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charisの美学日誌

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最新タイトル

ギリシア悲劇『エレクトラ』
国立西洋美術館『シャセリオー展』
今日のうた71(3月)
ストリンドベリ『令嬢ジュリー』
ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団 『カーネーション』
W.ムワワド『炎 アンサンディ』
シュニッツラー『緑のオウム亭』
MET、グノー『ロメオとジュリエット』
今日のうた70(2月)
シラー『たくらみと恋』
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2017-04-22 ギリシア悲劇『エレクトラ』

charis2017-04-22

[演劇] ギリシア悲劇『エレクトラ』 世田谷パブリックシアター 4月22日


(写真右は、クリュタイメストラの白石加代子と、エレクトラの高畑充希、写真下は、エレクトラと、弟オレステスの村上虹郎)

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俳優も演技も素晴らしい舞台だったが、上演台本(笹部博司作)にやや問題があると思う。『エレクトラ』は、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの三人がそれぞれ戯曲を書いており、内容が微妙に違うところも面白いのだが、今回の『エレクトラ』は、ソフォクレス版を中心としながらも、他の二人の作品と組み合わせて作っている。たとえば、クリュタイメストラが自分の乳房を見せて、母を殺そうとするオレステスを動揺させるシーンは、アイスキュロス版は舞台で実演され、エウリピデス版では隣室でのこととして言葉で報告され、ソフォクレス版にはないが、本舞台では、アイスキュロス版を使っている。それはよいのだが、本作は、『エレクトラ』以外の作品もいろいろ組み合わせて、全体の物語を作っている。復讐劇の発端であるエレクトラの姉イピゲネイアが生贄にされる『アウリスのイピゲネイア』と、エレクトラとオレステスが「母殺し」の後、復讐の女神エリュニスに追われて苦しむ『オレステス』の一部を加えたのは、物語の全体を描くために必要なことは分かるが、イピゲネイア救出の『タウリケのイピゲネイア』まで加えたために、話が複雑になりすぎた。作品『エレクトラ』だけが持っている重要な要素、すなわち、母と娘の葛藤から「エレクトラの母殺し」に至る過程だけを前景に出せばよいので(この舞台でも、それはよく描かれていたが)、それ以外の部分は不要ではないだろうか。(写真下は、アガメムノン(赤麿児)を殺すクリュタイメストラと、クリュタイメストラを殺すオレステス)

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あと、「デウス・エクス・マーキナー(機械仕掛けの神)」が、アポロンとアテナと二度出てくるが、近代的なヒューマニズム解釈になっているので、何かおかしい。ゲーテ改作の『タウリスのイピゲネイア』だけでなく、バートン版の『グリークス』も、近代ヒューマニズムの解釈が色濃いので、これは我々の時代がギリシア悲劇を「どう受け止めたいのか」に関わる大きな問題かもしれない。『エレクトラ』はやはり、『オイディプス王』がそうであるように、父/息子の葛藤に加えて母/娘の葛藤に注視し、男性性/女性性という「人間の深い秘密」あるいは「家族の深い闇」を見詰めているのだと思う。斉藤環『母は娘の人生を支配する ― なぜ「母殺し」は難しいのか』は、エレクトラ・コンプレックスを解明した名著だが、副題から分かるように、息子による「父殺し」は普遍的であるのに対して、娘による「母殺し」はきわめて希である。それにも関わらず、それが起きてしまったのが『エレクトラ』であり、それが『エレクトラ』を非常にユニークな作品にしている。アイスキュロス版では、「母殺し」はオレステス主導であり、エレクトラは後半には登場しないが、ソフォクレス版とエウリピデス版では、実際に手を下すのはオレステスであるにしても、それをリードするのはエレクトラである。そのような違いこそ重要であり、娘の「母殺し」は難しいにも関わらず起きてしまったのが『エレクトラ』の真の主題である。斉藤環によれば、娘は自分の「女性性」を母から受け継ぐのだが、母が父との幸福な結婚であれば、母は自らの「女性性」を肯定し、それを娘にうまく継承させられるが、母と夫との結婚が不幸なものであれば、娘に女性性をうまく継承させることはできない。クリュタイメストラとエレクトラの関係はまさにそれである。(写真下は、機械仕掛けの神のアポロン)

