Hatena::ブログ(Diary)

charisの美学日誌

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最新タイトル

カンバーバッチ主演『ハムレット』
モダンスイマーズ『嗚呼いま、だから愛。』
今日のうた60(4月)
ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』
マスネ『ウェルテル』
今日のうた59(3月)
鄭義信『焼肉ドラゴン』
シュトラウス『サロメ』
ヤナーチェク『イェヌーファ』
今日のうた58(2月)
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2016-05-25 カンバーバッチ主演『ハムレット』

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[演劇] カンバーバッチ主演『ハムレット』(映画版) 2016.5.25 シネリーブル池袋


(写真右はハムレットを演じるカンバーバッチ、下はオーフィーリア、ガートルード、ホレーシオ、レアティーズ[左])

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昨年、ロンドンのバービカン劇場で上演されたリンゼイ・ターナー演出『ハムレット』の映画記録版。新しい解釈が随所に見られる面白いハムレットだった。全体の構成が原作とはかなり異なり、物語の構成要素をうまく繋いで流れを作っているので、非常に分かりやすい。時代設定を変えて、第二次世界大戦直後くらいのイギリスのオフィスのような感じだ。侍従など、原作では男性の人物を女性に替えたり、レアティーズ/オフィーリア兄妹を黒人と白人にするなど、黒人をたくさん登用している。ピーター・ブルック演出ではハムレットその人を黒人が演じていたが、キャラクターを多人種構成にするのは、イギリスそのものがそうなっているからかもしれない。ハムレット像は、19世紀から20世紀半ばまでは、「メランコリックで優柔不断な王子さま」が主流だったが、20世紀後半からは、「竹を割ったような直情径行で、体育会系の若者」が流行りだ。カンバーバッチのハムレットも完全にそれだが、しかしそうなると、ハムレットがレアティーズに似てきてしまう。オフィーリアが写真マニア少女で、いつもカメラを持っているのは面白いが、意図はよく分からない(写真下)。あと先王ハムレットの亡霊が、ひどく疲れたよれよれの老人で、まったく威厳がないのはなぜだろう。

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あと、ガートルードの造形がやや淡白で、好色な感じが出ていない。それにしてもハムレットでいつも思うのだが、母が父の弟と再婚するのはちっともおかしくないし、それを「不潔」だと非難するハムレットの幼児性こそおかしいのではないか。レビレート婚(夫が死ぬと、妻は独身の兄弟と再婚)は、イギリスは違うかもしれないが、ユダヤ民族など、世界の多くの民族で見られる習慣だ。ガートルードは自分の「好色」を反省する必要などないのだ。オフィーリア発狂のシーンでは、彼女の科白が原作と大きく変わっており、「卑猥な」科白がカットされているのも意図が分からない。ただ、ピアノを弾くなど従来にないオフィーリア発狂シーンは、それなりに新鮮だった。とはいえ、涙を流し表情豊かに叫ぶオフィーリアには「怖さ」があまりない(写真下)。旧ソ連のコージンツェフ監督版『ハムレット』では、能面のような無表情に成り果て、自動人形のように踊るオフィーリア発狂には、何ともいえない「怖さ」があった。

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今回の映画版は、劇場のシーンを収録したものだが、カメラワークにやや問題がある。人物のアップばかりで、ほとんど絶叫する姿を4時間近くアップで見せつけられるので疲れる。演劇では、舞台全体が観客の目に入るわけで、俳優に対して一定の距離があり、いましゃべっている人物以外の動きにも意味があるのだから、もう少し、アップ以外の広角の撮影部分があってもよいのではないか。ハムレットの人物像が、直情径行で、思ったことをすぐ口にし、感情むき出しに自分を表現するのが現代の演出傾向だが、ハムレットはあれほど饒舌でありながら、思いも感情も一部しか外に出せないという一面もあり(そもそも狂気を「装う」とはそういうこと)、コージンツェフ版は完全にその線で作られているので、そちらの方がリアルに感じる。(写真下は、舞台の全景)

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2016-05-01 モダンスイマーズ『嗚呼いま、だから愛。』

