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charisの美学日誌

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最新タイトル

デッカー演出『トリスタンとイゾルデ』
今日のうた64 (8月)
古代ギリシア展
河野裕子歌集『あなた』
劇団昴『グリークス』
今日のうた63(7月)
内田樹『困難な結婚』
平田オリザ『ニッポン・サポート・センター』
オペラ『夕鶴』
今日のうた62(6月)
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2016-09-11 デッカー演出『トリスタンとイゾルデ』

charis2016-09-11

[オペラ] ヴィリー・デッカー演出『トリスタンとイゾルデ』 二期会公演 東京文化会館 2016.9.11


(写真右は、第二幕より、トリスタンの福井敬とイゾルデの池田香織、第二幕は陸上だが小舟に乗っている、この小舟と二本の櫂は全幕を通じて登場し、二人の愛の世界が儚く漂流することを象徴しているのだろう、写真下は第一幕、死薬を媚薬にすり替えるブランゲーネ、写真右以外は、ライプツィヒ歌劇場の初演より)

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2011年のマクヴィカー演出『トリスタンとイゾルデ』(新国)も素晴らしかったが、今回のデッカー演出も、それに劣らぬ見応えのあるものだった。1997年にライプツィヒで初演、2001年にアントワープで再演されたから、今回の二期会公演が再再演なのだろう。デッカー演出は、神話である『トリスタンとイゾルデ』を不条理劇のように表現している。不条理劇仕立てにすることよって、かえって神話のパワーが大きく炸裂したように感じた。デッカーはプログラムノートで、次のように言っている。この作品は、「無数の問いが発せられるが、答えを得る代わりに沈黙を得る。作品を貫く基調は、答えのない問いである。現実とは何か?と、どの場面でも繰り返し問われる。・・・不安感、方向感覚の喪失、絶望感がオペラ『トリスタンとイゾルデ』の中心を占める。・・・人は互いに「ずれた会話」「かみ合わない会話」をする。こうしたジレンマは本作品のすべての対話に例外なくあらわれる。話し手と聞き手は、異なる惑星にいるようだ」(p30f.) 服装が、幕によって微妙に変わってゆくのが面白い。第一幕は中世の衣服だが、第二幕は19世紀だろうか軍服姿の軍人たちがいる(写真↓)、そして第三幕は現代で、イゾルデはパンタロン姿だし、ブランゲーネも今風のスカート、男性たちも現代のスーツを着こなしている。時間と空間を矛盾に満ちたものにするのは、第二幕の陸上の小舟もそうだ。

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驚いたことに、第二幕最後は原作と違っている。メロートとの決闘場面だが、ワーグナーの書いたト書きでは「メロートがトリスタンの方へ剣を突きだすや、トリスタンは剣を落し、痛手を負いながらクルヴェナール[=部下]の腕に倒れかかる。イゾルデはトリスタンの胸もとにとびこむ」となっている。だが本作では、トリスタンは剣で自分の眼を刺し(まるでオイディプス王のよう)、続いてイゾルデも剣で自分の眼を刺す。だから、第三幕では、トリスタンもイゾルデも盲目である。写真下↓でトリスタンが眼に黒い眼帯をしているのがそれ。

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この第三幕が、私は一番素晴らしかったように思う。通常は、「その第二幕ほど崇高なものは他に類を見ません」と初演(1865)を指揮したハンス・フォン・ビュローが述べたように、第二幕のトリスタンとイゾルデのデュエットが圧巻なのだが、この公演では、盲目のトリスタンがひたすらイゾルデを求めて苦吟する歌いが絶唱であった。第三幕の歌詞は、トリスタンが盲目であるとすると、とてもリアリティがあるのに驚かされた。トリスタンは自分が「夜の国」の人物であると思っているので、イゾルデとの恋も夢なのかもしれない。しかし、なぜイゾルデまでも盲目にならなければならないのか? いや、十分に必然性があるのだ。第三幕、ようやく現れたイゾルデはトリスタンと抱き合おうとするが、二人とも盲目であるために、すれ違ってしまい、一度も互いに触れることができないままに死ぬ。二人がすれ違ってしまうこのシーン、何という衝撃的な演出だろう。