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上演台本にやや問題はあるが、俳優は素晴らしかった。白石加代子のクリュタイメストラは4度目というから、彼女以外は、この役はなかなかできないのだろう。高畑充希のエレクトラは、生動感にあふれ、可愛らしく瑞々しいが、それでいて十分な迫力があった。エレクトラは、母から女性性を受け継げず、ものすごく屈折した性格になってしまった「うざい女」である。『グリークス』の寺島しのぶも素晴らしかったが、高畑充希のエレクトラも、それに劣らず名演だと思う。演出は鵜山仁。(写真下はエレクトラ。水瓶を頭に載せているのはエウリピデス版による。)

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2017-04-04 国立西洋美術館『シャセリオー展』

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[美術館] 国立西洋美術館『シャセリオー展』 4月4日


[写真右は「カバリュス嬢の肖像」、下は「泉のほとりで眠るニンフ」と「オリーブ山の園で祈る天使」]

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シャセリオー(1819〜56)の絵がこれだけ大量に日本に紹介されるのは初めてだという。描かれた人間の姿が美しいのに感嘆した。知的な顔立ちに特徴があり、知性は人間の顔を穏やかなものにして、そこに優美さが生まれるのだ。「泉のほとりで眠るニンフ」は数多くの画家によって描かれてきた「眠るヴィーナス」と同じ題材だが、神々しいまでの美しさで、私がこれまで見たことのある裸婦像では、最高のものに思われた。ある批評家は、「プラクシテレスの女神像のようだ」と評したが、たしかに「アルルのヴィーナス」に似ている。足から腰回り、胸にかけて、ふくよかでありながら硬質な感じがあり、ルノアールの肉感的な感じとは違って、その硬く白い輝きが美しさの源泉のように思われた。この女性は、シャセリオーの愛人だったアリス・オジーという女優で、「パリでもっとも美しい体」と讃えられたという。客はルイ・ナポレオンなどの有名人だけでなく、ユゴー父子が彼女をめぐって争ったというのが面白い。父ヴィクトル・ユゴーは『見聞録』に恋敵シャセリオーをけなす文章を書いており、アリス・オジーがそれに反論する手紙も残っている。子ユゴーのシャルルは「あなたの白き足に口づける」という詩を残した。写真下は、シャセリオーの描いたオジーのスケッチ画。

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下の絵は「アポロンとダフネ」だが、膝から下が樹になっているのは普通として、多くの画家の絵はダフネが激しく叫んでいるの対して、シャセリオーのダフネは静かに瞑想するような表情である。端正で知的な顔立ちのダフネ。

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また、『アメリカン・デモクラシー』の著者トクヴィルがシャセリオーの親友だったとは知らなかった。この絵はトクヴィルの邦訳などで見た記憶があるが、実物は輝くように美しい。絵の時点で(1850年)でトクヴィルは44歳のはずだが、30歳くらいの青年を思わせる。

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下の絵は、今回の美術展には出ていなかったスケッチ「コンスタンティーヌのムーア人女性」だが、彼の絵の優美な感じがよくでている。展覧会は5月28日までなのに、もう一度行ってみたい。

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2017-03-31 今日のうた71(3月)

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[今日のうた] 3月1日〜31日ぶん


(写真は、「平家納経」(厳島神社蔵)より、建礼門院右京大夫は、建礼門院に使えた女官で、彼女の恋人であった平資盛は壇ノ浦で戦死した)


・ 春あさくえりまきをせぬえりあしよ

 (室生犀星1935、街で見かけた和服姿の若い女性だろうか、真冬にはいつもしている襟巻きがなく、首のうしろの「えりあし」が露わになって、美しい) 3.1


・ 三月の声のかかりし明るさよ

 (富安風生『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)、「さあ、三月だ! 別に急に春になったりはしないけれど、「三月」って聞くと、何だか明るい感じがするよ」) 3.2


・ 桃の日の襖(ふすま)の中の空気かな

 (正木ゆう子「俳句」2007年3月号、両側あるいは三方を襖で仕切られた和室に雛が飾られているのだろう、雛壇は比較的大きいのかもしれない、部屋全体の空気までがなぜか明るく感じられる、今日は桃の節句) 3.3


・ 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香に匂ひける

 (紀貫之『古今集』巻1、「あなたのお気持ちの方は今はどうだか分かりませんが、でもこの家は私にとって懐かしい家、梅は私のことを覚えていて、美しく咲いてくれています」、「梅の花を折りて」と詞書、百人一首にも採られた歌) 3.4


