Hatena::ブログ(Diary)

charisの美学日誌

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最新タイトル

齋藤憐、民藝『グレイクリスマス』
勅使河原三郎/シェーンベルク『月に憑かれたピエロ』
宮藤官九郎演出『ロミオとジュリエット』
うさぎストライプ『空想科学供
今日のうた(91)
平田オリザ『ソウル市民/ソウル市民1919』
藤倉大『ソラリス』
今日のうた(90)
D.ジャンヌトー演出、『ガラスの動物園』
ケラ・サンドロヴィッチ『修道女たち』
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2018-12-08 齋藤憐、民藝『グレイクリスマス』

charis2018-12-08

[演劇] 齋藤憐作、民藝『グレイクリスマス』 三越劇場 12月8日


(写真右はポスター、下は、五條伯爵家の人々、右端の階段にいるのが伯爵、その下は、伯爵の後妻の華子と日系人将校のジョージ伊藤)

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劇団・民芸の久しぶりの再演。私は、1999年2月1日、5日と、渡辺浩子演出、奈良岡朋子主演で二度見ているので、今回の丹野郁弓演出が三度目。20年ぶりに見たが本当に本当に素晴らしい作品! チェホフの『三人姉妹』と『桜の園』を組み合わせたようなところがあり、敗戦後の華族制度廃止による伯爵家の没落の中で、必死にもがく人々を描くと同時に、戦争、植民地支配、階級、日本国憲法などのコンテクストが深く示されるので、叙事詩的な広がりをもっている。終幕があまりにも美しい。クリスマスイブに、雪がぱらつく程度で景色がホワイトにはならない「グレイクリスマス」、日本国憲法の制定に与った理想主義者の米軍将校ジョージ伊藤は朝鮮戦争で死んでしまった。遺品のオルゴールの音とともに、架空の彼と一人静かにダンスを踊りながら、華子は日本国憲法を暗唱しながら幕が閉じる。抒情詩と叙事詩がかくも高度に一体化した演劇がかつてあっただろうか。写真下は↓、占領下あるいは朝鮮戦争という新しい状況に適応して、生き延びようとする男たち。女たちと違って、男たちの適応と転生は醜い。

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私たちの人生は思うようにならない。自分の力の及ばないところで、いつも外的環境が激しく変る。それに打ちのめされながらも、苦しみを克服し、悲しみを喜びに変えようと、必死にもがきながら生きている。チェホフ劇が執拗に描いたように、「ああ、何て生きにくい、生きるのが苦しい、でも、私たち、生きていかなければ、そう、生きていきましょう、未来を信じて・・・」。そう、これが私たちの生なのだ。『グレイクリスマス』では、華族制度が廃止され、伯爵家の人々も苦しみながら転生する。だが、「生き方を変える」のは、何と難しいのだろう。伯爵家の女たちは、得意の英語を生かして米軍将校相手のホステスをするなど、たくましく状況に適応し、楽しげに転生してゆく。彼女たちの転生は美しい。一方、男たちも、必死で適応するが、アメリカの反共政策への転換や朝鮮戦争特需で復活するなど、男たちの転生は醜い。おそらく、男たちの方が社会的文脈に絡め取られる度合いが強いからだろう。『グレイクリスマス』は一人一人の人物造形が素晴らしい。伯爵その人は、どうしようもなく子供っぽい幼い性格だが、とことん無垢なところがあり、『白痴』のムイシュキンがもし老人になったら、こんな人物だったろうと思わせる。そして、本作の本当に重要な人物は、伯爵令嬢である雅子ではないだろうか。写真下は↓、華子と雅子。

