Hatena::ブログ(Diary)

charisの美学日誌

777776

最新タイトル

オペラ『眠れる美女』(川端康成原作)
二つの劇団によるイプセン『人民の敵』
今日のうた67(11月)
ウィーン国立歌劇場『ワルキューレ』
東京芸術劇場『かもめ』
今日のうた66(10月)
新国立劇場『ワルキューレ』
今日のうた65(9月)
デッカー演出『トリスタンとイゾルデ』
今日のうた64 (8月)
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2016-12-10 オペラ『眠れる美女』(川端康成原作)

charis2016-12-10

[オペラ] デフォート作『眠れる美女』 12月10日 東京文化会館


(写真右はポスター、下は舞台より、老人役の長塚京三と女将役の原田美枝子)

f:id:charis:20161210202701j:image

f:id:charis:20161210202702j:image

f:id:charis:20161210202703j:image

ベルギーの作曲家クリス・デフォートと台本・演出ギー・カシアスの共作で、2009年初演のオペラ『眠れる美女』を観た。日本初演。川端康成の原作は、薬で深く眠らされた全裸の娘に老人が添い寝するという秘密の館の話で、演劇的要素は非常に乏しい。どうやってオペラにするのだろうと思っていたが、実にうまくオペラ化されているのに驚いた。三島由紀夫は、川端の『眠れる美女』を、「形式的完成美を保ちつつ、熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダン文学の逸品・・・、およそ言語による観念的淫蕩の極致・・・、ローマ法王庁がもっとも嫌悪する、「愛」からもっとも遠い性欲の形・・・」と絶賛している。つまり原作は、意識のない娘の体を老人が執拗にまさぐるというおぞましい話なのだが、それがオペラ化によって、きわめて美的に昇華されている。それは小説に含まれるさまざまなレベルの表象を、科白を語る俳優/歌う歌手/コーラス/ダンサーのパントマイム/CG画像などにうまく役割分担させたからである。娘には意識がなく、老人が体をまさぐるのに反応して寝返ったり、眉をしかめたり、わずかに寝言を言ったりする程度だが、それに対応して老人には、自分が関係した過去の女たちの記憶がどっと甦り、性的夢想や妄想にふけるだけでなく、自分が寝てからも夢に見る。そうした女の表象の乱舞は、処女性、娼婦性、母性が分離しては絡み合い、老人にとってきわめて息苦しい苦痛であり、いつしか老人は自分が死に近づくのを感じる、というのが原作の筋である。小説では、それが老人の意識内容として地の文の中で描かれるのを、オペラでは、表象を分散して呈示することができる。写真下は、意識のない娘の身体感覚を、老人の性的妄想を媒介してパントマイムで身体表現するダンサーの伊藤郁女(かおり)↓。舞台中央の高位置に宙吊りにされ、最初は花のように大きく広がる衣服で、次は裸体を拡大された影絵で映し、最後は実物大の裸体で表現するという、三段階の転換が見事。最後は、吊るされたロープに体を巻きつけるアクロバティックな体操のようだ。

f:id:charis:20161210202704j:image

f:id:charis:20161210202705j:image

原作の地の文で表現された性的妄想を、すべて身体表現や音楽で表現することは難しいので、地の文をそのままコーラスが歌うことによって、やや説明的になってしまうため、その部分はやや退屈な感は否めない。しかし、最後、老人が自分の死を夢想している間に、眠っている娘の息が突然絶えてしまうシーンは、タナトスとエロスが表裏一体となった凄い幕切れと思う。全体に、CG画像を非常にうまく使っているので(写真下↓)、視覚はつねに舞台に釘づけになる。

f:id:charis:20161210203152j:image

f:id:charis:20161210203153j:image

指揮はパトリック・ダヴァン、オケは、東京芸大シンフォニエッタ。時間は、休憩なしの90分。日本初演のマイナーなオペラにもかかわらず、東京文化会館は若い女性も多く、満席だった。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/charis/20161210

2016-12-07 二つの劇団によるイプセン『人民の敵』

charis2016-12-07

[演劇] 二つの劇団によるイプセン『人民の敵』 12月3日シアターΧ、7日シアタートラム


(写真右は、雷ストレンジャーズの上演、ストックマン博士を演じる寺十吾、下の写真は劇団tgSTANの舞台、2014年9月オスロ公演のもの、今回と配役は同じ、右端がストックマン博士)

