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くるみりすの歴史館

2014-09-12

岡山の歴史遺産49 撫川城(なつかわじょう)

撫川城

☆所在地:岡山県岡山市北区撫川

☆アクセス:JR西日本 山陽本線庭瀬駅より徒歩10分

☆概要

足守川下流の旧海岸線沿いに位置し、この土地は港の機能を有する立地であった。

永禄2年(1559)、 備中国の三村家親が備前国宇喜多直家に備える為に築かせたと伝えられている。

天正3年(1575) 三村氏が、毛利氏に滅ぼされてからは毛利氏の出城となり、配下の井上有景が、この城を守備するようになる。

撫川城は天正年間(1573-92)に毛利氏の城代として上山兵庫・植民部大輔などが在城し、いわゆる対織田氏のための「境目七城」(宮地山城・冠山城高松城・鴨城・日幡城・松島城・撫川城)の1つとして用いられた。

しかし、天正10年(1582)には羽柴秀吉によって落城させられた。

 

城郭は、周囲に幅約15mの堀をめぐらせ、北西端からは足守川の水を引き入れている。

東西約85m、南北約55mの長方形の平面形で、南に大手門を備えている。

野面積みの高石垣が残されている。

平城としては県下屈指の規模で、壮観である。

城の南西にある太鼓橋は、江戸時代の戸川氏庭瀬藩の大手門跡といわれている。

また、現在城跡にある門は、江戸時代の撫川知行所の総門で、明治時代になって移築したものである。

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2013-11-22

岡山の歴史遺産48 備前福岡城(びぜんふくおかじょう)

備前福岡城

☆所在地:岡山県瀬戸内市長船町福岡

☆アクセス:JR赤穂線長船駅より徒歩約10分

☆概要

鎌倉時代末期に頓宮四郎左衛門によって築かれる。 

室町時代、嘉吉の乱で赤松氏没落すると、備前は山名教之の分国となった。

小鴨大和守が守護代となり福岡城を大修築した。

応仁の乱後の文明元年、備前守護に返り咲いた赤松政則福岡城を攻略し、福岡千軒を城内に取り込んだ城へと修築した。

文明15年(1483)、赤松・浦上氏と松田氏の対立により福岡城をめぐって両者の合戦(福岡合戦)が行われ、福岡城を守護する赤松、浦上の連合軍を攻め落とすのに50日もかかったと伝えられる。

大永年間(1521〜1528)の大洪水により吉井川が流れを変えたため、福岡城は廃城となった。




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2013-07-07

岡山の歴史遺産47 備前富山城(びぜんとみやまじょう)

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備前富山

☆所在地:岡山県岡山市北区矢坂東町・矢坂本町

☆アクセス:JR西日本 吉備線大安寺駅

☆概要

岡山市北区矢坂東町・同本町にある、連郭式の中世山城

別名万成城、大安寺城、矢坂城。

旭川西岸平野の西側にある標高131.6mの矢坂山上に位置し、北側には山陽道が通る交通の要衝となっていた。

また、備前国の西半から備中国にかけてを押さえる意味があり、岡山城備前国の中心となるまでは、旭川両岸平野を支配するための拠点であった。

古代には吉備津彦命が山陽道に派遣された際に陣を構えた伝承が残る。

仁和年間(885年〜889年)に富山重興が築城したといわれるが定かではない。

富山氏は今日の矢坂山の頂上部(小字)を富山と称しここに居住して富山姓を名乗ったことに始まると言われる。

応仁元年(1467)富山長頼は松田元隆の攻城を受けて自害し富山氏は滅亡した。

元隆はこの城を改修し居城した。

文明15年(1483)元隆の子元成は居城を金川城に移し、元成の弟親秀が城主となった。

親秀の没後は松田氏の重臣・横井土佐守が居城した。

松田氏は当初、浦上氏との競り合いを続けていた。

やがて浦上宗景の麾下であった宇喜多直家が台頭し、宇喜多氏とも争うようになった。

永禄11年(1568)金川城は直家により落城し金川城主の元賢は討ち取られた。本城の落城と同時に富山城も落城し、金川城に居て身動きが取れずに居たこの時の富山城主である松田元脩(元賢の弟)は金川城からの脱出に成功するものの既に自らの居城は直家の手に落ちており、止む無く備中へと逃げ延びる。

