Hatena::ブログ(Diary)

charisの美学日誌

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最新タイトル

今日のうた62(6月)
わらび座『げんない』
ポーランド映画『イーダ』
METシュトラウス『エレクトラ』
木ノ下歌舞伎『義経千本桜』
今日のうた61(5月)
カンバーバッチ主演『ハムレット』
モダンスイマーズ『嗚呼いま、だから愛。』
今日のうた60(4月)
ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2016-06-30 今日のうた62(6月)

charis2016-06-30

[今日のうた] 6月


(写真は佐藤文香1985〜、早稲田大学俳句研究会出身、句集『君に目があり見開かれ』2014などがあり、若々しい感覚の句を詠む人)


・ 柚子の花君に目があり見開かれ

 (佐藤文香『君に目があり見開かれ』2014、恋の句だろう、季語としてはユズの花は蜜柑の花と同じ、小さくて白い地味な花だが、恋人の顔のように「目があり見開かれ」ている、今、その柚子の花の季節) 6.1


・ 少女らは小鳥のごとし衣更(ころもがえ)

 (大井戸辿「俳句」2002年6月号、夏服に切替わった女子高校生たちが楽しげにおしゃべりしながら登校しているのか、清水哲男氏の批評によれば、同世代の少年ならば彼女たちを「小鳥のごとし」とは見ないから、この句には作者の「老境」が滲み出ているとのこと) 6.2


・ 麦笛を吹けり少女に信ぜられ

 (寺山修司「七曜」1953、作者は17歳、麦の茎を切って笛のように鳴らしてみせる、「わーっ、すごいんだ」と少女が感心する、ちょっと得意な作者) 6.3


・ 麦秋や軌道茜にいろづきて

 (山口誓子『遠星』1945、「一面に広がる麦秋の波、手前の線路にもそれが映って、わずかに黄味を帯びた沈んだ赤色にいろづいている」、今、麦秋が美しい) 6.4


・ 麦秋(むぎあき)や子を負ひながらいわし売り

 (一茶『おらが春』、「越後女、旅かけて商ひする哀れさを」と前書きに、一茶の故郷、柏原だろう、「一面の麦秋の中、近隣の越後の女性が背中に子どもを背負って、いわしを売りにきている」) 6.5


・ 時計の針(いち)と気箸僕(きた)るときするどく君をおもひつめにき

 (北原白秋『桐の花』、白秋1885〜1942は、1912年、夫と別居中の隣家の人妻、松本俊子と恋に落ちた、夫が姦通罪で告訴したので、白秋は二週間ほど留置場に収監された、その時の歌、午前1時5分だろうか) 6.6


・ 目瞑(めつむ)りてひたぶるにありきほひつつ憑(たの)みし汝(なれ)はすでに人の妻

 (宮柊二『群鶏』1946、作者はその女性に片想いのまま、ついに告白できなかったのだろう、「今まで何度も、目を閉じて心を集中し、今度こそ貴女に言おうと自分を励ましたのですが、その貴女はもう人の妻なのですね」) 6.7


・ オリーブ咲けり古代円形劇場跡

 (佐藤千支子、ギリシアで詠んだのだろう、地中海沿岸の山地では今オリーブの白い小さな花が咲いている、オリーブの樹は平和の象徴)  6.8


・ 杜若(かきつばた)似たりや似たり水の影

 (芭蕉1666、23歳の作、芭蕉の俳句で最も若い時の一つ、カキツバタはアヤメ科で、池や湿原に鮮やかな紫色の花を咲かせる、「それが水面に瓜二つに映って非常に美しい」) 6.9


・ 睡蓮に水盛り上げる鯉の道

 (伊丹三樹彦、「広い池に睡蓮の花がたくさん咲いている、その中に水が大きく盛り上がって道のような筋になってゆく、ああ、鯉が泳いでいるんだ」)  6.10


・ 心臓で封をしたので心臓がなくなってくるしいです、よんで

 (一戸詩帆・女・21歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選とコメント「ハート型のシールでラブレターの封をしたってことかな。一般的な習慣になっているけど、それを本来の意味に戻したところが新鮮」) 6.11