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雅子は、『かもめ』のニーナや『三人姉妹』のイリーナと本当にそっくりだ。非常にマゾヒスティックで、しかもその愛は成就しない。朝鮮人のたくましい闇屋の青年・権堂に雅子は惹かれてゆくが、彼女の愛は、痛々しいまでにマゾヒスティックである。伯爵家の女たちの中で、たぶん彼女だけは転生に失敗するだろう。彼女が権堂に向って「愛してるって言って!」と唐突に叫ぶシーンは、本当に胸が塞がるような悲しいクライマックスだ。本作には、華子の日本国憲法朗読の一人ダンスシーンと並んで、二つクライマックスがある。しかし、あらためて考えてみると、ニーナ、イリーナ、雅子、そして『ガラスの動物園』のローラといった現代演劇が形象したヒロインたちは、現代では、ヒロインはまさにそのようにしかありえない必然性があるようにも思われる。それは、妄想と狂気の中にしかもはや純愛はありえないことであり、マゾヒズムの中で愛そのものが挫折するということでもある。この舞台では、闇屋の権堂を演じた岡本健一と、華子を演じた中地美佐子が素晴らしかった。

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2018-12-04 勅使河原三郎/シェーンベルク『月に憑かれたピエロ』

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[ダンス] ベルク『抒情組曲』・シェーンベルク『月に憑かれたピエロ』 東京芸術劇場 12月4日


(写真右はポスター、下は、『月に憑かれたピエロ』の勅使河原三郎と佐東利穂子)

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勅使河原三郎と佐東利穂子が、二つの曲にダンスをつける。とても美しい舞台だった。『月に憑かれたピエロ』は大きなCG映像をバックに演奏されることがあるが、なるほど人間の身体運動と一緒になると、運動が時空そのものを創り出しているような印象があって、不思議な感覚を覚える。「抒情組曲」は12音技法で作られ、音楽自体が構造的に分節せず、すべてが連続的に推移する。従来のクラシックの舞曲だと、時空の中で身体=モノが動くという感じだが、この舞台では、連続的に音楽が音を紡ぎ出すから、音の流れにぴったり寄り添うように、身体が非ユークリッド的な曲線運動をして、その動きが身体の周囲に次々に非ユークリッド空間を「紡ぎ出し」ているように感じられた。二人が交互に踊るのだが、その交替の時、着ている黒いコートに相手をするりと滑り込ませるという仕方でコートを受け渡し、自分が踊り手になる。連続的な流れを絶やさないためなのだ。たとえば、日本の能だと、役者の鋭い動きが「空間を切り取っていく」ような印象を受けるが、こちらは二人の身体運動から非ユークリッド空間が次々に「紡ぎ出される」。


『月に憑かれたピエロ』では、銀色に輝く薄いアルミシートみたいなものが縦横に使われる。身体の自由な有機的な動きが、かぶせられたアルミシートの無機質な制約にからめとられて、一瞬、疎外されるかと思うと、次の瞬間には、そのアルミシートが布のように柔らかに動き、水面のように波立って推移していく。まさに、空間そのものが創出される感じだ。佐東利穂子の衣装は白なので、浴びる光の変化によって、身体の色も変化する。天井からたくさんの小さな灯がゆっくりと降りてきて「舞い」始めるシーンは、人魂が戯れているようで、神秘的でとても美しい。我々が生きている空間は、ユークリッド空間ではなく、非ユークリッド空間なのだと強く感じさせる舞台だった。

多久です多久です 2018/12/05 10:41 昨日はご来場くださりありがとうございました。フルートとピッコロを吹いていた多久と申します。高校生の時に奥様にピアノとソルフェージュを見ていただいておりまして、先生の熱心なご指導のお陰で今このように演奏家として舞台に立てております。
ダンスのバックミュージックという、間接的ではございますが、演奏を聴いていただけたことが非常に嬉しいです。

charischaris 2018/12/05 13:49 おお、あの多久くんですか! 懐かしいですね。昨日の『月に憑かれたピエロ』、とてもよかったです。クラリネットもそうですが、笛を幾つもつかうのですね。僕は定年退職して時間があるので、もし貴君が演奏する機会があれば、事前に教えてください。聴きにいけるかもしれません。PS:貴君の公式ブログを見つけたので、そこに公演予定は出ますね。