f:id:charis:20161207194126j:image

イプセンの1882年の作品を二つの劇団がほぼ同時に上演するのを見ることができた。日本の劇団、雷ストレンジャーズと、ベルギーの劇団tgSTANの公演。私はこの作品は初見だが、非常な違和感を覚えた。筋は、温泉で街が発展しようとする矢先、温泉水の汚染が発見されたが、観光客が途絶えることを恐れた町の幹部が、発見者のストックマン博士にその発表を差し止めさせ、博士を孤立させたが、町民のほぼ全員がそれを熱烈に支持という物語。確かに環境汚染の問題と、利害関係者の対応というテーマはきわめて現代的で、まさにこういうことが起きていることは分かる。しかし、イプセンがこの作品で一番訴えたかったこと、つまり、「民主主義において多数派が正しいとは限らない」という「真理」は、ナチス政権誕生など20世紀の歴史が示したことであり、我々にとっては少しも驚きがない。イプセンがこれを書いた1882年には、議会制民主主義がいよいよこれから花開くという時期であり、大いに夢と期待を持たれていたであろうから、「多数派による選択の誤り」という事実はショッキングな「発見」であったのかもしれない。


まずこの作品で、我々は主人公のストックマン博士にまったく共感できない。社会や人間についての彼の現実認識が乏しすぎるために、温泉水の汚染を発見したのに、まったく有効に戦うことができない。兄の町長の反応をまったく間違って予想しているおめでたさにはあきれるし、惨めに敗北したあげくに「愚かな大衆が悪い」と大衆を罵倒し、「真理はつねに自分のような少数者にある」と強弁するに至っては、博士こそどうしようもない愚か者であることが赤裸々になる。大衆を説得する戦略をまったく持たないのだから、彼の敗北は必然であり、そこから「大衆は誤る」という大命題の「発見」を得意げに吹聴されても白けてしまう。しかし、考えてみればこれは、現代から過去を見ている我々の後知恵であり、それをあらためて確認することこそ、『人民の敵』が今、好んで上演される意義なのかもしれない。しかし、イプセンが「多数派の誤り」を主張したいのならば、ストックマン博士はもっと完璧に戦って、大衆の説得に努力し、それにも関わらず博士の意見が退けられた、というのでなければならない。博士があまりにも稚拙過ぎた。


二つの劇団を比べると、雷ストレンジャーズの上演はきわめて分かりやすいもので、ストックマン博士がすっかり「浮いて」しまい、新聞編集長や印刷屋の「裏切り」、大衆が残酷な視線で彼を眺めることなどが、うまく表現されている。しかしtgSTANの方はどうだろうか。まず、たった4人の劇団なので、一人が三役も四役もやるので、とても分かりにくい。それも兼ねる役が固定しているわけではなく、場面に応じて、異なる俳優が同じ役を演じるので、いよいよ分かりにくい。オランダ語上演だから、字幕がちょっとでもずれると誰の発言か分からなくなる。たしかに、俳優の身体パフォーマンスはきわめて高度で、役の切り替え時における同一俳優の身振りと表現の落差が、あたかも落語のように自在で、なんとも面白おかしいのは、この作品を喜劇的に仕立てるという一つの方向性を示しているのだろう。とはいえ、私は戯曲を読み、そして雷ストレンジャーズの上演を見た後でtgSTANを見たから分るのであって、戯曲を読まずに最初にこれを見たら、何が何だか分からなかったと思う。


追記 : tgSTANは分かりにくいという私に対して、森岡実穂さんからツイッターで下記のコメントをいただきました。納得です。

Miho Morioka 森岡実穂

@charis1756 ドイツの深読み再解釈上演と同じで、基本的に作品を知っている前提の上演ではないかと。欧州ならイプセン、チェーホフならありでしょう。でも日本では事情が違うので、だからこそ今回雷ストレンジャーズの上演が先行する意味もひとつあるのではないでしょうか。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/charis/20161207

2016-11-30 今日のうた67(11月)

charis2016-11-30

[今日のうた]11月1日〜30日


(写真は藤原良経1169〜1206、感覚的にシャープな歌を詠んだ人で、『新古今集』の入選歌は79首、西行の94首、慈円の92首に次いで多い)


・ おしなべて思ひしことのかずかずになほ色まさる秋の夕暮

 (藤原良経『新古今』巻4、「それにしても、今日のこの夕暮れの美しさと寂しさは何だろう、これまで数えきれないほど寂しいもの思いをしたけれど、そのどれよりも悲しく美しい」、「なほ色まさる」が絶妙) 11.1


・ 思ふことさしてそれとはなきものを秋のゆふべを心にぞ問ふ

 (宮内卿『新古今』巻4、作者は20歳頃に夭折した女性歌人、「何か特定の理由があってもの思いをするわけではないのに、なぜ秋の夕暮はこんなに寂しいのだろう、と自問している私」) 11.2


