the changing same.

最近、蝉をあまり見かけなくなった。
蝉の声を、あまり聞かなくなった。
昔はもっといっぱい、どこにでもいたはずなのに。
朝から晩まで、うるさく鳴いていたはずなのに。


小学生たちは夏休みになると虫カゴを持って蝉を追いかけ、
追いかけられた蝉は、木から木へと飛び移って逃げまわる。
そんな当たり前だった光景が、いつしかこのあたりでは見られなくなり、
時代とともに、当たり前だと思っていたことが変わってゆく。


異常な暑さによって、季節を勘違いして早とちりしちゃう蝉。
暑かったり寒かったりで、タイミングを逃して出遅れる蝉。
本当は、そんなサイクル自然に決まっていたはずなのに。
何も考えなくても、間違うことなんてなかったはずなのに。
人間だって読めない異常気象に、蝉がついてこれるはずない。


マンションの壁にしがみついて鳴いている蝉。
コンクリートの上で息絶えてしまった蝉。
本当は、木にしがみついて鳴きたいだろうに。
本当は、死んだら土に還りたいだろうに。
そんなことすら許されない。
だって今は、木よりもはるかにコンクリートのほうが多いのだから。


それでもこの間、近所の家の庭にある1本の大木の前を通ったとき、蝉の大合唱が聞こえた。
びっくりするような大音量で、蝉が一斉に鳴いていた。
少しでも自然な場所を求めて集まり、きっと身を寄せ合うように鳴いていたに違いない。
ここにいるよと、何も変わっていないよと。
精一杯の声を振り絞って鳴いていた―泣いていた。
確かにその光景は、昔と何も変わっていなかった。


昔は友達と一緒に蝉を追いかけていたあたしも、
いつしか蝉の姿を見ることすら怖くなった。
バッタも、コオロギも、子どもの頃は平気で触っていたけれど、
今となっては姿を見かけただけで逃げてしまう。
人も時間とともに、何かが変化するのだろう。


ごめんね、蝉。もうあんたの顔も怖くて見れないよ。