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[演劇] 蓬莱竜太作・演出『嗚呼いま、だから愛。』 池袋・シアターイースト 2016.5.1


(写真右はポスター、下は舞台、美人の姉(中央)に惹かれる夫(左)に、妹である妻の多喜子は嫉妬する(奥))

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モダンスイマーズは男5人女1人の小さな劇団。蓬莱竜太作・演出による「嗚呼いま、だから愛。」は、一幕一場という演劇の原点を踏まえながら、時間を遡行する上手い構成で、スタイリッシュで中味の濃い舞台を作り出した。物語は、結婚6年になる若い夫婦の妻が、この2年間セックスレスであることの不満を夫にぶつける。大量のポルノDVDを夫の部屋で見つけたのだ(写真下)。そこに女優で美人の姉や、やはり美人の友人が夫を連れてやってきて、明後日フランスへ移住する彼らの送別会を開くことになる(写真下↓)。妻の仕事関係の(雑誌の四コマ漫画だが、ほとんど売れない)編集者や、妻のアシスタントの美大出の女の子も出入りする。夫がセックスレスのことを軽いノリでしゃべってしまい、笑い話にしてしまったのを妻が怒り、友人たちも含めてそれぞれの浮気もバレて、激しい葛藤の場になる。男たちは例外なくヘラヘラと笑って、とぼけて、かわそうとするが(その感じが実にうまい!)、女たちは本当に怒る。

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いかにもありそうな今時の若者夫婦だが、主人公の多喜子は容姿コンプレックスを抱えており、それに周囲は同情しているが決して言わず、むしろ優しく多喜子に接することで、しかしそれこそがまさに多喜子を苦しめるのだ。多喜子は言う、「みんな私に同情してくれるが、誰も本当に私を愛してくれない」。これが本作の主題であり、深く重いテーマだ。実際には、多喜子は自分が思うほど「ブス」ではないのだが、頑なにそう思い込んでおり、アシスタントの女の子が自分の似顔絵を美しく描いたのに怒りを爆発させて、彼女を追い出してしまう。自分を「ブス」と思っている女子には、誰もが「そんなことないよ、君はかわいいよ」と言うが、そういう「思い遣り」や「気配り」がかえって本人を苦しめる。多喜子は「自分は編集者の石井さんと二度寝た」と告白するが、夫はぜんぜんショックを受けず、「いや、いいんだよ、君は悪くない」とヘラヘラしている。これも多喜子を傷つける。といって、美人の姉のように、「要するにアンタはブスなのよ、ブスだからもてないだけ、だから人をやっかんでいるのよ。でも社会はそうなってんだから、仕方ないじゃん、それを認めないアンタが悪い」と正直に言えばよいというものではない。こう言われれば多喜子は泣くしかない。観客の中にもすすり泣いている人がたくさんいた。


演出は、時間を遡行させながら、巧みに前後させるという手法が素晴らしい。とりわけこの主題では、過去のトラウマのようなものが重要なので、これはとても効果的だ。女優は、ほどんどが客演だが、モダンスイマーズの男優たちを含めて、演技は非常に上手い。いかにも自然で、どの場面も「ある、ある」感にあふれている。劇場は、若者で一杯(オペラと違う)、全席完売。蓬莱竜太は初見だが、優れた劇作家だと思う。


下記に団員による公演PVが。舞台ではないが、6名の若者による小さな劇団ぶり。蓬莱竜太もいます。

https://www.youtube.com/watch?v=sqhA5d6QAKc

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2016-04-30 今日のうた60(4月)

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[今日のうた] 4月1日〜30日


(写真は加藤楸邨1905〜93、はじめは水原秋櫻子に師事、のち俳誌『寒雷』を主宰、朝日俳壇選者、「人間探究派」と呼ばれた)