富山城には直家の弟・忠家が城主となり、西の丸・東出丸を築き城を拡張した。

慶長4年(1599)宇喜多家中で内紛が起こると、忠家の子で城主となっていた詮家(後の坂崎直盛)は城を捨て大坂に出奔した。

関ヶ原の戦いで宇喜多氏は西軍主力として戦い敗れたため、備前国には小早川秀秋が入封した。

入封翌年の慶長6年(1601)頃、富山城は廃城となったものと思われる。

なお、岡山城石山門(戦災で焼失)はこの城の大手門を移築したものであると伝えられている。

現在、城址には土塁、石塁、堀切、曲輪跡が確認できる。




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2013-06-22

岡山の歴史19 浦上氏(うらがみし)

浦上氏

平安時代中期に活躍した紀長谷雄の後裔といい、播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)がその発祥地と伝えられている。

浦上は『播磨国風土記』にも「浦上里」としてみえる古い地名で、平安時代に浦上庄という荘園になり、後白河法皇によって京都新熊野神社に寄進された。

浦上庄の範囲は、現在の兵庫県たつの市揖保町一帯と考えられている。

文治元年(1184)、源頼朝から播磨守護職に補任された梶原景時が同庄の地頭職を与えられたが、法皇の訴えで景時は浦上荘地頭職を停止された。

『赤松家播備作城記』には、浦上庄内の中臣城の初代城主として「紀秀村」の名が伝えられている。

この秀村がのちの浦上氏の祖になる人物かは不明であるが、紀姓の人物が浦上庄に存在していたことは知られる。

 

浦上氏は播磨守護職赤松氏の被官として世にあらわれてくるが、浦上氏の系譜は諸種あって一定しない。

鎌倉時代末期、播磨から赤松則村(円心)が史上に現れた際には、浦上氏もその活躍の一翼を担い、鎌倉幕府の倒幕にも参加している。

ちなみに浦上氏の名が文献史料にあらわれるのは、『大徳寺文書』にみられる為景なる人物が最初である。

大徳寺の開山は大燈国師で知られる宗峰妙超で、浦上掃部入道覚性(一国ともいう)の子と伝えられている。

宗峰は同郷の赤松則村の帰依を受け、正和4年(1315)、洛北紫野に小堂を建立した。

これが大徳寺の起源となり、正中2年(1325)、花園天皇は大徳寺を祈願所とする院宣を発している。

後に後醍醐天皇から播磨国浦上庄を寄進された宗峰は、浦上庄の半分を一族に分配することを申し出て許され、為景が天皇からその旨の綸旨を賜ったとのことである。

南北朝時代には、赤松氏は後醍醐天皇を中心とした建武の新政権を見限り、早くから足利尊氏に従った。

尊氏が幕府を開くと、則村は播磨守護に、長子範資は摂津守護となった。

おそらくこの頃に、守護赤松氏とその被官浦上氏と言う形での主従関係が成立したと考えられている。

貞治元年(1362)、山名時氏が備前に侵攻した際には、備前守護松田信重が浦上行景と共に防戦したことが『太平記』に記されている。

やがて則祐が備前守護に補任されると、行景は守護代に任じられた。

このことが播磨を本領としていた浦上氏が隣国の備前へ勢力を伸ばす足掛りともなり、以後浦上氏は赤松氏の有力被官として活躍することになる。

行景の後は、助景が守護代を継ぎ、赤松氏の被官としてその支配に尽力していたようである。

赤松義則が幕府侍所頭人に就任すると、助景は所司代に取り立てられている。

しかし応永15年(1408)、助景は伊勢国山田において誅殺されている。

その後の所司代には浦上性貞が就いている。

赤松氏は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱を起こし没落するが、この時には浦上宗安、則永らがともに幕府方となった山名氏の軍勢と戦っている。

