Hatena::ブログ(Diary)

charisの美学日誌

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最新タイトル

シラー『たくらみと恋』
今日のうた29(1月)
MET、サーリアホ『遥かなる愛』
科学博物館『ラスコー展』
今日のうた68(12月)
篠山紀信ヌード写真展
イプセン『ヘッダ・ガブラー』
オペラ『眠れる美女』(川端康成原作)
二つの劇団によるイプセン『人民の敵』
今日のうた67(11月)
   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
 

2017-02-19 シラー『たくらみと恋』

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[演劇] シラー『たくらみと恋』 世田谷パブリックシアター 2017.2.19


(写真右はポスター、下はルイーゼを演じるE.ボヤルスカヤ、非常に美しい人、そして終幕、ルイーゼとフェルディナンドを演じるD.コズロフスキー、彼もシャネルのCMモデルを務める美形)

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ロシアの劇団、ペテルブルグ・マールイ・ドラマ劇場公演、レフ・ドージン演出。シラーの劇の上演も希だが、ロシア劇団の公演も少ないからだろうか、観客にはロシア人が大勢。私は最前列のよい席だったので、俳優の表情や演技が直近で楽しめた。シンプルでスタイリッシュな舞台が、とにかく美しい。軽いメロディーとともに机の上に立ってちょっと踊るパフォーマンスや、美形の青年たちのアスリートのような動きなど、身体運動が快い。写真下は、冒頭、フェルディナンドが机の上を滑走してルイーゼに近づき、キスを奪うのはスポーツのように爽快。

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原作はシラー25歳の作品で、上演回数の多い名作である。ドイツ版ロミオとジュリエットとも言われているそうだが、ハムレットのようなところもある。宮廷の陰謀渦巻く中で、若い男女の純愛が潰されて、あえなく死んでしまう物語。町娘ルイーゼと貴族の息子フェルディナンドの「身分違いの恋」に、ルイーゼが負い目をもっていることが、最後に、自分の父母とフェルディナンドのどちらへの愛を取るのかという選択のときに、フェルディナンドへの不信になり、他方ではフェルディナンドも思い込みが激しい性格ゆえに、互いの誤解が二人の死につながる。原作そのものの展開がややかったるいこともあり、この上演では、無駄な部分を削り、相当スリム化している。ルイーゼが偽の手紙を書くのを強制される相手の侍従長フォン・カンプをなくしたり、終幕の死んだ二人をとりまくドタバタをカットするなど、このスリム化は成功している。しかし一つ大きな無理があった。それは大公の愛人であるミルフォード夫人が、フェルディナンドとルイーゼの愛に負けて、自分の主人である大公に反逆し、公国から逃走するシーンをカットしたことである。この逃走ゆえに、偽手紙の「たくらみ」は失敗し、フェルディナンドの父である宰相は彼にルイーゼとの結婚を許さざるをえない。ところが、この逃走をカットしたために、なぜ偽手紙の「たくらみ」が失敗したのが観客に分からないものになった。あと、これはシラーの原作の問題だが、ロミオとジュリエットのようには二人の純愛が貫徹しておらず、ルイーゼにもフェルディナンドにも、どこか釈然としない思いが残るような気がした。写真下は、ミルフォード夫人に言い寄られるフェルディナンド。

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2017-01-31 今日のうた29(1月)

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[今日のうた] 1月1日〜31日


(挿絵は、榎本其角1661〜1707、芭蕉の弟子で、都会的な洒脱で華やかな句を作る人、酒が大好きで、酒の句も多い)


・ 庭訓(ていきん)の往来誰(た)が文庫より今朝の春

 (芭蕉1678、「庭訓の往来」は寺子屋で用いる手紙の書き方の初等教科書、巻頭に年賀状の模範例が、「文庫」は手箱、「さあ子どもたち、書こうね、新春が君たちの手箱から飛び出してくるよね、誰がまっ先に手箱を開けるかな」、皆さま、あけましておめでとうございます) 1.1


・ それも応(おう)是もをうなり老の春

 (岩田涼菟、作者1659〜1717は蕉門の人、「去年までワシは、あれはダメこれもダメとうるさく言っていたぞょ、でも新年を迎えてめでたい正月じゃ、いいともいいとも、あれもイエスこれもオッケーと言おう、今年からは優しいお爺ちゃんになるぞょ」、これは42歳の作) 1.2