・ 咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり

 (虚子、1928年4月、鎌倉・妙本寺での句会の折に詠んだもの、満開になったばかりの桜はこんな感じだ) 4.1


・ ゆふ空の暗澹たるにさくら咲き

 (山口誓子、今にも雨が降り出しそうな暗い夕暮れ、しかし、だからこそ、満開の桜の白さが際立つ) 4.2


・ 押しひらくちから蕾に秘められて万の桜はふるえつつ咲く

 (松平盟子『プラチナ・ブルース』1990、桜の蕾には、花を開く「ちから」が秘められている、花はその「ちから」によって「ふるえつつ咲く」) 4.3


・ 黒革のサドルにありてふたひらの桜は色の透きとおりたり

 (松村正直『やさしい鮫』2006、自転車の黒革のサドルの上に散った、桜の花びら二つ、色が透きとおり、桜の花の透明さがひときわ目立つ) 4.4


・ なの花のとつぱづれ也ふじの山

 (一茶『七番日記』1810〜18、「見渡すかぎり菜の花が続いて、それが途切れた向こうに、冠雪の富士山がにょっきりと立っている」、「とっぱづれなり」が卓抜) 4.5


・ 蝶ひかりひかりわたしは昏(くら)くなる

 (富澤赤黄男(かきお)『天の狼』1941、「蝶がひらひらと光りながら軽やかに翔んでいるが、どういうわけか、私の心は沈んでゆく」、作者1902〜62は、戦前の新興俳句運動を担った一人、現代詩的なモダニズム俳句を追究した) 4.6


・ 正論を述べつつひとを傷つけし心の火照(ほて)りいだきて帰る

 (栗木京子『水惑星』1984、歌集の後半は、結婚して子供が生まれて以降の作品、前半の「二十歳の譜」の頃の瑞々しい恋の歌から、反省的で思索的な歌へ、歌風も変わってきた、この歌は「心の火照り」が卓抜) 4.7


・ 君をすこしわかりかけてくれば男と言ふものがだんだんわからなくなる

 (河野裕子『森のやうに獣のやうに』1972、作者22〜3歳頃の作品、同じような思いをする女性は多いだろう) 4.8


・ 今日何もかもなにもかも春らしく

 (稲畑汀子、平易な表現で、光りと明るさがあって、とても生き生きしている句、いかにも作者らしい名句) 4.9


・ 雲垂れてつひに触れたる畔(あぜ)青む

 (水原秋櫻子、「畔青む」とは、田んぼの畔に草が生え初めて、うっすらと緑色になることを言う、この句は雄大な景がいい、「空がかき曇って地平まで雲が広がり、青空がなくなると、地に広がる田の畔の青さにあらためて気づいた」) 4.10


・ たんぽぽの絮(わた)ずるずると旅重ね

 (須藤はま子、タンポポは花が終ると白い綿のようなふんわりした丸い冠毛ができる、これが「絮」で、風に乗ってゆっくりと、どこまでも漂ってゆく、何度地上に落ちても、またそこからいなくなる) 4.11


・ さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにごともなかったような公園

 (俵万智『サラダ記念日』1987年、公園の桜は本当に美しかった、でも散ってしまえば、「なにごともなかったような公園」がそこにある) 4.12


・ 新婚旅行へゆきましょう、魂のようなかたちのヘリコプターで

 (穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し』2001、この歌集は性的な歌もかなりあって、挿絵が過激なので、穂村ファンでも「引いてしまう」人がいるが、この歌は穂村らしく優しい、「魂のようなかたちの」がいい) 4.13


・ 運ばるることの無心に揺れている花と滴(しずく)とあなたの鎖骨

 (東直子『回転ドアは、順番に』2003、歌集では結婚式の少し後に置かれているから、たぶん新婚の二人、「運ばるる」のは花を持つ「私」自身なのか、彼の鎖骨が眼前に迫る、作者は性愛を詠んでも美しい歌を作る人) 4.14


・ 一つづつ花の夜明けの花みづき

 (加藤楸邨、「花みづき」は夏の季語だが、私の家の近くの街路では[埼玉県鴻巣市]、もう美しく咲いている) 4.15


・ 人入つて門のこりたる暮春かな

 (芝不器男、「春の夕暮、人が門の中に入っていき、大きな、がらんとした門だけが残った」、大きな屋敷なのか、あるいは寺か、人のいなくなった空間の寂しい感じがよく出ている) 4.16