・ 間違えて手を振ったらば返された だから君じゃない と気付きました

 (國次ひかり・女・18歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、作者コメントに「あの人なら手を振り返してはくれないな、と」、作者は片想いなのか、それとも彼氏はそういう性格なのか)  6.12


・ ああ丸い料理食べたい丸い鍋丸いお皿に丸いお茶碗

 (黒崎恵未・女・28歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、作者コメントに「スーパーのお弁当やお惣菜ばかり食べていて、久しぶりに家で作ったものを食べたら感じが違いました」、たしかにスーパーのは四角いトレイが多い)  6.13


・ 鍛冶の火を浴びて四葩(よひら)の静かなり

 (富安風生、「四葩」は紫陽花のこと、がく片が四枚あるから付いた名、昼間ではなく夜の紫陽花の美しさを詠んだ句、鍛冶場から音とともに漏れてくる鋭い光、それを静かに受けている紫陽花の花、今、紫陽花が美しい時節に) 6.14

 

・ 紫陽花の色をさまらぬ夕べあり

 (山上樹実雄、「夕暮れとととに光は乏しくなり、すべてのものは色を失ってゆく、しかしこの紫陽花だけは、その青さが深くなったように感じられる」) 6.15


・ たましひに着る服なくて醒めぎはに父は怯えぬ梅雨寒のいへ

 (米川千嘉子『たましひに着る服なくて』1998、作者の第三歌集、子どもが育ち父が衰えて亡くなるときを詠んだ深みのある歌が多い、本歌は父にまだ意識があるときだろう、「魂には着る服がない」から寒いという、悲しみ) 6.16


・ 二重瞼にあくがれわれを責めやまぬ娘(こ)らよ眼は見るためにある

 (小島ゆかり『希望』2000、作者の二人の娘は高校生くらいか、「パパは二重まぶたなのにママが一重だからいけないのよ、だから私たち一重で生まれたんだわ」と言われてしまった、可愛い娘たち) 6.17


・ 紫陽花の二叢(ふたむら)の色移りゆく

 (正木ゆう子『水晶体』1986、紫陽花は色が毎日変化してゆく、「移りゆく」と捉えたのが卓抜) 6.18


・ 揚羽蝶また戻り来し葵かな

 (井上洛山人、今、立葵がとても美しい、揚羽蝶でさえ「また戻ってきてしまう」) 6.19


・ みじか夜や枕に近き銀屏風

 (蕪村1771、「この頃は夜明けが早いなあ、枕元にある銀屏風の反射で、今朝もこんなに早く目覚めちゃったよ」、「金屏風」でないところが俳諧の味、質素な生活を暗示する、明日は夏至) 6.20


・ 夏至の日の水平線のかなたかな

 (陽美保子『遥かなる水』2011、土肥あき子氏は、この句はスウェーデンを思わせるという、北欧の夏至の頃、太陽はほとんど沈まず夜も水平線は明るいままなのだ、日本の昼間でも、夏至の頃の水平線は特別に明るく輝いているかもしれない、今日は夏至) 6.21


・ 女學院前にて揚羽見失ふ

 (浅井一志「俳句」2009年4月号、「美しい揚羽蝶をずっと目で追っていたのに、「女学院の前」で見失ってしまった、女子高校生たちが気になって、そちらに気を取られちゃったな」) 6.22


・ プラカード持ちしほてりを残す手に汝に伝えん受話器をつかむ

 (岸上大作『意思表示』1961、1960年安保闘争のときの歌、作者はデモから帰って彼女に電話したのだろう、そして同年12月に下宿で服毒自殺した、享年21歳、今日は安保条約自動延長の日) 6.23


・ 蝶低し葵の花の低ければ

 (富安風生、「すっくと伸びる立葵、でも咲いた花の位置はまだ低いな、あっ、その花に合わせるように蝶々が低く飛んでいく」、どういうわけか蝶々は立葵によく似合う) 6.24


・ どっちみち梅雨の道へ出る地下道

 (池田澄子『いつしか人に生まれて』1993、大都会の中心部にある駅だろう、駅を出て目的地に向かう時、雨を避けるために、わざわざデパートの地下売場を通ったりして、地下道を少しでも多く歩こうと工夫する、でも結局外に出なくちゃね、ああ、ついに出口に) 6.25