・ 又ことし娑婆塞(しゃばふさぎ)ぞよ艸(くさ)の家

 (一茶1806、「遊民遊民と賢き人に叱られても、今更せんすべなく」と前書、一茶は44歳、独身で定職無し、「今年もまた貧しい草庵で正月を迎えたよ、でも、自分はまだ「娑婆塞ぎ」(=穀つぶし)なんだよなぁ」) 1.3


・ 大酒に起きてものうき袷(あはせ)かな

 (榎本其角、「うぃー、おそようございます、二日酔いだん、正月はつい飲み過ぎちゃう、和服着たけど気分わるくって動けないよん」、作者は芭蕉の弟子、酔吟の句も多い) 1.4


・ 精神科年賀云ふもの云はぬもの

 (平畑静塔1978、作者1905〜97は精神科医、精神病院も正月はめでたい、でも「新年おめでとうございます」と言う患者がいれば、けっして言わない患者もいる、作者の悲しみと気遣い) 1.5


・ 雲だにもしるくし立たば慰めて見つつも居らむ直(ただ)に逢ふまでに

 (よみ人しらず『万葉集』第11巻、雲は人の魂を連想させた、「貴方は来ないのね、せめて雲が立つならば、貴方が来るまでその雲を貴方だと思って眺めていられるのに、雲も立たない、ああ、貴方に会えないんだわ」) 1.6


・ はかなくて夢にも人を見つる夜は朝(あした)の床(とこ)ぞ起き憂かりける

 (素性法師『古今集』巻12、「夢の中で、ほんのわずかだけ貴女をちらっと見かけました、翌朝目が覚めても、言葉さえかけられなかったことが悲しくて、つらくて、なかなか起き上がれません」) 1.7


・ 思ひわび見し面影はさておきて恋せざりけむをりぞ恋しき

 (藤原俊成『新古今』巻15、「私は今、貴女に恋する苦しさに呻吟しています、貴女に会ったときの面影を思い出しては、いくらかは癒されるのですが、それでも、貴女を知らなければよかったと思うほど苦しんでいます」) 1.8


・ おのが息おのれに聞こえ冬山椒

 (森澄雄、冬山椒の樹は、山椒と違って冬でも緑色の小さな葉が残っている、「冬の朝、自分の吐く白い息の音まで聞こえるように寒い、冬山椒の小さな葉の緑色が、ひときわ目にしみる」)1.9


・ 懐手空青ければ解きけり

 (斉藤昌哉「朝日俳壇」1989、加藤楸邨選、「空が青いなあ、何だかうれしくて、思わずふところに組んでいた手をほどいてしまったよ」、青空は冬が一番青い) 1.10


・ 寒月や穴の如くに黒き犬

 (川端茅舎1934、冬の夜の闇に「穴」のように見える黒犬、明るい月と対照的だ、作者は病のため画家を断念し、高濱虚子に師事、絵画的な句を詠んだ人、「・・のごとく」をよく句に用いた) 1.11


・ 檸檬抛(ほう)り上げれば寒の月となる

 (和田誠『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)、作者は、イラスト、似顔絵、装丁、映画、作曲などを行う多才な人、「冬の月には独特の美しさがあるな、まるでレモンを空にほうり投げたらそのまま止まっちゃったみたいな」、今日は満月) 1.12


・ 迷彩のブラジャー着けたきみといてなにがなにをなにで隠したいのか

 (柳本々々・男・32歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「面白いですね。「迷彩」=隠す、「ブラジャー」=隠す、なのに「迷彩のブラジャー」=よくわからない。そのわからなさを「なにがなにをなにで」と表現したところがいい」と穂村弘評) 1.13


・ ガンバレ(≧▽≦)と思う 下積みアイドルがAKBに「さん」付けしてて

 (新道拓明・男・24歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「「AKBさん」とは、一般人は決して云わない。下積みアイドルの夢が、その言葉を選ばせているんだ」と穂村弘評) 1.14


・ この製品に使われている魚介類は、えび・かにを食べています

 (がぶがぶ・女・30歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「“ビッグカツ”という駄菓子の袋の注意書きです。カツなのに原材料が魚介類。その魚介が何かは書いてないのに、エサだけは具体的。変です」と作者コメント) 1.15