・ とめ来(こ)かし梅盛りなる我が宿をうときも人はをりにこそよれ

 (西行『新古今』巻1、「訪ねて来てくださいよ、今、私の庵は梅が盛りです、ふだんは疎遠にしていても、何かのきっかけを口実に寄ってくださるのが人情ってものじゃないですか、私、寂しいんです」) 3.5


・ 春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋ひにおのが在所(ありか)を人に知れつつ

 (大伴家持『万葉集』8巻、「やあ雉くん、春の野に餌を捜してるんだね、でも彼女を呼ぶ鳴き声立てちゃったりしてさ、恋しいんだよね、人に居場所を知られて獲られちゃったらどうするの」) 3.6


・ 蒲団(ふとん)着て手紙書くなり春の風邪

 (正岡子規1899、病身の子規だが、春の風邪にもめげず、がばっと蒲団をかぶって小机に向い、手紙を書いたのだろう、まだ春先は寒い、丹前を羽織るとかでなく「蒲団を着る」がいい) 3.7


・ 待たされて美しくなる春の馬

 (佐藤文香『海藻標本』2008、作者は1985年生まれの若手俳人、馬が競馬に出場できるのは二歳半以上らしい、それまで待つ間に美しく育つのだろう、人間で言えば思春期か、春の初出場を待っている) 3.8


・ 春の坂女易者がとびとびに

 (内田美紗、夕方から夜になる頃だろうか、「春の坂」に占い師の卓がいくつも出ている、それぞれ小さな灯りがついているが、よく見ると「とびとび」に「女易者」がいる、何とも言えない風情のある春の宵) 3.9


・ 甦りたる一語に開きみる手紙きみの裡(うち)なるわれに逢はむと

 (今野寿美「午後の章」1979、「ふと想い出されたある言葉、それは貴方が手紙の中で私に語りかけた言葉だった」、作者の恋は、大げさな言葉を互いに交わすことなく、静かに、しかし深く感情をはぐくんでゆく恋だった) 3.10


・ 愛といふせつにさびしき抽象語キリン見てゐるときに言ひだす

 (米川千嘉子『夏空の櫂』1988、彼氏と動物園でキリンを見ているのだろう、突然、彼が「愛」について語り出した、作者にとって「愛」は抽象的な言葉で、好きではない、そんな月並みな言葉はを聞いて寂しく感じられる) 3.11


・ 街灯のそれぞれの中に妖精がもがきはばたき光りはじめる

 (安藤美保『水の粒子』1992、作者は大学生、夕方、電柱の蛍光灯が点灯し始める、その中に、なかなかすっきりと灯らず、チカチカを繰りかえしてやっと光るのがある、「羽ばたこうとしてもがいているのね、私のように」) 3.12


・ よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな

 (芭蕉1686、ナズナは直径3ミリくらいの白い小さな花が咲く、「気づかない人も多いみたいだけれど、見てごらんよ、ほら、垣根の下に、小さな可愛いナズナの花が咲いているよ」) 3.13


・ 春の水すみれつばなをぬらし行(ゆく)

 (蕪村『遺稿』、「つばな」=イネ科の野草、「谷間の小さな流れだけれど、春になると水量が増えて勢いが増すなぁ、水の端が、すみれやつばなに触れている」) 3.14


・ 木々おのおの名乗り出(いで)たる木(こ)の芽かな

 (一茶1789、作者27歳の作、岩波文庫版句集2000句の2番目だから、もっとも早い時期の俳句だろう、やや説明的だが、「名乗り出たる」がとてもいい、動物だけでなく植物も、友人のようにみなしていた一茶らしい) 3.15


・ あめつちの寄り合ふきはみ晴れとほる高山(たかやま)の背に雲ひそむ見ゆ

 (齋藤茂吉『赤光』、1907年の作、茂吉1882〜1953が東京帝国大学医科大学の学生だった頃の初期の作品、『万葉集』に学びながら、雄渾な声調で詠うようになり、茂吉らしさがあらわれている) 3.16


