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charisの美学日誌

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最新タイトル

ケントリッジ演出、『魔笛』
NTlive ロルカ原作『イェルマ』
今日のうた(89)
ウースター・グループ『タウンホール事件』
河合祥一郎訳・演出『お気に召すまま』
ミキエレット演出・プッチーニ「三部作」
今日のうた(88)
サルトル『出口なし』
OUDS シェイクスピア『十二夜』
今日のうた(87)
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2018-10-14 ケントリッジ演出、『魔笛』

charis2018-10-14

[オペラ] モーツァルト『魔笛』     新国立劇場  10月14日


(写真右は舞台、タミーノとパミーナの試練の場、黒板にチョークで絵を描くように、黒い地と白い光線で舞台全体が構成される。写真下も舞台、舞台全体が蛇腹カメラの内側にあるという想定なので、奥行き感が凄い。カメラのメタファーを暗示するため、冒頭の三侍女の場面に蛇腹カメラが登場する)

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その空間造形に驚かされる『魔笛』だった。4月に観たバリー・コスキー演出『魔笛』は、全編CGを使ったアニメが舞台装置だったが、本作の演出のケントリッジはドローイングを中心とする現代アートの人なので、黒板に白いチョークで絵を描くようにして舞台を形成する。オペラは19世紀の昔から、新しいテクノロジーを導入しながら舞台を作ってきたから、それがまた新しい段階に入ったわけだ。ケントリッジの手法は、奥行きを異にした幾つもの平面を投影(プロジェクション)によって作るので、観客席からは、まるでトンネルの中にいるように感じられる。それぞれの平面の横向きの動きの速さを差異化することによって、まるで舞台全体が観客席に向かって突進してくるような空間感覚を作り出せる。そして、空間に描かれるさまざまな絵は、登場人物の心象風景になっている。写真下は↓、夜の女王と、最後のパパパのシーン、三童子が描く丸い円は卵で、そこからパパゲーノとパパゲーナの子供たちが生まれてくる。

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魔笛は、荒唐無稽な物語の中に、たくさんの主題が含まれているが、基本は、試練に打ち勝って愛が成就するという、愛の讃歌である。しかし夜の女王とその一派(三侍女とモノスタトスを含む)には、深いミソジニ―(男性が心の底に持っている女性憎悪)が投影されており、今回の舞台は、プロジェクションの方法によってザラストロの「光」を強調したために、夜の女王の「暗黒」性が際立ち、ミソジニーは通常の舞台以上に前景化されたように思う。パミーナの試練がもっとも目立つのは、『魔笛』の正しい解釈だと思うが、プロジェクションの手法を生かすことを優先したために、表現が弱くなってしまった箇所もある。たとえば、タミーノの笛で動物たちが踊り出すシーンは、一匹のサイが踊る黒白の映像になっているが、ここは通常の演出のように、ぬいぐるみの動物たちがたくさん登場して踊り出す方がずっとよい。追ってきたモノスタトスに対してパパゲーノがグロッケンシュピールを鳴らすシーンも、鈴の音がまるで武器のようになってモノスタトスを追い返すのだが、これもおかしい。ここは、モノスタトスと部下たちが鈴の音に魅せられて、一斉に踊り出すのでなければならない。魔法の笛も魔法の鈴も、音楽は暴力ではなく、和解と愛をもたらすというのが『魔笛』の最高のメッセージなのだから、『魔笛』全幕で三回鳴って、奇蹟を引き起こすグロッケンシュピールのシーンは、いわば『魔笛』の核心なのだ。(1)モノスタトスたちが踊り出す、(2)パパゲーノの眼前で老婆パパゲーナが女の子に変身する、(3)そして最後のパパパ、この三回のグロッケンシュピール・シーンは、すべて奇蹟であり、愛が、そして音楽が恩寵であることを示している。パミーナが三童子によって救われ、生きることを決意する四重唱は何と美しいのだろう。パパゲーノも三童子によってグロッケンシュピールの存在を思い出し、そこでパパパになるのだから、やはり愛は恩寵であることを示している。三ヵ所のグロッケンシュピール・シーンが弱いのが、この演出の弱点である。あと、今回の演出で疑問だったのは、ビクトリア朝末期の衣装にしたために(写真下↓)、ザラストロが、イギリスの王様+フリーメイソンの教祖みたいな奇妙な人物造形になったことである。ザラストロは、古代エジプトの神官、そして若者の結婚=通過儀礼を仕切る共同体の長でなければならない。あと、オケの東フィルはソノリティー(=響きの豊かさ)に乏しかった。もう少し音の全体が豊饒に響いてほしかった。(写真↓の左端はザラストロ)

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4分間の動画があります。夜の女王、パミーナ+三童子の重唱や、パパパのところも。パパパのところ、黒板に絵を描くのではなく、二人が体を動かして、全身で喜びを表現してほしかった!