・ 寒厳し薔薇とても刺(とげ)とぎすます

 (篠田悌二郎1965、栽培されているバラは、冬には葉を落とし刺だけになるものが多い、この冬も、「バラが刺をさらにとぎすます」ような、そんな寒い時期になった) 1.16


・ 中年や独語おどろく冬の坂

 (西東三鬼、「中年、老年になると独り言がふえるな、と他人を見て思っていたが、冬の坂をゆっくり下っているとき、ふと、ぶつぶつとつぶやいている自分に気づき、愕然とする」、「おどろく」が俳諧的味わいで、この句を詩にしている) 1.17


・ 古コート就職難に立ち向ふ

 (三村純也、「なかなか仕事が見つからないな、でも頑張らなくっちゃ、今日も古コートに身を包んで、さぁ、会社訪問に出かけるぞ」、学生ではないだろう、「立ち向ふ」がいい) 1.18


・ 告白はなべてかなしと吸われつつ冬のドブ河ひととき澄める

 (岸上大作『意志表示』1961、作者1939〜60は安保闘争を詠んだ歌で名高い人、21歳で失恋を理由に自死、これはその恋だろうか、彼女に告白した直後か、吸い寄せられるように眺めた冬のドブ河が澄んでいるように感じられた、身を乗り出すようにドブ河を見詰める作者、身投げはしないまでも) 1.19


・ 凶器とはついにならざりし小詩型わが悔しみを吸いゆくばかり

 (道浦母都子『水憂』1986、60年代大学闘争から70年安保を戦った作者、短歌という小詩型も戦いの武器の一つとみなしていたのだろう、だがそれは「凶器にはならなかった」、歌は、敗北の悔しさを「吸いゆく」ものに) 1.20


・ ケータイの湖底に沈む「さやうなら」こだまのやうな別れの言葉

 (鈴木美江子、角川『短歌』2001、彼氏から直接にではなく、メールで、恋の終りを告げられたのだろう、まだスマホがない頃のケータイの暗い小さな画面、「湖底に沈む」ように「さやうなら」の文字が) 1.21


・ 冬すみれおのれの影のなつかしき

 (川崎展宏『夏』1990、冬すみれの小さな花をよく見ようと近づいたのだろう、そしたら、冬の弱々しい陽光に映る自分の影も近づくのが見える、花に話しかけているような自分) 1.22


・ 冬薔薇(そうび)色のあけぼの焼跡に

 (石田波郷、敗戦後二三年間の作者の句には「焼跡」がよく出てくる、「冬の明け方、東方の空と同じ色の小さなバラが、焼跡に咲いている」) 1.23


・ 水仙の香やこぼれても雪の上

 (加賀千代女、雪景色の中に咲いている水仙、花の中央にある副花冠の黄色が、雪の白さに映えて美しい、「雪の上にこぼれる」ようにかすかな香りも) 1.24


・ 色白し足が長しと言ひながらわれの羞恥をやすやす奪ふ

 (ぬきわれいこ『翳』2007、作者は短歌誌『レーベ』を主宰、若い人ではない、夏にTシャツと短パンか何かの恰好でいるのだろうか、「やすやす奪ふ」とは? よく分からないけれど、何だか面白い歌) 1.25


・ 少年の表情残すアイドルに惹かれゆくほど寂しきかわれは

 (伊藤千代子「短歌朝日」2002、作者はたぶん若くないのだろう、少年のようなアイドルに惹かれてしまう自分を「寂しい」と感じる、自分の歳に合った大人のアイドルには惹かれないのか) 1.26


・ なべて世の憂きが好きなの とり分けてをとこ心のにんぴにん風

 (池田はるみ『奇譚集』1991、「人非人」つまり、人情や恩義をわきまえない無頼漢みたいな男が好きだという作者、そこには人間の「つらさ」が表れていると感じるからか) 1.27


・ 婚姻をひそやかに終へ新月の魚類は空へのぼりゆくかな

 (永井陽子『なよたけ拾遺』1978、作者はずっと生きる寂しさを詠み続けた人、「満月ではなく新月の晩、月の見えない晩に、魚たちがひっそりと結婚し、空にのぼってゆく」、魚だけではなく人間の結婚も、本当は寂しいものなのか、今日は新月) 1.28