・ 水の層また水の層透明に青くかがやく潮(しほ)うごきつつ

 (佐藤佐太郎1953『地表』、海水がかなり澄んでいて深くまでよく見通せる、それを、写真でもなく、絵でもなく、言葉でここまで描写できるのだ、やはり佐太郎1909〜87は昭和短歌の第一人者だと思う) 3.17


・ わがこころを支へてたかき噴水の水柱は不意にところをかへぬ

 (上田三四二『雉』1967、作者は東京清瀬町の結核療養所に医師として勤務、病院内の噴水だろうか、高い水柱はつねに作者の「こころの支え」になっている、その噴水の水の出方がちょっと変わった、心の翳りのように) 3.18


・ 卒業す片恋のまま ま、いいか

  (福地泡介1937〜95、作者はマンガ家、4コマ漫画「ドーモ君」(日経新聞)が代表作、これは「サンデー毎日」に絵とともに載せた自作の句、高校だろうか、好きな彼女に片想いのまま卒業式が来てしまった、今は卒業式シーズン) 3.19


・ たんぽぽや折折さます蝶の夢

 (加賀千代女、タンポポの花の蜜は、蝶や蜜蜂の貴重な食料と言われている、優美に遊んでいた蝶が、蜜を吸うために、タンポポの花にじっと止まって羽を休めているのだろう) 3.20


・ 妹(いも)よ来よこゝの土筆(つくし)は摘まで置く

 (高濱虚子、妻と二人で野原で土筆を摘んでいるのだろう、愛妻句というべきか、短歌と違って俳句形式では「愛」はなかなか詠みにくい) 3.21


・ けさはしも歎きもすらむいたづらに春の夜ひとよ夢をだに見で  (和泉式部『新古今』巻13、「昨夜、一晩じゅう私と語り明かしたけれど、それ以上の行動に出なかった貴方、今朝になって、もの足りないのを嘆いているですって、お気の毒さま、春の夜に甘い夢を見られなかったとはねぇ」、翌朝手紙でぐずぐず言ってきた男への返し、からかいも手慣れたもの) 3.22


・ 盃(さかづき)に春の涙をそそきける昔に似たる旅のまとゐに

 (式子内親王『家集』、「今、旅の宿で大勢の人たちが車座になって楽しんでいる、昔、私にもそんなことがあったかしらと思うと、春は寂しくて、持っている盃につい涙がこぼれるわ」、斎宮だった作者に実際は車座の体験はないだろう) 3.23


・ あはれのみ深くかくべき我をおきてたれに心をかはすなるらむ

 (藤原隆信、「ねぇ、建礼門院右京大夫さん、ちょっとばかり噂を聞いちゃったんだけど、まさかこの僕をさしおいて、誰かに心を通わすなんてことはないよね、君は僕だけに深く愛情をかけるべきだよ」、彼女の返しは明日) 3.24


・ 人わかずあはれをかはすあだ人になさけしれても見えじとぞ思ふ

 (建礼門院右京大夫『家集』、「貴方は、女なら誰でも見さかいなくナンパしようとするチャラ男でしょ、たとえ私が恋の心を知る女であっても、そんな貴方には、恋なんか無関心な女のように見せるわよ」、うるさく言い寄ってくる男へのキツーい返し) 3.25


・ 小所(こどころ)で信濃を置いて喰(くい)抜かれ

 (『誹風柳多留』、「小さな店だが人手が足りないので、江戸の人ではなく、給金が安く済む出稼ぎの信濃の人を雇った、でも信濃の人は大食いなので、食費を含めると高いものについた」、どういうわけか「信濃の者」は大食いと言われた) 3.26


・ 切れ文(ぶみ)は腹いつぱいな事を書き

 (『誹風柳多留』、「吉原」がテーマの句なので、この「切れ文」は、遊女と客の間の手切りの手紙、「今までは黙っていたけど、言わしてもらう」と、相手へのネガティブな感情を「腹の底からいっぱい」ぶちまける長い手紙が多い) 3.27


・ 御めかけの母は大きな願(がん)をかけ

 (『誹風柳多留』、自分の娘はある旦那のめかけだが、その娘が妊娠した、男児でありますようにと、娘の母は寺社で祈る、男児なら、旦那の財産の相続もありうるから) 3.28