その後小寺豊職をはじめとする赤松氏の遺臣たちは、満祐の弟義雅の孫赤松政則をもりたてて主家再興を企画し、ついに長禄元年(1457)、政則は家督相続を許された。

応仁の乱では浦上則宗が赤松政則とともに東軍の細川勝元に属し、赤松軍を率いる主将として活躍した。

応仁の乱後、赤松氏が播磨美作備前の三国の守護と任命されると、則宗は備前守護代となっている。

文明3年(1471)に政則が侍所の所司に任ぜられると、則宗が所司代となり実務を司った。

文明13年(1481)、山城守護に補任された政則は則宗を守護代とするなど、ここに浦上氏の権勢は大きく伸びることになる。

しかし乱後の影響が赤松氏の領国にも及ぶこととなり、文明15年(1483)11月、備前御津郡金川城主の松田元成が、山名氏と結んで備前福岡を攻めた。

赤松政則但馬の山名氏を攻撃する戦術をとったが、但馬守護山名政豊に大敗し播磨は乱戦模様となった。

この結果政則の権威は失墜し、政則は和泉へ逃れている。浦上則宗は小寺則職・中村祐友・依藤弥三郎・明石祐実らの諸将と図って、五人の連署で赤松刑部大輔(有馬則秀)の子慶寿丸に家督を継がすよう画策も行っている。

しかし足利義政の仲介により、政則と浦上氏らは和解し、文明17年3月から山名氏との播磨を巡る攻防に入った。

坂本城を拠点とする西播磨の山名氏と、長享2年(1488)7月に勝利するまで5年間に渡り対峙した。

やがて播磨美作備前を回復した政則は、第10代将軍足利義材の軍奉行となるなど活躍し、明応2年(1496年)従三位に叙せられている。

赤松政則の死後、その養子である赤松義村は、浦上氏などに支持される形で、播磨備前美作の守護に就いたが、義村は自立の機会を伺っていた。

浦上宗助の子である守護代浦上村宗は、永正15年(1518)義村と対立し居城の三石城に退去した。

しかし義村は守護の権威をもって村宗の討伐を企図し城を囲んだ。

村宗は主家からの攻撃に狼狽したが、重臣の宇喜多能家らの支えにより攻城戦を乗り切った。

翌年の永正16年(1519)、義村は再度兵を起こし、浦上氏に対抗する有力家臣である小寺城主小寺則職を主将として美作の浦上方の諸城を攻撃させた。

赤松勢は浦上勢を圧倒し義村の目的は達成されるかに思えたが、やがて則職の軍は打ち破られた。

逆に村宗は播磨に攻め入り義村を捕らえ、窮した義村を隠居させた。

その後義村を幽閉し殺害した(1521)。

これにより名目的にも実質的にも、播磨備前美作の支配権を得て戦国大名への道を歩み始めた。

村宗は享禄4年(1531)6月、天王寺の戦い(大物崩れ)で討死する。

嫡子である浦上政宗は未だ幼少の身であったが浦上国秀など一族の有力な家臣の補佐もあり、無事に元服を果たす。

その後、尼子詮久(後の晴久)によって一時期所領を失うも機を見て復帰し播磨備前の2国を回復。

ここに至る戦いの中で発言力を強めていった政宗は赤松氏筆頭家老にまで登り詰める。

しかし天文20年(1551)、再び兵を率いて備前侵攻に際して政宗と弟の浦上宗景は真っ向から対立。

政宗は播磨国室津に、宗景は備前国天神山に根拠を置いて、以後10年にわたり対立し、浦上氏は大きく分裂することになった。

政宗は播磨守護代として実効支配を行い赤松氏を傀儡としていたが、永禄7年(1564)に赤松政秀に襲撃され滅んだ。

一方弟の宗景は、備前美作一帯に一大勢力を築いて、また織田信長と誼を通じるなどして、再び家勢を盛り返した。

宗景は、信長には領国の安堵を受けたが、台頭してきた重臣の宇喜多直家と不和となり、毛利氏と結んだ直家は浦上久松丸を擁立して天正3年(1575)に宗景を打ち破り播磨国に追放した(天神山城の戦い)。