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2018-12-02 宮藤官九郎演出『ロミオとジュリエット』

charis2018-12-02

[演劇] 宮藤官九郎演出『ロミオとジュリエット』 下北沢、本多劇場 12月2日


(写真右は、舞踏会での一目惚れシーン、palm to palm is holy palmer’s kissのところ、ジュリエット(森川葵)は若々しく初々しいが、ロミオは、引き籠りのグズ男ダメ男くん、しかも演じる三宅弘城は50才のオッサン!、写真下は同舞踏会、二人の間にいるのがティボルト、全体がドタバタ喜劇になっている!)

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ロミ・ジュリは今までたくさん見たけれど、今回の宮藤官九郎演出は非常にユニークなもので、全体を完全にドタバタ喜劇・笑劇にして、その中に二人の死という悲劇部分をかろうじて埋め込むというアクロバティックな作り。ジュリエットは原作通りのキャラクターだが、ロミオが引き籠りのどーしょーもないグズ男ダメ男のオッサンになっており、二人の非対称がそれ自体笑わせる。たしかに原作も、乳母や男友達など周囲はいつも猥談や卑猥な冗談に溢れていて、だからこそロミオとジュリエットの清純な純愛が際立つのだが、ロミオその人まで完全におバカキャラにしてしまうと、劇全体が非常に違ったものになる。写真下は↓、左からベンヴォーリオ、マキューシオ、ロミオ。二人は颯爽とした青年だが、ロミオはオッサン。最初から最後までロミオだけ浮きまくっている。

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乳母は原作でもノリノリのHなオバチャンだが、本作では、大公、ロレンス神父、キャピュレット、キャピュレット夫人、モンテギュー、ティボルト、パリス伯爵まで、ほぼ全員がまるでお笑い芸人のようだ。マキューシオは原作でも軽快なお調子者なのだが、本作ではそれをより一層強調して、人物造形がとても上手い。観客は、二時間余りのあいだ、ほぼ笑いっぱなしだが、さすがに最後の二人が死ぬところだけは笑えない。写真下は↓、左から乳母、ジュリエット、キャピュレット夫人、その下の写真、真ん中はロレンス神父。

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ジュリエット以外の全員をお笑いキャラにして、完全な笑劇にした結果、しかし見えてくる重要な点が幾つかある。たとえば、舞踏会シーン、ロミオがジュリエットに一目惚れしたのはよく分かるが、ジュリエットがロミオに一目惚れした理由は、原作でもよく分からない。しかし本作のように、いつも弁当を持っているノロマのロミオ君が、舞踏会で、誰にも相手されず、一人で壁に座ってぼそぼそと弁当のパンを食べ牛乳を飲んでいるならば、その落ちこぼれぶりを目にしたジュリエットが、同情して、彼に惚れたというわけだ。そして、ジュリエットの周りの大人はみな、自己中のひどい人たちばかりなのだ。父、母、乳母はジュリエットを見捨てる。そしてロレンス神父も、最後までジュリエットに付き添っていれば彼女は死ねなかったのに、外から人が来るのを恐れて、墓から出てしまい、それはジュリエットを見捨てることなのだ。原作で一番疑問に感じていた点だが、ロレンス神父も軽いノリの無責任なオッサンと考えれば、合点がゆく。仮死状態の薬を飲ませたのも、たまたま思いついたアイデアを、ちょっとやってみただけ。つまり、ジュリエットだけが、自己中のとんでもない大人たちに囲まれた犠牲者で、そこだけが悲劇ということになる。さすがはクドカンの演出と言うべきか。写真下は↓、バルコニーのシーン、舞踏会[中央は踊るパリスとジュリエット、右上にぽつんと寂しく座っているのがロミオ]、そしてマキューシオ対ティボルト、どれもコミカル。