・ さびしさはその色としもなかりけり真木(まき)たつ山の秋の夕暮

 (寂蓮法師『新古今』巻4、「この寂しさは樹木の色のせいではないな、眼前に並び立つ杉や檜などの真木は常緑樹だから深い緑のままで、紅葉も落葉もしていない、でもどうしてこんなに寂しいんだろう」、緑なのに寂しいという感覚が新しい) 11.3


・ 鰯雲少女は浜を駆けてくる

 (高柳重信『前略十年』、1940〜42年、作者は早稲田大学学生、もっとも初期の17、8歳の頃の作、まだ後年の前衛俳句の片鱗はなく、いかにも素直な句だが、新鮮で美しい)  11.4


・ 落葉踏む足音いづこにもあらず

 (飯田龍太1965、山本健吉氏の註によれば、「十月二七日母死去、十句」の内の一句。生前、作者は、母が家の周囲の落葉を踏んで歩く音をよく聞いていたのだろう、音だけで母と分かる、その音がしない、母はもういない、深い悲しみが伝わる) 11.5


・ マンホールの底より声す秋の暮

 (加藤楸邨、夕方、たまたま歩いている道に、マンホールの蓋が空いている、ちょっと立ち止まると、奥深くから工事の人の声がぼそぼそと聞こえる、その声は小さくてどこか寂しい、こうして過ぎてゆく秋) 11.6


・ 土間口に夕枯野見ゆ桃色に

 (金子兜太『少年』、「夕方、貧しい家屋の土間口から外の枯野が見える、桃色に輝いて美しい」、1940~43年、作者の最初期の句の一つ) 11.7


・ 孤独だと呟くあなた 写真では両手で山羊を愛でてるじゃない

 (このみ・女・20歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「「両手」がポイントなんですね。「孤独」って云ってるけど、この写真を撮った見えない誰かがいるじゃないか」と、穂村弘評) 11.8


・ 鬱という字をなんとなく書いてみる信じられないくらいはみ出す

 (女・42歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「書いてみて初めてわかった「鬱」という字の恐ろしさ。画数がもの凄いから、命懸けで挑まないと「はみ出す」んだろう。「信じられないくらい」がいい」と、穂村弘評) 11.9


・ ひとり膝を抱けば秋風また秋風

 (山口誓子1940、「一人さびしく膝を抱いて、物思いにふける秋、秋風に寒さを感じる頃になった」) 11.10


・ ない袖を振つて見せたる尾花哉(かな)

 (森川許六、蕉門の俳人、「ススキの穂が揺れている、まるで、ない袖を振っているみたいで、なんかわびしいな」、かすかなユーモアも) 11.11


・ 紅葉(もみぢ)せり柿の葉鮓(ずし)の柿の葉も

 (長谷川櫂1992、「柿の葉でくるんだ鮓が美味いなぁ、おっ、そういえばこの葉は紅葉している」)  11.12


・ いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣(ころも)をかへしてぞ着る

 (小野小町『古今集』、「真っ暗な闇夜、あなたが恋しくてたまらない、だから夜の衣を裏返しに着て眠るわ、そうすれば夢であなたに会えるから」) 11.13


・ 夢にだに見で明かしつる暁の恋こそ恋のかぎりなりけれ

 (和泉式部『新勅撰和歌集』恋三、「貴方が来るかもしれないと思うと眠れないまま夜が明けてしまった、眠れば夢で会えたのに、ああ、それもできなかった、こうして明け方に一人で貴方を恋い焦がれるのが究極の恋よね」、恋人だった敦道親王への挽歌) 11.14


・ 恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしと言ひしにあらず君も聞くらん

 (式子内親王『家集』、「好きで、好きで、好きなのよ貴方が、いいから、とにかくこの私を見て! このまま遂げられない恋を胸に抱いたまま死んじゃうかもしれない、ね、知ってるわよね、そういう私のこと」、句割れの第二句「よし見よ」の切なさが胸に迫る、「よし(縦し)」は「いいから、何はともあれ」の意) 11.15


・ ことごとくやさしくなりて枯れにけり

 (石田郷子『木の名前』2004、「秋も深まって草木が枯れてゆく、でも、どの草木も<やさしくなって>枯れてゆくのね」、作者1958〜は、静かな、さっぱりとした感じの句を作る人) 11.16


・ 日沈む方へ歩きて日短か

 (岸本尚毅2000、「日没の時刻がどんどん早くなってきた、夕陽に向かって歩くと、特にそれを感じる」、「ひしずむ/ひみじか」とそれぞれ4字だが、よいリズムだ、作者1961〜は波多野爽波に師事した人、俳誌「天為」ほか同人) 11.17


・ 嘘でない紅葉(もみじ)は二度と見に行(ゆか)