・ シャワー浴ぶ悪事の前とその後と

 (櫂未知子『定本 貴族』1996、あっけらかんとした開放感と、(「貴族」にはほど遠い)ガラの悪さが、作者の持ち味で、人気俳人たるゆえん) 6.26


・ 前屈(まえかが)みになりて校正続ければぐいとおまえはかかとつっぱる

 (俵万智『プーさんの鼻』2005、作者は2003年、40歳で初めて赤ちゃんを出産、その子がお腹にいる時のことだろう、「前かがみになって校正を続ける」のが赤ちゃんには不満なのか、そこが面白い) 6.27


・ 五月雨(さみだれ)にもの思ひをれば時鳥(ほととぎす)夜ふかく鳴きていづち行くらむ

 (紀友則『古今集』夏、「うっとうしい梅雨の夜中、一人でもの思いに沈んでいると、静寂を打ち破るようにホトトギスの鋭い声がした、いったいどこへ行くのだろうか」、まだ梅雨ですねぇ) 6.28


・ ほととぎすまだうちとけぬ忍び音(ね)は来ぬ人を待つわれのみぞ聞く

 (白河天皇『新古今』第3巻、「山から下りてきたばかりの不慣れな様子で忍び鳴くホトトギスの声がしたわ、来るって約束したのに来ない貴方を待つ私だから、そう聞こえてしまうのね」、女の立場で詠んだ歌) 6.29


・ 玉章(たまづさ)にただ一筆(ひとふで)とむかへども思ふ心をとどめかねつる

 (永福門院『玉葉和歌集』、「貴方に<ほんの一言>と思って、手紙を書き始めたのよ、でもね、貴方のことを想像していると、次から次へと<好きっ>ていう思いが溢れてきて、長くなっちゃった」) 6.30

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2016-06-23 わらび座『げんない』

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[ミュージカル] わらび座「げんない」 有楽町・国際フォーラムC


(写真右はポスター、下は、平賀源内が長崎のオランダ人から買ったと言われる軽気球、そして舞台より[右端が源内])

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わらび座は、日本のオリジナルミュージカルを創作上演する劇団。私が見るのは「ブッダ」に次いでこれが二作目。実在する日本人を伝記的に演劇化したものとして、宮本研「美しきものの伝説」、井上ひさし「頭痛肩こり樋口一葉」、永井愛「書く女」「鴎外の怪談」等を見たことがあるが、どれも傑作だった。これらの主人公は何よりも創造者であり、彼らがたんに男や女としてではなく、創造する者としての苦悩と栄光が、人間関係を通してよく描かれていた。本作もまた、平賀源内というきわめて個性的な人物をミュージカルで表現しようという、なかなか野心的な構想だ。主に踊りと歌で表現するわけだが、とても楽しいミュージカルであると同時に、歴史の必然性と矛盾が源内や田沼意次のような人物を造形していることが見える優れた時代劇になっている。


源内は「本草学」から出発して、日本で最初の博覧会を開くなど、「博物学」の開祖であり、農学、植物学、薬学、医学、鉱物学、鉱山学などにも関わっている。彼は長崎に遊学し、杉田玄白などと親しく交流したが、彼の人生そのものが「知の開国」であり、それゆえ「鎖国」状態の徳川幕藩体制と衝突せざるを得なかった。田沼意次や各藩の藩主たちが源内を重用して、新しい産業を興すことに必死になるという資本主義興隆との関係が、このミュージカルからもちゃんと分かる。源内は「もうけ主義」「カネまみれ」と批判されたが、「資本主義の精神」を体現しているような男で、経済史的にみれば彼の行動は正しかったわけだ。彼の、脳天気だが明るい性格が、人々を惹きつけて勇気を与えたことが、歌と踊りでうまく表現されている。


