる段になって、彼女は初めて本当の愛に目覚める。初めての失恋! 「ああ、私の心よ、お前は騙されたのよ、星たちよ、神々よ、愛の神よ」と、切々と哀願するように歌う彼女のアリア。ここからが、舞台は劇的に盛り上がる。アルチーナは、島を逃げ出すルッジェーロを阻止しようと亡霊たちを呼び出すが、亡霊はだれも出てこないし、派遣した軍隊は全滅する。彼女は魔法の力をすべて失い、服も最後は質素な茶色の服に代わり、魔女はただの普通の女になってしまった。プライドの高い彼女だったが、今は跪いて泣きながら愛を乞うが、足蹴にされて破滅し、終幕。他の恋人たちがすべて愛を回復するのに対して、アルチーナだけは救済されない。彼女はどこか『魔笛』の夜の女王に似ている。


アルチーナ、モルガーナ、ルッジェーロの三人が、それぞれ愛の葛藤の苦しみを歌うアリアが本当に素晴らしい。ヘンデルは、それぞれの感情の違いに即したオケの音楽を付けている。古楽器のオケなので、音量は大きくないがとても美しい。アルチーノに対しては、Vlを中心にした弦楽器が、モルガーナに対しては、ほとんどチェロだけが(何という美しいチェロの音!)、そしてルッジェーロに対しては、金管も含めた全楽器が鳴るというように、三人の異なるアリアに対して、オケがまったく異なる音楽を伴奏する。このアリアの素晴らしさと、メルヘン風の分りやすい物語が、この作品の魅力なのだと思う。現代的でシンプル、スタイリッシュな舞台装置も美しい。

画像が見つかりました。写真は↓、ルッジェーロとアルチーナ、そして、お菓子をブラダマンテに食べさせるモルガーナ、そして舞台。

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