https://www.nntt.jac.go.jp/opera/die-zauberflote/movie.html

tajimatajima 2018/10/15 18:21 今回の演出についての批評は、ほぼ同意です。『魔笛』のミソジニーについて言へば、それはケルト的残滓としての母系制に対する近代主義の過剰反発なのではないでせうか?ザラストロ一派が、設計図を引く建築家のアカデミーのやうに描かれてゐたのは、18世紀の技術者集団のやうに描くためでせう。つまり市民的なもの。それにしても違和感があったのは、植民地のサファリが自然との和解のユトピアであるかのやうに描かれてゐたこと。このやうな無神経はいただけません。

EnoEno 2018/10/15 18:29 グロッケンシュピールのシーンが弱いというご指摘に、なるほど!と頷きました。全体の暗い閉塞的な印象は、そこから来たのかもしれません。でも、いろいろと問題はあるにしても、棘が潜んだ演出で、それがおもしろかったと思います。再演されたら、もう一度観たいと思います。

charischaris 2018/10/15 19:41 田島さん、コメントありがとうございます。いつもながら、田島さんの観賞の深さには脱帽です。ミソジニーについては、今回、特に気になったのですが、シカネーダーは各種の神話を参照しながら台本を書いたと言われているので、ケルト神話の影響も大いにあると思います。僕は、映像のアフリカのサファリの意味がよく分からなかったのですが、やはりおかしいですよね。今回の演出は、空間造形という点でみるべき成果がありますが、内容の解釈ではいろいろとおかしいところがあると思います。冒頭の三侍女も、サフラジェットのフェミニストたちなのだと演出ノートに書かれていますが、どうもちぐはぐな感じです。私もさらに、色々な角度から考えてみたいと思います。

charischaris 2018/10/15 20:54 Enoさん、コメントありがとうございます。Enoさんのブログも拝見しましたが、ケントリッジの「ヴォツェック」、とても話題になっているようですね。ケントリッジのドローイングの投射という手法は素晴らしいと思います。『魔笛』の内容の個々の解釈には疑問もありますが、再演されたら私もまた観ます。この『魔笛』を、新国は舞台装置や衣装も含めて上演権を買い取ったという情報をネットで見たので、もし本当なら、従来のハンぺ演出版に代わって、これがずっと再演されるのだと思います。それから、グロッケンシュピールですが、初演のときモーツァルトは、本来はパパゲーノ役のシカネーダーが鳴らすはずのグロッケンシュピールをどうしても鳴らしたいので、こっそり指揮台を降りて舞台に上がり、自分で鳴らしてしまったのです。誇らしげに妻への書簡でそう書いています。

EnoEno 2018/10/16 21:28 Charis様
再三のコメントで申し訳ありません。「魔笛」の初演時のモーツァルトのエピソード、いいですね。もしタイムマシンがあったら……というお遊びの話がありますが、もし一度だけ過去のどこかに連れて行ってあげるといわれたら、私は迷わずに「魔笛」の初演に連れて行ってもらいたいと思います。実は前からそう思っていたのですが、それは「魔笛」の指揮をするモーツァルトを見たいからでした。そこにグロッケンシュピールを演奏するモーツァルトを見る楽しみが加わりました。

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2018-10-03 NTlive ロルカ原作『イェルマ』

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[演劇]  ロルカ原作、S.ストーン翻案『イェルマ』 TOHOシネマズ日本橋 10.3


(写真右は、終幕、夫と争うイェルマ(本作ではただ「彼女」とだけ呼ばれている)、写真下は、パーティーでの孤独なイェルマ)

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ロンドンで非常に話題になった『イェルマ』(ロルカの原作は1934年)をNTライブで観る。サイモン・ストーンという若い人が現代版に翻案・演出したものだが、原作の主題がうまく表現できておらず、翻案は失敗だと思う。原作では、不妊に苦しむイェルマの孤独が主題だが、この作品のポイントは、夫も特に子供をほしがっていないのに、なぜ妻のイルマがこれほど執拗に子供をほしがるのか、妊娠しない妻は女としての存在を全否定されるのかという問いにある。原作のイェルマは、スペインの田舎の寒村のカトリック教徒で、専業主婦。「子供のできない田舎の女なんて、まるで一束の茨みたいな無用の長物、いやそれよりもっと悪い存在だわ。あたしは神さまが造りそこなった人間のくずなのかもしれない」と不妊を歎き、「あたしたち女には子供しかない、子供を育てることしかないのよ」と言う。「あたしがこの身を夫にゆだねたのだって子供を産むためだし、これからだってそうだわ、決して快楽のためなんかじゃない」とも言う(牛島信明訳、岩波文庫)。つまりイェルマは、自分が女として生まれてきたのは子供を産み育てるためであり、それができなければ自分は存在価値はないと本気で思っている。スペインの寒村ならば、こういう女性はいただろう。しかし、本作の現代版イェルマはまったく違う。ロンドンで働く敏腕のジャーナリストであり、イギリスでもトップクラスに入る人気ブロガーである彼女は、「ピルを飲んでいるのに、さらにコンドームを着けさせる」と夫が怒るほど快楽志向で、妊娠を恐れている女だった(写真下)。

