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餞驟窟誌

2018-01-18

【こよみ 平成30年01月17日(水)小寒 旧暦十二月朔日(赤口)大潮 】 69候 雉始雊 小寒末候 冬土用入 新月 阪神淡路大震災記念日 防災とボランティアの日 湾岸戦争開戦の日 今月今夜の月の日 おむすびの日 明治大学創立記念日

2018.01.17(水) 七十二候 小寒末候 69候 雉始雊 雉始めて雊く 
雄の雉が鳴き始める 01月15日(月)〜01月19日(金)

二十四節気雑節
土用

雑節 この日から次の立春の直前までが「土用」の期間。

新月
朔。月と太陽の黄経差が0°となる日。旧暦ではこの日が暦月の朔日となる。

阪神淡路大震災記念日

1995年(平成7年)のこの日、兵庫県南部を中心にM7.3の地震が発生。この「阪神淡路大震災」では死者約6300人、30万人以上の方が避難所生活を行なった。現在もこの日、震災で亡くなった人々を偲び、震災で得た教訓を忘れないために神戸市他で式典が行われている。

防災とボランティアの日
阪神・淡路大震災をきっかけに国内でボランティア運動が活発になり、この年の12月15に防災を呼びかけ、ボランティア精神を普及するため1月17日を「防災とボランティアの日」に1月15〜21日を「防災ボランティア週間」とすることが閣議了解された。

湾岸戦争開戦の日

1991(平成3)年、アメリカ軍を主力とする多国籍軍が、イラククウェートイラク軍拠点に攻撃を開始し、湾岸戦争が勃発した。この日に設定されていた撤退期限が過ぎてもイラク軍がクウェートから撤退しなかったため、攻撃に踏み切った。

今月今夜の月の日

尾崎紅葉の『金色夜叉』の中で、主人公の貫一が熱海の海岸で、貫一を裏切った恋人のお宮に「いいか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せる」からと言い放ったことから。この日の夜の曇り空を「貫一曇り」という。

おむすびの日

米に関係する民間企業やJA等でつくる「ごはんを食べよう国民運動推進協議会」が2000(平成12)年11月に制定し、2001(平成13)年から実施。日附は公募で選ばれ、阪神大震災ではボランティア炊き出し被災者が励まされたことから、いつまでもこの善意を忘れない為、1月17日を記念日とした。

明治大学創立記念日
1881年(明治14年)のこの日、明治大学の前身である明治法律学校が現在の有楽町数寄屋橋、旧島原藩邸内にて開校された。宮城浩蔵、岸本辰雄矢代操によって創設。

いなりの日(毎月)
日本の食文化の中で多くの人に親しまれているいなり寿司を食べる機会を増やすきっかけを作ろうと、いなり寿司の材料を製造販売している株式会社みすずコーポレーションが制定。日付はいなりのい〜なで毎月17日に。

国産なす消費拡大の日(毎月)

4月17日の「なすび記念日」の17日を、毎月なすの消費を増やす日にしようと、冬春なす主産県協議会が2004年2月9日に制定した。

ローマ帝国が東西に分裂(395)
後鳥羽天皇院政を開始(1198)
▲アヴィニヨンの幽囚が終わり、教皇庁ローマに帰る(1377)
鎌倉鶴岡八幡宮が焼失(1821)
板垣退助らが民選議員設立建白書を提出(1874)
皇后、婦人に洋服を勧告(1887)
▲天然オレンジジュース発売開始(1957)
佐世保原子力空母寄港に反対する反日共系学生が警官隊と衝突。 重傷者68人(1968)
国際電話のダイヤル即時通話スタート(1971)
大関貴ノ花引退(1981)
アメリカ軍などの多国籍軍イラクへの空爆開始。湾岸戦争開戦(1991)
ロサンゼルス大地震(1994)
阪神淡路大震災、午前5時46分発生。兵庫県南部に大被害。死者5378人、
 負傷2万6815人、家屋損壊10万9464棟(1995)

誕生:ベンジャミン・フランクリン(発明家政治家1706) 
   ジョージ・ロイド(政治家1863) 大杉栄(社会運動家1885) 
   アル・カポネ(ギャングの首領1899) 村田英雄(歌手1929) 
   モハメッド・アリ(元ボクサー1942) 坂本龍一(音楽家1952)
   三浦(山口)百恵(元歌手1959) 泰葉(歌手1961) 福島敦子(キャスター1962)
   工藤夕貴(女優1971) りょう(モデル・女優1973)

誕生花:すいば (Rumex)     花言葉:親愛の情


季語刻々 <坪内稔典>  晩冬 2018.01.17(水) 小寒


悴みてひとの離合も歪なる


毎日新聞 2018年1月17日 東京朝刊


 ◆昔


  悴(かじか)みてひとの離合も歪(いびつ)なる 中村草田男(くさたお)

       

