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2008-09-02

熊野大学レポート2008

at Kazuyaserizawa.com

以前に予告(http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20080510/p1)していましたが、熊野大学に行ってきました。そのレポートを「αシノドス」vol.10に書いたので、こちらにも転載します。


熊野大学(http://www.kumanodaigaku.net/index.html)とは、作家中上健次(1946-1992)が、出身地の和歌山県新宮市1990年創設した文化組織大学といっても、校舎を構えた通常の大学ではなく、「だれでもいつでも入学でき、卒業は死ぬとき」。中上の早すぎた死後も志は受け継がれ、毎年、命日(8月12日)の前後に、中上健次とその作品を中心に語りあう合宿型のセミナーが開かれている。初期の記録は『中上健次熊野』(大田出版)に収められた。2008年の今年は、中上の十七回忌にあたり、定員の60名を大幅に越える参加者が集う盛況となっていた。成員は、老若男女様々で、私が事前に想像していたよりもずっと若い人・女性が多かった。


以下は、初めて熊野大学に参加した、一受講者としての体験レポートです(主催者には許可を得ています)。後日、別の活字媒体で正式に特集もされるようですから、関心をもたれた方はぜひそちらもご覧ください。なお、敬称は略させていただきました。


2008年8月8日(金)


岡山から新大阪まで新幹線に乗り、そこから新宮行きの「オーシャンアロー」に乗り継ぐ。西海岸沿いを走り、窓外は絶景。紀伊半島南端から太平洋を見晴るかすと、ああ、「地の果て」、南国紀州に来たのだという実感が湧いてくる。冷房の効いた車内から抱いていた微温的感慨は、真昼炎天下の新宮駅に降りたつと、いっそう過熱する。暑い。すぐに汗が吹き出す。駅のコンビニで涼もうかと思って探してみるが、そんなものはない!


新宮駅で受付をすませると参加者全員で、中上健次の墓のある南谷墓地に詣でた。近くに、大逆事件の大石誠之助の墓や、高木顕明の顕彰碑もある。紀和鏡中上紀といった中上家の方々、講師の高澤秀次東浩紀の墓参する姿も見えた。


バスで20分ほど熊野川から支流の高田川へと遡り、山間の会場、高田グリーンランドに移動。相部屋の方に、過去熊野大学の話をうかがう。10年以上前から参加されている方もおられる。いろいろな企画の中でも、青山真治監督の『路地へ 中上健次の残したフィルム』上映会が深く印象に残っているとのこと。


19時すぎから、渡部直己高澤秀次を講師とした最初の講義中上健次上田秋成」。それに先立って、熊野大学の発行している雑誌『牛王』5号と角川春樹主宰の俳句雑誌『河』中上健次特集号が参加者全員に配布された。どちらも充実した内容。また近く『ユリイカ』でも中上特集が組まれるようで、いまでもその存在感は大きい。


講義の指定テキストは『春雨物語』から「樊噲」。渡部の話に、高澤が合いの手を入れるという形で進行する。中上健次にとって、上田秋成が特別な作家であることは、中上読者にはよく知られた事実。例えば、『熊野集』のような作品には、直接的な言及もあり、色濃い影響がみられる。中上は今回の指定テキスト「樊噲」を、悪漢小説の傑作として高く評価していた。そこで改めてこの作品を読んでみると、次から次へと痛快な悪事を繰り返しながら変化していく無頼の主人公は、中上の生み出した最も重要キャラクター「秋幸」に通じるものがあるのではないか。無頼派作家、などと言って様々に性格の異なる作家が一くくりにされ、時に中上もその系譜に連ねられることがあるけれども、他人を頼りにしないのみならず、自分をも頼みにしない、そういう真の無頼を描けた作家は、坂口安吾中上健次くらいのもので、太宰治檀一雄、まして現代の車谷長吉みたいなのは論外、まあ石川淳は悪くないから、石川訳の上田秋成を読んでみるのも良いだろう、しかし「樊噲」は原文でもけっこう読みやすいから、配布した資料もご覧いただきたい。生成変化する秋幸論については、渡部の『中上健次論 愛しさについて』に詳しい。さらに、上田秋成樋口一葉への言及から講師の渡部は言文一致に関する自身の見解を展開するのだが、これは現在執筆中という論考に収められることになるだろう。講義の最後に、質疑応答の時間があり、明日のシンポジウムの講師・小林敏明から、「樊噲」の主人公は、秋幸というより父の龍造に近いのではないか、という意見も出された。