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だとしたら、そのような彼女がどうして子供をほしがるようになったのか、その変化の必然性が示されなければならないが、しかし本作ではそれがまったく示されていない。だから、彼女が「排卵日なのに夫が家にいない」と怒り、「妊活」を生々しくブログに書き、体外受精に励むとしても、我々はまったく彼女に共感できない。ただひたすら騒々しく、狂ったようにイェルマは妊活に励むのだが、彼女のようなキャリアウーマンで快楽志向の女は子供なんかいない方がいいのに、と我々は思うし、しかも彼女は、養子の提案を蛇蝎のごとく退けるから、子供好きというわけでもない。そして、原作では、子供のできないイェルマが不倫することを恐れて、夫は自分の独身の姉二人を監視役にして、イェルマを家の中の閉じ込めようとするのが、一つ重要な要素になっているが、本作の現代版イェルマでは、そうした監視はまったくなく、代わりに、イェルマ自身の姉(=望まぬ妊娠をした)や母(=「妊娠はエイリアン」と嫌う今風の女)が登場する。つまりイェルマを取り巻く状況がまったく違っており、彼女がなぜ不妊に苦しむのか理解できないものになっている。この舞台は、やたら騒々しいだけで、不快で、かつ後味が悪い。現代化の翻案は失敗だと思う。

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下記に画像があります。

https://www.youtube.com/watch?v=vls0kAqkEto

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2018-09-30 今日のうた(89)

charis2018-09-30

[今日のうた] 9月のぶん


(写真は東直子1963〜、歌誌「かばん」同人、早稲田大学教授もつとめる、ニューウェーブ短歌を代表する歌人の一人)


・ みずからの灯りを追って自転車は顔から闇に吸われてゆけり

 (大森静佳『てのひらを燃やす』2013、自転車のライトは低く小さいので、前輪の少し前しか照らさない、乗っている人の顔も暗くてほとんど分らない、まるで「顔から闇に吸われてゆく」ようだ) 9.1


・ 中央線、南北線に東西線、どこへもゆけてどこへもゆかず

 (東直子2004、東京の地下鉄はその後も増えて、しかも地上線私鉄も含めて相互に乗り入れる、本当に「どこへもゆける」ようになったけれど、しかし使う方は十分に活用しきれていない) 9.2


・ 感情が顔に出なくて損をするあるいは得をする こんにちは

 (相田奈緒「短歌人」2017年12月号、作者は歌誌「短歌人」所属の若い人か、ほとんど初対面のときの自分の顔を意識しているのだろう、「こんにちは」と挨拶を交わし合うとき、自分はどんな表情をしているのだろうかと) 9.3


・ 大木のもまれ疲れし野分かな

 (松本たかし、台風のときは立派な大木ほど風を強く受ける、柔らかい草のように曲がることがないので、直立する幹は、風雨に立ちはだかるように激しく抵抗し続けて、「もまれ疲れた」ようになる) 9.4


・ 白木槿夏華も末の一二輪

 (黒柳召波1727〜72、作者は蕪村の弟子、「夏華(なつげ?)」とは夏の華やかさのことだろうか、「深い緑の葉の中に咲く白い木槿は美しい、もう夏も終わりで、一二輪になってしまったのが、愛おしい」) 9.5


・ 夜なべの灯かたむけて見る時計かな

 (杉孫七郎1835〜1920、作者は吉田松陰の弟子で、明治期には官僚だった人、秋になって日が短くなると、仕事が夜までかかるので「夜なべ」が意識された、今は夜も仕事をする人が多いので「夜なべ」はほどんど意識されない) 9.6


・ 橘の本(もと)に我を立て下枝(しづえ)取りならむや君と問ひし子らはも

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「君は、橘の木の下に僕を立たせ、下枝を手に持ち、「この木の実がなるように、私たちの恋も実るんじゃないかしら、ねえ貴方」と言った、ああ、その君はいったいどうしてしまったの」) 9.7


・ 人を思ふ心は我にあらねばや身の惑ふだに知られざるらむ

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「大好きな貴女に恋い焦がれる僕の心は、もはや僕自身ではなくなっているのだろうか、身体がこれほど憔悴し切っていることすら、心は分っていないみたいだから」) 9.8