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2018-11-30 うさぎストライプ『空想科学供

charis2018-11-30

[演劇] うさぎストライプ『空想科学供戞ゞ霈譟Ε▲乾薹狆譟11月30日


(写真右はポスター、下は舞台、70歳近くまで生きて死んだ妄想少女の衣服を姪が折りたたむ)

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 大池容子作、うさぎストライプ公演は、『バージンブルース』が傑作だったが、今回の『空想科学供戮發箸討發いぁどちらの作品も、不条理劇の仮面をかぶった純愛劇で、「愛は妄想の中にしか存在しない」ことが描かれている。『空想科学供戮蓮▲薀屮曚妊織ハシ君という男と知り合った少女が、彼を愛してしまい、彼はすぐ死んだにも関わらず、彼女はずっと彼を愛し続ける。その同じラブホの部屋に、二人はたぶん50年近く住み続ける。そして50年間、その妄想少女は年をとらずに可愛い少女のまま。そして彼女が死んだお通夜の晩に、姪たちやその夫、友人たちなどが集まる、という物語。不条理劇の構造はかなり凝っていて、頭を斧で割られて死んだタカハシ君に対して、姪の夫である龍太郎が、斧で人の頭をたたき割る夢をいつも見ることが、メタレベルになっている。しかも、両者は異次元でありながら、ラブホの一室でときどき相互作用する。そして、ラジオのDJ番組で若者たちの交友が回想される。何といっても、龍太郎が「夢から醒めそうで醒めない」という微妙な事態が不条理を引っ張り続けるのが面白い。完全に醒めてしまえば不条理も事切れる。たぶん愛の存在そのものが、「夢から醒めそうで醒めない」状態に依存しているのだろう。最後に現われた龍太郎の血塗られた服は、たぶんタカハシ君の返り血。だが、龍太郎が夢から醒めるとすれば、それと同時にタカハシ君も消滅するだろう。しかし、その直前で終幕になる。妄想少女の葬式のとき、龍太郎も死んでいて、姪は未亡人になるのだが、そこはよく分からなかった。龍太郎の死は、タカハシ君と妄想少女の存在様相に影響を与えないのだろうか?写真下は、左端が妄想少女、そして彼女の衣服。

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 全体が誰の夢なのかははっきりしないが、たとえ妄想少女の妄想=空想であったとしても、二人の愛はとても初々しく、愛そのものがどこまでもリアルなのが素晴らしい。タカハシ君は、「生きていてもいいことないから27歳で死ぬのが夢だった」が、28歳で死んでしまった。だが、彼女だけ無名の妄想少女は、初めて海岸をデートした日、ベッドで言う、「じゃあ、私、長生きする、タカハシ君さみしくないように、すっごい長生きして、大往生する。・・最後、百歳まで生きて、孫とかに看取られて、そんで死ぬの」。そして、彼女が死ぬ時の、ベッドでの会話、タカハシ「いた? ・・・おれ」、女「・・・いたよ。」、タカハシ「ホントに?」、女「てゆうか・・・いるでしょ、ここに。」、タカハシ「・・うん。そうね。」愛は何と優しいのだろう! 二人の会話は、いつもストレートにはつながらず、「えっ?・・」と聞き返し、いつも一呼吸入るのだが、それがとてもいい。「ねぇ、ねぇ、タカハシくん、見て、見て、私60歳になったよ!」とベッドの上でワンピース姿ではしゃぐ彼女は何て可愛いのだろう!(写真下↓、ただしこれは40歳のワンピースかも) たとえ妄想と狂気の中であろうと、愛の存在だけは決してリアリティを失わない。それは、小さな宝石のように光っている。愛の、今、を生きることは、永遠、を生きることなのだ。