終了後入浴。雲取温泉露天風呂から見上げる星の光が濃い。浴場の前のテレビが目に入り、ああ、今日は北京オリンピック開会式だった、と気付く。その後は、いろいろな方と飲んだり話したり。東浩紀と話をする機会も得られた。地方在住者にとって、こういう場は実に有難いものだ。


2008年8月9日(土)


2日目は9時から、熊野大学の前身にあたる「隈ノ會」主催一般参加も可能なオープンイベントがはじまる。


まずは芥川賞作家モブ・ノリオによる「中上健次の言葉から考える」という講演。冒頭、現在絶版となっている名著『破壊せよ、とアイラーは言った』を復刊せよ、というアジテーションから入る。モブは作家デビュー以前、熊野大学一般参加していた。そのとき、初期の中上は大江の影響を受けていたんじゃないでしょうか、といったことを講師陣に質問し、それに応答した渡部直己柄谷行人の言葉を、「中上はフォークナーなのであって……」「いやいや渡部君、中上の初期は大江だったよ」などと声真似しつつ再現する。講演者として登場する今回、奇しくも午後のシンポジウムが「大江健三郎から中上健次へ」ということで、感慨をおぼえるとのこと。講演では、中上は「隠国(こもりく)紀州」という言葉を使うが、桜井出身の自分の感覚からすると、「こもりく」というのは、山に囲まれた、といった意味合いの「泊瀬」にかかる語で、それを一方が海に面している紀州の形容に使うのは、どういう感覚なのだろうか、何か出典があるのだろうか、といった議論を提示していたことが印象に残る。


続いて、新宮出身文芸春秋社の和賀正樹による講演「<闇の国家>・アウトサイダーを生む熊野風土」。熊野という場所は、中上健次に代表されるような、傑物を生む力がある。この講演は、東くめ、川上不白、玉置真吉、デューク更家西村伊作、田畑稔という、熊野の生んだ奇人変人列伝となった。その後、この和賀正樹に、熊野大学事務局長の森本祐司(ブログに当日の写真も出ています:http://blog.livedoor.jp/quanpo/archives/51188338.html)、佐藤春夫記念館館長の辻本雄一、それに先のモブ・ノリオも加わって、熊野論の座談会となる。講演で言及されていた田畑稔本人が客席から話に乱入し、大いに盛り上がる。最後は、熊野亭雲助による落語。最中に火災報知器の鳴るハプニングも笑いに変え、中上に直接披露したという落語も交えられた。


昼食休憩を挟み、13時30分から、メインのシンポジウム大江健三郎から中上健次へ」。壇に向かって左から順に、高澤秀次浅田彰柄谷行人小林敏明、東浩紀という、新旧豪華な講師陣が揃った。『批評空間』の読者なら、このメンバーの実現にある種の感慨をおぼえずにはいられないだろう。若くして『批評空間』から鮮烈なデビューを果たした東浩紀が、同誌との決別、紆余曲折を経て、9年ぶりに再会する。中上世界に引き付ければ、柄谷行人=龍造、浅田彰=フサ、東浩紀=秋幸、高澤秀次=モン、小林敏明=ヨシ兄……といった構図になるだろうか?4時間におよぶシンポジウムだったので、詳細は掲載に名乗り出ている別雑誌にまかせるとして、ここでは私が関心をもった論点をいくつかあげておくことにする。ただ発言は正確な再現ではないので、この点あらためてことわっておきます。


まずは小林敏明による基調講演「<かたり>あるいは反共同体的共同体の声 ──中上健次大江健三郎」が発表される。キーワードをいくつか取り出すと、中心と周縁、大逆事件の影、エディプス・コンプレックス、母系制、パロールとエクリチュール、騙りとしての語り、サーガ私小説……こういった観点から大江と中上を比較検討するというもの。ただ、この手の議論はもうさんざんやりつくされたのではないか、というかなりきついツッコミが後で浅田彰から入った。……中上・大江論入門として、丹念に整理されたものではあったが、私にも正直新鮮味は感じられなかった。


