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餞驟窟誌

2018-04-06

【こよみ 平成30年03月27日(火)春分 旧暦二月十一日(赤口)若潮 】 11候 桜始開 春分次候 仏壇の日 さくらの日 赤彦忌

2018.03.27(火) 七十二候  春分次候 11候 桜始開 桜 始めて開く
桜の花が咲き始める 03月26日(月)〜03月30日(金)

仏壇の日
686年のこの日、『日本書紀』よると「仏舎を作り、仏像及び経を置き、礼拝供養せよ」との天武天皇勅令が施行されたとのこと。全日本宗教用具協同組合が制定。

さくらの日
日本さくらの会が1992年(平成4年)に制定した日で、日本を代表する花である桜への関心を高め、花と緑の豊かな国土づくりが目的。72候の中に「桜始開」(さくらはじめてひらく)とある時期と、「さくら」と「咲く」がともに「3×9=27」であることから3月27日となったという。

[著名人の誕生日・命日]
赤彦忌

歌人・島木赤彦の1926(大正15)年の忌日。

▲「各家に仏像・経を置いて礼拝供養せよ」 という天皇詔が出される(685)
鎌倉大仏殿の上棟式(1241)
松尾芭蕉、弟子の曾良とともに「奥の細道」六百里の旅へ出発(1689)
大塩平八郎の乱終結(1837)
労働基準法、できる(1947)
厚生省イタイイタイ病の原因をカドミウムと発表(1968)
▲世界初の宇宙飛行士ガガーリン、飛行訓練指導中に事故死。34歳(1968)
フジテレビの人気ドラマ「男はつらいよ」の放送が終わる。最終回で主人公が 死ぬはずだったが、予告で知ったファンから助命嘆願が殺到、結局行方不明とし、やがて映画で復活、大長編シリーズ映画となる(1969)

誕生:レントゲン(物理学者1845) 佐藤栄作(元首相1901) 小沢栄太郎(1909)
   遠藤周作(作家1923) 金子信雄(俳優1923) 高峰秀子(女優1924)
   田辺聖子(作家1928) 三好京三(作家1931) 岸洋子(歌手1935)
   若林正人(1938) 小林克也(タレント1941) 宮本信子(女優1945) 
   高中正義(ギタリスト1953) 山口良一(タレント1955) 
   松本孝弘[B'z](ミュージシャン1961) オグリキャップ(1985)
   
誕生花:きんちゃく草 (Calceolaria)   花言葉:援助



季語刻々 <坪内稔典> 仲春 2018.03.27(火) 春分 


猪が来て空気を食べる春の峠


毎日新聞 2018年3月27日 東京朝刊


 ◆昔


 猪(しし)が来て空気を食べる春の峠 金子兜太 
   

解題


 日本列島の西半分は春たけなわ、東はこれからが春、という感じだろうか。「いま、兜太は」(岩波書店)で兜太は言う。峠に春の来る頃、猪は好んでそこにやってきて気ままに空気を吸うと想像すると、郷里・秩父の山国の春の訪れを体いっぱいに感じる、と。兜太は2月に他界したが、猪といっしょに峠の春の空気を吸っているかも。<坪内稔典


語釈・晦渋語 &出典

日本列島の西半分は春たけなわ、東はこれからが春、という感じだろうか。兜太は2月に他界したが、猪といっしょに峠の春の空気を吸っているかも。<坪内稔典


鑑賞

「いま、兜太は」(岩波書店)で兜太は言う。峠に春の来る頃、猪は好んでそこにやってきて気ままに空気を吸うと想像すると、郷里・秩父の山国の春の訪れを体いっぱいに感じる、と。

 
俳人

金子兜太


(かねこ とうた、1919年大正8年)9月23日 - )は、埼玉県出身の俳人加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論・実作両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動している。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任現代俳句協会名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者小林一茶種田山頭火の研究家としても知られる。