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 友人たちも何人かは死者として登場し再会するのだが、彼らは暴走族だったり不良系だったりするが、みな寂しがり屋で孤独な若者だ。彼らもまた妄想の愛に生きているようで、それがとても愛おしい。「それってサイコパスじゃん」という科白があったが、これは「愛は妄想の中にしか存在しない」ことの言い替えなのだろう。妄想少女が50年を過ごすラブホの大きなベッドが地味で上品なのがいい(↓)。彼女は最初から最後までずっと下着姿で、取っ替え引っ替え、ワンピースに着替えるのだが、60年代ファッション風で、それがとても可愛い。下着といっても、白い大きなトランクスのパンツなので、彼女はエロい感じがしない。やはりずっとパンツ一丁のタカハシくんも、ちょっとニヒルなのがいい(↓)。彼女ほど愛情表現が強くないけれど、まちがいなく二人は相思相愛。名前のないこの妄想少女は何と美しいのだろう!(↓) 28歳と70歳の二人の人生は、愛のある幸福な人生だったのではないだろうか。音楽と歌も、昭和ふうもあるちょっとレトロなのがいい。

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2018-11-29 今日のうた(91)

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[今日のうた] 11月ぶん


(写真は松本たかし1906〜56、能楽師の家に生まれたが病を得て、能楽師は断念、虚子に師事して「ほととぎす」で活躍し、美意識の高い句を詠んだ)


・ パーティーにわれらはわらふ誰とゐても貿易風のやうに笑へる

 (睦月都「十七月の娘たち」2017、「貿易風が吹く」のだからパーティーは広い会場なのだろう、どの場所にも談笑の輪が広がっている、作者は場所を変えながらいろいろな人と話し、そして笑う、「貿易風のやうに」笑いが広がる) 11.1


・ 街路樹の木の葉ふるときソラシドレ鳥刺の笛がきこえませんか

 (杉崎恒夫『食卓の音楽』1987、「街路樹の紅葉した木の葉が散って、なんだかメルヒェンのような感じだ、なんか笛の音のようなものが聞こえる、『魔笛』のパパゲーノのような鳥刺がひょっと現れるかも」) 11.2


・ 毛布かぶればやつぱり兵隊の匂ひがして、この夜もまた単純にねむる

 (前田透「初期歌篇」1941、作者1914〜84は前田夕暮の子、早くから口語短歌を作った、戦時中、主計大尉として海外に駐留、そのときの歌だろうか) 11.3


・ 近よりて茶の花白き日和かな

 (鈴鹿野風呂1887〜1971、「秋晴れの日、茶の花が咲いている、花は小さいけれど、黄色い蕊を囲む花弁の白が美しい、どうしても「近寄って」見てしまう」、作者は虚子門下の「ホトトギス」同人、「京大三高俳句会」でも活躍した) 11.4


・ 落葉かく身はつぶねともならばやな

 (越智越人1656〜?、「鎌倉建長寺に詣でて」と前書、「静かな寺院の庭で男が落ち葉を掃いている、それを見ているうちに、自分もこの寺の「つぶね(=従僕)」になりたくなった」、作者は蕉門の俳人) 11.5


・ 水底(みなそこ)の岩に落つく木の葉かな

 (内藤丈草1662〜1704、澄み切った池だろうか、「浮かんでいた落葉がゆっくりと沈んでゆき、やがて池の底のある岩に貼り付くように止まった」、作者は芭蕉の弟子) 11.6


・ 立冬や柚子熟れてゐる百姓家

 (中村樂天1865〜1939、この時期、農家の庭先にたくさんなった柚子の実は黄色に輝いて、美しい、作者は子規に師事し「ホトトギス」同人だった人、今日は立冬) 11.7


・ 奥山の真木(まき)の板戸をとどと押して我が開かむに入り来て寝(な)さね

 (よみ人しらず『万葉集』巻14、「ねぇねぇ、今晩も早く来てね、貴方が私の家の真木で作った戸を叩くと、私が内側から、ぎいーって押して開けるわ、そしたら貴方が飛び込んできて私を抱くのよ!」、「とどと開かむ」がいい) 11.8


