うたう、ルポルタージュ(あるいは毒書) 『苦海浄土』

 「世の中に絶対なんてものは絶対にないんじゃないか」と、思い続けてきた。いや今でも、99%は絶対ではないように思える。けれど1%、もしくは1%にも満たないものであっても、ときに“絶対なるもの”がありうるのかもしれない…この本を読んで、痛切にそう感じた。


 現在でも解決に至っていない「水俣病問題」にあって、水俣病患者および患家族の、チッソ(そして国)を相手取った一連の訴えや運動にこめられた“想い”とはどんなものなのだろうか。

 彼らは起訴・裁判に踏みだしたり、チッソ株主総会に正当な方法で赴いたり、東京にあるチッソ本社へ乗りこんで自主交渉を試み、また長期におよぶ(なんと年単位の)座り込みまでした。その様子は文字通り“死闘”である。しかし本当のところは、お金が欲しかったわけでも、自分たちの不幸を声高に叫びたてたかったわけでもない(以下、断りがないかぎり引用は著者・石牟礼道子のもの、またカッコはおれ)。

患者は何を望んでいるのか。「思いをはらす」という言葉は何を意味しているのか。これをたんなる感情的な言葉と理解するものは、患者の闘いの本質とついに無縁に終わるしかない。

(熊本告発する会)

 「熊本告発する会」とは患者たちの水俣病闘争をバックアップ・支援する団体で、著者の石牟礼道子は、「このような運動(支援運動)ではいかにおのれを無にし、名前を無にして働くかが自分の志への唯一の踏み絵となる」と書いているが、この本を読んだかぎり、もっとも徹底的にその姿勢を貫いていたのはおそらく、この熊本告発する会だった。

(患者たちにとって)切手も切れぬ相手は、これを追い出すことができぬ以上、水俣病そのものに他ならなかった。

 読みはじめる前のおれの「水俣病」の知識はといえば、「四大公害病のうちの1つで、公害の代名詞といっても過言ではないのだろう」「猫が踊った」くらいのまことに貧しいものであり、それに実は、はじめこの本を小説だと思っていた。読みはじめてからもしばらくはそうで、これはディストピア小説か、などと思いながら、しかしなんだか違う気がするという疑念もあり、一息ついたときに月報の冒頭をちらと確かめてみたところ、いわばルポルタージュだということがわかった。そんな有様だった。

 ルポルタージュだとわかったとき、合点がいったというか、これで落ち着いて読めるなんて思った、と、とたんに得体の知れぬ恐怖と寒気がぞくりと、身体の内側から滲み出してきて戦慄、茫然としてしまった。だって……ディストピア小説かと思っていたのである。でもルポルタージュということは、これすなわち、普通のフィクションとはまた違う。月並みな表現だけど「こんなことが過去に…現実に起きていたのか」「それも他ならずこの日本で…」と、にわかには信じられず、正直なことを言うと、読後の今でも信じられない(受け容れることのできていない自分がいる)。

 国の非力ないし無責任や、チッソの傲岸不遜ぶりは腹ただしくも情けなく、また水俣市民たちの様子や患者間の関係などを知ってはやるせなく、同時に、それらに対して抱く共感も反感も、あらゆる情念がまるっと自分に返ってくるにおよび、困惑し、気が滅入ることおびただしかった。ふと気がつけば唸っていたり、嘆息したりしていて、知らずしらず泪がこみあげてくること、うなだれるしかないことも少なくなかった。

 「これは不幸の物語であると同時に、あるいは並行して、かつて水俣にあった幸福感の物語でもある」といったことを選者・池澤夏樹が月報に書いているように、この本には不知火海沿岸での幸福な暮らしの様子も(それは過去のものだが)そっと描き出される。闘争中においてもときに、患者たちの「湯呑み」や「待つ姿勢の稽古」の様子に可笑しみをさそわれ、それがまた哀しくもある。それら残照ともいえる光あるがゆえに「水俣病」という闇が否応なく襲いかかってくるのだ。


