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charisの美学日誌

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   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
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2014-08-07 映画『大いなる沈黙へ』

charis2014-08-07

[映画] 『大いなる沈黙へ(原題 Die Grosse Stille)』 8月7日 岩波ホール


(写真右は、グランド・シャルトルーズ修道院、フランスのスイス国境に近い山中にある、写真下は院内の光景、修道士たちは会話を禁じられており、週一回の昼食後だけ右側のように会話を楽しむ)

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大変に貴重な映画だ。カトリックのカルトジオ修道会に属するグランド・シャルトルーズ修道院は、1000年以上にわたって古い戒律を守って存続している。訪問者を中に入れることはなく、ラジオもテレビもない。私物の所有はブリキ缶一つしか許されず、神に祈ること以外は何もしないで、50年くらいを生きて死んでゆく修道士たち。この映画も監督一人が中に入ることを許され、6か月間修道士とともに生活しながら撮影した。約30人くらいの集団だろうか、質素で規則的な修道生活は、現代人の生活とはきわめて異質なものだ。


この修道院では、ミサや聖歌などで一日に三回礼拝堂に集まる以外は、一人一人別の個室(独房)で生活している(写真下)。長期間、独房に籠る修行もある。食事は廊下側に付いた小さな扉から差し入れられ、人と会うことはない(各室に配っているのが下記写真)。独房には礼拝台があり、そこで一人、祈りと瞑想に打ち込む。一日の課題のスケジュールがびっしり決まっており、個人的に好きなことに使える時間は非常に少ない。

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以前、永平寺における禅僧の修行生活の記録を読んだことがあるが、良く似ている。禅僧の修行の場合、機械的な動作や所作の部分を限りなく増やすことによって、「どうしようか?」「どう行動しようか?」ということを考えることができないような状態を、あえて作り出す。座禅やそれ以外の日常生活の規則づくめの所作は、目的論的・志向的な連関に満ちている我々の通常の生活の構造を停止させ、「何もしない」「何も考えない」ことによって、嫌でも自分と、そして生の自然と向き合わざるをえないようにさせる。それによって、人間の生活の都合によって分節化していた外界が、違った相貌を見せるようになる。


シャルトルーズ修道院の生活は、永平寺ほどではないが、ほぼ同じことを指向しているように見える。祈りや瞑想の姿勢が各人まちまちで、とても自由であるところは、座禅とは大いに違って印象的だった。重要なことは、修道士同士が会話をしてはいけないという規則である。日曜日の昼食後の散歩の時間帯のみ、会話が許されている。このとき修道士たちは、実に楽しそうに、しかし静かに語り合っている。何か連絡したいことがある場合は、控えの間にある投書箱にメモを入れ、それを読むことによって意思疎通を図っている。礼拝堂でのミサや祈りの他に、一日に7回の独房での祈りが決められており、それ以外は、洗濯、皿洗い、庭仕事など各人に決められた仕事がたくさんあるので、一日のほとんどが規則的な所作の繰り返しである。睡眠も夜8時〜12時と、午前3時〜6時の二回に分けられており、その中間の午前0時〜3時は、凍えるように寒い礼拝堂での祈りに当てられる。このように繰り返しの反復が生活の基調になると、時間の経過が我々の実生活とはかなり違ったものになる。同じ独房、同じ礼拝堂における、同じ所作は、そこにつねに「現在」しか存在しない。つねに「現在」を生きる者は、「これからのこと」「未来のこと」にあれこれ悩まなくなる。


そして何より印象的なのは、修道生活がつねに「現在」であるとすれば、窓の外に広がる自然界の季節の移り行きのが、ものすごく新鮮に感じられることである。映画全体を通じて、音楽もなければ、ナレーションも、人物の語りもなく(最後の最後の修道僧の短いインタヴューを除けば)、それが3時間近く続く。しかし映像では、光と水の存在が、もうそれだけで際立って美しい。それは、そこに固有の時間があり、光と水の微妙な変化が読み取れるからだと思う。映画でもっとも感動したのは、修道士たちが雪の積もった裏山に昇り、そり遊びを楽しむシーンである。何というつつましい遊び、しかし何と楽しそうなことだろう!


とはいえ、この修道院生活には、無神論者の私には違和感を感じるところもある。まず、修道士たちは、ほとんど老人だということである。アフリカ系黒人を含む二人の若者が新たに入院してくるが、今後どうなるかは分からない。新規の入院者のうち8割は自分から辞めてゆき、残りの2割も、修道院側から「あなたはここに向かない」という理由で辞めさせられる者がかなりいるという。結局、ごく一部の者が残り、死までの時間を過ごす場所なのだ、ここは。これは人間が「生きるための場所」と言えるのだろうか。映画の最後の場面、ある老修道士は、「死は最高の喜びだ、死ぬことによって我々は神に近づくことができるからだ」と語る。永平寺のように、若者向きの1年コースの修行があり、その修了者が希望すれば、さらに長期の上級コースに進めるというのではない。私は、宗教者の修行はあってよいが、最終的には現世に戻り(あるいは交互に両方を繰り返すのでもよい)、現世での生活もし、現世で死んでゆくのが人間の健全な姿だと思うので、死への片道切符としての修道院にはやはり違和感が残る。


下記の公式HPの予告編に3分間の映像があります。

http://www.ooinaru-chinmoku.jp/

EnoEno 2014/08/11 13:06 私もこの映画を観ました。修道院での生活は忙しいんだなと思いました。なるほど、こういう意味があったんですね。よくわかりました。永平寺との比較も興味深く読ませていただきました。
あの沈黙の生活は、ベルナノスの「カメル派修道女の対話」の饒舌とは対照的ですね。同じ修道院でも違うものだなと思いました。

charischaris 2014/08/11 16:42 Enoさん、こんにちは。瞑想というのは、おそらく、座禅とよく似ていて、何もしない、何も考えない状態に人を置くのだと思いますが、これは意外に難しく、習練が必要ななのですね。たしかに、カルメル会修道院の場合、フランス革命による外部からの圧迫に対応するのに必死だったから、瞑想の余裕はなかったでしょうね。

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