METライブ 『コジ・ファン・トゥッテ』

charis2018-05-06

[オペラ] モーツァルトコジ・ファン・トゥッテ』  METライブ/Movixさいたま


(写真右は、左から、女中デスピーナ、姉フィオルディリージ、妹ドラベッラ、下は舞台、1950年代のアメリカの遊園地、巨大だがチープな感じで、大道芸人がたくさん活躍するのがいい)


コジ・ファン・トゥッテ』(=女はみんなこういうことをする)は、スワッピックが主題でもあり、道徳的・倫理的に問題だとして19世紀にはあまり上演されなかった。劇評を引用すると、「・・すべての女性を侮辱しており、女性の観客には決して気に入られず、したがって成功しないというみじめな作品」(1791年、F.L.シュレーダー)、「《ドン・ジョバンニ》や《コジ》のようなオペラは私には作曲できない。こうしたものには嫌悪感を感じる。このような題材を私が選ぶことはありえない。軽薄すぎる」(1825年、べートーヴェンの手紙)。ワーグナーも、「音楽はいいが、劇の内容が悪い」という主旨を述べている。現代では、人気演目でたくさん上演されるが、しかし、モーツァルト自身のミソジニー、女性蔑視が表れている、という批判は依然として絶えない。現にこの上演の幕間インタビューでは、この質問をされた男性歌手は答えにくそうにしていた。(写真下の壁の左側は、アルバニア人に扮して姉妹を誘惑する男二人、そしてそれをけしかけるデスピーナと哲学者アルフォンソ)

しかし、今回の大遊園地版の《コジ》は、こうした倫理的・道徳的な非難をぶっ飛ばそうという演出の主旨なのだと思う。要するに、スワッピングも、恋人たちの貞節を試す賭けも、「すべては遊びなんだから、それでいいじゃん!」という話なのだ。女性の浮気だけが非難されるわけではない。浮気をけしかけるデスピーナは、「男はみんなこういうことをする」と歌う。「みんなこういうことをする」のは、「女の浮気」だけではないのだ。戦地に行った男はみな、現地の女と遊ぶ。そういうもんよ、だから、その間、女が別の男と遊んだって、何が悪いのさ。デスピーナこそ、この作品の主人公であり、真のヒロインである。つまり、浮気をするのは男女対等であって、タイトルは本当は、『女も男もみんなこういうことをする』なのだ。大遊園地で大道芸人たちと楽しく踊り狂う四人の恋人たちと、デスピーナ、そしてアルフォンソ。恋愛も結婚も、その本質は遊びなのだ。もちろん浮気もあるさ、それでいいじゃん、とモーツァルト自身が考えていたのだと思う。デスピーナは、歌もいいし、本当に素晴らしい。医者に化けたり、公証人に化けたり、彼女は人を騙すことを楽しんでいる。恋愛も結婚も、結局は、男と女が互いに騙し合ってゲームする遊びなのだ。(写真下は、中央の白髪が、医者に化けたデスピーナ、後の金属の球は、メスメルの怪しげな治療機械、その下は、中央の緑色の服、カウボーイハットがデスピーナ)


とはいえ、最後の最後、二人のアルバニア人は婚約者の男が化けていたことがばれる場面は、四人の恋人たちが非常にバツの悪い思いをするので、ギクシャクしていることも事実である。『フィガロの結婚』のようなハッピーエンドにはならず、四人はアルフォンソに促されて、無理に作り笑いをして終わる。しかし、最後に男の変装がバレるのではなく、偽のアルバニア人とスワッピング関係のまま、真相は何も知らずにそのまま結婚してしまう、という筋は不可能なのだろうか? 実際、結婚証明書に姉妹が署名して、結婚しそうになるとき、二人の姉妹はとても幸福そうで、音楽も盛り上がっているのだから。もともと荒唐無稽な筋なのだから、最後も荒唐無稽なひねりで終わらせることも可能ではないか、などと考えてしまった。二人の姉妹のうち、すぐ浮気してしまう妹のドラベッラとは違って、姉のフィオルディリージは真面目なので悩む。その彼女だけは、遊園地の白鳥で遊ぶのではなく、気球で一人舞い上がり孤独に悩む、という演出は上手い。(写真下、その下は、グリエルモに口説かれるドラベッラ)。 演出はフェリム・マクダーモット。


下記に動画があります。
https://youtu.be/05iGnhnYye4?t=6
https://youtu.be/VM-WrHvoDrA?t=1