解題


 「ひとの離合」という表現がおもしろい。人がかじかんでしまって、まるで無機物のようになっているのだ。それで、会う時も別れる時も、なんだかいびつな感じ。要するに、すごい寒波が来ているのだ。私の年代には腰や膝を病む者が多いが、そういう人は寒さがひどいとまさに草田男の句の通りになる。もちろん私も、である。<坪内稔典

 

語釈・晦渋語 &出典


私の年代には腰や膝を病む者が多いが、そういう人は寒さがひどいとまさに草田男の句の通りになる。もちろん私も、である。<坪内稔典

鑑賞

「ひとの離合」という表現がおもしろい。人がかじかんでしまって、まるで無機物のようになっているのだ。それで、会う時も別れる時も、なんだかいびつな感じ。要するに、すごい寒波が来ているのだ。


俳人

中村草田男


(なかむら くさたお、1901年明治34年)7月24日 - 1983年(昭和58年)8月5日)は、中国アモイ出身の俳人。本名清一郎(せいいちろう)。東京大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活人間性に根ざした句を模索。石田波郷加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもった。

清国(現中国福建省廈門にて清国領事中村修長男として生まれる。母方の祖父松山藩久松家の重臣[1]。1904年、母とともに中村家の本籍地愛媛県伊予郡松前町帰国。2年後松山市に転居。1908年一家東京に移り赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)に通学する。1912年、再び松山に戻り松山第四小学校に転入。1914年、松山中学に入学。先輩に伊丹万作がおり兄事する存在となる。1916年、伊丹らとともに回覧同人誌楽天」を制作。1918年、極度の神経衰弱にかかり中学を1年休学。復学した頃にニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』に出会い生涯の愛読書となる[2]。

1922年、松山高等学校入学。直後に可愛がられていた祖母に死なれたことで不安と空虚に襲われ、その解決の鍵として哲学宗教に至る道を漠然と思い描く[3]。1925年一家東京に移転、4月に東京帝国大学文学部独文科に入学チェーホフヘルダーリンを愛読するが、1927年にふたたび神経衰弱に罹り翌年休学。このころに斎藤茂吉の歌集『朝の蛍』(自選歌集、改造社1925年)を読んで詩歌に目を開き、「ホトトギス」を参考にしながら「平安な時間を持ち続けるための唯一の頼みの綱」となる句作を始め[4]、俳号「草田男」[5]を使い始める。1929年、母び叔母の紹介で高浜虚子に会い、復学したのち東大俳句会に入会。水原秋桜子の指導を受け、「ホトトギス」9月号にて4句入選する。

1931年、国文科に転じ、1933年卒業。卒論は「子規の俳句観」。卒業後成蹊学園に教師として奉職。1934年、「ホトトギス同人1936年、縁談を経て福田直子と結婚。1938年より下北沢に住む。1939年、学生俳句連盟機関誌成層圏」を指導。また『俳句研究座談会に出席したことをきっかけに、石田波郷加藤楸邨らとともに「人間探求派」と呼ばれるようになる。1945年学徒動員通年勤労隊として福島県安達郡下川崎村に向かい、同地にて終戦を迎える。

1946年、「成層圏」を母体として「萬緑(ばんりょく)」を創刊、終生まで主宰。1949年成蹊大学政経学部教授に就任、国文学を担当する。1954年下高井戸に転居。1959年、朝日俳壇選者。1960年、現代俳句協会幹事長となるが、現代俳句協会賞選考を巡って協会内で意見対立が起こったため、1961年協会を辞し新たに俳人協会設立、初代会長に就任する。1965年成蹊大学文学部教授。1967年に定年退職後、非常勤講師となったのち、1969年に同名誉教授。1972年紫綬褒章。1974年、勲三等瑞宝章。1978年、メルヘン集『風船の使者』により芸術選奨文部大臣賞受賞。

1983年8月5日、急性肺炎のため東京都世田谷区北烏山の病院で死去[6]。82歳没。死の前日洗礼を受けた。洗礼名「ヨハネ・マリア・ヴィアンネ・中村清一郎」。墓は東京都あきる野市五日市霊園にある。没後の1984年日本芸術院恩賜賞が贈られた[7]。



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=========仲冬 2018.01.17(水) 冬至(近頃の世情)) ==========
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水説 恩送りをつなげたい=中村秀明
毎日新聞 2018年1月17日 東京朝刊
 <sui−setsu>

 コーヒーを飲んだ後、懐に余裕のある人はレジで自らの代金を払い、さらにもう1杯分のお金を支払う。先払いされたコーヒーは、後になって店を訪れるであろう、お金に困っている誰かに無料で振る舞われる。

 「恩送りカフェ」と呼ばれるこの習慣は、第二次大戦中のイタリアナポリで生まれたと言われる。小さな善意連鎖によって人々の分断や孤立を防ぎ、地域社会の連帯を取り戻す活動だった。

