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charisの美学日誌

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最新タイトル

内田樹『困難な結婚』
平田オリザ『ニッポン・サポート・センター』
オペラ『夕鶴』
今日のうた62(6月)
わらび座『げんない』
ポーランド映画『イーダ』
METシュトラウス『エレクトラ』
木ノ下歌舞伎『義経千本桜』
今日のうた61(5月)
カンバーバッチ主演『ハムレット』
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2016-07-14 内田樹『困難な結婚』

charis2016-07-14

[読書] 内田樹 :『困難な結婚』 (7月4日刊)


久しぶりに、内田樹氏の本を読みました。面白かったのですが、結婚についての歴史的、社会学的考察がやや不足しているので、「結婚はした方がいいよ」というたんなるお説教に終わっているのが残念です。下記に簡単な感想を書きました。


 本書は、いかにも内田氏らしい「生き延びる智慧」が随所に光る好著である。人生相談の回答も誠実でいい。だが、考察がまだ足りないと感じる論点もあるので、それを書いてみたい。本書の主旨は、「結婚は私事だが、生活の安全保障だから、<公的という擬制>を必要とする」という一点にある。文化人類学的に言っても、歴史貫通的な一般論としては、確かにこれは真だろう。だが、現代の日本における固有の問題として「困難な結婚」を論じるならば、これでは足りない。つい最近出た、筒井淳也『結婚と家族のこれから』(光文社新書)は本書と同じ問題意識の本であるが、「共働き」が主流になった先進国固有の位相を分析しているので、問題の把握がより深い。たとえば内田氏は、結婚は過去においては「誰でもできるもの」であったし、「難しいものではない」と考えているが(p62)、これは歴史的事実に反する。昭和のある時期には婚姻率が異様に高かったが、これは例外であって、江戸時代など一定の収入がない男子は結婚できなかった。「21世紀は生涯未婚率20%」と聞いて驚く方がおかしいので、過去には「皆結婚社会」など一度も存在しなかった。


 現代において「困難な結婚」が感じられるとすれば、それは先進国では「ケア労働」が家族によるものに限られなくなったので、結婚は唯一のセイフティネットではなくなり、結婚の必要性も減少したことを考慮すべきであろう。筒井氏はそこを中心に考察しており、夫婦の家事分担問題は、内田氏も筒井氏もかなり紙幅を割いているので、好対照になっている。内田氏は、「僕は掃除と、アイロンがけと、野菜料理が大好き」と牧歌的に語っているが、筒井氏は、「家事の分担」は単なる個人的・技術的問題ではなく、有償/無償労働を巡る移民や階級差の利用の問題、あるいはスウェーデンのように国家による「ケア労働」の分担など、マクロな問題に由来していることを解明している。また、内田氏の主張では、「愛」は結婚にとってあまり重要な要素ではないことになるが(p167)、これはヘーゲルが強調した「近代家族」におけるロマンチック・ラブ・イデオロギーを軽視し過ぎている。筒井氏は、「親密圏」という「情緒による他者との結びつき」(つまり「愛」の私的性格)と、「公正さ」「効率性」という公的世界の価値基準との「相性の悪さ」を主軸に、両者の「ずれ方」が歴史や国によって異なることを考察する。内田氏は、「結婚は私事だが、<公的であるという擬制>を必要とする」という一般的真理で押し切っているが、重要なことは、その<公的であるという擬制>の中味がどう変わったか、にあるのではないだろうか。

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2016-07-11 平田オリザ『ニッポン・サポート・センター』

charis2016-07-11

[演劇] 平田オリザ『ニッポン・サポート・センター』 吉祥寺シアター


(写真右はポスター、スタッフが一緒に風呂に入っているのは「親密圏」のパロディーだろう、写真下は、左側の女性がセンターの所長、右側の二人は民間ボランティアのスタッフ、そして下の写真は全景、色のついた扉の奥に防音の相談室が三つある)