歌手は、すべて日本人。トリスタンの福井敬は、声量が乏しいのが残念だったが、第三幕はよかった。イゾルデの池田香織は見事な声量で、魔女の血の混じるイゾルデの凄みを十分に表現できていた。声量の点で日本人には不利と言われるが、日本人歌手は頑張ったと思う。

koikekoike 2016/09/19 01:06 charis様。
本日(18日)の公演を観てきました。すばらしかったです。
この作品は、内容をそのまま賛美するするような演出も受け入れ難く、一方で現実逃避というかたちで矮小化してしまえば上演する意味がない。今回のデッカーの演出はそのどちらでもなく、現実と幻想(狂気)(「何が現実か?」)、「すれちがい」といった人間の本質を描いたものになっていたということなのですね。

charischaris 2016/09/19 05:54 小池さん 今、研究会で岡山大学に来ています。この『トリスタン』、本当に優れた演出でしたね。「何が現実か」疑わしくなり、問い返さなければならない。愛にはそういうところがありますね。

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2016-08-31 今日のうた64 (8月)

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(写真は黛まどか1962〜、1994年に句集『B面の夏』でデビュー)


・ 別のこと考へてゐる遠花火

 (黛まどか『B面の夏』1994、遠くに花火を見ながら、横にいる大好きな彼氏とのいろいろなこと(たとえば花火終了後のこと等)を想像しているのか、それとも、横にいる彼氏のことはすっかり忘れて何か他のことを考えているのか、「別のこと」が効いている) 8.1


・ 浴衣着て浴衣を見る目ありにけり

 (佐藤文香『海藻標本』2008、花火大会の日など、都内でも浴衣の女の子をたくさん見かける、着付けを習ったりして、ちゃんと浴衣が着れた嬉しさ、他の女子の浴衣姿もしっかりチェックしている) 8.2


・ 子ありてや橋の乞食もよぶ蛍

 (一茶1811『七番日記』、「あの橋の乞食にもたぶん子どもがいるんだな、蛍を呼びよせている、子どもに見せてやりたいんだ」、乞食にも共感を寄せる、いかにも一茶らしい句) 8.3


・ 恋人をそれぞれの胸が秘めている不思議さ行き交う人のシャツ見る

 (安藤美保『水の粒子』1992、意味的には「不思議さ」で切れるのだろう、作者の学ぶお茶大で、友人たちとそれぞれ自分の恋人の話をしたのか、その後キャンパスに出ると、この人も? あの人も? とそれぞれの恋人が気にかかる、いくらシャツを見ても分からないのに) 8.4


・ 夏の午後ロールシャッハ・テスト受けやや性的な答えに徹す

 (松平盟子『プラチナ・ブルース』1990、ロールシャッハ・テストは、インクの染みの左右対称性から、身体的、性的なもののイメージに繋がりやすい、「やや性的」「答えに徹す」は醒めたユーモア、楽しんでいる作者) 8.5


・ 空へ消えゆく人を見てお花畑(ばた)

 (加藤三七子1925~2005、標高の高い山頂近くだろう、急斜面の鎖場を越えながら、登山者たちが「空へ消えるように」ゆっくり登ってゆく、すぐ下でそれを、高山植物の小さなお花畑が見送っている) 8.6


・ 自動車に松葉牡丹の照りかへし

 (中村汀女、マツバボタンは、濃い緑色の肉厚の細い葉が、光を反射してよく光る、真っ赤な花とともに、それが自動車に反射している真夏の昼) 8.7


・ 向日葵(ひまはり)に天よりも地の夕焼くる

 (山口誓子、広いひまわり畑と触れ合うように、地平線のあたりだけが夕焼けているのだろう、雄大な夏の光景) 8.8


・ ゆきなやむ牛のあゆみにたつ塵(ちり)の風さへあつき夏の小車(をぐるま)

 (藤原定家『玉葉和歌集』夏、「真夏の日差しの下、牛が重い荷車を引いてゆく、よく進めない牛の足が掻き立てる土ぼこりが舞って、それを運ぶ風まで熱せられている」、和歌的主題ではない珍しい実景の歌) 8.9


・ わたつ海(み)とあれにし床(とこ)を今さらに払はば袖や泡と浮きなむ

 (伊勢『古今集』巻14、「貴方に捨てられた私は、涙で海のように荒れた寝床で一人寝なのよ、貴方を迎える為に袖で寝床を清めようとすれば、袖が泡のように浮いちゃうでしょうね、なによ今さら」、また会おうと言ってきた元カレ[藤原仲平]に断りの返歌) 8.10