 この発想にならい制作されたとみられる映画が2001年公開の「ペイ・フォワード」だ。世界を変えたいと願う少年が主人公だった。

 そして今、お笑い芸人絵本作家でもある西野亮広(にしのあきひろ)さん(37)が、恩送りを実践しようとしている。

 晴れ着業者の閉店で被害にあい、落胆する新成人のやり直し成人式を来月4日に横浜市で開く。貸衣装と着付け、髪のセット、記念撮影は無料で、船を借り切ったパーティーも主催する。費用はすべて西野さんもちだ。

 彼のインターネット上での発言にはうなった。

 「大人になる日に大人が裏切ってしまったことを、同じ大人として、とても申し訳なく、恥ずかしく思っています。本当にごめんなさい」

 「大人が面白くない未来は面白くないので、今回失った信用はキチンと取り戻したいと思います」

 ニュースに腹を立てた大人の一人だが、これほどの思いには至らなかった。

 西野さんは実業家の顔も持ち、ネット上で手紙をやりとりする「レターポット」を昨年末に始めた。その利益を費用にあてるという。

 この新ビジネスのテーマが実は恩送りなのだ。

 1文字5円を払って「レター」を買い、誰かに感謝や応援の気持ちを送る。相手に手紙が届き、字数分の「レター」もたまる。その人はお礼の返事は送らず、もらった「レター」を使って別の誰かにまた手紙を届ける。

 こうしたやりとりがつながり、どんどん広がっていくのが狙いだ。「レター」には、ビットコインなどの仮想通貨のような換金機能はない。

 事業の認知にもなるので、西野さんは「僕にもメリットがある。お礼も返事もいらない」と言っている。

 あくどい事件が生んだ小さな救いである。被害にあい、手をさしのべられた人がどこかの誰かに何かを送れば、もっと大きな救いに育つだろう。

 そんな恩送り連鎖する時、新たな何かが生み出されるに違いない。(論説委員

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経済観測  ゴッホとローカルファースト=ローカルファースト研究所代表取締役・関幸子
毎日新聞 2018年1月17日 東京朝刊

 このお正月、上野東京都美術館で開催されたゴッホ展を見てきた。好きな画家を挙げよと言われれば、迷うことなくゴッホと答えるだろう。鮮明な色遣い、力強い輪郭、絵の具を混ぜずに置く筆のタッチ、単純化した構図、すべてがこれでもかと強い印象を与え、目をそらすことができないからだ。

 ゴッホ印象派としての作風は、実は日本の浮世絵に大きなインスピレーションを得ている。今回の展覧会では、浮世絵に触発されて描いたゴッホの作品40点とともに、その原作となった浮世絵を一緒に展示するという画期的な展示手法となっている。会場で両方を見ると、ゴッホの日本への憧れの強さを感じるとともに、浮世絵を自らの視点で解釈し、自らの画風で描きなおしたゴッホの力量を確かめることができる。

 日本は、現在人口減少の中で、技術や経済を軸とした発展の土台を新たな土台に転換する時期を迎えている。ゴッホ展を見ながら、私たちは足元に魅力的な財産を持っていることに気づかされた。それは、当たり前と思っている生活習慣や様式、日常使いの製品の中に、文化性や芸術性が高くはめ込まれ、用の美として培われていることにある。浮世絵はご存じのように、茶わん等を輸出する際に割れないように包装紙として使われたものが、異国の地で芸術として認知され、ジャポニズム文化を発火させた。世界で人気を集めている和食も、海外がその価値を認め評価してきた経緯は浮世絵と似ている。

 地方創生では、再度足元にある資源を検証し、魅力や優位性、独自性を認識・評価し、戦略を展開することが重要となる。筆者はこの、地域の視点にたった概念を「ローカルファースト」として提唱してきた。今年は、ローカルファーストが花開く年としたい。

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憂楽帳  残った囲碁全集
毎日新聞2018年1月17日 大阪夕刊 【新土居仁昌】

 囲碁棋士の北野亮八段(48)は、阪神大震災神戸の自宅が全壊し、同居していた63歳の母を亡くした。碁石も飛び散ったがれきの山に残っていたのは、和綴(と)じの「藤沢秀行全集」。北野さんはそれを持ち出し、大阪の兄の元へ避難した。

 「しゅうこう先生」と、親しみを込めて呼ばれた故藤沢秀行(ひでゆき)名誉棋聖。重厚華麗な碁に加え、ギャンブルと酒におぼれた無頼な生きざまもファンを魅了した。一方で多くの有望な若手を育てた。回り道をしながらプロになった北野さんにとっては雲の上の存在だった。

 全集は震災の3日前に届き、開封もしていなかった。「十何万円もした高い本だったんで、置いていくわけにもいかず」。それが、「先生の全集を大事に抱えて避難した棋士がいる」と伝わった。北野さんはその年の夏から5年間、秀行合宿に呼ばれた。「エリートたちと打つ機会を得たのは大きかったですね」

 「こいつはバカだから俺の全集を持って逃げたんだ」。酔いが回った先生のうれしそうな声が耳に残っているという。悲しみと出会いと。23年を経て聞いた震災余話。【新土居仁昌】

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