・ 春更(ふ)けて諸鳥(もろとり)なくや雲の上

 (前田普羅、春も深まった頃だろうか、作者は山の中にいるのだろう、それを「雲の上」と言った、いろいろな鳥の鳴き声がとても近くに感じる) 4.17


・ 言(こと)に出でて言はばゆゆしみ山川のたぎつ心を塞(せ)かへたりけり

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「ああ、君が好きで好きでたまらない、でもそれを声に出して言うと大変なことになるよね、ごうごうと流れる渓流を塞き止めるように押さえつけているんだよ、僕は」)  4.18


・ あはれてふ言(こと)だになくはなにをかは恋の乱れの束(つか)ね緒(を)にせむ

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「つれない貴女よ、せめて僕に「まぁ、かわいそうに」くらいは言ってよ、それだけでも言ってくれれば、貴女に恋い焦がれてばらばらに砕けそうな僕の心は、砕けずにすむかもしれない」) 4.19


・ 憂き身をばわれだに厭ふ厭へただそをだにおなじ心と思はむ

 (藤原俊成『新古今』巻12、「片思ひの心をよめる」と詞書、「つれない君にすっかり気落ちしている僕、僕だってそんな自分が嫌いさ、だから君も僕を嫌ってね、そうすれば君と僕は同じ心になるもんね」) 4.20


・ よしさらば逢ふと見つるになぐさまむ覚むるうつゝも夢ならぬかは

 (藤原実家『千載集』巻12、「よしそれじゃ、夢で君に会ったんだから、これでいいことにしよう、現実じゃないじゃんって言うけど、夢から覚めたこの現実だって、結局は、はかない夢のようなものじゃんか」) 4.21


・ あしひきの山桜花(ばな)日(ひ)並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも

 (山部赤人『万葉集』巻8、「もし仮に、山桜の花が、長い間咲き続けるのだったら、こんなに愛おしくは思わないだろう、だけどそうじゃないから、こんなに愛おしいんだよ」、ソメイヨシノは終わっても、山間部では山桜がこれから) 4.22


・ 風に落つ楊貴妃桜房のまま

 (杉田久女、「楊貴妃桜」というのは八重桜の一種、花弁が多く豪華な印象を受ける、今日はこれから伊香保のハラ・ミュージアム・アークに行きます、きっと八重桜が見頃だと思います、写真は昨日の朝のもの) 4.23


・ 藤房の中に門灯点りけり

 (深見けん二『日月』2005、藤の花が美しい季節になった、昼間の明るい光の中で見ることが多いが、この句は日暮れだろう、たくさんの藤の花房に囲まれて、門灯が灯った) 4.24


・ 富める家の光る瓦や柿若葉

 (虚子、今、新緑が美しい、柿の若葉は陽光を浴びてキラキラと明るい、この句の柿の若葉は、重厚な瓦が黒光りしている裕福な家の柿の木なのだろう、黒い瓦の光と競うように新緑が光っている、見事な取り合わせ) 4.25


・ 新緑の庭より靴を脱ぎ上る

 (山口誓子、この句の視線は、脱いで残された靴と、縁側に上がる足の動きに焦点を当てている、そのことによって、背後にある庭一杯の新緑が、読み手の想像力に広がる、昨日の虚子の、「瓦の光」に焦点を当てた「柿若葉」の句と似た手法) 4.26


・ 子の皿に塩ふる音もみどりの夜

 (飯田龍太、夕暮れの食事どき、まだ小さい子供の皿に母親が塩を振っているのだろう、窓の外には、まだ新緑の明るさが残っている) 4.27


・ 親牛も仔牛もつけしげんげの荷

 (高野素十、「げんげ」とはレンゲソウのこと、レンゲソウの花を一杯にした荷袋を、親牛も仔牛も背に付けて運んでいる、昔の田舎の春の光景) 4.28


・ スパイシーな娘の料理それよりもショートパンツが大胆すぎる

 (小島ゆかり『ごく自然なる愛』2007、いつまでも子どものように可愛い娘たち、高校生だろうか、今日は母親に代わって夕食を作ってくれた、とても嬉しい、でも、むき出しの足から、大人の女のまぶしい体にあらためて驚く、「それよりも」が卓越) 4.29