・ 雪となりて降り来るまことのうつしみよわがくちづけしきみはまぼろし

 (水原紫苑『くわんおん(観音)』1999、すでに他界した恋人を回想しているのか、その人の「現身(うつしみ)=この世に生きている身体」が雪となって空から降ってきた、雪なら触れられる、だが口づけすると消えてしまった、「まことの」が哀切) 1.29


・ しらくものひろがりてゆく冷えた窓おとこらはみな魔法を持たず

 (江戸雪『百合オイル』、大都会の高層ビルのオフィスだろうか、大きなガラス窓の外は夕方の白い雲が広がって美しい光景なのだが、オフィスに働く男性社員たちには疲れた感じが漂っている) 1.30


・ 粉雪にまみれし毛皮を喜びて蛮族のごとく帰りきたれり

 (井辻朱美1986、作者は二十代か、立派な毛皮のコートには粉雪がよく似合う、友人たちと一緒に「蛮族のごとく」華やぎながら帰宅するのは楽しい) 1.31

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2017-01-24 MET、サーリアホ『遥かなる愛』

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[オペラ]  カイヤ・サーリアホ『遥なる愛』  1月24日 MOVIXさいたま


(写真右は、吟遊詩人ジョフレを歌うエリック・オーウェンズと、トリポリの女伯爵クレマンスを歌うスザンナ・フィリップス、オーウェンズは昨年のR.シュトラウス『エレクトラ』でオレステスを歌った黒人歌手、「アンクル・トム」のような優しさが感じられてとてもいい、適役だ、写真下は舞台から)

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フィンランドの作曲家カイヤ・サーリアホ(1952〜)が2000年に作曲したオペラ『遥かなる愛』が、METヴューイングで上映された。実際の上演は、メトロポリタン歌劇場、2016年12月10日、ロベール・ルパージュ演出。昨秋に観たクリス・デフォート『眠れる美女』(2009)がすごく良かったので、直近の現代オペラも少しずつ観たい。来年2月には新国が細川俊夫『松風』(2011)を。サーリアホは、以前、NHK・FMの現代音楽番組で聴いたが、オペラは初めて。約130年の歴史のあるメトロポリタン歌劇場で、女性作曲家の作品が上演されるのは1903年以来2度目というから、女性の作曲家は少ないわけだ。今回は、指揮もスザンナ・マルッキで女性。


全体として、ドビッシーが作った『トリスタンとイゾルデ』といった感じだ。吟遊詩人ジョフレは、架空の理想の女性を恋する詩を作っていたところ、巡礼者から、その女性はトリポリの女伯爵クレアンスだと言われ、海を渡ってクレアンスに会い行く(写真↓)。だが、着いたとき彼は病いに倒れ、彼女も相思相愛になるのだが、顔を寄せて唇を軽く触れ合っただけで、ジョフレは死ぬ。登場人物は、この二人と巡礼者の三人だけ。あと、海の精たちの合唱が加わる。クレアンスは女伯爵ということになっているが、どこか人魚のような感じがあり(↓)、その美しさによって死神を引き寄せる存在なのだろう。

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演劇的な要素はなく、人物の動きもほとんどない。どこまでも物静かで、静謐な『トリスタンとイゾルデ』といった趣だ。だが、繊細で色彩感がある音の響きがとても美しい。LEDの光の点滅で海を表現しているが、光の点滅の線的な動きだけで、寄せる波など海の多様な表情が表現されるだけでなく、目の錯覚で、小舟も動いているように見える。簡素だけれどハイテクの使い方が素晴らしい。舞台には、「物」はほとんど存在せず、光と音だけがある。


下記に短い動画が。LED光の点滅の舞台が美しい。

http://met-live.blogspot.jp/2016/04/2016-17-03.html

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2017-01-05 科学博物館『ラスコー展』

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[展覧会] ラスコー展  上野・国立科学博物館


(写真右は、骨から復元したクロマニョン人の身体模型、2万年前くらいだから、現代人とほとんど変わらない、下は壁画の動物)

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とりわけ面白かったのは、有名な「井戸状の空間」だ↓。鳥の頭をした男性が倒れており、その下には鳥の彫刻がある槍のような道具が立てられている。男性を倒したと見られる右側のバイソンは、槍が突き刺さって、はらわたがはみ出している。男性の左側には、尻尾を上げているサイが描かれている。相当に複雑な「物語」がこの絵に描かれているわけで、クロマ二ョン人は高度な言語能力をもっていたはずである。