ここに戦国大名としての浦上氏は実質的には滅亡した。

久松丸はまもなく直家に毒殺され、また宗景は黒田長政を頼り筑前国で没したとされる。



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2013-06-06

岡山の歴史18 備前松田氏(びぜんまつだし)

備前松田氏

藤原秀郷の後裔波多野氏の一族といわれる。

源義朝の重臣だった波多野義通の子義常(義経ともいう)が、足柄上郡松田郷を領して松田右馬允と名乗った。

義常は治承4年(1180)の石橋山合戦で平氏方に属し、のち自刃した。

その子有経は許されて鎌倉御家人となり、一時大庭景義に与えられていた義常の遺領を与えられた。

以降、『吾妻鏡』には、右衛門太郎、九郎、小次郎、平三郎、弥三郎常基ら、松田姓の人物が見える。


『松田系図』よれば、に松田元保の子松田元国が後醍醐天皇に味方し、鎌倉幕府討伐の功により備前国御野郡伊福郡を与えられ、彼の地に富山城を築き本拠地にした。

以後、元喬−元泰−元方−元運−元澄と続くが、元澄(元隆)は応仁の乱にあたり、赤松方に加わり、山名氏の追い落しに功をあげて赤松氏被官となり、旧領を安堵されて伊福郷の守護代的地位となり、文明五年(1473)に富山城で死去した。


ところで、伊福郷松田氏とのちに松田氏の本拠となる金川の金川松田氏とは本来別系であって併存していたとされ、元国の子元喬が金川に移って両松田氏が併合して備前松田氏として一本化されたとする説もある。

一方、この時期に備前国守護として松田盛明がいた事が記録で確認されているが、元保らとの関係は不明である。


文明15年(1483)頃には備前国西部に確固とした力を築いていたためか、守護の赤松氏から警戒され、赤松政則の追討の命を受けた浦上則宗の一族の浦上則国に攻め込まれることとなり、松田元成は山名氏に援軍を要請すると同時に、文明12年(1480)に新しい本拠地とした金川城を出撃し、赤松方の小鴨大和守の居る備前福岡城を文明16年(1484)正月に落とした。

勢いに乗った元成は備前国を掌中に収めるため、文明16年(1484)2月、浦上則国の居城三石城を落とすため東へ進撃するが、途中の吉井川東の天王原で浦上勢と遭遇し合戦に及ぶも大敗し、退却する途中、浦上勢に追いつかれ磐梨郡弥上村山で自害する。

その後も松田氏は西備前に君臨し浦上氏と対立した。

時が下り、松田元隆の代には、足利義晴のもと大永2年(1522)京の都で所司代に就任するなどしていたが、享禄4年(1531)、天王寺合戦で味方の浦上村宗とともに討死。

孫の松田元輝の代になると宇喜多直家の力が強大になり、子の松田元賢に直家の娘と婚姻させ、姻戚関係を結ぶ。

更には当時美作・備中への影響力が強かった尼子晴久が浦上氏を攻撃すべく備前へ侵攻してきた際には、尼子方に属するなどによって勢力の維持を図ろうとしたが、永禄11年(1568年)、宇喜多直家に主力の重臣である宇垣与右衛門を謀殺され、さらに直家の調略により虎倉城主の伊賀久隆に寝返られ、同年7月、宇喜多勢に金川城を攻撃され元輝は伊賀久隆の鉄砲隊により討死。

元賢も金川城落城により落ち延びる途中、伊賀勢の伏兵により討死。

元賢の弟の松田元脩は備中に逃れ(一説には因幡の山名豊国に仕えたという)、備前松田氏の宗家流は滅亡した。

ただ、庶流家である西谷城主の新庄松田氏は浦上氏に従う事で宗家滅亡後も存続し、主に美作南部の戦線で功を挙げた。

天正2年(1574)から表面化した浦上宗景宇喜多直家の抗争の際には新庄松田氏は宗景方について戦い、翌天正3年(1575)に浦上宗景が追放され宇喜多直家が実権を握ると新庄松田氏は浦上方だった事もあって所領を削られたものの存続は許された。

以後、宇喜多政権でも新庄松田氏は在地の土豪として小さいながら勢力を保っていたが、宇喜多氏の改易後は帰農を余儀なくされた。






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