2009-07-20 月
■[日々]可愛くなりたい?
実はわたしはそんなに「可愛くなりたい」欲求が強くないんじゃなかろうか。引かれない程度、失望されない程度に清潔感のある格好でいられればいいか、というような。
そりゃあ「可愛い」と言われれば嬉しいけれど、わたしは磨きがいのある容姿を持って生まれたわけじゃないから、磨くことにエネルギーを費やす気があんまりわいてこないのだ。
でも、周囲の女の子が服装とかお化粧とか自分よりものすごく頑張っているのを目の当たりにすると、自分が女の子として失格のような気がして、焦ったりもしていたのだけれど……最近、それすら減退しているような気がする。
わたしのこの傾向は、やっぱり親の影響が大きいのかな、とも考える。親が選んだ服を着るしかないくらい小さい頃、可愛い服を選ばれた覚えはまったくない。子どもだから、動きやすい服、汚れてもいい服、という感じ。まあ、いろいろ着せ替えて「可愛い」とちやほやされるような、可愛い子どもじゃなかったんだけれど。
当時は、同世代の、可愛い服を買ってもらえる他の子がものすごーく羨ましかった気がするんだけど……でも、結局、大きくなって自分で服を選ぶようになってからも、服にお金を費やすのはなんか罪悪感があるし可愛すぎる格好を自分がするのは似合わない気がするしで、そういうことにたくさんエネルギー費やさない(費やせない?)、んだよねー。
でも、同じ親の元で育った妹はわりと早くから自分で服を選んでねだって買ってもらっていたし、やっぱり本人の資質というか気質なのかな、とも思う。
2009-07-19 日
2009-07-18 土
■[マンガ]服装への感想
『ちはやふる』5巻の、千早の私服イラストを見た時の感想は「千早かわいいなーかわゆいなーみじょかー*1」だったくせに、北央の須藤くんの私服姿を見た時の感想は「試合の時と違ってふつうの私服だとすごくリア充に見えるなー」でした。
……いくらなんでも女子に甘く男子に厳しすぎないか、わたし。
い、いや、というか、なんでか知らないけれど、男の子を「かっこいい!」と思う瞬間より女の子を「かわいい!」と思う瞬間の方が圧倒的に多いのですよ! それだけです!
けっこう須藤くん好きなんだけどな……。
■[日々]言葉の消費スピード
言葉が浸透し意味が拡散し変質し、飽きられ使われなくなるスピードが、速いな、と思う。
使うかどうかはともかく。否応なしに頭に体に新しい言葉が入っていくのが、わかる。
今、「速いな」と思いながら、ついていけているのは、まだ若いから、だろうか。
*1:「みじょか」はわたしの出身地の方言。「かわいい」の意
2009-07-17 金
■[読書]異性へのドリーム
個人的には、「男性作家が書く女性キャラ、女性作家が書く男性キャラは、だいたいにおいてドリームである」という持論(?)を確認できて、そこも楽しかった。(中略)
もちろん、ドリームの発露のしかたに好感を持てるか否かというのはあって(そこは個人的好みの問題だが)、『風の影』の女性キャラの書きかた、ドリームぶりは、私は大変胸キュンで好きであった。
三浦しをん『ビロウな話で恐縮です日記』太田出版 pp.50
この本の中の「異性キャラクターを書くにあたって」の問題についての記述はもうちょっと続くんですが、とりあえずいちばんうなずいてしまったところを引用。
「ドリームの発露のしかたに好感を持てるか否か」って言い方がものすごくしっくり来たのです。それはたしかにわたしの中にもあるけれど、明確にボーダーラインがあるわけじゃなくて個々について「これは好き、これはちょっと……」と語るしかないから、一言で言えなくて、難しいなあ……
ここんとこ考えてることについて考えてたら、ふっと前に読んだこの本のこの箇所が浮かんできたのです。
異性に……最近わたしが考えてるのは男の人と女の子についてだから「女の子」に限定するけれど……女の子に夢を見ること(前々のエントリからの言い方を引き継ぐと、「少女」として見ること)は悪いことじゃないし、女の子がそういう対象に自分がなりたいと、願うこともあるのだろう、と思う。
でも、やっぱり、男の人の方が、個人的に好意を寄せて、個人的に距離を縮めたい、関係を深めたいと女の子に求めながら、夢の中の人物であり続けることを女の子に求める(もしくは女の子の方が、そう感じてしまう)と……女の子の方が、だんだんきつくなってくるんじゃないかと、思う。