 (『誹風柳多留』第17篇、「紅葉見物」と称して実は遊里に行く男性も多かったらしい、この句は、妻にばれて言い訳をしているのだろう、「遊里には行かない」とは言っていないところが川柳) 11.18


・ どれなりとおつしやつてはと若い者

 (『誹風柳多留』第13篇、吉原で、どの女を選ぶか決めかねて、いつまでもぐずぐずしているオジサン客がいるのだろう、しびれをきらして店の男が「早く決めてね」と催促する、風俗店で働く男は老若にかかわらず「若い者」と呼ばれたのも面白い、「おねえさん」と一緒に仕事をするからか) 11.19


・ 下(さが)りとり銚子(ちょうし)へ行けとつき出され

 (『誹風柳多留』第10篇、「下りとり」とは、吉原の客の未払いの勘定を取り立てること、「催促しても本人がなかなか払わないので、取り立てに親の家に行ったら、息子はすでに勘当されて銚子にいると言われた」、勘当された行先がなぜか「銚子」とされた) 11.20


・ 帰りきて綺羅(きら)なすものをすべて脱ぐ らしく振るまう夜会は終了(おわり)

 (松平盟子『プラチナ・ブルース』1990、パーティーは疲れる、美しく装い、女性としての魅了を振りまかなければならないから) 11.21


・ 「観覧車の下で待ってるから」虹の彼方に運ばれゆくオスふたり

 (もりまりこ『ゼロゼロゼロ』1999、男子二人と遊園地に行ったのだろう、二人とも独りよがりで作者はあまり楽しくなかったのか、冷ややかな視線が鮮やか) 11.22


・ 焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き

 (俵万智『チョコレート革命』1997、妻子ある男性を愛してしまった作者、彼の娘に初めて会った時の歌、直前の歌は「まざまざと君のまなざし受け継げる娘という名の生き物に会う」、緊張して気まずかったのか) 11.23


・ 書(ふみ)の上に寸ばかりなる女(をみな)来てわが讀みてゆく字の上にゐる

 (森鴎外「我百首」1909、鴎外は自宅で歌会を催すなど短歌も作っていた、「我百首」は雑誌『スバル』5号に発表、「書を読んでいると、小さな女性が現れて文字の上にいる」という、妄想を楽しんでいるのか、何を読んでいるのだろう)11.24


・ 其人(そのひと)の上(うへ)としいへばよそながら世にかたるさへ嬉しかりけり

 (樋口一葉、「半井桃水(なからいとうすい)さんがどういう人か色々しゃべったら、そんな関係じゃないのに、恋人だと疑われちゃった、でもしゃべるのはやっぱり楽しいわ」、一葉は師の桃水を好きだったのだろう) 11.25


・ 青空の光の奥にひらきゐるいと大いなるまなこあるらし

 (片山敏彦、作者1898〜1961は、一高教授としてドイツ語を教えた、フランス文学にも詳しく、リルケ、ロマン・ローランなどの翻訳で名高い人、詩人でもあり晩年は短歌も詠んだ、この歌は死去する前の癌で闘病中のものか) 11.26


・ 今だれしも俯(うつむ)くひとりひとりなれわれらがわれに変りゆく秋

 (道浦母都子『無援の抒情』、60年代末の大学闘争を戦った作者、多くの運動は敗北し挫折していった、仲間はバラバラになり一人一人になった、「われらがわれに変ってゆく」ことを、俯きながらかみしめる)  11.27


・ 独房に釦(ぼたん)おとして秋終る

 (秋元不死男1901〜77、1941年、作者は新興俳句事件に連座して逮捕され、二年間も留置された、事件は特高警察のでっちあげだが、その時を詠んだ句) 11.28


・ あたゝかな雨がふるなり枯葎(かれむぐら)

 (正岡子規1890、「枯れ葎」とは、つる性の雑草などが絡まりあったまま枯れていること、「初冬のある日、<あたたかな雨>が降っている、枯れ葎がとても生き生きして見える」、鋭い観察だ) 11.29


・ 霊長目ヒト科のわれの冬支度

 (岡崎るり子、われわれ人間は「霊長目ヒト科」である、類人猿を含めて哺乳類は全身が体毛で覆われているが、ヒトだけは裸体で、頭髪などを除いて体毛がない、だから衣服が必要だ、いや寒い冬には体毛すらほしくなる) 11.30