そこで東浩紀は、現代的には、一般に失敗作とされている晩年の『異族』に可能性があるのではないか、と提案する。中上の想像力の源泉「路地」が解体され、フラットになった世界を舞台に、路地出身の空手家タツヤ、アイヌのウタリ、在日韓国人のシム、満州国再建をもくろむ右翼槇野原、といった具合に記号的なキャラクターが、天皇主義やら共産ゲリラに加担したりして、次々と荒唐無稽で偶発的な出来事に遭遇していく。あの『枯木灘』や『千年の愉楽』の作家がなぜこんなものを……といった風に、それを単に作家の衰弱としてとらえるのではなく、90年代以降の、エンターテインメント小説も含んだ小説全般の動向を先取りしていた、そう捉えることができるのではないか。自然主義リアリズム小説にあった、キャラクター・描写・物語における厚みや固有性の喪失、そういった動向のこと。実際、ミステリライトノベルケータイ小説のようなジャンルにおいても、純文学と平行的な現象を指摘しうる。これを受けて浅田彰は、中上はああ見えて同時代性をかなり意識する作家で、晩年は『南回帰船』のような劇画原作に手を出してみたりもしたし、今だったらケータイ小説でもなんでもやっていたんじゃないか、という気はすると補足。


さて、柄谷行人が何を言ったかというと……基調講演のような典型的中上論も、また東のような後期作品評価も、熊野大学ではさんざんやってきたこと。文学テキストをああだこうだとこねくりまわしても、世の問題を論じることにはもうならない。世の中に占める文学の位置が変わった。文学文学、それ以上でも以下でもない。例えば、『鳳仙花』に見られるような風景描写(冒頭を朗読する)は内面の描写でもあるが、現在そういったことをやってみても、昔のような価値を持たない。そういう意味で「近代文学の終り」と言っているのであって、だからもう文学の話はしたくない。熊野大学もやめたい。中上が死んだときは、まだ若手作家という雰囲気だった。しかも代表作が絶版になっていて手に入らないような状態。だから、中上を忘れられては困る、偉くしてやりたい、そう思って全集も出したし、熊野大学もやってきた。変な中上論を書く奴は徹底的に叩き潰してやった。もう十分にやった。自分には別にやるべきことがある。世代交代してほしい。今回は野球をやりにきた。……全般にこういう身も蓋もない調子。ただ、質疑応答の時など、興がのってくると、胡坐から正座、そして今にも立ち上がらんばかりの立膝になってしゃべり、その姿はさすがの迫力だった。


小林敏明は、以上のような議論を受け、自分が古い立場にいることは自覚している、しかし自分のような旧世代の役割は、いまさら流行現代思想を追っかけたり、ライトノベルケータイ小説を論じたりすることではないだろう、現在住んでいる旧東独圏など、世界には先進国で起こっているのとは違う価値観が厳然と存在している……こういう具合に、自らの古さを自覚的なものであると表明。


東浩紀。基調講演のような文学論を自分は別に否定しない。排除もしていない。ただ自分はまだ20年30年は生きるだろうし、だから文学の枠を広げたいと思っていて、ミステリラノベケータイ小説などを論じている。これは新たに価値を付け加える試み。なにも否定しようとはしていない。むしろ、旧来の文学論の方が、自らの枠に固執してこっちを拒絶しているのではないか。それこそニヒリズムじゃないか。このシンポジウムが活字になったら、読者はそういう構図で見ると思う、と。……「減るんでなしに増えるんやもん」という『枯木灘』の一節を私は連想。


浅田彰。東のような認識を基本的には正しいと思うけれども、だからといって自分は、積極的にライトノベルケータイ小説を評価しようとも思わない。小林の基調講演に対して批判的な感じになってしまったけれど、別段、それにかわりうる提案があるわけでもない。このグローバル時代において、日本語で書かれた小説にこだわる理由も特にないんじゃないか。


このような討論を通じて、各論者の立ち位置が明確になった。


休憩をはさみ、高澤秀次が、用意してきた大江・中上文体比較の資料を読み上げる。これは近年の大江作品の文体変化まで射程に入れたもので、興味深かった。いずれまとまった形で発表されることになるだろう。


秋葉原事件を討論する明日の『サンデージャポン』出演にそなえ、終電に間に合うよう一足早く切り上げなければならない東浩紀は、最後に、大江・中上論に関して、もうひとつ補助線を引く。それは、90年代以降の文脈で両作家をとらえるなら、大江はオタク非モテ的、中上はヤンキー的なパーソナリティをそなえた作家ではないか、というもの。中上の『異族』はそういう文脈でも読めるだろう。一方、自分は大江の良い読者ではないかもしれないが、最新作『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』は、ほとんどオタク的な想像力が駆使されていて、おもしろかった。『燃えあがる緑の木』なんかもオウム的な想像力。それに、大江作品の登場人物に見られる匿名性・無名性を以前柄谷が書いていたことがあって、それも重要な参照点。……ここから、秋葉原事件に関し東が論じている、匿名・無名的な生を強いられる人達で、特にオタク非モテ的人格の尊厳・承認問題なども念頭におきながら話が展開されていきそうだったが、このあたりで時間切れ。……中上作品とこの事件の関連でいうと、初期の代表作『十九歳の地図』が参照できるかもしれない、と私は思った。世界を呪詛し、自分にも希望・尊厳の持てない寮住まい新聞配達員が語り手。彼が、公衆電話という匿名的なメディアを使い、「任意の一点」に向けて、暴力性を発揮する。1999年池袋通り魔殺人事件被告人の部屋からこの文庫本が押収されていたことはよく知られた事実で、類縁性を指摘されたこともある。また、中上が永山則夫事件に深い関心を寄せていたことも想起される。