・ 古(いにしへ)になほたち帰る心かな恋しきことにもの忘れせで

 (紀貫之『古今集』巻14、「貴女にまた会えて本当に嬉しいです、私たちが恋に燃えたあの時に心が帰って行きます、お互いに辛いこともあったけれど、<恋しさ>だけは決して忘れないものなのですね」) 8.11


・ 愛用のことば束ねて暑の見舞

 (上田日差子、暑中見舞いはどう書いたらよいのか、あまりにもテンプレ(定型)ではと思い、少し工夫したりもする、この句は、書いた人、もらった人、どちらとも取れるが、「愛用の言葉を束ねる」というのが、花束みたいで、いい) 8.12


・ 炎天に立出(たちいで)て人またゝきす

 (高濱虚子、「家の中から炎天下に出てきた人が、思わずまばたきした、陽光のあまりの眩しさに」、「まばたきする」という一瞬の表情を捉えて暑さを表現した) 8.13


・ 幾たびのビンタの果てに散りしか君灼熱の空又めぐり来ぬ

 (水島つね子『朝日歌壇』1971、近藤芳美選、「君」とは作者の夫あるいは恋人だった若者だろうか、それとも兄弟か、「灼熱の空」だったあの8月15日が、今年もまためぐって来る) 8.14


・ 飢えに聞ける玉音の日も暑かりしトマト背負い来るに午の鐘鳴る

 (小沢和三郎『朝日歌壇』1971、前川佐美雄選、玉音放送は8月15日の正午に放送された、暑さの中、トマトを背負ったまま、「飢えながら」聞いた作者) 8.15


・ 死を看とるこころの慣れのさびしみをふとかたりたる若き看護婦

 (坂本澄昭『朝日歌壇』1971、若い看護婦にとって、死を看取ることは日常のことになっている、「さびしみをふとかたりたる」という平仮名表記、彼女は小さな声でぽつりと言ったのだろう) 8.16


・ どこかさめて生きているようなやましさはわれらの世代の悲しみなりき

 (道浦母都子『無援の抒情』、全共闘世代の作者(1947年〜)が闘争の渦中にあったのは60年代後半から70年代初頭、そして第一歌集『無援の抒情』は1880年、ずっと若い世代はもっと醒めているかもしれない) 8.17


・ 片恋やひとこゑもらす夜の蝉

 (日野草城『旦暮』1949、夜中、本当に一声だけ蝉が鳴くことがある、もちろん「片恋」ではないのだが、そこが面白い俳諧の味になった) 8.18


・ 谺(こだま)して山時鳥(やまほととぎす)ほしいまゝ

 (杉田久女、夏の山中のあちこちにホトトギスの鋭い鳴き声が響いている、「谺する」「ほしいまゝ」という表現によって、雄大な光景になった) 8.19


・ 乳母車夏の怒涛によこむきに

 (橋本多佳子『紅絲』1951、土用波だろうか、夏の終りの海岸に荒い波が打ち寄せている、浜辺にぽつんと「よこむき」に置かれた乳母車の中に赤ん坊が横たわっている、大自然の中の小さな生命、「乳母車」とだけ言って赤ん坊を想像させるのが卓抜) 8.20


・ 暑き日を海に入れたり最上川(もがみがは)

 (芭蕉1689『奥の細道』、「最上川河口の海に沈む夏の太陽、暑い一日が終わる」、最上川が海に出る広い河口、夕陽を「海に入れる」という他動詞表現が、ダイナミックで雄大な景を描き出した) 8.21


・ 野分(のわき)きし翳(かげ)をうしろに夜の客

 (大野林火、「台風が近づいて風雨が強くなってきた夜、でも予定していた客はちゃんと来くれた、玄関のドアを開けると、立っている客のうしろに、風雨が強まった台風の「翳」も一緒に立っている感じがする」、「翳」が見事な把握) 8.22