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/charis/20161130

2016-11-09 ウィーン国立歌劇場『ワルキューレ』

charis2016-11-09

[オペラ] ウィーン国立歌劇場『ワルキューレ』 東京文化会館 2016.11.9


(写真右は、ワルキューレたち、下は、第1幕、フンディングの家のジークリンデとジークムント、そして第2幕、二人を残して去るブリュンヒルデ)

f:id:charis:20161110083438j:image

f:id:charis:20161110083439j:image

3時開演の直前、トランプ当選の報を聞いた。世界も日本もふたたび野蛮へと向かうのか。だが『指環』も、神の国が滅んで人間へと権力が交代する暴力と動乱の物語だ。『ワルキューレ』の愛の中に含まれる暴力にあらためて気づく。神の王ヴォータンは、妻のフリッカや娘のブリュンヒルデに槍を向けて威嚇するシーンがたくさんあるし、もちろんジークムントは一撃で殺す。三人を深く愛しているにもかかわらず。(写真下は、オオカミの死体を前にするヴォータンとフリッカ/ジークリンデを気遣うブリュンヒルデ/そして終幕、悲嘆にくれる妹のワルキューレたちの中に毅然と立って、父王ヴォータンに反逆する王女ブリュンヒルデ)

f:id:charis:20161110083440j:image

f:id:charis:20161110083441j:image

f:id:charis:20161110100439j:image

演出はS.E.ベヒトルフ、指揮はアダム・フィッシャー。オケはウィーンフィルなので音楽がとても安定して音が澄んでいる。以前ウィーン国立歌劇場の『フィガロ』を観た時もそうだったが(小澤征爾指揮)、指揮者が誰であろうと安定した同じ音を出すのだろう。ベヒトルフ演出は正統的なもので、第2幕のヴァルハラ城も森になっており、オオカミの死体を象徴で使うなど、ゲルマン神話の雰囲気を出そうとしている。(写真下は、終幕、ブリュンヒルデを抱くヴォータンと、炎の中に彼女を眠らすヴォータン)

f:id:charis:20161110083442j:image

f:id:charis:20161110083443j:image

舞台装置や人の動きで驚かすのではなく、歌をゆっくりと歌い、しみじみと聞かせるシーンが多いので、第2幕のジークリンデとジークムントの愛にブリュンヒルデが敗北するところが特に印象的だった。人間が神に反抗し、神に戦いを挑むのだが、愛の力によってその転換が行われる。人間の愛の前に殺し屋ブリュンヒルデが敗北することこそが、神の国の亡びの引き金になったのだ。(ブリュンヒルデ)「しかしジークムント、強がっても死に抗う術はないのよ。死を告知するために、私はやってきたのです」/(ジークムント)「脅しには乗らないぞ、たとえ死すともヴァルハラなど行くものか、ヘラよ、私を抱きとめてくれ!・・ああ、妹ジークリンデ、お前を守ってやれないとは・・、私が死ぬ定めなら、まず気を失っている妹に手をかけよう」/(ブ)「やめて、お願い、ジークリンデを殺さないで!この子はあなたの貴い子を宿しています。・・あなたも一緒に生きるのよ! ジークムント、あなたを守って勝利を授けます、ごきげんようジークムント!」/こうして、誰よりも「父の娘」であったブリュンヒルデは、生まれて初めて父に反逆し、そして、神の国を追放される。本公演で、終幕後のカーテンコールに最後に登場したのはヴォータンではなくブリュンヒルデ。そう、『指環』全体がブリュンヒルデの物語なのだ。


下記に動画があります。

http://ebravo.jp/nbs/2016/wso/archives/60

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/charis/20161109

2016-11-06 東京芸術劇場『かもめ』

charis2016-11-06

[演劇] チェホフ『かもめ』 熊林弘高演出 東京芸術劇場 2016.11.6


(写真右は、ニーナ(満島ひかり)とコースチャ(坂口健太郎)、下はアルカージナ(佐藤オリエ)とトリゴーリン(田中圭)、そしてポスター)

f:id:charis:20161107174038j:image

f:id:charis:20161107174039j:image

私はこれまで『かもめ』の実演は、蜷川幸雄、岩松了、マキノノゾミ、齋藤晴彦による演出を見たが、今回が一番良かった。一緒に観た群馬県立女子大の卒業生は「鮮烈な、心に刺さった舞台」と言ったが、本当に、魂に突き刺さるような『かもめ』だった。チェホフはどの作品でも、誰もが狂おしいほど愛を求めているのに、それが満たされず寂しいままに人生を生きてゆく姿を描いている。その切なさと、限りない愛おしさこそ、チェホフの魅力である。チェホフにでてくる人は、みなちょっと変だ。でもそれは我々自身の姿であり、とりわけ愛を求めるときには、人は誰もがちょっと変になる。そして大概は、求める愛は与えられないので、また別様に少し変になる。チェホフの描く人間が愛おしいのは、愛は高度に複合的な現象であり、快、不快、喜び、悲しみ、憎悪、怒り、嫉妬、プライド、優越、卑屈、喪失など、たくさんの感情が噴き上がる、もっとも人間的な事象だからだ。


