岡山ゆかりの歴史人物23 熊谷直実(くまがい なおざね)

熊谷直実(1141〜1207)
父は熊谷直貞、母は小沢氏。
武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。
幼名を弓矢丸という。
その名のとおり弓の名手である。
幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われた。
保元元年(1156)7月の保元の乱源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159)12月の平治の乱源義平の指揮下で働く。
その後、久下直光の代理人として京都に上った直実は一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し直光の元を去って平知盛に仕える。

源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180)の石橋山の戦いまでは平家側に属していたが、以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。

寿永3年(1184)2月の一ノ谷の戦いに参加。
この戦いでは正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、名将の源義経の奇襲部隊に所属。
鵯越を逆落としに下り、息子小次郎直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた。
しかし平家の武者に囲まれ、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけている。


平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波打ちぎわを逃げようとした、平家の貴公子平敦盛を呼び止め、一騎打ちをする。
直実が敦盛を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子小次郎ぐらいの年の少年であった。
直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたかな」と言うと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」と答えた。
これを聞いて直実は、一瞬敦盛を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。
この後首実検して平敦盛と判明。
このことがあってから、直実の仏門に帰依する思いは、いっそう強くなったという。

文治3年(1187)8月4日、直実は鶴岡八幡宮放生会流鏑馬の「的立役」を命ぜられた。
弓の名手であった直実はこれを不服とし、「鎌倉の御家人はみな同輩の身分のはず。流鏑馬の射ては騎馬、的立ては徒歩。これは不平等であり、納得できません」と断固的立てを拒否した。
頼朝がいくら的立役は名誉な役目である、ということを説いても承知しなかったため、所領の一部を没収された。

建久3年(1192)11月25日、過去の経緯から不仲だった久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いが続いており、ついに頼朝の面前で両者の口頭弁論が行われることになった。
直実は頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自然質問は彼に集中するようになった。
直実は憤怒して「梶原景時めが直光をひいきにして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまい、頼朝があっけにとられたという(『吾妻鏡』)。

家督を嫡子直家に譲った後、建久4年ごろ法然の弟子となり出家した。法名は法力房蓮生 “ほうりきぼうれんせい”である。

蓮生は数多くの寺院を開基していることで知られているが、出家後まもなくの、建久4年(1193)に美作国久米南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)の法然生誕地に誕生寺を建立した。
建久6年(1195)8月10日、京から鎌倉へ下る。
建久6年(1195)には東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立した。

また蓮生は鎌倉に着くなり、泣いて懐かしんで頼朝と対面し、仏法と兵法の故実を語り、周囲を感歎させる。
武蔵国へ下向するため退出する際、頼朝にしきりに引き留められている。
頼朝の妻北条政子とは昵懇で、書簡等を取り交わしている。
その後蓮生は京都に戻り、建久8年(1197)5月には錦小路東洞院西の父貞直の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して法然寺を建立した。

建久9年(1198)、粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基する。
直実が法然を開山として、この地に念仏三昧堂を建てたのがはじまりである。
後に黒谷にあった法然の墓が安貞2年(1228)比叡山の僧徒に襲撃を受け、遺骸があばかれたため、東山大谷から移され、ここで火葬して遺骨を納めた宗廟を建てた。遺骨は分骨された。
本領の熊谷郷に帰った後は庵で、念仏三昧の生活を送った。
元久元年(1204)上品上生し、早く仏と成り、この世に再び還り来て、有縁の者、無縁の者問わず救い弔いたいと、阿弥陀仏に誓い蓮生誓願状をしたためた。
誓願状の自筆が嵯峨清涼寺に残されている。

建永元年(1206)8月、翌2月8日に極楽浄土に生まれると、予告の高札を武蔵村岡の市に立てた。
春の予告往生は果たせなかったが再び高札を立て、秋建永2年(1207)9月4日(1に実際に往生したと言われている。
その間の法然との書簡が残っている。
直実の遺骨は遺言により、粟生の西山浄土宗総本山光明寺の念仏三昧堂に安置された。
直実の墓は現在法然廟の近くにある。
また妻と息子小次郎直家の墓は、熊谷寺の直実の墓に並んである。また高野山には直実と敦盛の墓が並んである。
金戒光明寺には法然の廟の近くに、直実と敦盛の五輪の塔が向かい合わせにある。





熊谷直実は一般的に平敦盛を討ったことを悔やんで出家したと言われていますが、出家の経緯を見る限り敦盛…全く関係ないですね(・_・;)
領地争いに敗北しブチ切れて出家してるだけかと…。
岡山には熊谷直実が建立した誕生寺というお寺があります。
何度か訪れた事がありますが、なかなか素敵なお寺でした。
ブログでも過去に取り上げています♪




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