・ 夏の野の茂みに咲ける姫百合(ひめゆり)の知らえぬ恋は苦しきものぞ

 (大伴坂上郎女『万葉』巻8、「夏野の深い茂みにひっそりと咲いている小さな姫百合の花は、誰にも知られないのね、ああ、貴方が好きでたまらない、でも、それを貴方に知ってもらえないなんて」) 8.23



・ 重ねてもすずしかりけり夏衣薄き袂(たもと)にやどる月影

 (藤原良経『新古今』巻3、「薄い布で作られた僕の夏衣の袂に、月光が差し込んで、まるで光の布みたい、光で出来た衣を重ね着して、ますます涼しい感じ」、作者はシャープな感覚美の歌を詠む人) 8.24


・ 向日葵(ひまはり)は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ

 (前田夕暮『生くる日に』1914、作者1883〜1951の代表作の一つ、太陽も小さく感じられるほど、ヒマワリの花が大きく、美しい、「ゆらりと高し」(傍点も作者)が卓越した表現) 8.25


・ 君こそ淋しがらんか ひまわりのずばぬけて明るいあのさびしさに

 (佐佐木幸綱『群黎』1970、『群黎』は、男っぽい歌を作ることで知られる作者1938〜の最初の歌集、「君」は恋人だろうか、ひまわりの傍にいる二人のやり取り、なぜ「さびしさ」が感じられるのだろう、明るさは淋しさと表裏一体のものなのか) 8.26


・ きんいろのフランス山の毛虫かな

 (星野麥丘人『亭午』2002、「フランス山」というのがミソ、「フランス山」の毛虫は、そんじょそこらの毛虫と違って、「きんいろ」に美しく輝いているのだろうか、三宅やよい氏によれば、「フランス山」とは、横浜の「港の見える丘公園」の一部らしい) 8.27


・ 素見(すけん)目を離さず見たをあげられる

 (『誹風柳多留』1785、吉原では、ずらりと並んだ遊女を客が見て指名する、「素見」とは、実際には遊女を買わず見るだけで帰る客、「一人の素見が美しい遊女から目を離さずに眺め続けていたが、ちらっと見ただけの別の客がすぐ指名した」) 8.28


・ 寝ごかしはどちらの恥と思召(おぼしめ)す

 (『誹風柳多留』1765、「寝ごかし」とは相手の遊女が寝ている間に黙って帰ること、モテない男がよく「寝ごかしして、あいつに恥をかかせてやった」と偉そうに言うが、実は、遊女だって嫌な客には寝たふりをして相手にしないことも多い、これは遊女の立場で詠んだ句) 8.29


・ ゴネリルもコーデリアも吾が内に棲み王にはあらぬ父と真向かう

 (藤岡道子「朝日歌壇」1986、認知症になった父を気遣う娘、天使のようなコーデリアと悪姉ゴネリルの両方の要素が自分の中にあり、「真向かう」に深い苦しみが、「リア王」は認知症老人をリアルに描いた物語としても読める) 8.30


・ 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

 (河野裕子『蝉声』2011、河野裕子は2010年8月にガンで逝去、64歳、この歌は亡くなる前日に口述した最後の歌、半世紀にわたって、瑞々しい恋の歌や家族愛の歌をたくさん詠んだ彼女らしい遺歌) 8.31

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2016-08-30 古代ギリシア展

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[展覧会] 古代ギリシャ特別展  国立博物館 2016年8月30日


(写真右は、アルテミス、下は、アレクサンダー大王頭部と、競技者)

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古代ギリシア関係の展覧会に行くのは久しぶりで、ゆっくりと鑑賞、堪能することができた。古代ギリシア人は、人間の肉体を(恥ずかしいものではなく)美しいものとして表現した初めての民族で、何度見てもその美しさに打たれる。アテネ国立考古学博物館の「アルテミス」「競技者」や、アテネ・アクロポリス博物館の「アレクサンダー大王頭部」は、それぞれ有名な像だが、今回初めて見る「女性頭部像」(アテネ考古学監督局)も非常によかった(下)。紀元前4世紀の作だが、解説によると、神々と人間が区別して表現されるようになった時期で、人間の像は、それぞれの個人的特徴を備えているという。この女性も、実在のギリシア人の誰かだったのだと思うと、親しみがわく。