油絵を通じて彼の弟子となった司馬江漢、蘭学の杉田玄白、開明的な資本主義の精神を理解していた老中・田沼意次などとの友情が、ほぼ史実に沿って物語化されているが、さらにその上に、吉原に売られる娘・お千世と江漢との恋という(たぶん)創作を加えたのがよかった。というのも、お千世をめぐる状況は身分制社会の桎梏の象徴で、脱藩した旧武士である源内その人や、彼の周囲を巡る人たちの行動が、身分制社会との闘いになり、フーコーの言う「知の権力性」がよく描かれているからである。お千世の場面に浄瑠璃の様式を取り入れることによって、西洋音楽の軽やかな旋律の異物として封建制の葛藤が浮かび上がる。「知の権力性」の物語をミュージカルで表現するのは難しいように思われるが、源内の場合、油絵、エレキテルから羊を飼って羊毛を採るに至るまで、余りにも多彩な「雑学の天才」なので、その知はそれ自体が「見世物的」で、エピソードの羅列がミュージカルにうまく乗るのだと思う。ガリレオを巡る「知の権力性」の物語ならば、踊って歌ってのミュージカルにするのは難しいだろう。わらび座は、秋田の女性解放運動家であった和埼ハルを主人公とするミュージカルを今、上演しているそうだが、ミュージカルによる伝記的表現はなかなか面白い。「美しきものの伝説」は大杉栄を巡る人たちで、大杉も雑学的な創造者だからミュージカル化できるかもしれない。本作「げんない」は、横内謙介作・作詞・演出、深沢桂子作曲。


下記に3分間の動画があります。

https://www.youtube.com/watch?v=V7gXVvJC3F0

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2016-06-10 ポーランド映画『イーダ』

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[映画]  パヴェウ・パヴリコフスキ『イーダ』(2013、ポーランド)。

 

DVDですが、素晴らしい映画だったので、感想を。


ロベール・ブレッソンの映画がそうであったように、本作も、科白が極端に少なく、映像そのものによって表現するという、映画の王道をゆく作品である。きわめて多くのシーンが、「光を背景に人間が存在する」ように撮られているのが素晴らしい。ホテル、電車、自動車の窓、そして自室や廊下の窓などが、あたかも教会のステンドグラスのように感じられ、ほとんど言葉をしゃべらない人物のアップした表情を中心に作られた黒白の映像は、神々しいまでに端正で美しい。歴史の過酷な運命の中に生きる少女を主人公にするには、実にふさわしい。


第二次大戦中、ユダヤ人を殺したのはナチスだけでなく、ポーランドの民間人もいたという暗い歴史、ナチスの占領から、ソ連の支援を受けた共産党政権に変ったという戦後ポーランドの苦悩とユダヤ人の運命。1961年、イーダの「伯母」では実はなかったヴァンダは、判事にもかかわらず酒浸りになっている。彼女はユダヤ人孤児イーダの母の親友だった。「人民の敵を死刑にした」という彼女の「赤い検事」の過去、助かったイーダと紙一重で自分の男の子は殺されていたことが分かった衝撃。そのヴァンダの早すぎる死。彼女の葬儀で遠く聞こえてくるインターナショナルのメロディーの何という美しさ! インターは鎮魂歌なのだ。ヴァンダという一人の女性が、戦中から戦後にかけてのポーランドの苦しみを象徴している。一人の人間の、わずかな期間の行動を撮るだけで、これだけのことが表現できるとは。


そして、何よりも主人公の少女イーダの、感情を押し殺した無表情が、彼女の深い怯えゆえであることに我々は衝撃を受ける。彼女の眼差しの何という暗さ! ほとんどしゃべらないイーダ。普通なら17歳といえば、女の子はきゃぴきゃぴしていてもよいのに、彼女はその真逆。非常に美しいのだが、修道女姿になると、そうは見えない。しかし、終幕、おそらく修道院をやめて世俗に生きるであろう彼女の、少し明るくなった表情に、我々は救いと希望を感じる。イーダは、ブレッソンの『少女ムシェット』の無表情と、とてもよく似ているのだが、最後に救いがあるところが異なる。モーツァルトの音楽が、なんと効果的に使われていることだろう。アウシュビッツの収容所で、ユダヤ人の音楽家たちはよくモーツァルトを演奏させられたという事実が、おそらく背景にあるのだろう。アウシュビッツは、ドイツではなくポーランドにある。

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2016-06-05 METシュトラウス『エレクトラ』

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[オペラ] MET シュトラウス『エレクトラ』 2016.6.5 銀座の東劇


(写真右は舞台全景[ただしこれのみは2014年スカラ座]、写真下はすべて今回のもの、エレクトラを歌うニーナ・ステンメとクリュタイメストラを歌うヴァルトラウト・マイヤー)