『かもめ』は「4幕の喜劇」と副題がついているが、最後、コースチャの自殺で終る「悲劇」(?)である。でも、その自殺を除いてはほぼ全篇がドタバタ喜劇なのだ。今回の『かもめ』でそれが良く分かった。初めて知った熊林弘高という演出家は、若い人らしいが凄い才能だ。喜劇性を極端に強調する舞台だが、『かもめ』は、4幕の最後に近づくところでは人々は変ではなく正常に見える。おそらくそこがポイントで、チェホフ劇は不条理劇に紙一重のところにあるのだろう。『かもめ』は、ある意味では登場人物の全員が主役のような劇だが、トリゴーリンは核心となる重要な役で、男性の名優がやるのが恒例だが、だいたいは中年だ。黒テントの『かもめ』では67歳の齋藤晴彦だったが、さすがに「枯れた」感じで、これはちょっと違うなぁと思った。今回の田中圭は32才、とても若いが、これが正しい役作りだと思う(写真↓ニーナと)。トリゴーリンは、アルカージナのいわゆる「若いツバメ」で、セクシーな魅力が必要だ。歴史的上演となったチェホフのモスクワ再演(1898)では、演出のスタニスラフスキ自身が演じたが、どうだったのだろう。

f:id:charis:20161110160238j:image

『かもめ』で一番衝撃的なのは、終幕の直前、コースチャのところに忍びでやってきたニーナが、二年ぶりに大泣きした後、「私はトリゴーリンを愛しているわ!前よりももっと強く愛しているわ、愛してるわ、愛してるわ」と叫ぶシーンである。何という残酷な場面だろう。彼女が愛しているのはコースチャではなくトリゴーリンなのだ。「私はかもめ・・・、いいえそうじゃない、私は女優」という彼女の科白は、負け惜しみではない。たとえどんなに落ちぶれても、勝者の言葉なのだ。トリゴーリンには捨てられたけれど、女優への道を与えたのは彼なのだ。「撃ち落とされた」かもめはニーナではなく、コースチャだった。私はこれまで、ここが一番つらい場面で、悲劇だと思っていた。だが、今回、若くセクシーでちょっとニヒルなトリゴーリンを見て、やっと分かった。トリゴーリンは才能ある人気作家であるだけではなく、釣りを好むアウトドア派である。どう見ても、ひ弱でオタク的な文化系少年で、非モテを絵に描いたようなコースチャよりもずっと魅力的な男性だ。ニーナが、コースチャではなくトリゴーリンを愛するのは当然ではないか。コースチャはどこまでも喜劇キャラのまま自殺する。心の底から「愛の不条理」を感じないわけにはいかない。満島ひかりも、ニーナのちょっと変なところをとてもうまく演じていた。ちょっとニヒルな感じを出すトリゴーリンの田中圭、存在感あふれる母親アルカージナを演じた佐藤オリエなど、役者はみな好演。こうして比べてみると、コースチャはどこか影が薄い存在であることが分かる。コースチャを演じた坂口健太郎はモデル出身の25歳、これが初舞台という。科白がやや聴き取りにくいところがあった。


(追記)トリゴーリンは二流の作家だが、そういう自分が良く分かっていることが、彼の美徳である。書けるうちにたくさん書いて、売れなくなったら転身するだろう。「藝術への愛」などという愚かな幻想はもっていない。そういう愚かな幻想をもっているのはコースチャの方である。トリゴーリンはなかなか深みのあるキャラクターで、チェホフ自身の冷徹な「文士」観があるのではないだろうか。(下記は舞台。とてもシンプルだが、劇中劇の設定など、とてもうまい)

f:id:charis:20161107174221j:image

f:id:charis:20161107174222j:image

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/charis/20161106

2016-10-31 今日のうた66(10月)

charis2016-10-31

(写真は永井陽子1951〜2000、短大卒業後、図書館に勤務しながら短歌を詠み続けた、1995年に愛知文教女子短大助教授、2000年死去、その歌には、生きる寂しさと孤独を詠んだものが多い)


・木犀の香を距(へだ)たれる木に求む

 (山口誓子『激浪』1944、モクセイの花の香りは、少し離れたところの樹からもやってくる) 10.1


・コスモスにのりいれ吾子の乳母車

 (加藤三七子、乳母車に乗せた赤ちゃんに、「ほら、きれいでしょ」とコスモスを見せているうちに、群生の中に「乗り入れて」しまった) 10.2


・女郎花(をみなえし)憂(う)しと見つつぞ行きすぐる男山(をとこやま)にし立てりと思へば

 (布留今道『古今集』巻4、「美しい女郎花の花が咲いているけど、つまんないなと思いながら、通り過ぎる、だってそこは<男山>という場所だもの[=美しい女性だけれど、近くに彼氏がいそうだからちょっと口説けないな・・・]」) 10.3