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さらに、ギリシア初期のキュクラデス期の像が幾つか見られたのがよかった。キュクラデス期の像は、小さいが、現代芸術のように抽象的で、とても美しい。大英博物館を入ってすぐの左側の廊下に、さりげなく展示してあるのが、もったいないと思ったこともある。写真下は、キュクラデス博物館所蔵の「スぺドス型女性像」で高さ74cmで割と大きい。BC2800〜2300の頃の作だから、アリストテレスよりもさらに2000年以上前なのだ。今回はまた、それよりずっと古い、エーゲ海文明・初期新石器時代の像も見ることができた。写真下は、アテネ水中考古学監督局所蔵の「女性像」で、制作年代はBC6500〜5300という。正面と背面の写真だが、高さは8.7cm、幅は5cmととても小さく可愛らしい。だが、この丸みを帯びた女性の体の何と美しいことだろう! この像を作った製作者にとって、「彼女」の肉体は、一体どれほど美しいものに映っていたのだろうか。

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2016-08-18 河野裕子歌集『あなた』

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[読書] 河野裕子歌集『あなた』 岩波書店、8月4日刊


6年前の8月、ガンで亡くなった河野裕子の歌集、『あなた』が出たので読みました。夫や子供が選歌している、つまり、彼女の相聞の当事者たちが選んだ歌なのです。新たに書かれた家族による想い出がとてもいい。彼女が角川短歌賞を取ったとき、「自分も応募すればよかった、あの時期ならけっこういい勝負だったかもしれない」と、夫の永田和宏が書いています。いえいえ、絶対に河野裕子だったでしょう(笑)。本歌集には、忘れられない、いい歌が多いので、私も好きな歌を少し挙げてみます。


・ 逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと


・ われよりも優しき少女に逢ひ給へと狂ほしく身を闇に折りたり


・ 窓のやうな眸(ひとみ)を持つ少女だった のぞけばしんと海が展(ひら)けて


・ たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか


・ 海くらき髪なげかけてかき抱く汝(な)が胸くらき音叉のごとし


・ 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌(て)よざんざんばらりと髪とき眠る


・ 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

   (亡くなる前日の、最後の歌)   

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2016-08-01 劇団昴『グリークス』

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[演劇] ジョン・バートン編『グリークス』 (サイスタジオ大山) 2016年7月31日公演 


(右はポスター、劇団昴公演、台本翻訳は吉田美枝、演出は文学座の上村聡史1979〜)


RSCの演出家として名高いジョン・バートンが、ギリシア悲劇を10本の劇に再構成したもの。私は2000年にコクーンで蜷川演出版を見ているので、若い演出家による今回の昴版は、また違った味わいがあって面白かった。昼の12時から夜9時半まで全体を通しで一気に見たので、ギリシア悲劇をこのような形にまとめて上演することの良さと問題点について考えさせられた。


まず、バートン版は明確に「近代人の視点」からギリシア悲劇を解釈していて、それゆえ分かりやすいものになっている。たとえば、「神々の不完全さ」(託宣や命令や判断や行動の理不尽さ、非合理性)を大きく前景に押し出しており、「神々というのは人間の想像力が作り出した虚構だから、不完全なものだ」とはっきりした科白を誰かに言わせている。たぶんギリシア原作には、ここまで明確な科白は無いだろう。また、トロイ戦争の原因がヘレネだというのは口実で、本当は、良い交易路を押さえて商業的に繁栄しているトロイを叩く経済戦争なのだという視点。これは「エジプトのヘレネ」説(エウリピデス)を併せて考えると面白いが、やはり近代的な視点だろう。また、身内による報復の殺人は正当化できず、法の裁きによるべしというのは、もちろん原作でも提示されているが、そこをしっかり強調しているのは、神々の命令や託宣の不完全さの強調とともに、近代の視点だろう。


演出もよく考えられていて、アポロンやアテナがチャラい神さまになっているのがとてもいい。デウス・エクス・マキーナだから、高所に現れなければならないのに、「オレステス」終幕のアポロンは、死者の覆い布をかぶされて台車で登場し、いたずらっぽく「バア!」と起き上って、笑わせる。「タウリケのイピゲネイア」終幕のアテナは、なんと戦闘服姿で機関銃を打ちまくりながら登場。軽いノリの、若いネエチャンぽいアテナが何ともいい。この場面、蜷川版で、「厳かに」現れたアテナが「お説教」するのが、近代ヒューマニズムっぽい感じで、違和感を覚えた記憶があるので、上村版の方がずっと良い。デウス・エクス・マキーナは、もともとどこかコミカルなのだと思う。


