閑話休題、小熊英二批判について。

小熊英二を検索すると必ず引っ掛かるのかの「極東ブログ」。といって私は「かの」であるかどうか
全然知らないのだが、いつ読んでもこの人は頭が大変不自由な人間だと感心させられる。
何故この程度がネット上では大きな顔ができるのだろうか、それなりの考えを持って何かを語る気があるのなら
ネットで見ただけでいい加減なことを書く一人2チャンネルはやめた方がいいと考えるのが常識だろうに、
だから私などに突っ込みを入れられる。
極東ブログ」の人は小熊英二に脱力しているそうだが、小林秀雄に永遠の愛を誓う人にとっては
確かに小熊英二は許しがたいだろう。しかし小林秀雄の思想は小熊英二が取り上げる戦後「思想」の道筋にはない、
また小林秀雄をよく読んでいるのならそのことがわかるはずなんだがそれもわからないらしい。
全く小林秀雄も気の毒なものだ、自分の亜流を気取る人間がここまで読解力のない人間だとは
今頃自分のいい加減さを墓の中で悔やんでるかもしれない。(まあ、しょせんはその程度であったと言うことよ)
小林秀雄でさえ「敗戦」と言う枷から自由になれなかった人間だと私は思うが少なくとも
そうではないフリを続ける矜持を持っていただろう。小林秀雄を引き合いに出してインテリぶるのは
恥ずかしいことだとハテナ内では「finalvent」と通称を持つ人物も気がつけばよほどマシに見えるのに、
と同情心をおさえきれない。極東ブログの人、「わからない」事を「わからない」と正直に認めることは
決して恥ずかしいことではありませんよ、高校生時代に愛読したんだろう小林秀雄以降に
意識がすすんでいないことを恥じる必要などありません、大抵の人間はそんなもんですから。
ただ、やたらと知識のストリップをするのはやめた方がよろしいかと思います。
たまねぎがかわをはいだところで中になんにもないんだから見てる側は面白くもなんともありません。
台所のすみに転がって出番が来るのを持っていなさい。
「核」たる「知性」を持たない人間とは何故こうも哀れなのだろうか。
極東ブログの人が小熊英二に関して言及しているところをもう一つ見たがこの人の外来語の多用ぶりには涙が出る。
ポストコロニアル」はまだしも「アクチュアリティー」に至ってはあなたの頭の中身の
「アクチュアリティー」はいかに、と尋ねたくなる。外来語を多用する人間は大抵その意味がわかっていない、
意味がわかるのなら日本語に簡単に書き換え可能なのだから不自然に使うことはない。
それに小熊英二は思想史のアウトライン(いかん、finalventがうつった)を示すのを目的としているのだから
議論に展開がないと言うのは違う。小熊英二は思想家ではない。それすらも見極められず大筋から離れて
重箱の隅をつつくヒマがあるのならもっと真面目に著作を読んでみてはどうだろう。
元々小林よしのりレベルの読者を想定して書かれているのだから難しいわけではない。
そのレベルに自分をおとしめるのが嫌だと言うのならはじめから小熊英二を知っているとは気取らないことだ。
私はこの「極東ブログ」及び「finalventの日記」の人を「剣道」の検索で初めて読んだが
そのあまりの馬鹿馬鹿しさに目を疑ってしまった。「剣道」に関する言及は、もしまともな剣道連盟の人が
読めば腰を抜かすだろう。剣道有段者に自分は「勝った」と主張するのだから。
もっとも剣道をはじめて1年半の私の中学生の娘でさえ実は有段者である。故に有段者に本当に「勝った」としても
それがどのレベルであるか詳しく言うなら恥をかくのは、彼の方だ。
それも知らずに「剣道有段者に勝ったことがある」と誇らしげに書くいい加減な人間と同列で
小熊英二について語らねばいけないことを私は大変遺憾に思っている。読まなければ呆れずにすんだんだけど
いつもあまりに香ばしいのでつい読んで閑話休題してしまった。明日から感想のつづきを書きます。
何を書いてもまだ「極東ブログ」よりはましでありたいと思います。
もちろん私には「知性」も「知識」もないけれど少なくとも私は「たまねぎ」ではなく「人間」なので。
(この先、finalventを「たまねぎ男」と呼ぶことにします。)「たまねぎ男」は「愚物」だ。