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非常によくできた作品で、現代日本のある局面の問題を鋭く活写しながら、軽みのある喜劇になっている。生活困窮者や虐待、DVなどで困っている人が、相談や避難に訪れる駆け込み寺型NPOのオフィス。昔はこのような組織はなかった。このような「私的な」問題で「困った」人がそこに頼り、困った人を「助ける」のは、家族、親戚、親友、あるいは寺や教会など、広義の「親密圏」や共同体であった。しかし現在では、児童相談所、生活相談所、ハローワークなど、「福祉」に関わる行政組織やNPOなどが代行している。抱えている悩みや問題が私的であるのに、扱う組織は公的あるいは半公的である。ここに生じるさまざまな(そしてむしろ滑稽な)問題が、この劇の主題である。劇中に二三回ふと漏らされる「おせっかい」という言葉も、キーワードの一つだろう。


このNPOは、幹部スタッフ二人が市役所からの出向であると同時に、近所の暇なオジサンやオバサンも(彼らは人の噂話が大好き)「民間ボランティアスタッフ」として働いている。インターン実習中の大学生も2名いる。とはいえ、彼らはやることもなく、オフィスで碁を打ったり、自分の勉強をしている。完全に公共的な要素と、大学の単位という教育的動機、「ボランティア」という私的自発性にもとづく動機などが混在する、奇妙で曖昧な組織なのである。重要なことは、ここに持ち込まれる悩みや相談は完全に私的なもので、しかもその「困ったこと」が、できれば他人に知られたくないプライヴァシー保護を必要とするものであることである。子どもを連れて家出した妻は夫のDVについては口を濁している。海外の仕事で消耗し適応障害で退職した若いエリート商社員はオドオドしている。それに加えて、NPO幹部スタッフの女性の夫が少女盗撮(!)で逮捕され、新聞にも出た。本人のせいではないのに、市議会で問題にされ人の噂になったので、NPOの「信用にも関わる」と本人はとても恐縮し、「妻としての責任」も感じれてうなだれている。人を助ける側が困った立場になってしまった。


「人に言いにくい」問題や悩みなので、各相談室の外部にあるオフィスでの会話はすべて「奥歯にものの挟まった」言い方になる。所長の女性は特にそれが極まっていて、「えっ、まぁ、それは・・・」「さぁ、どうかな・・・」「何というか・・・」等々の科白しか言わず、台風の目が真空地帯であるように、存在感が薄い。しかしこれは、扱う問題の性質上、必然性のある事態なのだ。たとえば我々の職場で、同僚のセクハラやパワハラが問題になった場合、当事者の周囲は「奥歯にものの挟まった」ような言い方になるのによく似ている。そしてこの劇でとても面白いのは、本人がいなくなった途端に、残りの人たちが本人の噂をむしろ声高に言い立て始めることで、これは我々自身の姿でもある。我々はどうして他者のプライヴァシーにこれほど興味を持つのだろうか。スタッフたちも、「誰々さんに彼氏はいるの?」とか「〇○君はふられたらしい」とか、すぐそういう話になって盛り上がっている。挫折したエリート商社員に紹介される仕事は、市役所のゆるキャラぬいぐるみを着て歩き回る仕事で、プライドの高い「本人にはとても聞かせるわけにはいかない」のだが、スタッフたちは知っていて、楽しそうに話している。


DVにしても商社員の挫折にしても、それが生じることは、決して本人だけの責任ではないのに、問題を抱え込むのは個人になる。人に言いにくいそうした問題で他者に助けを求める場合、たとえば心理療法クリニックであれば、カウンセリングを受けるのに高い料金を払う(その対価としてプライヴァシーは保護される)。それに対して、行政やNPOは「(形式上は)無償で人を助ける」組織であるので、プライヴァシー保護は曖昧になり、人工的に作られた「疑似親密圏」がこれらを扱うと、悲喜劇こもごもの事態になる。どうしたら良いのか、正解はないだろう。平田オリザは決して、NPOによるこうした「人助け」は不要で、自己責任で解決しろと言っているわけではない。この劇は、起承転結という意味での「筋」はないので、ある意味では終わりようがない。個々の相談の解決がどうなったのかは、奥の相談室で続行されているので、提示されない。手前のオフィスで、全員が歌を歌って終幕というのは違和感が残ったが、よく考えてみると、これしかないのかもしれない。