オレステスがさえない醜男で、終始オタオタしているダメ男になっているのには驚いたが、アガメムノンやメネラオスも、もともとかなりコミカルなところのあるキャラであることにあらためて気づいた。軍服を着ているが、女にしか目がなく強くなさそうなアガメムノンや、ネクタイとスーツをパリッときこなしている商社マン風のメネラオスのずっこけぶりは、とてもうまい演出だと思う。全体として、ヘカベ、クリュタイムネストラ、エレクトラなど、女性に圧倒的な存在感があって、ギリシア悲劇というのは、「男が種で女は畑」と皆が口では言うけれど、実際は女性が真の主体であるように感じられる。ヘクトルやアキレウスのような「英雄」でさえ、女たちの物語を盛り上げる脇役なのではないだろうか。


10個のギリシア悲劇をまとめて一つの物語にするのは、多様な要素を観客が消化しきれずに残ってしまうという問題がある。「アンドロマケ」も「オレステス」も面白いのだけれど、もとのエウリピデス原作からして話が複雑すぎるので、バートン版では、筋を知らない人は目を回すだろう。ただ、バートン版では、「アウリスのイピゲネイア」で始まり「タウリケのイピゲネイア」で終わるという全体の流れが、つまり、復讐に復讐を重ねて憎しみ合うタンタロス家をはじめとする人々が、エレクトラ、オレステス、ヘルミオネなど子や孫の代になって、和解へと至る筋道がとてもよく分かる。トロイアの王子妃であるアンドロマケが、アキレウスの子のネオプトレモスの子を産むというのは、大きく言えば、トロイアとギリシア全体の和解になるというのは、今回の舞台で初めて気づかされた。アンドロマケがトロイアとギリシアを結びつける存在であるというのは、各作品を単独で読んでいたら、なかなか気づかない視点だと思う。


あと、音楽は、ビートルズやアイーダ行進曲や、その他いろいろ雑多に使われていたが、ジャンルを統一した方がよいのではないか。また、興行面での制約もあるのだろうが、ギリシア悲劇全部を一気に上演するのだから、舞台はもっと広くあるべきだと思う。横長の狭い舞台(観客席はわずか3列)で圧迫感が強く、ギリシア悲劇の本来の円形舞台とは非常に違う。こんなに小さい劇場「Pit昴」は、アングラ劇にはいいかもしれないが、ギリシア悲劇には不向きだと思う。

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2016-07-31 今日のうた63(7月)

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[今日のうた] 7月1日〜31日


(写真は飯田龍太1920~2007、飯田蛇笏の四男、父の跡を継いで俳誌『雲母』を主宰、格調の高い句を詠む)


・ 抱く吾子(あこ)も梅雨の重みといふべしや

 (飯田龍太1951、梅雨の頃だろう、生まれたばかりの女の赤ちゃんを抱いている30歳の作者、しっかりとした重みを感じる嬉しさ、梅雨も一緒に喜んでくれているんだ、「梅雨の重み」という表現が卓越) 7.1


・ ががんぼを恐るる夜あり婚約す

 (正木ゆう子『水晶体』、ガガンボは蚊を大きくしたような虫で足が長いが、吸血はしない、でもちょっと怖いのか、作者は24歳、喜びと不安が混じる婚約の日の夜、なかなか眠れない) 7.2


・ 「ルーシーに「忍者って、いるの?」と聞かれ「少なくなった」と答える私」

(九螺ささら・女・45歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、題詠は「忍者」、「もちろんいるよと答えるよりも、ずっとリアルでいいですね。ルーシーも目を輝かせたに違いない」と穂村コメント) 7.3


・ 「とてもよく似合ってますと店員がほとんど裸の人間に言う」

(鈴木晴香・女・32歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、題詠は「ブラジャー」、作者は試着室にいるのか、女性でなければ詠めない歌) 7.4


・ 「(7×7+4÷2)÷3=17」

(杉田抱僕・女・18歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「かっこなな/かけるななたす/よんわるに/かっことじわる/さんはじゅうなな」と読んでくださいと作者コメント、「短歌だときづかれない短歌なのが面白い」と穂村弘コメント) 7.5