・ 大空は恋しき人の形見かはもの思ふごとに眺めらるらむ

 (酒井人真『古今集』、「大空は、別れた貴女の形見なのでしょうか、もの思いにおちいるとき、僕はどうして空ばかり見詰めてしまうのでしょう」、「形見」は男女が別れるときに贈り合う品物) 11.9


・ 今はただ心のほかに聞くものを知らずがほなる萩の上風

 (式子内親王『新古今』巻14、「貴方との恋が終った今、貴方を思わせるかのような外の物音も、もう私とは関係ないと思って聞いているのに、そんな私をあざ笑うように、風よ、あなたは萩の葉を揺らして音を立てるのね」) 11.10


・ 恋ひ死なん命をたれに譲りをきてつれなき人のはてを見せまし

(俊恵法師『千載集』巻12、「貴女はついに私の愛を受け入れませんでしたね、つれない人よ、私は貴女に恋い焦がれて死ぬでしょう、でも私のその命を誰かに譲って、貴女も不幸になって死んでゆくのを彼に見届けさせたい」) 11.11


・ うす青き銀杏落葉も置きそめし

 (松本たかし1906〜56、銀杏の落葉は、完全に黄色だけとは限らず、初めの頃は、まだ青い部分が残る葉もある、これは落葉の初期の頃の地面だろう、「置きそめし」がいい) 11.12


・ 銀杏散るまつたゞ中に法科あり

 (山口青邨1892〜1988、東大の本郷キャンパスの銀杏並木は美しい、正門から安田講堂に向って左側が法文1号館、法学部の教室がある建物だ、作者は安田講堂の左側にある東大工学部の教授なので、毎日銀杏並木を通っていた) 11.13


・ 蹴ちらしてまばゆき銀杏落葉かな

 (鈴木花蓑1881〜1942、銀杏の落葉は分量が多い、どんどん地上に溜まって積もる、だから積もった落葉を足で蹴ることもありうる、「蹴散らしてまばゆい」というのがいい) 11.14


・ 藝者家(や)を出て来る人数七五三

 (高濱虚子、ユーモア句だろうか、七五三の日、芸者家から女性がまず七人、次に五人、その次に三人と出てきたのだろうか、子供連れではないだろう、何だか面白い、今日11月15日は七五三) 11.15


・ 一日がまた暗くなる暗くなりおわってからの時間の長さ

 (相田奈緒『短歌人』2018年8月号、作者は『短歌人』所属の若い人、秋の日はつるべ落しと言われるように、晩秋の日暮れは早い、しかしこの歌は自分の心理の状態とも読める) 11.16


・ 鼻唄は互ひにまぢりあひながらきみとは角度をとつて座りぬ

 (山下翔『九大短歌』第四号 2016、作者は20代の若い人、歌会だろうか、それともコンパか、「きみ」は一応友人なのだろう、互いに親しそうな雰囲気を見せるけれど、あえて「きみ」の真正面には座らないという距離感) 11.17


・ 朗読をかさねやがては天国の話し言葉に至るのだろう

 (佐々木朔「羽根と根」創刊号・2014、朗読しているのは短歌か、それとも詩か、「天国の話し言葉」というのがいい、そもそも言語は、何百万年もパロールだけだったのに、1万年くらい前にエクリチュールが始まった) 11.18


・ 婦人用トイレ表示がきらいきらいあたしはケンカ強い強い

 (飯田有子『林檎貫通式』2001、作者1968〜は歌誌「かばん」所属、「婦人用トイレ表示」とは、男子=青色/女子=赤色のあの絵のことか、そこに女性性=弱さのようなものが読み取れるから「きらいきらい」なのだろうか) 11.19


・ 秋を経て蝶(てふ)もなめるや菊の露

 (芭蕉1688、「菊花の蝶」と前書き、「秋も深まり、弱々しく飛んできた蝶が菊の花に止まった、蝶も老いたのだね、何とか生きようと菊の露をなめているのだね」、「秋を経て」が効いている) 11.20