1919年9月23日、埼玉県比企郡小川町の母の実家にて、父・元春、母・はるの長男として生まれる。2歳から4歳までその父の勤務地であった上海で、帰国して以降は秩父の地で育つ。父・元春は開業医で、「伊昔紅(いせきこう)」という俳号を持つ俳人水原秋桜子の「馬酔木」に所属し、1930年に自身の俳誌「若鮎」を創刊している[1]。また秩父音頭の復興者としても知られている人物である[2][3]。伊昔紅の代表句は「元日や餅で押し出す去年糞」というもので、これを桂三木助が「蛇含草」を演じる時に引用し、その流れか『ビートたけしオールナイトニッポン』初回にビートたけしが「元旦や餅で押し出す二年糞」と同句を捻ったものを第一声としたために有名になった[4]。
旧制熊谷中学、旧制水戸高等学校文科乙類[5]を経て、1943年東京帝国大学経済学部を卒業。高校在学中の1937年、一級上の出澤三太に誘われて同校教授宅の句会に参加し、はじめて句作[1]。最初の句は「白梅や老子無心の旅に出る」であった[6]。以来本格的に句作をはじめ、翌年、全国学生俳誌「成層圏」に参加、竹下しづの女、加藤楸邨中村草田男らの知遇を得る。1939年、嶋田青峰の「土上」に投句。大学入学後の1941年、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事する。
1943年、大学を繰り上げ卒業して日本銀行に入行[1]、面接官は佐々木直だった。海軍経理学校に短期現役士官として入校、海軍主計中尉に任官、トラック島で200人の部下を率いる。餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いする。1946年捕虜として春島(現モエン)アメリカ航空基地建設に従事したのち[6]、11月に最終復員船で帰国1947年2月、日本銀行復職。同年4月、塩谷皆子(金子皆子)と結婚[6]。1949年から翌年末にかけて、日本銀行労働組合の専従初代事務局長を務める。その間に浦和から竹沢村に住居を移す。1950年末に福島支店、1953年神戸支店、1958年長崎支店に転勤ののち、1960年東京本店に戻る[7]。支店まわりから「窓際族ではなく、窓奥。1日2-3回開けるだけの本店の金庫番。だから書けた」という仕事で、1974年の55歳定年まで勤めた。
1947年、「寒雷」に復帰し、沢木欣一の「風」創刊に参加。「風」の主唱する社会性俳句運動に共鳴。1951年福島の藤村多加夫の持ち家に住みながら「波郷と楸邨」を『俳句研究』に執筆。1955年より日本ペンクラブ会員。1957年、西東三鬼の勧めで「俳句の造型について」を『俳句』誌に発表、俳句造型論を展開し、自身の創作方法を理論化する。1958年新俳句人連盟の中央委員に推薦され[8]、栗林一石路とともに同誌雑詠欄の選者を1年間(1959年10月号まで)担当。1960年頃より前衛俳句の旗手に数えられる[9]。
1962年、隈治人、林田紀音夫、堀葦男らと同人誌「海程」を創刊。1985年より結社誌となり主宰に就任する。
1974年から1979年まで上武大学教授。1983年より現代俳句協会会長、1987年より朝日俳壇選者[6]。1992年、日中文化交流協会常任理事に就任。2000年、現代俳句協会名誉会長に就任。2005年より日本芸術院会員。2006年、妻・皆子が死去。2015年いとうせいこうとともに『中日新聞』『東京新聞』の「平和の俳句」選者。ほかに一ツ橋綜合財団理事などを務める。



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=========仲春 * 2018.03.27(火) 春分 (近頃の世情))=========
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火論 沈んだはずが=玉木研二
毎日新聞 2018年3月27日 東京朝刊
 <ka−ron>

 組織的文書改ざん」やデータの都合良い「誤用」は今に始まったことではない。上に合わせる「忖度(そんたく)」もしかり。戦争で苦い教訓を得たはずだが、今なお霞が関永田町のみならず組織社会に繰り返される。