・我がやどの尾花が上の白露を消たずて玉に貫くものにもが

 (大伴家持『万葉』巻8、「わが家の庭のススキに付いている白露は、本当に美しいなぁ、消えてしまわずに、玉として糸に通したいなぁ」) 10.4


・人間はギコギコギコギコ働いてふと消えてゆく霧の向こうへ

 (永井陽子『小さなヴァイオリンが欲しくて』2000、まだ40代の作者にとって人生は淋しいものなのか、木こりが一日じゅう木を切るように、毎日ただ仕事に追われ、そして、ふっと「霧の向こうへ消えてゆく」ように死んでゆく、この歌を詠んだ後、彼女の人生が実際にそうなったことが悲しい) 10.5


・ライオンを指さし幼なは「髪の毛がないのが女」と弟に言ふ

 (川西守、まだ年のいかない姉弟だろう、動物園で雄と雌のライオンを前に、「たてがみ」や「めす」という言葉を知らない小さな弟に姉が説明しているのか、それとも姉も知らないのか、ほほえましい子供たち) 10.6


・風澄むや鏡は空の写る位置

 (正木ゆう子『水晶体』1986、「風澄む」は秋の季語、雨の日が過ぎると、移動性高気圧に覆われて、青空がすがすがしい、作者は、自室に置かれた鏡が「空の写る位置」にあったことに、あらためて気づく)  10.7


・世間(よのなか)を厭(う)しと痩(や)さしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 (山上憶良『万葉集』巻5、「(貧窮の家からも役人は無慈悲に税を取り立てる)、何と醜い世の中、ああ嫌だ、身も細る思いがする、こんな世の中を捨てて飛び去れるように、鳥だったらよかったのに」、貧窮問答歌の一つ) 10.8


・防人(さきもり)に行くは誰(た)が夫(そ)と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思ひもせず

 (防人の妻『万葉集』巻20、「防人に行くのはどなたの旦那様かしら、なんて無邪気に尋ねてる女の人がいるわ、いいわよねえ、当事者じゃない人は」) 10.9


・きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく

 (西行『新古今』巻5、「秋の夜が寒くなるにつれて、きりぎりすも弱っていくのだろうか、声がだんだん遠くなる」) 10.10


・とりにくのような せっけん使ってる/わたしのくらしは えいがに ならない

 (今橋愛、使い切る寸前で、がさがさに乾いた石鹸をまだ使っている作者、洗面所の鏡の前で、ふと自分の生活が散文的であることに気づく) 10.11


・ 体操着姿の君が去ったとき窓に網目があるのを知った

 (おざ・男・21歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、教室から運動場を凝視する作者、「下句の意外性がいい、「窓に網目」はずっとあったんだけど、ひたすら「君」の姿を見つめていたから、気づかなかったんだ」と穂村評、でも21歳?) 10.12


・ 抜け殻の君など見たくないけれど君の抜け殻なら見てみたい

  (ほうじ茶・女・22歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、素敵な身体の彼氏への相聞歌?「面白いですね。「抜け殻」「君」「見る」という言葉を繰り返しながら、上句と下句で鮮やかに世界が転換されている」と穂村評) 10.13


・ 大空に又(また)わき出(い)でし小鳥かな

 (高濱虚子1916、「小鳥帰る」は春の季語で「小鳥来る」は秋の季語、つまり俳句で「小鳥」というのは内地の移動も含めて「渡り鳥」のこと、秋の渡り鳥は空に群れをなして飛ぶので印象が強い) 10.14


・ 名月や池をめぐりて夜もすがら

 (芭蕉1686、芭蕉庵の傍らには池があった、名月に誘われて、池の周りをゆっくりと歩きながら思索する作者、一晩中とも思えるくらい長い間、池の周りにいたのだろう、今日は「中秋の名月」) 10.15


・ 年よりや月を見るにもナムアミダ

 (小林一茶1805、一茶の隣に住む老人だろうか、「中秋の名月」も来年はもう見られないかもしれないと思っているのか、いろいろな意味で名残惜しい月、昨日が「中秋の名月」で今日は満月) 10.16


・ ゆく水に数(かず)かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり

 (『伊勢物語』、「川の水に一生懸命数字を書いても、形は残りません、貴方を思っても思っても、何も返ってこないまま、むなしく虚空に消えてゆくのですね」、これは女性の歌、男性の返歌は明日) 10.17


