Hatena::ブログ(Diary)

くるみりすの歴史館

2011-01-30

岡山ゆかりの歴史人物25 豪姫(ごうひめ)

豪姫(1574〜1634)

父:前田利家 母:まつ

豊臣秀吉の養女

尾張荒子(現在の愛知県名古屋市)に誕生。

幼少の頃、子のなかった羽柴秀吉の養女として出される。

豪姫は秀吉や正室のおねに寵愛され、秀吉はおねに宛てた手紙の中で「もし豪が男であったら関白にしたものを」と書き記している。

天正16年(1588)に15歳で秀吉の猶子岡山城主宇喜多秀家の正室として嫁ぎ、二男二女(秀隆・秀継・理松院(山崎長卿・富田重家室)・先勝院(伏見宮貞清親王室))を産む。

慶長5年(1600)、秀家が関ヶ原の戦い石田三成ら西軍方に属していたため、戦後に宇喜多氏は改易。

秀家は薩摩に潜伏し島津氏に匿われる。

この時に徳川家康の探索を避けるため秀家の死亡偽装工作をしたとされる。

しかし慶長7年(1602)、島津氏が徳川家康に降ったため、秀家は助命を条件に引き渡され、息子2人と共に慶長11年(1606)に八丈島に流罪とされる。

その間に豪姫は備前岡山城より二人の娘、節・時と中村刑部、一色主善輝昌ら数名の家臣を伴い、兄の前田利長のもとへ戻され化粧料1500石を与えられる。 当時の金沢はキリシタン大名として名高い高山右近が客将として住み、多くの藩士がその影響を受けていた。

その後、他家へ嫁ぐことなく金沢西町に移り住み、賂を秀家に送り続け余生を送った。

寛永11年(1634)、金沢城鶴の丸にて死去。享年61。



随分むかしになりますが、現在「江〜姫たちの戦国」で茶々を好演している宮沢りえ主演で「豪姫」が映画化されていましたね。

見たことはありませんが…。




にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村  

2011-01-25

岡山の歴史24 法然(ほうねん)

f:id:chie17:20110125220941j:image



法然(1133〜1212)

父は美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使漆間時国(うるまときくに)。母は秦氏君(はたうじのきみ)。

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延7年(1141)、9歳の時に源内武者貞明の夜討によって父を失う。

その際、父の遺言によってあだ討ちを断念し、菩提寺の院主であった母方の叔父の観覚のもとに引き取られる。

その才に気づいた観覚は当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。

天養2年(1145)13歳(異説には15歳)で源光上人に師事。

源空は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安3年(1147)に同じく比叡山の皇円の下で得度。

久安6年(1150)皇円のもとを辞し、比叡山黒谷の叡空に師事した。

「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。

承安5年(1175)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、念仏の教えを広める。(←浄土宗の立教開宗の年)

文治2年(1186年)、大原勝林院で聖浄二門を論じる。(大原問答)

建久9年(1198年)、九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著す。

元久元年(1204)、後白河法皇13回忌法要である「浄土如法経法要」を法皇ゆかりの寺院「長講堂」(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営む。

同年10月、比叡山の僧徒が専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は「七箇条制誡」を草して門弟190名の署名を添え延暦寺に送った。

しかし興福寺の奏状により念仏停止の断が下される。

建永2年(1207)2月28日、法然は還俗され藤井元彦を名前として、土佐国に流罪となる。(※円証(九条兼実)の庇護により、九条家領地讃岐国に配流地が変更)

讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地塩飽諸島本島や香川県満濃町(現在の西念寺)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐中に布教足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。

承元元年(1207)12月、法然に対し赦免の宣旨が下る。

しかし入洛は許されなかったため、摂津の勝尾寺(大阪府)で滞在する。

ようやく建暦元年(1211)11月、法然に入洛の許可が下り、帰京できたものの、2ヵ月後の建暦2年(1212年)1月25日、死去する。享年80。




にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村

2011-01-19

岡山ゆかりの歴史人物23 熊谷直実(くまがい なおざね)

f:id:chie17:20110119210159j:image

熊谷直実(1141〜1207)