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2016-07-03 オペラ『夕鶴』

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[オペラ] 團伊玖磨「夕鶴」 新国立劇場・大ホール


(写真右は、つうを歌う澤畑恵美、下は、機織り部屋前のつうと与ひょう(小原啓楼)、そして子供たち、舞台はシンプルで美しい)

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『夕鶴』は山本安英が演じる演劇版を、中学生の頃に見た記憶があるが、オペラ版は初見。1952年の初演以来、世界各国で800回超の上演が行われたとは驚きである。メキシコやチェコでは日本人を含まない現地の歌手が日本語で歌うという。日本からの「出張公演」ではなく、現地の歌劇場のレパートリーになっているのだ。今回、この作品がそれほどに傑出したものであることが良く分かった。


何よりもテーマが普遍的で、それが美しくシンプルに物語化されており、世界中のどこでも直ちに理解される。これは普遍性のある神話であって、日本的エキゾチズムではない。見てはいけないと言われた妻の姿を見たために、異類の生命であった妻が故国へ帰ってしまったという「異類結婚譚」は、世界に幾つもある神話や昔話のはずだ。自給自足で閉じた小さな共同体に、商品経済が浸透するにつれて、信頼と愛にもとづく親密な共同体が崩壊し、貨幣を媒介とした生産効率性の高い社会に変ってゆく。それは人間と人間の関係が、信頼と愛にもとづく関係から、利潤を尺度とする冷たい経済的関係に変貌することである。これは我々の祖先が皆経験してきたことであり、だからこそその悲しみは、我々の心に突き刺さる。恋愛も結婚も家族も友人もそうだが、信頼や愛や友情など共感に満ちた情緒的な関係こそ、我々が幸福に生きるための不可欠の条件である。だが、それがもはや不可能になってしまったこと、それを真正面から提示するのが『夕鶴』である。


それにしても、与ひょうの皮袋から出てきた「貨幣」というものを初めて目にするつうの、あの驚きと悲しみは強烈だ。この「貨幣」が彼女と与ひょうを引き裂いていることを、つうは直観的に理解する。商品経済のアレゴリーである運づや惣どと、つうとの会話が突然通じなくなってしまうのも痛々しい。つうが鶴だから言葉が通じないのではなく、彼らが別種な人間になってしまったから通じないのだ。与ひょうは、最初から最後まで素朴で愚かな若者である。彼は、自分が新たに持ち始めた欲望の本性を、自分で分かっていない。おそらく、この愚かさは、我々の祖先もすべてそうだったであろう。与ひょうは、主観的にも客観的にも、どこまでも「善良な人」である。つうが、与ひょうを失いたくないので、自分が死ぬかもしれない二枚目の布を織ることを決意するシーンは、とても悲しい。愛し合っている夫婦の中に突然生じる「権力関係」。つうの歌う「愛の主題」の何と悲しく美しいことだろう。


プログラムにある長木誠司の解説は非常に優れたもので、『夕鶴』が稀有に成功した「創作オペラ」である理由がよく分かる。オペラの歌詞を詩的韻文に作る専門家である「台本作者」がプッチーニ以降にはほとんどいなくなり、歌詞が散文化すると、メロディーの付け方が難しくなってくる。少し前の山田耕筰『黒船』は、七五調の浄瑠璃形式の歌詞で処理したのだが、『夕鶴』は、与ひょう、運づ、惣ど、子どもたちは日本のどこのものでもない「方言」をしゃべらせることによって、歌詞の韻文性を処理している。そして、オペラを観ているときは気が付かなかったのだが、鶴のつうだけが標準語をしゃべっているのだ!この指摘には本当に驚いた。そして木下順二の戯曲が、ギリシア悲劇など西洋演劇の基本に忠実なこと、そしてオペラ化に際して、木下は團に科白を「一言一句も変えないこと」を条件にした。『夕鶴』の傑作は、創作上の稀有な条件が幸運な実現をみたからなのである。上演は、大伴直人指揮、栗山民也演出。