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初めてMETライブ・ヴューイングを観た。今年の4月30日にメトロポリタン歌劇場で行われたパトリス・シェロー演出、サロネン指揮の『エレクトラ』を映画館で見せるもの。実演を観るのとは異なるが、この作品の魅力がよく分かった。


『エレクトラ』は、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの三人がそれぞれ戯曲を残しており、ギリシア悲劇でももっとも重要な作品の一つである。シュトラウスのオペラ1909は、ソフォクレス原作をもとにしているが、台本はホフマンスタール。音楽は『ばらの騎士』などに比べると前衛的。今回のシェロー演出版では、オレステスをはじめ黒人歌手がたくさんいることが印象的だった。とりわけオレステス(エリック・オーウェンズ)が体の大きなアンクル・トムのような人物であることは、姉エレクトラと弟オレステスの再会の場面を崇高で深みのあるものにしている(写真↓)。激しく歌うエレクトラと、うつむいて涙を流し、黙って抱きしめるオレステス。今までに見た演劇版はどれも、オレステスはスラリとした長身のイケメンだったが[たとえば寺島しのぶ[=エレクトラ]の本当の弟である尾上菊之介]、アンクル・トムのような地味で優しいオレステスこそ、弟オレステスにふさわしいのではなかろうか。「美しい王女だった私は、犬のように醜くなってしまった。でもオレステス、そういう私をあなたに見詰めてほしい!」と歌うエレクトラは、たとえ犬のように醜くなっても王女の輝きを失っていない。そして、召使のように優しく抱きしめる弟オレステス。彼はあくまで弟であって父(アガメムノン)ではない。父-娘性とは異なる姉-弟性というものを感じさせるこの再会シーンは、愛が輝き出る崇高さに満ちていて、私は涙が止まらなかった。

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今回の上演を観て思ったのは、ギリシア悲劇をオペラという表現様式にすることの積極的な意味である。歌うことによって、語ることとは異なる、言葉の新しい力が生まれることを感じた。それによって、人物のそれぞれにより深い個性が感じられる。それにしても、この作品は全一幕ではあるが、1時間50分をエレクトラはほとんど休みなく歌い続ける。こんな過酷なソプラノの役は他にあっただろうか。『フィガロ』のスザンナも歌う量が非常に多いが、デュエットのような重唱がほとんどないエレクトラの方が歌手の負担は大きいと思う。そして、それだけの時間歌い続けることができるためには、歌詞が言葉として素晴らしいものであることが必要だと思う。今回気が付いたのだが、ホフマンスタールによるオペラの歌詞化は、何か傑出したものがあるのだろう。言葉は、歌われることによって、語られるのとはまた違った美しさを持つことができる。


そして、終幕が素晴らしかった。ずっと歌い続けてきたエレクトラが、歌をやめて踊ろうとするのである。「さあ、みんなここにいらっしゃい、一緒に踊りましょう。幸福という重荷を背負って、私が皆の前で踊ります。私たち幸福な者にふさわしく、ただ黙って踊りましょう!」 歌うエレクトラと踊ろうとするエレクトラ。たしかにオペラは演劇にはない新しい美を創り出している。オレステスとの再会と、終幕の場面は、演劇版だと特にどうということもないが、オペラでは明らかにクライマックスになっている。


下記に動画があります(ただしエクサン・プロヴァンス音楽祭での初演)。

https://www.youtube.com/watch?v=CxPrtsOtyUg

今回の映像もありました。

https://www.youtube.com/watch?v=6xBSHoMlS68

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2016-06-04 木ノ下歌舞伎『義経千本桜』

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[演劇] 木ノ下歌舞伎『義経千本桜 ― 渡海屋・大物浦』 2016.6.4 池袋・東京芸術劇場シアター・イースト

(写真右はポスター、下は女官と安徳天皇(右)、その下は平知盛)

