J.ハリソン『プライムたちの夜』

charis2017-11-07

[演劇] ジョーダン・ハリソン『プライムたちの夜』 新国・小劇場 11月7日


(写真右は、主演の浅丘ルリ子(77歳)、気が強くプライドの高い老母をうまく演じている、下は舞台)


いい劇だった。「人工知能は人を幸福にするか?」というのは、表層的な主題であって、これは家族愛の物語である。愛だけが人間を人間たらしめると訴えている点が、チャペック『ロボット』(1920)と似ている。母も娘も死んでアンドロイド(ロボット)になるというのが、本作の独創的なところで、最後に、人間たちがみな死んで、残された三人のアンドロイドたちが交わす終幕の会話はとても感動的だ。あまり母に愛されなかったと感じている50代の娘は、母(85歳)がボケてきたので、夫の勧めに従って、すでに亡き父の若い時の姿をしたアンドロイドを購入して、介護に当たらせる。だが、ボケた母が、自分よりもアンドロイドを気にいっているように感じて、激しく苦悩する。(写真下↓)

そして、母が死ぬと、苦しんだ娘は、老母と同じ姿のアンドロイドを購入するが、生前の老母と亡き老父の若いアンドロイドとの関係が、比較的うまくいったのに対して、娘と老母アンドロイドとの関係は、うまくいかない。老母には、幼少で死んだデミアンという息子がいるのだが、それが深いトラウマになり、デミアンのことは一切語らずに忘れてしまったかのようである。そして、たぶんそれが娘と母の葛藤の深い理由でもあり、娘とその三人の子供たち(舞台には登場しない)との関係もうまくいかない理由かもしれない。そして、老母の死んだ2年後に苦しんでいた娘も自殺する。そして、一人残された娘の夫は、死んだ娘とそっくりなアンドロイドを購入するが、二人の関係は、それ以前のアンドロイド二人との関係以上に険悪になる。そして最後、どういうわけか夫がいなくなり、亡父の若いアンドロイド、老母のアンドロイド、娘のアンドロイドの三人が再会して、一夜を同窓会のように楽しく語り明かす(=「プライムたちの夜」)。人間を相手にしているときは、介護の役柄上「ほほえんでいた」アンドロイドたちだが、今は、アンドロイドだけになると、心から楽しいらしく、ずっとニコニコしている。そして、老母のアンドロイドが、長らく忘れていたデミアンのことを思い出して口にする。母と娘のそれぞれに、人間である間は失われていた愛の感情が、新たに生れたのだ。ただし、今度はアンドロイドという形態で。老母が言う、「なんて素敵なの、誰かを愛せたってことは」、これで終幕。(写真↓、右はアンドロイドになった母、しゃんとしている、左はまだ人間の娘[香寿たつき])

チャペックの『ロボット』は、人間が滅び、残されたロボットも設計図と部品が失われて滅亡の危機にさらされたが、若い二人の男女のロボットの間に愛の感情が生まれる。そう、二人のロボットが人間になるという奇蹟が起こったのだ。『プライムたちの夜』もこれと同じなのかどうかは分からない。だが、人間は死んでいなくなってもかまわない、残されたアンドロイドに愛が生まれたのだから、という点は共通する。そして、これこそが、人間のありうべき唯一の「救済」なのかもしれない。本作で面白かったのは、購入したアンドロイドに対して、まず購入者が、故人の情報を最初にいろいろ与え、残りは、購入者とアンドロイドとの会話を通じてアンドロイドがそれを知ってゆくことである(=ディープラーニング)。だが、購入者が与える故人の情報は、過去の故人の言動という「現実」だけであり、故人が心に抱いたであろう感情や願望、想像などは与えることができない。つまり、故人の内面は情報としてアンドロイドに与えられない。そのことが、アンドロイドが故人になりきれず、あくまで他者のままである理由ではないかと思われた。(写真↓は終幕、右の、アンドロイドになった娘は満面の笑顔、左は、父の若いときのアンドロイド)

動画がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=Ld84y89LRiY