父は熊谷直貞、母は小沢氏。

武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。

幼名を弓矢丸という。

その名のとおり弓の名手である。

幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われた。

保元元年(1156)7月の保元の乱で源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159)12月の平治の乱で源義平の指揮下で働く。

その後、久下直光の代理人として京都に上った直実は一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し直光の元を去って平知盛に仕える。

源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180)の石橋山の戦いまでは平家側に属していたが、以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。

寿永3年(1184)2月の一ノ谷の戦いに参加。

この戦いでは正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、名将の源義経の奇襲部隊に所属。

鵯越を逆落としに下り、息子小次郎直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた。

しかし平家の武者に囲まれ、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけている。

平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波打ちぎわを逃げようとした、平家の貴公子平敦盛を呼び止め、一騎打ちをする。

直実が敦盛を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子小次郎ぐらいの年の少年であった。

直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたかな」と言うと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」と答えた。

これを聞いて直実は、一瞬敦盛を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。

この後首実検して平敦盛と判明。

このことがあってから、直実の仏門に帰依する思いは、いっそう強くなったという。

文治3年(1187)8月4日、直実は鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を命ぜられた。

弓の名手であった直実はこれを不服とし、「鎌倉御家人はみな同輩の身分のはず。流鏑馬の射ては騎馬、的立ては徒歩。これは不平等であり、納得できません」と断固的立てを拒否した。

頼朝がいくら的立役は名誉な役目である、ということを説いても承知しなかったため、所領の一部を没収された。

建久3年(1192)11月25日、過去の経緯から不仲だった久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いが続いており、ついに頼朝の面前で両者の口頭弁論が行われることになった。

直実は頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自然質問は彼に集中するようになった。

直実は憤怒して「梶原景時めが直光をひいきにして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまい、頼朝があっけにとられたという(『吾妻鏡』)。

家督を嫡子直家に譲った後、建久4年ごろ法然の弟子となり出家した。法名は法力房蓮生 “ほうりきぼうれんせい”である。

蓮生は数多くの寺院を開基していることで知られているが、出家後まもなくの、建久4年(1193)に美作国久米南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)の法然生誕地に誕生寺を建立した。

建久6年(1195)8月10日、京から鎌倉へ下る。

建久6年(1195)には東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立した。

また蓮生は鎌倉に着くなり、泣いて懐かしんで頼朝と対面し、仏法と兵法の故実を語り、周囲を感歎させる。

武蔵国へ下向するため退出する際、頼朝にしきりに引き留められている。

頼朝の妻北条政子とは昵懇で、書簡等を取り交わしている。

その後蓮生は京都に戻り、建久8年(1197)5月には錦小路東洞院西の父貞直の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して法然寺を建立した。

建久9年(1198)、粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基する。

直実が法然を開山として、この地に念仏三昧堂を建てたのがはじまりである。

後に黒谷にあった法然の墓が安貞2年(1228)比叡山の僧徒に襲撃を受け、遺骸があばかれたため、東山大谷から移され、ここで火葬して遺骨を納めた宗廟を建てた。遺骨は分骨された。

本領の熊谷郷に帰った後は庵で、念仏三昧の生活を送った。

元久元年(1204)上品上生し、早く仏と成り、この世に再び還り来て、有縁の者、無縁の者問わず救い弔いたいと、阿弥陀仏に誓い蓮生誓願状をしたためた。

誓願状の自筆が嵯峨清涼寺に残されている。

建永元年(1206)8月、翌2月8日に極楽浄土に生まれると、予告の高札を武蔵村岡の市に立てた。

春の予告往生は果たせなかったが再び高札を立て、秋建永2年(1207)9月4日(1に実際に往生したと言われている。

その間の法然との書簡が残っている。

直実の遺骨は遺言により、粟生の西山浄土宗総本山光明寺の念仏三昧堂に安置された。

直実の墓は現在法然廟の近くにある。

また妻と息子小次郎直家の墓は、熊谷寺の直実の墓に並んである。また高野山には直実と敦盛の墓が並んである。

金戒光明寺には法然の廟の近くに、直実と敦盛の五輪の塔が向かい合わせにある。





熊谷直実は一般的に平敦盛を討ったことを悔やんで出家したと言われていますが、出家の経緯を見る限り敦盛…全く関係ないですね(・_・;)