・ とまどいに構わず開く自動ドア入ってしまえば影は消される

 (江戸雪『百合オイル』1997、アスファルトの歩道を自分のくっきりとした影を楽しみながら歩いてきた作者、目的地のビルの入口で、一瞬止まってまた自分の影を眺めたが、人影を感知したドアが自動で開いてしまった、そうか、影ともお別れなのね) 4.30

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2016-04-17 ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』

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[オペラ] ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』 新国立劇場 2016.4.17


(写真右は、終幕の場面、白が美しい舞台、建物などの「斜め」の角度はギロチンの刃を象徴している、写真下は、詩人シェニエと伯爵令嬢マッダレーナ、そしてジャコバン派革命政府による裁判にかけられるシェニエ、民衆裁判の雰囲気だ)

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新国では再演だが、私は初見。演出・美術・照明を兼ねるフィリップ・アルローはこれまで『アラベッラ』『ホフマン物語』を観たが、どれも舞台が美しかった。今回も、純白と三色旗の色だけで構成する舞台が、まぶしいほど明るく、美しい。実在の詩人、アンドレア・シェニエは、フランス革命で活躍した穏健な革命派の活動家だったが、ロベスピエールの革命政府が急進化して恐怖政治が行われる中、逮捕され、処刑された、32歳。テルミドールの反動で政府が倒れた1795年7月27日のわずか二日前だった。コワレー伯爵令嬢のマッダレーナも、名前は違うが実在の人物。二人の愛というのは、たぶん物語だろう。


プーランク『カルメル会修道女の対話』もほぼ実話だが、実話を通してフランス革命が描かれるのは、ぜひとも記録に残したいと感じさせるような人間の生死とドラマが、そこにあるからだろう。本作の初演は1896年で、「ヴェリズモ(写実主義)」オペラの傑作の一つと言われるが、イタリアの国家統一運動とも関係するのかもしれない。本作では、密偵、逮捕、処刑、民衆裁判など、ジャコバン急進主義の恐怖政治の暗部が具体的に描かれており、アルロー演出は、舞台の幕を横切る大きな斜線や、建物の斜各など、ギロチンが象徴されるだけでなく、各幕切れはどれも、虐殺のストップモーションになっている。にもかかわらず、フランス革命そのものを弾劾するという王党派の反動的視点に立っているわけではない。純白と三色旗による舞台の統一は、非常に美しく、革命派の民衆はもちろん、打倒される貴族たちも明るく描かれている。


物語的には、コワレー伯爵家の幹部侍従で貴族支配に憎しみをつのらせていたジェラールが革命政府の幹部になるが、伯爵令嬢への「情欲的」愛を捨てきれないという話が面白い。ところが、そのように野蛮なジェラールも、伯爵令嬢の「貴方に体を許す代償に同志を救ってほしい」という崇高な情熱に接して覚醒し、人間として大きく成長する。彼はジャコバン派幹部でありながら、裁判のときには、民衆から「買収」と叩かれながら、シェニエを救おうとする。そして終幕では、監獄吏を買収して、処刑に向かうシェニエと伯爵令嬢の愛を遂げさせる。


シェニエを歌うテノールのカルロ・ヴェントレ、ジェラールを歌うバリトンのヴィットリオ・ヴィテッリ、伯爵令嬢を歌うソプラノのマリア・ホセ・シーリは、いずれも声量豊かな大音声が見事だった。ヴェントレもシーリもウルグァイ生まれだから、南米はオペラが息づいている地域であることが分かる。


下記に2分弱の舞台動画があります(ただし前回公演)。

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/150109_006153.html

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2016-04-09 マスネ『ウェルテル』

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[オペラ] マスネ:ウェルテル  新国立劇場 2016.4.9


(写真右は、ロッテの実家、森を背景に美しい舞台、下の写真はすべてウェルテルとロッテ、端正で気品のある舞台装置)

