日本の呪い 「闇の心性」が生み出す文化とは 12冊目

最近の子はみんな呪術師。
推定少女」 / 桜庭一樹

5/19
 小松和彦「日本の呪い」を読み返す。
 「七瀬の祓い」と呼ばれた天皇の穢れを取り除く儀式では、撫物(依り代やヒトガタみたいなもんか)に穢れを吸い取らせ、それを隣国の山城や近江の川瀬に捨てたという。当然これらの地域は穢れの溜まる汚れた地域とされた。
 という部分をよんで三津田信三の「魅物の如く憑くもの」を思い出す。まぁ、穢れは外部からやってくるもので、それを外部に流して返せば、もちろんその外部も穢れている場所にはなるわけだ。くる時は目には見えず、返すときは目に見えるものとなって出て行くってのからして、返すときの方が凝縮されててやばい感じはするがなぁ。しかしまぁこの辺のことについても後々「見えないもの」を「見えるもの」にすることについてって感じで延べているので興味があったら読んでみるとよい。

って感じの日記が出てきた。誰に語りかけているのかは不明。
そしてまたでてきた。以下。

というわけで「日本の呪い / 小松和彦」なんぞをつらつらと読む初春の頃。

 著者が岐阜県にある千代保稲荷神社を訪れた際に目にした「丑の刻参り」に使われた藁人形や釘で打ち付けられた写真。また、知床の原生林伐採に反対するアイヌ人グループが執り行った「ケウタンケの儀式」など、現代に生きる「呪い」を紹介するちょいと刺激の強い導入部。そして、「呪い」を恐れる人間の心性に触れ、 ではその「呪い」が生み出してきた文化とは、日本の文化史において「呪い」とはいかなる位置にあったのかを追求していく。というのが本書狙いのようだ。
 本書は以下の四章からなる。著者いわく「どこから読んでも内容が分かるようにしたので、興味のある章から読み進めてかまわない」とのこと、まぁ普通に順番に読んだけど。

第一章 蘇る「呪い」の世界

 で、いきなり出てくるのが高知県香美郡物部村の「いざなぎ流」。というか一章は物部村の「いざなぎ流」と「犬神憑き」の信仰を通して、実際に「呪い」の生きる世界を体験してみようって感じである。京極夏彦の「姑獲鳥の夏」で、主人公の京極堂が使用していたいざなぎ流祭文「不動明王生霊返し」が出てきたりもしているし、伝奇小説やら民俗学ネタの小説が好きな人には有名な村だろう。実際の祭文や、写真資料なんかも載っているので、なにかの小説なんかで読んで気になっている人は読んでみるとよいかも。

第二章 なぜ、人は「呪い」を恐れるのか

 しかし、この多くはでっち上げの可能性が高いとし、その裏に真実味あふれた虚構を作り上げる「呪いのスペシャリスト」がいたとしている。彼らは事件を認知し様々なパフォーマンスをもって、そこに「呪い」があるという理由を「説明」するのだ。その「呪いのスペシャリスト」というのが古来中国から伝わったとされる技法を用いる「呪禁師」であり、かの有名な「陰陽師」である。

読書メーターによるとこれ読んだのが3/22だそうな。
そんで感想書こうとしてなんか纏まらず無駄に長くなり途中でぶっちぎれているという。書けるところから書いていこうとしたのだろう。第二章の「しかし、」の前になんかしらの文章が来るはずだが今となっては闇の中。なんか面白かったので引っ張り出してきたわけだが面白いのは自分だけだろう。でもやっぱ日記は自分で書いて自分で読むもんだなぁ。なんて思った寂しい夏の夜。
扇風機で観葉植物に風を送って優しさをアピールする俺。

ああちなみに、第三章でちょいと触れられる「呪禁師」対「陰陽師」の話なんかは面白かったのだがその辺触れる前に力尽きたもよう。