 無理が通れば道理が引っ込む。戦争に端的に表れる。

 例えば、日米戦の転換点になったミッドウェー海戦。1942年6月、中部太平洋に拠点を求めた日本海軍空母4隻を失うなど大敗、以後守勢一方に追い詰められた。

 もともと無理な作戦と異論もあった。作戦実施に先立ち、泊地の戦艦大和で、ひそかに敵味方に分かれたミッドウェー作戦の図上演習が行われた。そこに出た被害の大きさに、連合艦隊参謀長空母の被弾数を減らすなどして図上の状況を改めてしまった。

 作戦を急ぐ一因になったのはその4月18日、米軍空母を発した双発爆撃機隊が東京などを急襲したことだ。被害は小さかったが、緒戦の連勝に酔っていた国民にも不安の影が差し、意表を突かれた軍部は衝撃を受ける。

 そして大戦果を期して臨み惨敗。驚くのは、戦いの後、検証の戦訓研究会も開かれなかったことだ。互いに傷口を突くなということらしい。

 戦史や企業組織論などの研究者たちが旧日本軍の思考、行動様式を詳細に解析した「失敗の本質」(84年、ダイヤモンド社)はこれらを踏まえ、日本軍指揮官養成教育に欠陥の一つを見る。

 <学生にとって、問題はたえず、教科書や教官から与えられるものであって、目的や目標自体を創造したり、変革することはほとんど求められなかったし、また許容もされなかった>

 今の学校教育にも通じるものがある。「靴に足を合わせる」がごときだ。

 また元陸軍将校、堀栄三氏も著書「大本営参謀情報戦記−−情報なき国家の悲劇」(89年、文芸春秋)で、戦術教育の問題を突き<「教官の原案はこうだろう」と先読みして、自分の案を出す傾向は否定できなかった。(中略)このような学生を見破って本筋の思索要求するような大物教官は少なくなってしまった>と指摘する。

 これも今のエリート教育を語るかのようだが、上位の意中を先読みするのは忖度官僚社会の華であり続けた。

 そして今、政府与党が手のひらを返したように「官僚批判」に転じ、再発防止へ組織を根本的に見直したいと言う。「どの口が……」と歯ぎしりし、嘆息も漏れ聞こえてきそうだ。(客員編集委員


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経済観測 米国務長官交代とイラン合意の行方=国際公共政策研究センター理事長・田中直毅
毎日新聞 2018年3月27日 東京朝刊

 14日にティラーソン米国務長官の解任と、後任にポンぺオ中央情報局(CIA)長官が就くとの発表で、イラン情勢急変との見方が広がった。

 ポンペオ新長官は、2015年のイラン合意に対して批判的で、この合意ではイラン核武装阻止は無理という点でトランプ米大統領と同じ見解なのだ。イランへの圧力は高まらざるをえない。

 これに対してイラン合意の当事者の英、仏、独3カ国の危機感は募る。はやくも16日には、イラン向けの厳しい政策実施案を共同で練った。米国を核合意の枠組み内に引きつけておくために、イラン弾道ミサイル開発やシリアでの軍事介入を理由にあげた対イラン新制裁案の作成は不可避との認識が浮上したのだ。

 既にトランプ大統領は5月12日を期限に核合意からの離脱をほのめかしており、事態は切迫する。イランからの新しい踏み出しを引き出すためにも、ミサイル開発中止や中東各地でのイランの軍事介入抑制を議題としたミニ交渉に踏み出す以外に米国引き留め策はないと欧州3カ国は判断したのだ。

 トランプ政権の対イラン政策強硬化は世界の原油市場にも影響を与える。イランに対する国際的な原油開発投資は大幅に手控えられる確度が高い。中長期的な原油の需給逼迫(ひっぱく)予測も登場した。また15日にはサウジアラビアムハンマド・ビン・サルマン皇太子が、イラン核武装化を前提に、サウジ核武装意向を表明した。中東における核拡散危機だ。

 原油価格はこれを受けて更に上昇に転じた。米国でのシェールオイル増産にも弾みがつく。結果としてサウジアラムコ株式公開株式の一部売り出しは、不確実性の高まりで大幅な遅延となろう。トランプ大統領はどこまでを展望しているのか。


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