領地争いに敗北しブチ切れて出家してるだけかと…。

岡山には熊谷直実が建立した誕生寺というお寺があります。

何度か訪れた事がありますが、なかなか素敵なお寺でした。

ブログでも過去に取り上げています♪




にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村

2011-01-11

岡山ゆかりの歴史人物22 源師頼(みなもとのもろより)

源師頼(1068〜1139)

父は左大臣源俊房、母は源実基。橘俊綱(藤原頼通の次男)の養子。

村上源氏。

左近衛少将・左右中弁などを歴任し、寛治8年(1094)6月蔵人頭に任ぜられる。

承徳2年(1098)参議として公卿に列し、康和元年(1099)従三位に叙せられる。

嘉承元年(1107)の年末、自分よりあとに参議になった藤原宗忠・源基綱が先に権中納言に昇進した[ことをきっかけに、師頼は朝廷への出仕をやめる。

加えて、天仁元年(1108)には3年間出仕しなかったことにより殿上籍を削られたが、このことにより却って師頼は隠遁の意思を強くしてしまい、父俊房の没後の大治年間に入るまで20年以上も出仕しなかった。

また、師頼の籠居は父の俊房を深く悩ませたという。

大治5年(1130)権中納言、同6年(1131)従二位権大納言、長承2年(1133)正二位、保延2年(1136)大納言に昇進。

議政官として右兵衛督・近江権守・備前権守・太皇太后宮大夫(令子内親王)・春宮大夫(体仁親王、後の近衛天皇)などを兼帯した。

保延5年(1139)12月、72歳で薨去。





にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村

2011-01-02

岡山ゆかりの歴史2 坂上氏(さかのうえし)

坂上氏

後漢霊帝の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿知使主)を祖とする氏族。

後漢最後の皇帝献帝の子といわれる石秋王の子が阿智王(阿知使主)であるとする。

その後、「高尊王―都賀直―阿多倍王」と続き、阿多倍王の孫が、坂上氏初代の志努であるという(別説では「阿智使主―都加使主」の子ともされる)。

坂上志努には志多、刀禰、鳥、駒子らの子があった。

その子孫が坂上田村麻呂である。大蔵氏と同族。

坂上氏の本拠地は大和国添上郡坂上である。

坂上志努の子の一人である坂上駒子の子が坂上弓束で、首名、老、大国、犬養、そして坂上苅田麻呂と続き、坂上田村麻呂にたどり着く。

駒子から苅田麻呂までの歴代の事跡はある程度明らかに伝わっている。

判明しているのは、坂上老、坂上国麻呂が壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)方として活躍した事と坂上犬養が聖武天皇に武才を認められて武人の第一歩を踏み出した事である。

田村麻呂以降の坂上氏の動向であるが、田村麻呂には坂上大野、坂上広野、坂上浄野、坂上正野、そして桓武天皇の后だった坂上春子らの多数の子がいたと伝わっているが、坂上氏宗家の家督を継いだのは摂津国住吉郡平野庄(大阪市平野区)の領主となった坂上大野だった。

しかし大野は早世し、弟の坂上広野が平野庄と坂上氏の家督を継ぐ。

その後広野も早死にしたため、その弟の坂上浄野が跡を継いだ。

浄野の次の坂上当道は、田村麻呂以来の東北経営と父あるいは伯父の広野(当道は浄野の子とも広野の子ともされている)にはじまる平野庄の経営に携り、子の坂上好蔭は武人として東北で活躍するが、その子の坂上是則、孫の坂上望城は歌人として名をなし、その子孫は代々、京都の検非違使庁に出仕し明法博士や検非違使大尉を継承した。