下記の3分間の録画があります。

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/150109_006155.html

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2016-06-30 今日のうた62(6月)

charis2016-06-30

[今日のうた] 6月


(写真は佐藤文香1985〜、早稲田大学俳句研究会出身、句集『君に目があり見開かれ』2014などがあり、若々しい感覚の句を詠む人)


・ 柚子の花君に目があり見開かれ

 (佐藤文香『君に目があり見開かれ』2014、恋の句だろう、季語としてはユズの花は蜜柑の花と同じ、小さくて白い地味な花だが、恋人の顔のように「目があり見開かれ」ている、今、その柚子の花の季節) 6.1


・ 少女らは小鳥のごとし衣更(ころもがえ)

 (大井戸辿「俳句」2002年6月号、夏服に切替わった女子高校生たちが楽しげにおしゃべりしながら登校しているのか、清水哲男氏の批評によれば、同世代の少年ならば彼女たちを「小鳥のごとし」とは見ないから、この句には作者の「老境」が滲み出ているとのこと) 6.2


・ 麦笛を吹けり少女に信ぜられ

 (寺山修司「七曜」1953、作者は17歳、麦の茎を切って笛のように鳴らしてみせる、「わーっ、すごいんだ」と少女が感心する、ちょっと得意な作者) 6.3


・ 麦秋や軌道茜にいろづきて

 (山口誓子『遠星』1945、「一面に広がる麦秋の波、手前の線路にもそれが映って、わずかに黄味を帯びた沈んだ赤色にいろづいている」、今、麦秋が美しい) 6.4


・ 麦秋(むぎあき)や子を負ひながらいわし売り

 (一茶『おらが春』、「越後女、旅かけて商ひする哀れさを」と前書きに、一茶の故郷、柏原だろう、「一面の麦秋の中、近隣の越後の女性が背中に子どもを背負って、いわしを売りにきている」) 6.5


・ 時計の針(いち)と気箸僕(きた)るときするどく君をおもひつめにき

 (北原白秋『桐の花』、白秋1885〜1942は、1912年、夫と別居中の隣家の人妻、松本俊子と恋に落ちた、夫が姦通罪で告訴したので、白秋は二週間ほど留置場に収監された、その時の歌、午前1時5分だろうか) 6.6


・ 目瞑(めつむ)りてひたぶるにありきほひつつ憑(たの)みし汝(なれ)はすでに人の妻

 (宮柊二『群鶏』1946、作者はその女性に片想いのまま、ついに告白できなかったのだろう、「今まで何度も、目を閉じて心を集中し、今度こそ貴女に言おうと自分を励ましたのですが、その貴女はもう人の妻なのですね」) 6.7


・ オリーブ咲けり古代円形劇場跡

 (佐藤千支子、ギリシアで詠んだのだろう、地中海沿岸の山地では今オリーブの白い小さな花が咲いている、オリーブの樹は平和の象徴)  6.8


・ 杜若(かきつばた)似たりや似たり水の影

 (芭蕉1666、23歳の作、芭蕉の俳句で最も若い時の一つ、カキツバタはアヤメ科で、池や湿原に鮮やかな紫色の花を咲かせる、「それが水面に瓜二つに映って非常に美しい」) 6.9


・ 睡蓮に水盛り上げる鯉の道

 (伊丹三樹彦、「広い池に睡蓮の花がたくさん咲いている、その中に水が大きく盛り上がって道のような筋になってゆく、ああ、鯉が泳いでいるんだ」)  6.10


・ 心臓で封をしたので心臓がなくなってくるしいです、よんで

 (一戸詩帆・女・21歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選とコメント「ハート型のシールでラブレターの封をしたってことかな。一般的な習慣になっているけど、それを本来の意味に戻したところが新鮮」) 6.11


・ 間違えて手を振ったらば返された だから君じゃない と気付きました

 (國次ひかり・女・18歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、作者コメントに「あの人なら手を振り返してはくれないな、と」、作者は片想いなのか、それとも彼氏はそういう性格なのか)  6.12