・ 夕霧に紐とく花は玉鉾(ぼこ)のたよりに見えし縁(え)にこそありけれ

 (源氏物語「夕顔」、「夕べの霧を待って開く花のように、君(夕顔)が打ち解けてくれたのは、君が夕顔の花を詠んだあの歌を僕にくれた縁があるからだよね」、強引に連れてきて一夜を過ごした夕顔に源氏が詠んだ歌、返しは明日) 9.9


・ 光ありと見し夕顔の上露(うはつゆ)はたそかれ時のそら目なりけり

 (源氏物語「夕顔」、「夕顔の花(=私の顔)についた露が光り輝いて見えたのね、夕方だから貴方が見間違ったのよ、私そんなに美人じゃないもん」、おとなしいふりをして茶目っ気たっぷりに源氏に切り返す夕顔) 9.10


・ 葡萄の下吾が身長のまま歩く

 (山口誓子、今はブドウやナシの季節、どちらも一定の高さの棚に実がなっている、いつもは垂れ下がっているブドウの房に頭をちょっと下げるけれど、今日は、長身の作者が「そのまま歩ける」、ブドウとの「今、ここ」の出会い方は毎回違っている) 9.11


・ 新高(にひたか)といふ梨の大頒ち食ふ

 (高濱年尾、「大」の後でいったん切れる、「にいたか」は梨の中でも大きな実がなる品種、「にいたか梨の大きいのを二人で分けて食べる」、あるいは小さな子供たちもいて、三人以上で「頒ち食ふ」のだろうか) 9.12


・ 皆花野来しとまなざし語りをり

 (稲畑汀子、どこか郊外の場所で句会を開くのだろう、集まってきた人たちの「まなざし」から、「皆さん花野を通ってきた」ことが分る、「花野」は秋の季語で、どちらかというと地味な花たちが原っぱなどに咲いている光景) 9.13


・ 論理消え芸いま恐(こ)はし曼珠沙華

 (池内友次郎、作者1906〜91は虚子の二男でクラシック音楽の作曲家、東京芸大教授を務めた、この句はむずかしい、作曲が思うようにできなくなったことを嘆いているのだろうか、「芸」とは作曲家=芸術家として作曲することか) 9.14


・ 乾坤のふかきところに雲はみゆ断崖一千米のうへ

 (佐藤佐太郎『形影』1969、「乾坤」とは「天と地」のこと、千メートル以上もある絶壁の上に作者はいる、はるか下の「ふかいところに」雲が見える、峡谷で名高い台湾のタロコ国立公園で詠んだもの) 9.15


・ こほろぎの鳴く音やさしとおもふにも天体のひとつ地球が浮かぶ

 (上田三四二『湧井』、1971年に皆既月食があり、その前後に月や火星を詠んだ一連の歌の一つ、夜空の月や星を見ているのだが、作者は足元から聞こえてくる「こほろぎの鳴くやさしい音」に、この地球こそ「浮かんでいる」と感じる) 9.16


・ あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

 (斎藤茂吉1913、この歌の自註とみられる作者の文章に、「秋の一日代々木の原を見渡すと、遠く一本の道が見えてゐる。赤い太陽が団々として転がると、一本道を照りつけた。僕らは彼[=亡き伊藤左千夫]の一本の道を歩まねばならぬ」) 9.17


・ 早稲(わせ)の香や分け入る右は有磯海(ありそうみ)

 (芭蕉1689、「よく実った田には早稲の香が拡がっている、その中を分け入っていくと、右手の遠くの方に青々とした海が」、「なほ越中を経て加賀に入る」と前書き、越中・加賀の国境の倶利伽羅峠付近で富山湾を詠んだとみられる) 9.18


・ 赤も亦(また)悲しみの色曼珠沙華

 (中村芳子、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)=ヒガンバナが美しい季節になった、でもその赤さには、どこか悲しみがある、作者(故人)は1917年生まれの「ホトトギス」の俳人) 9.19


・ 新秋や女体かがやき夢了る

 (金子兜太『少年』、「東京時代」(1940〜43)と題した入隊前の句群の一つ、作者1919〜2018は大学生でまだ若い、「かがやくような女体」の夢を見たのだろう、短い夢ですぐ「了ってしまった」、残念) 9.20


・ 住みながらこの国だんだん遠くなるてんじんさまのほそみちのやう

 (馬場あき子1928〜、作者は「かりん」主宰、芸術院会員、朝日歌壇選者、若い時から一貫してリベラルな立場の人だが、この歌は2015年『記憶の森の時間』より、昨日は安倍自民党総裁三選) 9.21


・ 恋人がすごくはためく服を着て海へ 海へと向かう 電車で 

(吉田恭大『光と私語』2018、「すごくはためく服」というのがいい、まだ海に着いていないのに、もう電車の中で「はためいて」いる、素敵な彼女なんだね) 9.22


・ あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の

 (千種創一『砂丘律』2015、いかにも現代短歌、彼女と海へ行った、たぶんスマホの操作のミスで、撮るつもりのなかった光景がビデオになっていた、それに気付いた彼女があげた声が、また短い動画に記録されたのか)  9.24