・ 涼しさを飛騨の工(たくみ)の指図(さしず)かな

 (芭蕉1694、「設計図を拝見しただけで、いかにも涼しそうな家であるのが分かります、さすが飛騨の名工の設計ですね」、新築準備中の弟子への挨拶句、しかしこの年は芭蕉の最期の年) 7.6


・ 冷(ひや)し瓜二日たてども誰も来ぬ

 (一茶『文化句帖』、「うまそうなウリが手に入ったので、水で冷やしてあるんだ、でもこの二日間、誰も家に来ないな、さびしいな」、いつも人を恋しがった一茶らしい句) 7.7


・ でゞむしやその角文字(つのもじ)のにじり書(がき)

 (蕪村1768、「かたつむりが二本のツノをもにょもにょ動かしながら進んでいる、動いた後には、水がにじんだような跡がついたな、まるで角で描いた文字だわ」、かたつむりをユーモラスに詠んだ、本来の「ツノもじ」は牛の二本の角を「い」に見立てたもの) 7.8


・ 冷房のなかなか効かぬ男かな

 (渋川京子『レモンの種』2009、外から帰った太めの夫だろうか、ふうふう暑がって、冷房機の前からなかなか動かない、こういう男性はけっこういそう) 7.9


・ 白玉(しらたま)を巻きてぞ持てる今よりは我が玉にせむ知れる時だに

 (よみ人しらず『万葉集』第11巻、「親の目が厳しくてずっと会えなかった白玉のような君、今こうして僕は君を抱いている、もう僕のものだよ君は、たとえ僕たちしか知らない、この短い今だけであっても」 ) 7.10


・ うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき

 (小野小町『古今集』巻12、「昼間、うたた寝しているとき、夢に貴方が現れたのよ、私は夢なんてはかないから嘘だと思っていたけれど、それ以来、夢を信じ始めたわ」 ) 7.11


・ 思ひあれば袖に螢(ほたる)をつつみても言はばやものを問う人はなし

 (寂蓮法師『新古今』巻11、「君を思う僕の心は火のように燃えている、だから螢を自分の袖に包んで、その明かりで君に打ち明けたいくらいだ、それなのに君は気づかず、「あら、どうしたの」と尋ねてもくれない」) 7.12


・ おだてあって熟れていて桜桃たち

 (宗左近、「サクランボの実が熟してきた、つやつやと並んでぶらさがっている君たちは、「きれいだね君は」と、お互いにおだて合っているのかな」) 7.13


・ 枇杷(びは)を吸ふをとめまぶしき顔をする

 (橋本多佳子、少女だろうか、ビワをしゃぶるように口にしたとき、ちょっとまぶしそうな顔をした、思ったより酸っぱかったのか、ビワの薄黄色の実と少女の表情が生き生きと交わる瞬間、「まぶしき顔」が卓抜) 7.14


・ 雨雲はふたたび垂れて黄の花と喜びあえるうすみどりの壁

 (安藤美保『水の粒子』1992、作者はお茶大の学生、雨雲が再び垂れこめてきたので暗くなった、明るかったときは互いに溶け合っていた黄色の花とうす緑の壁が、くっきりと分離して互いの色が映えてきた、「喜びあえる」がとてもいい) 7.15


・ あれも愛 小さな小さな伝説となりてあなたの靴の恋文

 (吉沢あけみ『うさぎにしかなれない』1974、大学生のときの歌だろう、彼氏の靴にそっと恋文をしのばせた作者(あるいは逆かも)、でも今は彼氏との関係はどうなのだろう、愛が過去形になったから、それが「伝説」になった悲しみなのか) 7.16


・ 垂線はみずからへ引けま昼間にこの白い街過ぎてゆくとき

 (永井陽子『葦牙(あしかび)』1973、作者(1951〜2000)のもっとも初期のうた、<孤独な自我>を詠み続けた作者だが、初期のうたには痛々しいほど鋭角な自意識が詠まれた歌もある) 7.17


・ 船の点燈夕焼激しき刻に先んず

 (山口誓子『七曜』1940、海面に船が見える、その船に今、電気が灯った、水平線はまさに夕焼けが濃くなろうとしている、日没ぎりぎりの夕焼け、海面の暗さを際立たせる) 7.18