 おれが「受け容れることのできない」原因と思われるものの1つに、水俣病の発病とその後の経過、症状というのが、自分の想像をはるかに超える凄惨なものだった、というのがある。本書で触れられてゆく患者たちの様子は、文字通り“筆舌に尽くしがたい”ありさまで、それをここでさらっと、もしくは事細かに説明することは、とても、できたものじゃない……。とりあえず、当時の熊本大学病院院長だった勝木助教授による「診察したときの印象」から引用しておく、と―ヘレン・ケラーの三重苦に加えて、おそらくは治る見込みのない四重苦の人たち」―発病後2週間〜2・3ヶ月のあいだに死に至ること多く、一命を取りとめた人は、しかし、死ぬまでその症状から元の暮らしを送れるほどに恢腹することはない。

 水俣病の原因は、学校で習ったように、メチル水銀有機水銀)である。新日本窒素肥料株式会社(’65にチッソ株式会社と改称。以下、チッソ)の水俣工場から水俣湾(八代湾)へ、ほぼ未処理のまま垂れ流された排水に、そのメチル水銀は含まれていた。この排水のために水俣湾を含む不知火海の魚にメチル水銀の体内濃縮が起こり、日常的に(というのは毎日)ここの魚介類を食していた沿岸部の漁師・住民たちも漸次大量にメチル水銀を摂取してしまい、多数の被害が出たのだった(まだ水俣病という名前もなく「奇病」と呼ばれていた時期、村の話になっていたのが有名な「猫の狂い舞い」。そこからとってこの奇病は「猫踊り病」とも呼ばれていたらしい)。

 このように原因ないし元凶それ自体は簡単に説明できる。ところが、「水俣病」を取り巻く情況や事情、その背景となるとおいそれとはいかない。水俣病闘争は「チッソ(&国)VS水俣病患者」という単純な図式では語れないものだった。このエントリーではチッソや国のことは軽く触れる程度)。

水俣病事件は、わたしにとっては<わたくしごと>の一部にすぎない。<わたくしごと>の一部をもって、公け事の陰影の中に入るのみである。あの骨ばかりの婆さまたちとおなじように。

 何も起こらなければ不知火海の片隅でひっそりと一生を終えるつもりだった石牟礼道子は、それでも、水俣病に遭遇したことで「近代への呪術師にならねばならぬ」と自らに宣した。彼女はチッソからも国からも支援団体からも、また実のところは患者たちからも、一歩うしろに退いたところにいながら同時に、「水俣病」の“中”に入ってゆき、“うたうように”この水俣病闘争を描き出してくる。チッソと国の鉄面皮をそろっとはがし、運動の必要性やありがたさと同時にそれに伴う劫罪を感じ、一般人の良心と罪悪を見つめ、患者たちおよび死者の言葉に耳をかたむける―「わたしの見ているのは(中略)辺境の野末に相果てたものたちの影絵である」


小父さん、もう、もう、銭は、銭は一銭も要らん!今まで市民のため、会社のため、水俣病はいわん、と、こらえて、きたばってん、もう、もう、市民の世論に殺される!小父さん、今度こそ、市民の世論に殺さるるばい!

 支援団体の1つに互助会というものがあり、とある場面で、その会長を務めていた山本亦由氏の家の玄関口に、多賀谷キミという名の1人の在宅重病患者がこんなことを叫びながら、まろびこんでくる。「市民の世論に殺される!」という悲痛の叫びの意味は、一体、なんなのか……その背景には、チッソ水俣市の切り離せない関係があった。

 チッソという会社は、野口遵(したがう)という名の、「電気化学工業の父」と呼ばれることもあるらしい人物によって創業された(ちなみにこの人は、現在の旭化成積水ハウスなどの実質的創業者でもある。ひいてはチッソはそれらの会社の母体会社である)。メチル水銀を流した工場はカーバイド製造のためのものだったが、この工場があるおかげで、水俣市は、世の中のすすむ工業化・産業化の流れに取り残されてさびれきることなくそこそこには栄え、また鉄道の「特急」も止まるのだった。

 水俣市民にとって、「チッソがある」ということは「東京とわが市は直結している」ということを、「特急が止まる」ということは「田舎ではない」ということをも意味していた。水俣病の兆候は1940年すぎ頃にはすでに見受けられていたようでもあるが*1、若者をはじめ田舎から人々がどんどん都市へ去ってゆくなか、出郷できなかったものたちの「断念の上に生じた願望」が、チッソと特急にそのようなとくべつな意味をもたせていたのである。「チッソあっての水俣チッソの功労者は水俣の功労者)」という認識がひろく共有されていた(野口遵は、水俣出身の徳富蘇峰・蘆花と並び敬われていた)。