・ 薬局で「乳首ください!」と口走るおしゃぶりのこと? 新米パパさん

 (鈴木美紀子・女・46歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「焦っていたんでしょうね。わかる。新婚の夫から、新米パパさんに転換する間に、「乳首」の意味が激変したのに、ついていけなかったのかな」と穂村弘評、しかし、哺乳瓶の先端の部分は「乳首=にゅうしゅ」と呼ばれるので、新米パパさんは読み方を間違っただけかもしれない) 3.29


・ 伝票をくるりと丸め透明な筒に入れられた瞬間ひとり

 (白石美幸・女・22歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「ファミレスに行ってさみしくなる瞬間です。それまであったつながりが切られてしまう気がします」と作者コメント、「センサーが好感度ですね、この歌を見て、自分もそう感じていたのに気づきました」と穂村弘評) 3.30


・ 汽車で来た電車でしょって笑われたずいぶん遠くまで来ちまった

 (北山文子・女・20歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「地元では線路を走る乗り物はぜんぶ汽車でした。都会に足を踏み入れてしまったな、と思いました」と作者コメント、「ずいぶん遠くまで来ちまったと痛感させたのは、言葉の違い」と穂村弘評) 3.31

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2017-03-29 ストリンドベリ『令嬢ジュリー』

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[演劇]  ストリンドベリ『令嬢ジュリー』 2017年3月29日 シアター・コクーン


(写真右はポスター、下は舞台、スウェーデンでは夏至の日は白夜で一晩中明るい、伯爵家では召使や農民たちが夜を徹したお祭りで浮かれおり、その歌声が大きな窓から聞こえている)

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ストリンドベリの代表作といわれる『令嬢ジュリー』を、小川絵梨子演出で見た。もともと奔放な性格の伯爵令嬢が、夏至祭に浮かれて自分も召使と踊っているうちに、興奮のあまりイケメンの下男に彼の自室で体を許してしまい、下男と駆け落ちするのにも失敗して自殺するという物語。だがこれは表層であり、この作品で描かれているのは、激しい女性憎悪の父と激しい男性憎悪の母との間に育った娘が、自らの女性性を肯定的に受け止めることが出来ないことによって生じた悲劇である。原作は1888年だが、全体がきわめて精神分析的な作品である。(写真下は、下男のジャンを演じる城田優とジュリー役の小野ゆり子、二人とも若々しくて美しい)

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この作品の主題は、深い女性憎悪であり、古い結婚制度のもとで抑圧されたジュリーの母は、夫の伯爵を激しく憎悪しており、幼少の娘には男装させて男の子のすべきことをやらせて育てたので、ジュリーは女性性を自らのものにすることができなかった。夫から女として愛されなかった母は、自分の女性性を愛せずに嫌悪することになり、それが娘をジェンダー・フリーで育てることにより、娘も自分の女性性を嫌悪するようになった。一方、下男のジャンは、やはり伯爵家の下男の家に育ち、幼少時からジュリーをすぐそばに見て育ち、美しいジュリーに対する性的欲望を秘めているが、身分違いのために自分のものにはならないので、彼女に対する憧れと憎悪を併せ持っていた。二人が育ったこうした背景は、舞台では二人の回想の会話の中で簡潔に語られるだけなので、それが重要であることにやや気づきにくい。スウェーデンで作られた映画版(1951)は、二人の過去を映像で示すのでよく分るのだが、演劇は、観客の想像力に委ねる部分が多いのだ。

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本作の凄いところは、性的な関係をもった男女の「主人と奴隷の弁証法」(ヘーゲル)が激しく描かれているところだろう。興奮とアルコールのせいで、思いもかけず体を許してしまったジュリーだが、そうなると、彼女をものにしてしまったジャンの態度は一変し、それまでの卑屈な召使の態度をかなぐり捨てて、主人のように振る舞う。「堕ちたお嬢様」のジュリーはジャンの奴隷になってしまった。「私に命令して!命令して!」と叫んで懇願するジュリーに対して、居丈高に振る舞うジャンの快感は、奴隷が主人になった束の間の快感である。というのも、他方では、ジャンの身体には、主人の伯爵に対する「奴隷性」が骨の髄まで沁み込んでおり、伯爵が帰宅してベルが鳴り伝令管で伯爵の声を聴いた途端、彼は奴隷に戻り、「お嬢様、私は伯爵さまの忠実な召使でございます」と、ジュリーから冷ややかな距離を取る。ジュリーは「自己責任」を感じて、ナイフを手にとぼとぼと納屋に向かう。小川絵梨子の演出は、この作品の本質をよく表現していると思う。