・ 夕立や朝顔の蔓よるべなき

 (高濱虚子1899、激しく夕立が降りだした、まだうまく巻き付けなかった朝顔の蔓が、頼るところもなく、雨に打たれて、のたうつように揺れている) 7.19


・ 野は濡れて朝はじまりぬ花胡瓜

 (有馬籌子、「野はまだしっとりと露に濡れている早朝、キュウリの黄色い花が咲いている、さあ、今日という日が始まるんだ」) 7.20


・ 少女みな紺の水着を絞りけり

(佐藤文香『海藻標本』2008、中学校だろうか、プールの授業が終わり、髪の濡れた少女たちが、更衣室を出てプールサイドでスクール水着を絞っている、一人ならばどうということもないが、集団だと印象的) 7.21


・ 地平線縫ひ閉ぢむため針箱に姉がかくしておきし絹針

 (寺山修司『田園に死す』1974、細い針で「地平線を縫い合わせて閉じる」という発想が凄い、地平線は、地の部分も空の部分もたえず色が変わって動いている、それを縫って固定しようとは、そういう「姉」は謎) 7.22


・ 「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びらを毟(むし)る宇宙飛行士

 (穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』2001、宇宙飛行士は暇なんだろうか、まさか、でも花占いをしているのを想像するのは楽しい、「凍る」と「燃える」の選択がいい) 7.23


・ 平行に電車が並ぶ瞬間に乗り換えてしまった私だけが

 (歌崎功恵『走れウサギ』、JRの電車が並んで同じ方向に走る所だろうか、速度が等しくなる瞬間、互いに止まって見える、ドアのガラスの所に立つ作者、「向こうから私はどう見えるかな?」と視点を「乗り換えて」しまった) 7.24


・ 橋のあなたに橋ある空の遠花火

 (仙田洋子、花火大会は河川敷で行われるから「橋」と切り離せない、「橋ある空」には遠花火もよく似合う、この句は、「橋」のリフレインがいい、群馬県でも先日、夏の先陣を切って玉村町の花火大会が行われた) 7.25


・ 出女(でおんな)や一匹なけば蝉の声

 (浜川自悦、作者は江戸前期の俳人、榎本其角と親交があった、「出女」とは、江戸時代に、旅館の客引きや世話、売春もした女、「出女」の姿を見て蝉が一匹鳴き出したら、すぐ多くの蝉が唱和したというユーモア句、セミがよく鳴く季節になった) 7.26


・ 降ってきた、とあなたは右の手をひらく左手に子の指をつつんで

 (魚村晋太郎『花柄』2007、「あなた」とは作者の妻だろう、妻は右手を開いて雨粒を受けてみせる、左手に小さな子供の手を引いて、「あなた」という呼び方がとてもいい、もの静かな、やさしい愛妻歌) 7.27


・ こわくってためらっておりもうすでにはじまっている夏の木陰で

 (干場しおり『天使がきらり』1993、「もうすでにはじまっている」がとてもいい、それは初恋だろうか、それとももっと大人の恋だろうか、恋は自由意志で始まるのではない、気づいた時はもうその渦中にいる、だから「こわい」のだろう) 7.28


・ 梅雨明けし各々の顔をもたらしぬ

 (加藤楸邨、この時、作者は東京在住、「降り続いた梅雨が明けた、一人一人の顔が何となく明るくなったような気がする」、山本健吉氏は、この「各々」は家族ではなく友人たちだろうと言う、ようやく関東地方も梅雨が明けた) 7.29


・ 腹当(はらあて)や男のやうな女の子

 (景山筍吉、昔は、小さな子供にも、夏に寝冷えを防ぐために腹巻をさせることがあった、下町の裏路地だろうか、「裸に近いかっこうで遊んでいる小さな子供たちの中に、腹巻をした活発な子がいる、あっ、男の子じゃなくて女の子なんだ」) 7.30


・ 優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる

 (俵万智『チョコレート革命』1997、甲子園球児の話ではない、20代の終り頃だろうか、作者は妻子ある男性と恋におちいる、『サラダ記念日』で詠まれていたボーイフレンドとの淡い恋とは違う本物の恋、その出会いを詠んだ彼女らしい会心の一首) 7.31

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