一人じゃないって

本当は寄るべきではなかったのだろう。
けど習慣というのは恐ろしいもので
ついつい足を運んでしまった以上
とりあえず顔だけ出しておけば
「何で来なかったんだ」なんてことで
余計な詮索をされずには済む、などと
勝手な言い訳を用意してドアを開けた瞬間
その選択を後悔せずにはいられなかった。

「あら、香さんは?」

とカウンターの内側の美人ママから
訊かれることは想定の範囲内だ。
だがその向かいには、

「あら撩、久しぶり♪」

女豹、のすぐ下の妹。ただ面倒くささでは
姉に勝るとも劣らない。特に今は。

「オニの攪乱、珍しく風邪ひいて寝込んでやがるから
代わりに伝言板見に行ってきたとこ」
「まぁ……お大事にって伝えといて」
「大丈夫よ美樹さん、香さんには
ちゃんと撩がついてるんだから」

と、聞こえよがしにこちらを見遣る。
そもそも麗香と俺が「久しぶり」なのは
あいつが同じように季節外れの風邪で
数日寝込んでいたからだ。
そこに、看病ついでに見舞いに来た香に
ウイルスを擦り付けて良くなったくせに。

「独り暮らしで病気になったら
もぉ大変なんだから……」

そう長々とした愚痴が始まりそうなところを、

「冴羽さん、早く帰って
香さんの傍にいてあげて」

と美樹の助け舟が出たところで
俺は席にもつかずにCat'sを後にした。
冷却シールに栄養ドリンクに桃缶
買うべきものはちゃんと買い物袋の中だ。

「香ぃ、帰ったぞー」
「あ……お帰り、撩」

ベッドの上で頭をもたげた途端
顔をしかめその場に崩れ落ちた。

「おい、大丈夫か」
「うん、急に頭動かしただけだから……」
「熱は?」

普段だったら躊躇するほど顔を近づけ
手をそれぞれ香と自分の額に付け、温度を比べる。

「――さっきよりは下がったみたいだな
眠れたか?」
「うん」

弱々しく頷いたが、それはそれで一安心だ。
薬を飲む前までは、頭が痛いの吐き気がするのと
とてもではないが落ち着いて眠れる状態ではなかった。
それが、少しでも休めたというのは
それらの症状が気にならない程度になったということ。

季節の変わり目、暑くなったと思ったら
一気に季節が逆戻りという日が続く中
ここのところ仕事が珍しく立て込んで
それがひと段落した途端、疲れがわっと出て
それで香もやられてしまったようだ。
普段は元気だけが取り柄のようなものだから
弱った姿を目にすると、内心
居ても立ってもいられなくなる。
今日だって「寒気がする」と、もうとっくに仕舞い込んだ
マイヤーの毛布を引っ張り出してきたくせに
顔にも、そしておそらく全身にも
じっとりと変な汗が浮かぶ、その言行不一致さに
いったいどうしちまったものだと頭を抱えたほどだ。
だが、それももう快方に向かっているようだ。

「で、飯は食えそうか?」
「食べる」

と、あいつらしく可能かどうかではなく意志で答えた。

「食べて栄養付けなきゃ
治るもんも治らないもの」

そう勇ましく言い放った次の瞬間
げほげほと咳き込み始めた。
その咳はいつまで経っても止まらない
止めようとしても次から次へと
まるで連鎖反応のように咳が咳を呼ぶのだ。
俺も(滅多にひかないが)風邪を引くと
たいていまず喉に来るから、よく覚えがある
……きっと煙草が良くないんだろうな。

「――大丈夫、大丈夫だから」

思わず抱きかかえるようにして背中を撫でさする。
ようやく咳が途切れて、いつも以上にハスキーな声で
囁くようにして気丈にも香はそう言った。

「撩が帰ってきて、気が緩んじゃったのかな」

その目に浮かぶ涙は、きっとさっきまでの
咳のせいだけではないはずだ。

「じゃあ、飯の支度してるからな」
「うん」

後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にする。
食事の支度といったところで、香のことだ
インスタントやレトルトなど
長時間台所に立たないで済むよう
備蓄は常日頃から行っているはずだ
――Cat'sでの麗香の嫌味とも言えなくもない愚痴が
耳にこびりついて離れなかった。

――独り暮らしで病気になったら
 もぉ大変なんだから……

そうは言っても、掃除は一日ぐらい休んだっていい
洗濯だってボタン一つだ
俺がいてもいなくても、大した違いは無い。
それよりも、今の香が本当に求めていることは……
咳き込んで苦しそうに丸めた背中がまぶたに浮かぶ。
その苦しみから一刻も早く解放されること
それが香の今の一番の望みであるはずなのに
俺はその苦しみの半分すら
代わりに引き受けることもできないのだ。

レトルト粥の袋を見つけたが
まだ賞味期限は先なので元の場所に戻す。
そして残りご飯を鍋に入れ、水を加えた。

二人なら、喜びは倍に
哀しみは半分になると人は言う。
確かに香の存在に何度も救われたこともあった。
だが、どうしても分かち合えない痛みもある
俺にも、香にも。そのたびに
どうしようもできない無力さに苛まれる。
でも、それもまた二人で生きていくということなのだろう
人生そう素敵なことばかりではないのだから。