・ 自転車の灯りをとほく見てをればあかり弱まる場所はさかみち

 (光森裕樹『鈴を産むひばり』2010、「あかりが弱まった」のは、「さかみち」の傾斜で光が傾いたからか、それともダイナモ式発電で、「さかみち」でペダルを漕ぐのが弱まったからか、「とほく」から見ているから両方の可能性) 9.25


・ 白露に鏡のごとき御空(みそら)かな

 (川端茅舎『川端茅舎句集』1934、「ホトトギス」1931年12月号の巻頭を飾った句の一つ、「この小さなはかない白露に、空一杯に拡がった青空が、鏡のように映っている」、「白露」は脊椎カリエスを病む茅舎自身だろうか、宇宙を映す鏡としての魂) 9.26


・ 忘れゐし秋の蚊一つ来りけり

 (れいし、涼しくなって油断していると、草叢からスーッと蚊が近づいてきたりする、この句は、虚子編の古い歳時記(1934年)にあったが、作者については分からない) 9.27


・ 別荘や怒涛の如く秋櫻

 (橋華、コスモスは激しく群生することがある、別荘なのであまり手を入れないうちに、「怒涛の如く」群生してしまったのだろう、この句も、虚子編の古い歳時記(1934年)で見つけたが、作者については分からない) 9.28


・ 爽やかに山近寄せよ遠眼鏡

 (日野草城、「爽やか」は秋の季語、空気が冷たく澄んでくる、遠くの山を望遠鏡で見ているのだが、「近寄せよ」と命令形になっているのがいい) 9.29


・ この門の木犀の香に往来かな

 (高野素十、「通りがかりのある家の門の所に、モクセイが咲いてよい香りがしている、通り過ぎかけたたのだが、自然に足が止まって、数歩戻ってしまった」、我が家も隣家も木犀が香るようになった) 9.30

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2018-09-29 ウースター・グループ『タウンホール事件』

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[演劇]  ウースター・グループ『タウンホール事件』 横浜・KAAT 9月29日


(写真右は舞台、右端はイギリスのフェミニストであるジャーメイン・グリア、中央左のジーンズジャケットの女性はレズビアン活動家のジル・ジョンストン、彼女の左の男性は二人ともノーマン・メイラー、後に映ってるのは、実際のシンポの画像で、映っているのは実在のグリア、写真下は、ケンカする二人のノーマン・メイラーと仲裁する妻(看護婦?))

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「タウンホール事件」というのは、1971年にニューヨークのタウンホールで行われた女性解放をめぐるシンポジウムのこと。ノーマン・メイラーの『性の囚人』を批判する討論会で、フェミニストたちとメイラーの激しい討論がなされ、会場の多数の聴衆のヤジや不規則発言なども含め、大荒れだった。画像はすべて映画に収録されているので、それの一部をスクリーンで見せながら、その討論を舞台で「再演」(re-enact、再構成、再解釈)してみせるのが、ウースター・グループの今回の上演。画像の声に合わせて、まったく同じ内容を同じ速度で俳優がしゃべるのだが、(終演後のディスカッションで誰かが述べたように)身振り手振りはわずかに違う。シンポの議論は非常に面白く、誰の発言も知性溢れ素晴らしいものだ。メッセージ性が豊かで、レトリックが見事。韻を踏んでいるような詩的な言葉で語るので、聞いていて快い。グリアの発言は、詩人シルヴィア・プラスが夫のためにパンを一生懸命焼く「可愛い妻」だった例を引いて、男性芸術家の優れた芸術表現は、彼の男性としての魅力を高めるが、女性芸術家の優れた芸術表現は、彼女の女性としての魅力として評価されないと、男性支配を批判した。しかしその後、レズビアンのジョンストンが、レズビアンなら男性が女性を支配するという抑圧の問題をぜんぶぶっ飛ばせる(?)というように、レズビアンを賛美したので、議論が錯綜して混乱し、彼女はガールフレンドともつれながら退場する。下の写真は、後の画面に映っているのが発言する実在のジル・ジョンストン、その下の写真は、会場をガールフレンドと共に退出した(?)ジル・ジョンストン↓