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木ノ下歌舞伎を見るのは初めてだが、とても面白かった。江戸時代の歌舞伎原作を現代のコンテクストに置いて、劇中劇のような形で原作の一部を再構成しつつ再演する。ただし音楽は現代の西洋音楽で、踊りも現代。冒頭には、鳥羽上皇から安徳天皇までの天皇家、平家、源氏の対立の歴史を超スピードでコミカルに提示して、物語の歴史的背景を説明している。歌舞伎の原作『義経千本桜』そのものが、滅び行く平氏と、頼朝に追放された義経という「敗者」に共感しつつ、平氏と源氏の「和解」という虚構を創作して(生き延びた知盛が安徳天皇を義経に預ける)、戦いで傷つき死んでゆく者を鎮魂する作品であった。木ノ下歌舞伎のリメイク版の本作も、その延長線上にあり、現代国家による戦争の悲惨さを批判するモチーフがある。日の丸の旗がとても象徴的に使われている。典侍の局(すけのつぼね)と安徳天皇の間で交わされる原作の重要な会話(波の下には幸せの国がある、私たちはこの恐ろしい世界を離れてそこに行くのです)は、本作では、原作の口調のまま全部で3回(4回?)繰り返される。石母田正の名著『平家物語』は、平家の驕りと没落を大東亜戦争の日本敗北と重ねるものであったし、今年上演された野田秀樹『逆鱗』も戦争批判をモチーフにしていたから、本作もある意味で「正しい」解釈のリメイク版なのだ。


木ノ下歌舞伎は、演出家(今回は多田淳之介)がいるから、基本は現代演劇なのだろう。本作では、平清盛と弁慶を海坊主のような男優が一人二役で演じ、安徳天皇を少女のように美しい女優が演じるのが、うまい配役だと思う。義経は原作でもぼーっとしていて動きが少ないから、本作の主体は、やはり平知盛(佐藤誠)と典侍の局(大川潤子)だろう。二人とも非常に良かった。最後の、仁王立ちになった知盛が背中から海に飛び込んで死ぬシーン、原作の大錨を重量挙げのように持ち上げる代りに、平氏の伝統と戦争の死者たちを一人の人体に見立てて、それを両手で高く掲げて海に飛び込むシーンは、最高だった。

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2016-05-31 今日のうた61(5月)

charis2016-05-31

[今日のうた] 5月1日〜31日

(挿絵は[上畳本三十六歌仙絵]、大伴家持718頃〜785、『万葉集』の編者、収録歌は『万葉集』の1割を超えている、優美な歌を詠んだ歌人で、茂吉などはあまり評価しなかった)


・ 藤波(ふぢなみ)の影なす海の底清み沈着(しづ)く石をも玉とそ我(あ)が見る

 (大伴家持『万葉集』巻19、「美しい藤の花が湖に影を映している、湖水は澄みきっているので、底に沈んでいる石も真珠のように見える」、越中(富山県)の国司だった家持が近くの湖に遊覧した際の作) 5.1


・ 影見れば波の底なるひさかたの空こぎわたる我ぞわびしき

 (紀貫之『土佐日記』、「船べりから海をのぞくと、海底に空が映っている、そうか、僕は、何もない空漠とした空をこの小さな舟で漕ぎわたっているんだ、心細いなぁ」、「空こぎわたる」作者、ジャンボジェットで旅するような安心感はない) 5.2


・ 夕暮はいづれの雲のなごりとて花橘(はなたちばな)の風のふくらん

 (藤原定家『新古今』巻3、「夕暮どき、この風は、どの雲を吹いたなごりの風なのだろう、今は亡き貴女の火葬の煙を吹きぬけた風が、花橘の香のように、貴女の想い出を僕に運んでくる」、定家は歌に物語的なコンテクストを作り出すのが上手い) 5.3


・ せゝらぎの音する様な鯉昇

 (寺山修司「はまべ」1951、高校時代の句、鯉のぼりが風に吹かれて、布が擦れるような音をたてているのだろう、耳を澄ますと、それが「せせらぎの音」のように感じられる、5月4日は寺山の命日) 5.4


・ 手紙即愛の時代の燕かな

 (佐藤文香『君に目があり見開かれ』2014、作者は20代の若者、ラブレターのような古風なものは書かない、むしろメールや絵文字で気持ちを伝えるのかと思っていたが、たぶんこれはラブレターを手にした句、ちょうど燕も飛んできて) 5.5


・ 朝焼やパジャマのボタン拾いけり

 (清水哲男『打つや太鼓』2003、人が朝焼けの美しさに感動するとき、その人は、身支度を整えてキリッとしているとは限らない、顔も洗わず、だらしなくパジャマをはだけ、ゆるんだボタンがぽろりと落ちた、これも立派な朝焼けの感動) 5.6