・ 菊作(づく)り汝は菊の奴(やつこ)かな

 (蕪村「句帳」1774、「いやぁ、見事な菊が咲いていますね、御主人も菊作りに精出して、あくせく動いておられる、まるで菊の奴隷みたいですね、菊作りにはほんと手間暇かかりますよね」) 11.21


・ どちらから寒くなるぞよかゞし殿

 (一茶1810『七番日記』、「まず寒くなるのは、頭の方かい、それとも足の方かい、案山子くん」と呼びかける一茶、案山子はいつも一人で寂しい、一茶もいつも寂しい、でもこうして呼びかける彼の言葉は、何ともいえず優しい) 11.22


・ 潤(うるほ)ひをもちて今夜(こよひ)のひろき空星ことごとく孤独にあらず

 (佐藤佐太郎1947『帰潮』、何日も雨が続いた後、雨上がりの夜空が晴れ上がったのだろうか、今夜の空は「ひろい」と感じる作者、「星ことごとく孤独にあらず」が素晴らしい、星だけでなく自分も孤独でない、と) 11.23


・ 魔のごとく電車すぎたる踏切は闇に鋼(はがね)のにほひがありぬ

 (上田三四二『湧井』1975、最近の電車の車体はアルミ合金だが、以前はすべて鋼鉄だった、踏切で作者の至近距離を「魔のごとく」通過する電車は、重く、そして「鋼のにおい」が暗闇に残る、そう、これが電車というものだ) 11.24


・ 人知れず老いたるかなや夜をこめてわが臀(ゐさらひ)も冷ゆるこのごろ

 (斎藤茂吉『小園』、手帳によれば1944年11月29日、空襲を避けて防空壕でじっとしている茂吉、「人知れず」から、一人で壕にいることが分る、地べたに直接座っているのか、「尻が冷える」と老いを嘆いている) 11.25


・ 秋風やまた雲とゐる人と鳥

 (高屋窓秋1970、作者は戦前の新興俳句運動を担った一人、二十代の初めは秋櫻子に師事し「馬酔木」で活躍した、本句は、戦後20年の中断を経て発表された句集『ひかりの地』所収のもの、「また雲とゐる」がいい) 11.26


・ 三宅坂黄套わが背より降車

 (渡辺白泉1936、三宅坂には陸軍省や参謀本部があった、「黄套」とは陸軍将校のカーキ色の外套、陸軍将校が一人、作者のすぐ後で車から降りたのをちらっと見た、作者は当時三省堂に勤務、「通勤景観」と小見出しにあり、通勤の途中だろう) 11.27


・ 灯はちさし生きてゐるわが影はふとし

 (富澤赤黄男1937年11月、徴兵されて中国戦線の戦場での一連の句「蒼い弾痕」の中の一句、塹壕の中かテントの中か、小さなランプの光に自分の影が大きく映る、句集『天の狼』1941戦旗発行所刊に所収) 11.28


・ 詩と愛と光と風と暴力ときょうごめん行けないんだの世界

 (柳本々々(やぎもともともと)2017、初出は歌誌「かばん」400号、自分は、詩の世界でもなく、愛の世界でもなく、光の世界でもなく、・・・の世界でもなく、「きょうごめん行けないんだの世界」にいるのか、とてもいい歌) 11.29


・ 戦場を覆う大きな手はなくて君は小さな手で目を覆う

 (木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』2016、作者は1988年生まれの若い人、戦争をストップさせる大いなる神の手のようなものはなく、我々は、悲惨な戦場を見ないように「小さな手」で目を覆うしかない) 11.30

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2018-11-03 平田オリザ『ソウル市民/ソウル市民1919』

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[演劇] 平田オリザ『ソウル市民/ソウル市民1919』 駒場アゴラ劇場 11月3日


(写真はすべて『ソウル市民1919』、ただし今回ではない上演も含む、写真右は、客として来ている日本人力士、「ごっつあんです」とドスの効いた声を出すコワモテだが、実はとても弱っちい青年、すぐ下↓は今回の舞台)