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フランスの作曲家ジュール・マスネ(1842〜1912)の『ウェルテル』(1892)は、日本ではあまり上演されていない作品。演出のニコラ・ジョエルのプログラムノートによれば、マスネ自身が『ウェルテル』を「オペラ」ではなく「ドラム・リリックDrame Lyrique(=歌う劇)と呼んだそうで、アリア、重唱、合唱といったオペラ音楽がフルに動員されることはなく、どちらかというと演劇的な作品だ。しかし、音楽は非常に美しい。


ゲーテの原作小説は、ウェルテルの手紙という形式で、ウェルテルの視点からのみ描かれているので、ロッテはウェルテルから見た「客体」の位置にあるが、本作では、ロッテも一人の「主体」としてウェルテルと対等に渡り合うので、演劇的でオペラにふさわしい形式になっている。ロッテ自身がウェルテルを深く愛してしまっていることがよく分かる。そして、ロッテの夫アルベルトが、原作とはやや違って、冷たい男に描かれている。


本作は、『ロミオとジュリエット』とは違い、ウェルテルだけが自殺するので、ウェルテルとロッテとの両方に我々が感情移入し、共感できるようなバランスがとても難しい。小説『ウェルテル』はゲーテその人のほとんど実話だったが、ウェルテルはかなり独りよがりな男でもある。そして、ロッテは、聡明で美しいだけでなく、亡き母に代わって弟妹たちを育てる「母性」あふれる女性である。結婚相手としては、男の立場から見て「理想の女性」であり、それだけにロッテは、「二股」や「不倫」はあってはならないキャラクターである。実在の女性ロッテ・ブフに対してゲーテは一回だけキスを奪ったが(そして小説でもそう)、その「返し」はなかった。だが、マスネの本作では、最後に、死を前にしたウェルテルにロッテは、深いキスを返す。「アルベルトよりウェルテルを愛していたならば、アルベルトとの婚約を破棄して最初からウェルテルと結婚すればよかったじゃないか」、とロッテを非難することはできない。このようにキスを返すロッテに共感できてこそ、『ウェルテル』物語は完結するだろう。その意味では、ゲーテの原作をマスネが完成したとも言えるのである(写真下↓)。


歌手は、ウェルテルを歌ったテノールのD.コルチャックは非常に声が美しく、そしてロッテを歌ったメゾのE.マクシモアは声量豊かで、「主体」としてのロッテがとてもよく表現されていた。二人ともロシア人。

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下記に動画があります。

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/150109_006152.html#ancmovie

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2016-03-31 今日のうた59(3月)

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[今日のうた] 3月 (写真は栗木京子1954〜、角川短歌賞次席であった「二十歳の譜」1975は、瑞々しい恋の歌で知られる、現在、読売歌壇選者)


・ 春の濱大いなる輪が書いてある

 (高濱虚子1932、「春の海岸、砂浜に大きな輪が書いてある」、「片瀬西浜」とあるから、江の島のところの湘南海岸だろう、単純だが見事な叙景の句) 3.1


・ 春潮を入れて競艇場休み

 (星野恒彦『麥秋』1992、レースのない日の競艇場はとても静か、客もいなければボートもいない、ゆったりと海水が波打っている、「春潮を入れて」がいい) 3.2


・ 雛飾りつゝふと命惜しきかな

 (星野立子『春嵐』、作者1903〜84は虚子の次女、この句は50歳を前にした頃の作と言われる、「自分が幼い頃から慣れ親しんだ雛人形を、今年も取り出して飾っていると、ふと、命が惜しく感じられる」、自分の雛人形が自分の人生と重なってみえる、今日は桃の節句) 3.3


・ 今さらに雪降らめやもかぎろひの燃ゆる春べとなりにしものを

 (よみ人しらず『万葉集』10巻、「今さら、雪が降るなんてことがあるもんか、だって、野にこんなに陽炎が燃え立つ春になったのだもの」、調べのよさが万葉らしい) 3.4