 患者たちがチッソ相手に行っている一連の運動は、ゆえに水俣病を患っていない水俣市民の目には、その大切なチッソを追い出そうとしているように見えていたのである。つまりは「お前たちは水俣をどうする気だ」と。またチッソの奥さま方がする援助は「公徳心の満足」のためであり、自らの立場が危ういと感じとるやいなやたやすく牙をむく。患者たちも、もちろんそういう事情は重々承知していた。いうまでもなく彼らもまた水俣市民である。そして、チッソも当然そのことを知っていたのであって、姑息というか悪辣にも、それを利用する。水俣市民にもっともらしい文句を並べたビラを配ったりすることで、市民をセンドウする。センドウされる市民

 患者および患家に対して、曰くニセ患者、曰く金の亡者、公害貴族、水俣の恥さらし、神経殿(土地のことばで「神経病んだ人」の意)、非人(かんじん)…町や村に撒かれる、市民の手によるビラには「むき出しの憎悪というよりは殺意に近い」文句が記されていることも少なくなく、上述の「市民の世論に殺される!」という悲痛で異常な訴えには、このような背景があった。

もっともふかい絶望や苦悶はしかし、年月をかけて育ち、そして変質する。

 患者間でも憎しみが生まれたりする。「水俣病」に限らず、強者からの抑圧に対する弱者の屈辱や怒りは、強者にではなく、自分よりもさらに「弱いもの」に向けられしまうことが多々ある。「年月をかけて」と引用部にあるが、この本のなかだけでもおよそ20年の歳月が流れてゆく。


 「近代合理主義や進歩主義の諸流派が生みおとした官僚主義やアカデミズムとやらの無知の総体かもしれなかった」と著者が述べる、チッソや国の見せる厚顔無知や鈍感さというのは、ある程度予想できていたとはいえ、そこに端を発する策略というのが予想以上にヒドいものだった。一例を挙げれば、水俣病発生当初、文盲である患者たちに対してチッソは「確約書」なるものを一方的に突きつけハンコを押させ、それによって、とても生活をできるとは思えない異常に少ない補償金という名の年金を、患者たちはあてがわれたと思ったら、その補償金を受け取っていることを理由に国は生活保護を取り消してくる。こはいかがすべし。

 しかし、そのような事実と並行して、上述したような水俣市民や患者の姿というのが、おれにはまた、おそろしく応えた。なぜなら、たとえば水俣市民のように「センドウされてしまう自分」が、自分の中に確実に潜んでいることを感じたからだった。

 先にチッソのビラに対し「もっともらしい文句を並べた」ともっともらしく形容したけれど、実はむふんと威張ってそんなこと言える立場にない……本書にはそういうビラや悪名高い「確約書」、支援団体の宣誓文の類、あるいは直接交渉の場で録音したテープレコーダの記録をそのまま引き写したものなども、随時併録されている。それらを読んでいるおれは、自分でも反射的思考とでも呼ぶべき知性が鈍いとは思っていたけれど、そうであっても石牟礼道子の筆につれ添われて事の経過を辿っていたにもかかわらず、チッソ側のいう「無邪気なヒューマニズム」で「きれいごと」の「正論」に惑わされること、一度や二度じゃなかったのだ…


 たとえば、患者に対する補償について、チッソ側はこんなことを言う―「この度の水俣病における被害に対して、誠意をもって当たらせていただきます。補償金も十分にお払いします。ただ、潜在的な患者さんも含めて一律にというのはちょっと…症状の重い軽いによって支払額を多少変えさせていただきたい、と、ね。こちらの支払い能力の限界というものもありますし、従業員を養っている身でもありまして、支払う前に潰れてしまっては双方にとって元も子もありません。むしろ、いくらか差をつけるというのは、患者さん方のおっしゃいます“平等な補償”ではないかとも思うのですよ」。