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シンポの様子はよく分かったのだが、この舞台は同時に、シンポにかぶせてメイラーの映画『メイドストーン』をオーバーラップさせるので、そちらの方は何が何だかよく分からなかった。映画監督の妻である俳優が映画にキャスティングしてもらえないと夫に苦情を言うのは男性支配の話だと分かるが、メイラーには分身のメイラーがいて、二人が激しくケンカして一人が血を流すシーンは、よく分からなかった(写真↓)。『メイドストーン』にあるのだろうが、なぜメイラーが二人いるのか? そのせいで(?)、シンポにもメイラーが二人いるのがなぜなのか分からなかった(司会者としてのメイラーとパネリスト発言者としてのメイラー?)。メイラーはなかなか狡猾で、発言も振る舞いもとてもうまい。ジュディス・バトラーの有名な「生物学は運命ではない」という言葉は、ひょっとするとメイラー発言を受けているのかもしれないと感じた。というのは、メイラーは、「女性の運命は完全に生物学で決まるということはないが、しかし50%は生物学で決まるのではないか」と発言しているからである。愚劣なバックラッシュ・オヤジという感じではない。女性芸術家の地位は、1971年より現在はずっと高いが(演出のルコンプトはディスカッションでそう言った)、それを除くと、このシンポの議論は現在でも「再演」されてしまうように感じた。

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2018-09-09 河合祥一郎訳・演出『お気に召すまま』

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[演劇] シェイクスピア『お気に召すまま』 シアター・トラム 9月9日


(写真右は、ロザリンド[太田緑ロランス]、男装して叔父の宮廷を脱出する前の彼女は暗い、写真下は舞台、奥の方にレスリング試合に負けて退出するチャールズが見える)

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「お気に召すまま」は、私のアマゾン・レヴューのハンドルネームにしているくらい好きな作品だが、河合祥一郎の新訳と演出も、はつらつとして、とても楽しい舞台だった。この演出の特徴は、オーランドが、ギャニメートは実はロザリンドの男装であることに気づいている、という解釈を取った点にある。彼は気付いたうえで、わざと騙されているふりをして、恋愛ゲームを楽しんでいるのだ。シーリア、ロザリンド、オーランドの三人とも、少年ギャニメートという「嘘」を一緒に楽しんでいるから、三人とも、とても生き生きとしている。彼らは、一時もじっとしてなくて、激しく動き回りながら、オーバーな身振り手振りで科白をしゃべる。観客に向かって目くばせすることも多い。つまり、科白を言ったあと、身振りで「・・・なーんちゃって」と付け加えているわけだ。『お気に召すまま』は、この場面でなぜこんなことを言うのだろうと、科白の真意がよく分からない箇所もあるのだが、オーランドは騙されている振りをしているのだとすれば、いくつかの疑問は氷解する。写真下↓はオーランド[玉置玲央]とギャニメート=ロザリンド。

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ただ、ロザリンドはオーランドが自分の男装に気づいていないと思っているから、そのギャップが面白い。オーランドがギャニメートに対してロザリンド本人のように語りかけると、そういう場合は、ロザリンドが動揺して、急に女っぽく反応して地が出てしまう。「嘘」ゲームに関しては、彼女は勝っているつもりで実は負けているのだ。だからこそ、終幕のギャニメートの科白、「僕は魔法使いに知り合いがいるから、明日の結婚式にはロザリンド本人を連れてきてあげるよ」という「大嘘」が、こんなにも楽しく聞こえるのだ。シーリアとロザリンドがほとんど同性愛的に愛し合っていて、抱き合ったり、キスをしたりするのがとてもいい。ロザリンドもシーリアも、異性愛と同性愛の二重の恋愛ゲームを楽しんでいるわけで、だからこそ彼女たちは、こんなに伸び伸びとして、はつらつとしているのだろう。『お気に召すまま』は、ただ結婚を寿ぐ祝祭性というだけでなく、友愛、同性愛も含む広義の愛を寿いでいるのだ。夢が現実であり現実が夢であるアーデンの森の「お祭り」は本当に楽しい。

∴ん窯の五郎∴ん窯の五郎 2018/09/10 20:50 ロザリンドの男装に気づいているという発想は現代的なひねりがあって面白いですね
ただ、ちょっと疑問に思うのはロザリンドが正体を明かす最後の場面の

ROSALIND. [To DUKE] To you I give myself, for I am yours.
[To ORLANDO] To you I give myself, for I am yours.
DUKE SENIOR. If there be truth in sight, you are my daughter.
ORLANDO. If there be truth in sight, you are my Rosalind.
PHEBE. If sight and shape be true,
Why then, my love adieu!

公爵の台詞を繰り返すオーランドの驚きに満ちた台詞が軽くなりすぎはしないでしょうか?
でも、演出で何とかなるのかな?
こればかりは舞台をみないと分りませんね・・・

charischaris 2018/09/11 01:11 戸所先生、コメントありがとうございます。河合氏は、訳者あとがきで、当時の演劇には、男装や女装という嘘がやむをえない手段ではなく、それ自体が作品の主題の一部になり、観客もそれを楽しむタイプの作品が生まれていた、と幾つも例を述べています。たとえばフレッチャー『忠実な家臣』(1618)では、侍女アリンダの「今に私の真価truthが分る」という言葉から、観客は「truthとは、実は彼女は男なのだろうと観客は気づかねばならない」、と。