・ 春日野(かすがの)は今日はな焼きそわか草のつまもこもれり我もこもれり

 (よみ人しらず『古今集』巻1、「早春の野焼きは毎日行われているけれど、この春日野は、今日だけは焼かないでほしいな、僕の若い妻も、そして僕も、こもって野遊びしているのだから」、与謝野晶子の「ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟」は、この歌のもじり) 3.5


・ 帰る雁いまはの心有明に月と花との名こそ惜しけれ

 (藤原良経『新古今集』巻1、「春の明け方、北国へ帰ってゆく雁が、今にも飛び立とうとしている、情緒ある有明の月でさえも、この美しい花でさえも、それを止めることはできないのか、残念だなぁ」) 3.6


・ わが春やタドン一ッに小菜一把(こないちは)

 (一茶1805、一茶は43歳、とても貧しかった、少し前の立春に詠んだ句に「春立つや四十三年人の飯(めし)」とある) 3.7


・ 春なれや名もなき山の薄霞(うすがすみ)

 (芭蕉1685『野ざらし紀行』、「奈良に出づる道のほど」と前書、名もない平凡な低い山々だろう、そうした山々へうっすらと霞がかかっているのが、春らしい気分) 3.8


・ 畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ

 (蕪村1781、空のあそこにあった雲が、いつの間にかなくなっている、いかにも蕪村らしい名句) 3.9


・ 最後だし「う」まできちんと発音するね ありがとう さようなら

 (ゆず・女・18歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、いつもは「ありがと」「さよなら」と言っていた二人、別れなのだろうか、「ありがとう」「さようなら」と言うね、と、何だか切ない) 3.10


・ 青信号の中で歩いている人が歩いてくのを見たことがない

 (一戸詩帆・女・21歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、横断歩道の絵付き信号だろう、赤と違って青信号は、「歩いている人」の絵が描いてある、しかしその「固定ぶり」が、実際に横断歩道を渡っている人にはちょっと可笑しい) 3.11


・ 「目的地周辺です」と言ったきり君はどこかにいってしまった

 (一・男・23歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、あるある、こういうカーナビ、でもひょっとして、高級なカーナビなら、もっと丁寧に案内するのだろうか) 3.12


・ 母情より父情がかなし大試験

 (田島澪、大学入試のとき、母親は何かと心配で細かく子供の世話を焼くが、父親は照れ臭いので、そのような「愛」を目一杯表現することはしにくい、作者は受験生の母だろうか) 3.13


・ 二次会のあとついてゆく朧(おぼろ)かな

 (中原道夫、三月は年度末で飲み会も多い、一次会で帰るつもりだったのに、つい二次会にも行ってしまった、もう後はやめられない、たぶん三次会と思われるどこかへ、千鳥足であとをついてゆく、意識も少し朧げに、「春は朧だなぁ」) 3.14


・ 春ひとり槍投げて槍に歩み寄る

 (能村登四郎、人気のないだだっ広い競技場で、選手が槍投げの練習をしているのだろう、槍を投げて、飛翔をじっと見詰め、そして、刺さったところへゆっくり歩み寄る、時間がゆったり流れている映像を見るようだ) 3.15


・ 生きたいやうに生きる女と一畳をへだててさびしき声は難ずる

 (米川千嘉子『夏空の櫂』1988、新婚まもない頃の歌か、作者も夫もともに歌人で個性の強い人、「君は自分の生きたいように生きる女なんだ」と、「一畳をへだてて」蒲団を並べている夫が「さびしく」しかも非難がましく言ったのだろう) 3.16


・ きみが靴にわが小さきを並べ置くそれさへ不可思議のごとき朝(あした)よ

 (今野寿美『花絆』1981、新婚の頃だろう、「朝出かける前に、夫と自分の靴の両方を玄関に並べる、それがとても不思議な感じがする、これが結婚なのね」、『花絆』は、小野茂樹『羊雲離散』と並ぶ素晴らしい恋の歌集) 3.17