・ 父がちゃん付けで呼ぶ私ほんとはね、おまえっていう名なのです。ごめん。

(森響子・女・29歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、29歳の作者を父は「ちゃん付け」で呼ぶが、恋人は「おまえ」と呼ぶのだろう、「おまえ」の方を作者は気に入っている) 5.7


・ 信じてるものがあるんだねと言ってくれた口をただ見ていたいだけ

 (たかだま・女・21歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「信じてるものがあるんだね」と作者を励ましてくれた彼氏、その言葉が出た彼の口が好き、その口をずっと見ていたい) 5.8


・ もう二度と戻ってこない部屋なのにきみは枕の位置を直した

 (田中萌果・女・23歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、彼氏と旅行したホテルだろう、こういう真面目で几帳面な彼氏が大好きな作者) 5.9


・ 摘みけんや茶を凩(こがらし)の秋とも知らで

 (芭蕉1681、「もう摘んでしまったのだろうか、茶の木にとっては、娘たちの手によって若葉が摘まれるのも、秋の木枯しによって葉を枯らされるのも、同じなのに、区別はつかないんだろうな」、茶の木の立場に擬人化した珍しい句) 5.10


・ 旅芝居穂麦(ほむぎ)がもとの鏡たて

 (蕪村1771、「麦が穂をつけ、広い畑一杯にうねっている中、旅芝居の興業が行われ、村人たちが観賞している、ふと気が付くと、穂麦の脇には、芝居一座が自分の装束を見るための鏡台が一つ、ぽつんと置かれている」、絵画的で見事な取り合わせ) 5.11


・ 生き残る我にかゝるや艸(くさ)の露

 (一茶1801『父の終焉日記』、同年5月の初め、故郷の父が亡くなり、火葬場で遺骨を拾った朝の作、一茶は39歳、まだ独身でとても貧乏だった) 5.12


・ 世の中に恋(こひ)てふ色はなけれども深く身にしむものにぞありける

 (和泉式部『後拾遺和歌集』、「今、私は恋をしているのよ、赤色や白色のように、「恋色」という名の色はないけれど、染め物の色が布に染みていくように、「恋色」が私の体一杯に染みわたってゆくわ」) 5.13


・ 忘れめや葵(あふひ)を草にひきむすび仮寝(かりね)の野辺の露のあけぼの

 (式子内親王『新古今』巻3、「どうして忘れることがありましょう、私が賀茂神社に斎院としてお仕えしていた時、葵を引き結んだ草枕で寝た神館[=仮小屋]の野辺に、露が美しく光るあの素晴らしい夜明けを」、若き日の内親王は神事に仕える巫女だった、これは早朝の神事のときの想い出) 5.14


・ とにかくに心を去らず思ふこともさてもと思へば更にこそ思へ

 (建礼門院右京大夫、「平資盛さん、貴方が遠くにいるならともかく、いつも目の前にいるんだもの、貴方のことが一時も心を離れない、貴方を思わないようにすればするほど、思いがつのるわ」、十代の作者はまだ片想い) 5.15


・ 黒き蝶ゴッホの耳を殺(そ)ぎに来る

 (角川春樹『カエサルの地』1981、作者1942〜は、父角川源義の死を受けて、角川書店社長に就任1975、俳誌『河』の選者になった1979年頃から、句作に熱中する、第一句集のこの句も、大胆な作風に驚かされる) 5.16


・ 緑蔭に徹夜行軍の身を倒す

 (相馬遷子1940、応召された作者は軍医見習い士官として中国戦線に従軍した、徹夜で行軍した部隊は疲れ切って、緑の木陰に「倒れ込む」) 5.17


・ つばめつばめ泥が好きなる燕かな

 (細見綾子1938、作者の家の軒に燕が巣を作って子育てしているのだろう、泥をたくさん運んでくるのに着目、とても生き生きした句) 5.18


・ をさなさを武器のごとくに黙しゐついまだ春なる夕映のいろ

 (石川不二子1954、作者1933〜は20歳、東京農工大学農学部に在籍していた、男子学生の多い中、キャピキャピした女子学生ではなく、「寡黙な少女のように」押し黙っていた彼女に、恋が始まったのだろう、瑞々しい歌) 5.19