 このような言い分に、果たして、一理あるかどうか。客観性とはなにか。読中、読み手であるおれは、ことあるごとに自分の倫理観を問われていた……ある自主交渉の場で患者サイドの1人、宮本氏が口にした以下の言葉に遭遇するにおよび、おれは、したたか打ちのめされた。

あんた方は症状の重い軽いで差をつけたいというけれどもね、症状というのはね、被害のほんの一面にしか過ぎないんです。

 水俣病患者の症状というのは、前述したように「文字通り“筆舌に尽くしがたい”ありさま」である。と言われてもそれを知らないでこれを読んでいる方は困るだろうけど、一度患うとどういうことになるかというと、たとえば一家の稼ぎ手である男が発病してしまったとしよう。それから3・4日後には24時間体制の看護がはじまると言ってよく、同時に収入が途絶する(原因が食べた魚にある以上、同じものを食べていた家族も発症しかねないということになるが、実際、一家で複数人なんてのはざらで、一家全員水俣病に冒されたという事例も少なくなかった)。一命を取りとめたとして、身体は思うように(あるいはまったく)動かせず、死ぬまで常に看護が必要であって、漁師であれば二度と漁を行えないし、ほかに職もない(雇ってもらえない)。これで、どうやって生きてゆくのか。なんのために生きてゆくのか。

 もしくは、重要なことに言及し損ねていたけれど、水俣病には「胎児性水俣病」というものもある。母親自身は発症に至らなくとも、羊水やへその緒を通して胎児に水銀が注入されてしまい、結果、その胎児は「治ることのない四重苦」を生まれたときから一生背負いつづける。という想像しただけでも気が狂いそうな、そんな事態が実際に起こっていたのである。胎児性水俣病の患者たちは、たとえいい歳になっても、シモの世話をはじめ身辺の一切を他人の手を借りることなくこなすことはほとんど不可能であり、気持ちを伝える言葉も話せず……この世に幸せなど感じられるのだろうか。一体どうして生まれてきてしまったのか。メチル水銀は脳を溶かしていたのである

 たとえば、『花のノートルダム』(ジャン・ジュネ)の主人公であり男娼のディヴィーヌが、“汚辱(醜悪)”にまみれているように思えるのにのちに聖性を帯びてくるようにさえ感じられてくるけれど、それに似た感じといえばよいのか、患者たちは、とくに胎児性水俣病の患者たちは、およそ信じがたい“苦”の中にいるはずなのに“浄”とでも呼ぶべき空気を漂わせていることもある。しかし、それとはまたちょっとちがう話である。ディヴィーヌは少なくとも自らの意思を介してあのような生き方を選んでいたのに対し、患者たちの場合、水俣病を患うなどけっして、一ミクロンも望んだことではない。


 先の「この本のなかだけでも20年間の歳月が流れてゆく」ということに付け加えると、患者たちがチッソの社長と対面を果たしたのは、少なく見積もってもはじめの発症から実に17年後のことだった。それも、患者たちが本社に乗り込むという非常手段に訴えてはじめて実現したことだったのである。病の業苦、貧困、苦悶、侮蔑、絶望、そして永い年月。「被害のほんの一面にしか過ぎないんです」という言葉の背景には、このような実相があったのであり、水俣病患者たちは個人個人に“平等に補償”してくれと言っているというよりは、おそらく、「まずもって“水俣病そのもの”に向き合ってくれ」と訴えていた。

裁判組といわず自主交渉派といわず、水俣病闘争を形づくっている情念とは、都市市民社会からとり残された地域共同体の生活者たちの、まだ断ち切られていない最後の情愛のようなものだった。それは日本的血縁のありようの、最後のエゴイズムと呼んでもよかった。

 ここにいう「地域共同体」には、そこに伴っていた良し悪し愛憎とりまぜたすべての情念を含む。……水俣の言葉でいえば、おれは“おろよか者”だった。患者たちが威嚇的に口にしてしまった「社長さんも水銀ば飲んでみろ!」という激烈な言葉や、黒い幟(のぼり)に染め抜かれた「怨」の字なども、普段の感覚のままで、あるいは辞書的に、言葉の表層に囚われて受けとってはいけない。まずもって耳を傾けるべきは、そんな言葉を吐かせた彼らの想い―もの憂い羞恥心のようなもの、怨嵯、胸の底の憤怒や屈辱、うねり出そうかと思えば逆に自らの骨の中を浸していく悲哀、といった情念―だったのだと、第3部の中途に至るまで(心で)想い至らなかったおれは、どんだけ。