・ ああ丸い料理食べたい丸い鍋丸いお皿に丸いお茶碗

 (黒崎恵未・女・28歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、作者コメントに「スーパーのお弁当やお惣菜ばかり食べていて、久しぶりに家で作ったものを食べたら感じが違いました」、たしかにスーパーのは四角いトレイが多い)  6.13


・ 鍛冶の火を浴びて四葩(よひら)の静かなり

 (富安風生、「四葩」は紫陽花のこと、がく片が四枚あるから付いた名、昼間ではなく夜の紫陽花の美しさを詠んだ句、鍛冶場から音とともに漏れてくる鋭い光、それを静かに受けている紫陽花の花、今、紫陽花が美しい時節に) 6.14

 

・ 紫陽花の色をさまらぬ夕べあり

 (山上樹実雄、「夕暮れとととに光は乏しくなり、すべてのものは色を失ってゆく、しかしこの紫陽花だけは、その青さが深くなったように感じられる」) 6.15


・ たましひに着る服なくて醒めぎはに父は怯えぬ梅雨寒のいへ

 (米川千嘉子『たましひに着る服なくて』1998、作者の第三歌集、子どもが育ち父が衰えて亡くなるときを詠んだ深みのある歌が多い、本歌は父にまだ意識があるときだろう、「魂には着る服がない」から寒いという、悲しみ) 6.16


・ 二重瞼にあくがれわれを責めやまぬ娘(こ)らよ眼は見るためにある

 (小島ゆかり『希望』2000、作者の二人の娘は高校生くらいか、「パパは二重まぶたなのにママが一重だからいけないのよ、だから私たち一重で生まれたんだわ」と言われてしまった、可愛い娘たち) 6.17


・ 紫陽花の二叢(ふたむら)の色移りゆく

 (正木ゆう子『水晶体』1986、紫陽花は色が毎日変化してゆく、「移りゆく」と捉えたのが卓抜) 6.18


・ 揚羽蝶また戻り来し葵かな

 (井上洛山人、今、立葵がとても美しい、揚羽蝶でさえ「また戻ってきてしまう」) 6.19


・ みじか夜や枕に近き銀屏風

 (蕪村1771、「この頃は夜明けが早いなあ、枕元にある銀屏風の反射で、今朝もこんなに早く目覚めちゃったよ」、「金屏風」でないところが俳諧の味、質素な生活を暗示する、明日は夏至) 6.20


・ 夏至の日の水平線のかなたかな

 (陽美保子『遥かなる水』2011、土肥あき子氏は、この句はスウェーデンを思わせるという、北欧の夏至の頃、太陽はほとんど沈まず夜も水平線は明るいままなのだ、日本の昼間でも、夏至の頃の水平線は特別に明るく輝いているかもしれない、今日は夏至) 6.21


・ 女學院前にて揚羽見失ふ

 (浅井一志「俳句」2009年4月号、「美しい揚羽蝶をずっと目で追っていたのに、「女学院の前」で見失ってしまった、女子高校生たちが気になって、そちらに気を取られちゃったな」) 6.22


・ プラカード持ちしほてりを残す手に汝に伝えん受話器をつかむ

 (岸上大作『意思表示』1961、1960年安保闘争のときの歌、作者はデモから帰って彼女に電話したのだろう、そして同年12月に下宿で服毒自殺した、享年21歳、今日は安保条約自動延長の日) 6.23


・ 蝶低し葵の花の低ければ

 (富安風生、「すっくと伸びる立葵、でも咲いた花の位置はまだ低いな、あっ、その花に合わせるように蝶々が低く飛んでいく」、どういうわけか蝶々は立葵によく似合う) 6.24


・ どっちみち梅雨の道へ出る地下道

 (池田澄子『いつしか人に生まれて』1993、大都会の中心部にある駅だろう、駅を出て目的地に向かう時、雨を避けるために、わざわざデパートの地下売場を通ったりして、地下道を少しでも多く歩こうと工夫する、でも結局外に出なくちゃね、ああ、ついに出口に) 6.25