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2017-03-16 ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団 『カーネーション』

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[舞踊] ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『カーネーション』 さいたま芸術劇場


(写真右は、自分の席から立って見た開演直前の舞台、3列目なので、表情や身体表現は細部まで見えたが、角度がやや低く、カーネーションを真横から見ることになった、写真下はポスターと舞台、台の上はスカート姿だが男性)

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私は舞踊やダンスは事実上、これが初見。演劇やオペラとは表現の様式が大きく異なるので、驚くことが多かったが、今まで感じたことがなかった身体の美しさを知ったことが大きな成果だった。科白はかなりあって、英語、日本語が交互だが、仏語やわずかにドイツ語も混じるのは、国が違う人間が出会うこと自体がテーマになっているからだろう。半分を日本語にしたのは、日本の観客を「参加者」と考えている。教師であり官僚でもあるような長身の男性が、怖い顔で「パスポートを拝見」と何度も言うのがとても印象的だ。異質な人間が互いに自分を表現し合いながらともに踊るのが、「ピナ・バウシュのタンツテアター」の新しさなのだと思う。演劇的な要素はあるのだが、一貫した物語ではなく、断片的・エピソード的なコラージュから成り立っている。子ども/両親、生徒/教師、同胞/異邦などの関係性を通じて、とりわけ集団の遊びを通じて、男と女が出会って愛を成就させるというのが、全体の主旨だろう。身体全体を使って手話をしているような印象も受けた。たとえば、椅子を使って、皆が一斉に足をあげたり下ろしたりするシーンは何度もあるのだが、そのつどコンテクストと音楽が異なり、違った感情が表現されているのだと思う。愛の優しさだけでなく、怒りや威嚇や暴力もたくさん表現されている。写真下↓。

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プログラム・ノートによれば、「バウシュの質問に出演者たちが、せりふや歌、動作やダンスで答え、それを彼女が取捨選択してコラージュする創作方法」とあり、バウシュは「人がいかに動くかにはそれほど関心がありません、関心があるのは、何が人を動かすのかです」と言っている。戯曲のようなシナリオがあるのではなく、出演者に身体表現をさせながら作品そのものを創作してゆくのだ。世代が変ったときに、どう作品を継承してゆくのかが課題になるだろう。一番面白かったのは、女はいつもスカートだが、男がスーツとスカートの二種類の衣装を頻繁に取り換えることである。愛の独特のメタファーなのだと思うが、男は女になるときがあるが、女は女のままなのだろうか。スーツ姿の男は、さすがにダンサーだけあって、すっくと立つだけで異様に美しく見えるが、スカート姿になるととてもコミカルで、見ただけで笑ってしまう(写真下↓)。足の動かし方に何か特徴があるようで、春夏秋冬を表現するラインダンスなど、その優美な美しさは素晴らしかった。

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下記に、動画が三つあります。

http://www.saf.or.jp/stages/detail/3633?utm_content=bufferc580f&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer

https://www.youtube.com/watch?v=gKy9MiOey_s

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2017-03-08 W.ムワワド『炎 アンサンディ』

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[演劇] ワジディ・ムワワド『炎 アンサンディ』 世田谷・シアタートラム


(写真右は、主人公ナワルを演じる麻実れい、ナワルはレバノン内戦からカナダに逃れた難民の女性だが、オイディプス王の王妃イオカステに重ねられており、自分の産んだ息子に強姦されて、さらに双子の姉弟を産む、この役は麻実れい以外は考えられないほどの名演、下は、双子姉弟のジャンヌとシモンを演じる栗田桃子と小柳友、そしてナワルの遺言執行者エルミルを演じる中嶋しゅう、彼も渋いが名演、「アンサンディincendies」はフランス語で、「炎」「戦火」の意)

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文学座の上村聡史演出、2014年秋に初演されたものの再演。キャストは初演時と同じ。私は初見だが、言葉にならない異様な衝撃を受けた。そして深い感動も。この作品は、そもそも演劇という表現の可能性の限界に挑戦している。内戦による殺戮の悲惨、残酷を正面から描いたもので、こんな辛く悲しいものを、3時間20分も、6800円を払って見せられるのは嫌だという観客もいるに違いない。しかも、中東の内戦と難民の悲惨さは、初演時よりも今さらにリアリティを増している。これは演劇ではなく現実に起きている悲惨なのだ。なぜそれが演劇になるのか。