 「水俣病事件の全様相は、たんなる重金属中毒事件というのにとどまらない。公害問題あるいは環境問題という概念ではくくりきれない様相をもって、この国の近代の肉質がそこでは根底的に問われている」、そして「この世における無縁のはじまりをこそ、水俣病の全経緯は逆テーマともしていた」と著者は述べていた。

水俣病は文明と、人間の原存在の意味への問いである。

 この本で辿りついたところから先のことは、水俣病闘争がどうなったのか、恥ずかしながらおれはまったく知らない。少し前になにかで「水俣病訴訟」に関するニュースをちらっと目にして、「これって、まだやってるのか」と訝しみはしたものの、それで終わり。ただ…

昭和三十四年、あなたがそこにいたら、あなたは何をしたか。今、われわれに突きつけられているのはそういう問いなのだ。

(熊本告発する会)

 「水俣病」は終わっていないだろうし(実はこのエントリーで水俣病というとき、あえてカッコを付して「水俣病」にしてある部分がある)、それは近代の延長である現代にはつねに潜んでいると思う。不安なことには、この「水俣病」は姿を変えて、近いうちにふたたび現れてくるのではないかということ。上の「昭和三十四年」は同時にまんま「平成23年」に置き換えられて問い返されることになるのではないかという危惧。「水俣病」は人災である一方で、3.11の地震津波は天災だが、福島原発事故は人災である。「水俣病」の再演が起こる可能性は十分に考えられる。

 そういえば「“水俣病”という命名がいっそ腹立たしい」と、読みながら幾度か苦い想いとともに思ったものだけど、これは選者も月報で同じことを言っていて、あとから考えれば本来ならばチッソ病とすべきだったし、そうでなければせめてパーキンソン病とか川崎病みたいに、病像を明らかにした人の名をとって細川病でもよかったはずなのにと。福島県の人たちが今度の原発事故のことを「フクシマ」と記憶されることに対して抵抗感をもよおしたり、あまりいい顔をしないらしいという、そこにあるのはもしかすると、おれが「水俣病」という病名に対して抱いた苦い想いと同じものなのかもしれない。


古い書物を読むということは、それが書かれた日から現在までに経過したすべての時間を読むようなもの。

(ホルへ・ルイス・ボルへス)

 『苦海浄土』3部作は古い書物とはいえないかもしれないが、足かけ40年の歳月をかけて上梓されたものらしく、ルポルタージュである以上に「ひとりの人間の思いをこらした」文学。日本に生まれ日本に育ち、日本に暮らす人においては、まずもって読まれるべき本だと思う。でも急いで付言すると、おいそれとオススメもできない。

 というのは。石牟礼道子の、方言の魅力を最大限といってよいほどに引き出し、古(いにしえ)を呼吸する他に代えがたい文体は、フラジャイルで、また「あはれ」を宿しているようにも思う*2。ために語弊をおそれずにいえば、これは“毒書”ともなる。軽い気持ちで読むと「ヤケドする」ならぬ「ドクにあてられる」…ちがうな、読むと、自分の心身にしみこんでいる毒に気づいてしまう

どのような意味ででも、ひとたび水俣病にかかわりあえば、ひとは、みずからの日常の足元に割れている裂け目の中に、ついに投身してゆくおのれの姿を自覚せずにはいられない。

 その裂け目の底は知れず、どうやら塞ぐことも、橋を架けることもかなわないよう…



苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

*1:“公式上”最古の症例とされているのは1953年の患者。なお、随所で著者が言及するように「公害」そのものは、この当時から遡ること50年以上前の19世紀末、(田中正造で有名な)足尾銅山鉱毒事件からすでに顕在化してもいた。

*2:月報で選者の言う「3つの文体」のうち2つのこと。とくに方言をつかったものが。このエントリーでは魅力的なその文体を、一度引用するとそれだけで長くなってしまうためにまったくと言ってよいほどアップできず…