・ シャワー浴ぶ悪事の前とその後と

 (櫂未知子『定本 貴族』1996、あっけらかんとした開放感と、(「貴族」にはほど遠い)ガラの悪さが、作者の持ち味で、人気俳人たるゆえん) 6.26


・ 前屈(まえかが)みになりて校正続ければぐいとおまえはかかとつっぱる

 (俵万智『プーさんの鼻』2005、作者は2003年、40歳で初めて赤ちゃんを出産、その子がお腹にいる時のことだろう、「前かがみになって校正を続ける」のが赤ちゃんには不満なのか、そこが面白い) 6.27


・ 五月雨(さみだれ)にもの思ひをれば時鳥(ほととぎす)夜ふかく鳴きていづち行くらむ

 (紀友則『古今集』夏、「うっとうしい梅雨の夜中、一人でもの思いに沈んでいると、静寂を打ち破るようにホトトギスの鋭い声がした、いったいどこへ行くのだろうか」、まだ梅雨ですねぇ) 6.28


・ ほととぎすまだうちとけぬ忍び音(ね)は来ぬ人を待つわれのみぞ聞く

 (白河天皇『新古今』第3巻、「山から下りてきたばかりの不慣れな様子で忍び鳴くホトトギスの声がしたわ、来るって約束したのに来ない貴方を待つ私だから、そう聞こえてしまうのね」、女の立場で詠んだ歌) 6.29


・ 玉章(たまづさ)にただ一筆(ひとふで)とむかへども思ふ心をとどめかねつる

 (永福門院『玉葉和歌集』、「貴方に<ほんの一言>と思って、手紙を書き始めたのよ、でもね、貴方のことを想像していると、次から次へと<好きっ>ていう思いが溢れてきて、長くなっちゃった」) 6.30

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2016-06-23 わらび座『げんない』

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[ミュージカル] わらび座「げんない」 有楽町・国際フォーラムC


(写真右はポスター、下は、平賀源内が長崎のオランダ人から買ったと言われる軽気球、そして舞台より[右端が源内])

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わらび座は、日本のオリジナルミュージカルを創作上演する劇団。私が見るのは「ブッダ」に次いでこれが二作目。実在する日本人を伝記的に演劇化したものとして、宮本研「美しきものの伝説」、井上ひさし「頭痛肩こり樋口一葉」、永井愛「書く女」「鴎外の怪談」等を見たことがあるが、どれも傑作だった。これらの主人公は何よりも創造者であり、彼らがたんに男や女としてではなく、創造する者としての苦悩と栄光が、人間関係を通してよく描かれていた。本作もまた、平賀源内というきわめて個性的な人物をミュージカルで表現しようという、なかなか野心的な構想だ。主に踊りと歌で表現するわけだが、とても楽しいミュージカルであると同時に、歴史の必然性と矛盾が源内や田沼意次のような人物を造形していることが見える優れた時代劇になっている。


源内は「本草学」から出発して、日本で最初の博覧会を開くなど、「博物学」の開祖であり、農学、植物学、薬学、医学、鉱物学、鉱山学などにも関わっている。彼は長崎に遊学し、杉田玄白などと親しく交流したが、彼の人生そのものが「知の開国」であり、それゆえ「鎖国」状態の徳川幕藩体制と衝突せざるを得なかった。田沼意次や各藩の藩主たちが源内を重用して、新しい産業を興すことに必死になるという資本主義興隆との関係が、このミュージカルからもちゃんと分かる。源内は「もうけ主義」「カネまみれ」と批判されたが、「資本主義の精神」を体現しているような男で、経済史的にみれば彼の行動は正しかったわけだ。彼の、脳天気だが明るい性格が、人々を惹きつけて勇気を与えたことが、歌と踊りでうまく表現されている。