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絵ではないが、石器と石製のランプにも感銘を受けた↓。ハイデルベルク人(60〜30万年前)や、ネアンデルタール人(30〜4万年前)の石器が大きくて粗いのに対して、クロマニョン人の石器(写真は2万5000年〜2万年前)はずっと小さくて、洗練された美しい形をしている。まったく文化が違うという感じだ。また、ラスコー遺跡の「井戸状の空間」にあったランプは赤色砂岩製で、この中で獣油を燃やした。この「井戸状の空間」は特別な祭祀的な意味を持つ空間だった可能性もある。このランプはレプリカではなく実物なので、ガラス箱に顔をすりつけるようにして見入ってしまった。この博物館にデカルトの頭蓋骨が来たときもそうだったが、実物は本当に感動的だ。思わず自分の手で触れてみたくなる。ネアンデルタール人関係の展示が石器以外ほとんどなかったのは残念。S.ミズン『歌うネアンデルタール』を読んで以来、強い関心を持っているのだが、我々のDNAの1.5%がネアンデルタール人由来のものという今回の展示の記事には安心した。戦いに強い現生人類が平和なネアンデルタール人を絶滅させたという単純な話でもないようだから。

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2016-12-31 今日のうた68(12月)

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[今日のうた] 12月1日〜31日


(写真は前田夕暮1883 〜1951、若山牧水や北原白秋と親しかった歌人、自然主義から出発したが、昭和初期には自由律短歌運動の先頭に立ったこともある)


・ 君ねむるあはれ女の魂のなげいだされしうつくしさかな

 (前田夕暮『収穫』1910、新婚の妻が眠っている姿をしみじみと眺める作者、肉体ではなく「魂の」とあえて言った、『失われた時を求めて』の主人公が、恋人アルベルチーヌの寝姿を嘗めるように眺め続けたのを思い出す) 12.1


・ 今日散れる葉にすら深き彩(いろどり)を賜(たま)えるものを天と思うも

 (田井安曇『右辺のマリア』1980、私の近所では、12月に入った今も落葉が続く、銀杏の遅い樹はまだまだ) 12.2


・ 近く居てともに会わざる左右の耳こもごも夜の枕に当てる

 (山下和夫『耳』1994、左耳と右耳は距離的には近いが、頭の反対側にあるので、決して「会う」ことがない、自分の枕が交互に触れ合っているから、間接的には触れ合っているのかもしれない、それぞれの耳を気遣うユーモアの歌) 12.3


・ しぐれつつ我を過ぎをりわれのこゑ

 (森澄雄1971、「初冬のある日、寒々とした時雨が降っている、その静かな音が「自分を通り過ぎてゆく」のが、「自分の声」のように感じられる」、このように自己は外界と融合している) 12.4


・ 少年に咬みあと残す枯野かな

 (櫂未知子『蒙古斑』2000、枯野で少年が犬と戯れているのだろう、走って戻ってきた犬が撫でる少年の手をちょっと強く甘噛みして、「あと」が残ったのか) 12.5


・ 立ちすくむほどのあをぞら冬鷗

 (正木ゆう子『水晶体』1986、「立ちすくむ」が素晴らしい、空の青さが一番感じられるのは冬である、真っ白な鷗もいて) 12.6


・ わが坐るベッドを撫づる長き指告げ給ふ勿(なか)れ過ぎにしことは

 (相良宏『相良宏歌集』1956、作者は結核の療養所で長く過ごし、30歳で亡くなった、これは療養所内での恋と思われる、寝ている作者の「ベッドを撫でてくれる長い指」の女性とは相思相愛だったのか、直接には体に触れられないのだろう、彼女は作者より2年早く逝去) 12.7


・ 祖国(くに)の上にいよいよ迫り来らむものわれは思ひていをし寝らえず

 (南原繁『形相』、1941年10月17日東条英機内閣成立の日の歌、その少し後に12月8日の真珠湾攻撃の日の歌が並ぶ、今日がその日) 12.8


・ 俯瞰(ふかん)する夜の地上にかがやきの聚落(じゅらく)も暗黒のなかのさびしさ

 (佐藤佐太郎1963、「聚落」とは村落の意だが、ここでは大都会だろう、飛行機から遠く見下ろす大都市の夜景、それは輝いているが、周囲の暗黒の中に孤立している) 12.9