途中、東が記憶を頼りに『終焉をめぐって』で柄谷の書いた大江健三郎論・村上春樹論を参照する際、確認をもとめて呼びかけた時のみ、両者の視線が合う。それ以外は、基本的に各人粛々と自分の言いたいこと・言うべきことを述べるという形となった。東浩紀による父殺しは行われず、どうにも子供っぽい振舞いを続ける柄谷行人、東を受け入れるような突き放すような浅田彰エンディングのこない『地の果て 至上の時』を読んでいるような停滞感を個人的にはおぼえた。あと、東は中上作品としては『鳳仙花』が一番好きだと言っていた。


質疑応答の時間にモブ・ノリオが挙手。フラットになった世界、みたいなことを自明であるかのように言っているが、本当にそうか。サパティスタのような人達だっているじゃないか、と指摘。これに対し浅田は、たしかに世界にはまだまだ亀裂もあるし格差も貧困もある、サパティスタのような活動に個人的には大いに関心を持っている、しかし全体としてグローバリゼーションが進行していることは間違いなく、それは小林敏明のいる旧東独のようなところにしたってそうなんで、その動向をフラット化した世界という風に表現している、と応答。


私はこれを大事な論点だと思ったが、モブは、例としてサパティスタなどではなく、もっと身近な日本における新しい貧困・格差論をあげれば議論が活性化したのではないだろうか。このシンポジウムにおいて欠けていた視点は、ロスジェネフリーター論壇的な問題意識ではなかったか。これは現在における中上の読み方にも関係してくると私は考えている。中上は被差別部落を描いた作家ということになっているが、単に「差別」だけではなく、それと切り離せない「貧困」と「労働」をもとらえていた。中上は、『十九歳の地図』の新聞配達以来、飯場、土方、行商、山林商、歌舞音曲にうつつぬかす中本の一統、そしてフーテン浮浪者まで含め、労働を分厚く描き続けた作家だった。対照的に、大江健三郎作品に描かれる「労働」は、初期こそ『奇妙な仕事』『死者の奢り』にみられる寓話的アルバイト小説から出発しながら、現在の私小説的作風に至るまでに、芸術家としての、そしてなにより作家としての労働に切り詰められていった、と言うことができよう。終生、書くことについて書くといった類のメタフィクションを基本的に書かなかった中上と、この点では根本的に異なる。中上が戦後作家としては例外的に多様な「労働」を描きえたことと、彼自身は、羽田空港での肉体労働など、20代の数年程度しか作家以外の労働をしなかったこととは、分けて考える必要がある。中上が自身の体験と作家の観察でとらえた「貧困」と「労働」は、哀憐を誘う貧乏くさい筆致ではなく、また図式的な共産主義史観でもない。それは、地縁血縁共同体のまがまがしいまでの力、朋輩のネットワーク神話的想像力、またそれぞれにグローバル資本主義のもたらした変容、そういったものを通して、物語・小説の豊饒として描かれた。「貧困の現実に迫る言葉を持つ小説が『蟹工船』しかなかった」(大澤信亮)といった、戦後をすっとばし、戦前と現在を直結する文学史観が文芸批評家から出ているいまこそ、「貧困」と「労働」を厚く描いた、しかしあくまでも戦後作家としての中上を再読する意義があるのではないだろうか。文化人類学・物語分析・テクスト論的な中上論は数多いが、こういった視点からの読みは管見ではみかけない。思いつきの参照項を一つあげてみると、『フリーターズフリー』の生田武志が、グローバル資本主義の下で、日本釜ヶ崎化している、という議論をたてているが、これは、路地解体後、世界に路地を見出していった中上の認識・表現ときわめて類似している。土着的な作家という外観と対照的に、中上ほど同時代のグローバル資本主義に肉薄し、身をもって生きた作家もいないだろう。熊野大学にむけて中上を読み直していた私はそんなことをまとまりなく考えた。