どっちが悪いと言いたいんじゃなくて、男の人を批判したいわけでももちろんなくて、こういうことってあるよね……とずっと思ってることを言語化したかった。
2009-07-14 火
■[日々]ときどき考えてしまうこと
前のエントリで、「そういう心地よい関係は長続きしない」と書いたのは、女の子が現実世界で自分という「女の子」を好きになってくれる人を見つけたら、ネット上での「少女」としての価値の承認を必要としなくなる可能性が高いから、という意味のつもりでした。ネット上のやりとりだけなら(遠いところからちやほやするだけなら)、よほど度がすぎた場合は別として、萌えキャラ扱いされるのが「気持ち悪い」域まで達しない、と思うのです。
ただ、現実世界でもそれをする男の人は、います。女の子を「萌えキャラ」として好きになって、距離をつめて、その女の子から愛されることを求める人は。でも、男の人からの「可愛い」とか「好き」とかいう言葉が最初は嬉しくても、自分の言動が何もかもその人が思い描いた「萌えキャラ」の中に吸収されてって、愛されているのはその「萌えキャラ」であって自分じゃないことに気づいたら、女の子は耐えきれずに離れていく。自分を「萌えキャラ」としてじゃなく一人の女の子としてとらえてくれる人を、選んでしまう。
でも、女の子が離れていく理由がそういうところにあることに、そういう男の人は気づきにくくて(……そんな気がするだけです、勘違いだったらごめんなさい)……どうして自分が選ばれなかったのかわからなかったり、自分の容姿が悪いからとか、コミュ力やお金がないからとか、そういうことにしてしまう気がする(勘違いだったらごめんなさい)のです。でも、女の子の側からすると、容姿やら性格やらその他諸々に問題がある男の人を好きになることはあるけれど(これはもう人それぞれだと思いますが)、自分を「萌えキャラ」としてしか見ない男の人を好きになることは、とっても難しいと思うんです(気づかなければともかく、気づいてしまったらきついと思うんだけれど……これも、人それぞれなのかなあ……)。
そういう男の人は、どうやったら求める幸せ(好きな女の子から好かれること)を得られるのかなあ、と、ときどき考えてしまいます。考える、だけなんですが。
というか、書いていてどんどん自信がなくなってきたよ……結局はわたし自身がわずかな体験から感じたことでしかないわけだし。うっかりこれを読んで不快な思いをした方がいたらごめんなさい。
2009-07-13 月
2009-07-12 日
■[読書]女の子を「少女」として消費するということ
このあいだ、『八本脚の蝶』からこんな箇所を引用したけれど……ふと、ほんとうのほんとうに女の子と「少女」の区別がつかなくて、女の子を「少女」として消費することに無自覚な人は、こういう記述を見ても何とも感じないんじゃなかろうか、と考えた。こういう「女の子」の姿さえ、「思い悩む賢い少女」という、自分にとって心地いい「少女」イメージとしてとらえてしまうんじゃないだろうか。
「女の子」がいくら笑っても怒っても泣いても、いくら自分の考えていることや思っていることを話したり書いたりして表現しても、相手が作り出した実体のない「少女」像に吸収されてしまうんじゃ、「女の子」にとってはやりきれない。で、インターネットにおいては容姿の優れていない女の子でも「少女」として消費される発信者になることができるし、「少女」イメージを求める男の人はそういう女の子を見つけて受信者になる、そういうことは起こりやすい、と思う。
でも、これが悪いこととは言えない。「女の子」の方がそういう「少女」として見られること、価値を認められることを必要としていて、男の人はそういう「少女」を必要としていて、互いにとって心地いい関係が成り立つこともある。(たいてい長続きはしないけれど)
それに、自分の持つ「少女」イメージの枠内に女の子をおさめる男の人ばかりが、受信者なわけじゃない。中には、その「女の子」の声を親身になって聞いてくれている男の人も、いる。
この違いは、ネット上のやりとりでさえ感じられるのだけれど……ただ、「女の子の方はそういう風に感じる」としか言いようがないので、たぶん本人にしか見えない違いなので、とっても説明しづらい。
追記。ここでの「少女」「少女イメージ」は「萌えキャラ」と言い換えた方がわかりやすいかな。と今思った。