・ 耕(たがや)さぬ罪もいくばく年の暮

 (一茶1805、一茶は43歳、定職もなく独身、自虐的な句だ、一茶が故郷の柏原で一定の遺産を相続して「本百姓」に登録されたのが1808年、ようやく1812年に50歳で柏原に帰郷し、2年後に28歳の妻きくを娶ることができた) 12.10


・ 居眠りて我にかくれん冬ごもり

 (蕪村1775、「ああ、いやなことがあったな、現実から逃避して出して自分に籠りたいよ、このまま炬燵で居眠りしようか、冬ごもりだよ」、「我にかくれん」がいい、誰しも引き籠りたい時がある) 12.11


・ 葱(ねぶか)白く洗ひあげたる寒さかな

 (芭蕉1691、「ネギを畑から取ってきた、泥を洗い落とすと、真っ白に輝いている、水も冷たいけれど、本当に寒い冬になったんだ」) 12.12


・ 道を云はず後を思はず名を問わずここに恋ひ恋ふ君と我(あ)と見る

 (与謝野晶子『みだれ髪』1901、「道徳なんか知らない、来世で罰せられたっていい、世間体なんて気にしない、今ここに存在するのは貴方と私だけ、大好き!」、22歳の晶子は出奔して妻のいる鉄幹と同棲) 12.13


・ このもだえ行きて夕(ゆふべ)のあら海のうしほに語りやがて帰らじ

 (山川登美子「白百合」1905、「鉄幹さんを愛するこの悶えを、夜の海に行って荒波に向かって叫びたい、そしてそのまま、もう帰ってきたくないわ」、鉄幹門下の登美子は恋のライバルの与謝野晶子に敗れた、30歳で没) 12.14


・ 花もちて鉄扉のかげに待つときの少女めきたるわれを自嘲す

 (中城ふみ子『乳房喪失』1954、作者の二十代が終る頃か、三人の子を連れて離婚した作者に、また好きな人ができた、その彼を詠った歌) 12.15


・ 正しく列をなすみな卒の墓なりけり

 (荻原井泉水1914、大正2年頃から、季語や定型にこだわらない自由律俳句が作られ始めた、河東碧悟桐とともに作者はその運動の担い手、この句は下級兵士の墓地を詠んでいるのだろう) 12.16


・ しんしんと肺碧(あお)きまで海の旅

 (篠原鳳作1934、作者1906〜36は、戦前の新興俳句運動の有力な一人で、無季俳句を作った人、宮古島の中学教諭だった、「肺が青くなるまで」と詠んだこの句は名句で、代表作の一つ、沖縄の海だろうか) 12.17


・ 寒雷や一匹の魚(うお)天を搏(う)ち

 (富澤赤黄男『天の狼』1941、作者1902〜62も新興俳句運動の有力な担い手の一人、この句も戦争期の緊迫が感じられる) 12.18


・ 忘らるる身はことわりと知りながら思ひあへぬは涙なりけり

 (清少納言、「心かはりたる男に言ひ使はしける」と詞書、「貴方の心が離れていったのは、私が悪いのよね、理由は分かっているの、でも貴方と相思相愛でいられないなんて、ああ、何て悲しい」、プライドの高い作者にしては珍しい歌、よほど好きだったのだろう) 12.19


・ 長からむ心もしらず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ

 (待賢門院堀川『千載集』恋三、「貴方と初めて過ごした一夜、「いつまでも愛してるよ」とおっしゃったけれど、本当かしら、これっきりじゃないのかしら、ああ、今朝になって、はげしく乱れた黒髪のように、いたたまれない気持になるわ」、百人一首にも) 12.20


・ 待つ宵(よひ)に更けゆく鐘の声聞けばあかぬ別れの鳥はものかは

 (小侍従『新古今』恋三、「貴方が来るのを今か今かと待っているうちに、夜が更けて初夜の鐘も中夜の鐘も鳴った、ああ、鐘の音がたまらない、これに比べれば、飽きないのに別れがくる暁の鶏の声なんか、かわいいものよね」) 12.21