「アウシュビッツ以降、詩を書くのは野蛮だ」とアドルノは述べたが、この作品はまさにそれが主題になっている。プログラムノートに、麻実れいと岡本健一(ナワルの最初の息子でオイディプスに相当する役)がそれぞれ、「劇場の外では、男の子がのんびりコンビニの袋をもって、あくびをしながら横断歩道を渡っている」東京の現実との落差、違和感を語っている。原作者のムワワド(1968〜)自身が、レバノンの内戦を逃れてフランスに逃れた難民であり、フランスをも追われてカナダ・ケベックに移住した人。この作品の主人公ナワルは、彼の「母」なのかもしれない。あまりにも悲惨な現実に直面したとき、人はそれを語ることはできず、沈黙してしまう。何も子供たちに語らずにカナダで死んでいったナワルは、最後の5年間、病床で失語状態だったが、最後に「みんな一緒にいられるのだから、幸せだ」とだけ発話して、死んでしまう。彼女が双子の姉弟に残した遺言の手紙を元に、姉弟はレバノンに旅して、自分たちの出生の秘密を探り、そして知る。憎しみと殺し合いの中で自分たちが生まれたことを知り、二人はその都度、数日間の失語状態に陥る。「言葉で表現すること自体が、野蛮」なのだ。(写真下は↓、カナダでボクサーになっている息子のシモン)

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この作品のもっとも衝撃な場面は、第二幕、ナワルが16歳の時に産んですぐ孤児院にやられた最初の息子ニハッドである。彼は、憎しみそのものを生きる復讐のスナイパー(狙撃兵)になっているのだが、彼は狙撃の天才であるだけでなく、「戦争写真家」でもある。自分が狙撃して死んだ相手を直ちに望遠レンズカメラで撮影し、それが「芸術写真」のように美しく、赤い血の色が黒白の死体の写真に付加されるのが、舞台の映像で映し出される。ピカソの抽象絵画のように美しい死体の写真。これはアウシュビッツの現場で書かれた詩だ。そして内戦を撮影しようとする日本人らしき「戦争写真家」が命乞いをするのを、彼は無慈悲に撃ち殺して写真で表現する。これは、ほぼ現実ではないだろうか。ISISが捕虜の「処刑」の映像をネットに投稿したのは、つい先日のことである。残酷と悲惨を写真で「表現する」のが戦争写真家だ。だが、それを今ここで、三軒茶屋の劇場で演じる演劇そのものも「表現」である!


私は最初、物語をオイディプス神話の形に、比喩ではなく、文字通り回収することに、やや不自然さと違和感を感じたが、よく考えみると、神話にしなければ、これは演劇として成り立たない作品なのだと思う。ナワルが16歳のときに最初に産んだ息子ニハッドが、25年後に収容所の看守になっていて、その看守が誰だか分からないまま、囚われのナワルが強姦されて二人の姉弟を産む。そして、アウシュビッツ裁判を思わせる「戦争犯罪国際法廷」で、ナワルは自分を強姦した息子と対面し証言する。これは実際にはありえない不自然な展開なのだが、一応それが分かるように、舞台の筋が工夫されている。手紙、写真、昔の現地の監獄スタッフに会う、死んだはずのナワルが繰り返し現れるなど、ほとんど不可能な物語を、舞台だけで分からせる劇作家としての手腕は凄い。そして何よりも重要なのは、ニハッドを産んだ少女のときは文盲だったナワル自身が読み書きを覚え、「表現者」になったことである。祖母の墓に文字を刻んだだけでなく、最後にカナダの自分の墓にナワルの名前を子どもたちに刻ませる。オイディプス神話もまた、自分の出生の秘密が少しずつ明るみに出るのだが、それは過去のことのなので、言葉で表現されなければ現前しない。人間は表現することによって自己を知り、それが人間を自由にする。アウシュビッツ以降、詩を書くことはたしかに野蛮なのだが、そうするしか我々は自己を知ることができない。憎しみしか存在しない人間の世界だけれど、愛が存在することを祈ること。これしか我々にはできないが、これだけは我々にできる。演劇もこうした祈りの一部ではないだろうか。(下は、プロブラム)

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