19時から、熊野大学スタッフ・講師陣・受講者をまじえた大懇親会。中上紀紀和鏡の挨拶がある。ビールや「太平洋」という尾崎酒造の美酒が振舞われ、大いに飲む。早稲田文学市川真人と少し話す機会が得られ、「αシノドス」の印象などをうかがってみる。高菜の漬物でくるんだおにぎり「めはりずし」が特に美味かった。


2008年8月10日(日)


最終日は、野球をするか、新宮観光をするか、この2コースから選べる。酷暑の中、野球をする気にはなれず、私は観光コースへ。枯木灘チームvs熊野大学チームの結果は、公式ブログ「天地の辻」(http://plaza.rakuten.co.jp/kumanodaigaku/diary/200808100000/)を参照あれ。観光組は、佐藤春夫記念館館長辻本雄一の案内で、炎暑の市内を歩いてまわる。


まずは「路地」のあった新宮駅裏の辺りへ。中上健次の生家、天地の辻、臥龍山、オリュウノオバの住んでいた家……小説に描かれていた通り、「路地」はもうない。青山真治監督『路地へ 中上健次の残したフィルム』に出てくるいくつかのシーンを思い出す。それにしても実際歩いてみて、その「狭さ」に驚く。ここからあの濃密で膨大な作品群がビッグバンのごとく生まれたのか……。「路地」のあたりは、現在、アパートが立ち並ぶ。新宮にはジャスコまでできた。これは、シンポジウム高澤秀次も指摘していたが、ポルトガルペドロ・コスタ監督が『ヴァンダの部屋』から『コロッサル・ユース』で描いているフォンタイーニャス地区の変化を想起させた。路地は世界化している、あるいは、世界は路地化している?中上がいま生きていれば、北京オリンピックに伴い進んでいる胡同の解体に、どのような反応を示しただろう?……その後、館長の案内で新宮出身の西村伊作記念館、佐藤春夫記念館を巡り、解散。


帰りも新宮駅発の「オーシャンアロー」で、知り合った方とセミナー感想を語り合ったりうつらうつらしたりしながら、新大阪へ向かう。窓枠越しに見える、行きの日よりも濃い陽射しの下で光る原色の青の海が眩かった。


末筆になりますが、これほどの企画を運営され、「αシノドス」へのレポート掲載の許可までくださりました熊野大学関係者の方々に感謝いたします。ありがとうございました!

wtnbtwtnbt 2008/09/02 17:31 どうもはじめまして。中上はやはり基本的にはブルジョワの師弟で、底辺労働を憧憬する部分があったんじゃないかと思います。それくらい彼の労働の描写は神話的です(たとえば枯木灘での秋幸の土方仕事の異様さ)。それはいわゆる異化の技法とも違った触感があって、むしろフローベールなんかに近いんじゃないかと。中上をテクスト論的に分析したくなる欲望は、そういう部分に触発されているんじゃないですかね。私は、マルクスーアルチュセール的な歴史/構造を文学作品の読解を通じて抽出していく類いの批評を好みませんが、素朴なテクスト論に期待するところも少ないので、むしろ草稿研究を進めて生成論的な批評が書かれるようになれば良いなと夢想します。

chaturangachaturanga 2008/09/02 18:07 はじめまして。コメントありがとうございます。wtnbさんのブログはよく拝見しています。

中上は基本的に「ブルジョワの師弟」であるとの話ですが、本文にも書いたとおり、それはおっしゃる通りだと思います。(羽田の体験の意味は小さくないにせよ。)高澤秀次の伝記にもありますが、東京に出たときもかなり仕送りをもらっていたようですし、まあ基本はぼんぼんだったんだろうと。ただ作品に多様な労働を厚く描いていることは事実で、当事者じゃないと本物じゃない、というものでもないと思うんです。同時に、当事者だから真実だ、というわけでもない。小林多喜二は蟹工船に乗っていたわけじゃありませんし。戦後作家の中では、「労働」や「貧困」に対する感度は高かった。永山事件にこだわっていたのも、そういう部分があるんじゃないでしょうか。

テクスト論については、単純に、渡部直己のものを超えるのはなかなか大変じゃないか、というのがあります。渡部本に描かれているような「労働」をもっとテクストの外にも開けないか、という問題意識が私にはあります。

草稿研究は中上の場合、実り多いかもしれませんね。なにしろあの草稿ですからね!アカデミックな研究はまだまだこれからの作家でしょうし。

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