・ つま先からやってきて背骨を通過してうなじで着地わたしの憂鬱

 (もりまりこ『ゼロ・ゼロ・ゼロ』1999、歌集の「メランコリー」と題した部の歌、「憂鬱」は局所的な「痛み」でも「体感」でもない、だが、普通の気分がそうであるように、同時に全身に広がっているとも限らないのか) 5.20


・ 桐の花ことにかはゆき半玉(はんぎょく)の泣かまほしさにあゆむ雨かな

 (北原白秋『桐の花』1913、「半玉」とは芸妓見習いの少女、「初夏の桐の花が美しく咲いている、でも雨が降り始めた、とても可愛い芸妓見習いの少女が泣きそうな顔で歩いてゆく、お化粧が崩れちゃうよね」) 5.21


・ 走りくる波に怯(おび)ゆる女身(じょしん)ゆえわが手に撓(しな)うあわき香をして

 (岡井隆『斉唱』1956、作者1928〜の若き日の恋の歌、彼女と海辺へ行ったのだろう、突然襲った波に怯えて彼女が駆け戻ってきた、作者に飛びついた彼女を両手で強く抱きしめる、「女身」という古めかしい漢語と「あわき香をして」の優美さの取り合わせがいい) 5.22


・ 各々の薔薇を手にして園を出づ

 (高濱虚子1924、「薔薇園を楽しんだあと、一緒に出る」、虚子の俳句は、ただサラッと詠んだだけで、凝った感じがしないが、そこにこそ花鳥諷詠の神髄がある) 5.23


・ 手の薔薇に蜂来れば我(われ)王のごとし

 (中村草田男『長子』1936、草田男の句は、昨日の虚子と比べると、物語的であり、文学的) 5.24


・ 海兵生薔薇より前(さき)に服白し

 (山口誓子1941『七曜』、海軍兵学校の生徒だろう、白く咲いた薔薇の少し先を歩いている、その制服の白がまぶしい) 5.25


・ 性愛の音階にしも含まるるすべての音をばらんと鳴らす

 (山田富士郎『アビー・ロードを夢みて』1990、裸の彼女の全身を、ピアノの鍵盤全体を両腕で抱くように抱きしめる作者、「すべての音をばらんと鳴らす」が上手い) 5.26


・ 鋭い声にすこし驚く きみが上になるとき風にもまれゆく楡

 (加藤治郎『サニー・サイド・アップ』1987、昨日の山田富士郎とは微妙に感覚が違うが、これも性愛を詠んだ歌、「風にもまれゆく楡」が上手い) 5.27


・ 荒磯(ありそ)越し外(ほか)ゆく波の外(ほか)ごころ我れは思はじ恋ひて死ぬとも

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「荒磯にただぶつかっただけで、磯を越えて外に流れてしまう海の波みたいな、そんな「よそ心」を僕は持たないよ、どこまでも君一筋なんだ、たとえ君に冷たくされて恋い死にしようとも」) 5.28


・ 人知れぬ思ひやなぞと葦(あし)垣の間近けれども逢ふ由のなき

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「貴女が好きです、その気持ちを貴女に伝えたいんです、でも、葦の垣の目と目が近いように、こんな近くに貴女は住んでいるのに、ああ、お会いする口実が見つからないんです」) 5.29


・ いかに寝て見えしなるらむうたたねの夢よりのちは物をこそ思へ

 (赤染衛門『新古今』巻15、「私がどういう枕の方向で寝たので、夢で貴方に逢ったのかしら、貴方の私への愛の契りが、うたた寝のような仮そめのものだなんて、ひどいわ、つれなくされてとても落ち込んでいるのよ」) 5.30


・ 我も人もあはれつれなき夜(よ)な夜なよ頼めもやまず待ちも弱らず

(永福門院『風雅和歌集』、「歴夜待恋」(=夜ごと人を待つ恋)と詞書、「私たちって、いつもずいぶんよそよそしい夜を過ごしてるわよね、来るつもりないのに「行くよ」っていつも気軽に約束する貴方、ちっとも期待してないから待ちくたびれることもない私」) 5.31

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