・ 大空に飛石の如冬の雲

 (高濱虚子、「どこまでも晴れ渡った冬の青空、雲はないなぁ、あっ、あそこに、ぽつっ、ぽつっと、飛び石のように小さな雲が」)  12.22


・ 木枯の大きな息とすれ違ふ

(石田郷子2004、冬も本格的になった、たった今「すれ違った」木枯、そういえば「大きな息」をしていたわ)  12.23


・ 屋台とは聖夜に背向け酔ふところ

 (佐野まもる『新歳時記・冬』河出文庫1989、「ああ、今夜はクリスマスの晩だ、俺は一緒に過ごす恋人も家族もいない、ま、屋台で一杯やるか、これが俺流のメリー・クリスマス」) 12.24


・ 夢はいつも何かしらピンボケで窓の外は蝙蝠傘(こうもり)があふれてた

 (もりまりこ『ゼロゼロゼロ』1999、「夢のzoo」と題された歌群の一つ、夢の中に、子供のときに両親と行った動物園が出て来たのだろう、コウモリが蝙蝠傘に見えたのか、それともその逆か) 12.25


・ 男がなぜティッシュを消費するのかを女になって初めて知った

 (白木蓮・女・35歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、題詠は「ティッシュ」、「ポイントは、「女になって」。一瞬「?」となるようなニュアンスの微妙さがいい」と、穂村弘評) 12.26


・ 「このほうが本気でやるでしょこいつらも」溶けるティッシュのてるてるぼうず

 (水町・女・31歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「遠足の日、てるてるぼうずを脅す妹の想い出です」と作者コメント、「上句では意味不明なシチュエーションが、下句できれいに説明される」と穂村弘コメント) 12.27


・ 霜おきてなほ頼みつる昆陽(こや)の蘆(あし)を雪こそ今朝は刈り果ててけれ

 (式子内親王『家集』、「昆陽」は地名を表わす歌枕だが「来や」の意、「枯れた蘆にうっすらと霜が降りていた頃は、きっと貴方が来るわとまだ希望を持っていたけれど、ああ、今朝は、雪が蘆をすっかり覆ってしまった、もう貴方は来ないのね」) 12.28


・ 年暮れてわが世ふけゆく風の音に心の中のすさまじきかな

 (紫式部『日記』、1008年12月29日、実家から宮中へ戻った作者は、初めて参内したのも同じ日だったと回想、「ああ、今年が暮れてゆく、一緒に私も老けていくのね、外は風が寒々と吹いている、私の心もすっかり冷えてしまったわ」) 12.29


・ 怖(おど)す也年暮るよとうしろから

 (炭太祇、作者1709〜71は蕪村とも交流のあった俳人、「おどすのかい、「今年はもう終るぞ!」って、後から押しつぶすように追い立てるんだな、ああ、つらいぜ」、年の暮れを「後から追い立てられる」という捉え方がユニーク) 12.30


・ 行く年や膝と膝とをつき合せ

 (夏目漱石1895、こたつだろうか、「膝と膝をつき合せ」ているのは誰だろう、漱石28歳の時の句、結婚は翌年だからまだ家族はいなかったはず、暖かさを感じさせる良い句だ) 12.31

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2016-12-16 篠山紀信ヌード写真展

charis2016-12-16

[美術館] 篠山紀信ヌード写真展「快楽の館」 品川・原美術館


原美術館で、篠山紀信ヌード写真展「快楽の館」を観た。すべて原美術館という「館」の一部になった身体の写真。光の当て方(方向、強さ、翳の濃淡、環境への身体の置き方など)が工夫されていて、光によって、女性の体がこんなにも違って見えるのに驚かされた。特に印象的だったのは、お尻の美しさ。影や翳りによって、お尻のふくらみ、曲線の流れ方、太ももとの連続/不連続、質感、豊穣さが、千変万化する。何て美しいのだろう!美術館の建物の質感の中に身体が置かれている。そして、石の前では身体はぬくもりを持つ(写真一番下↓)。建物や樹木の影が身体に映ることによって、影と翳りのでき方がスタジオ撮影とは違う。美術館は女性の客も多く、みなさん楽しそう。女性美を観るのは、女性にとっても「快楽」なのだ。一緒に写っている男性は、原美術館館長(笑)。1月9日まで。

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