あと、ここでは引用箇所に基づいて「少女」と「女の子」を使い分けたけれど、最近(でもないか……?)「女の子」という言葉はここでの「少女」という意味で使われていることが多い気がするので……うう、ややこしい。
2009-07-08 水
■[読書]
児童文学を読んでいたころ、そこに出てくるのは女の子だった。大人の本を読み始めた九歳頃、私は「少女」というものに出会った。
「少女」は女の子とははっきり言って関係がない。
それはすぐにわかった。
それはとても抽象的な存在だ。女の子や人間よりは妖精に近い。ただ、女の子と同じ姿形をしているのでとても間違われやすい。
「少女」は素敵なものだ。それは純粋で奇麗で観念的だ。
でも当然気付く、「少女」はすぐに大人の男の人に利用されるのだ。
それは無垢で悪魔で天使でいたずらで非日常で無邪気で神秘的で繊細で元気で優しくて残酷で甘えん坊でわがままで弱くて強くて無口でおしゃべりで白痴で悩みがなくて憂いに沈んで無表情で明るくておてんばで物静かでこわがりでなにもこわくなくて何も知らなくて何でも受け入れてくれて潔癖で閉鎖的な性質を持っている。
だから、いつでも一番都合のいい性質が選び取られて、男の人を気持ちよくするために利用される。
そして、どうやら、男の人たち(私が知っていた大人の男の人とは、つまりみんな本を書いた人のこと)は「少女」と女の子の区別がつかないらしいのだ。
私は女の子だ。
私は「少女」ではない。
私は「少女」が素敵だと思う。
私は「少女」ごっこをする女の子になった。
素敵な抽象物になろうとした。
(二階堂奥歯 『八本脚の蝶』 pp.223-224)
2009-07-07 火
■[読書]そんな少女になりたかった
(自分がちゃんと認められていない)つまらない日常から、夢の世界へと連れだしてくれる少女(という名の自我充電用妄想)を求める人が沢山いるけれど、大抵一面的にしか少女を見ていない。少女が期待通りじゃなかったらどうするの? 少女に飽きたらどうするの?
ブルトン「ナジャ」などなど、そのような話はたくさんあるけれど、主人公が飽きてもてあます頃になるとみんな発狂したり自殺したりして消えてくれるんだよね。
みもこころもあなたのものになろうという女の子に対してそれでも飽きるということは現実にはいくらでもあるわけで、それでも大抵その女の子は発狂も自殺も失踪もしない。その時あなたはどうするの? と思うのです。妄想が現実化したとき、それをきちんと扱うことができるのか知りたいのです。
(二階堂奥歯 『八本脚の蝶』 pp257-258)
2009-07-06 月
■[日々][大学]
朝、開館まもない市立図書館へ。開いてから10分も経ってないのに人いっぱい……図書館実習の時びっくりしたけど、開館前から並んでる人ってけっこういるんですよね。知らなかった。
それから大学に行って、図書館で卒論についてうんうん悩んでから研究室に移動。今日は第三回目の卒論面接なのだ。斉藤美奈子『L文学読本』(前に読んだことあるんだけど、最近再読した『八本脚の蝶』の中のこの本についての記述を読んだら、また読みたくなって。あと卒論でやりたいことともちょっと関係ある分野だったので)を読みながら、順番が来るのを待つ。
で、面接。タイトルは考えなきゃいけないよー(題目届出さなきゃいけないから)ということで、頭を抱えてしまう……うーんうーん。
帰りに電車の中で『東京日記2 ほかに踊りを知らない。』(川上弘美・平凡社)を読む。おもしろい。うっかりにまっと笑って不気味な人と化してしまった、かもしれない。
2009-07-03 金
■[日々]書いてたら「おかゆ」がゲシュタルト崩壊した
グリム童話「おいしいおかゆ」をおはなしした後の会話。
「おかゆを止められなかったらどうなるんだろうね」
「おかゆによって世界が滅亡するね」
「生き残った人間たちは未だ増殖するおかゆと戦っていた……! とか」
「そっか、魔法のお鍋がラスボスなんだ。『ふふふ、きさまら人間ごときが無限に増殖するおかゆにかなうはずあるまい……!』みたいな」
「絶食戦士とか出て来るよ」
「『世界におかゆがあふれようと、私はおかゆを口にしない!』みたいな」
「そうそう」
……書き起こしてたらわけわかんなすぎてしょうもなさすぎて自分たちがした会話ながらあきれてきたのでここでやめ。他にもいろいろ話した気がするけど。「出でよ! 中華粥!」とか。