広野の子(当道が広野の子なら当道の兄)の坂上峯雄は侍従として都にあったが、孫の坂上峯盆も曾孫の坂上行松も東北経営と都での任に就いている。

当道の後の平野庄の経営については、坂上氏の氏寺の長寶寺記によれば坂上行松が継いだとされる。

坂上行松(坂上行増)を祖とする平野氏(長寶寺寺記、末吉氏家譜)から末吉家をはじめとする平野七名家が登場し、宗家の平野庄の坂上氏を支え、代々「民部」を称し、堺と並ぶ中世の自治都市の平野を担った。

宗家の坂上氏は、代々、京都公家との姻戚関係を維持し、明治時代に東京に移るまでは長宝寺の近くに構えた屋敷に住んでいた。

平野七名家は江戸時代幕府代官となり5万石を支配地とする。

その後、東末吉家(末吉勘兵衛家)、西末吉家(末吉孫左衛門家)に分かれた末吉氏の子孫は、現在も平野の地に現存。



岡山県倉敷市の美観地区には、阿知使主の一族が住み着んだ跡に建てられたとされている阿知神社があります。そのゆかりで今回坂上氏を取り上げてみました♪。

応神天皇の実在は甚だ疑わしいですが、縄文時代から弥生時代にかけて、中国の大乱を逃れるために沢山の渡来人が日本列島にやってきたので、坂上氏の始祖が渡来人であった事は信じられるかなぁ〜と考えています。

岡山県には渡来人の痕跡が数多く残されています。温羅伝説などもありますし。韓国のオンドルによく似た遺物も出土しています。

岡山から韓国までは飛行機で1時間程で到着し、東京に行くのと殆ど変りありません。距離的にも非常に近いので古来から交流があったのかもしれないですね。





にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村

2011-01-01

岡山ゆかりの歴史人物21 坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)

坂上苅田麻呂(727〜786)

父は坂上犬養、母は不詳。上田村麻呂の父。

坂上氏は中国後漢の霊帝の流れを汲むという東漢(やまとのあや)氏に繋がる家系で代々弓馬の道をよくする武門の一族として、数朝にわたり宮廷を守護した。

天平宝字年中に授刀衛少尉に任じられる。

天平宝字8年(764)9月、太師(=太政大臣)藤原仲麻呂(恵美押勝)が謀反を起こすという密告があり、9月11日、孝謙上皇は仲麻呂派の淳仁天皇の中宮院(御所)に少納言山村王を遣わし、皇権の発動に必要な玉璽と駅鈴を回収させた。

仲麻呂は子の訓儒麻呂(くすまろ)を遣わし玉璽と駅鈴を奪おうとした。

山村王は急報を送り、坂上苅田麻呂は将曹牡鹿嶋足(みちしまのしまたり)とともに勅命を受け馳せかけて、訓儒麻呂を射殺した。

その後、仲麻呂は平城京を脱出。

9月18日、仲麻呂は近江国で戦いに敗れ、湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとするが、軍士石村石楯に斬られ、その一家も皆殺しにされた。[恵美押勝の乱]

この功により苅田麻呂は従四位下勳二等を授かり、大忌寸の姓(カバネ)を賜る。

中衛少将に補任され、甲斐守を兼ねる。

宝亀元年(770)称徳天皇が崩御すると、弓削道鏡の姦計を告げて、その排斥に功績があり、正四位下に進み、陸奥鎮守将軍となった。

中衛中将、安芸守、丹波守などの国司を歴任。

天応元年(781)正四位上を授かり、右衛士督となる。

延暦元年(782)正月14日、氷上川継の謀反事件[氷上川継の乱]に連座して参議左大弁大伴家持とともに職を解かれるが、間もなく許され同年5月に復職する。

その後伊予守、備前守の国司を歴任。

延暦4年(785)従三位に進み、上表して宿禰の姓(カバネ)を許される。

同年、左京大夫に任じられ、右衛士督と下総守を兼ねた。

延暦5年(786)死去。






にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村