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charisの美学日誌

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   こんにちは、charisです。本業は哲学屋。charisとはギリシア神話の優美の女神。私の座右の銘は、「ミューズよ、戦さ(いくさ)を退け、友なる我らと踊れよかし!」(アリストファネス『平和』)。 日誌の全タイトル一覧はここ。私の研究室HPはここ。私のアマゾン・レヴュー集(HN「お気に召すまま」)はここ。ツイッターは Follow @charis1756
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2018-04-29 劇団・円 『十二夜』

charis2018-04-29

[演劇] 演劇集団・円 『十二夜』     両国・シアターχ   4月29日


(写真右は、オリヴィア(石黒光)とヴァイオラ(石原由宇)、若い男優だがDステ版のような美少年というわけではない、下は舞台、右上の机一つを除いて舞台装置は皆無だが、服装はシェイクスピア時代風で、地味だが味わいがある)

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演劇集団・円の『十二夜』を観た。円が『十二夜』をやるのは、座付演出家だった安西徹雄以来26年ぶりという。安西の没後10年になるが、今回、円の無名の演出家渡邉さつき演出で、安西訳、オールメールで行われた。非常によい舞台だった。シェイクスピアの初演時は女優が禁じられていたから、やむをえずオールメールだったが、最近の日本でも、蜷川演出版や2013年のDステ版など、オールメールも行われるようになった。ヴァイオラやオリヴィアを、時代を代表する美人女優が演じてきた20世紀の『十二夜』と比べて、オールメールだと何が違うのか、それが明確に見えるのが今回の舞台だった。その意味で、日本の『十二夜』上演史に残る名演だと思う。(写真下は、左からフェビアン、マライア(石井英明)、サー・トービー(上杉陽一)、サー・アンドルー、もう一つ下の写真は、道化(玉置裕也)とマルヴォーリオ(瑞木健太郎))

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演出の渡邉さつきはプログラム・ノートでこう書いている。「男性キャストだけにしたことにより、お芝居としての現実味が少し薄れるかもしれませんが、男性が女性を演じることによって「素(性)の生々しさを超えた役」として台詞もシンプルに受け止めることができる」。なるほど、「お芝居としての現実味が少し薄れる」とは、ヴァイオラやオリヴィアが美女ではなく、またDステのような美少年でもなく、普通の男優であることによって、「一目惚れ」(シェイクスピアはすべて一目惚れから恋が始まる)にリアリティがなくなる、ということだろう。その通りである。だが今回のオールメールで、それ以上に思ったのは、『十二夜』の主人公は必ずしもヴァイオラやオリヴィアだけではないということである。トレヴァー・ナンのあの傑作、映画版『十二夜』を見た人は誰でも、『十二夜』は、このうえなく美しく切ないロマンティック・コメディーだと思うだろう。だが17世紀初頭の『十二夜』の初演時は違った。この劇の主人公はマルヴォーリオで、この劇は彼の名を冠したタイトル・ロールで呼ばれたこともあるという。今回、初めて『十二夜』を見た人は、マルヴォーリオの面白さ、可笑しさ、愛おしさに感嘆したのではないだろうか。私がこれまで見たマルヴォーリオの中でも、今回が最も素晴らしかった。そして、マライアやサー・トービーも、とても生き生きしており、こんな楽しそうな二人も珍しい。彼らは脇役なのだろうか? ある意味ではそうだが、しかし『十二夜』は主役がたくさんいるといってもよいだろう。オリヴィアも、マルヴォーリオと同じく「mad=狂気」を共有する、ちょっと変な人なのだ。ヴァイオラはどうか? 彼女だけは、美しく、完璧な女性であるように思われるが、しかし冒頭を考えてみると、船が難破して異国イリリアに流れ着いたのに、帰国を考えるでもなく、イリリアのオーシーノ公爵が独身であると聞いて欣喜雀躍し、「彼の妻になりたい!」と舞い上がるヴァイオラは、ちょっと変な女の子でもある。そう、『十二夜』の人たちは、みな、どこかちょっと変な人たちで、彼らの愛おしさこそが『十二夜』の最大の魅力である。オールメールにすることによって、主人公ヴァイオラやオリヴィアが相対化され、ロマンティック・コメディーの側面は少し削がれるが、ある意味でチェホフ的な愛おしい喜劇になるのだと思う。道化も伴奏なしで素朴に歌うのがよかった。ピーター・ブルックのような「何もない空間」が美しい。写真下↓。

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練習風景ですが、動画が↓。

https://www.youtube.com/watch?v=dDavmk_YNtw

∴ん窯の五郎∴ん窯の五郎 2018/04/30 13:14 いい舞台だったようですね 羨ましい限りです
男優だけの舞台ということで「現実味が薄れる」ことは確かですが、それによって別種な現実味を手に入れているのが『十二夜』の最大の魅力ではないかと思っています
『十二夜』は『ハムレット』とほぼ同時期に書かれています ちょっとベートーヴェンの交響曲5番と6番が同時期に書かれているのと似ている点があります 両者は印象としてはまったく別物ですが、共通する芯を持っています 『ハムレット』は独白傍白という劇場的約束という非リアルな手法を用いて内面というリアルな局面をあぶり出しています 同時代のベン・ジョンソンやマーロウの生硬な台詞と比べると内面性の大きな違いに気づくと思います 『十二夜』では変装というやはり劇場ならではの非リアルなからくりを最大限に利用して恋心のリアリティを表出させています 『十二夜』は女優が演じると恋のリアリティは増しても、恋心という内面のリアリティは薄くなりがちですが、男優だけの舞台だと(ちょうどそれがシェイクスピア時代と同じ設定という強みもあって)シェイクスピアが狙った劇場性を獲得すると思います マルヴォリオはその劇場性を破壊する立場にあります charisさんの意見とは正反対になりますが、やはり主人公はヴァイオラしかないというのが私の考えです ただ、この舞台を観ていないので、今回それが当てはまるかどうかは不明ですが… 
『十二夜』でシェイクスピアは変装(変身)を通じてこの世には、自分=自分という固い自己同一性に守られた近代的(現代的)自己意識をもった人間はおらず、そこに生きているのは私であって私以外の何者かでもあるという両義的存在(現実であり、かつ、メタファーである存在)しかないのだという主張をしているように思います
久しぶりの文章を書いたので意を尽くしませんが、長々と失礼しました

charischaris 2018/04/30 13:54 戸所先生、コメントありがとうございます。そういえば、先生も安西門下のシェイクスピア学者でしたね。「円」では、安西演出以来26年ぶりの『十二夜』だそうですが、今回の舞台は、どの登場人物にもひとしく「愛おしさ」を感じさせるものでした。こういう『十二夜』は初めてです。もちろん、おしゃるように主人公はヴァイオラであることは間違いありません。ただ、ロマンティック・コメディの主筋と、どたばた喜劇の副筋をうまく調和的に両立させるのは、とても難しいのですね。というのも、我々が心を動かされる、その動かされ方が両者では違うからです。トレヴァー・ナンの映画版は、例外的な成功かもしれません。たしかに、男優だけにすることによって「別種の現実味を手に入れる」というのが、『十二夜』の魅力ですね。また「固い自己同一性に守られた近代的(現代的)自己意識をもった人間とは違う」のは、重要なご指摘だと思います。ロザリンドにしてもヴァイオラにしても、「愛の主体」としての自己同一性の在り方が、たとえば『新エロイーズ』のジュリや、『ジェイン・エア』のジェインなどとはどこか違っている感じがします。

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