コンヴィチュニー演出『サロメ』

charis2011-02-22

[オペラ] R.シュトラウスサロメ』 東京文化会館


(写真右は、舞台全景。地下の閉鎖された空間で、外に出られない。「最後の晩餐」を思わせる食卓光景。下は、踊るサロメヘロデ王。袋を被って左端に座っているのが預言者カナーン[=ヨハネ]。写真はすべて2009年オランダ公演、今回の東京公演も同内容。)

コンヴィチュニー演出の実演を見るのは、『皇帝ティト』(2005)『魔笛』(2006)に次いで三度目だが、やはり面白い演出だった。原作では、舞台の下の地下井戸に預言者カナーンだけが閉じ込められているのだが、今回は、ヨカナーンと一緒に、ヘロデ王、王妃、王女サロメ、宮廷幹部、軍人、ラビたちなども、すべて地下室に閉じ込められており、そこで退廃的な饗宴を供にしている。男と男が愛し合い、死んだと思われたサロメが皆に食べられるカニバリズムの倒錯シーンもある。誰も外には出られないという設定で、皆がほとんど狂気に陥っているのだ。我々を取り巻く時代そのものの“閉塞感”が暗示されている。ヨカナーンだけ袋をかぶっているのは、一応、彼だけはその退嬰的な饗宴が意に沿わないのだろう。だが、それだって怪しいものだ。というより、ヨカナーンそのものが、そもそも胡散臭い存在だ。


サロメが服を脱いでゆくストリップショーまがいの有名な「サロメの踊り」シーンも全然違って、彼女は服を脱がない。外に出ようと全員がもがき苦しみ、扉の絵を壁に描くのだが、絵に描いた餅ならぬ扉は開かない↓。終幕もまったく違って、サロメは殺されない。「この女を殺せ!」というヘロデ王の命令は、舞台上の王ではなく、観客席に座っていた客の男性(=サクラ)によって叫ばれる。このパロディはとてもうまい。首を刎ねられたはずのヨカナーンは死んでおらず、サロメと結ばれて逃亡し、二人は手を取り合って舞台脇へ走り去る。小さな可愛い女の子も登場し、二人の間に子供が生まれることを暗示する。原作では、ヨカナーンの首をサロメが狂おしく股に挟んだりして、倒錯がおぞましいのだが、今回は、首をサロメが直視して歌う「なぜ、貴方は私を見詰めなかったの?」が強調される。ワイルドの原作でも、首を欲しがること自体が、サロメのヨカナーンへの愛を象徴していた。今回の演出では、その愛が救いへと変容し、娘サロメが若い男性ヨカナーンとともに、監禁から脱走し解放されるという純愛の物語になった。シュトラウスの初演が2005年だから、100年後の今日、世紀末風景もまた違った希求に彩られるべきだというメッセージなのだろう。宮本亜門演出の『ドン・ジョバンニ』が、9.11の瓦礫の山の上で、愛による救済を暗示していたことを思い出した。ただし、コンヴィチュニーもやや老いたので、尖がったものよりは癒しに傾きつつあるのかもしれない。写真は、終幕のサロメとヨカナーン。退嬰の饗宴の部屋は、奥に後退している。↓

二期会公演だが、音楽については、オケの音がやや薄かったように思われる。