・ ゆく水と過ぐる齢(よはひ)と散る花といづれ待ててふことを聞くらむ

 (『伊勢物語』50段、昨日の女の歌への男の返し、「流れ去る水、止められない加齢、散る桜の花、いずれも、我々が「ねぇ、待って」と叫んでも聞いてくれないでしょ、相手への気持がさめるのは僕だけじゃない、君だってそうなんだから、恨みっこなしね」) 10.18


・ 秋の色は籬(まがき)にうとくなりゆけど手枕(たまくら)なるる閨(ねや)の月影

 (式子内親王『新古今』巻4「秋めいて垣根の植物は色あせてきたけれど、逆に、寝室に差し込んでくる月光が、手枕をしている私の手になじんできたわ」、月光が男性のように「私の手枕に慣れる」のが色っぽい) 10.19


・ 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮

 (藤原定家『新古今』巻4、定家の代表作の一つ、海辺に漁師の粗末な小屋があるだけの秋の夕暮、だが、たとえ否定しても、いったん「花と紅葉」と言挙げしてしまえばそのイメージは消えない、と岩波・新古典文学大系の註) 10.20


・ 鳴く雁(かり)を仰ぐ六才ともなれば

 (辻田克巳「俳句」2005年10月、「上空で雁が鳴いたので、6歳の息子が思わず上を見た、まあ風流心からではないだろう、でも俳人の父としては、この子も詩心が分かるようになってほしいな」、「仰ぐ六才ともなれば」が俳諧的でいい) 10.21


・ 秋ゆくや母は林檎をうすくむく

 (吉岡実、作者は詩人、子供のときの想い出だろうか、作者の母はとても上手にリンゴの皮を薄くむいてくれる、それだけリンゴの食べる分が多くなるぞと、うずうずしてむき終わるのを待つ作者) 10.22


・ 日本シリーズ釣瓶落しにつき変はり

 (ねじめ正也、作者は詩人ねじめ正一の父、野球好きで知られた人、「秋の陽はつるべ落しと言うが、日本シリーズの最中にあっという間に日が暮れて、試合の「つき」が変ってしまった」、昨夜は日本シリーズ第一戦) 10.23


・ ころあひにつきたる燗(かん)も夜寒かな

 (久保田万太郎、「夜寒(よさむ)」は秋の季語、昼間はそうでなくても夜になると寒く感じる、「燗を付けたお酒が、ちょうどいい温度になった、さあ、一人でしみじみと飲もうか」) 10.24


・ ペリカンは秋晴れよりもうつくしい

 (富澤赤黄男1940、作者は詩のような俳句を作る人、ペリカンの白さで秋晴れの深い青を詠う、しかし今年はまだ「秋晴れ」そのものが珍しい) 10.25


・ ハッピーバースデーはいつも誰かの為だけに声ふるると湯も跳ねて

 (もりまりこ『ゼロゼロゼロ』1999、好きな人がいるのだろう、誕生日にはいつもその人に「ハッピーバースデー」を歌ってあげる作者、湯船の中で一人その練習をしているのか、誕生日も近い、練習に力が入る) 10.26


・ 誕生日あなたがいれば新しくはじまるのだと思えてしまう

 (笹岡絵里『イミテイト』2002、まだ大学生の作者、今日は誕生日で彼氏と一緒だ、誕生日は「一つ歳をとる」といった消極的なものではなく、自分の人生が「新しくはじまる」ような嬉しい日) 10.27


・ いつだって言葉にばかり鋭くてしばらく君の目を見ていない

 (野口あや子『くびすじの欠片(かけら)』2009、作者はまだ20歳、彼氏の口から出るすべての言葉に、いつも意識を研ぎ澄ませている、視線は、どうしても彼の口元に行きがちで、彼の目を見ることがあまりない) 10.28


・ 蛍光ペンかすれはじめて逢えぬ日のそれぞれに日没の刻あり

 (大森静佳『てのひらを燃やす』2013、作者1989〜の京大時代の作か、彼氏と遭えないある日、一日中本読みの作業を続けて、線を引くマーカーもかすれてきた頃、ふと外を見ると日没だ、彼も今この日没を見ているのか) 10.29


・ 今日こそが昨日の死者の望む明日

 (神原駿太・14歳、東京新聞連載「平和の俳句」2016年10月26日、「五七五のリズムの中をひとつの時が貫き、生者と死者がつながっているからには平和の俳句である」と、いとうせいこう氏評、14歳作とは素晴らしい) 10.30


・ 橋に架け木にかけ晩稲(おくて)刈りいそぐ

 (篠田悌二郎、「遅くなってしまった稲刈り、刈った稲を、橋にも架け、木にも架けているよ、よほど急いでいるんだな」、作者1899〜1986は秋桜子に師事した人、私の近所では稲刈りはほとんど終わったが)  10.31

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/charis/20161031