本当は別の人になりたかった。

はてなダイアリーを始めてから、3年以上が経過しています。
始めたきっかけは、彼氏がはてなダイアリーをやっていたから、面白そうだったから、流行に乗り遅れたくなかったから、それだけでした。ただ、私がフェミニスト的な感覚を持っていたこと、大学がそれほどに面白くなかったことが、当初、まだブログの知名度など無い状態において継続する支えにはなっていたことは確かですし、自分で一から作れる世界というのは、実世界には無い魅力的を持っていました。
次第に、彼氏の周りの友達たちがはてなダイアリーを始め、皆で会って飲むときなどは、「ブログ」を通じてのリアルコミュニケーションが行われるようにもなりました。ネットラジオをしながらブログでもコミュニケーションするなどは良い例で、情報ネットワークにおけるテクノロジーは、私たちにとって良いおもちゃであり、文化であり、社会であったと思います。そうやってブログを始めて参りましたので、私にとってブログは、見えない読者を意識して書くというよりも、見知った読者を意識する割合の方が圧倒的に大きくなっていました(読者が増えるとまた異なってきますが)。なぜなら、一人の人間は統一された自我を持っているはずだと、社会一般的には思われているからです。多重人格では、信用をなくしてしまいますから、どうにか誤差の無いようにしようとしました。しかし、この開放的で、自己裁量の大きい空間では、そして、次第に増えてきた見知らぬ読者に見られているという快感から、私の抑圧された部分は解放され、激しい気性を発揮してゆきました。ですので、ネットでの私しか知らない人とリアルで会う際、彼/彼女らは荒々しい文章にマッチした人物像を描いて私に対面するのですが、実際は全く異なるということで驚かれているようです。これは少し寂しい気がしますね。確かにネットとリアルでは顔が異なるというのは事実なのですが、リアルの知人がネットの私をリアルな私に重ねて読むことが出来るのに対し、ネットのみの知人はネットの私をリアルな私に重ねてくれることは無いからです。私にとっては、ネットの私というのも、リアル(現実味がある)のに。結局フィジカルな身体に宿る主体が本物と解釈されるのでしょう。
本人の意図に反し、ネットの私は作られた嘘の私とみなされる。
本当は、知人にしろネットの人にしろ、リアルの誰にも知られないところで(もちろん、一切のオフ会には参加せずに)、フェミニストの私としてブログをやってみたかったなと、
ちょっぴり後悔しています。