上掲の箇所ですが、ここではロザリンドは、もう花嫁衣裳を着ているわけですね。つまり、嘘ゲームは終わっているので、オーランドが「truth」という言葉を繰り返してもいいと思うのです。父の公爵もすでに気づいていたので、オーランドも繰り返すことになるのでしょう。むしろ、続くフィービーの科白が、「If sight and shape be true」と微妙に違っていて、sightの他にshapeを加えている。このshapeが花嫁衣裳のことだと思うので、フィービーは、これまで騙されたことに今気づいた驚きを表わしていると思います。

河合氏がオーランドが男装に気づいていた論拠として挙げるのは、たとえば第5幕2場の、彼の科白「もう想像だけでは生きていけない」です。これは「もう嘘ゲームはやめようよ」という意味です。これを受けてロザリンドが、「それなら、もう無駄なおしゃべりで君をうんざりさせるのはやめよう」と言って、「明日、魔法使いに頼んで本人を連れてきてもらうから」と、結婚式のことを言う。そして、その少し後で、(オ)「もしそうならどうして君に恋しちゃいけないの?」、(ロ)「「君に恋しちゃ」って誰のことを言ってるの?」、(オ)「ここにはいない人、聞いてもいない人に」という遣り取り。目の前の男装のロザリンドに、うっかり「君と恋したい」と言ってしまったけれど、そこにはフィビーとシルヴィアスもいて、まだ嘘ゲームは終わっていないから、あわててオーランドは取り繕うわけです。

∴ん窯の五郎∴ん窯の五郎 2018/09/11 20:41 う〜ん、その辺は曖昧なところですね
この議論は結局どっちもあり、ということになります
ちょっと気になるのは河合氏のあとがきの「実は彼女は男なのだろうと観客は気づかねばならない」のところです そうです、観客はそれを楽しんでいるのです シェイクスピアの『十二夜』にしても観客は神のような立場で登場人物が知りえないことを知っているからこそ台詞に潜んでいる二重の意味を楽しめるわけです
それと登場人物の知とを混同してはいけないと思います

さて、「想像だけでは〜」は、二人ともはじめから作りごととして恋愛ゲームをしているわけですから、それだけでは正体を知っていることの証拠にはなりえません
この場面の直前にお兄さんの結婚(婚約)の話があるので、その現実の恋の生々しさを見せつけられたために、自分たち二人が遊んでいる想像上のごっこ遊びはもう色あせてしまったのではないでしょうか

また、「君に恋しちゃ〜」のくだりでも
     PHEBE. If this be so, why blame you me to love you?
SILVIUS. If this be so, why blame you me to love you?
ORLANDO. If this be so, why blame you me to love you?
というふうにまったく同じフレーズを前の二人が繰り返しているので、オーランドはそれに乗って自分の思いを吐露したわけですが、それをうっかりホンネを言ってしまったと取るか、そのあとで
ORLANDO. To her that is not here, nor doth not hear.
と言っているように、目の前の見立ての「ロザリンド」ではなく、目の前にはいないロザリンドに向かって恋心を告白しているとも取れます

そもそも、オール男優でやっていたわけですから、例えばロザンリンド役を豆助という少年役者が演じたとすると、まづ観客は男女差を超越して豆助をロザリンドに「見立て」ます この超越の構造を『お気に召すまま』ではそのまま舞台に乗せて、そのロザリンドがギャニミードになり、さらに、そのギャニミードを恋愛ゲームで「ロザリンド」に見立てるので、舞台には三層の超越の見立て構造がのっかってるというややこしいそうな、でも、実際に舞台を楽しむ観客にとってはごく贅沢な遊びをシェイクスピアは作りだしたと言えます

私が言いたいのは、こういった超越構造は観客側の特権的な知に守られているからこそ安心して楽しめる、ということです もちろん、河合氏の読みも否定はしません ただ、違和感はあります

私は観客の知と登場人物の知の落差が喜劇の最高の深さとおかしみをもたらすと信じていますので、それが違和感の正体のようです

ま、それも議論をはじめたら決着はつかない気がしますけれど・・・
長々とすみませんでした

charischaris 2018/09/11 22:31 たしかにテキストだけからは、決定的にこうだとは言えず、両方の可能性がありそうですね。ちょっと気が付いたのですが、上掲の「君に恋しちゃ〜」のところ、オーランドの
If this be so, why blame you me to love you?
のすぐ次のロザリンドの科白は、
Why do you speak too, ‘Why blame you me to love you?’ です。
河合さんの訳は、「<君に恋しちゃ>って誰に言っているの?」です。
でもここはwhyだから、「誰?」じゃなくて「なぜ?」ですよね。ところが、福田、小田島、松岡の各訳もみな河合氏と同じに「誰に」と訳している。坪内逍遥訳だけが、「どうしてあなたがそんなことをいふの?」と、why で訳しています。おそらく、Why do you speak tooではなく、Who do you speak to にしているテキストがあるのでしょう。すぐ次のオーランドの答えからすれば、「誰に」の方がよさそうですが、でも、whyの方が、ロザリンドの戸惑いが表れているように思います。「フィービーもシルヴィアスも、今、相手が目の前にいるからyouと言えるけど、貴方にとっては相手が今ここにいないから、herじゃなくてyouって言ったらおかしいでしょ」という戸惑い。