・ 人にまぎれ回転扉押すやうに幸せにふと入りゆけぬか

 (栗木京子『水惑星』1984、新婚直後の歌、「二十歳の譜」の頃の、心の底から湧くように溢れ出てくる相聞歌に比べると、この時期の歌は反省的で懐疑的) 3.18


・ 雪解(ゆきどけ)の故郷出る人みんな逃ぐるさま

 (寺山修司「牧羊神」1954、寺山もこの年の春に青森から上京して早稲田大学に入学した、その時の句、「みんな逃ぐるさま」とは、自分も含むのだろう) 3.19


・ 忘れものみな男傘春の雨

 (三輪初子『喝采』1997、作者は夫婦でレストランを経営している人、レストランで傘を忘れていくのは男性ばかりというのが面白い) 3.20


・ こんなところに釘が一本打たれいていじればぽとりと落ちてしもうた

 (山崎方代『右左口(うばぐち)』1974、作者1914〜85は、復員後、職もなく、孤独に生きた人、この歌も、ユーモアの中に淋しさが漂う) 3.21


・ いつのまに威風あたりを払うまで四十となりし髪細らねど

 (紀野恵2004、40歳になった作者、「威風あたりを払う」ようになった堂々たる自分を意識する、女性の40歳はそんなに貫禄がつくのだろうか、どこかユーモラスな歌) 3.22


・ しらさぎが春の泥から脚を抜くしずかな力に別れゆきたり

 (吉川宏志、作者は1969年生れ、しらさぎがゆっくりと脚を抜いて、脚先がスッと泥の外に出てきた、籠められていた力も抜けて) 3.23


・ どの角を曲がりても同じ猫がゐてこの春昼の路地を出られず

 (小島ゆかり『ごく自然なる愛』2007、その近辺には猫がたくさん飼われているのだろう、色や模様が近いので「同じ猫」に見えてしまうのか、あるいは「同じように」猫がいるということか、一匹一匹どの猫も気になる猫好きの作者) 3.24


・ 故郷はいとこの多し桃の花

 (正岡子規1895、27歳の子規は、日清戦争の末期、中国の大連に記者として従軍出張する途中、故郷の松山に寄った、そのときの句、中国からの帰りの船中で子規は喀血して倒れた、今年は桃と桜が一緒に見られる) 3.25


・ 水温む鯨が海を選んだ日

 (土肥あき子『鯨が海を選んだ日』2002、哺乳類のクジラは、昔々のある日、海を自分の棲む場所に「選んだ」のだろうか、あるいは、このクジラが今日この湾に「やって来た」ということか、いずれにせよ「海を選んだ日」がすばらしい、春の暖かい日に海が広がる)  3.26


・ 朧夜(おぼろよ)のむんずと高む翌檜(あすならう)

 (飯田龍太『山の木』1975、「あすなろ」は檜に似た樹の名だが、檜ほど高く伸びないので、いつも「明日は(檜に)なろう」と思っている、つまり伸び盛りの若者の隠喩、この句は、あすなろの若い樹だろう、「むんずと高む」がとてもいい) 3.27


・ 窓に置く鉢の花にも折々の心を込めて人はありしか

 (大島史洋『幽明』1998、おそらく故人をしのんでいるのだろう、その人の部屋の窓には鉢が残されており、美しい花が咲いている) 3.28


・ 春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐひす鳴くも

 (大伴家持『万葉集』巻17、作者は孤独を感じているのだろう、「うら悲し」がこの歌の肝、ゆったりと春の野に霞がたなびき、鶯も鳴いている、それがどういうわけか「寂しく、悲しい」) 3.29


・ 願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはゞや

 (佐佐木信綱1899、作者1872〜1963が主宰する結社「竹柏会」第一回大会で詠んだ歌、自分を春風に喩え、自分が歌を詠むことは、春風が憂いを持つ人の心を晴らすようなものだと、彼の短歌観を述べた、「竹柏会」は歌誌「心の花」を刊行し、現在も活発に活動をしている短歌会、佐佐木幸綱、俵万智などがいる) 3.30


・ 初蝶を追ふまなざしに加はりぬ

 (稲畑汀子、誰かが「あっ、ちょうちょ!」と言ったのだろう、「えっ、どこ?どこ?」と、作者もその蝶を一生懸命まなざしで追いかける、「追ふまなざしに加わりぬ」が卓抜) 3.31

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