油絵を通じて彼の弟子となった司馬江漢、蘭学の杉田玄白、開明的な資本主義の精神を理解していた老中・田沼意次などとの友情が、ほぼ史実に沿って物語化されているが、さらにその上に、吉原に売られる娘・お千世と江漢との恋という(たぶん)創作を加えたのがよかった。というのも、お千世をめぐる状況は身分制社会の桎梏の象徴で、脱藩した旧武士である源内その人や、彼の周囲を巡る人たちの行動が、身分制社会との闘いになり、フーコーの言う「知の権力性」がよく描かれているからである。お千世の場面に浄瑠璃の様式を取り入れることによって、西洋音楽の軽やかな旋律の異物として封建制の葛藤が浮かび上がる。「知の権力性」の物語をミュージカルで表現するのは難しいように思われるが、源内の場合、油絵、エレキテルから羊を飼って羊毛を採るに至るまで、余りにも多彩な「雑学の天才」なので、その知はそれ自体が「見世物的」で、エピソードの羅列がミュージカルにうまく乗るのだと思う。ガリレオを巡る「知の権力性」の物語ならば、踊って歌ってのミュージカルにするのは難しいだろう。わらび座は、秋田の女性解放運動家であった和埼ハルを主人公とするミュージカルを今、上演しているそうだが、ミュージカルによる伝記的表現はなかなか面白い。「美しきものの伝説」は大杉栄を巡る人たちで、大杉も雑学的な創造者だからミュージカル化できるかもしれない。本作「げんない」は、横内謙介作・作詞・演出、深沢桂子作曲。


下記に3分間の動画があります。

https://www.youtube.com/watch?v=V7gXVvJC3F0

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2016-06-10 ポーランド映画『イーダ』

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[映画]  パヴェウ・パヴリコフスキ『イーダ』(2013、ポーランド)。

 

DVDですが、素晴らしい映画だったので、感想を。


ロベール・ブレッソンの映画がそうであったように、本作も、科白が極端に少なく、映像そのものによって表現するという、映画の王道をゆく作品である。きわめて多くのシーンが、「光を背景に人間が存在する」ように撮られているのが素晴らしい。ホテル、電車、自動車の窓、そして自室や廊下の窓などが、あたかも教会のステンドグラスのように感じられ、ほとんど言葉をしゃべらない人物のアップした表情を中心に作られた黒白の映像は、神々しいまでに端正で美しい。歴史の過酷な運命の中に生きる少女を主人公にするには、実にふさわしい。


第二次大戦中、ユダヤ人を殺したのはナチスだけでなく、ポーランドの民間人もいたという暗い歴史、ナチスの占領から、ソ連の支援を受けた共産党政権に変ったという戦後ポーランドの苦悩とユダヤ人の運命。1961年、イーダの「伯母」では実はなかったヴァンダは、判事にもかかわらず酒浸りになっている。彼女はユダヤ人孤児イーダの母の親友だった。「人民の敵を死刑にした」という彼女の「赤い検事」の過去、助かったイーダと紙一重で自分の男の子は殺されていたことが分かった衝撃。そのヴァンダの早すぎる死。彼女の葬儀で遠く聞こえてくるインターナショナルのメロディーの何という美しさ! インターは鎮魂歌なのだ。ヴァンダという一人の女性が、戦中から戦後にかけてのポーランドの苦しみを象徴している。一人の人間の、わずかな期間の行動を撮るだけで、これだけのことが表現できるとは。


そして、何よりも主人公の少女イーダの、感情を押し殺した無表情が、彼女の深い怯えゆえであることに我々は衝撃を受ける。彼女の眼差しの何という暗さ! ほとんどしゃべらないイーダ。普通なら17歳といえば、女の子はきゃぴきゃぴしていてもよいのに、彼女はその真逆。非常に美しいのだが、修道女姿になると、そうは見えない。しかし、終幕、おそらく修道院をやめて世俗に生きるであろう彼女の、少し明るくなった表情に、我々は救いと希望を感じる。イーダは、ブレッソンの『少女ムシェット』の無表情と、とてもよく似ているのだが、最後に救いがあるところが異なる。モーツァルトの音楽が、なんと効果的に使われていることだろう。アウシュビッツの収容所で、ユダヤ人の音楽家たちはよくモーツァルトを演奏させられたという事実が、おそらく背景にあるのだろう。アウシュビッツは、ドイツではなくポーランドにある。

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