結局、ここは、戸所さんの言う「超越」を登場人物がどこまで引き受けるかの違いで、二人の演技の付け方で二通りが可能になると思います。それにしても『お気に召すまま』は、「超越」を観客も登場人物もどちらも持っていて、そのズレを楽しむところが面白いですね。僕は、今回の河合演出を見て、とにかく登場人物が生き生きしていて、楽しそうなので、オーランドがロザリンドの男装を知って嘘ゲームを楽しんでいる、とした方が舞台が盛り上がるように思えました。考えてみれば、これは河合氏が今回初めて考え付いた解釈ということではなく、今までにも、同じように考えた演出家や上演はたぶんあったのではないでしょうか。もう400年も上演され続けているのですから。

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2018-09-07 ミキエレット演出・プッチーニ「三部作」

charis2018-09-07

[オペラ] プッチーニ「三部作」  二期会  新国立劇場  9月7日


(写真右は、同内容の2012年ヨーロッパ公演『外套』、大きなコンテナの使用がとても効果的、下は同『ジャンニ・スキッキ』だが、部屋の部分に同じコンテナが使われており、終幕、蓋が閉じてコンテナに戻る、そしてその下は今回の舞台の『修道女アンジェリカ』、コンテナは修道院内のアンジェリカの独房になっている)

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ちょうど100年前の1918年に、プッチーニ最後のオペラ『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』が「一緒に」上演された。だから「三部作」と呼ばれるのだが、今回のミキエレット演出は斬新で素晴らしい。二回ヨーロッパで上演されたものを今回は日本人歌手が歌う。『外套』は労働者階級が描かれたヴェリズモ(現実主義)オペラの悲劇、『修道女アンジェリカ』は宗教劇?のような悲劇、そして『ジャンニ・スキッキ』は完璧な喜劇なので、三つはまったく性格が違う。三つ合わせて約160分という手ごろな時間以外に、一緒に上演する理由は何なのか、不思議な「三部作」だが、最初の二つが後味の悪い内容なので、『ジャンニ・スキッキ』の喜劇で大いに笑わせて、観客の気分を一発逆転させる必要性がその理由ではないかと思った。この順で三つ一緒にやるのでなければ、最初の二つは何とも不快な作品だから、観られないのではなかろうか。『外套』は、妻の浮気に怒った夫が、相手の男を殺すというだけの話だが、観客は夫にも妻にも共感できない中途半端な後味の悪さが残る。ミキエレットもプログラムノートで、そこに非常に苦労したと語っている。『修道女アンジェリカ』は、音楽が際立って美しいのと対照的に、物語は非常に不快なものだ。女子修道院といっても、実態はほとんど刑務所で、「罪を犯した」という理由をでっちあげて女性を家から追放するための受け皿の場所であることがよく分かる。プッチーニの姉は女子修道院長で、彼は実際に取材したというが、この作品でプッチーニは何を表現したかったのだろうか、それが理解できない。もっとも今回のミキエレット演出では、アンジェリカの子供が死んだというのは公爵夫人の嘘だということに改作されているが、これが不快さを一層増しているのかもしれない。

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ミキエレット演出の凄いところは、三つの作品をアクロバティックに結びつけた点にある。上記写真↑は私が一番驚いた箇所で、『外套』の終幕がそのまま『アンジェリカ』の冒頭になっている。幕も降ろさず、観客の拍手とともにライトがちょっと消えただけで、『外套』の妻のジョルジェッタがそのままアンジェリカになっており、髪を切ってもらって修道女になるシーン(服はジョルジェッタのまま)。こんなことができるのだ! ミキエレットによれば、三つの作品に共通するのは、「死」と「暴力」だという。『外套』と『修道女アンジェリカ』では、たしかにジョルジェッタもアンジェリカも「幼い子供が死んでしまった母」という点が共通するし、『ジャンニ・スキッキ』でも大資産家ブオーゾが冒頭で死んでいる。暴力は二つの作品に共通するが(修道院では、修道女たちが監視人になぐられる)、『ジャンニ・スキッキ』にはちょっと繋がらないように思う。しかし三作を通じて、コンテナがほぼ同じに配置されているのは凄い。『外套』では、船の中で労働者たちが作業する場として、『アンジェリカ』では修道女の独房として、『ジャンニ・スキッキ』では強欲な親戚たちが閉じ込められて追放される小部屋=容器として。

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