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平田オリザの舞台は全部で6つしか見ていないが、『ソウル市民1919』は本当に素晴らしく、日本演劇史に残る傑作だと思う。平田の劇はすべてアリストテレスの「三一致の法則」を守った一幕一場ものだが、演劇という表現様式の原点に忠実であることが彼の芝居の魅力の源泉だと思う。居間のようなところに、人が入れ替わり立ち代わりして互いに何かしゃべっていくだけで、たとえば『ソウル市民1919』は110分の上演時間だが、舞台の上でも110分の時間しか流れない。最大80人くらいの客席と小さな舞台。この小さな時空で、我々の人生そのものが濃密に演じられる。これが演劇というものなのだ。今回、シナリオを見て分かったが、冒頭、「客入れ、おおむね20分間、舞台では書生の岩本が座って新聞を読んでいる・・・」と書いてある。つまり、開場して最初の客が劇場内に入ったときから劇はすでに始まっているのだ。演劇もまた役者と観客が出会い、劇場という時空を短時間共有し、そして別れる。平田劇は、『さよならだけが人生か』のタイトルも示すように、人と人がわずかの時間と空間を共有し、そしてまた別れていく、その出会いと別れを描いている。恋愛も、暴力も、事件もなにもなく、淡々とした日常の光景だが、でも、これはまさに我々の人生そのものではないだろうか。我々はたまたまこの世に生まれ、他者と時空を短い間共有し、そして必ず死んでゆく。平田劇もまた、居間や食堂で数人がしゃべり、そしてそれぞれ別々に出ていく、それだけ。『ソウル市民1919』は、三一独立運動(万歳事件)の日を三一致の法則に従って描いたものだが、外では朝鮮人たちがデモをしている「らしい」が、ソウルの日本人商店の居間では、朝鮮人女中たちが朝鮮語で歌を歌って(写真↓)、ちょっと外へ出て行った「ようだ」というだけで、たわいのない雑談しか行われない。あとは出来事らしい出来事といえば、日本人力士が客として現れ、女性たちが彼のお腹にさわらせてもらうことだけで、他は、出戻りの若い長女の見合い話を兄が勧め、長女はその見合いを嫌がり、友人や女中たちは興味津々でその話を聞き、少し会話に加わるくらいなもの。

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人は、こんなときには、こんなふうに感じ、こんな表情や仕草をして、こんなことを言う。演劇はそれを示すことしかできない。しかし、それによって演劇は、人間という存在の愛おしさと美しさを表現することができる。エクリチュールである小説と違って、生の言葉が語られるから、演劇の科白は、パロールという言語の原点をたえず提示する。平田劇は、何といっても科白が素晴らしい。『ソウル市民』は地味な劇だが、輝くような科白が多い。科白が輝くとは、人間はこんなときにはこんなことを言うよね、という点に深い共感を呼ぶということだ。平田劇の主人公をいつもつとめる山内健司が名優であるのは、こんなときにはこんな表情でこんなことを言う、その言い方が素晴らしいからだ。小さな居間でのちょっとした雑談。だが、そこに居合わせ、そしてそれぞれの事情でそこを去っていくという、人の別れの何と美しいことだろう。見合い話にイライラしている長女が、力士のお腹をさわらせてもらっているうちに、それを殴り始め、力士が泣き出して出て行ってしまうシーンはとても素晴らしい。本作を観て、7月に上演された『日本文学盛衰史』が失敗作だった理由も分った。明治の文豪の葬式に文士たちが集まるのだが、三回も別々の葬式があって、とても鬱陶しく、全体が騒がしく終わってしまった。葬式を一回だけにして、文士たちの立ち去り方と別れを細やかに描いたら、きっと成功しただろう。平田劇はやはり、一幕一場と実時間の共有でなければならないと思う。(写真↓上は『ソウル市民』)

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