岡山ゆかりの歴史人物19 藤原行成(ふじわらのゆきなり)

藤原行成(972〜1028)
父は右少将藤原義孝(摂政藤原伊尹の3男)、母は源保光女。
世尊寺家の祖。
小野道風藤原佐理と共に、三蹟の1人に数えられる。


天禄3年(972)右少将藤原義孝の長男として生まれ、祖父の摂政藤原伊尹の猶子となるが、祖父は同年中に薨去
さらに天延2年(974)父義孝も急死し、一族の没落を受けて一時期は外祖父源保光の事実上の養子となったとされるなど、青年期は沈淪した。
長徳元年(995)親友源俊賢の推挙によって地下人から一条天皇蔵人頭に抜擢され、恪勤精励を以って一条天皇藤原道長の両方に信任された。
能吏として寛弘四納言の一に列し、正二位・権大納言にまで昇った。
一条天皇の信頼が篤かったが、晩年に天皇が次期東宮に第1皇子敦康親王(母:中宮藤原定子)を擁立して行成にその後見を期待したものの、行成は却って道長の意向を受けて道長の外孫である第2皇子敦成親王後一条天皇)への皇位継承天皇に迫ったとされている。
もっとも一条天皇の説得の際に敦康親王が傍流から即位した宇多天皇(※源省と臣籍降下していたが、父光孝天皇が病死したため、急遽即位。光孝天皇斎宮・斎院以外の全ての皇子女を臣籍降下していた。)のようになる可能性を示して一品叙品を図り、行成自身は敦康親王が亡くなるまで、親王の家司を務め上げたことから、敦康親王道長の政治的圧力から守るための行成なりの方策であったとも考えられている。

万寿4年(1028)12月1日に隠所に向かう途中で突然倒れ、そのまま薨去したという。
なお、道長と同日に薨去したために、世間は道長の死で大騒ぎとなっており、彼の死については気に留めるものがほとんどいなかったと言われている。



藤原行成は長徳3年(997)に備前守に任ぜられたので、今回岡山ゆかりの歴史人物として取り上げてみました。
それ以外、岡山との関係はありません。




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